「ヒレル・スロヴァク」の版間の差分
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2016年11月18日 (金) 07:59時点における版
ヒレル・スロヴァク | |
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基本情報 | |
別名 |
スリム ザ・イスラエル・カーボウイ |
生誕 |
1962年4月13日 イスラエル・ハイファ |
死没 |
1988年6月25日(26歳没) アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス |
ジャンル | オルタナティヴ・ロック、ファンク・ロック |
職業 | ミュージシャン、ソングライター |
担当楽器 | ギター、トークボックス、シタール |
活動期間 | 1980年 - 1988年 |
レーベル | MCA、EMI |
共同作業者 |
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ What Is This? |
著名使用楽器 | |
フェンダー・ストラトキャスター ギブソン・レスポール |
ヒレル・スロヴァク(Hillel Slovak、1962年4月13日 – 1988年6月25日)は、イスラエルのハイファ生まれ、アメリカ ニューヨーク クイーンズ区出身のギタリスト、作曲家、ミュージシャンである。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ初代のギタリストとして知られる。姓は、ヘブライ語で「スロバキアの、スロバキア語の、スロバキア人」を意味しており、実父がスロバキア出身であったことに由来する。ちなみに、母親はポーランド出身である。
幼少時代に、家族とともにアメリカ・ニューヨークのクイーンズ区に移住。高校時代に、アンソニー・キーディス、フリーとともにレッド・ホット・チリ・ペッパーズの前身となるバンドを結成。当初は、別の友人が結成したバンド、What Is Thisとの掛け持ちしていたため、ファースト・アルバムには参加できなかったが、やがて方向性の違いから、レッド・ホット・チリ・ペッパーズに転身。セカンド・アルバム「フリーキー・スタイリー」よりレコーディングに参加した。
アンソニー、フリーの無二の親友であり、いじめられっ子で暗い性格だったフリーにロックラジオのチャンネルを紹介し、ベースを基礎から教え、ロック・ミュージックに引き込んだ。また、後にバンド・メンバーとなるジョン・フルシアンテが、少年時代に敬愛していたギタリストの一人だった。
絵を描くのが得意で、4thアルバム『母乳』のアートワークに、ヒレルが生前に描いた裸婦画が採用されている。
サード・アルバム発表後の1988年、突然レコーディングやライブに参加しなくなり、自宅にこもりがちになった。メンバーがいくら連絡しても返事が来ず、そのうち本人からの連絡もなくなった。その後、6月27日頃に、不審に思った近くの住民から通報を受けた警察官が、ハリウッドの自宅を捜査し、部屋で死亡しているところを発見された。その後の司法解剖により、死因がヘロインの過剰使用による薬物中毒で、少なくとも2日前に死亡していると判明する。26歳没。
それまではアンソニーもヘロイン中毒に陥っていたが、この出来事をきっかけに薬物から足を洗っている。一方、彼と仲の良かったドラマーのジャック・アイアンズは、この一件をきっかけにバンドで活動する意欲を失い、最終的にはバンドを離脱した(後に、パール・ジャムに1999年まで在籍。後に別のバンドに参加するも、メンバーの死により活動停止。現在はソロで活動)。
2012年に、レッチリがロックの殿堂入りを果たした際の授賞式で、アンソニーは次のように語っている。
もちろん俺が彼を代弁をすることなんてできないけど、でも、彼は音楽を心の底から大切に思っていたし、バンドという兄弟愛や、クリエイティブであることも大事に思っていたから、(今回の受賞は)彼にとっても絶対に意味のあることだったと思うよ。それに、彼の存在は今までも、これからもずっと俺たちのバンドの一部ではあり続けることは変わらないからね。でも、(彼が今もいたら)何より、俺たちがパンツにクソをもらすまで笑わせてくれていたと思うんだ。[1]