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2016年11月18日 (金) 07:36時点における版

デイヴ・グロール
Dave Grohl
基本情報
出生名 David Eric Grohl
生誕 (1969-01-14) 1969年1月14日(55歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オハイオ州ウォーレン
ジャンル オルタナティヴ・ロック
パワー・ポップ
グランジ
ハードコア・パンク
ハードロック
職業 ミュージシャンシンガーソングライター
担当楽器 ボーカルドラムスギターベースピアノパーカッション
活動期間 1987年 -
レーベル RCAレコード
キャピトル・レコード
DGCレコード
ディスコード・レコード
共同作業者 ニルヴァーナ
フー・ファイターズ
クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ
ゼム・クルックド・ヴァルチャーズ
テネイシャスD
著名使用楽器
ギブソン・SGカスタム
ギブソン・DG-335
ギブソン・トリニロペス
ギブソン・ファイヤーバード

デヴィッド・エリック・グロール(David Eric Grohl、1969年1月14日 - )はアメリカミュージシャンロックバンドニルヴァーナの元ドラマーで、現在はフー・ファイターズボーカルギターを務め、ジョン・ポール・ジョーンズらと共に結成した「ゼム・クルックド・ヴァルチャーズ」のドラマーも務めている。

「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」に於いて第27位。また、「LA Weekly誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」に於いて第7位。

経歴

生い立ち~初期の音楽活動

オハイオ州ウォーレンで生まれる。母親は教師で、父親であるJames Harper Grohlは当時、記者を務めていた。[1]幼少期にバージニア州スプリングフィールドを経てワシントンD.C.へ移る。ワシントンD.C.に転居してから3年後に両親が離婚し、姉と共に母に引き取られる。 12歳の時にギターを始める。数年後、熱烈なパンク・ロックファンであった従兄弟の影響でパンクに目覚める。その後、友人とバンドを結成し最初はギターを担当していたが、しばらく後にドラムに転向する。13歳の時にシカゴのThe Cubby Bearにて、初コンサートを行った。[2] バージニア州トーマス・ジェファーソン高校へ入学。しかし、過度の大麻吸引をしていた為、母親によってカトリック系のビショップ・アイルトン高校へと転入させられる。2年間は在籍していたものの、バージニア州アナンデール高校へと転入した。 高校生活の間に、グロールは幾つかの地方バンドで演奏していた。Freak Babyというバンドでの活動中、ベースメンバーが脱退したのを契機に、ドラマーへと転向した。これを契機にFreak Babyはバンド名をMission Impossibleへと改名し、グロールはバンドの再建に努めた。[3]

スクリーム(1986–1990)

17歳で高校を中退[4]すると、ドラマーのen:Kent Staxが脱退したスクリームへ加入。加入するに当たり、グロールは年齢を20として偽っていた。[5]4年間の活動期間内で、ライブアルバム、en:Your Choice Live Series Vol.10、スタジオアルバムのen:No More Censorshipen:Fumbleに参加した。Fumbleに収録されている"Gods Look Down"では、作詞とボーカルを務めた。 スクリームに在籍中、グロールはメルヴィンズのファンになり、バンドメンバーとも交友関係を始めた。

1990年にスクリームは唐突に解散してしまう。グロールはバズに電話で相談し、ニルヴァーナが新しいドラマーを探していることを知る。バズはノヴォセリックにグロールの電話番号を教え、彼をシアトルに誘った。グロールはドラムセットだけを持ってシアトルへと渡る。その後しばらくコバーンの家に寝泊りし、ニルヴァーナのオーディションを受ける。過去に在籍したドラマーの技術に不満を持ち続けていたコバーンは、グロールのドラミングを絶賛、即座に加入が決まった。[6]

ニルヴァーナ

デイヴ加入後にリリースされたアルバム『ネヴァーマインド』は全世界で2,000万枚近いヒットを記録し、ニルヴァーナを一躍スターダムに押し上げる。『ネヴァーマインド』のヒットには、コバーンのソングライターとしての才能もさることながら、グロールの優れたドラミングとコーラスワークも貢献していると評価する専門家やファンも少なくない。続く『イン・ユーテロ』からシングルカットされた『ハート・シェイプト・ボックス』のカップリング曲「マリゴールド」ではグロールが作詞・作曲・ボーカルを務めており、これはニルヴァーナのオリジナル曲では唯一、コバーン以外のメンバーによる作品となっている。しかし、1994年4月にコバーンが自殺したことでニルヴァーナは解散する。 2014年にはマイケル・スタイプの協力により、ロックの殿堂入りを果たした。[7]

フーファイターズ

ニルヴァーナ解散後、グロールはニルヴァーナ時代から密かに作り続けていた楽曲のレコーディングを開始。ほぼ全ての楽器を自ら担当し、1995年、それらの楽曲をソロプロジェクトフー・ファイターズのファーストアルバムとしてリリースする。その後、ギタリストのフランツを初めとするメンバーを集め、フー・ファイターズはバンドとして活動を開始。ニルヴァーナ時代とは打って変わってボーカル兼ギターのフロントマンを務める。現在までに8枚のアルバムをリリースし、複数回にわたってグラミー賞を受賞するなど成功を収めている。後のインタビューで「もう少しマシなバンド名にしておけば良かった」とも話している。

その他の音楽活動

2000年代からフー・ファイターズとは別にヘヴィメタルのプロジェクト、プロボットも始動。レミー・キルミスター(元ホークウィンドモーターヘッド)、マックス・カヴァレラ(元セパルトゥラソウルフライカヴァレラ・コンスピラシー)、キング・ダイアモンドらをゲストに迎えた同名のアルバムが2004年にリリースされている。

この他、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ(QOTSA)、キリング・ジョークキャット・パワーガービッジナイン・インチ・ネイルズなどの作品にドラマーとして参加。QOTSAではフジ・ロック・フェスティバルにもドラマーとして帯同した。

2009年に、QOTSAのジョシュ・オムレッド・ツェッペリンジョン・ポール・ジョーンズと共にスーパーバンドゼム・クルックド・ヴァルチャーズ」を結成[8]、同年11月にアルバムをリリースした。グロールはここでもドラムを担当している。また、ポール・マッカートニーと交流を持ち、2009年のグラミー賞でのライブ、2009年のリヴァプールにおけるチャリティ・ライヴ「チルドレン・イン・ニード」で共演をしている。 2013年には、ドキュメンタリー・フィルム『サウンド・シティ - リアル・トゥ・リール』で初監督[9]。  

人物

脚注

外部リンク