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*[[石原道博]]『国姓爺』[[吉川弘文館]]、ISBN 978-4642050340 |
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*[[林田芳雄]]『鄭氏台湾史-鄭成功三代の興亡実紀』[[汲古書院]]、ISBN 978-4762950377 |
*[[林田芳雄]]『鄭氏台湾史-鄭成功三代の興亡実紀』[[汲古書院]]、ISBN 978-4762950377 |
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*[[奈良修一]]『鄭成功―南海を支配した一族』(世界史リブレット人 42) 山川出版社、2016年; ISBN |
*[[奈良修一]]『鄭成功―南海を支配した一族』(世界史リブレット人 42) 山川出版社、2016年; ISBN 978-4634350427、ISBN 4-634-35042-4 |
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2016年11月15日 (火) 19:26時点における版
鄭 芝龍(てい しりゅう、Tēⁿ Chi-Liông(閩南語または台湾語)、Nicholas Iquan、チェン チーロン、Zheng Zhīlóng, 1604年(万暦32年) - 1661年(順治12年))は、中国明朝末期に中国南部および日本などで活躍した貿易商、海賊、官員である。字は飛黄、飛虹。
彼は閩南語、南京官話、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語を話し、剣道を得意とし、スパニッシュ・ギターも弾けたという[要出典]。
兄弟に鄭芝虎、鄭鴻逵(鄭芝鳳)、鄭芝莞(鄭芝豹)。子に鄭成功(国姓爺)と田川七左衛門の2人の息子がいる。
経歴・人物
1604年、福建省南安市に生まれる。18歳の時に父が死亡し、母方の叔父を頼りマカオに赴き、黄程の元で経済学を学ぶ。この頃、カトリックの洗礼を受け、Nicholas という洗礼名を授けられる。西洋の文献には、Nicholas Iquan(ニコラス・一官)と記されている。
1621年には、台湾や東南アジアと朱印船貿易を行っていた中国系商人の李旦、または、顔思斉の傘下に加わる[1]。日本の肥前国平戸島(現長崎県平戸市平戸島)に住むうち、平戸藩士田川七左衛門の娘であるマツと結婚。後に、息子の鄭成功が生まれている[2]。
1624年には活動拠点を日本から台湾笨港(現:北港付近)に移した。1625年、リーダーである李旦か顔思斉の死亡により、彼の船団を受け継ぐ。船団は千隻もの船を保有して武装化も進めるなど海賊としての側面も有していた。台湾南部にオランダ人の入植がはじまると(en:Dutch pacification campaign on Formosa)、妻子を連れて中国大陸へと渡る。当時、福建省周辺でもっとも強い勢力をもった武装商団となる。
1628年、福建遊撃に任命され、李魁奇、鐘斌、劉香などのかつての仲間たちを征伐する。福建省に旱魃が襲うと、移民をひきつれて台湾へと向かい、豊富な資金援助を持って、開拓を進めた。
当時、台湾南部はオランダ東インド会社が統治しており、オランダとの国際貿易で巨万の富を築いた。
1644年には亡命政権である南明の福王から南安伯に封じられ、福建省全域の清朝に対する軍責を負う。
1646年には黄道周との対立などで南明政権から離れる。この時、意見の違いから子の成功らとも別れ、清朝に降伏する。成功は父の勢力を引き継いで台湾に拠り、明の復興運動を行い清に抵抗したため、芝龍は成功の懐柔を命じられるが、成功がこれに応じなかったため[3]、謀反の罪を問われて、1661年に北京で処刑される[4]。
小説
- 『風よ雲よ』陳舜臣 中央公論社 1973年 のち講談社文庫、中公文庫
脚注
出典
- 石原道博『国姓爺』吉川弘文館、ISBN 978-4642050340
- 林田芳雄『鄭氏台湾史-鄭成功三代の興亡実紀』汲古書院、ISBN 978-4762950377
- 奈良修一『鄭成功―南海を支配した一族』(世界史リブレット人 42) 山川出版社、2016年; ISBN 978-4634350427、ISBN 4-634-35042-4