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== 来歴 ==
== 来歴 ==
1866年(慶応2年)5月7日、[[大和国]][[添上郡]]櫟本村(現[[天理市]]櫟本町)で鍛冶屋を生業とする梶本惣治郎と天理教教祖の[[中山みき]]の三女、はるの三男として生まれた。眞之亮の名前の由来は、母はるが懐妊中よりみきが「今度、おはるには、前川<ref group="注釈">みきの生誕家</ref>の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの眞之亮やで」と語った事からきている<ref>{{Cite journal |author = 深谷忠一 |date = 2014-09 |title = 『教祖伝』探究(3)年限の理 |journal = Glocal Tenri Vol.15 |publisher = 天理大学 |url = http://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000xrj8e-att/GT187-fukaya.pdf |format = pdf|accessdate = 2015-08-23}}</ref><ref name="ten">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |year = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 695 |isbn = ISBN4-8073-0412-7 }}</ref>。しかしながら、明治元年の[[奈良県]]令で亮、衛門の廃止が布令され、'''新治郎'''に改めた。本人は公的な書類などでは新治郎を用いたが、一生涯、通名として眞之亮を使い続けた<ref name="ten" />。人々は、教長、本部長、管長などの役職名で呼ぶこともあった。
1866年(慶応2年)5月7日、[[大和国]][[添上郡]]櫟本村(現[[天理市]]櫟本町)で鍛冶屋を生業とする梶本惣治郎と天理教教祖の[[中山みき]]の三女、はるの三男として生まれた。眞之亮の名前の由来は、母はるが懐妊中よりみきが「今度、おはるには、前川<ref group="注釈">みきの生誕家</ref>の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの眞之亮やで」と語った事からきている<ref>{{Cite journal |author = 深谷忠一 |date = 2014-09 |title = 『教祖伝』探究(3)年限の理 |journal = Glocal Tenri Vol.15 |publisher = 天理大学 |url = http://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000xrj8e-att/GT187-fukaya.pdf |format = pdf|accessdate = 2015-08-23}}</ref><ref name="ten">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |year = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 695 |isbn = ISBN 4-8073-0412-7 }}</ref>。しかしながら、明治元年の[[奈良県]]令で亮、衛門の廃止が布令され、'''新治郎'''に改めた。本人は公的な書類などでは新治郎を用いたが、一生涯、通名として眞之亮を使い続けた<ref name="ten" />。人々は、教長、本部長、管長などの役職名で呼ぶこともあった。


眞之介は明治13年(1880年)、15歳のときに中山家に入籍、養子となる。この際、天理教では神意に従ったとされている<ref name="ten" />。教祖の息子[[中山秀司]]が[[1881年]]([[明治]]14年)に死去した事をきっかけに、翌15年に17歳で中山家の[[戸主]]となる。この年、秀司の妻、まつゑも死去したために、「道のしんばしら」として、天理教初代管長に就任した<ref group="注釈">明治政府の政令で、神道および仏教の一宗一派を管轄する長を「管長」と呼んだために、天理教でも一派独立後にこの呼称を用いた。天理教ではあくまで社会的な呼称だとしており、第二次世界大戦後に制定された「天理教教規」にてあらためて「真柱」を制定している。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |year = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 236 |isbn = ISBN4-8073-0412-7 }}</ref>となった。
眞之介は明治13年(1880年)、15歳のときに中山家に入籍、養子となる。この際、天理教では神意に従ったとされている<ref name="ten" />。教祖の息子[[中山秀司]]が[[1881年]]([[明治]]14年)に死去した事をきっかけに、翌15年に17歳で中山家の[[戸主]]となる。この年、秀司の妻、まつゑも死去したために、「道のしんばしら」として、天理教初代管長に就任した<ref group="注釈">明治政府の政令で、神道および仏教の一宗一派を管轄する長を「管長」と呼んだために、天理教でも一派独立後にこの呼称を用いた。天理教ではあくまで社会的な呼称だとしており、第二次世界大戦後に制定された「天理教教規」にてあらためて「真柱」を制定している。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |year = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 236 |isbn = ISBN 4-8073-0412-7 }}</ref>となった。


中山家に入ってから死去するまでの眞之介の人生は、ちょうど天理教の教団草創期であり、波瀾万丈であった。この頃から警察の取り調べも熾烈になり、その対応に苦心した。こうしたことから度重なる警察の取締りを避けるために、教会設置公認運動の中心となって活動した。[[1888年]](明治21年)には教祖没後1周年を機に予定した「教祖1年祭」が警察の圧力により中止させられるなど、様々な問題・事件が起き、その解決に精励しながら、[[神道本局]]、さらには認可が下りなかった[[東京府]]の許可を取り付け、7月には本部を現在の場所に移転し、同年11月30日には「天理教教会規約」を制定するなど、教会本部の礎を築いた。
中山家に入ってから死去するまでの眞之介の人生は、ちょうど天理教の教団草創期であり、波瀾万丈であった。この頃から警察の取り調べも熾烈になり、その対応に苦心した。こうしたことから度重なる警察の取締りを避けるために、教会設置公認運動の中心となって活動した。[[1888年]](明治21年)には教祖没後1周年を機に予定した「教祖1年祭」が警察の圧力により中止させられるなど、様々な問題・事件が起き、その解決に精励しながら、[[神道本局]]、さらには認可が下りなかった[[東京府]]の許可を取り付け、7月には本部を現在の場所に移転し、同年11月30日には「天理教教会規約」を制定するなど、教会本部の礎を築いた。

2016年11月15日 (火) 17:51時点における版

中山眞之亮
肩書き 真柱
別名 中山新治郎
個人情報
生誕
梶本眞之亮

慶応2年6月19日1866年5月7日
大和国添上郡櫟本村(現・奈良県天理市櫟本町)
死没 大正20年(1914年12月31日
墓所 奈良県天理市豊田町豊田山墓地
宗教 天理教
配偶者 中山たまへ
子供 正善、玉千代
両親 父:梶本惣治郎、母:梶本はる
別名 中山新治郎
地位
任期 1882年 - 1914年
就任日 明治15年(1882年)9月22日[1]
次代 中山正善
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中山 眞之亮(なかやま しんのすけ、慶応2年5月7日1866年6月19日) - 大正3年(1914年12月31日)は、天理教の初代真柱、および初代管長。別名・中山新治郎(なかやま しんじろう)。

来歴

1866年(慶応2年)5月7日、大和国添上郡櫟本村(現天理市櫟本町)で鍛冶屋を生業とする梶本惣治郎と天理教教祖の中山みきの三女、はるの三男として生まれた。眞之亮の名前の由来は、母はるが懐妊中よりみきが「今度、おはるには、前川[注釈 1]の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの眞之亮やで」と語った事からきている[2][3]。しかしながら、明治元年の奈良県令で亮、衛門の廃止が布令され、新治郎に改めた。本人は公的な書類などでは新治郎を用いたが、一生涯、通名として眞之亮を使い続けた[3]。人々は、教長、本部長、管長などの役職名で呼ぶこともあった。

眞之介は明治13年(1880年)、15歳のときに中山家に入籍、養子となる。この際、天理教では神意に従ったとされている[3]。教祖の息子中山秀司1881年明治14年)に死去した事をきっかけに、翌15年に17歳で中山家の戸主となる。この年、秀司の妻、まつゑも死去したために、「道のしんばしら」として、天理教初代管長に就任した[注釈 2]となった。

中山家に入ってから死去するまでの眞之介の人生は、ちょうど天理教の教団草創期であり、波瀾万丈であった。この頃から警察の取り調べも熾烈になり、その対応に苦心した。こうしたことから度重なる警察の取締りを避けるために、教会設置公認運動の中心となって活動した。1888年(明治21年)には教祖没後1周年を機に予定した「教祖1年祭」が警察の圧力により中止させられるなど、様々な問題・事件が起き、その解決に精励しながら、神道本局、さらには認可が下りなかった東京府の許可を取り付け、7月には本部を現在の場所に移転し、同年11月30日には「天理教教会規約」を制定するなど、教会本部の礎を築いた。

しかしながら、急速に発展していく天理教に対して、明治政府は干渉するようになり、明治24年(1891年)4月6日に発布された内務省秘密訓令甲第12号により、再び厳しい弾圧を受け、さらには同年11月に神道本局よりも、以後三年間の新規教会設置の禁止をうける。眞之亮はその対応に苦慮した。これをうけて、教内でも一派独立の声が高まり、明治32年(1899年)5月に神道本局管長・稲葉正善より、一派独立の推薦もあって、独立運動を展開し度重なる不認可を経て、五回目の請願の際には自ら上京して奔走し、明治41年(1907年)11月の一派独立に尽力した。一派独立後は教会本部の環境整備につとめ、神殿の普請が進められ、大正3年に完了した。

みかぐらうた」本とその解釈本の公刊、「天理教教典(「明治教典」と呼ばれるもの。現在公刊されている天理教教典とは一部の内容が大きく異なる)」の公布、教義の整備、機関誌「みちのとも」創刊、男女平等の教えの実践を目的とした天理教婦人会の創立、海外への布教、天理教校天理高等学校開設などに力を注いだ。

1914年(大正3年)12月31日、49歳で死去した。

家族

自身は天理教教祖の中山みきの孫に当たる。1890年(明治23年)12月7日に教祖・中山みきの孫で自身の従姉妹の中山たまへと結婚、長男で後の真柱・正善と天理教婦人会第三代会長の玉千代をもうけている。

兄弟には天理教の要職を歴任した実弟の梶本楢治郎のほか、生まれ変わったとされる兄の亀蔵、松治郎、たけ、ひさがいる。

略歴

  • 1866年(慶応2年)5月7日 - 梶本家三男として出生。
  • 1880年(明治13年)- 中山家にうつる。翌年9月23日に入籍。
  • 1882年(明治15年)- 中山家の家督を相続、実質的に真柱となる。
  • 1884年(明治17年)- 「天輪教会創立事務所」設置、以後教会設置認可運動が本格化する。
  • 1887年(明治20年)2月18日 - 教祖・中山きみ死去、享年90才。以後、飯降伊蔵が本席となる。
  • 1888年(明治21年)3月30日 - 天理教会設立願書提出のために上京、同年4月に神道直轄天理教会認可。
  • 1891年(明治23年)12月7日 - 中山たまへと結婚。翌年、教祖5年祭実施。
  • 1897年(明治29年)4月6日 - 内務省からいわゆる秘密訓令甲第12号発布、連日会議で眞之亮は諸事改革を決議、天理王命を天理大神に改称。
  • 1900年(明治33年)4月 - 天理教校開校、入学者110名、真柱も自ら教壇にたつ。
  • 1904年(明治36年)5月29日 - 一派独立運動請願資料として『天理教教典』(明治教典)編纂、時代背景もあり独自色は薄れ、尊皇や愛国など神道理念が中心となる。
  • 1909年(明治41年)4月1日 - 旧制天理中学校(後の天理高校)開校、9月には天理教校別科開設。
  • 1909年(明治41年)11月27日 - 天理教一派独立、「神道直轄天理教会本部」は「天理教教会本部」に改称、同時に中山新治郎として正式に天理教管長に就任、天理教庁設置、同年12月天理教教規制定。
  • 1911年(明治43年)- このころより、病気がちになる。翌年、神殿建築起工式実施。
  • 1914年(大正3年)4月 - 大正普請竣工、同年12月31日、49歳で死去

関連項目

脚注

  1. ^ 深谷忠一 (2014-09). “『教祖伝』探究(3)年限の理” (pdf). Glocal Tenri Vol.15 (天理大学). http://www.tenri-u.ac.jp/topics/q3tncs00000l46hp-att/GT177-fukaya.pdf 2015年8月23日閲覧。. 
  2. ^ 深谷忠一 (2014-09). “『教祖伝』探究(3)年限の理” (pdf). Glocal Tenri Vol.15 (天理大学). http://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000xrj8e-att/GT187-fukaya.pdf 2015年8月23日閲覧。. 
  3. ^ a b c 天理大学付属おやさと研究所 (1997年11月24日). 改訂 天理教事典. 天理教道友社. p. 695. ISBN ISBN 4-8073-0412-7{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  1. ^ みきの生誕家
  2. ^ 明治政府の政令で、神道および仏教の一宗一派を管轄する長を「管長」と呼んだために、天理教でも一派独立後にこの呼称を用いた。天理教ではあくまで社会的な呼称だとしており、第二次世界大戦後に制定された「天理教教規」にてあらためて「真柱」を制定している。(天理大学付属おやさと研究所 (1997年11月24日). 改訂 天理教事典. 天理教道友社. p. 236. ISBN ISBN 4-8073-0412-7{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
先代
天理教
初代管長:1881-1914
次代
中山正善