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=== 著書 ===
=== 著書 ===
* 井口の法則 メジャーリーガーの野球技術([[MCプレス]]) 2008年8月 ISBN 4-86295-047-7
* 井口の法則 メジャーリーガーの野球技術([[MCプレス]]) 2008年8月 ISBN 4-86295-047-7
* 二塁手論―現代野球で最も複雑で難しいポジション (幻冬舎新書) 2010年7月 ISBN-10: 4344981758 ISBN-13: 978-4344981751
* 二塁手論―現代野球で最も複雑で難しいポジション (幻冬舎新書) 2010年7月 ISBN 4344981758 ISBN-13: 978-4344981751


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2016年11月15日 (火) 17:44時点における版

井口 資仁(井口 忠仁)
千葉ロッテマリーンズ #6
2013年4月2日 QVCマリンフィールドにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都田無市(現:東京都西東京市
生年月日 (1974-12-04) 1974年12月4日(50歳)
身長
体重
178[注釈 1] cm
91[注釈 2] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手遊撃手一塁手
プロ入り 1996年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1997年5月3日
MLB / 2005年4月4日
年俸 1億8000万円(2016年)
※2015年から2年契約[4]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
オリンピック
男子 野球
1996年 野球

井口 資仁(いぐち ただひと、1974年12月4日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属する、日本プロ野球選手内野手[5])。本名は「井口 忠仁」(読み同じ)。

2016年シーズンから日本プロ野球(以下:NPB)における最年長の野手投手以外)となった。[注釈 3]

経歴

プロ入り前

1974年12月4日東京都田無市(現:東京都西東京市)で生まれる。童話作家の寺村輝夫の次男が、友達や近所の大人を集めて、少年野球チームの「ビクトリー」を作ったが、これに寺村や長男も参加し、寺村が監督になる。その後、「ビクトリー」に入って来たのが小学校の4年の時の井口であり、寺村は「井口君は俺が育てた。」と言う(参照:寺村輝夫)。小学校の4年の時に捕手として野球を始め、中学校まで捕手を務める。小学校の5年の時に少年野球チームの「保谷リトルクラブ」に移籍する。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。中学校の3年の時には全国大会に出場。井口は「守備の際に使用するレガースプロテクターを着けるのが好きで、両親に買ってもらって喜んでいた一幕もありました。」と言うように当時の思い出を話していた。

国学院久我山高等学校で内野手になり、遊撃手としてプレーするようになる。2年の夏に3番・遊撃手として全国大会に出場。2年の秋から3年の夏までは主将を務め、3番・遊撃手としてプレーするが、春と夏の全国大会の出場を逃した。

その後、青山学院大学へ進学。高等学校時代に引き続いて、遊撃手としてプレーする。4年の春から4年の秋まで主将を務める。4年の時にはアメリカ合衆国で開催されたアトランタオリンピックで野球日本代表に選ばれ、銀メダル獲得に貢献。この時にキューバ代表のプレーに衝撃を受けたことが後のメジャー挑戦を意識するきっかけになった[6]。また、 同期のチームメイトである澤崎俊和清水将海倉野信次などと一緒に全日本大学野球選手権大会の優勝を始め、多くの輝かしい実績を残した。個人としても、1番・遊撃手の「青い核弾頭」として活躍し、東都大学リーグ史上唯一である三冠王や、リーグ記録となる1シーズン8本塁打などを記録。

大学通算成績は101試合出場、366打数、103安打打率.281、24本塁打、61打点、32盗塁。 東都大学通算24本塁打は現在も破られていないリーグ記録である。また、最高殊勲選手2回、ベストナイン4回の受賞の経験がある。

プロ野球の各チームの争奪戦の末、福岡ダイエーホークスを逆指名した[7]。1996年のドラフト会議ではダイエーが1位指名で交渉権を獲得し、契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1300万円(金額は推定)で入団し、念願のプロ入りを果たした[8]。背番号は「7」に決まった。青山学院大学のチームメイトでは澤崎が広島東洋カープ1位(逆指名)、清水が千葉ロッテマリーンズ1位(逆指名)でそれぞれ指名され、同一チームから同時に3人のドラフト1位選手が出た。

ダイエー時代

1997年
3月のオープン戦で右足首を捻挫したために開幕には間に合わず、5月3日の対近鉄バファローズ戦で2番・遊撃手として一軍で初出場。1回裏のプロ初打席山崎慎太郎から一軍での初安打となる左前安打を放ち、4回裏の3打席目では山崎から一軍での初本塁打となる左越え満塁本塁打を放つ鮮烈なデビューを飾った。外国人選手を除き、新人選手のデビュー戦での満塁本塁打はプロ野球史上初の快挙だった。しかし、順調な滑り出しとは裏腹に、その後は低打率に苦しみ、主に下位打線で起用されるようになった。年末にはアメリカ合衆国ハワイ・ウインターリーグ松中信彦らと一緒に派遣され、ウェストオアフ・ケーンファイアーズに留学という形で所属した。
1998年
開幕当初は1番として起用されたが、その後は9番など下位打線に回ることが多かった。打率はリーグ最下位となる.221と低迷したものの、リーグ12位の21本塁打を放ち、「恐怖の9番」と言われた。また、7月5日の対ロッテ戦では吉田篤史からランニング本塁打を放った。
1999年
開幕からクリーンアップや1番を任されるものの、その後は低迷し、例年と同様に下位打線で起用されるようになる。打率はリーグ最下位の.224に終わったものの、優勝争いの中でサヨナラ打を3度記録するなど、勝負強さを発揮した。9月8日の首位攻防となる対西武ライオンズ戦では西崎幸広からサヨナラ満塁本塁打を放ち、試合前に西武が敗れてマジック1で迎えた9月25日の対日本ハムファイターズ戦でも金村暁から決勝本塁打を放つなど、ダイエー初のリーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献した。
2000年
この年も下位打線を任されていたが、レギュラーシーズン中に左肩を負傷し、手術を行い、長く戦列を離れる。日本シリーズで戦列に復帰した。リーグ優勝記念旅行にも参加せず、年末には登録名を本名の「井口忠仁」から「井口資仁」に変更して飛躍を誓った。
2001年
守備面では鳥越裕介遊撃手を譲って二塁手コンバートされ、走塁面ではコーチの島田誠の助言から目標を盗塁王に定めて臨んだ年だった。プロ入り以降、打率が.250を超えたことがなかったことから、確実性を高めるためにフォームを足を上げる打法からすり足打法に変えてレギュラーシーズンに臨んだ。同年は3番としてほぼ定着し、打率は.261(リーグ27位)に終わったが、史上3人目の30本塁打、40盗塁を達成し、44盗塁で盗塁王のタイトルを獲得し、ベストナインゴールデングラブ賞を受賞した。この年、井口が30本塁打(リーグ12位)を記録したのに加え、松中が36本塁打、小久保裕紀が44本塁打、城島健司が31本塁打を記録し、パシフィック・リーグ初の30本カルテットを形成。日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初の快挙だった。11月には台湾で開催された第34回IBAF(国際野球連盟)ワールドカップの日本代表に高橋由伸井端弘和や高校生で唯一メンバー入りした寺原隼人らと一緒に選ばれ、3番・二塁手として出場した。
2002年
ストライクゾーン改正もあり(翌年は再び従来通りに変更)、前年に比べて投高打低化し、リーグ平均打率は.255だったが、井口自身は打率.259(リーグ24位)とリーグ平均打率を上回った。しかし、本塁打は18本と多くの打者の例に届かずに数字を落とした。年末には城島と一緒にスコアラーの金森栄治に指導され、「より引き付けて打つ打法」に変更。フォームをすり足打法から再び足を上げる方法に戻した。
2003年
5試合連続の猛打賞、1試合4二塁打の日本タイ記録を達成した。開幕戦は7番で迎えたが、レギュラーシーズン途中から3番としてほぼ定着し、ダイハード打線の中心を担った。打率.340(リーグ4位)、27本塁打(リーグ12位)、109打点(リーグ5位)を記録し、2度目のベストナインとゴールデングラブ賞にも選ばれた。また終盤に村松有人骨折で離脱したこともあり、2年ぶりの盗塁王(42盗塁)に輝き、松中、城島、ペドロ・バルデスと共に史上初の100打点カルテットを形成した。日本シリーズでは打率は.231に終わったものの、本塁打を2本放ち、優秀選手に選ばれた。年末には一時ポスティングシステムでのメジャー移籍を球団事務所から承認されていたが、小久保の読売ジャイアンツへの移籍により否認。契約更改では「オーナーの中内正の経営体制が刷新した場合、または高塚猛がオーナー代行を辞任した場合、自由契約の選択権は井口にある」との覚え書きを交わした。
2004年
開幕から3番に座ったが、1番として起用されることも多く、城島がアテネオリンピック出場により離脱した期間には代役として5番も務めた。公式戦最終戦の9月23日の対北海道日本ハムファイターズ戦では延長12回裏に入来祐作からダイエーとしては公式戦最後の本塁打となるサヨナラ本塁打を放った。レギュラーシーズンでは打率.333(リーグ4位)、24本塁打(リーグ14位)、89打点(リーグ7位)を記録した。チームは2年連続でレギュラーシーズン1位に輝いたが、この年に導入されたプレーオフで敗れ、リーグ優勝は逃した。年末には高塚が部下への強制猥褻罪の容疑で逮捕されたために辞任したことを受け、前年に交わした覚え書きによって自由契約を選択し、MLBに挑戦することを表明。

ホワイトソックス時代

ホワイトソックス時代(2006年)
2005年
シカゴ・ホワイトソックスと2年470万ドルで契約(3年目は年俸330万ドルのチームのオプション)。開幕戦となった4月4日の対クリーブランド・インディアンス戦に2番・二塁手として初出場。開幕2戦目となる4月6日のインディアンス戦ではケビン・ミルウッドからメジャー移籍後初安打を二塁打で記録(同試合で初盗塁も記録)。5月3日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦ではブライアン・アンダーソンから左翼席へメジャー初本塁打を放った。その後もスコット・ポドセドニックと一緒にホワイトソックスの「スモール・ボール(監督のオジー・ギーエンが命名した名前は「スマート・ボール」)」を牽引。この年は打率.278、OPS.780を記録。特にホームでは好調で、打率.304[3]、OPS.830[3]の好記録を叩き出した一方、アウェイでは打率.248[3]、OPS.724[3]とホームでの時に比べると苦戦を強いられ、本拠地(USセルラー・フィールド)に恵まれた数値が示された。
ポストシーズンでは10月5日の前年度ワールドチャンピオン、ボストン・レッドソックスとのアメリカンリーグ・ディビジョンシリーズ第2戦で決勝の逆転3点本塁打を放つ活躍などを見せ、移籍1年目でリーグ優勝に貢献した。その後、ワールドシリーズに出場。日本人選手としては新庄剛志松井秀喜田口壮に次ぐ4人目のワールドシリーズ出場選手となった。ワールドシリーズ優勝にも貢献し、日本人では伊良部秀輝に次いで2人目のチャンピオンリングを獲得した。伊良部はワールドシリーズに出場しておらず、実際に出場してリングを獲得したのは井口が初めてである。しかし、最後の打席後に交代し、優勝決定の瞬間はベンチにいたため、「優勝した瞬間グラウンドにいた最初の日本人選手」の座は翌年の田口に譲ることになった。また、日本人で初めて日本シリーズとワールドシリーズの両方を制覇した選手となった。レギュラーシーズン終了後には、両リーグから選ばれる新人ベストナインに二塁手部門で選ばれる[9]。後にこのシーズンについて自己犠牲を強いられる役割には不満があったと語るが、ギーエンの「今年のMVPは井口。井口みたいな野球を深く理解している選手はいない。彼がいたからホワイトソックスはワールドシリーズを制覇出来た」という言葉で救われたという[6]
2006年
ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれる。当初井口は「すべてのプロ野球選手が出場を望んでいる大会。1年ぶりに王貞治監督の下で野球ができることを楽しみにしている」と発言していたが[10]、その後辞退。井口は「2年目は、1年目以上のものを求められる。そのためにはチームのキャンプでアピールしないといけない。」などと語り、1月6日に大リーグの東京事務所を通じ監督の王にファックスを出したことを明かした[11]。王は「井口の欠場は個人的な理由だからしょうがない。出ますというベストの選手の中でやっていくしかない。」と語った[11]
5月20日の対シカゴ・カブス戦で1試合6打点を、6月25日の対ヒューストン・アストロズ戦で1試合7打点を記録。レギュラーシーズン通算では打率.281、18本塁打、OPS.774の記録を残したが、ホームでは打率.313[12]、OPS.853[12]、アウェイでは打率.249[12]、OPS.695[12]と前年と同様にアウェイで苦戦したことに加え、本拠地が考慮されるOPS+では平均を下回る[13]など、本拠地に恵まれた数値が示された。ギーエンは「打点の稼げるスラッガーになろうとしてメジャーの世界にやって来たのに、2年間、今までやったことがないことを良くやってくれた」とコメントした他、レギュラーシーズン終了直後には直々に「お前にはかなり我慢させてしまった。今年だって本当なら20本以上の本塁打を打っていたはずだし、打率も3割を越えていたはずだ。来年はもっと自由に打たせる」と言われたという[6]。12月29日の東京証券取引所の大納会にゲストとして招かれた。
2007年
開幕直後に怪我をしていながらも強行出場していたこともあったために低調なスタートを切った。

フィリーズ時代

2007年7月27日には右手を骨折したチェイス・アトリーの代役として、マイケル・ダビーとのトレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍した。

フィリーズではアトリーの復帰までは先発で二塁手を務めたが、アトリーの復帰後は監督のチャーリー・マニエルから三塁手への転向を勧められたが、これを固辞。そのため、主に代打での出場となり、フィリーズ移籍後は打率.304を残した。ポストシーズン終了後には「現在は永住権を申請中であり、来季は二塁手のレギュラーとして起用してもらえるチームを中心に移籍先を探す。」と言う発言をした。

パドレス時代

2007年12月18日にサンディエゴ・パドレスと1年385万ドルで契約を結んだ。

パドレス時代の井口(2008年)
2008年
4月中は32打席連続無安打になるなど、絶不調に陥ったが、4月26日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で日本人選手史上2人目となるサヨナラ本塁打を記録。5月16日の対シアトル・マリナーズ戦ではダイエー時代のチームメイトだった城島と2004年10月1日のパ・リーグのプレーオフ第2ステージ対西武戦の第5戦以来、1313日ぶりに本塁打を競演。その後も二塁手として出場していたが、3安打を放った6月5日の対ニューヨーク・メッツ戦では走塁中に転倒して右肩を脱臼。6月6日にメジャー4年目で初の故障者リスト入りとなった。8月2日に復帰したが、脱臼した右肩の影響などで調子が上がらず、9月1日に解雇される。

フィリーズ復帰

2008年9月5日に前年に所属したフィリーズと契約。その後フィリーズはポストシーズンに進出。井口の入団はポストシーズン出場選手登録期限後のため出場資格はなかったが、同年にフィリーズに所属していた田口壮と一緒に2個目のチャンピオンリングを手にすることになった。

ロッテ時代

2009年
1月20日に千葉ロッテマリーンズと年俸1億8000万円の3年契約を結んで入団。複数年契約を提示したフィリーズを始め、当時複数のメジャーチームから三塁手としてのオファーがあったが、家族の生活環境と二塁手としてのオファーを優先しロッテへの入団を決めたという[6]。背番号は初芝清が2005年に現役を引退して以降準永久欠番扱いとなっていた「6」に決まった。石垣島での開幕前のキャンプではダイエー時代に行っていた朝練習を竹原直隆と一緒に敢行。開幕から4番を務め、4月7日には史上7人目となる全打順本塁打を日本プロ野球通算150本塁打で放った。不振で途中から4番を外されたが最終的に打率.281、19本塁打を記録した。
2010年
自らトリプルスリーを目標に掲げた年だった[14]。打率.294、17本塁打、2盗塁と目標には届かなかったが、3番・二塁手に定着し、得点圏打率は.340と高い数値を記録。また、リーグ2位の103打点を記録した。また、四死球112と二塁打44はいずれもリーグトップだった。NPB/MLB通算1500本安打も達成し、チームはレギュラーシーズンでは3位に終わったが、クライマックスシリーズではリーグ優勝したソフトバンクを下して日本シリーズに進出し、更に日本シリーズも制した。
ロッテ時代の井口(2011年)
2011年
この年から導入された統一球の影響もあり、前年に比べて大きく成績を落としたものの、チームトップとなる9本塁打、73打点を記録する。しかし、チームはリーグ最下位に終わった。
2012年
5月28日の対広島東洋カープ戦では5回表にブライアン・バリントンから左中間へ3ラン本塁打を放ち、史上98人目となる日本プロ野球通算200本塁打を達成した。同年の打率、打点の成績は前年より成績を落とすが、チーム最多の140試合に出場し、本塁打は2年振りの2桁本塁打となる11本(チームトップ)を記録し、自身初のリーグベストテン入り(7位)を果たした。
2013年
開幕当初は二塁手として起用されたが、この年からは一塁手にも挑戦することになった。4月16日の対日本ハム戦では一塁手として先発出場し、NPB/MLB通算250本塁打を含む4打数4安打で3打点を挙げた。指名打者として出場する時もある。5月は9本塁打、20打点、長打率.663の成績で自身3度目の月間MVPを獲得[15]。7月26日の対楽天戦で田中将大からこの日2本目の安打を本塁打として、NPB/MLB通算では史上5人目となる2000本安打を達成[16]。なおこの試合はサヨナラ負けを喫し、田中の連勝が続くこととなった。7月終了時点で打率.328、19本塁打と好調だったが、8月、9月には月間打率2割台前半を記録[17]するなど不振に陥った。最終的に打率.297(リーグ11位)、23本塁打(リーグ7位)、83打点(リーグ9位)を記録し、長打率、OPSの数値はロッテ移籍後最高だった。
クライマックスシリーズの第1ステージでは打率.333、2本塁打[18]の活躍でファイナルステージ進出に貢献したが、ファイナルステージでは打率.154、0本塁打[19]と不振に陥った。チームもファイナルステージで敗退し、日本シリーズ出場を逃した。第1ステージ、ファイナルステージの通算では打率.227、2本塁打を記録した[17]
2014年
開幕から一塁手として起用され、4月16日の対西武戦で3年ぶりとなる2打席連続本塁打を放つ[20]など春先は好調を維持する。しかし以後は右手中指の腫れもあって成績を落とし、移籍後最低の打率に終わり、規定打席にも到達しなかった。シーズン後に右手中指の手術を予定していたが、検査結果を受けて回避することを決めた[21]。契約更改では前年に3年契約を結んでいたことを明かした[22]
2015年
8月28日のオリックス戦で350二塁打を達成した[23][24]。 最終的に代打での起用が多く、87試合で打率.247、本塁打6、打点28に終わった。
2016年
この年から前述の通り、日本球界最年長野手となった。7月29日、パ・リーグ最年長選手であったケニー・レイ(楽天)の退団に伴い、新たにパ・リーグ最年長選手となった。今シーズンもスタメンと代打の交互での起用が多く、最終的には79試合 打率.257、本塁打5本、打点34でレギュラーシーズンを終えた。

選手としての特徴

井口の走塁(2008年)

打撃

ダイエー時代の監督である王貞治によると右方向への長打が特長である[25]メジャーリーグではクリーンアップへの繋ぎを求められる2番での出場が多かった。ホワイトソックス時代はチームの方針からほぼ毎打席1ストライクを捨てながらも20本近い本塁打を放ち、A.J.ピアジンスキーから「打順が変われば、25本塁打まで打てる力がある。」と言われ[26]、他チームのスカウトマンたちからも「2番ではなく、6番を打たせれば、30本塁打まで打てる力がある。」と長打力が高く評価されていた[27]。ロッテ移籍当初は4番や2番で出場したが、後に3番に定着した。2010年には12チームトップのIsoD.118[28]を記録するなど、ロッテ移籍後は選球眼に磨きがかかり、また、同年は外角打率.313で12本塁打を放つなど、外角に強さを発揮した[28]

走塁

スイングが大きいために一塁到達までは4.3秒と平均的だが[29]、ダイエー時代は通算盗塁成功率約78%を記録し、2度の盗塁王を獲得している。メジャーリーグ移籍以降は盗塁数が減少し、ロッテ移籍後は5年間で14盗塁とダイエー時代に比べて走らなくなっている。

守備

ダイエー時代は2000年までは遊撃手を務めていたが、2000年秋のキャンプから二塁手のコンバートに取り組んだ。一塁への送球距離が短くなったことで、無理に前進せずにボールを引き付けて捕球するケースが増え、打席でも「前に突っ込まなくなった」という[30]。二塁手としては3度ゴールデングラブ賞に輝いた。守備では深めの位置で守ることが多く、肩の強さは二塁手としてはメジャーでも強肩の部類に入ると評された[29]ジミー・ロリンズは井口と初めて二遊間を組んだ時について、「あの日は練習時間を間違えて球場入りしてしまったんだ。練習や打ち合わせなしで本番に臨んだ。でも、初回から彼のプレーを見て、『本物だ。それに僕と感覚が似ている。僕と同じで基本の枠を越えてプレー出来る選手だな。』と実感した。素晴らしいね。」と語った[31]。2006年には『ベースボール・アメリカ』誌で監督投票による「最も守備に定評がある内野手」の2位に選ばれるなど、グラブ捌きにも定評があったが[32]、守備範囲は広くなく[29]、MLB通算UZRは-4.3、DRSは-5を記録するなど、各種守備指標で平均を下回り[33]、ロッテ移籍後も得点換算などで平均を大きく下回った[34]。2013年は一塁手として99試合に出場し、規定試合数に到達したが[35]、UZRでは400イニング以上出場した一塁手としてはリーグワースト2位となる-5.2と平均を下回っている[36]。2015年にも一塁手としてリーグワーストのUZRを記録した[37]

その他

西武時代の松坂大輔との対戦では通算で打率.365(85打数、31安打、3本塁打、9打点)を残して得意としていたことから、「松坂キラー」と呼ばれた[6]

ホワイトソックス時代には本拠地のUSセルラー・フィールドで井口が打席に入る時や好プレーをした時になると、ブーイングに似た「GUU-! GUU-!」という唸り声をホームの観客が発した。これは「グーイング(guing[要出典])」と呼ばれる井口への応援である。現地では「イグチ(井口)」の「グ」にアクセントが置かれた特徴的な発音で呼ばれることが多く、これに由来する[6]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1997 ダイエー 76 252 217 31 44 6 3 8 80 23 3 3 2 1 24 0 8 67 4 .203 .304 .369 .673
1998 135 476 421 58 93 18 4 21 182 66 12 6 15 4 28 1 8 121 6 .221 .280 .432 .712
1999 116 424 370 38 83 15 1 14 142 47 14 7 4 3 38 1 9 113 13 .224 .310 .384 .694
2000 54 185 162 21 40 9 2 7 74 23 5 2 5 1 15 0 2 29 5 .247 .317 .457 .774
2001 140 636 552 104 144 26 1 30 262 97 44 9 9 2 61 0 12 117 14 .261 .346 .475 .821
2002 114 472 428 64 111 14 1 18 181 53 21 7 5 2 27 0 10 84 8 .259 .317 .423 .740
2003 135 617 515 112 175 37 1 27 295 109 42 6 1 6 81 2 14 81 10 .340 .438 .573 1.011
2004 124 574 510 96 170 34 2 24 280 89 18 5 0 8 47 2 9 90 14 .333 .394 .549 .943
2005 CWS 135 581 511 74 142 25 6 15 224 71 15 5 11 6 47 0 6 114 16 .278 .342 .438 .780
2006 138 627 555 97 156 24 0 18 234 67 11 5 8 2 59 0 3 110 7 .281 .352 .422 .774
2007 90 377 327 45 82 17 4 6 125 31 8 1 1 3 44 1 2 65 5 .251 .340 .382 .722
PHI 45 156 138 22 42 10 0 3 61 12 6 1 1 3 13 0 1 23 1 .304 .361 .442 .803
'07計 135 533 465 67 124 27 4 9 186 43 14 2 2 6 57 1 3 88 6 .267 .347 .400 .747
2008 SD 81 330 303 29 70 14 1 2 92 24 8 1 1 0 26 0 0 75 11 .231 .292 .304 .596
PHI 4 7 7 0 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .286 .286 .429 .715
'08計 85 337 310 29 72 15 1 2 95 24 8 1 1 0 26 0 0 75 11 .232 .292 .306 .598
2009 ロッテ 123 530 448 71 126 24 3 19 213 65 4 4 0 1 68 2 13 101 11 .281 .391 .475 .866
2010 143 650 531 88 156 44 1 17 253 103 2 1 0 7 98 1 14 114 13 .294 .412 .476 .888
2011 140 597 509 52 135 23 3 9 191 73 1 1 0 7 72 4 9 96 11 .265 .362 .375 .737
2012 140 578 505 58 129 30 1 11 194 60 3 1 0 4 53 3 16 99 11 .255 .343 .384 .727
2013 135 566 485 68 144 31 2 23 248 83 4 3 0 4 67 2 10 81 13 .297 .390 .511 .902
2014 109 408 357 35 85 24 0 10 139 49 1 0 0 3 40 3 8 74 7 .238 .326 .389 .715
2015 87 250 227 21 56 17 1 6 93 28 1 0 0 0 21 0 2 65 4 .247 .316 .410 .726
NPB:15年 1771 7215 6237 917 1691 352 26 244 2827 968 175 55 41 53 740 21 144 1332 144 .271 .359 .453 .815
MLB:4年 493 2078 1841 267 494 91 11 44 739 205 48 13 22 14 189 1 12 387 40 .268 .338 .401 .739
  • 2015年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別打撃成績所属リーグ内順位

年度 年齢 所属機構 所属リーグ 打率 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 OPS
1997 23 NPB パ・リーグ - - - - - - - -
1998 24 - - - 5位 - - - -
1999 25 - - - - - - 6位 -
2000 26 - - - - - - - -
2001 27 - - - - - 7位 1位 -
2002 28 - - - - - - 3位 -
2003 29 4位 4位 4位 - - 5位 1位 4位
2004 30 4位 3位 4位 - - 8位 4位 8位
2005 31 MLB ア・リーグ - - - 7位 - - - -
2006 32 - - - - - - - -
2007 33 - - - - - - - -
2007 33 ナ・リーグ - - - - - - - -
2008 34 - - - - - - - -
2009 35 NPB パ・リーグ - - - - - - - 8位
2010 36 - - 1位 - - 2位 - 6位
2011 37 - - 10位 - - 8位 - -
2012 38 - - 2位 - 7位 8位 - -
2013 39 - - 4位 - 7位 9位 - 4位
2014 40 - - - - - - - -
  • -は10位未満(打率、OPSは規定打席未到達の場合も-と表記)

MLBポストシーズン打撃成績

















































O
P
S
2005 CWS 12 55 47 7 9 1 0 1 13 5 0 1 3 0 2 0 3 12 1 .191 .269 .277 .546
2007 PHI 3 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 0 0 .000 .667 .000 .667
出場:2回 15 58 48 7 9 1 0 1 13 5 0 1 3 0 4 0 3 12 1 .188 .291 .271 .562

年度別守備成績


球団 一塁 二塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1997 ダイエー - -
1998 - - 122 193 382 10 .983
1999 - - 110 155 304 15 .968
2000 - - 53
2001 - 140 330 449 5 .994 -
2002 - 114 219 350 6 70 .990 -
2003 - 133 293 406 10 .986 -
2004 - 123 251 378 6 .991 -
2005 CWS - 133 234 375 14 84 .978 -
2006 - 136 269 371 8 76 .988 -
2007 - 90 188 247 6 66 .986 -
PHI - 31 72 90 0 30 1.000 -
'07計 CWS・PHI - 121 260 337 6 96 .990 -
2008 SD - 77 142 204 1 54 .997 -
PHI - 1 1 2 0 0 1.000 -
'08計 SD・PHI - 78 143 206 1 54 .997 -
2009 ロッテ - 102 268 311 7 54 .988 -
2010 - 143 306 368 7 84 .990 -
2011 - 140 266 410 7 63 .990 -
2012 - 128 269 359 10 64 .984 -
2013 99 764 53 5 61 .994 15 22 36 1 3 .983 -
2014 80 561 54 4 40 .994 - -
NPB:14年 179 1325 107 9 101 .994 1034 2224 3067 59 .989
MLB:4年 - 468 906 1289 29 310 .987 -
  • 2014年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

NPB

表彰

NPB
MLB

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100本塁打:2003年4月6日、対日本ハムファイターズ3回戦(東京ドーム)、8回表に関根裕之から中越2ラン ※史上225人目
  • 150本塁打:2009年4月7日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(東京ドーム)、2回表に多田野数人から左越ソロ ※史上151人目
  • 1000試合出場:2009年8月26日、対福岡ソフトバンクホークス17回戦(千葉マリンスタジアム)、5番・二塁手として先発出場 ※史上433人目
  • 1000本安打:2010年4月4日、対オリックス・バファローズ3回戦(京セラドーム大阪)、6回表に木佐貫洋から遊前内野安打 ※史上256人目
  • 100死球:2011年5月1日、対福岡ソフトバンクホークス5回戦(QVCマリンフィールド)、9回裏に大場翔太から ※史上16人目
  • 1000三振:2011年9月13日、対北海道日本ハムファイターズ19回戦(東京ドーム)、2回表にブライアン・ウルフから ※史上51人目
  • 200本塁打:2012年5月28日、対広島東洋カープ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、5回表にブライアン・バリントンから左中間越3ラン ※史上98人目
  • 1500試合出場:2013年6月22日、対北海道日本ハムファイターズ6回戦(QVCマリンフィールド)、3番・一塁手として先発出場 ※史上178人目
  • 300二塁打:2013年7月9日、対オリックス・バファローズ10回戦(QVCマリンフィールド)、4回裏に金子千尋から右中間適時二塁打 ※史上60人目
  • 1500本安打:2013年7月24日、対埼玉西武ライオンズ12回戦(西武ドーム)、1回表に十亀剣から中前安打 ※史上114人目
  • 350二塁打:2015年8月28日、対オリックス・バファローズ20回戦(QVCマリンフィールド)、5回裏に白仁田寛和から左越二塁打 ※史上39人目[23][24]
  • 1000打点:2016年9月1日、対オリックス・バファローズ22回戦(QVCマリンフィールド)、3回裏に山田修義から左越3ラン本塁打 ※史上44人目
NPBその他の記録
  • 30本塁打40盗塁:2001年 ※張本勲(1963年)、秋山幸二(1990年)に次いで史上3人目
  • 1試合4二塁打:2003年7月26日 ※プロ野球タイ記録、史上9人目
  • 5試合連続猛打賞:2003年6月3日 - 6月8日 ※パシフィック・リーグ新記録、プロ野球タイ記録、西沢道夫(1954年)に次いで史上2人目
  • 全打順本塁打:2009年4月7日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(東京ドーム)、2回表に多田野数人から左越ソロ(NPB通算150号) ※史上7人目(最後に4番で放って達成したのは史上初)
  • オールスターゲーム出場:9回 (2001年 - 2004年、2009年 - 2013年)
MLBでの記録
  • 1試合7打点:2006年6月25日 ※日本人選手最多記録(当時)[注釈 5]
NPB・MLB通算節目の記録

背番号

  • 7 (1997年 - 2004年)
  • 15 (2005年 - 2007年途中)
  • 12 (2007年途中 - 2008年途中)
  • 10 (2008年途中 - 同年途中)
  • 9 (2008年途中 - 同年終了)
  • 6 (2009年 - )

国際大会出場歴

関連情報

出演

テレビ番組

CM

著書

  • 井口の法則 メジャーリーガーの野球技術(MCプレス) 2008年8月 ISBN 4-86295-047-7
  • 二塁手論―現代野球で最も複雑で難しいポジション (幻冬舎新書) 2010年7月 ISBN 4344981758 ISBN-13: 978-4344981751

脚注

注釈

  1. ^ 福岡ダイエーホークス時代は176cm[1][2]、フィート表記では5' 10"[3]
  2. ^ 福岡ダイエーホークス時代は84kg[1][2]、ポンド表記では185lb[3]
  3. ^ メジャーリーグベースボール(以下:MLB)ではマイアミ・マーリンズイチロー(1学年年上)がおり、同選手はMLB・NPB含めた日本人野手での最年長となった。
  4. ^ 通称「新人ベストナイン」。選出対象となる新人扱い選手を両リーグ統一した中で、各ポジションごとに各球団監督の投票により選出される(例えばシルバースラッガー賞のように各リーグごとに選出されるのではない)。
  5. ^ 後に松井秀喜も記録(2009年8月21日)し、最多タイ記録となった。

参考文献

  1. ^ a b 『プロ野球選手名鑑2003』ベースボール・マガジン社、2003年、251頁。ISBN 4-583-61214-1 
  2. ^ a b 『プロ野球選手名鑑2004』ベースボール・マガジン社、2004年、210頁。ISBN 4-583-61259-1 
  3. ^ a b c d e f Tadahito Iguchi 2005 Batting Splits. Baseball-Reference.com(英語). 2013年6月18日閲覧
  4. ^ 【ロッテ】4日で41歳井口「1年でも長く」球界最年長野手を目指すスポーツ報知(2015年12月3日)2015年12月4日閲覧
  5. ^ 千葉ロッテマリーンズ 井口 資仁日本プロ野球機構オフィシャルサイト 2013年12月5日閲覧。
  6. ^ a b c d e f 井口資仁『二塁手論 現代野球で最も複雑で難しいポジション』幻冬舎、2010年。ISBN 978-4-344-98175-1 
  7. ^ 朝日新聞、1996年11月14日付朝刊 (28面)
  8. ^ 朝日新聞、1996年12月7日付朝刊 (29面)
  9. ^ Gomes on Topps Rookie All-Star Team” (英語). MLB.com (2005年11月17日). 2012年9月28日閲覧。
  10. ^ 「王監督との野球楽しみ」 大リーガー井口選手が講演”. 47NEWS. 2014年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月14日閲覧。
  11. ^ a b 井口 WBC出場辞退”. スポーツニッポン. 2006年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月14日閲覧。
  12. ^ a b c d Tadahito Iguchi 2006 Batting Splits. Baseball-Reference.com(英語). 2013年6月18日閲覧
  13. ^ Tadahito Iguchi. Baseball-Reference.com(英語). 2013年6月18日閲覧
  14. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』白夜書房、2010年、P.131頁。ISBN 978-4-86191-595-6 
  15. ^ “井口月間MVPに「この調子」”. nikkansports.com. (2013年6月5日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130605-1138316.html 2013年7月10日閲覧。 
  16. ^ 井口 日米通算2000本安打 マー君から本塁打で決めた!スポーツニッポン2013年7月26日配信
  17. ^ a b 選手名鑑千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト 2013年12月5日閲覧。
  18. ^ 2013年度 千葉ロッテマリーンズ 個人打撃成績(クライマックスシリーズ <第1ステージ> ) 2013年11月8日閲覧。
  19. ^ 2013年度 千葉ロッテマリーンズ 個人打撃成績(クライマックスシリーズ <ファイナルステージ> ) 2013年11月8日閲覧。
  20. ^ “39歳井口自賛「飛ばない球でも本塁打でしょ」”. スポニチ Sponichi Annex. (2014年4月17日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/17/kiji/K20140417007989880.html 2015年1月11日閲覧。 
  21. ^ “ロッテ井口手術回避 自主トレ開始”. nikkansports.com. (2014年10月11日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20141011-1380289.html 2015年1月11日閲覧。 
  22. ^ “ロッテ井口は現状維持の1・8億円”. nikkansports.com. (2014年12月17日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20141217-1410194.html 2015年1月11日閲覧。 
  23. ^ a b “【ロッテ】井口、通算350二塁打を達成!「まだまだ通過点」”. スポーツ報知. (2015年8月28日). http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20150828-OHT1T50183.html 2015年8月31日閲覧。 
  24. ^ a b “ロッテ井口プロ通算350二塁打「まだまだ通過点」”. nikkansports.com. (2015年8月28日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1529832.html 2015年8月31日閲覧。 
  25. ^ 井口を変えた王さんの“裸”の打撃指導「打者が先手になれ」スポーツニッポン2013年7月27日配信
  26. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』廣済堂出版、2007年、P.150頁。ISBN 978-4-331-51213-5 
  27. ^ 2007 二塁手ランキング『月刊スラッガー』2007年6月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-6、P.29。
  28. ^ a b 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』白夜書房、2011年、P.45頁。ISBN 978-4-86191-710-3 
  29. ^ a b c 現役スカウト部長による“本物”のスカウティング・レポート『月刊スラッガー』2005年11月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-11、P.32-35。
  30. ^ ロッテ井口、盗塁王が極めた引きつけて打つ技法(2/3ページ)日本経済新聞 2013年11月30日閲覧。
  31. ^ MLB TALK SHOW No27 ジミー・ロリンズ『月刊スラッガー』2007年11月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-11、P.67-69。
  32. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』廣済堂出版、2008年、P.430頁。ISBN 978-4-331-51300-2 
  33. ^ Tadahito IguchiFangraphs、2013年5月30日閲覧。※English
  34. ^ Baseball Lab守備評価〜Second BasemanSMR Baseball Lab
  35. ^ 2013年度 パシフィック・リーグ 個人守備成績(規定以上) 2013年12月5日閲覧。
  36. ^ 『2014プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2014年、28頁頁。ISBN 978-4-905411-17-8 
  37. ^ 『数字で斬る! 2015年プロ野球 パ・リーグ編』ベースボール・マガジン社、2015年、66頁頁。 
  38. ^ Baseball Digest Rookie All-Star TeamsBR Bullpen 2015年9月16日閲覧。
  39. ^ a b c About Iguchi(プロフィール)”. TADAHITO IGUCHI.COM -井口 資仁 オフィシャルWebサイト. 2015年1月24日閲覧。

関連項目

外部リンク