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山口 仙二(やまぐち せんじ、1930年10月3日 - 2013年7月6日)は、長崎原爆の被爆者、日本の反核平和運動家。
経歴
被爆者として
1930年、長崎市に生まれる。1945年8月9日、長崎県立長崎工業学校1年時の14歳の時に、学徒動員で通っていた三菱長崎兵器製作所大橋工場裏(長崎原爆の爆心地から1.4kmの地点)で、防空壕を掘る作業中に被爆、顔と全身に大火傷を負った[1]。大村海軍病院に搬送され、1946年3月9日に退院した[2]。 退院後も顔から胸に残ったケロイド痕[3]に悩まされた[4]。1951年に同校機械科を卒業したが、就職時には学徒動員先だった三菱造船[5]をはじめ多くの企業で体格検査に不合格となった。そのため五島の父親のもとで駄菓子屋と農業をして生活した。1953年には土地を売って長崎市に戻り、1957年まで饅頭屋を営んでいた。
運動家として
1955年10月1日に長崎原爆青年乙女の会を結成して初代会長に就任。また長崎原爆被災者協議会会長、日本被爆者団体協議会代表理事、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員などを歴任した。
1982年にニューヨークで開かれた第2回国際連合軍縮特別総会の全体委員会で、NGOを代表して演説した。
尊敬する議長、事務総長、並びに各国代表の皆さん、NGOの兄弟姉妹のみなさん、全人類の生存か絶滅かに深く関わるこの歴史的な第2回国連軍縮特別総会全体委員会で、私は、日本の婦人や青年の団体、宗教団体、平和団体、労働者や被爆者などの日本の草の根運動、核兵器禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会を代表して発言する機会を与えられたことに対し、感謝と敬意を表明致します。
私たちは核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名2,886万2,935名分を携えて参りました。(中略)
私の顔や手をよく見て下さい。
ありがとうございました[6]。 — 1982年6月、第2回国連軍縮特別総会にて
よく見て下さい。
世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ一人たりとも許してはならないのであります。
核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約して下さるよう心からお願いを致します。
私ども被爆者は訴えます。
命のある限り私は訴え続けます。
ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ。
山口の活動は1986年5月22日にNHK「被爆者 アメリカを行く」で、またその半生は1999年5月29日に長崎放送「ゆるすまじ~山口仙二 その生の記憶」で紹介された。
2007年4月に発足した「ノーモア・ヒバクシャ九条の会」の呼びかけ人にも名を連ねている。
2010年、様々な分野で長崎県の発展に貢献した人を顕彰する長崎新聞文化賞を受賞。
原爆投下に対する思想
アメリカへの激しい憎悪を抱いており、1989年9月16日に、長崎港に入港した米海軍フリゲート艦のピーター・G・ロバーツ艦長が平和祈念像に献花した花輪を艦長が去った直後に他の数人と共にばらばらになるまで踏み躙り続ける姿がニュース映像として放送され、浦上警察署から事情聴取を受け[7]、9月21日に長崎市内の市民運動家に、器物損壊罪で告発された[8]。しかし黒人で民主党所属のバラク・オバマ大統領のノーベル平和賞受賞決定の際には「アメリカにも変化が出てきた。やっぱり世論がその変化を起こしたんだと思う」と態度を軟化させている。
昭和天皇の戦争責任を主張しているが、長崎国際文化会館時代1995年に来県した今上天皇・皇后に展示資料を自ら説明した。
晩年
1990年代前半より喘息を患うなど体調が悪化、2003年に長崎市から雲仙市のケアハウスに妻ととも転居後、2013年7月6日に死去。82歳没。
脚注
- ^ 被爆後の写真(No more NAGASAKI's HomePage)
- ^ 被爆から治療までの一連の体験は長崎平和宣言 被爆者の語りや長崎放送 被爆者の証言に詳しい
- ^ 厳密には肥厚性瘢痕か。ケロイド#原子爆弾被爆によるものを参照
- ^ 被爆から50年以上を経ても、自分の顔にコンプレックスを抱いていた
- ^ 現在の三菱重工業
- ^ 長崎放送「被爆者の証言」第7回より。この演説は中学生の社会科教材にも取り上げられた
- ^ 1989年9月16日 朝日新聞 西部夕刊
- ^ “ヒロシマの記録1989 9月”. ヒロシマ平和メディアセンター. (1989年9月1日)