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「交響曲第2番 (ルビンシテイン)」の版間の差分

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[[1848年]]から[[1854年]]にかけてルビンシテインは3曲の交響曲の作曲を試みた。そのうち現存するのは2つのみで、一つが19世紀ロシアで作曲された最初の交響曲の一つとされる「{{仮リンク|交響曲第1番 (ルビンシテイン)|label=交響曲第1番|ca|Simfonia núm. 1 (Rubinstein)}}」作品40([[1850年]])、そしてもう一つが本曲となり<ref name="delos">[https://delosmusic.com/anton-rubinsteins-symphony-no-2-ocean/ デロスのCDのライナーノーツからの抜粋]</ref>、[[1851年]]に完成した。
[[1848年]]から[[1854年]]にかけてルビンシテインは3曲の交響曲の作曲を試みた。そのうち現存するのは2つのみで、一つが19世紀ロシアで作曲された最初の交響曲の一つとされる「{{仮リンク|交響曲第1番 (ルビンシテイン)|label=交響曲第1番|ca|Simfonia núm. 1 (Rubinstein)}}」作品40([[1850年]])、そしてもう一つが本曲となり<ref name="delos">[https://delosmusic.com/anton-rubinsteins-symphony-no-2-ocean/ デロスのCDのライナーノーツからの抜粋]</ref>、[[1851年]]に完成した。


4楽章からなる初版は翌[[1852年]][[3月6日]]に[[サンクトペテルブルク]]で作曲者自身の指揮により初演されて大成功を収め<ref name="america>[http://americansymphony.org/symphony-no-2-in-c-major-op-42-ocean/ SYMPHONY NO. 2 IN C MAJOR, OP.42, “OCEAN” (1857)]、[[アメリカ交響楽団]]</ref>、[[ピョートル・チャイコフスキー]]は「天才の仕事だ」と絶賛した。[[1854年]][[11月16日]]には[[ライプツィヒ]]で作曲者指揮の[[ゲヴァントハウス管弦楽団]]により演奏されており、これは海外で初めて演奏されたロシア作曲家の交響曲だと考えられている<ref>[http://books.google.ru/books?id=yWwb6dLSVrkC&pg=PA8&lpg=PA8#v=onepage&q&f=false Larry Sitsky. Anton Rubinstein: An annotated catalog of piano works and biography] — Greenwood Publishing Group, 1998. — P. 8. {{ref-en}}</ref>。楽譜は[[1857年]]に出版され、ルビンシテインは本曲を[[フランツ・リスト]]へ献呈した(「第1番」は[[1859年]]になって出版されている)。
4楽章からなる初版は翌[[1852年]][[3月6日]]に[[サンクトペテルブルク]]で作曲者自身の指揮により初演されて大成功を収め<ref name="america">[http://americansymphony.org/symphony-no-2-in-c-major-op-42-ocean/ SYMPHONY NO. 2 IN C MAJOR, OP.42, “OCEAN” (1857)]、[[アメリカ交響楽団]]</ref>、[[ピョートル・チャイコフスキー]]は「天才の仕事だ」と絶賛した。[[1854年]][[11月16日]]には[[ライプツィヒ]]で作曲者指揮の[[ゲヴァントハウス管弦楽団]]により演奏されており、これは海外で初めて演奏されたロシア作曲家の交響曲だと考えられている<ref>[http://books.google.ru/books?id=yWwb6dLSVrkC&pg=PA8&lpg=PA8#v=onepage&q&f=false Larry Sitsky. Anton Rubinstein: An annotated catalog of piano works and biography] — Greenwood Publishing Group, 1998. — P. 8. {{ref-en}}</ref>。楽譜は[[1857年]]に出版され、ルビンシテインは本曲を[[フランツ・リスト]]へ献呈した(「第1番」は[[1859年]]になって出版されている)。


[[1863年]]にルビンシテインは[[スケルツォ]]を含む2楽章を追加して一部楽章の順序を入れ替え、全6楽章となった(第二版)。結果として、本作は交響曲というよりも[[交響組曲]]という色彩が強くなった。初版を評価したチャイコフスキーは、これら2楽章を非常に魅力的だとしながらも、追加したことにより本作が長大化し、初版の古典的ソナタ形式のバランスが破壊されたと批判した<ref name="delos" />。チャイコフスキーが[[交響曲第1番 (チャイコフスキー)|最初の交響曲]]を作曲したのはこの後([[1866年]])である。
[[1863年]]にルビンシテインは[[スケルツォ]]を含む2楽章を追加して一部楽章の順序を入れ替え、全6楽章となった(第二版)。結果として、本作は交響曲というよりも[[交響組曲]]という色彩が強くなった。初版を評価したチャイコフスキーは、これら2楽章を非常に魅力的だとしながらも、追加したことにより本作が長大化し、初版の古典的ソナタ形式のバランスが破壊されたと批判した<ref name="delos" />。チャイコフスキーが[[交響曲第1番 (チャイコフスキー)|最初の交響曲]]を作曲したのはこの後([[1866年]])である。


民俗色を取り入れた「[[交響曲第5番 (ルビンシテイン)|交響曲第5番]]」作品107を作曲した[[1880年]]、ルビンシテインはさらに[[嵐]]を表す1楽章を追加して他の楽章の速度記号を変更し、結果7楽章に落ち着いた(第三版)。しかし、ルビンシテインが亡くなった直後の[[1894年]][[12月19日]]に[[リヒャルト・シュトラウス]]は本作の第三版を演奏する予定を変更し、初版を演奏<ref name="america />するなど評判は良くなかった。
民俗色を取り入れた「[[交響曲第5番 (ルビンシテイン)|交響曲第5番]]」作品107を作曲した[[1880年]]、ルビンシテインはさらに[[嵐]]を表す1楽章を追加して他の楽章の速度記号を変更し、結果7楽章に落ち着いた(第三版)。しかし、ルビンシテインが亡くなった直後の[[1894年]][[12月19日]]に[[リヒャルト・シュトラウス]]は本作の第三版を演奏する予定を変更し、初版を演奏<ref name="america" />するなど評判は良くなかった。


今日では[[ナクソス (レコードレーベル)|ナクソス]]などから初版と第3版の録音が出ているが、民族楽派と対立したルビンシテイン自身がロシア国内で長く忘れらていたことや、曲自体長大なことも手伝い、実演の機会はほとんどない。
今日では[[ナクソス (レコードレーベル)|ナクソス]]などから初版と第3版の録音が出ているが、民族楽派と対立したルビンシテイン自身がロシア国内で長く忘れらていたことや、曲自体長大なことも手伝い、実演の機会はほとんどない。

2016年11月15日 (火) 14:40時点における版

交響曲第2番ハ長調『大洋』ロシア語: Океан作品42は、アントン・ルビンシテインが作曲した交響曲。世界の七つの海を表したとされる。2度にわたって改訂され、長大化したことで知られる。

他の多くのルビンシテインの交響的作品同様、メンデルスゾーンの影響が指摘されており、民族的要素はほとんどない。

概要

1848年から1854年にかけてルビンシテインは3曲の交響曲の作曲を試みた。そのうち現存するのは2つのみで、一つが19世紀ロシアで作曲された最初の交響曲の一つとされる「交響曲第1番カタルーニャ語版」作品40(1850年)、そしてもう一つが本曲となり[1]1851年に完成した。

4楽章からなる初版は翌1852年3月6日サンクトペテルブルクで作曲者自身の指揮により初演されて大成功を収め[2]ピョートル・チャイコフスキーは「天才の仕事だ」と絶賛した。1854年11月16日にはライプツィヒで作曲者指揮のゲヴァントハウス管弦楽団により演奏されており、これは海外で初めて演奏されたロシア作曲家の交響曲だと考えられている[3]。楽譜は1857年に出版され、ルビンシテインは本曲をフランツ・リストへ献呈した(「第1番」は1859年になって出版されている)。

1863年にルビンシテインはスケルツォを含む2楽章を追加して一部楽章の順序を入れ替え、全6楽章となった(第二版)。結果として、本作は交響曲というよりも交響組曲という色彩が強くなった。初版を評価したチャイコフスキーは、これら2楽章を非常に魅力的だとしながらも、追加したことにより本作が長大化し、初版の古典的ソナタ形式のバランスが破壊されたと批判した[1]。チャイコフスキーが最初の交響曲を作曲したのはこの後(1866年)である。

民俗色を取り入れた「交響曲第5番」作品107を作曲した1880年、ルビンシテインはさらにを表す1楽章を追加して他の楽章の速度記号を変更し、結果7楽章に落ち着いた(第三版)。しかし、ルビンシテインが亡くなった直後の1894年12月19日リヒャルト・シュトラウスは本作の第三版を演奏する予定を変更し、初版を演奏[2]するなど評判は良くなかった。

今日ではナクソスなどから初版と第3版の録音が出ているが、民族楽派と対立したルビンシテイン自身がロシア国内で長く忘れらていたことや、曲自体長大なことも手伝い、実演の機会はほとんどない。

楽章構成

  • 初版(約50分)
  1. Allegro maestoso ハ長調
  2. Adagio non tanto ホ短調
  3. Allegro ト長調
  4. Adagio - Allegro con fuoco ハ長調
  1. Allegro maestoso
  2. Adagio ニ長調(追加)
  3. Allegro (初版の第3楽章)
  4. Adagio (初版の第2楽章)
  5. Scherzo:Presto ヘ長調(追加)
  6. Adagio - Allegro con fuoco
  • 第三版(約73分)
  1. Moderato assai ハ長調
  2. Lento assai イ短調(追加)
  3. Andante ニ長調
  4. Allegro ト長調
  5. Andante ホ短調
  6. Scherzo ヘ長調
  7. Andante (- Allegro) ハ長調

   

楽器編成

録音

出典

外部リンク