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修理完了後その2機はアメリカ軍が接収し、その内の1機は[[メリーランド州]]の[[パタクセント・リバー海軍基地]]を経て[[スミソニアン航空宇宙博物館]]付属のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設に保管されていたが、現在同博物館別館の復元ハンガーに修復中状態で展示されている。その説明文には最高速度696キロ(毎時432マイル)・着陸速度148キロ(毎時92マイル)・離陸滑走距離は500キロ(1102ポンド)の爆装をした全備状態時、離陸用補助ロケット使用で350メートル(1150フィート)と書かれている。根拠は記されていない。 |
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終戦の時点で、第二次試作機の完成は近かった。戦後調査したアメリカ軍によれば、18~25機以上の本機が完成間近の状態だった。機種には陸上攻撃機型の他に、五式30mm機銃2門を装備した戦闘機型と複座偵察機型、それと非武装の複座練習機型があった。これらの発動機には、[[ネ20 (エンジン)|ネ20]] が取り付けられているものもあった。アメリカ軍は研究のため、アメリカ本国に完成機体と半完成機体の本機を持って帰った。その内訳は前述の完成した陸上攻撃機型2機と、半完成状態の戦闘機型1機と複座偵察機型1機と複座練習機型1機の計5機であった。[[スミソニアン航空宇宙博物館]]の復元ハンガーに展示されているのは、これらの機体部品を組み合わせたものとみなされている[[ |
終戦の時点で、第二次試作機の完成は近かった。戦後調査したアメリカ軍によれば、18~25機以上の本機が完成間近の状態だった。機種には陸上攻撃機型の他に、五式30mm機銃2門を装備した戦闘機型と複座偵察機型、それと非武装の複座練習機型があった。これらの発動機には、[[ネ20 (エンジン)|ネ20]] が取り付けられているものもあった。アメリカ軍は研究のため、アメリカ本国に完成機体と半完成機体の本機を持って帰った。その内訳は前述の完成した陸上攻撃機型2機と、半完成状態の戦闘機型1機と複座偵察機型1機と複座練習機型1機の計5機であった。[[スミソニアン航空宇宙博物館]]の復元ハンガーに展示されているのは、これらの機体部品を組み合わせたものとみなされている[[:en:Nakajima_Kikka#Postwar]]近年のアメリカ軍の調査の公開で判明したことは、今まで日本では爆装のみの陸上攻撃機型しか存在が認められていなかったが、武装した戦闘機型と複座偵察機型の存在と、練習用の複座練習機型の存在が、半完成機体としてながらも実在していたことである。 |
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本機は爆撃による対艦攻撃を目的とした[[特殊攻撃機]]である<ref group="注釈" name="特攻戦備(橘花)"/>。[[桜花 (航空機)|桜花]]のように初めから[[特別攻撃隊|特攻]]専用として設計された[[特攻兵器|特別攻撃機]]ではなかったが、特別攻撃機を表す「花」の名称が付いている事や、当時の戦況を考えれば、特攻機として使う以外に用兵はなかったという意見もある(これと似た思想の航空機に[[剣 (航空機)|剣]]がある)。 |
2016年11月15日 (火) 14:08時点における版
中島 橘花
橘花(きっか)は、第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発した双発ジェット戦闘攻撃機[注釈 1]。日本初の純国産ジェット機である。エンジン開発は主に空技廠が担当し、機体を中島飛行機が開発製造した。
ネ12B装備型を「橘花」、ネ20装備型を「橘花改」と正式には呼称する。試作機はそれぞれ、「試製橘花」、「試製橘花改」と呼ぶ。「陸上攻撃機」、「戦闘機」、「複座偵察機」、「複座練習機」の4機種が試作された。海軍略符号は無い。
概要
開発
1944年(昭和19年)8月、日本は高高度を飛行するための過給機付き高性能レシプロエンジンの開発にも行き詰まり、原油生産地のマレー半島と日本本土間の制海権の喪失から燃料事情も悪化していく状況にあった。海軍は低質燃料、低質潤滑油でも稼動し、レシプロエンジンに比較して構成部品が少なく簡易で高性能なジェットエンジン(噴進機関、タービンロケット)を装備した陸上攻撃機を「皇国二号兵器」と仮称して企図し、同25日、中島飛行機に開発指示を出した。
初期原案は3案あり、第1案は胴体の上下にエンジンを配置する胴体上下コンパウンド型(双ブーム支持)、第2案はエンジンを胴体側面に埋め込む胴体埋め込み型、第3案はドイツが開発した世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me 262と同様に主翼下にエンジンを懸架する翼下懸架型であった。第2案が最も進歩した方式であったが、ネ20の小さい出力と製作工程での簡易化が検討された結果、第3案が採用された。技術面の問題もあったと言われている。
その後、同盟国のドイツに駐在する日本陸海軍の将校と技術者がメッサーシュミット Me 262に関する技術資料を入手することを決定し、哨戒艇用に日本が開発した小型ボート用のディーゼルエンジンが欲しかったドイツ側と、戦闘機用にMe 262のエンジンが欲しかった日本の合意のもと、ドイツの占領下のフランスのトゥーロン軍港から日本とドイツの潜水艦で設計図を運んだ(遣独潜水艦作戦)。
輸送に用いられた潜水艦はお互い1隻のみであり、ドイツの潜水艦は1944年末頃に日本占領下のインドネシア(オランダ領東インド)のバリクパパンに到達、上陸の後に日本海軍士官と情報交換した。その後、日本海軍潜水艦はバシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没。また、ドイツ潜水艦が無事にドイツに帰還したかに関しては不明である。ドイツから得たMe 262に関する情報は、潜水艦が撃沈されたためにシンガポールで零式輸送機に乗り換えて帰国した巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われてしまい、肝心な機体部分やエンジンの心臓部分の設計図が存在せず、結果的に大部分が日本独自の開発になった。
開発にあたり当初、橘花は固定武装の機銃を装備せず、胴体下に500kgまたは800kg爆弾を1つ搭載し、陸上から発進して敵艦に対し水平爆撃・緩降下爆撃を行うものとして計画された。一説には「三式25番8号爆弾または仮称四式50番8号爆弾」という反跳爆弾を用いた反跳爆撃も計画されていたという(試製橘花計画要求書案記載)。第二次試作機からは軍部からの要請でMe 262の30mmMK108機関砲に匹敵する五式30mm固定機銃一型乙を装備したが、銃砲の数は2挺とMe 262の4挺と比べて半分である。そればかりか装弾数もMe 262の360発と比べて本機は100発と少なくなっている。
速度は海面上335ノット(約620km/h)と高度6000mで365ノット(約676km)、航続距離は海面200海里(約370km)と高度6000mで300海里(約555km)を予定した[注釈 1]。
製作
本機の外観はMe 262に似るが、それよりサイズが一回り小さく(当初搭載予定のネ12Bジェットエンジンの推力が小さいため、機体を小型軽量にする必要があった)、Me 262の後退翼と異なり、テーパー翼を採用するなど、上記のような事情により実際にはほとんど独自設計である(ちなみにMe 262の後退翼は重心バランスを取るための苦肉の策であり、遷音速から音速域の速度を見越しての翼平面形の採用ではない)。
また、本機は掩体壕(えんたいごう)に隠せるよう、外翼部を人力で上方に折り畳む事ができた。降着装置は前輪式であり、開発期間短縮と部品調達の合理化の為、前輪には爆撃機「銀河」の尾輪を、主輪には零戦の主輪を流用している。(試作機では改良する時間が無かったためブレーキは零戦用のままだった。これが試験時のオーバーランの原因となる)エンジンは低推力を補うために2基を主翼下に懸吊していた。エンジン推力が低い為、全備状態での離陸には、固体火薬式の離陸用補助ロケット2本を主翼下付け根に装備する必要があった。
また大戦末期のジュラルミンなどの資材不足に対応した設計の為、なるべく軽合金の使用を節約し、ブリキやマンガン鋼などの鋼板・鋼材といった代替素材を多用しているのも特徴である。この資源節約は陸軍の火龍の設計にも応用されることになる。また大量生産に適するよう、簡素化と生産工数削減を考慮し設計され、零戦の2分の1の生産工数で製作する事が出来た。
機体の製作は群馬県にある中島飛行機の小泉製作所3階にある設計部で、松山健一主任の製作指揮の元に行われたが、ボーイングB-29による大規模な空襲で工場は壊滅状態となった。橘花も、格納庫が被害を受けるが何とか無事であった。その後機体は空襲を避けるため工場から疎開し、現在の東武伊勢崎線木崎駅付近にあった農家の養蚕小屋に分散して組み立てが行われた。試作機は1945年(昭和20年)6月に完成し、エンジンの耐久試験もパスしたあと、飛行試験を行うため木更津基地に運ばれ、エンジンと機体が組み合わされた。
ちょうどこのころアメリカでは、同国初のジェット戦闘機であるロッキード社のP-80Aの軍への引き渡しが始まっており、ようやく月産30機に達しようとしていたが、まだ実戦配備は進んでいない状況であった。なおアメリカと同じ連合国のイギリスは、1944年(昭和19年)7月にグロスター ミーティアの実戦配備をすでに行っていた。
初飛行
8月7日に松根油を含有する低質油を16分間分だけ積んだ軽荷重状態で飛行を行い、12分間の飛行に成功する。これが日本で初めてジェット機が空を飛んだ瞬間であった。この時橘花には離陸用補助ロケット、アンテナ、前脚のカバーが装備されていなかった。また、脚を出したままの飛行であった。
10日に陸海軍幹部が視察に来る中、燃料を満載しての第二回の飛行が予定されたが空襲で中止され、翌11日は悪天候で順延となり、実飛行は12日に行われた。しかし離陸中に滑走路をオーバーランして擱坐。機体を修理中に終戦を迎えた。離陸失敗の原因は、離陸補助ロケットの燃焼終了による加速度の減少を、パイロットの高岡迪がエンジン不調と勘違いしたもので、離陸を中止しようと試みたが停止し切れず、滑走路端の砂浜に飛び出して脚を破損したものである。本機はそのまま3日後に終戦を迎えた。
終戦前には数十機程度が量産状態に入っていた[1]。その内の数機は完成間近であったが、終戦時に完成していた機体は試作の2機のみであった。なお完成していた2機は終戦直後に終戦に悲観した工場作業員によって操縦席付近が破壊されたものの、研究用に接収しようとしたアメリカ軍により修理が命ぜられた。
修理完了後その2機はアメリカ軍が接収し、その内の1機はメリーランド州のパタクセント・リバー海軍基地を経てスミソニアン航空宇宙博物館付属のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設に保管されていたが、現在同博物館別館の復元ハンガーに修復中状態で展示されている。その説明文には最高速度696キロ(毎時432マイル)・着陸速度148キロ(毎時92マイル)・離陸滑走距離は500キロ(1102ポンド)の爆装をした全備状態時、離陸用補助ロケット使用で350メートル(1150フィート)と書かれている。根拠は記されていない。
終戦の時点で、第二次試作機の完成は近かった。戦後調査したアメリカ軍によれば、18~25機以上の本機が完成間近の状態だった。機種には陸上攻撃機型の他に、五式30mm機銃2門を装備した戦闘機型と複座偵察機型、それと非武装の複座練習機型があった。これらの発動機には、ネ20 が取り付けられているものもあった。アメリカ軍は研究のため、アメリカ本国に完成機体と半完成機体の本機を持って帰った。その内訳は前述の完成した陸上攻撃機型2機と、半完成状態の戦闘機型1機と複座偵察機型1機と複座練習機型1機の計5機であった。スミソニアン航空宇宙博物館の復元ハンガーに展示されているのは、これらの機体部品を組み合わせたものとみなされているen:Nakajima_Kikka#Postwar近年のアメリカ軍の調査の公開で判明したことは、今まで日本では爆装のみの陸上攻撃機型しか存在が認められていなかったが、武装した戦闘機型と複座偵察機型の存在と、練習用の複座練習機型の存在が、半完成機体としてながらも実在していたことである。
本機は爆撃による対艦攻撃を目的とした特殊攻撃機である[注釈 1]。桜花のように初めから特攻専用として設計された特別攻撃機ではなかったが、特別攻撃機を表す「花」の名称が付いている事や、当時の戦況を考えれば、特攻機として使う以外に用兵はなかったという意見もある(これと似た思想の航空機に剣がある)。
また軍部では、高価かつ高い生産技術を要すレシプロエンジンを特攻機に使用して使い捨てるより、極力温存を図って防空用迎撃機にこそ使用したいと考えており、技術面を克服して量産にさえ至れば、レシプロエンジンよりも安価かつ量産が容易なジェットエンジンこそ特攻機に搭載するエンジンに最適であると考えていた。
しかし当時、海軍航空技術廠で本機の開発に参加していた角信朗海軍大尉による日本海軍の航空技術開発の裏話として、「特攻機『橘花』と名前が示すように当然、戦闘機として使用できるジェットエンジンを装備しながら、特攻機としてしか生産も出来なかったし、パイロット養成も出来ないという異常な状況に遭遇していた」という内容からは、本機がジェット戦闘機としての本分を要求されながらも、名目上は特攻機としてでしか開発許可が下りなかった現状がある。それが特別攻撃機を表す「花」の名称が付いている理由となっている。
ただし、橘花のエンジン艤装を担当した渡辺進氏は「橘花は体当たり攻撃機ではなく、最初から帰還を前提とした特殊攻撃機であった。」と語っており、橘花は特別攻撃機ではなかったことを示唆している。
第七二四海軍航空隊
日本海軍は橘花を量産配備する予定だった[2]。橘花による航空作戦の実施に向けて編成されたのが第七二四海軍航空隊である[注釈 1]。1945年(昭和20年)7月1日、伊東祐満大佐が司令(副長兼務)に任じられる[3]。飛行長は多田篤次少佐[3]。原隊は神ノ池飛行場と定められ、横須賀飛行場で開隊した。定数は橘花16機・九九式艦上爆撃機24機・練習機12機である。
7月15日に練成を行う三沢飛行場に移り、艦爆による飛行訓練が始まったのは8月1日からである。隊員に選抜されたのは、6月末日をもって解隊したばかりの三沢海軍航空隊で飛行訓練を受けていなかった予科練甲飛14期生100名と16期生200名であった。飛行訓練が凍結されたのちに入隊した生徒ばかりのため、艦爆すら満足に飛ばせない状況下にあった。
したがって、11月に三浦半島へ展開させることを目標に、わずか3ヶ月の訓練が実施されることになった。さらに橘花は極端に航続距離が短いことから、敵基地へ強行着陸後、白兵戦を展開することも考えられており、陸戦の訓練も要求された。しかし、訓練開始からわずか半月で終戦を迎えたため、無謀な訓練は終了することになった。
エンジン
橘花には当初ネ12B(推力320kg)が搭載される予定であった。しかし1945年(昭和20年)4月、より高推力のネ20に変更された経緯がある。ネ12Bを搭載した場合、初風エンジンを搭載する予定であった。
ネ20は日本初の実用に耐えるターボジェットエンジンである。諸元は、全長1800mm、直径620mm、全重量474kg、推力475kg、軸流式コンプレッサー8段、タービン1段、回転数11000rpmである。これは空技廠、荏原製作所(川崎市中原区)その他メーカーの協力にて設計・製造された。エンジン寿命は連続運転で約40時間と非常に短かった。これは推力軸受座金の焼付きがあったためで、小柴定雄博士(当時;日立製作所安来工場、現;日立金属冶金研究所)が開発した当時、最高性能の工具鋼Cr-W鋼(イ513)によってなんとか実用化の目処を得た。
ドイツへ派遣された伊号第二九潜水艦にはジェットエンジンの実物を含む多くの技術資料が搭載されていたが、この潜水艦は途中で入港したシンガポールからの出港後に撃沈された。したがって橘花製作に役立つ資料は、シンガポールで降ろされ先に飛行機で運ばれたBMW 003Aの縮尺断面図(フィルムから引き伸ばしされたキャビネ判の写真一枚のみであったとされる)と、ユンカース Jumo 004Bの実物見学記録のみであり、これらがかろうじて日本に届いた、という有様であった。
当時ジェットエンジンのタービンブレードを製作するのに必要なニッケル、モリブデンなどの耐熱合金用材料も枯渇していた最中に、これらのわずかな資料を参考に、たったの1年でエンジンを造り、低出力ながらも実用運転状態までこぎつけたことは、ネ10・ネ10改(推力230kg)、ネ12(推力300kg)・ネ12Bなど、それまでの独自開発経験の蓄積があったとはいえ、まさに国力を超えた技術者達の執念というほかに無かった。種子島時休中佐率いる設計チームはそれまで設計を進めていた軸流式+遠心式のネ12Bを放棄し、新たに軸流式のネ20を開発した形になるが、開発の方向性が間違っていなかったことを確認して自信を深めたという。
頭記号の「ネ」とは「燃焼ロケット」の略である。また当時はジェットエンジンのことを「タービンロケット」と呼んでいた。ネ20は戦後アメリカ軍に接収され、一部がノースロップ工科大学の教材となっていたが、展示のために日本に貸与された際に、当時の設計者が「ネ20は俺の息子みたいなものだ。息子を返す親がどこにいる」とアメリカへの返還を拒否した。とんでもない横紙破りであったが、ノースロップ工科大学はこれに対し「永久無償貸与」で応え、生まれの地であるIHI(石川島播磨重工業)に現在も展示されている。これとは別にスミソニアン航空宇宙博物館別館にも2基が展示されている。
また、推力を20%増した、改良型のネ20改が設計されていたが、試作までには至らなかった。推算値では、速度が15%増し、燃費が24%増したという。これは当時の世界のエンジンに比べ遜色がない性能といえる。近年500枚にも及ぶネ20改の完全なる設計図が発見された。これによると軸流式コンプレッサーが8段から6段に変更されており、エンジンの全長も短くなって軽量化されている。
海軍略符号について
橘花は現在インターネット上(Wikipedia英語版など)や、プラモデルなどで非公式にJ9Y(Yは空技廠を意味する記号)・J9N・J10N(Nは中島飛行機を意味する記号)と呼ばれることがある(秋水がJ8Mなのでその後ということか)が、Jは陸上戦闘機(局地戦闘機)を意味する機種記号であるが、橘花は特殊攻撃機(海軍略符号はM)なので間違いである。厳密にはM7NかM8N(晴嵐の次ならM7、晴嵐との間に藤花(陸軍キ-115の海軍採用機)を挟むならM8)が妥当である。戦闘機型は紫電改の例に倣うと、M7N-J、M8N-Jとなる。しかし、橘花には海軍略符号は無い、もしくは不明なので何れも公式のものではない。ただし橘花には海軍略符号が付けられており、終戦時に軍機密として橘花の海軍略符号が書かれた書類が焼却されたとする説や、米軍の調査に口頭でJ9Nと答えたとする説もあるため、一概には橘花の海軍略符号の存在を否定できない状態にある。ちなみに海外では橘花の海軍略符号はJ9Nとする説が有力である。
諸元
正式名称 | 橘花改 | 橘花改 | 橘花改 |
---|---|---|---|
試作名称 | 試製橘花改 | ||
全幅 | 10.00m | ||
全長 | 9.25m | ||
翼面積 | 13.20m² | ||
自重 | 2,300kg | 2,200kg | 2,300kg |
正規全備重量 | 3,500kg | 3,400kg | 3,500kg |
発動機 | ネ20 軸流式ターボジェット(静止推力475 kg) | ネ20改 軸流式ターボジェット(静止推力570 kg) | |
最高速度 | 677km/h(高度6,000m) | 785km/h(高度6,000m) | |
上昇力 | 10,000mまで26分 | 10,000mまで20分 | |
航続距離 | 680km(正規) | 843km(正規) | |
武装 | 五式30mm機銃2挺(機首) | ||
爆装 | 500kg又は800kg爆弾1発(胴体下に半埋め込み式) |
注:ネ20改装備機は計画機。
他のジェット航空機計画
橘花改として、五式30mm機銃2門を備えた戦闘機型と複座偵察機型の他に、複座練習機型といった派生型も試作されたが完成間近の状態で終戦を迎えた。またより高推力のエンジン開発とともにエンジンを換装することも検討された。石川島のネ130(静止推力908 kg)、中島と日立でネ230(静止推力885 kg)、三菱はネ330(静止推力1,320 kg)を分担し研究試作に入ったが、激化する空襲により材料難等で予期した進展が得られなかった為、これらに換装したものは複座型を除き設計段階にまでは進んでいない。
橘花以外のジェット航空機計画には、試作偵察機「景雲」にネ330を搭載してジェット化した攻撃機「景雲改」、ネ30(空技廠製)を搭載した陸上爆撃機「天河」、また陸軍が計画したネ130もしくはネ230搭載の特殊戦闘機「火龍」があるが、これらも設計段階で終戦を迎えた。また、局地戦闘機「震電」にもネ130搭載によるジェット化の構想があったとされる。
他に特攻機として、ネ20を搭載する「桜花」三三型、四三型甲、四三型乙の計画があった。
ターボジェットではないジェット推進機としては、ツ11モータージェットを搭載した「桜花」二二型と「秋花」、カ10パルスジェットを搭載する「梅花」、萱場一型ラムジェットを搭載する萱場製作所の私案「かつをどり」の計画があった。うち桜花二二型と梅花は特攻機である。
登場作品
ゲーム
- 『War_Thunder』
- コンバットフライトシミュレーターゲーム。プレイヤーの操縦機体として、橘花が登場する。
脚注
注釈
- ^ a b c d #海軍軍備(6)特攻戦備p.50『橘花|(目的)近距離に近接し來る敵艦船を攻撃するに適し且多量生産に適する陸上攻撃機を得るに在り|(型式)タービンロケット 双發 単葉型|主要寸度(米)極力小型とし折畳時の寸度全幅五.三 全長九.五 全高三.一〇|(装備原動機)TE一二型 二基|(搭乗員)一名|最高速度(節)海面上三三五 高度六〇〇〇米で三六五|(航続力)海面上二〇〇浬 高度六〇〇〇米で三〇〇浬|(上昇力)記載なし|降着速度(節)八〇|爆弾(瓲)五〇〇|(無線兵装)二式一號無線電話機 受話機のみ|担任航空隊(開隊年月日)七二四空(二〇.七.一)|(記事)試作実驗中 豫定期日を約半ヶ年経過したが完成せず』
出典
- ^ #海軍軍備(6)特攻戦備p.52『(三)特殊機生産実績竝に見透(二〇年七月一五日航本總務二課)』
- ^ #海軍軍備(6)特攻戦備p.51『(二)特殊機整備豫定(二〇年六月二〇日航本總務一課)』
- ^ a b 「昭和20年7月24日(発令7月1日付)海軍辞令公報(甲)第1875号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106100
参考文献
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 第二復員局残務處理部『海軍の軍備並びに戦備の全貌. 其の六(敗退に伴う戦備並びに特攻戦備) info:ndljp/pid/8815696』1952年3月。
- 東條重道:『橘花と七二四空』、自費出版、1988年
- 前間孝則:『ジェットエンジンに取り憑かれた男』、講談社、1992年、ISBN 4061852043
- 屋口正一:『橘花は飛んだ:国産初のジェット機生産』、元就出版社、2005年
- 太平洋戦争研究会:『武器・兵器でわかる太平洋戦争』、日本文芸社、2003年
- 石澤和彦:『海軍特殊攻撃機 橘花』
- 角信朗:『特攻機 橘花 日本で初めて翔んだジェット機』
- 明治百年史叢書第92巻『提督小沢治三郎伝』原書房、1969年。
関連項目
- 伊号第二九潜水艦
- メッサーシュミット Me 262
- Su-9
- 秋水
- 永野治
- 宮崎俊男
- 栃木県立佐野中学校- 昭和20年3月に中島飛行機小泉工場から橘花設計試作部隊が疎開した。
- アメリカ国立公文書記録管理局