「ピアノ協奏曲第1番 (バルトーク)」の版間の差分
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*この曲は初演前に[[ウニヴェルザール出版社]]から楽譜が出版されていた。しかしあまりにも[[誤植]]が多く、バルトークの指摘した修正が行われて第2版が刊行されている。しかし、実はこれですら間違いは払拭されなかった。完全版はバルトークの死後50年以上経って、息子のペーテルらがバルトークの自筆譜を検証して校訂、やっと出版されている。 |
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*初演の翌[[1928年]]にバルトークは[[アメリカ合衆国]]で2か月間にわたる演奏旅行を行い、この際[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団]]により[[ニューヨーク]]での米国初演も計画されたが、リハーサルが不充分との理由により、[[ウィレム・メンゲルベルク]]によってキャンセルされた。結局のところ米国初演は、[[1928年]][[2月13日]]に[[カーネギー・ホール]]において、[[フリッツ・ライナー]]の指揮と[[シンシナティ交響楽団]]の演奏、作曲者自身のピアノ独奏によって実現を見た。 |
*初演の翌[[1928年]]にバルトークは[[アメリカ合衆国]]で2か月間にわたる演奏旅行を行い、この際[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団]]により[[ニューヨーク]]での米国初演も計画されたが、リハーサルが不充分との理由により、[[ウィレム・メンゲルベルク]]によってキャンセルされた。結局のところ米国初演は、[[1928年]][[2月13日]]に[[カーネギー・ホール]]において、[[フリッツ・ライナー]]の指揮と[[シンシナティ交響楽団]]の演奏、作曲者自身のピアノ独奏によって実現を見た。 |
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*バルトーク自身が述べているようにこの曲の演奏はピアノだけでなくオーケストラも難しい。ライナーに送った手紙(1928年10月29日付)の中でバルトークは「何度か弾く機会があったが、シンシナティの君の指揮(上記の米国初演のこと)くらい正確な演奏はヨーロッパの各オーケストラの間でも経験できなかった」と書き、ドイツのピアニスト、ハンス・プリーグニッツ(1913-1984)への手紙の中では「オーケストラにとって |
*バルトーク自身が述べているようにこの曲の演奏はピアノだけでなくオーケストラも難しい。ライナーに送った手紙(1928年10月29日付)の中でバルトークは「何度か弾く機会があったが、シンシナティの君の指揮(上記の米国初演のこと)くらい正確な演奏はヨーロッパの各オーケストラの間でも経験できなかった」と書き、ドイツのピアニスト、ハンス・プリーグニッツ(1913-1984)への手紙の中では「オーケストラにとって'''非常に'''演奏困難なので、一流のオーケストラと指揮者を揃え、かつ充分に練習できないならお止めになるべきです」とまで書いている。 |
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2016年11月15日 (火) 13:26時点における版
バルトーク・ベーラの《ピアノ協奏曲 第1番》(Sz.83, BB 91)は、1926年の8月から11月にかけて作曲されたピアノ協奏曲。2つのヴァイオリン・ソナタやピアノ・ソナタと同時期の作品で、いずれも数年間の沈黙を打ち破る力強い楽曲となっている。
概要
バルトークはそれまで3年の間、『中国の不思議な役人』のオーケストレーションを除けばほとんど作曲をしておらず、ピアニストとしての演奏活動を中心にしていた。その沈黙をいくつかのピアノ曲によって破ったのであるが、その一つにこのピアノ協奏曲があった。バルトーク本人はこの曲を書いたきっかけとして、まだハンガリー民謡の研究を始める以前の1904年に書いた『ピアノとオーケストラのためのラプソディ』以外、コンサートピアニスト兼作曲家である自分が披露できる自作の協奏的作品がなかったことを挙げている。
バルトークの新古典主義時代の幕開けを告げる作品であり、バロック音楽への関心が増してから着手された。このことは、対位法の多用にも表れている。しかしながら、バルトークに特有の苛烈さも依然として残されている。バルトークの他の作品に同じく本作でも、ピアノが打楽器的に扱われている。一方、管楽器を主体とする管弦楽法には、ストラヴィンスキーからの影響が感知される。バルトークは本作について次のように記した。「私の最初の協奏曲は、作風に難しいところはありますけれども、上出来だったと思います。難点といえば、たぶんオーケストラにとっても、聴き手にとっても、非常に難しいというところでしょう。」
初演の印象が強すぎたために、この作品は国際ピアノコンクールの課題曲にはまったくもって採用されていない。その理由として管弦楽パートが込み入りすぎておりリハーサル回数が少ないと崩壊する危険があるためである。[1]
初演
1927年7月1日に国際現代音楽協会のフランクフルト大会において、作曲者自身のピアノとヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮によって初演された。
なお、当日の演奏に備えてフルトヴェングラーを輔佐し、オーケストラの下稽古をつけたのはヤッシャ・ホーレンシュタインだった。
楽器編成
独奏ピアノ、フルート2(ピッコロ1持ち替え)、オーボエ2(コーラングレ1持ち替え)、クラリネット(B♭・A管)2(バスクラリネット1持ち替え)、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、小太鼓2(スネアあり、なし)、トライアングル、シンバル4、大太鼓、ゴング、弦五部(第1ヴァイオリン10、第2ヴァイオリン10、ヴィオラ6、チェロ6、コントラバス6)
演奏時間
約25分(各10分、8分、7分)
構成
作品は以下の3楽章で構成されている。なお作曲者本人はこの曲の調性について「(両端の楽章は)ホ短調」であると述べている。
- Allegro moderato - Allegro
- Andante - Allegro - attacca
- Allegro molto
第1楽章で導入部の後ピアノに登場するオスティナート主題が、さまざまに変形・展開されて作品全体を支配している(オスティナート主題そのものも、導入部の太鼓連打の変形と見なしうる)。第1楽章はソナタ形式によっているが、古典的な協奏ソナタ形式は採用せず、普通のソナタ形式を用いている。静謐で異国的な第2楽章と驀進する終楽章はアタッカの指示によって連結されている。
脚注
- ^ バルトーク自身が学閥を外れていたため、彼のピアノ協奏曲はほとんどといってよいほど国際ピアノコンクールの課題曲には全く採用されなかった。唯一のわずかな例外は第三番で、これはリヒテル国際ピアノコンクールでファビオ・ロマーノがやったように選曲されるケースがある。しかしバルトークの手の大きさを生かした第一と第二はほとんどのピアニストが忌避しており、女性で第一番や第二番を手掛ける例は極端に少ないのが現状である。
逸話
- この曲は初演前にウニヴェルザール出版社から楽譜が出版されていた。しかしあまりにも誤植が多く、バルトークの指摘した修正が行われて第2版が刊行されている。しかし、実はこれですら間違いは払拭されなかった。完全版はバルトークの死後50年以上経って、息子のペーテルらがバルトークの自筆譜を検証して校訂、やっと出版されている。
- 初演の翌1928年にバルトークはアメリカ合衆国で2か月間にわたる演奏旅行を行い、この際ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によりニューヨークでの米国初演も計画されたが、リハーサルが不充分との理由により、ウィレム・メンゲルベルクによってキャンセルされた。結局のところ米国初演は、1928年2月13日にカーネギー・ホールにおいて、フリッツ・ライナーの指揮とシンシナティ交響楽団の演奏、作曲者自身のピアノ独奏によって実現を見た。
- バルトーク自身が述べているようにこの曲の演奏はピアノだけでなくオーケストラも難しい。ライナーに送った手紙(1928年10月29日付)の中でバルトークは「何度か弾く機会があったが、シンシナティの君の指揮(上記の米国初演のこと)くらい正確な演奏はヨーロッパの各オーケストラの間でも経験できなかった」と書き、ドイツのピアニスト、ハンス・プリーグニッツ(1913-1984)への手紙の中では「オーケストラにとって非常に演奏困難なので、一流のオーケストラと指揮者を揃え、かつ充分に練習できないならお止めになるべきです」とまで書いている。