「タンネンベルクの戦い (1410年)」の版間の差分
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* [[ドイツ]]では「'''タンネンベルクの戦い'''」<ref>なお、[[第一次世界大戦]]中の[[1914年]]に起こった[[ドイツ帝国|ドイツ]]と[[ロシア帝国|ロシア]]の会戦も「タンネンベルクの戦い」と呼ばれている。これはタンネンベルク村の付近でドイツ軍が大勝利を収め、かつてのタンネンベルクの戦いでの雪辱を果たしたとして同一の名前で呼んだものである([[タンネンベルクの戦い (1914年)]]参照)。</ref>({{Lang-de|Schlacht bei Tannenberg}})。 |
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2016年11月15日 (火) 13:22時点における版
グルンヴァルトの戦い | |
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グルンヴァルドの戦い(ヤン・マテイコ画) | |
戦争:ポーランド・リトアニア=チュートン騎士団戦争 | |
年月日:1410年7月15日 | |
場所:グルンヴァルト・ステンバルク・ウォドヴィゴヴォ間の平原 | |
結果:ポーランド・リトアニア連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
ポーランド王国 リトアニア大公国 モルドヴァ大公国 マゾフシェ公国 プウォツク公国 ベールズ公国[要リンク修正] ワラキア モラヴィア ボヘミア(チェコ人傭兵) ポジーリャと黒ルーシのルーシ人諸侯 シロンスク公国群諸侯 ジョチ・ウルス(リプカ・タタール人) |
ドイツ騎士団 シロンスク・ピャスト家 ポメラニア公国シュチェチン領(シュチェチン・グリフィン家) |
指導者・指揮官 | |
ヴワディスワフ2世 ヴィータウタス アルギルダイティス ヤン・ジシュカ ジャラール・アッディーン |
フォン・ユンギンゲン † |
戦力 | |
39,000 | 27,000 |
損害 | |
戦死4,000–5,000 負傷8,000 |
戦死(騎士)200–400 戦死(騎士以外)8,000 捕虜14,000 |
タンネンベルクの戦いあるいはグルンヴァルトの戦いは、1410年7月15日、ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団の間で戦われた戦闘である。現在のポーランドのヴァルミア・マズールィ県にある、グルンヴァルト村・ステンバルク(タンネンベルク)村とウォドヴィゴヴォ村の間にある平原で戦われた。この戦いで勝利をおさめたポーランド・リトアニアはさらに勢力を拡大、ヨーロッパで最大の版図をもつ強国として最盛期を迎えることになる。
名称
各国では以下のように呼ばれる。
- ポーランドでは「グルンヴァルトの戦い」(ポーランド語: Bitwa pod Grunwaldem)
- ベラルーシでは「グルンヴァリトの戦い」(ベラルーシ語: Гру́нвальдзкая бі́тва)
- タタール語では「グリュンワルドの戦い」(Grünwald suğışı)
- リトアニアでは「ジャルギリスの戦い」(リトアニア語: Žalgirio mūšis)
- ドイツでは「タンネンベルクの戦い」[1](ドイツ語: Schlacht bei Tannenberg)。
歴史
前史
グルンヴァルドの戦い当時のポーランドでは、それ以前の時代にポーランド君主を輩出していたピャスト家のうち、シレジア(シロンスク)地方一帯を支配するシロンスク・ピャスト家の諸侯の多くは、ヤギェウォ家のヴワディスワフ2世のようなピャスト家の人間でない者がポーランド王位を継承することに反対した。彼らはピャスト家の人間とりわけシロンスク・ピャスト家の人間がポーランド王位を継承すべきであるという野心を捨てず、ドイツ騎士団側に大援軍を送った。シロンスク・ピャスト家は13世紀半ばに起こったモンゴルによるポーランド侵攻の災禍から領地を復興するため積極的に神聖ローマ帝国の諸侯に働きかけて大量のドイツ人移民を受け入れており(東方植民)、この交渉の過程で醸成されたドイツ諸侯との個人的な結びつきを利用することで、長年にわたりシロンスク・ピャスト家が主導する形のポーランド再統一という構想を追求していた。また反対に、クラクフをはじめとするポーランドの各都市に形成されたドイツ系商工民の社会の多くは、王侯貴族の子弟から構成されるドイツ騎士団とは政治的に常に対立しており、彼らはポーランドを支持した。
戦いの推移
ポーランド王兼リトアニア大公であるヴワディスワフ2世率いるポーランド・リトアニア連合軍は、主力部隊がポーランド人、リトアニア人(リトアニア人とルーシ人)、ドイツ人(のちに結成されることになるプロイセン連合加盟諸都市の市民)から構成され、そこにボヘミア人(チェコ人)、ルーシ人、リプカ・タタール人、オランダ人の援軍を加え、39,000人だった。一方、他のいくつかの騎士団を含むドイツ騎士団は、騎士団長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンを指揮官とし、27,000人であった。
7月15日、ドイツ騎士団はグルンヴァルト村の南方に陣営を整えた。対する連合軍は、ポーランド国王が朝のミサを行っていたため配置が遅れていた。騎士団側も自分から事を仕掛けることを望まず、正午近くになってからようやく戦闘が始まった。
戦いが開始されると、リトアニア軍が先陣を切って攻撃を開始した。騎士団の左側面への最初の攻撃ののち、主にタタール人(リプカ・タタール人)からなるリトアニアの軽騎兵は沼沢地へと撤退し、騎士団はこれを追走した。一時はポーランド国王の陣営まで兵を進めたが、ここでリトアニア軍が体勢を立て直し、騎士団へ反撃した。実はこれは攻撃が失敗して敗走したのだと見せかけて敵兵をおびき寄せ敵陣を間延びさせるという、機動力のあるタタール人軽騎兵を利用した陽動作戦であり、ドイツ騎士団はこれに気づかずポーランド・リトアニア軍の罠に嵌ってしまった。これによってドイツ騎士団側の左翼が前に出て陣形が伸びたところを見計らい、ヴワディスワフは敵の右側面への総攻撃を命令した。
最後には、ポーランド貴族の重騎兵軍団が正面から騎士団の隊列を打ち破り、連合軍の勝利に終わった。ユンギンゲンは死亡した。野営地に撤退する途中に、戦争に協力したポーランド人の農民に殺されたものと推測されている。
戦後
マリーエンブルク包囲戦
戦闘に勝利したポーランド・リトアニア連合軍は、マリーエンブルク(マルボルク)近くマリーエンブルク城を包囲した(マリーエンブルク包囲戦)。しかし城の防備は固く、二ヶ月経っても落とすことはできなかった。そのうちリヴォニアから騎士団へ援軍が派遣され、リトアニア軍はそれを迎え撃つために帰国。残されたポーランド軍も、兵士は農民出身者が多く、収穫期を迎えたため攻囲を解いて引き上げた。
トルンの和約
1411年、トルンの和約によって、ポーランドはドブジン地方を、リトアニアはサモギチアを回復した。
領土的には大きな変化はなかったが、ドイツ騎士団は壊滅的な被害を受け、多くの騎士が戦死。また捕虜となった騎士を買い戻すための金銭的負担も大きく、勢力を大きく失墜させた。また騎士修道会が税率を引き上げたことが、商工民を中心とした都市住民による自治都市連合のプロイセン連合(別名ゲバルト連合)成立の契機となった。プロイセン連合加盟の各都市はドイツ騎士団を嫌ってポーランド王の庇護を求め、後にポーランド王国に加入した。 その後も紛争は続き、ポーランドと結んでドイツ騎士団とさらに激しい闘争(1454年の十三年戦争)を展開した。ドイツ騎士団は、回復しえない打撃を受け、1466年に第二次トルンの和約を結んでポーランド王国の封臣となった。その後、ドイツ騎士団は世俗化した。
グルンヴァルト歴史祭り
毎年7月中旬になると、この中世の戦いを記念してヨーロッパから来た何千人もの騎士たちが、グルンヴァルト村の古戦場跡で戦いを再現、ポーランド内外から毎回10万人を超える観客を集めている。騎士たちはポーランドのほか、リトアニア、ラトビア、ドイツ、ベラルーシ、チェコ、スロバキア、ハンガリー、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどからやってきて、和気あいあいのなか戦いを再現し、自分たちの国の騎士たちが戦場のどこにいるか軍旗を見て探したり、ピクニックで弁当や屋台の出店の料理を食べたりビールを飲んだりして、この夏祭りを楽しんでいる。参加者・観客とも年々増加していて、いまやグルンヴァルト歴史祭りはヨーロッパで最も大きく、最も国際的な歴史祭りの一つとなっている。2010年3月にはリトアニア共和国のウンブラサス副国防相がポーランドを公式訪問してポーランド政府側と会談し、ポーランド王国とリトアニア大公国が協力して勝利したこの戦いの600周年を記念して、2010年からはリトアニア共和国も国を挙げてこの祭りに参加することが決まった。[1]
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グルンヴァルト再現祭り(2007年)
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ポーランド軍歩兵の行進
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ポーランド国王ヴワディスワフ2世(2010年)
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リトアニア大公ヴィータウタス
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ドイツ騎士団総長ユンギンゲン
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ポメラニア公スヴァンティボル1世
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中世音楽のショー
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騎馬戦
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馬上槍試合
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ポーランド農民の軽装歩兵とドイツ騎士団の重装歩兵との戦い
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リトアニア重装歩兵
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馬術競技
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馬術競技の観客も当時のコスチュームで装う
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ボウガン体験