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2016年11月11日 (金) 01:58時点における版

岩井 宏
出生名 岩井宏
生誕 1944年2月23日
出身地 日本の旗 日本京都府京都市東山区
死没 (2000-07-24) 2000年7月24日(56歳没)
ジャンル フォークソング
ブルーグラス
オールドタイム
職業 歌手
ギタリスト
バンジョー奏者
音楽ディレクター
担当楽器
ギター
バンジョー
活動期間 1960年代 - 2000年

岩井 宏(いわい ひろし、1944年2月23日 - 2000年7月24日)は、シンガーソングライターフォークブルーグラスオールドタイムバンジョーギター奏者、音楽ディレクター。

アート音楽出版発行の「フォークリポート」などに於いて「日本一のバンジョー弾き」と書かれ、その草分けとして多くの後身に影響を与えた。

関西フォークブームのなかで高田渡ら人気シンガーのサポートを担当した後、シンガーソングライターとしてデビュー。

経歴

サラリーマンからのデビュー

1966年はしだのりひこ北山修加藤和彦杉田二郎らと京都フォークソング集団のAFL(アソシエイティッド・フォークロリスト)の呼びかけ人となる。

及び、はしだのりひこがリーダーであった、「デューディ・ランブラーズ」や「グリティー・グリーメン」といった関西の大学生達が結成したバンドにバンジョー奏者として参加をしていた。 

1968年、すでに就職していたが、京都YMCAでの高石ともやのコンサートに出ていた高田渡の歌と出会う。その後、バンジョーで高田をサポートし、労音や大学のバリケードなどで、全国を回る。同年に東京・原宿で設立された音楽出版社・アート音楽出版(高石ともや事務所関連の版権管理などの会社)の社員になる[1]。その後、アート音楽出版は、1969年設立されたURCレコード関連の版権・音源も管理する音楽出版社となる[2]

また、「あんぐら音楽祭」などのライブ・コンサートのバッキングとしても活動。ステージでは、バンジョーを奏でて、高田渡、岡林信康、高石ともやらのサポートを担当した。また、朝の人気番組「ヤング720」にも高田や岡林と何度か出演し、演奏を披露した。特に高田の「大・ダイジェスト版三億円強奪事件の唄」では、岩井のバンジョーは絶対に欠かせないものであった。

この頃の岩井のバンジョーの音は、当時のライブの実況録音盤以外では、高田渡のシングル盤「自衛隊に入ろう」や「転身」(B面の「電車問題」では高田とデュエット)、「大・ダイジェスト版三億円強奪事件の唄」や高石ともやのシングル盤「ホーチミンのバラード」、岡林信康の「ヘライデ」、「アメリカちゃん」、中川五郎の「コール・タトゥー」などでも聴くことが出来る。

1969年8月、遠藤賢司五つの赤い風船、岡林信康らとともに、名古屋フォークキャンプ例会に出演[3]。 同月、京都で行われた第4回フォークキャンプで、バンジョーを弾いて、マヨネーズ(坂庭省悟中嶋陽二、箕島修)のサポートを行う。また、この時に演奏された高田渡とフォーク・シラケターズ(メンバー:若林純夫・岩井宏・岡林信康・西岡たかしの4人)による「自衛隊に入ろう」はシングル盤としてURCから発売され、上記の通り、サポートで演奏している岩井のバンジョーの音も収録されている。

中山容、有馬敲、高田渡と4人で「バトコイア」というミニコミ紙を作り、1969年10月18日には京都の誓弘寺で、「バトコイアのうたの会」というライブも行い、高田、岩井の他、遠藤賢司、中山ラビ、マヨネーズ、豊田勇造などが出演。以降、数回に渡り、この会は開かれた。

詩人とのコラボレーション

京都在住の詩人の有馬敲の子ども向けの詩に曲をつけて、岩井自らとマヨネーズ、バラーズらが演奏・歌唱したLP「ぼくのしるし わらべうた24」(URC)が1970年4月にリリースされた。

このうち、岩井は、表題作の「ぼくのしるし」の他、「ひざこぞうのうた」、「らくがき」、「まいまい」、「くわばら」を歌っている。その後のほのぼのとした作風の原点がうかがわれる[4]

この時期に岩井がバンジョーでサポートしていた、当時の相棒とも言える高田渡が所属していた音楽舎を辞めてしまい、活動がなくなりかけていたため、アート音楽出版に勤務し、URCレコードのディレクターを務めることになる。1972年6月に退社。(同時期のURCレコードディレクターには、ジャックスを解散した早川義夫もいた。)

その後は小室等と共にキングレコードベルウッドの契約ディレクターとなる。

使用バンジョーと奏法

使用するバンジョーは、フォークシンガーのピート・シーガーが考案した、従来のバンジョーよりも3フレット分長い、オープンバックのロングネック・バンジョー[5]であり、このバンジョーで演奏することが、岩井宏の特徴でもあった。なお、使用楽器メーカーは、ギブソンの「RB-170」やベガの「pete seeger model」であった。

1960年代はブルーグラスでよく弾かれるスリーフィンガー・ピッキングが主体であったが、1970年代に入るとオールドタイムなどで弾かれるフレイリング奏法、またはクロウハンマー奏法が主体の演奏になっていった。ちなみにフレイリング奏法を岩井に伝授させたのは、五つの赤い風船西岡たかしである。

岩井のバンジョープレイは、ルーツには学生時代に鮮烈な衝撃を受けたブルーグラスを外すことは出来ないが、その奏法は極めて独特で、ブルーグラスともオールドタイムとも異なった、彼にしか奏でられない「和」の匂いのする独自の音色を持っていた。

また、バッキングプレイは極めて的確なプレイで、チューナーも満足にない時代に、シビアなチューニングを要求されるバンジョーという楽器での見事なサポートは天性の才能と言っても良い。

ソロシンガーとしてデビュー

全日本フォークジャンボリーには、1969年の第1回から参加。春歌などもソロのレパートリーとしていた。 1970年8月の第2回全日本フォークジャンボリーで、高田渡「銭がなけりゃ」、加川良「教訓Ⅰ」「その朝」「赤土の下で」をサポート、更に「この世に住む家とてなく」を高田渡、加川良ともに演奏。この頃より、同じアート音楽出版の社員であった部下の加川良[6]とともに、高田渡のステージをサポートすることが多くなる。

同年10月には、京都と大阪で前年に開催された第2回フォーク・ジャンボリーの記録映画「だからここに来た」の上映の後のライブに遠藤賢司、加川良、高田渡と出演している[7]。LP『第2回全日本フォーク・ジャンボリー1』が日本ビクターから出たばかりで、知名度も上がっていく。

1970年に始まった、大阪 MBS (毎日放送)の深夜ラジオ番組「チャチャヤング」、加川良とともに水曜日のレギュラーとして出演した。(火曜日は、西岡たかしが担当)この年の暮、「岡林信康コンサート」に、高田渡、加川良ともに出演した。このときの演奏は秀逸で、すでに頓挫しかけていた岡林を完全に呑み込んでいる(近年、ディスク・ユニオンによりCD復刻された)。

1971年8月の「第3回全日本フォークジャンボリー」でも、サブステージにて、高田渡の「自転車にのって」「生活の柄」を加川良とサポート。また加川良の「教訓Ⅰ(この時、加川は「教訓Ⅲ」と呼んでいる。)」もサポート。ソロでも自作の「かみしばい」、「サラリーマンをバカにしちゃダメよ」、「赤ん坊さんよ負けるなよ」の演奏が実況録音盤に収録されている[8]。高田渡、加川良と3人での演奏が多く、客席が笑いに包まれることから「3バカトリオ」と呼ばれる。

また、福岡風太阿部登らが中心になって主催された1972年春一番の幻と呼ばれた10枚組LP「1972春一番BOX」を吉野金次と共に自主制作した。

1973年7月25日、加川良・中川イサトらのサポートでベルウッドより、アルバム『30才/岩井宏』を発表し、プロとしてのシンガー、音楽ディレクターとしての活動を停止。

尚、アルバム『30才』は、生まれてきた息子である、聡さんに捧げられたアルバムであった。

エピソード

岩井はベルウッドから、ソロアルバムを一枚リリースしたら音楽を辞める(正式にはアマチュアとして音楽活動する形態。)と周囲の関係者にも断言していて、事実、プロとしての活動を停止してしまうが、それにあたり当時、高田渡が岩井の家に訪ねて行き、「今、辞めるのは卑怯だ。」と憤怒したという逸話がある。

これは書店を経営するために、一年前に音楽を引退した早川義夫にも言い放った言葉であり、高田にとって仲間が音楽界から去っていくことは辛く耐え難いものであったと言える。

ちなみに、岩井がアマチュア時代になってからは(1973年以降)、オールドタイムの仲間との演奏が多くなり、URCレコード・ベルウッドなどのレーベルに所属していた、かつての音楽仲間とは疎遠状態になってしまったが、その後も1980年代に入ってからも死去までに共演したURCレコード・ベルウッド関連のミュージシャンは、高田渡と友部正人の二人であった。

野球では東京ヤクルトスワローズのファンであった。

メジャーシーンからの引退後

メジャーシーンからは引退をしたが、音楽からは足を洗ったわけではなく、その後もオールドタイムの仲間と「シャックリ・ウインド」というバンドを結成し、喫茶店やイベントで演奏したり、1980年には友部正人の自主制作アルバム『なんでもない日には』の制作を手伝った。

1980年代後半には東京の下町から、関西に移り「はっぴっぴー」というバンドに参加をする。

その後も、自ら曲を書き続け、1980年代、1990年代には、ブルーグラス・オールドタイム専門月刊誌にも寄稿するなどバンジョー奏者の草分けとして多くのファンの尊敬を集めた。

意外にも、岩井宏というとバンジョー弾きというイメージであるが、本人は謙虚な性格であった為、メジャーシーンからの引退後は「自分よりバンジョーが巧い」と思ったオールドタイムの仲間にバンジョーを任せて、自らはギブソンのアコースティックギターで演奏することが多く、その傾向は生涯変わらなかった。

また、坂庭省悟が岩井の楽曲「風のない街」を自身のアルバムでカバーをしている。他にも岩井が制作した楽曲で「昼休み」などは何人かのミュージシャンがライブなどでカバーしている。

そして亡くなる約一週間前のライブ(2000年7月16日「オールドタイム・パーティー・イン・コミカ〜井上ケン&一美ファミリー帰国記念ライブ」)でも、ステージに立ち、楽曲を披露している。このステージが生涯最後のステージであった。

2000年7月24日、交通事故で死去。

そして、雑誌ムーンシャイナーの2000年9月号に追悼記事が掲載された。

2004年7月28日、アルバム『30才/岩井宏』[9]がCDとして初の再発売。

2012年10月3日、奇しくも13回忌のこの年に、2004年まで長いことCD化されなかったアルバム『30才』は予想を上回る売り上げであった為、ベルウッド40周年の中で再プレスされ、再再発売された。

  1. ^ アルバム『30才/岩井宏』CDのライナーノーツ
  2. ^ URC:ムーヴメントとしてのフォークを実践したインディペンデント・レーベル」 - 篠原章 『レコード・コレクターズ』2003年4月号掲載
  3. ^ 遠藤賢司の1969年 遠藤賢司・歴史年表一覧
  4. ^ 「ぼくのしるし わらべうた24」(avex io 2003年3月5日)収録曲リスト
  5. ^ ロングネック・バンジョー
  6. ^ 加川良プロフィール
  7. ^ 「1970年全日本フォーク・ジャンボリー1」(ベルウッドレコード、2004年9月29日)収録曲リスト
  8. ^ 「1971年全日本フォーク・ジャンボリー2」(ベルウッドレコード、2004年9月29日)収録曲リスト
  9. ^ amazon.co.jp