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2016年11月11日 (金) 01:37時点における版

大友康平
出生名 大友康平
生誕 (1956-01-01) 1956年1月1日(68歳)
出身地 宮城県塩竈市
学歴 東北学院大学経済学部
ジャンル J-ROCK
職業 歌手俳優タレント
活動期間 1980年 -
レーベル インディーズ
事務所 イエホック
共同作業者 HOUND DOG
ザ・タイガース
キャロル

大友 康平(おおとも こうへい、1956年1月1日 - )は、日本ロックバンドHOUND DOG」(ハウンド・ドッグ)のボーカル俳優タレント直木賞作家の長部日出雄は母方の叔父にあたる。身長170cm、体重62kg。妻は元ファッションモデル木下桂子

来歴・人物

康平の「康」は徳川家康から、「平」は在原業平からとられている。

宮城県塩竈市生まれ[1]。実家の「大友材木所」は、宮城県でも三本の指に入るほどの大きさであったが、康平一歳の時に倒産[1]。両親は乳飲み子の康平を連れて母方の実家・青森県弘前市に移る[1]。そこでは長居することができず、後に千葉県松戸市へと移る[1]。父はそこで一旦サラリーマンになるが、祖父の知り合いが埼玉県入間郡越生町に材木工場を開いてくれて、父はサラリーマンを辞め再び材木商となり、康平4歳の時、越生町に一家で引越し、19歳で東北学院大学に入学するまで同地で過ごした[1]。幼少時代から、街のカラオケ大会等で熱唱し、その片鱗を見せる。本格的に音楽を始めたのはグループサウンズザ・タイガースが好きだった父の影響[1]。一番衝撃を受けたのはキャロル[1][2]、高校に入って仲間を集めキャロルを真似たバンドを作った[2]。高校は埼玉県立川越工業高等学校建築科へ行き、やんちゃしながらも、武者小路実篤等を愛読する読書家でもあった。その時の経験が後の活動の礎となる。

一浪した後、東北学院大学経済学部に入学、卒業[1]衆議院議員郡和子とは、東北学院大学の同期生である。社会科の教員免許状を持つ。教育実習では仙台市立八軒中学校で教壇に立ったことがあり、テーマは「江戸時代の農民と町人の暮らし」であった。大学時代に同級生とお笑いコンビ「コント爆弾」を組み活動していた[3]。ある日、コント中に小学生に石をぶつけられて逆上し、「おまえの親を呼んでこい」と迫った。この一件をきっかけにコンビを解散。

大学時代にサークルのメンバーらとHOUND DOGを結成。1979年昭和54年)、第1回CBSソニーSDオーディションに合格。(同期合格者は堀江淳五十嵐浩晃村下孝蔵[1]。ロックジャムで準グランプリ、最優秀ボーカリスト賞を受賞してソニーレコードと契約、1980年昭和55年)にプロデビューした。1981年(昭和56年)にはロックンロールオリンピックを開催。バンドのリーダー及びフロントマンとして活動する一方で、俳優としての仕事も行っていた。1980年代後半、光GENJI男闘呼組などジャニーズ事務所所属のタレント歌手を敵視し、彼らを揶揄するような歌も作詞していたが、近年では、KAT-TUN関ジャニ∞などとバラエティ番組で共演している。

学校側からの依頼を受け、台東区立桜橋中学校2002年開校)の校歌「永遠の唄 Song of Forever」を作詞した。なお、作曲は当時HOUND DOGのメンバーだった八島順一が担当した。

野球プロレスを愛好し、長嶋茂雄を敬愛している。そのこともあり、元々は大の読売ジャイアンツファンであるが、2005年に自身の地元・宮城県に誕生した東北楽天ゴールデンイーグルスのファンクラブ名誉創立会員の会員No.1でもある。第2次UWFのファンだった縁で高田延彦と交流があった。

2005年平成17年)1月、当時の所属事務所マザーエンタープライズの役員だったにもかかわらず、某企業新年会でのミニライブを事務所に隠れて引き受けたこと、ギャラを事務所を通さず着服した事でマザーとの関係が悪化し、個人事務所イエホックを立ち上げて独立することとなった。さらに、イエホック移籍に消極的であった蓑輪単志鮫島秀樹の2名をHOUND DOGのメンバーから外し、4人編制で活動を開始、2005年11月8日付日刊スポーツ紙上で7ヶ月後に現実となるバンドメンバー解雇を示唆した。

「ハウンドドッグは僕のものですから。大学時代にオレがつくった。ぶっちゃけ言っちゃうと、オレだけだっていい。オレが歌えばハウンドドッグですから」。

2006年(平成18年)には、待遇に不満を示したという理由により八島順一・橋本章司・西山毅も1年で解雇(後述の裁判では、もともと雇用契約は1年だった、との発言をしている)、その後は自分一人でHOUND DOGを名乗ることを宣言した。しかし、一方的に辞めさせられた元メンバーは強く反発しており、蓑輪・鮫島からは自らをバンドに戻すことを求める民事訴訟を起こされている。また、マザーエンタープライズからも、前述の「裏営業」および独立で被った損害の賠償を求める民事訴訟を起こされている(大友は「事前に許可を得ていた」と反論し、名誉棄損であるとしてマザーを反訴)。詳しくはHOUND DOGの項を参照。 あくまでも自身はロックンローラーであり、芸能活動は余技であるという内容の発言(「自分が最も輝くのはステージの上にいるとき」「芸能はアウェー、ライブがホーム」など)を繰り返してきたが、イエホック設立以後はタレント活動が実質的に本業となっている。

2012年11月7日自身のブログで2011年に突発性難聴にかかっていたことを告白した。聴力については手術も受けたが戻っておらず、また、関係者の話でも、完全な聴力回復はほぼあり得ないという[4]。なお、大友自身は「歌うことに支障はない」「震災で被害を受けた方々に比べたら、俺の問題なんて、ちっぽけなものだ」[5]「手術はしたけれど、片方の耳の聴力は戻っていない。少し安静期間を取ったけれど、状況は変わらなかった。現実をしっかり受け止め、“それ”と正面から付き合うことにした」[4]と発言している。また、どちらの耳が聴こえなくなったかは、共演者や番組関係者に気を遣わせるので公表しないとしている[5]

ディスコグラフィ

楽曲提供

  • KAYOCO「KNOCKIN' MY HEART」(作曲)
  • 川島なお美「SCHOOL SCANDAL」(作曲)
  • デーブ大久保「ダイヤモンド・ヒーロー」(作詞)
  • 美木良介「STORY〜君に逢うための」(作詞)
  • ものまねオールスターズ「I.D.〜IMITATION DIAMOND〜」(作詞)

主な出演作品

映画

テレビドラマ

自身のデビュー25周年を記念しテレビドラマ初主演

テレビその他

ラジオ

CM

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 『新 家の履歴書』(『週刊文春 2014・1月30日号、96-99頁)
  2. ^ a b 『シンプジャーナル・ベストセレクション'80s』自由国民社、2003年、p2
  3. ^ 幸せ!ボンビーガール|2015/07/07(火)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2015年7月9日閲覧。
  4. ^ a b 大友康平が難聴…手術後も聴力戻らず DAILYSPORTONLINE 2012年11月7日配信記事(2012年11月8日閲覧))
  5. ^ a b 大友康平、突発性難聴告白…片耳聞えないSANSPOcom2012年11月8日05:05(配信日に閲覧))
  6. ^ 主な登場人物紹介”. シネマとうほく. 2016年6月21日閲覧。
  7. ^ “ビビる大木「プロ野球ワイド」登場、レッド吉田は名選手の店訪問”. お笑いナタリー. (2016年8月18日). http://natalie.mu/owarai/news/198653 2016年8月19日閲覧。 

関連項目

外部リンク