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2016年11月11日 (金) 00:13時点における版

やすおか りきや
安岡 力也
本名 同じ
別名義 安岡リキヤ (一時的)
力也 (2001 - 2010年まで)
生年月日 (1947-07-19) 1947年7月19日
没年月日 (2012-04-08) 2012年4月8日(64歳没)
出生地 イタリアの旗 イタリア ジェノヴァ
死没地 日本の旗 日本 東京都
身長 187 cm
血液型 O型
職業 俳優歌手タレント
ジャンル 映画テレビドラマバラエティ
活動期間 1964年 - 2010年
著名な家族 安岡力斗[1]
主な作品
映画
不良番長』シリーズ/『ブラック・レイン
バラエティ
オレたちひょうきん族
備考
シャープ・ホークスキックボクサー
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安岡 力也 (やすおか りきや、1947年7月19日 - 2012年4月8日) は、日本ロックヴォーカリストキックボクサー俳優タレントシャープ・ホークスボーカル。本名は同じ。身長187cm、体重108kg、血液型O型イタリアジェノヴァ出身。埼玉県行田市育ち。長良グループ所属。

デビュー以来、本名の「安岡力也」名義で活動していたが、「安岡リキヤ」と表記していた時期もある。2001年、離婚を機に姓のない芸名「力也」に改名したが、2010年からは再び「安岡力也」名義で活動した。子は俳優の安岡力斗[1]

来歴

祖父はシチリアンマフィアで、イタリア人の父と日本人の母の間にジェノヴァで生まれる[2]。父親もマフィアで6歳のとき、父の死亡により日本へ帰国[3]。一方、東京スポーツで生前の2011年4月に掲載された自身の連載「息子へ」では、祖父・父ともシシリーのマフィアで、米軍とつるんでいた関係で日本に来て、日本人で教師の母の間に仙台市で生まれた[4]。その後母親と転々として4歳から埼玉県行田市の祖母宅で育った[4]。父は表向きは貿易商でイタリアと日本を往復したため、父が日本にいる時は麻布の父宅によく行ったが、イタリアで育ったことはないと話している[4]

1964年に、東宝映画『自動車泥棒』に混血児の少年役で主演し、芸能界デビュー。その後、グループ・サウンズシャープ・ホークス」にボーカルとして参加し、1966年にはシングル『ついておいで』でキングレコードよりレコードデビューを果たす。同年末に発売したシングル『遠い渚』と翌1967年夏発売で新メンバーとしてジミー・レノンを加えレコーディングした『海へ帰ろう』がグループの代表曲となりザ・タイガースにとって最初のライバルグループとなる。

シャープ・ホークスと並行して一時期は、ヘビー級ミドル級キックボクサーをしており、4試合で3勝1敗の成績を残した。ただし相手は素人が多かったと自ら述べている[5]。後に山上ボクシングスポーツジムの副会長も務めていた[6]1969年にグループ解散後は主に俳優として活動。東映では若山富三郎の派閥に属して、山城新伍の下についていた[7]。仕事を干されていた時期に梅宮辰夫に救ってもらい[8]、梅宮主演映画『不良番長シリーズ』にレギュラー出演し、以降、梅宮を兄貴分として信奉している。

1973年千葉真一主演作品『ボディガード牙シリーズ』を皮切りに、キックボクシングの経験と体格の良さで、東映が製作する千葉や志穂美悦子主演の格闘映画に次々と出演していった。1975年の映画『少林寺拳法』に出演をしたのが縁で少林寺拳法を稽古し、最終的に伍段を允許されている。テレビ番組で相手の回し蹴りに対し、「喧嘩じゃあ、内側に回りこむこういう技がある」と、払い受け段突きを披露していた。

1982年11月に、バラエティ番組オレたちひょうきん族』(フジテレビ)の1コーナーである「タケちゃんマン」に出演中、せりふの「ホラ貝」を「ホタテ貝」と言い間違えたことをきっかけに「ホタテマン」として出演[9]。上下関係に厳しく強面の風貌と裏腹に、シャレを理解しバラエティ番組などでイジられていた。共演していたビートたけしとは、仕事終わりに毎晩のように遊郭に行っていたという。以降、1980年代からは、バラエティ番組にも進出。2001年春日井製菓コマーシャルで「黒飴マン」に扮した。

1984年に結婚、14年ほど結婚生活は続いたが、力也の女性問題を理由に離婚。妻との間に一男一女をもうけ、離婚後は長男の親権を取り男手ひとつで育ててきた。長男に対する愛情は非常に深く、晩年療養生活が続いていた頃には彼の見舞いをことのほか楽しみにしていたという[10]。前妻との間にもうけた娘がおり、力也という名の孫が居ることを死去の6日前のブログで披露していた[11]

2005年肝臓病で入院、一時復帰したが2006年6月下旬にギラン・バレー症候群罹患である疑いのため東京都内の病院に入院、同年7月から出演予定だった舞台を降板して、2008年時点では山梨県の病院でリハビリをしていた[12]。2009年8月にはキックボクシングのKICKGUTSの大会で公の場に姿を見せ、肩を借りて歩いている姿が目撃された[13]。この療養生活で、かつての100kg以上の強靱な肉体は、一時70kg台にまで激減したが、療養生活を終える頃には元の体格に戻っている。

2010年5月17日放送の『徹子の部屋』にリハビリ後の復帰初仕事として出演。かつてはヘビースモーカーだったが[14]、大病を患ってから禁煙、禁酒を始めたと語り、復帰とともに芸名を安岡力也に戻した。同年8月30日から9月1日にかけて、肝細胞癌、C型肝硬変のため、日本赤十字社医療センターで長男の提供による生体肝移植手術を受けた[15]。しかし2012年4月6日に容態が急変し、一時血圧も50まで低下。一時小康状態を保ったが[16]2012年4月8日午前6時に東京都内の病院で心不全により死去した。64歳没[17][18]。幼馴染の稲川淳二[19]、訃報を聞き「(彼は)シャイでとても優しかった」とコメントした。子供の頃は『ドラえもん』のジャイアンのび太のような関係だったという。中学生になると一時疎遠になるが、芸能界入りした後にばったり再会し、以後交友が続いていた[20]

逝去1か月半後の2012年5月24日に東京都港区青山葬儀所にて、自身が兄貴分と慕った梅宮辰夫を発起人としてお別れの会が執り行われ、長年親交が深かった内田裕也堺正章中村玉緒などが参列し、力也を偲んだ[21][22]。戒名は「鑑薔院濤力仁道大居士」(かんしょういんとうりきじんどうだいこじ)。堺は「飲み会で金がない時に貸してやったら、その翌朝に返金してくるような律儀な男」と力也の人柄を表現している[23]。墓所は千葉県君津市圓明院。2012年5月27日に四十九日法要並びに納骨式が執り行われた[24]

人物

  • 王様ゲームの開発者[25]
  • 松田優作とは盟友で、松田が生前に病気のことを告白していたのは撮影関係者では安岡のみである。松田の葬儀にて「どっちが喧嘩強いんだろう、なんて話してた」と気丈にエピソードを語っていた安岡だったが、「もうどちらが強いか試す機会も無くなったのですね……」というインタビュアーの言葉に絶句、悔しそうにボロボロと涙を落とし「あいつとは喧嘩ももう出来ないんだよ……喧嘩も出来ねぇんだ……」と嗚咽した。
  • プロレスラー武藤敬司とも親交があり、『FIGHTING TV サムライ』の武藤の番組『プロレスの砦』(トーク番組)で対談をし、「いつか二人で何かをやりましょう」という熱い言葉を交わしていた。
  • 2004年広島市長選挙に立候補した広島東洋カープで監督を務めた古葉竹識の応援演説に登場したが、古葉は落選した。
  • 子煩悩であり、息子の学校行事によく参加していた。
  • 元祖どっきりカメラで、若山富三郎清川虹子らにドッキリを仕掛けられ、ハラハラさせられた経験がある。

出演作品

テレビドラマ

映画

オリジナルビデオ

劇場アニメ

舞台

バラエティ

CM

  • 春日井製菓 黒あめ - 黒あめの化身に扮し、「♪黒あめなめなめ、黒あめなめなめ、黒あめなめてみろ♪」とCMソングを歌っていた。

ゲーム

レコード

フジテレビ系「オレたちひょうきん族」のホタテマンとしてヒットした。葬儀では、内田裕也がホタテの部分を力也と替えて歌った。

脚注

  1. ^ a b “安岡力也Jr.を誘った大物プロレスラー”. デイリースポーツ online (デイリースポーツ). (2014年12月10日). http://www.daily.co.jp/opinion-d/2014/12/10/0007573055.shtml 2015年5月21日閲覧。 
  2. ^ 「ホタテマン」で人気/安岡力也さん略歴 nikkansports.com 2012年6月3日閲覧
  3. ^ 父マフィア、銃撃見て育つ…安岡さん人生”. nikkansports.com (2012年4月9日). 2013年3月12日閲覧。
  4. ^ a b c 東京スポーツ・2011年4月7日付 連載「息子へ 安岡力也」③
  5. ^ 浅草キッド『濃厚民族』スコラマガジン、2003年、pp.99-103。浅草キッドとの対談より
  6. ^ 天笠が初防衛!力也さんに捧げた サンケイスポーツ 2012年4月10日閲覧
  7. ^ 『濃厚民族』pp.112-113
  8. ^ 『濃厚民族』p.110。
  9. ^ 「オレたちひょうきん族クロニクル」『笑芸人』1999冬号VOL.1、高田文夫責任編集、白夜書房、1999年、p.38.
  10. ^ 2012年4月8月放送「スッキリ!」等のTV番組で長男本人が記者会見して語った内容による
  11. ^ 隠してた訳じゃねぇが、 安岡力也オフィシャルブログ「閻魔様にも断られちまった! - 2012年4月2日
  12. ^ 「激ヤセ安岡力也は山梨の病院でリハビリ中」『週刊新潮』2008年6月5日号。
  13. ^ 吉田豪「新書評の星座」『ゴング格闘技』2009年10月号
  14. ^ ある番組で催眠術の力で力也が煙草を吸えなくなるといった企画も行われた
  15. ^ 安岡力也、生体肝移植手術成功!医師8人がかりで42時間 安岡力也が生体肝移植 長男提供大手術 - スポーツ報知.com 2010年9月2日
  16. ^ 力也頑張れ! 友人らベッド脇で勇気づける - スポーツ報知,2012年4月8日
  17. ^ 安岡力也さん、心不全で死去…64歳 - デイリースポーツ 2012年4月8日
  18. ^ 安岡力也さん死去…「ホタテマン」で人気 - 読売新聞 2012年4月8日
  19. ^ 『人間コク宝』p.137。
  20. ^ 東京スポーツ・2011年4月13日付 連載「息子へ」
  21. ^ 安岡力也さん「お別れの会」に500人参列 内田裕也「“ロック”まで生きてほしかった」 共同通信 2012年5月24日閲覧
  22. ^ 裕也“69”まで生きてほしかった 日テレNEWS24 2012年5月24日閲覧
  23. ^ 内田裕也“ホタテロック”で力也さんとお別れ サンケイスポーツ 2012年5月25日閲覧
  24. ^ 皆様へ 『閻魔様にも断られちまった!』安岡力也オフィシャルブログ 2012年5月28日閲覧
  25. ^ 週刊ポスト2012年4月27日号

関連項目

外部リンク