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2016年11月10日 (木) 18:41時点における版

松山 恵子
出生名 岡崎 恒好
(おかざき つねこ)
生誕 1937年4月10日
出身地 日本の旗 日本福岡県北九州市戸畑区
死没 (2006-05-07) 2006年5月7日(69歳没)
ジャンル 演歌
職業 歌手
活動期間 1955年 - 2006年
レーベル 日本マーキュリーレコード
東芝レコード
公式サイト EMI Music Japan | 松山恵子

松山 恵子まつやま けいこ1937年4月10日 - 2006年5月7日)は、日本演歌歌手。本名:岡崎 恒好(おかざき つねこ)。庶民派で知られ、「お恵ちゃん」(おけいちゃん)の愛称で幅広いファンに親しまれた。裾の幅が広いフリフリのドレスにハンカチがトレードマーク。所属レコード会社は日本マーキュリーレコード東芝レコード

経歴

福岡県戸畑市(福岡県北九州市戸畑区)で生まれる。生後すぐに父の仕事の関係から東京へ引っ越すが、終戦後の食糧難のため、父の故郷の愛媛県宇和島市へ引っ越す。

中学2年生で出場した「日本コロムビア全国歌謡コンクール」で10位入賞を果たし、関係者の注目を集めた。1954年、歌手になるため家族全員で上京しようとしたが、東京行きの資金が足りず大阪へ途中下車して、大阪府大阪市淀川区に引っ越す。大阪エコー音楽学院の研究生となり、日本マーキュリーレコード全国歌謡コンクールで優勝。彼女の師である大阪エコー音楽学院の西脇稔和の薦めで「雪州音頭」(作詞・小倉武良、作編曲・西脇稔和)を岡崎景子の芸名で日本マーキュリーレコードで初吹き込み、第1号を発売する。1955年、「宵町ワルツ」「マドロス娘」でデビュー。1956年に「十九の浮草」が大ヒットし、一気にスターダムにのし上がった。「未練の波止場」「だから言ったじゃないの」「お別れ公衆電話」「泣いたって駄目さ」「東京なんて何さ」「思い出なんて消えっちゃえ」「アンコ悲しや」「別れの入場券」「逢わなきゃよかったんだわ」「酒場小唄」など数多くのヒット曲を飛ばし、『NHK紅白歌合戦』にも1957年から通算8回出場した(そのうち、7回は連続出場。詳細は下記参照。)。

1969年に交通事故に遭い、瀕死の重傷を負う。この時の輸血が原因で肝炎を患い、亡くなるまで闘病を密かに続けていた。一時は生命も危ぶまれたが不屈の闘志で復活し、最後まで国民的歌手としての人気を維持した。晩年は裾幅3.5メートル、重さ20〜30キロのドレスを着込んで歌うという年齢を感じさせないステージが多くの世代に親しまれ、懐メロ番組に欠かせない存在であった。1989年には、久しぶりに紅白歌合戦に出場。裏面全体にバラの花を飾った直径2メートル半のド派手なドレスで登場した。1995年には第37回日本レコード大賞功労賞を受賞した。

歌い終わると手に持ったハンカチを振る。自分のことを「オケイチャンはね」という。

私生活を売り物にすることは無かったが、一度だけ交通事故で入院した後、週刊誌に半生を語ったことがある。美空ひばり島倉千代子等の同年代のスター歌手同様、家庭は波乱に満ちていた。

数々の男性と浮名を流すなど非常にモテたが、生涯一度も結婚せず、子供もいなかった。2006年4月、入院中に死期を悟り、長らく苦労をともにしたマネージャーと養子縁組を行った。

「お別れ公衆電話」を記念した電話ボックス(JR宇和島駅構内)

2006年2月収録のNHKデジタル衛星ハイビジョンシブヤらいぶ館・演歌一本勝負』で、1996年頃から肝臓癌で闘病中であることを告白し、その直後の3月下旬に入院。4月末に容態が急変し、5月7日に亡くなった。享年69。6月に新曲「人生ありがとう」を発表する予定だった。東芝EMIは、松山の死を受けて追悼アルバムの製作を決め、2006年8月9日に『松山恵子愛唱歌〜お恵ちゃんありがとう〜』のタイトルで発売された。

演歌歌手の三船和子は、松山にあこがれて歌手になったという。三船は松山の葬儀で号泣し、「お恵ちゃんの歌は私が歌い続けます」と語った。「お恵ちゃんのことを悪く言う人は一人もいない」と言われるほど、性格が良いことで知られ、観客やファンはもちろん、スタッフにも常に優しく接していた。前述の三船や立川談志など、芸能人にもファンは多かった。JR宇和島駅構内に、ヒット曲「お別れ公衆電話」を記念した電話ボックスが設置されている。

代表曲

  • 「ホステス小唄」
  • 「だから言ったじゃないの」(出だしの「あんた泣いてんのね」の台詞は流行語になった)(また、レコード会社移籍後の発売は「だから云ったじゃないの」と表記されている。)
  • 「お別れ公衆電話」
  • 「アンコ悲しや」
  • 「鳴門ちどり」
  • 「未練の波止場」
  • 「十九の浮草」
  • 「泣いたって駄目さ」
  • 「思い出なんて消えっちゃえ」
  • 「恋の三度笠」
  • 「東京なんて何さ」
  • 「ひとりぽっちの三等車」
  • 「鳩よ」
  • 「平和への祈り」
  • 「女の劇場」
  • 「哀愁の駅」
  • 「キュッキュッ節」(合いの手が卑猥であるとされ、放送禁止に)
  • 「逢わなきゃよかったんだわ」
  • 「石狩の町よさようなら」
  • 「バックナンバー1050」
  • 「別れの入場券」
  • 「色去灯」
  • 「ハイハイハイ〜今度生まれて来る時も〜」
  • 「紅とんぼ」
  • 「一葉記」(遺作)

NHK紅白歌合戦出場歴

  • 第8回 (1957年12月31日、東京宝塚劇場) 『未練の波止場』
  • 第9回 (1958年12月31日、新宿コマ劇場) 『だから言ったじゃないの』
  • 第10回 (1959年12月31日、東京宝塚劇場) 『思い出なんて消えっちゃえ』
  • 第11回 (1960年12月31日、日本劇場(日劇)) 『アンコ悲しや』
  • 第12回 (1961年12月31日、東京宝塚劇場) 『恋の三度笠』
  • 第13回 (1962年12月31日、東京宝塚劇場) 『おけさ悲しや』
  • 第14回 (1963年12月31日、東京宝塚劇場) 『別れの入場券』
  • 第40回 (1989年12月31日、NHKホール) 『未練の波止場』

テレビ番組

脚注

  1. ^ 『紅白歌合戦アルバム NHK20回放送のあゆみ』(デイリースポーツ社、1970年)

外部リンク