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裁判で、下り快速列車の機関士は「通過信号は進行現示だった」と主張した。捜査でも、臨時行き違い変更の指令を駅が受け取り、出発信号機を「停止」、通過信号機を「注意」に変えた時には、列車は既に場内信号機の確認位置まで来ていたことが判明している。よって事故の原因について、信号誤認なのか信号操作の遅れなのかが争点になったが、長期で争われた結果として信号誤認との判決が下された。 |
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また後日の事故再現で、重連では非常制動が3~4両目の客車までしか伝わらない特性が見いだされ、それによって列車が止まりきれなかったことも事故の遠因とされた。重連運転が常態の[[上越線]]では機関車のブレーキ管に中継弁を設け、非常制動が全車両に行き渡るように改造していたが、これはまだ全国には普及していなかった。しかしそれによる管理側の責任は問われなかった。 |
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2006年6月13日 (火) 14:09時点における版
六軒事故(ろっけんじこ)は、1956年(昭和31年)10月15日に参宮線(当該箇所は、現在の紀勢本線)六軒駅で発生した列車衝突事故である。
事故概要
同駅を通過の予定であった名古屋発鳥羽行き下り快速列車(C51形蒸気機関車重連牽引)の機関士、機関助士が、対向列車の遅れにより「注意」現示になっていた通過信号機(場内信号機の下に設置されており、「注意」現示なら駅構内で停車しなければならない)を見落とし、列車は通過速度のまま駅構内に進入した。そしてホーム先端の通票授器にタブレットが無く、出発信号機も停止現示であったことに気付き、慌てて非常制動をかけたが間に合わず、列車は安全側線に突っ込み脱線。
補機と本務機は線路から外れて畑に転落したが、後続の客車が本線を支障した。直後に対向の名古屋行き上り快速列車(C57形蒸気機関車重連牽引)が進入し、はみ出ていた下り客車に衝突、これを破壊しながら機関車と客車が脱線転覆した結果、42名の死者、94名の重軽傷者を出す惨事となった。
この事故で下り快速列車に乗車していた、修学旅行の往行にあたっていた東京教育大学附属坂戸高等学校の学生が多数犠牲になった。死者の中には圧死に寄る者のみならず、横転した蒸気機関車から漏れたボイラーの熱湯を浴びて、酷い火傷を負っていた者もいた。
なおこの時、名古屋から伊勢の間には近鉄名古屋線・山田線が既に開業していたが、この時はまだ名古屋線が狭軌、山田線が標準軌と軌間が異なっており直通運転が出来なかったこと、国鉄のほうが当時は運賃が安かったことなどにより、修学旅行では関西本線・参宮線使用がまだ一般的となっていた。
事故の調査と疑念
裁判で、下り快速列車の機関士は「通過信号は進行現示だった」と主張した。捜査でも、臨時行き違い変更の指令を駅が受け取り、出発信号機を「停止」、通過信号機を「注意」に変えた時には、列車は既に場内信号機の確認位置まで来ていたことが判明している。よって事故の原因について、信号誤認なのか信号操作の遅れなのかが争点になったが、長期で争われた結果として信号誤認との判決が下された。
また後日の事故再現で、重連では非常制動が3~4両目の客車までしか伝わらない特性が見いだされ、それによって列車が止まりきれなかったことも事故の遠因とされた。重連運転が常態の上越線では機関車のブレーキ管に中継弁を設け、非常制動が全車両に行き渡るように改造していたが、これはまだ全国には普及していなかった。しかしそれによる管理側の責任は問われなかった。