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「イスラム・カリモフ」の版間の差分

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| 配偶者 = ナターリア・ペトローヴナ・クチミ(1960年 - 1960年代)<br />タチヤーナ・カリモヴァ(1967年 - 2016年)
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'''イスラム・アブドゥガニエヴィッチ・カリモフ'''({{lang-uz|'''Islom Abdug‘aniyevich Karimov'''}}、{{lang-en|'''Islam Abduganievich Karimov'''}}、[[1938年]][[1月30日]] - [[2016年]][[9月2日]])は、[[ウズベキスタン]]の政治家。1991年の独立以来、25年にわたって同国の初代[[ウズベキスタンの大統領|大統領]]を務めた。[[ウズベキスタン自由民主党]]党首。
'''イスラム・アブドゥガニエヴィッチ・カリモフ'''({{lang-uz|'''Islom Abdug‘aniyevich Karimov'''}}、{{lang-en|'''Islam Abduganievich Karimov'''}}、[[1938年]][[1月30日]] - [[2016年]][[9月2日]])は、[[ウズベキスタン]]の政治家。1991年の独立以来、25年にわたって同国の初代[[ウズベキスタンの大統領|大統領]]を務めた。[[ウズベキスタン自由民主党]]党首。

人権問題や報道規制などの問題により欧米諸国からは[[独裁者]]として批判を受け、{{仮リンク|パレード (雑誌)|en|Parade (magazine)|label=パレード誌}}に「世界最悪の独裁者」の一人に選ばれていたが、[[2007年]]から[[2012年]]まで毎年8%以上の[[国内総生産|GDP]]成長率を達成するなど、優れた指導者としての一面を見せている<ref>[http://www.parade.com/articles/editions/2007/edition_02-11-2007/Dictators The World's Worst Dictators-2007]. Parade.com. Retrieved on 2012-04-04.</ref><ref>{{cite web|url=http://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.MKTP.KD.ZG|title=GDP growth (annual %)|publisher=The World Bank|accessdate=2012-02-17}}</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== ソ連時代 ===
[[1938年]]1月30日、[[サマルカンド]]に暮らす[[ウズベク|ウズベク人]]の父と[[タジク人]]の母との間に生まれる。[[1941年]]に孤児院に入れられ、翌[[1942年]]に家に戻るが、[[1945年]]に再び孤児院に入れられる。[[1955年]]に高校を卒業し、[[1960年]]に中央アジア工科大学(現在の{{仮リンク|タシケント国立工科大学|en|Tashkent State Technical University}})を卒業し、機械工学の学位を取得した<ref name="echo">{{cite news|title=Биография Ислама Каримова|url=http://m.echo.msk.ru/blogs/detail.php?ID=1828908|accessdate=2 September 2016|publisher=Echo Moscow|date=2 September 2016|language=ru}}</ref>。卒業後は水資源省にエンジニアとして入省し、[[1967年]]にタシュケント州立大学で経済学の修士号を取得した<ref name="echo"/>。
[[File:Henry Kissinger with former USSR leaders - WEF Annual Meeting 1992.jpg|thumb|240px|left|[[世界経済フォーラム]]年次総会でのカリモフ(右から2人目、1992年)]]
[[1938年]]1月30日、[[サマルカンド]]生まれる。[[1941年]]に孤児院に入れられ、翌[[1942年]]に家に戻るが、[[1945年]]に再び孤児院に入れられる。[[1955年]]に高校を卒業し、[[1960年]]に中央アジア工科大学(現在の{{仮リンク|タシケント国立工科大学|en|Tashkent State Technical University}})を卒業し、機械工学の学位を取得した<ref name="echo">{{cite news|title=Биография Ислама Каримова|url=http://m.echo.msk.ru/blogs/detail.php?ID=1828908|accessdate=2 September 2016|publisher=Echo Moscow|date=2 September 2016|language=ru}}</ref>。卒業後は水資源省にエンジニアとして入省し、[[1967年]]にタシュケント州立大学で経済学の修士号を取得した<ref name="echo"/>。


[[1961年]]から[[1966年]]まで、V.P.チカロフ名称タシケント航空生産公団の技師。[[1964年]]、[[ウズベキスタン共産党]]に入党。1966年から[[1983年]]まで[[ゴスプラン]]の主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長を歴任した<ref name="echo"/>。1983年からウズベク共和国の[[財務大臣]]、[[1986年]]から副首相兼ゴスプラン議長を歴任<ref name="echo"/>。1986年[[カシュカダリヤ州]]の共産党第一書記、[[1989年]]6月からウズベキスタン共産党中央委員会第一書記。[[1990年]]から[[1991年]]まで[[ソ連共産党]]中央委員会委員、[[ソ連共産党政治局|政治局員]]、第12期ソ連最高会議代議員を歴任した。
[[1961年]]から[[1966年]]まで、V.P.チカロフ名称タシケント航空生産公団の技師。[[1964年]]、[[ウズベキスタン共産党]]に入党。1966年から[[1983年]]まで[[ゴスプラン]]の主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長を歴任した<ref name="echo"/>。1983年からウズベク共和国の[[財務大臣]]、[[1986年]]から副首相兼ゴスプラン議長を歴任<ref name="echo"/>。1986年[[カシュカダリヤ州]]の共産党第一書記、[[1989年]]6月からウズベキスタン共産党中央委員会第一書記。[[1990年]]から[[1991年]]まで[[ソ連共産党]]中央委員会委員、[[ソ連共産党政治局|政治局員]]、第12期ソ連最高会議代議員を歴任した。


=== ウズベキスタン大統領 ===
1990年3月24日、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]大統領に就任<ref name="echo"/>。[[ソ連8月クーデター]]失敗後の[[1991年]]9月1日に[[ウズベキスタン]]の独立を宣言し、ウズベキスタン共産党を[[ウズベキスタン人民民主党]]に改称した。[[ソ連崩壊]]後の12月29日にウズベキスタン大統領選挙で当選。[[1995年]]3月26日、[[国民投票]]の結果、任期を[[2000年]]まで延長。
==== 大統領選挙 ====
[[File:CSTO Meeting 2010.jpeg|thumb|240px|left|[[集団安全保障条約|CSTO]]加盟国首脳会議でのカリモフ(右から2人目、2010年)]]
1990年3月24日、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]大統領に就任<ref name="echo"/>。[[ソ連8月クーデター]]失敗後の[[1991年]]9月1日に[[ウズベキスタン]]の独立を宣言し、ウズベキスタン共産党を[[ウズベキスタン人民民主党]]に改称した。[[ソ連崩壊]]後の12月29日にウズベキスタン大統領選挙で当選。[[1995年]]3月26日に[[国民投票]]を実施し、任期を[[2000年]]まで延長した。2000年1月9日の大統領選挙では91.9%の得票を得て再選したが、選挙では白票や棄権票が「カリモフに投票した」と見なされるなど公正さに疑問があり、[[アメリカ合衆国]]からは「真の自由で公正な選挙とは言えず、ウズベク国民には選択肢が与えられていなかった」と批判を受けた<ref name=NOTFREE>[http://www.eurasianet.org/departments/election/uzbekistan/bbu260100.htm US slams Uzbek election as unfree, unfair and laughable] EurasiaNet</ref><ref>Alisher Ilkhamov, [http://www.merip.org/mer/mer222/controllable-democracy-uzbekistan "Controllable Democracy in Uzbekistan"], ''Middle East Report'', No. 222 (2002) pp. 8–10.</ref>。


2007年11月6日、[[ウズベキスタン自由民主党]]の公認を得て大統領選挙への出馬を表明し、選挙管理委員会からの承認を得たが、対立候補は「憲法に規定されている3選禁止を無視している」と批判した<ref>{{cite news|url=http://enews.ferghana.ru/article.php?id=2216|title=Islam Karimov agreed to remain the president another seven years|work=Ferghana.ru|accessdate=2007-11-13}}</ref><ref>[http://www.rferl.org/featuresarticle/2007/11/3597F25E-461B-4ED6-A905-D5FF22FA2139.html "Uzbek Election Watchdog Clears Karimov For Third Term"], Radio Free Europe/Radio Liberty, 19 November 2007.</ref><ref>Shukhrat Babajanov, [http://www.rferl.org/featuresarticle/2007/11/24d1a90d-dc50-4b5f-a423-dda940129072.html "Uzbekistan: Official Acquiescence In Karimov Presidential Bid Draws Fire"], Radio Free Europe/Radio Liberty, 21 November 2007.</ref>。12月23日の選挙では88.1%の得票を得て3選した。選挙結果は[[上海協力機構]]や[[独立国家共同体]]加盟国からは歓迎されたが、欧米諸国からは「政治的な茶番であり、真の選択肢が与えられていない」として批判を受けた<ref>[http://www.rferl.org/featuresarticle/2007/12/66c01656-b3bf-4df6-be9d-8de161c309dd.html "Uzbek Incumbent Wins Presidential Poll Without 'Genuine Choice'"], Radio Free Europe/Radio Liberty, 24 December 2007.</ref><ref>{{cite news| url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/asia/article3080265.ece | work=The Times | location=London | title=Torture an iron fist and twisted logic set stage for Islam Karimovs landslide victory | first=Tony | last=Halpin | date=2007-12-21 | accessdate=2010-05-05}}</ref><ref>[http://www.iwpr.net/?p=rca&s=f&o=341689&apc_state=henh Uzbek Leader’s Re-Election Dismissed as Charade]. Iwpr.net. Retrieved on 2012-04-04.</ref>。
1996年、[[シベリア抑留]]を受けた日本人捕虜たちが首都[[タシュケント]]に建造した[[ナヴォイ劇場]]に、その功績を称えるプレートを掲げた。


2015年3月29日、大統領選挙で90.39%の得票を得て4選<ref>{{cite web | url =http://www.theglobeandmail.com/news/world/uzbek-leader-karimov-wins-presidential-election-by-landslide/article23681588/|title=Uzbek leader Karimov wins presidential election by landslide |work=[[The Globe and Mail]]| date=30 March 2015| accessdate =30 March 2015}}</ref>。旧ソ連構成国や中国から派遣された選挙監視団は公正な選挙として評価したが、欧米諸国からは不正な選挙として批判を受けた。また、3選禁止が規定された憲法が制定されてから3度目の大統領当選となった<ref>{{cite web | url =http://www.theguardian.com/world/2015/mar/30/islam-karimov-re-elected-uzbekistans-president-in-predicted-landslide|title=Islam Karimov re-elected Uzbekistan's president in predicted landslide |work=[[The Guardian]]| date=30 March 2015| accessdate =30 March 2015}}</ref>。
2000年[[1月9日]]に3選。


==== 反イスラム政策 ====
[[2005年]][[5月13日]]、ウズベキスタン東部の[[アンディジャン]]での反政府デモを国家保安庁の力で抑えた([[アンディジャン事件]])。死亡者数は公式には170名程度、非公式情報で500名程度と言われる。
[[File:Secretary Kerry Shakes Hands With President Karimov at Samarkand International Airport in Uzbekistan (22660492822).jpg|thumb|240px|サマルカンドを訪問した[[ジョン・ケリー]]を出迎えるカリモフ(2015年)]]
カリモフは反イスラム政策を掲げ<ref>{{cite journal|author=Stuart Horsman|title=Themes in Official Discourses on Terrorism in Uzbekistan|journal=Third World Quarterly|volume=26|issue=1 |year=2005|pages=199–213|jstor=3993771|doi=10.1080/0143659042000322982}}</ref>、1995年5月にはイスラム急進派を抑えるために「宗教団体の自由と配慮に関する法律」を制定させ、[[モスク]]建設を許可制とした。1999年にカリモフ暗殺未遂事件が発生すると、イスラム教徒への抑圧を強めた<ref>Bohr, p. 64.</ref>。[[アメリカ同時多発テロ事件]]以後、ウズベキスタンは[[対テロ戦争]]におけるアメリカの戦略的同盟国と見られるようになり、[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アメリカのアフガニスタン進攻]]の際には800人のアメリカ軍を国内に受け入れサポートした<ref name=INVASION>[http://www.globalsecurity.org/military/facility/khanabad.htm Khanabad, Uzbekistan Karshi-Kanabad (K2) Airbase Camp Stronghold Freedom] Global Security</ref>。しかし、[[2005年]]5月13日に反政府デモを武力弾圧した[[アンディジャン事件]]を巡りアメリカとの関係が悪化し、カリモフはアメリカ軍に撤収するように促し、アメリカ軍は7月にウズベキスタンから撤収した<ref name=ANDIJAN>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4731411.stm US asked to leave Uzbek air base] BBC News.</ref>。


カリモフは国内のイスラム過激派[[ウズベキスタン・イスラム運動]]や{{仮リンク|ヒズブ・アッタ=ハリール|en|Hizb ut-Tahrir}}への攻撃を実施し、1991年から2004年にかけて、「イスラム過激派」として7,000人のイスラム教徒を逮捕・投獄している<ref name=IMUBOMBINGS>[http://yaleglobal.yale.edu/display.article?id=3610 Bombings and Shootings Rock Uzbekistan] Yale Global Online</ref>。これに対し、ウズベキスタン・イスラム運動は「[[ジハード]]」を呼びかけ対立が深刻化したが、2001年と2009年に両組織の指導者を殺害した<ref name=NAMANGANI>[http://hrw.org/english/docs/2000/11/17/uzbeki577.htm Latest in a Series of Show Trials Condemns Peaceful Opposition Along with Militants] Human Rights Watch</ref><ref name=YULDASHEV>[http://cns.miis.edu/research/wtc01/imu.htm Islamic Movement of Uzbekistan (IMU)] CNS.</ref>。
[[1994年]]5月、[[2002年]]7月、[[2011年]]2月に来日している。


==== 人権問題と報道規制 ====
米軍が駐留していたが、市民運動が革命に繋がらずに失敗、その結果アメリカはカリモフの怒りを買い、(アフガン作戦が一段落したこともあるが)同国から米軍を撤収させることとなった。
[[File:Vladimir Putin 4 May 2001-4.jpg|thumb|240px|left|プーチンと会談するカリモフ(2001年)]]
カリモフは、国際社会から長年にわたり人権や報道規制について批判を受けていた<ref name="US Department of State 25 February 2004">{{cite web |url= http://www.state.gov/j/drl/rls/hrrpt/2003/27873.htm|title= Uzbekistan: Country Reports on Human Rights Practices|author= |date= 25 February 2004|website= [[United States Department of State]] |publisher= U.S. Department of State: Bureau of Democracy, Human Rights, and Labor | accessdate= 2 September 2016 }}</ref>。駐ウズベキスタン英国大使を務めた{{仮リンク|クレイグ・マレー|en|Craig Murray}}は、カリモフ政権下の腐敗・宗教弾圧・検閲・拷問・殺害・誘拐などの問題を批判しており、大使退任後にはカリモフ政権の人権問題やアメリカとの関係を記した回顧録を出版している<ref>[[Craig Murray]]. ''Murder in Samarkand'', 2006, [ISBN 978-1845961947], and Dirty Diplomacy, 2007, [ISBN 978-1416548027], Scribner.</ref>。また、[[国際連合]]もカリモフ政権で拷問が行われていることを報告している<ref name=TORTURE>[http://193.194.138.190/Huridocda/Huridoca.nsf/0/29d0f1eaf87cf3eac1256ce9005a0170?Opendocument Civil and political rights, including the questions of torture and detention] United Nations Economic and Social Council</ref>。


ウズベキスタン憲法では「検閲の禁止」や「報道の自由」が明記されており、名目上は報道の自由が認められている。しかし、カリモフ政権は「説明責任」を理由に報道・出版を規制しており、検閲官を配置して政権の宣伝を実施している。報道される政府批判は全て検閲がかかり、中級レベルの指導部や官僚の批判しか許可されることはない。1990年代には外国メディアを許容する姿勢を示していたが、[[ロシア]]の放送局が減少したことに併せて欧米の放送局も次々に撤退し、以降十数年に渡り海外の出版物の出版を制限していた<ref name=hrw>Human Rights Watch, [http://www.unhcr.org/refworld/docid/3ae6a7d10.html ''Violations of Media Freedom: Journalism and Censorship in Uzbekistan''] (1 May 1996), D07.</ref>。また、「政権に対して不実である」という理由で野党の出版物も規制していた<ref>Bohr, p. 15.</ref>。
[[2007年]]から2012年まで毎年8%以上の[[国内総生産|GDP]]成長率を達成するなど、経済専門家らしく経済運営において優れた面を見せている<ref>{{cite web|url=http://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.MKTP.KD.ZG|title=GDP growth (annual %)|publisher=The World Bank|accessdate=2012-02-17}}</ref>。


=== 死去 ===
[[2016年]]8月27日、カリモフが脳出血のため集中治療室で治療を受けていることを次女の[[ローラ・カリモヴァ]]が明らかにした<ref>{{cite web|url=http://this.kiji.is/142979730287132673|title=ウズベク大統領「脳出血」ICUで治療と次女||publisher=共同通信社|accessdate=2016-8-29}}</ref>。その後、カリモフが8月29日に死亡したとの未確認情報が地元メディアなどに報じられ錯綜が<ref>{{Cite news|url=https://www.theguardian.com/world/2016/aug/30/rumours-uzbek-president-islam-karimov-death-questions-succession|title=Rumours of Uzbek president's death raise questions over succession|work=The Guardian|publisher=[[ガーディアン]]|date=2016-08-30|accessdate=2016-09-02}}</ref>9月2日に脳出血のため死去したとの報道が、ウズベキスタン政府による公式な確認を得られないまま駆け巡った<ref>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/uzbekistan-president-idJPKCN1180ZN|title=カリモフ・ウズベク大統領が死去=外交筋|work=ロイター|publisher=[[ロイター]]|date=2016-09-02|accessdate=2016-09-02}}</ref>。ウズベキスタン政府は2日の日中の段階では「重体」であるとしていたが、同日20時55分(日本時間3日0時55分)にカリモフが死去したことを、国営テレビを介して公式に発表した<ref>{{Cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3099630|title=カリモフ大統領死去、ウズベク政府が正式発表
{{Multiple image
|work=AFP通信|publisher=[[AFP通信]]|date=2016-09-03|accessdate=2016-09-03}}</ref>。満78歳没。
|direction = vertical
|width = 240
|image1 = Похороны Ислама Каримова.jpg
|caption1 = カリモフの葬列に集まるタシュケント市民(2016年)
|image2 = Vladimir Putin in Uzbekistan (2016-09-06) 04.jpg
|caption2 = カリモフの墓を訪れるプーチンと[[シャヴカト・ミルズィヤエフ]](2016年)
}}
カリモフの健康問題は政府によって厳重に報道規制が敷かれており、2013年3月に心臓発作を起こしたと報道された際には「事実無根」であると発表していた<ref>{{cite news|last1=Abdurasulov|first1=Abdujalil|title=Uzbekistan opens up on president's health – BBC News|url=http://www.bbc.com/news/world-asia-37212624|accessdate=1 September 2016|publisher=BBC News|date=29 August 2016}}</ref><ref>{{cite news|last1=Kramer|first1=Andrew E.|title=Rumors About Uzbekistan Leader’s Health Set Off Succession Debate|url=http://www.nytimes.com/2013/04/07/world/asia/rumors-set-off-succession-debate-in-uzbekistan.html|accessdate=1 September 2016|work=The New York Times|date=6 April 2013}}</ref><ref>{{cite news|title=Daughter of Uzbek leader tweets to deny health reports|url=http://www.reuters.com/article/us-uzbekistan-karimov-idUSBRE92P0NP20130326|accessdate=1 September 2016|agency=Reuters|date=26 March 2013}}</ref>。


[[2016年]]8月27日、カリモフが脳出血のため集中治療室で治療を受けていることを次女の[[ローラ・カリモヴァ]]が明らかにした<ref>{{cite web|url=http://this.kiji.is/142979730287132673|title=ウズベク大統領「脳出血」ICUで治療と次女||publisher=共同通信社|accessdate=2016-8-29}}</ref>。カリモフは一時心停止状態に陥ったが、20分後に回復し、人工呼吸器を取り付けられた<ref name="govreport">{{cite web|title=Медицинское заключение о болезни и причине смерти Ислама Абдуганиевича Каримова |trans-title=Medical report on the illness and cause of death of Islam Karimov|url=https://www.gov.uz/ru/news/view/7168|publisher=Government of the Republic of Uzbekistan|accessdate=3 September 2016|language=ru}}</ref>。公式の医療報告書によると、ウズベキスタン政府は27日から28日にかけてモナコ心胸郭センター所長、[[ヘルシンキ大学]]神経外科名誉教授、ハノーファー国際神経科学研究所長、ハイデルベルク大学病院教授、モスクワ州立医科大学心臓血管外科部長にカリモフの病状について相談している<ref name="govreport"/>。
== 人物 ==
[[サマルカンド]]出身。妻帯、2女([[グリナラ・カリモヴァ|グリナラ]]、[[ローラ・カリモヴァ|ローラ]])と3人の孫を有する。妻のタチヤーナは[[経済学者]]で、共和国科学アカデミー経済研究所科学職員である。


その後、カリモフが8月29日に死亡したとの未確認情報が地元メディアなどに報じられ、9月1日の独立25周年のテレビ放送では政府報道官がカリモフの演説を代読、ローラ国民に父の回復を祈るように懇願した<ref>{{Cite news|url=https://www.theguardian.com/world/2016/aug/30/rumours-uzbek-president-islam-karimov-death-questions-succession|title=Rumours of Uzbek president's death raise questions over succession|work=The Guardian|publisher=[[ガーディアン]]|date=2016-08-30|accessdate=2016-09-02}}</ref><ref name="bbc192016">{{cite news|title=Uzbek President Islam Karimov's independence day speech read out on TV – BBC News|url=http://www.bbc.com/news/world-asia-37239677|accessdate=1 September 2016|publisher=BBC News|date=1 September 2016}}</ref>。9月2日に脳出血のため死去したとの報道が、ウズベキスタン政府による公式な確認を得られないまま駆け巡った<ref>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/uzbekistan-president-idJPKCN1180ZN|title=カリモフ・ウズベク大統領が死去=外交筋|work=ロイター|publisher=[[ロイター]]|date=2016-09-02|accessdate=2016-09-02}}</ref>。ウズベキスタン政府は2日の日中の段階では「重体」であるとしていたが、同日20時55分(日本時間3日0時55分)にカリモフが死去したことを、国営テレビを介して公式に発表した<ref>{{Cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3099630|title=カリモフ大統領死去、ウズベク政府が正式発表
中央アジア工科大学(1960年、機械技師専攻)、タシケント人民経済大学([[1967年]]、経済学専攻)を卒業。経済科学準博士。[[ウズベキスタン科学アカデミー]]会員。
|work=AFP通信|publisher=[[AFP通信]]|date=2016-09-03|accessdate=2016-09-03}}</ref>。死去に際し、[[バラク・オバマ]]、[[ウラジーミル・プーチン]]、[[習近平]]ら各国首脳が哀悼の意を表した他、[[イルハム・アリエフ]]、[[ライモンツ・ヴェーヨニス]]、[[ナワーズ・シャリーフ]]、[[李克強]]がウズベキスタン大使館を訪れ記帳した<ref>http://uzdaily.com/articles-id-36817.htm</ref><ref>http://uzdaily.com/articles-id-36819.htm</ref><ref>Xinhua:Chinese premier mourns passing of Uzbek president</ref><ref>http://www.app.com.pk/wp-content/uploads/2016/09/APP79-05PM-Islamabad.jpg</ref>。


カリモフの葬儀は9月3日に執り行われた。死没地のタシュケントでは数千人の市民が集まり葬列に花を手向けたが、遺体は死去の公式発表前にタシュケントからサマルカンドに移送されていた<ref>{{cite news|title=Uzbekistan Mourns Karimov|url=http://www.voanews.com/a/uzbekistan-karimov/3490984.html|accessdate=3 September 2016|publisher=Voice of America|date=3 September 2016}}</ref>。葬儀はサマルカンドの[[レギスタン広場]]で執り行われ、[[シャーヒ・ズィンダ廟群]]にある母と兄弟の墓の隣に埋葬された<ref name="afp1694">{{Cite web | url = http://www.afpbb.com/articles/-/3099710| title = 「最も残酷な独裁者の一人」カリモフ大統領、埋葬される ウズベク| publisher = AFP| date = 2016-09-04| accessdate = 2016-09-04}}</ref>。葬儀には[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]、[[アシュラフ・ガニー]]、[[グルバングル・ベルディムハメドフ]]、[[エモマリ・ラフモン]]、[[カリム・マシモフ]]、{{仮リンク|ソーロンバイ・ジェーンベコフ|en|Sooronbay Jeenbekov}}、{{仮リンク|ムハンマド・ジャヴァード・ザリーフ|en|Mohammad Javad Zarif}}ら17か国の代表が参列した<ref name="afp1694"/><ref>{{cite news|title=Strongman Uzbek leader Karimov buried|url=http://www.channelnewsasia.com/news/world/uzbekistan-buries-late-strongman-karimov/3097266.html|accessdate=3 September 2016|publisher=Channel News Asia|date=3 September 2016}}</ref><ref>{{cite news|title=Uzbeks Bury Late Strongman Karimov|url=http://www.rferl.org/content/thousands-line-tashkent-streets-for-karimov-funeral/27964688.html|accessdate=3 September 2016|agency=Radio Free Europe|date=9 March 2016|language=English}}</ref><ref>{{cite news|title=Zarif attends Islam Karimov funeral|url=http://www.tehrantimes.com/news/406049/Zarif-attends-Islam-Karimov-funeral|accessdate=4 September 2016|work=Tehran Times|date=3 September 2016}}</ref>。また、9月5日には[[キューバ]]がカリモフの死去について服喪することを決定した<ref>{{cite web|url=https://www.uzdaily.com/articles-id-36808.htm|title=Cuba declares mourning over death of Islam Karimov|first=|last=UzDaily.com|accessdate=2016-09-10}}</ref>他、6日にはプーチンが弔問のためウズベキスタンを訪れ、タチヤーナとローラと会談して哀悼の意を表した<ref>{{cite web|url=http://kremlin.ru/events/president/news/52838|title=Визит в Узбекистан|accessdate=2016-09-10}}</ref>。
ウズベキストン・カフラマニ(ウズベキスタン英雄)の称号とオルティン・ユルドゥズ(金星)勲章を有する。


== 家族 ==
読書とテニスが趣味。
[[File:Korea-Uzbekistan summit in Seoul, Feb 2010 (4350756636).jpg|thumb|240px|[[李明博]]夫妻とカリモフ夫妻(2010年)]]
父は[[ウズベク|ウズベク人]]、母は[[タジク人]]とされているが、父は[[ユダヤ人]]という説もあり詳細は不明となっている。1964年にナターリア・ペトローヴナ・クチミと結婚し息子ピョートルをもうけるが、後に離婚している<ref>{{cite news|author1=Bruce Pannier|title=Orphaned Dictator: The Making Of Uzbekistan's Islam Karimov|url=http://www.rferl.org/content/the-making-of-islam-karimov-uzbekistan/26917396.html|accessdate=3 April 2015|work=[[Radio Free Europe/Radio Liberty]]|date=24 March 2015}}</ref>。1967年に経済学者・共和国科学アカデミー経済研究所科学職員の{{仮リンク|タチヤーナ・カリモヴァ|en|Tatyana Karimova|label=タチヤーナ・ソビロヴァ}}と結婚し、2女([[グリナラ・カリモヴァ|グリナラ]]、[[ローラ・カリモヴァ|ローラ]])と5人の孫を有する<ref>[http://www.nndb.com/people/811/000044679/ Karimov's wife, T.A. Karimova]. Nndb.com. Retrieved on 2012-04-04.</ref><ref name=FAMILY>[http://www.gov.uz/en/section.scm?sectionId=1746 Biography] Government of Uzbekistan</ref>。

長女グリナラは外交官・実業家として活動していたが、父と対立したため2014年2月以降は汚職の罪により軟禁状態に置かれているとされている<ref>{{cite news|url=http://www.theguardian.com/world/2015/mar/24/gulnara-uzbekistan-daughter-corruption|work=The Guardian|title= Uzbekistan's first daughter accused of pocketing $1bn in phone deals |date=24 March 2015|author=Joanna Lillis}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.theguardian.com/world/2014/sep/08/uzbekistan-gulnara-karimova-faces-corruption-charges|title= Uzbekistan's autocratic ruler may have found a way to silence his daughter |date=8 September 2014|author=Joanna Lillis|work=The Guardian}}</ref>。次女ローラも実業家であり、ウズベキスタンでは子供の権利やスポーツ振興に関する活動家として知られている<ref>[http://www.lolakarimova.com Lola Karimova-Tillyaeva:] official web site. Retrieved on 10 April 2009.</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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2016年10月7日 (金) 15:57時点における版

イスラム・アブドゥガニエヴィッチ・カリモフ
Islom Abdug‘aniyevich Karimov


任期 1991年9月1日2016年9月2日
副大統領 シュクルッラ・ミルサイドフ
1991年 - 1992年
首相 アブドゥルハシム・ムタロフ1992年 - 1995年
ウトキル・スルタノフ1995年 - 2003年
シャヴカト・ミルズィヤエフ2003年 - )

任期 1990年3月24日 – 1991年9月1日
首相 シュクルッラ・ミルサイドフ

任期 1989年6月23日 – 1991年12月29日

出生 1938年1月30日
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ウズベク・ソビエト社会主義共和国 サマルカンド
死去 (2016-09-02) 2016年9月2日(78歳没)
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン タシュケント
政党 ウズベキスタン共産党→)
ウズベキスタン人民民主党→)
ウズベキスタン自由民主党
配偶者 ナターリア・ペトローヴナ・クチミ(1964年 - 1960年代)
タチヤーナ・カリモヴァ英語版(1967年 - 2016年)
子女 グリナラ・カリモヴァ
ローラ・カリモヴァ
署名

イスラム・アブドゥガニエヴィッチ・カリモフウズベク語: Islom Abdug‘aniyevich Karimov英語: Islam Abduganievich Karimov1938年1月30日 - 2016年9月2日)は、ウズベキスタンの政治家。1991年の独立以来、25年にわたって同国の初代大統領を務めた。ウズベキスタン自由民主党党首。

人権問題や報道規制などの問題により欧米諸国からは独裁者として批判を受け、パレード誌英語版に「世界最悪の独裁者」の一人に選ばれていたが、2007年から2012年まで毎年8%以上のGDP成長率を達成するなど、優れた指導者としての一面を見せている[1][2]

経歴

ソ連時代

世界経済フォーラム年次総会でのカリモフ(右から2人目、1992年)

1938年1月30日、サマルカンドで生まれる。1941年に孤児院に入れられ、翌1942年に家に戻るが、1945年に再び孤児院に入れられる。1955年に高校を卒業し、1960年に中央アジア工科大学(現在のタシュケント国立工科大学英語版)を卒業し、機械工学の学位を取得した[3]。卒業後は水資源省にエンジニアとして入省し、1967年にタシュケント州立大学で経済学の修士号を取得した[3]

1961年から1966年まで、V.P.チカロフ名称タシケント航空生産公団の技師。1964年ウズベキスタン共産党に入党。1966年から1983年までゴスプランの主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長を歴任した[3]。1983年からウズベク共和国の財務大臣1986年から副首相兼ゴスプラン議長を歴任[3]。1986年カシュカダリヤ州の共産党第一書記、1989年6月からウズベキスタン共産党中央委員会第一書記。1990年から1991年までソ連共産党中央委員会委員、政治局員、第12期ソ連最高会議代議員を歴任した。

ウズベキスタン大統領

大統領選挙

CSTO加盟国首脳会議でのカリモフ(右から2人目、2010年)

1990年3月24日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領に就任[3]ソ連8月クーデター失敗後の1991年9月1日にウズベキスタンの独立を宣言し、ウズベキスタン共産党をウズベキスタン人民民主党に改称した。ソ連崩壊後の12月29日にウズベキスタン大統領選挙で当選。1995年3月26日に国民投票を実施し、任期を2000年まで延長した。2000年1月9日の大統領選挙では91.9%の得票を得て再選したが、選挙では白票や棄権票が「カリモフに投票した」と見なされるなど公正さに疑問があり、アメリカ合衆国からは「真の自由で公正な選挙とは言えず、ウズベク国民には選択肢が与えられていなかった」と批判を受けた[4][5]

2007年11月6日、ウズベキスタン自由民主党の公認を得て大統領選挙への出馬を表明し、選挙管理委員会からの承認を得たが、対立候補は「憲法に規定されている3選禁止を無視している」と批判した[6][7][8]。12月23日の選挙では88.1%の得票を得て3選した。選挙結果は上海協力機構独立国家共同体加盟国からは歓迎されたが、欧米諸国からは「政治的な茶番であり、真の選択肢が与えられていない」として批判を受けた[9][10][11]

2015年3月29日、大統領選挙で90.39%の得票を得て4選[12]。旧ソ連構成国や中国から派遣された選挙監視団は公正な選挙として評価したが、欧米諸国からは不正な選挙として批判を受けた。また、3選禁止が規定された憲法が制定されてから3度目の大統領当選となった[13]

反イスラム政策

サマルカンドを訪問したジョン・ケリーを出迎えるカリモフ(2015年)

カリモフは反イスラム政策を掲げ[14]、1995年5月にはイスラム急進派を抑えるために「宗教団体の自由と配慮に関する法律」を制定させ、モスク建設を許可制とした。1999年にカリモフ暗殺未遂事件が発生すると、イスラム教徒への抑圧を強めた[15]アメリカ同時多発テロ事件以後、ウズベキスタンは対テロ戦争におけるアメリカの戦略的同盟国と見られるようになり、アメリカのアフガニスタン進攻の際には800人のアメリカ軍を国内に受け入れサポートした[16]。しかし、2005年5月13日に反政府デモを武力弾圧したアンディジャン事件を巡りアメリカとの関係が悪化し、カリモフはアメリカ軍に撤収するように促し、アメリカ軍は7月にウズベキスタンから撤収した[17]

カリモフは国内のイスラム過激派ウズベキスタン・イスラム運動ヒズブ・アッタ=ハリール英語版への攻撃を実施し、1991年から2004年にかけて、「イスラム過激派」として7,000人のイスラム教徒を逮捕・投獄している[18]。これに対し、ウズベキスタン・イスラム運動は「ジハード」を呼びかけ対立が深刻化したが、2001年と2009年に両組織の指導者を殺害した[19][20]

人権問題と報道規制

プーチンと会談するカリモフ(2001年)

カリモフは、国際社会から長年にわたり人権や報道規制について批判を受けていた[21]。駐ウズベキスタン英国大使を務めたクレイグ・マレー英語版は、カリモフ政権下の腐敗・宗教弾圧・検閲・拷問・殺害・誘拐などの問題を批判しており、大使退任後にはカリモフ政権の人権問題やアメリカとの関係を記した回顧録を出版している[22]。また、国際連合もカリモフ政権で拷問が行われていることを報告している[23]

ウズベキスタン憲法では「検閲の禁止」や「報道の自由」が明記されており、名目上は報道の自由が認められている。しかし、カリモフ政権は「説明責任」を理由に報道・出版を規制しており、検閲官を配置して政権の宣伝を実施している。報道される政府批判は全て検閲がかかり、中級レベルの指導部や官僚の批判しか許可されることはない。1990年代には外国メディアを許容する姿勢を示していたが、ロシアの放送局が減少したことに併せて欧米の放送局も次々に撤退し、以降十数年に渡り海外の出版物の出版を制限していた[24]。また、「政権に対して不実である」という理由で野党の出版物も規制していた[25]

死去

カリモフの葬列に集まるタシュケント市民(2016年)
カリモフの墓を訪れるプーチンとシャヴカト・ミルズィヤエフ(2016年)

カリモフの健康問題は政府によって厳重に報道規制が敷かれており、2013年3月に心臓発作を起こしたと報道された際には「事実無根」であると発表していた[26][27][28]

2016年8月27日、カリモフが脳出血のため集中治療室で治療を受けていることを次女のローラ・カリモヴァが明らかにした[29]。カリモフは一時心停止状態に陥ったが、20分後に回復し、人工呼吸器を取り付けられた[30]。公式の医療報告書によると、ウズベキスタン政府は27日から28日にかけてモナコ心胸郭センター所長、ヘルシンキ大学神経外科名誉教授、ハノーファー国際神経科学研究所長、ハイデルベルク大学病院教授、モスクワ州立医科大学心臓血管外科部長にカリモフの病状について相談している[30]

その後、カリモフが8月29日に死亡したとの未確認情報が地元メディアなどに報じられ、9月1日の独立25周年のテレビ放送では政府報道官がカリモフの演説を代読し、ローラが国民に父の回復を祈るように懇願した[31][32]。9月2日に脳出血のため死去したとの報道が、ウズベキスタン政府による公式な確認を得られないまま駆け巡った[33]。ウズベキスタン政府は2日の日中の段階では「重体」であるとしていたが、同日20時55分(日本時間3日0時55分)にカリモフが死去したことを、国営テレビを介して公式に発表した[34]。死去に際し、バラク・オバマウラジーミル・プーチン習近平ら各国首脳が哀悼の意を表した他、イルハム・アリエフライモンツ・ヴェーヨニスナワーズ・シャリーフ李克強がウズベキスタン大使館を訪れ記帳した[35][36][37][38]

カリモフの葬儀は9月3日に執り行われた。死没地のタシュケントでは数千人の市民が集まり葬列に花を手向けたが、遺体は死去の公式発表前にタシュケントからサマルカンドに移送されていた[39]。葬儀はサマルカンドのレギスタン広場で執り行われ、シャーヒ・ズィンダ廟群にある母と兄弟の墓の隣に埋葬された[40]。葬儀にはドミートリー・メドヴェージェフアシュラフ・ガニーグルバングル・ベルディムハメドフエモマリ・ラフモンカリム・マシモフソーロンバイ・ジェーンベコフムハンマド・ジャヴァード・ザリーフ英語版ら17か国の代表が参列した[40][41][42][43]。また、9月5日にはキューバがカリモフの死去について服喪することを決定した[44]他、6日にはプーチンが弔問のためウズベキスタンを訪れ、タチヤーナとローラと会談して哀悼の意を表した[45]

家族

李明博夫妻とカリモフ夫妻(2010年)

父はウズベク人、母はタジク人とされているが、父はユダヤ人という説もあり詳細は不明となっている。1964年にナターリア・ペトローヴナ・クチミと結婚し息子ピョートルをもうけるが、後に離婚している[46]。1967年に経済学者・共和国科学アカデミー経済研究所科学職員のタチヤーナ・ソビロヴァ英語版と結婚し、2女(グリナラローラ)と5人の孫を有する[47][48]

長女グリナラは外交官・実業家として活動していたが、父と対立したため2014年2月以降は汚職の罪により軟禁状態に置かれているとされている[49][50]。次女ローラも実業家であり、ウズベキスタンでは子供の権利やスポーツ振興に関する活動家として知られている[51]

脚注

  1. ^ The World's Worst Dictators-2007. Parade.com. Retrieved on 2012-04-04.
  2. ^ GDP growth (annual %)”. The World Bank. 2012年2月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e “Биография Ислама Каримова” (ロシア語). Echo Moscow. (2 September 2016). http://m.echo.msk.ru/blogs/detail.php?ID=1828908 2 September 2016閲覧。 
  4. ^ US slams Uzbek election as unfree, unfair and laughable EurasiaNet
  5. ^ Alisher Ilkhamov, "Controllable Democracy in Uzbekistan", Middle East Report, No. 222 (2002) pp. 8–10.
  6. ^ “Islam Karimov agreed to remain the president another seven years”. Ferghana.ru. http://enews.ferghana.ru/article.php?id=2216 2007年11月13日閲覧。 
  7. ^ "Uzbek Election Watchdog Clears Karimov For Third Term", Radio Free Europe/Radio Liberty, 19 November 2007.
  8. ^ Shukhrat Babajanov, "Uzbekistan: Official Acquiescence In Karimov Presidential Bid Draws Fire", Radio Free Europe/Radio Liberty, 21 November 2007.
  9. ^ "Uzbek Incumbent Wins Presidential Poll Without 'Genuine Choice'", Radio Free Europe/Radio Liberty, 24 December 2007.
  10. ^ Halpin, Tony (2007年12月21日). “Torture an iron fist and twisted logic set stage for Islam Karimovs landslide victory”. The Times (London). http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/asia/article3080265.ece 2010年5月5日閲覧。 
  11. ^ Uzbek Leader’s Re-Election Dismissed as Charade. Iwpr.net. Retrieved on 2012-04-04.
  12. ^ Uzbek leader Karimov wins presidential election by landslide”. The Globe and Mail (30 March 2015). 30 March 2015閲覧。
  13. ^ Islam Karimov re-elected Uzbekistan's president in predicted landslide”. The Guardian (30 March 2015). 30 March 2015閲覧。
  14. ^ Stuart Horsman (2005). “Themes in Official Discourses on Terrorism in Uzbekistan”. Third World Quarterly 26 (1): 199–213. doi:10.1080/0143659042000322982. JSTOR 3993771. 
  15. ^ Bohr, p. 64.
  16. ^ Khanabad, Uzbekistan Karshi-Kanabad (K2) Airbase Camp Stronghold Freedom Global Security
  17. ^ US asked to leave Uzbek air base BBC News.
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  19. ^ Latest in a Series of Show Trials Condemns Peaceful Opposition Along with Militants Human Rights Watch
  20. ^ Islamic Movement of Uzbekistan (IMU) CNS.
  21. ^ Uzbekistan: Country Reports on Human Rights Practices”. United States Department of State. U.S. Department of State: Bureau of Democracy, Human Rights, and Labor (25 February 2004). 2 September 2016閲覧。
  22. ^ Craig Murray. Murder in Samarkand, 2006, [ISBN 978-1845961947], and Dirty Diplomacy, 2007, [ISBN 978-1416548027], Scribner.
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  24. ^ Human Rights Watch, Violations of Media Freedom: Journalism and Censorship in Uzbekistan (1 May 1996), D07.
  25. ^ Bohr, p. 15.
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外部リンク

公職
先代
独立
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン大統領
初代:1991年 - 2016年
次代
ニグマティラ・ユルダシェフ英語版
(大統領代行・上院議長)
先代
設置
ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領
初代:1990年 - 1991年
次代
廃止
党職
先代
設置
ウズベキスタン自由民主党党首
2007年 - 2016年
次代
-
先代
設置
ウズベキスタン人民民主党党首
1991年 - 2007年
次代
ハタムツォン・キトモノフ
先代
ラフィク・ニシャノフ
ウズベキスタン共産党第一書記
1989年 - 1991年
次代
解党