「フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)」の版間の差分
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| 死亡日 = 1467年6月15日 |
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'''フィリップ3世'''('''Philippe III''', [[1396年]][[7月31日]] - [[1467年]][[6月15日]])は、[[ヴァロワ=ブルゴーニュ家]]の第3代[[ブルゴーニュ公 |
'''フィリップ3世'''('''Philippe III''', [[1396年]][[7月31日]] - [[1467年]][[6月15日]])は、[[ヴァロワ=ブルゴーニュ家]]の第3代[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]][[ブルゴーニュ公一覧|公]](在位:[[1419年]] - [[1467年]])。[[ブラバント公国|ブラバント]][[ブラバント公|公]](在位:[[1430年]] - 1467年)、[[エノー伯]]・[[ホラント伯]]・[[ゼーラント伯]](在位:[[1432年]] - 1467年)、[[ルクセンブルク]][[ルクセンブルク君主一覧|公]](在位:[[1443年]] - 1467年)でもあった。「'''善良公'''」(''le Bon'')と呼ばれる。[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)と妃で[[バイエルン大公|下バイエルン=シュトラウビング公]]・エノー伯・ホラント伯・ゼーラント伯[[アルブレヒト1世 (バイエルン公)|アルブレヒト1世]]の娘[[マルグリット・ド・バヴィエール]]の長男。 |
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[[イングランド王国|イングランド]]と[[フランス王国|フランス]]が死闘を繰り広げる[[百年戦争]]において、初めはイングランドの同盟者でありながらほとんど手を貸さず独自に領土拡大政策を進め、フランスが反撃を開始すると徐々にフランスへ接近、やがてイングランドから離れてフランスと和睦、百年戦争がフランス優位になる転換点を作った。 |
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[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)と妃[[マルグリット・ド・バヴィエール]]の長男。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== イングランドの同盟者 === |
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幼少期の[[1403年]]、祖父のブルゴーニュ公[[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ2世]](豪胆公)の意向で[[フランス君主一覧|フランス王]][[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]の娘で[[はとこ|又従姉]]に当たる[[ミシェル・ド・フランス]]と婚約、合わせて姉[[マルグリット・ド・ブルゴーニュ (1393-1442)|マルグリット]]とミシェルの弟の[[ルイ・ド・ギュイエンヌ|ルイ]]の婚約も決められた。[[1415年]]、イングランド軍がフランス遠征を開始すると父の命令で[[アルトワ]]防衛に向かったが、当時父が率いる[[ブルゴーニュ派]]と対立していた[[アルマニャック派]]が単独でイングランド軍に戦闘を挑み[[アジャンクールの戦い]]で大敗、父から参戦を禁じられていた善良公はこの戦いに加勢しなかったことを後悔している<ref>エチュヴェリー、P89、清水、P70 - P71、P97 - P98、カルメット、P98、P168。</ref>。 |
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しかし、[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で王太子が[[戴冠式]]を行って[[フランス王]]シャルル7世を称する頃になると形勢は逆転し始めた。[[1430年]]に、フィリップ3世は王太子側の[[ジャンヌ・ダルク]]を捕らえてイングランド軍に引き渡したが、翌[[1431年]]にはフランス王家と休戦、[[1435年]]には[[アラスの和平]]でフランス王家と講和した。これにより、百年戦争はフランスの勝利へと向かうことになる。 |
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[[1422年]]にヘンリー5世とシャルル6世が相次いで亡くなり、ヘンリー5世の遺児で幼少の[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]が即位すると、ブルゴーニュはイングランドの同盟相手として丁重に扱われた。翌[[1423年]]には政略結婚で両国の関係は強化され、善良公の妹[[アンヌ・ド・ブルゴーニュ (1404-1432)|アンヌ]]と姉マルグリット(ルイ亡き後未亡人となっていた)はそれぞれヘンリー6世の叔父[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]と[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[ジャン5世 (ブルターニュ公)|ジャン5世]]の弟[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]に嫁いだ。一方、善良公は[[1421年]]に[[ナミュール]]を譲られる契約を結び([[1429年]]に領有)、1422年に最初の妻ミシェルに先立たれると[[1424年]]に[[ボンヌ・ダルトワ]]と再婚している(しかし、翌[[1425年]]にボンヌは死去)<ref>堀越、P106 - P110、P135、エチュヴェリー、P111 - P113、P115 - P117、P127、清水、P110 - P111、P116 - P118、カルメット、P199 - P211、P465、城戸、P129 - P136、P256。</ref>。 |
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=== フランスに接近、離反へ === |
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だが、善良公はフランス戦線に無関心で、北の[[ブルゴーニュ領ネーデルラント|ネーデルラント]]獲得を目指していたが、そのネーデルラントを巡り紛争が起こった。ベッドフォード公の弟の[[グロスター公]][[ハンフリー・オブ・ランカスター|ハンフリー]]が1422年に善良公の従妹に当たるエノー・ホラント・ゼーラント女伯[[ジャクリーヌ・ド・エノー]]と結婚したことを根拠に1424年にネーデルラントへ出兵したため、憤慨した善良公は迎撃に向かい、イングランドとブルゴーニュの同盟にヒビが入った。事態を危ぶんだベッドフォード公が仲介したが紛争は収まらず、翌1425年1月にジャクリーヌと善良公の叔父でジャクリーヌと対立していた[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ヨハン3世 (バイエルン公)|ヨハン3世]]が善良公を相続人に指名して亡くなると、それを口実に善良公はエノーに駐屯していたグロスター公の手勢を打ち破りジャクリーヌを捕らえてネーデルラントで優位に立った。 |
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[[1428年]]にグロスター公が介入を諦め、ジャクリーヌが善良公に3伯領の支配を委ねることで事態は解決したが、善良公はイングランドに不信を抱くようになった。この後、1432年にジャクリーヌが善良公へ反逆を企て、それが失敗に終わると3伯領を全て明け渡し引退、1430年に従弟のブラバント公兼[[サン=ポル伯]][[フィリップ・ド・サン=ポル|フィリップ]]が急死したことも相まって、ネーデルラントの大部分を手に入れた善良公の所領は大幅に拡大した<ref>堀越、P132 - P135、清水、P118 - P119、カルメット、P211 - P219、城戸、P256 - P262。</ref>。 |
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一方、王太子の姑[[ヨランド・ダラゴン]]が善良公に接触すると徐々にフランスへ歩み寄るようになり、1424年9月に王太子と善良公は休戦協定を結び、善良公は王太子をフランス王と認め両者の和睦に一歩近付いた。リッシュモンが王太子の側近になり父の暗殺犯などアルマニャック派の強硬派を処罰したため進展したと思われたが、王太子の寵臣[[ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ]]と対立して1428年に宮廷から追い出され、ブルゴーニュとフランスの交渉も中断された。このような状況を見て取ったベッドフォード公は同年10月から[[オルレアン包囲戦]]を敢行、ブルゴーニュを戦争に引きずり込もうとした<ref>堀越、P135 - P140、エチュヴェリー、P133、P149 - P150、P161 - P162、清水、P121 - P124、カルメット、P219 - P221、城戸、P263、</ref>。 |
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しかし、[[1429年]]5月に[[ジャンヌ・ダルク]]がオルレアンでイングランド軍の包囲網を破り、6月に[[パテーの戦い]]でオルレアン周辺のイングランド軍が掃討され、7月に[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で王太子が[[戴冠式]]を行ってフランス王シャルル7世を称する頃になると形勢は逆転し始めた。善良公はシャルル7世が派遣した使節と交渉して8月に再び休戦を誓い、将来の和睦に向けた予備交渉まで定め、フランスと争うつもりがないことを表明した<ref>堀越、P151 - P155、清水、P205 - P206、P208 - P209、P217 - P220、P225 - P226。</ref>。 |
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一向に協力しない善良公に苛立ったベッドフォード公は1430年5月に[[コンピエーニュ包囲戦]]を実行、善良公もイングランドの顔を立てるため参戦したが、戦いは敗北に終わり、善良公の配下のリニー伯[[ジャン2世・ド・リュクサンブール (リニー伯)|ジャン2世]]はジャンヌを捕らえてイングランド軍に引き渡したが、翌[[1431年]]にはフランスと休戦する一方、同年12月にベッドフォード公が[[パリ]]で挙行したヘンリー6世のフランス王戴冠式にも欠席して一層イングランド離れを進めていった。1430年1月に善良公がベッドフォード公の従妹に当たる[[イザベル・ド・ポルテュガル]]と3度目の結婚をしても両者の溝は埋まらず、1432年にアンヌが亡くなり翌[[1433年]]にベッドフォード公が[[ジャケット・ド・リュクサンブール]]と再婚したことで疎遠になっていった<ref>堀越、P174 - P182、清水、P244 - P245、P250 - P272、P348 - P349、カルメット、P221 - P226、城戸、P263 - P265、n81。</ref>。 |
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1432年にリッシュモンがフランス宮廷に復帰、1433年にリッシュモンと対立したラ・トレモイユが追放されるとフランスはブルゴーニュとの和睦に傾き、善良公もこれに応じ[[1434年]]12月から[[1435年]]2月にかけて[[ヌヴェール]]で交渉して1429年の予備交渉で決めた和睦条件を調整、7月からイングランドも加えて[[アラス]]で行われた講和会議でイングランドが離脱すると、フランス・ブルゴーニュ間で交渉が纏まり、[[9月21日]]に{{仮リンク|アラスの和約 (1435年)|en|Treaty of Arras (1435)|label=アラスの和約}}でフランス王家と講和した。これにより、百年戦争はフランスの勝利へと向かうことになる。なお、ベッドフォード公は和約の1週間前の[[9月14日]]に死去している<ref>堀越、P218 - P219、清水、P351 - P359、カルメット、P226 - P231、城戸、P246 - P253。</ref>。 |
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=== ベネルクスの領有 === |
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和約によりフランスと友好関係が築かれたが、イングランドにとっては裏切りでしかなく、報復としてフランドル商人の弾圧、商船の襲撃などを行い、対する善良公も[[1437年]]にイングランド領の[[カレー (フランス)|カレー]]を包囲したが失敗、逆に[[ブルッヘ|ブリュージュ]]・[[ヘント]]などが蜂起して足元が揺らいだため、都市の反乱を平定した後の[[1439年]]9月にイングランドと休戦協定を結び、通商関係も回復して事無きを得た。 |
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背後を固めた善良公は再びネーデルラントへ目を向け、ルクセンブルクへ狙いを定めた。この地は[[ロレーヌ公国]]と共に2つに分かれた善良公の領国(北のネーデルラント・南のブルゴーニュ)の連結を果たしていたため必要だったが、代々の領主が金に困り転売を繰り返していた土地だった。[[1441年]]に善良公は領主[[エリーザベト・フォン・ゲルリッツ]]と協定を交わして抵当権を手に入れたが、同名の従妹[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク]]が所有権を持っていたため彼女の娘[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)|アンナ]]の夫[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]][[ヴィルヘルム3世 (テューリンゲン方伯)|ヴィルヘルム3世]]が所有権を主張して1443年に戦争となった。善良公は武力でルクセンブルクを占領して実質的に領主となり、ヴィルヘルム3世と交渉して彼が主張を放棄した[[1461年]]に正式にルクセンブルクの領主と認められ、[[ベネルクス]]3国は善良公が領有した<ref>トラウシュ、P42 - P45、カルメット、P231 - P237。</ref>。 |
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こうしてフランス東部とドイツ西部の境目に連なる領土を手に入れた善良公は以後も外交活動を継続、[[1453年]]にヘントの再度の反乱を鎮圧、[[リエージュ司教領]]の人事に介入して甥のルイ・ド・ブルボン(妹[[アニェス・ド・ブルゴーニュ (1407-1476)|アニェス]]と[[ブルボン公]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の子)を司教に就任させ、[[オスマン帝国]]に対する[[十字軍]]提唱(実行されず)、1456年にシャルル7世との仲が悪化した王太子ルイ(後の[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]])のブラバント迎え入れも行っている。ただし晩年には老齢から指導力が衰え、息子[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]]と家臣のクロワ一族が対立、それに乗じてルイ11世がアラスの和約でブルゴーニュに渡った[[ソンム川]]の土地を買い戻すなど失敗が続いている。 |
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1467年に70歳で死去、後をシャルルが継いだ<ref>カルメット、P240 - P254。</ref>。 |
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== 家族 == |
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1403年に[[フランス君主一覧|フランス王]][[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]の娘で[[はとこ|又従姉]]に当たる[[ミシェル・ド・フランス]]と婚約、1409年に結婚したが、1422年に子供の無いまま死去。 |
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1424年、[[ウー伯]][[フィリップ・ダルトワ (1358-1397)|フィリップ・ダルトワ]]の娘で叔父のヌヴェール伯[[フィリップ・ド・ブルゴーニュ (1389-1415)|フィリップ]]の未亡人でもある[[ボンヌ・ダルトワ]]と再婚したが、1425年に産褥死。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 参考文献 == |
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* [[堀越孝一]]『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』[[清水書院]]、1984年。 |
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* [[ジャン=ポール・エチュヴェリー]]著、[[大谷暢順]]訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』[[河出書房新社]]、1991年。 |
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* [[清水正晴]]『ジャンヌ・ダルクとその時代』[[現代書館]]、1994年。 |
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* [[ジルベール・トラウシュ|G.トラウシュ]]著、[[岩崎允彦]]訳『ルクセンブルクの歴史―<small>小さな国の大きな歴史</small>―』[[刀水書房]]、1999年。 |
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* [[ジョゼフ・カルメット]]著、[[田辺保]]訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』[[国書刊行会]]、2000年。 |
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* [[城戸毅]]『百年戦争―<small>中世末期の英仏関係</small>―』[[刀水書房]]、2010年。 |
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== 関連項目 == |
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* [[イングランド・フランス二重王国]] |
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* [[カンブレー二重結婚]] |
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* [[ウプランド]] |
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* [[モンス・メグ]] |
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* [[ドル (フランス)]] |
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[[Category:ブルゴーニュ公]] |
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2017年3月15日 (水) 11:28時点における版
フィリップ3世 Philippe III | |
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ブルゴーニュ公 | |
『“善良公”フィリップ3世』(1450年頃、 ロヒール・ファン・デル・ウェイデン画) | |
在位 | 1419年9月10日 - 1467年6月15日 |
別号 | ブラバント公、ルクセンブルク公、ブルゴーニュ伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、アルトワ伯 |
出生 |
1396年7月31日 ブルゴーニュ公国 ディジョン |
死去 |
1467年6月15日 ブルゴーニュ公国 ブリュージュ |
埋葬 | ディジョン |
配偶者 | ミシェル・ド・フランス |
ボンヌ・ダルトワ | |
イザベル・ド・ポルテュガル | |
子女 | シャルル |
家名 | ヴァロワ=ブルゴーニュ家 |
王朝 | ヴァロワ朝 |
父親 | ジャン1世(無怖公) |
母親 | マルグリット・ド・バヴィエール |
フィリップ3世(Philippe III, 1396年7月31日 - 1467年6月15日)は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の第3代ブルゴーニュ公(在位:1419年 - 1467年)。ブラバント公(在位:1430年 - 1467年)、エノー伯・ホラント伯・ゼーラント伯(在位:1432年 - 1467年)、ルクセンブルク公(在位:1443年 - 1467年)でもあった。「善良公」(le Bon)と呼ばれる。ジャン1世(無怖公)と妃で下バイエルン=シュトラウビング公・エノー伯・ホラント伯・ゼーラント伯アルブレヒト1世の娘マルグリット・ド・バヴィエールの長男。
イングランドとフランスが死闘を繰り広げる百年戦争において、初めはイングランドの同盟者でありながらほとんど手を貸さず独自に領土拡大政策を進め、フランスが反撃を開始すると徐々にフランスへ接近、やがてイングランドから離れてフランスと和睦、百年戦争がフランス優位になる転換点を作った。
生涯
イングランドの同盟者
幼少期の1403年、祖父のブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)の意向でフランス王シャルル6世の娘で又従姉に当たるミシェル・ド・フランスと婚約、合わせて姉マルグリットとミシェルの弟のルイの婚約も決められた。1415年、イングランド軍がフランス遠征を開始すると父の命令でアルトワ防衛に向かったが、当時父が率いるブルゴーニュ派と対立していたアルマニャック派が単独でイングランド軍に戦闘を挑みアジャンクールの戦いで大敗、父から参戦を禁じられていた善良公はこの戦いに加勢しなかったことを後悔している[1]。
1419年に父がアルマニャック派の手によって殺害されたためブルゴーニュ公位を継承、ブルゴーニュ公となると、父の仇であるアルマニャック派が推す王太子シャルル(後のシャルル7世)に対抗するため、フランス王位を要求していたイングランド王ヘンリー5世と同盟を結ぶ(アングロ・ブルギニョン同盟)。これにより、百年戦争はイングランドが優位に立ち、ヘンリー5世はトロワ条約でフランス王位の継承権を手に入れるまでになった。
1422年にヘンリー5世とシャルル6世が相次いで亡くなり、ヘンリー5世の遺児で幼少のヘンリー6世が即位すると、ブルゴーニュはイングランドの同盟相手として丁重に扱われた。翌1423年には政略結婚で両国の関係は強化され、善良公の妹アンヌと姉マルグリット(ルイ亡き後未亡人となっていた)はそれぞれヘンリー6世の叔父ベッドフォード公ジョンとブルターニュ公ジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモンに嫁いだ。一方、善良公は1421年にナミュールを譲られる契約を結び(1429年に領有)、1422年に最初の妻ミシェルに先立たれると1424年にボンヌ・ダルトワと再婚している(しかし、翌1425年にボンヌは死去)[2]。
フランスに接近、離反へ
だが、善良公はフランス戦線に無関心で、北のネーデルラント獲得を目指していたが、そのネーデルラントを巡り紛争が起こった。ベッドフォード公の弟のグロスター公ハンフリーが1422年に善良公の従妹に当たるエノー・ホラント・ゼーラント女伯ジャクリーヌ・ド・エノーと結婚したことを根拠に1424年にネーデルラントへ出兵したため、憤慨した善良公は迎撃に向かい、イングランドとブルゴーニュの同盟にヒビが入った。事態を危ぶんだベッドフォード公が仲介したが紛争は収まらず、翌1425年1月にジャクリーヌと善良公の叔父でジャクリーヌと対立していたバイエルン公ヨハン3世が善良公を相続人に指名して亡くなると、それを口実に善良公はエノーに駐屯していたグロスター公の手勢を打ち破りジャクリーヌを捕らえてネーデルラントで優位に立った。
1428年にグロスター公が介入を諦め、ジャクリーヌが善良公に3伯領の支配を委ねることで事態は解決したが、善良公はイングランドに不信を抱くようになった。この後、1432年にジャクリーヌが善良公へ反逆を企て、それが失敗に終わると3伯領を全て明け渡し引退、1430年に従弟のブラバント公兼サン=ポル伯フィリップが急死したことも相まって、ネーデルラントの大部分を手に入れた善良公の所領は大幅に拡大した[3]。
一方、王太子の姑ヨランド・ダラゴンが善良公に接触すると徐々にフランスへ歩み寄るようになり、1424年9月に王太子と善良公は休戦協定を結び、善良公は王太子をフランス王と認め両者の和睦に一歩近付いた。リッシュモンが王太子の側近になり父の暗殺犯などアルマニャック派の強硬派を処罰したため進展したと思われたが、王太子の寵臣ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユと対立して1428年に宮廷から追い出され、ブルゴーニュとフランスの交渉も中断された。このような状況を見て取ったベッドフォード公は同年10月からオルレアン包囲戦を敢行、ブルゴーニュを戦争に引きずり込もうとした[4]。
しかし、1429年5月にジャンヌ・ダルクがオルレアンでイングランド軍の包囲網を破り、6月にパテーの戦いでオルレアン周辺のイングランド軍が掃討され、7月にランスで王太子が戴冠式を行ってフランス王シャルル7世を称する頃になると形勢は逆転し始めた。善良公はシャルル7世が派遣した使節と交渉して8月に再び休戦を誓い、将来の和睦に向けた予備交渉まで定め、フランスと争うつもりがないことを表明した[5]。
一向に協力しない善良公に苛立ったベッドフォード公は1430年5月にコンピエーニュ包囲戦を実行、善良公もイングランドの顔を立てるため参戦したが、戦いは敗北に終わり、善良公の配下のリニー伯ジャン2世はジャンヌを捕らえてイングランド軍に引き渡したが、翌1431年にはフランスと休戦する一方、同年12月にベッドフォード公がパリで挙行したヘンリー6世のフランス王戴冠式にも欠席して一層イングランド離れを進めていった。1430年1月に善良公がベッドフォード公の従妹に当たるイザベル・ド・ポルテュガルと3度目の結婚をしても両者の溝は埋まらず、1432年にアンヌが亡くなり翌1433年にベッドフォード公がジャケット・ド・リュクサンブールと再婚したことで疎遠になっていった[6]。
1432年にリッシュモンがフランス宮廷に復帰、1433年にリッシュモンと対立したラ・トレモイユが追放されるとフランスはブルゴーニュとの和睦に傾き、善良公もこれに応じ1434年12月から1435年2月にかけてヌヴェールで交渉して1429年の予備交渉で決めた和睦条件を調整、7月からイングランドも加えてアラスで行われた講和会議でイングランドが離脱すると、フランス・ブルゴーニュ間で交渉が纏まり、9月21日にアラスの和約でフランス王家と講和した。これにより、百年戦争はフランスの勝利へと向かうことになる。なお、ベッドフォード公は和約の1週間前の9月14日に死去している[7]。
ベネルクスの領有
和約によりフランスと友好関係が築かれたが、イングランドにとっては裏切りでしかなく、報復としてフランドル商人の弾圧、商船の襲撃などを行い、対する善良公も1437年にイングランド領のカレーを包囲したが失敗、逆にブリュージュ・ヘントなどが蜂起して足元が揺らいだため、都市の反乱を平定した後の1439年9月にイングランドと休戦協定を結び、通商関係も回復して事無きを得た。
背後を固めた善良公は再びネーデルラントへ目を向け、ルクセンブルクへ狙いを定めた。この地はロレーヌ公国と共に2つに分かれた善良公の領国(北のネーデルラント・南のブルゴーニュ)の連結を果たしていたため必要だったが、代々の領主が金に困り転売を繰り返していた土地だった。1441年に善良公は領主エリーザベト・フォン・ゲルリッツと協定を交わして抵当権を手に入れたが、同名の従妹エリーザベト・フォン・ルクセンブルクが所有権を持っていたため彼女の娘アンナの夫テューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世が所有権を主張して1443年に戦争となった。善良公は武力でルクセンブルクを占領して実質的に領主となり、ヴィルヘルム3世と交渉して彼が主張を放棄した1461年に正式にルクセンブルクの領主と認められ、ベネルクス3国は善良公が領有した[8]。
こうしてフランス東部とドイツ西部の境目に連なる領土を手に入れた善良公は以後も外交活動を継続、1453年にヘントの再度の反乱を鎮圧、リエージュ司教領の人事に介入して甥のルイ・ド・ブルボン(妹アニェスとブルボン公シャルル1世の子)を司教に就任させ、オスマン帝国に対する十字軍提唱(実行されず)、1456年にシャルル7世との仲が悪化した王太子ルイ(後のルイ11世)のブラバント迎え入れも行っている。ただし晩年には老齢から指導力が衰え、息子シャルルと家臣のクロワ一族が対立、それに乗じてルイ11世がアラスの和約でブルゴーニュに渡ったソンム川の土地を買い戻すなど失敗が続いている。
1467年に70歳で死去、後をシャルルが継いだ[9]。
百年戦争の後半の展開を左右した善良公だが、ネーデルラントにおいては領土を拡大し、安定した統治を行った。金羊毛騎士団を創設し、騎士道文化が最盛期を迎えた。フーベルト、ヤンのファン・エイク兄弟などのフランドル派絵画や、ネーデルラント楽派の音楽はヨーロッパで最高水準の物となった(北方ルネサンス)。
家族
1403年にフランス王シャルル6世の娘で又従姉に当たるミシェル・ド・フランスと婚約、1409年に結婚したが、1422年に子供の無いまま死去。
1424年、ウー伯フィリップ・ダルトワの娘で叔父のヌヴェール伯フィリップの未亡人でもあるボンヌ・ダルトワと再婚したが、1425年に産褥死。
1430年にポルトガル王ジョアン1世の娘であるイザベル・ド・ポルテュガルと3度目の結婚を行い、彼女との間に嫡子シャルルをもうけた。
脚注
- ^ エチュヴェリー、P89、清水、P70 - P71、P97 - P98、カルメット、P98、P168。
- ^ 堀越、P106 - P110、P135、エチュヴェリー、P111 - P113、P115 - P117、P127、清水、P110 - P111、P116 - P118、カルメット、P199 - P211、P465、城戸、P129 - P136、P256。
- ^ 堀越、P132 - P135、清水、P118 - P119、カルメット、P211 - P219、城戸、P256 - P262。
- ^ 堀越、P135 - P140、エチュヴェリー、P133、P149 - P150、P161 - P162、清水、P121 - P124、カルメット、P219 - P221、城戸、P263、
- ^ 堀越、P151 - P155、清水、P205 - P206、P208 - P209、P217 - P220、P225 - P226。
- ^ 堀越、P174 - P182、清水、P244 - P245、P250 - P272、P348 - P349、カルメット、P221 - P226、城戸、P263 - P265、n81。
- ^ 堀越、P218 - P219、清水、P351 - P359、カルメット、P226 - P231、城戸、P246 - P253。
- ^ トラウシュ、P42 - P45、カルメット、P231 - P237。
- ^ カルメット、P240 - P254。
参考文献
- 堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』清水書院、1984年。
- ジャン=ポール・エチュヴェリー著、大谷暢順訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』河出書房新社、1991年。
- 清水正晴『ジャンヌ・ダルクとその時代』現代書館、1994年。
- G.トラウシュ著、岩崎允彦訳『ルクセンブルクの歴史―小さな国の大きな歴史―』刀水書房、1999年。
- ジョゼフ・カルメット著、田辺保訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』国書刊行会、2000年。
- 城戸毅『百年戦争―中世末期の英仏関係―』刀水書房、2010年。
関連項目
フィリップ3世 善良公
ヴァロワ家分家
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