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2016年6月8日 (水) 03:19時点における版
早稲田大学 コーチ | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都豊島区 |
生年月日 | 1938年6月9日(86歳) |
身長 体重 |
178 cm 88 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手 |
プロ入り | 1961年 |
初出場 | 1961年 |
最終出場 | 1970年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴
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この表について
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徳武 定祐(とくたけ さだゆき、1938年6月9日 - )は、東京都豊島区出身の元プロ野球選手。右投げ右打ち。旧名は定之。
来歴・人物
プロ入りまで
青森県三戸郡五戸町生まれ。早稲田中学校へ進学したが、野球に集中する為に早稲田実業学校高等部へ進学。1955年、2年生の時に夏の甲子園都予選準決勝に進出するが、並木輝男投手を擁する日大三高に9回サヨナラ逆転負け。翌1956年夏は1年生エース王貞治の好投もあって勝ち進む。都予選準決勝では、後に国鉄の同僚となる村田元一投手のいた明治高に2-1で辛勝。決勝は成蹊高に13-1で大勝し、三塁手、四番打者として夏の甲子園に出場。1回戦で新宮高を破り2回戦に進出するが、県岐阜商に敗退した[1]。高校同期に醍醐猛夫がいた。
卒業後は早稲田大学商学部に入学。東京六大学リーグでは在学中2回優勝。1959年の全日本大学野球選手権大会では決勝で関西学院大学を下して優勝。早大では主に三塁を守り、4年時には主将を務め、1960年秋季リーグの早慶六連戦でも活躍。1学年下の安藤元博とともに優勝の原動力となる。本塁への激しい突入プレーで「リンゴ事件の再来か」と言われるなど紛糾の主役となった。リーグ通算88試合出場、313打数92安打、打率.294、3本塁打、46打点。1958年秋季リーグからベストナインに5季連続選出(外野手1回、三塁手4回)された。大学同期に金沢宏(大昭和製紙)、野村徹がいる。
現役時代
巨人から長嶋茂雄をショートに回すからと誘われたが、当時国鉄スワローズの監督で大学時代の長嶋の恩師である砂押邦信に「長嶋はショートはできない、巨人に入団しても出番はないからうちに来なさい」と諭され、当時弱小である国鉄に1961年に入団。金銭面よりも、選手としての出場機会を取った選択だった。国鉄は貧乏球団であったが、同球団としては破格の契約金600万円で契約。しかし、「徳武に出す金があるなら国鉄の運賃の値上げを止めろ」という抗議が殺到したという。
入団1年目は4番を打ち、球団初のAクラス入りに貢献。1963年には藤村富美男の指導を受け、生涯一度の打率3割を記録。リーグ打撃成績6位に喰いこむ。オールスターゲームにも出場。1968年に河村保彦との交換トレードで、内野手の層の薄い中日ドラゴンズに移籍。レギュラー三塁手として活躍するが、翌年に島谷金二が入団すると控えに回り、1970年に現役引退。
入団から6年間821試合連続出場の記録を持つ。特に初年度はフルイニング出場した。しかし、1967年の開幕3試合目で当時の連続試合出場の記録を持つ監督の飯田徳治から「接戦だったため徳武の記録を忘れていた」との不可解な理由でストップしてしまった。打撃成績はさほどでもないが、「早慶戦を思い出す」とのことで対巨人戦には滅法強かった。また中日の板東英二にも強かった。
指導者として
引退後は、ドジャースで1年間学び、帰国後は中日の二軍コーチ(1972年)・一軍コーチ(1973年 - 1976年)・ヘッドコーチ(1992年 - 1995年)、ロッテの一軍コーチ(1977年 - 1978年)・二軍打撃コーチ(1980年 - 1981年)・チーフコーチ(1982年 - 1983年)・二軍監督(1984年 - 1988年)・一軍ヘッド兼打撃コーチ(1990年 - 1991年)、フロントを歴任。中日コーチ時代には1974年のリーグ優勝に貢献し、ロッテコーチ時代には落合博満・西村徳文・高沢秀昭・初芝清・堀幸一・平井光親を育てた。監督代行を務めることが多く、ロッテのヘッドコーチを務めていた1990年には6月23日の対西武戦(西武球場)で、園川一美のボークの判定を巡って監督の金田正一が審判の高木敏昭に対して暴行し退場、30日間出場停止となったため、出場停止期間中の監督代行を務めた。また、中日でヘッドコーチを務めていた1995年には、監督の高木守道の辞任に伴い監督代行を務めたが、12勝25敗と低迷し徳武は解任され[2]、二軍監督の島野育夫が昇格し、シーズン終了まで監督代行を務めた。
その後は、プロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスのコーチや、母校・早稲田大学の打撃コーチを務める。
元タレントで、2012年3月31日に郷ひろみと入籍した徳武利奈は次女。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961 | 国鉄 サンケイ アトムズ |
130 | 537 | 479 | 59 | 122 | 22 | 1 | 9 | 173 | 62 | 7 | 8 | 4 | 4 | 48 | 2 | 2 | 58 | 9 | .255 | .323 | .361 | .684 |
1962 | 134 | 547 | 483 | 44 | 118 | 17 | 1 | 14 | 179 | 54 | 7 | 6 | 2 | 3 | 59 | 1 | 0 | 42 | 12 | .244 | .325 | .371 | .695 | |
1963 | 140 | 593 | 524 | 64 | 157 | 26 | 3 | 14 | 231 | 64 | 10 | 5 | 0 | 4 | 63 | 1 | 2 | 35 | 16 | .300 | .374 | .441 | .815 | |
1964 | 140 | 593 | 540 | 63 | 142 | 18 | 2 | 15 | 209 | 65 | 5 | 7 | 2 | 4 | 45 | 0 | 1 | 46 | 24 | .263 | .319 | .387 | .706 | |
1965 | 140 | 507 | 445 | 32 | 120 | 18 | 1 | 6 | 158 | 44 | 3 | 4 | 6 | 5 | 50 | 0 | 1 | 67 | 16 | .270 | .341 | .355 | .696 | |
1966 | 135 | 508 | 453 | 42 | 113 | 20 | 3 | 15 | 184 | 55 | 2 | 1 | 6 | 2 | 45 | 1 | 2 | 54 | 11 | .249 | .319 | .406 | .725 | |
1967 | 93 | 233 | 205 | 18 | 53 | 7 | 0 | 6 | 78 | 19 | 0 | 2 | 0 | 3 | 25 | 3 | 0 | 26 | 6 | .259 | .335 | .380 | .715 | |
1968 | 中日 | 113 | 367 | 319 | 28 | 76 | 9 | 0 | 11 | 118 | 31 | 1 | 3 | 6 | 1 | 41 | 1 | 0 | 54 | 8 | .238 | .324 | .370 | .694 |
1969 | 31 | 43 | 39 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 8 | 0 | .051 | .140 | .128 | .268 | |
1970 | 7 | 6 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .167 | .000 | .167 | |
通算:10年 | 1063 | 3934 | 3491 | 351 | 903 | 137 | 11 | 91 | 1335 | 396 | 35 | 36 | 26 | 27 | 381 | 10 | 8 | 382 | 102 | .259 | .331 | .382 | .713 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)に球団名を変更
通算監督成績
- 57試合 17勝 39敗 1分 勝率.304
記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1963年)
- 通算1000試合出場:1968年9月11日(史上135人目)
背番号
- 3 (1961年 - 1967年)
- 11 (1968年 - 1970年)
- 63 (1972年 - 1986年、1991年)
- 71 (1987年 - 1988年)
- 78 (1990年)
- 83 (1992年)
- 82 (1993年 - 1995年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)