「徳川實枝子」の版間の差分
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2016年6月8日 (水) 03:14時点における版
實枝子女王 | |
---|---|
続柄 | 有栖川宮威仁親王第二王女 |
身位 | 女王→臣籍降下 |
敬称 |
殿下→臣籍降下 Her Imperial Highness |
出生 |
1891年2月14日 日本 東京府東京市麹町区 |
死去 |
1933年4月25日(42歳没) 日本 東京府東京市本郷区 |
埋葬 | 谷中霊園 |
配偶者 | 徳川慶久 |
子女 |
徳川慶子 宣仁親王妃喜久子 徳川慶光 |
父親 | 有栖川宮威仁親王 |
母親 | 前田慰子 |
徳川 實枝子(とくがわ みえこ、1891年(明治24年)2月14日 - 1933年(昭和8年)4月25日)は、明治期 - 昭和期の日本の皇族・華族。旧名は實枝子女王。
人物
有栖川宮威仁親王と旧加賀藩主(明治維新後は侯爵)前田家出身の慰子妃との間に次女として生まれた。姉に績子女王、兄に栽仁王がおり、績子女王は實枝子の誕生前に夭逝し、栽仁王は海軍兵学校在学中に早世している。母方の先祖に江戸幕府第11代将軍・徳川家斉(曾祖母・溶姫の父)がおり、内閣総理大臣を務めた近衛文麿はいとこにあたる。
1908年(明治41年)11月8日に、公爵・徳川慶喜の嫡男・慶久に降嫁し華族の身分となった。慶喜の母・吉子女王は有栖川宮織仁親王の娘であり、實枝子の父・威仁親王も織仁親王の曾孫であったので、慶久とは共通の祖先をもつ遠縁の関係であった。
父・威仁親王や母・慰子より有栖川流書道の指南を受け、非常に能書の人物であった。両親の死後は有栖川流の継承者は實枝子ただ一人になってしまったため、これを絶やさぬようにのちに高松宮宣仁親王妃となる喜久子に伝授した。喜久子により常陸宮華子妃と秋篠宮文仁親王に伝授され、有栖川流書道は現在まで伝えられている。
貞明皇后とは旧知の間柄であり、度々御所に呼ばれては話相手やお稽古の相手を務めたという[2]。
1933年〈昭和8年〉、結腸癌により卒去。42歳没。實枝子の死は、喜久子に対し深い悲しみと同時に癌研究への関心を与え、高松宮妃癌研究基金創設への契機となった[3]。
注釈
出典
- ^ 遠藤幸威 『女聞き書き 徳川慶喜残照』 朝日文庫 1985年
- ^ * 榊原喜佐子 『徳川慶喜家の子ども部屋』 角川書店 2000年
- ^ 設立に際しての妃殿下のお言葉 高松宮妃癌研究基金オフィシャルサイト