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2016年6月8日 (水) 00:44時点における版

きのみ なな
木の実 ナナ
本名 池田 鞠子
生年月日 (1946-07-11) 1946年7月11日(78歳)
出生地 日本の旗 日本東京都墨田区
身長 160 cm
血液型 B型
職業 女優歌手
活動期間 1962年 -
活動内容 テレビドラマ映画舞台など
配偶者 なし
著名な家族 木の実まこ(妹)
事務所 ダンカンミュージック
公式サイト 木の実ナナホームページ
主な作品
テレビドラマ
混浴露天風呂連続殺人』シリーズ
あぶない刑事』シリーズ
渡る世間は鬼ばかり
万引きGメン・二階堂雪』シリーズ
映画
男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく
汚れた英雄
もっともあぶない刑事

『おまえさん』
『うぬぼれワルツ』
『居酒屋』
『NANA』
『紅ほおずき』
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木の実 ナナ(きのみ ナナ、1946年7月11日 - )は、日本女優歌手である。本名、池田 鞠子(いけだ まりこ)[1]

東京都向島区寺島町(現在の墨田区向島)出身[1]。所属事務所はダンカンミュージック

来歴

父はトランペット奏者、母は踊り子。父が19歳、母が20歳の時に生まれた。体が弱く、3歳まで歩けなかった[2]。その後、身体を鍛えるために5歳からバレエを始めると直ぐにのめり込み、ダンサーに憧れを持つ。

中学3年の時に渡辺プロ主催の新人オーディションがジャズ喫茶「新宿ACB」で開催され、受験する友人は緊張の余り固まってしまい、困った司会者より「じゃあ! 君が代わりに唄って!」と指名され、堂々とした唄いっぷりもあって優勝。猛反対する父親を説き伏せ芸能界入りした。この頃に初期ザ・ドリフターズの専属歌手として歌っていたこともあるという。

デビュー曲は「東京キカンボ娘」(1962年8月10日菊村紀彦作詞・作曲)。「木の実ナナ」の芸名は、この時に菊村によってつけられた。漢字、ひらがな、カタカナの三つがそろった名前は、菊村が「歌だけでなく、踊りも芝居もできる人になってほしい」という思いを込めたものだという[3]。「着の身着のまま」が芸名の由来という説は、自身が否定している[注 1]

1962年、音楽番組『ホイホイ・ミュージック・スクール』(日本テレビ)でデビュー。当時、この番組のイメージにより「ホイホイ娘」と呼ばれていた。1967年には「ミニ・ミニ・ロック」という曲をヒットさせて人気を集めたが、番組終了と同時に低迷、前座歌手をする日々が続く。また、ヒット曲に恵まれず、心機一転として1970年には本場のショー・ビジネスを学ぼうと渡米。

1973年、帰国後に劇団四季ミュージカルに自ら応募し、同年『アプローズ』に出演。これがヒット作となり、自身も高い評価を受けて舞台女優としての地位を確立した。この時、主演を務めた越路吹雪とは共演を機にプライベートでも親しく付き合うようになり、多大な影響を受けたと言う。以後、多数のミュージカルに出演する様になった。

1974年から始まった、細川俊之との歌と踊りとしゃれた会話でつづる二人芝居『ショーガール』は16作品、公演数547回、観客動員数は60万人を超す大ヒットとなる。1975年、芸術選奨新人賞受賞。1976年、紀伊國屋演劇賞受賞。

1975年、小沢昭一主宰の劇団「芸能座」の旗揚げ公演「清水次郎長伝・伝」に参加(次郎長の妻・お蝶役)。小沢、加藤武山口崇山谷初男猪俣光世、音楽担当の神津善行薗田憲一とデキシーキングス、座付き作者の永六輔らと共に旅興行に出る(飯塚・嘉穂劇場など)[5]

1977年頃、西田敏行武田鉄矢と共に、バラエティー番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』に出演し、コントを披露。また、1982年の五木ひろしとのデュエット『居酒屋』は大ヒットを記録。

2015年、舞台『南阿佐ヶ谷の母』の沖縄公演終了後の10月24日に左大腿骨を骨折。11月3日からの紀伊國屋ホールの公演では、演出を変更して車いすで出演[6]

人物

  • 区立寺島中学校卒業、城西高等学校中退。
  • 出身地付近は鳩の街と呼ばれた歓楽街だった。幼少期は、彫りの深い独特の顔立ちから混血児に間違えられ、苛められた経験がある。
  • 1992年頃から、更年期性うつ病を患っていた。現在は医師の治療と周囲のサポートによって回復。2000年には新聞広告で「私は、バリバリの「鬱」です」というキャッチコピーで出演した[7]
  • 2015年10月24日に沖縄で上演された舞台『南阿佐ヶ谷の母』終了後、ホテルでつまずいて転倒、左大腿骨を骨折した。同舞台の11月3日からの東京・紀伊国屋ホールでの公演は、車いすでの出演となった[8]
  • 趣味はスキューバダイビング
  • 万引きGメン・二階堂雪』で共演しているあき竹城とは仲が良く、2人で旅行に行くほど。脚本家に「もっとあきちゃんとの場を増やして」とお願いしたこともある。また、角替和枝とも親交がある。
  • 芸能界有数のディズニーグッズマニアであり、楽屋や部屋はディズニーグッズで埋め尽くされている。2002年に『笑っていいとも!』のコーナー「テレフォンショッキング」に出演した際、花束と一緒に1つミッキーぬいぐるみが置かれていたが、その時「あ〜! 可愛い〜!!」と大興奮し、司会のタモリを驚かせたことがある。
  • 実妹も1970年代に「木の実まこ」という芸名で歌手デビューし、1枚のシングルレコードを残している。1980年代になってライオンの生理用品のCMで共演している。
  • TBSラジオのヘビーリスナーである。

出演作品

テレビドラマ

映画

舞台

吹き替え

バラエティ

CM

ディスコグラフィ

シングル

オリジナル・アルバム

  • 「愛人」(1976年、PLAYBOY/TRIO)
  • 「NA NA Vol.2 紅ほおずき」(1977年、PLAYBOY/TRIO)
  • 「WOMAN」(1979年、SOUNDS MAKETING SYSTEM)
  • 「DANCING MAMA」(1980年、BOURBON RECORDS)
  • 「わが胸の底の湖」(1981年、BOURBON RECORDS)
  • 「YESTERDAY'S」(1981年、CANYON RECORDS)

ライブ・アルバム

  • 「NANA Live」(1979年、SOUNDS MAKETING SYSTEM)

カバー・アルバム

  • 「デビュー50周年記念アルバム SHOW GIRLの時間旅行~my favorite songs」(2012年、BOURBON RECORDS)

ベスト・アルバム

脚注

注釈

  1. ^ 当時「このみ」と呼ばれることがあり、「『着の身着のまま』の『き』です」と言っていたのが芸名の由来だと勘違いされたのだという。出典の新聞記事原文中の木の実ナナの談話は、次のとおり。「当時『このみ』と呼ばれることがあり、『〈着の身着のまま〉の〈き〉です』と言っていたのです。それが芸名の由来と勘違いされることに、ハハハ。」 ということで、記事中で、彼女自身は「誰によって呼ばれたのか」には触れていないが、「着の身着のまま」が芸名の由来であるという説は誤りであることが確認できる。なお当該新聞記事は縮刷版などでも見られる[4]

出典

  1. ^ a b 公式プロフィール”. ダンカンミュージック. 2014年2月3日閲覧。
  2. ^ "母を語る". ラジオ深夜便. 22 January 2008. NHKラジオ第1放送
  3. ^ “人生の贈り物「『着の身着のまま』は勘違いです」”. 朝日新聞 夕刊. (2011年12月6日) 
  4. ^ “人生の贈り物「『着の身着のまま』は勘違いです」”. 朝日新聞 夕刊. (2011年12月6日) 
  5. ^ 昭和の肖像<芸>p.148-154
  6. ^ 木の実ナナ、左大腿骨骨折 車いすで舞台出演”. ORICON STYLE (2015年11月10日). 2015年11月10日閲覧。
  7. ^ NHK うつサポート情報室[リンク切れ]を参照
  8. ^ “木の実ナナ 大腿骨骨折の重傷で車いす”. デイリースポーツオンライン (株式会社デイリースポーツ). (2015年11月9日). http://sp.daily.co.jp/newsflash/gossip/2015/11/09/0008552018.shtml#btnMore 2015年11月9日閲覧。 

関連項目

外部リンク