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2016年6月7日 (火) 23:55時点における版

岡村 昭彦(おかむら あきひこ、1929年昭和4年)1月1日 - 1985年(昭和60年)3月24日)は、日本ジャーナリスト東京出身。ベトナム戦争を撮影した報道写真で知られる。

経歴・概要

1929年(昭和4年)1月1日、大日本帝国海軍参謀岡村於菟彦の長男として生まれる。父方の曾祖父に明治天皇侍従堤正誼、父方の祖父に大審院判事弁護士中央大学学長の岡村輝彦がおり、母方の曾祖父に日本赤十字社創設者で伯爵佐野常民、母方の祖父に海軍少将子爵田村丕顕がいる。伯父に医学者緒方知三郎、弟に、後の俳優岡村春彦がいる。

学習院初等科から学習院中等科に進むが、教練の時に菊の紋章入りの木銃を叩き折って退学となり、東京中学校に転じて卒業。伯父の緒方知三郎が学長を務める東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に進む。

敗戦後は父親の公職追放に伴って困窮生活を送り、輪タク屋などの肉体労働を経験。1947年、学費値上げに反対して演説を行い、東京医学専門学校から退学処分を受ける。

その後、日本共産党の活動家として北海道に渡り、札幌南高等学校在学中(当時)の加清純子(渡辺淳一阿寒に果つ』の主人公のモデルとなった画家。戸田城聖の姪)と恋仲となる。1951年10月、日本共産党の第5回全国協議会(五全協)の決定に従って山村工作隊の一員となり、釧路に移住。このとき医師免許を持たぬまま東京大学医学士と称し、岡村彦の偽名のもとに釧路市で医院を開き、無資格の女子高生を看護婦に仕立てて同居し、薬局から大量の医薬品を詐取していたため、同年12月16日詐欺容疑で釧路市警に逮捕される[1]。このとき岡村には、医師法違反や医療法違反のほか堕胎罪の容疑もかけられていた[2]。岡村から拙劣な堕胎手術を受けたため重態となり、再手術を余儀なくされたとの複数女性からの訴えがあった[3]。このとき岡村は「効かぬ注射で高い金をとる医者は立派な詐欺行為だ。私はどんな病気でも治せる自信を持っている」[2]と強弁したが、1952年1月26日に釧路地裁で懲役4月の実刑判決を受け[4]釧路刑務所に収監される。これに先立つ1949年、岡村は医師政令162号違反で懲役6月・執行猶予3年の判決を受けていた上、1950年には横浜地裁から米国のドル不法所持で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けていたため[5]執行猶予は取り消され、前刑と併せて服役することとなった[4]。このとき、加清純子は岡村を保釈するために奔走し、釧路刑務所で岡村と面会した後に自殺している。

出所後、修道院の客室係や書店員などを経て三池闘争に参加し、三池の炭鉱労働者街に住み込む中で被差別部落出身の炭鉱労働者や松本治一郎と出会い、部落問題への関心を形成[6]1959年頃、部落解放同盟に参加しオルグ活動を行う。荒川区や木下川(東京都墨田区東墨田)に住んで皮革工場で働くうちに、上本佐倉(千葉県印旛郡酒々井町)の部落出身労働者と出会い、1960年から上本佐倉で食客として部落民の家を転々と移り住みながら冤罪事件や下水問題などの差別解消に尽力[6]。しかし『週刊実話』に上本佐倉出身の若者の集団による輪姦事件が詳細に報じられた折、同誌への情報提供者とみなされて部落民から吊し上げを受け、1961年に上本佐倉を去る[6]

その後、総評の週刊誌「新週刊」編集部を経て、1962年(昭和37年)PANA通信社の契約特派員となる。当時、岡村はPANAの東南アジア、韓国などの国々に契約特派員として派遣されていた。ベトナムではベトナム戦争を最前線で取材し、韓国ではミサイル基地で起きた少年殺人事件と李承晩ラインを取材。ベトナム取材の成果は『ライフ』誌上に「醜いベトナム戦争」と題して9ページの写真特集が掲載され、大きな反響を呼ぶ。

1965年(昭和40年)、単身、ベトコン(南ベトナム解放戦線)支配区に潜入し取材する。しかし、このことは南ベトナム政府の忌避を買い、5年間の入国禁止処分を受けることとなった(この潜入取材の前後でPANAとの契約を解除しフリーになっているが明確な時期は不明)。ベトナムから追放された岡村は、ドミニカ革命ナイジェリアビアフラ内戦ジョン・F・ケネディのルーツであるアイルランドを取材する。

1971年(昭和46年)ラオス侵攻作戦に無断で従軍取材後、再度の入国禁止処分を受ける。

1980年(昭和55年)ごろから生命倫理精神疾患ホスピスなどに取材の対象を拡げた他、中国の水利事業に関心を抱き、揚子江長江)を取材している。

1985年(昭和60年)3月24日敗血症のため死去。56歳。

エピソード

アイルランドを取材した際には、イギリスの支配下にあったアイルランドに来て、同じように外国の干渉を受けてきたベトナムの民衆の気持ちを理解するようになったと回想している。後に岡村は一家でアイルランドに移住している。

顕彰

「岡村昭彦文庫」が開設された静岡県立大学附属図書館(右下)

岡村は読書家であり、生前多くの書籍を所持していた。岡村の死後、遺された蔵書は静岡県立大学のベトナム文化人類学研究者、比留間洋一の尽力で、静岡県立大学附属図書館が引き受けることとなり、1989年に1万8000冊が移管された[7]。大学図書館別室に「岡村昭彦文庫」が設けられ、写真や生前のTV出演の映像を見るコーナーも設けられ、岡村の業績が顕彰されている[7]。また、1993年には「AKIHIKOの会」が結成され、毎年シンポジウムや講演といった会合を開催するとともに、会報の発行などを行っている[8]。なお岡村の母方のゆかりの地は、遠州浜名湖舞阪町である。

評価

本多勝一とは互いに無名だった頃から面識があったものの仲が悪く、「石川文洋と本多勝一は出版社から借金して逃げまわっている」と沖縄県人会の会長に発言したことがある[9]。これに対し、本多は「岡村氏自身の常習行動を他人にかぶせている実例でしょう。私は出版社に借金したことなど金輪際ありません。(逆に貸したこと──つまり私への印税滞納はよくあります。)」「岡村氏は、出版社から『前借り』として大金をせしめ、それっきりネコババをきめこむことなど常套手段でした。朝日新聞出版局も、当時の金で50万円か60万円の被害にあっています」と反論している[9]。本多はまた、岡村のことを「他人のフィルムを自分のものとして発表したり、サイン以外は編集部の文章だったりといったことを平然とやる」人間であった、とも批判している[10]

著作

脚注

  1. ^ 北海道新聞』夕刊、1951年12月16日。
  2. ^ a b 『北海道新聞』夕刊、1951年12月17日。
  3. ^ 『北海道新聞』夕刊、1951年12月19日。
  4. ^ a b 『北海道新聞』夕刊、1952年1月27日。
  5. ^ 『北海道新聞』夕刊、1951年12月23日。
  6. ^ a b c 白石忠男「佐倉時代の岡村昭彦 上本佐倉の部落解放運動に風穴を開ける」(岡村昭彦友の会編『シャッター以前』vol.3、p.60-71、1999年)
  7. ^ a b 「『岡村昭彦文庫』について」『岡村昭彦文庫:静岡県公立大学法人 静岡県立大学静岡県立大学
  8. ^ 「AKIHIKOの会とは」『AKIHIKOの会』AKIHIKOの会。
  9. ^ a b 本多勝一『貧困なる精神X集 大江健三郎の人生』p.208(毎日新聞社、1995年)
  10. ^ 本多勝一『貧困なる精神X集 大江健三郎の人生』p.205(毎日新聞社、1995年)

外部リンク