コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「井上金太郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m WP:BOTREQ: Category:東京都区部出身の人物新設に伴う貼り変え作業
50行目: 50行目:
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:日本の脚本家]]
[[Category:日本の脚本家]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:サイレント映画の監督]]
[[Category:サイレント映画の監督]]
[[Category:大正活映の俳優]]
[[Category:大正活映の俳優]]

2016年6月7日 (火) 23:11時点における版

井上 金太郎
生誕 1901年10月15日
日本の旗 日本 東京市深川区(現江東区深川
死没 1954年1月29日
職業 映画監督脚本家
テンプレートを表示

井上 金太郎(いのうえ きんたろう、1901年10月15日 - 1954年1月29日)は、日本の映画監督脚本家である。最初のキャリアは映画俳優であり、芸名は栗井 饒太郎(くりい じょうたろう)であった。脚本家としての名は秋篠 珊次郎(あきしの さんじろう)である。

来歴・人物

1901年(明治34年)10月15日東京市深川区(現在の江東区深川)に生まれる[1]

東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を4年で中退、18歳の1920年(大正9年)4月、私淑していた小説家谷崎潤一郎が文芸顧問に迎えられた映画会社「大正活動映画」(大活)が横浜山下町(現在の中区元町)に設立され、同社の俳優募集に応募して入社した[1]。同社設立第1作、トーマス・栗原監督の『アマチュア倶楽部』の脇役でデビュー、同作は11月19日に封切られた。同期の俳優に、のちの映画監督の内田吐夢二川文太郎横田豊秋、あるいは竹村信夫、高橋英一(のちの岡田時彦)、江川宇礼雄鈴木すみ子渡辺篤らがいた。同社の撮影所には「浅草オペラ」で活躍した劇作家であり、浅草の「カフェ・パウリスタ」に集うアナキストのひとりであった獏与太平も、妻で女優の紅沢葉子とともにいて、「梁山泊」の様相を呈していた[2]

1921年(大正10年)9月、大活が撮影所を一時閉鎖、製作を休止すると、獏に率いられ[2]、仲間とともに京都入りし、同年6月に牧野省三日活から独立して設立した「牧野教育映画製作所」の「等持院撮影所」の9月完成と同時に仲間とそろって入社した。同年の『一太郎やあい』の主演俳優から出演を開始した[1]。同社は徐々に教育映画からエンタテインメント映画にシフトし、いくつかの映画に主演した井上も監督を志望し、牧野の助監督となった。1923年(大正12年)4月1日、同社は「マキノ映画製作所」に改組され、井上は同年7月9日公開の映画『立派な父』で監督として21歳でデビューした。当時のマキノには俳優から転向した監督衣笠貞之助がおり、横浜以来の俳優仲間の二川も井上の翌月に監督としてデビューした。

1924年(大正13年)7月、マキノが東亜キネマと合併すると東亜の甲陽撮影所(西宮市甲陽園)に異動になるが、1925年(大正14年)6月のマキノ・プロダクション設立にあたって、東亜を離れマキノに合流する。同年の阪東妻三郎の独立、阪東妻三郎プロダクション設立第1作『異人娘と武士』の監督に抜擢され、牧野省三総指揮のもと、東京府下南葛飾郡吾嬬町(現在の墨田区京島)「高松豊次郎プロダクション吾嬬撮影所」で同作は製作された。井上がかつて育った深川に近い撮影所、また大活時代によくロケに使われた外人墓地でロケした同作は、マキノ・プロダクションの配給により、同年9月25日、浅草「大東京」で公開された。

1928年(昭和3年)、月形龍之介直木三十五によるツキガタ・プロダクション1929年(昭和4年)、片岡千恵蔵片岡千恵蔵プロダクションでそれぞれ監督作を発表、年末に松竹下加茂撮影所に入社する。

第二次世界大戦中も製作本数が減るなか撮りつづけ、終戦を迎える。戦後は1948年(昭和23年)に松竹京都作品を数本、翌1949年(昭和24年)12月20日公開のマキノ光雄プロデュースによる東横映画作品『弥次喜多猫化け道中』を最後に作品を発表しなくなる。このとき井上は48歳であった。

1954年(昭和29年)1月29日に死去。52歳没。その早すぎる死は、かつての盟友・内田吐夢の大陸抑留からの帰国に間に合わなかったが、内田の復帰作『血槍富士』(1955年)に「原作」として井上の名がクレジットされた。

関連事項

  1. ^ a b c 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「井上金太郎」の項(p.51-52)を参照。同項執筆は木村威夫
  2. ^ a b 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「古海卓二」の項(p.350-362)を参照。同項執筆は竹中労

外部リンク