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2016年6月7日 (火) 22:34時点における版

荒川 博
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都台東区
生年月日 (1930-08-06) 1930年8月6日(94歳)
身長
体重
163 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1953年
初出場 1953年3月22日
最終出場 1961年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

荒川 博(あらかわ ひろし、1930年8月6日 - )は、東京都台東区出身の元プロ野球選手外野手)・コーチ監督解説者

一時期、「博久(ひろひさ)」に改名。

経歴

早稲田実業学校から早稲田大学商学部へ進学。岩本尭とは同期で、広岡達朗と政治家の渡部恒三は後輩だった。東京六大学リーグでは通算81試合に出場し、打率.280(289打数81安打)・1本塁打・40打点を残した。

1953年毎日オリオンズに入団。現役時代は左の巧打者として鳴らし、チームメイトで早実の後輩でもあった榎本喜八を指導した。また、少年時代の王貞治を見出して母校の早実への進学を薦めた。1961年にチームから放出される形で退団し、現役引退

1962年から1970年にかけて巨人の一軍打撃コーチを務め、7回のリーグ優勝と日本一に貢献。早大の後輩・広岡達朗が犬猿の仲であった川上哲治監督に頭を下げてくれたため、荒川は毎日OBであったが巨人入りを果たした[1][2]。川上が荒川を雇った理由は、「その若さで榎本という素晴らしい打者を育て上げた」という一点のみだった[1][2][3]。コーチ時代は荒川道場と呼ばれる厳しい指導で、特に王に「一本足打法」を指導したことで知られる。一本足打法は後に駒田徳広らにも伝授しているが、王ほどの効果はなかった。王以外では柴田勲土井正三黒江透修高田繁末次民夫を育て、巨人の黄金期を支えた。

1967年中日戦で、円城寺満審判に対し判定を不服とし、柴田勲とともに同審判を小突き回し判定を変えさせたが、退場処分を受けた。同試合終了後に円城寺は審判引退を表明したが、その光景は、後に幾度となく審判との暴力沙汰を起こす事になる暴れん坊の金田正一をして「長年野球一筋で来た円城寺さんが殴られるのを見て、哀しくて見てられなかった」とコメントする程だった。

1968年阪神ジーン・バッキーが投げた王への危険球に端を発する乱闘で、荒川はバッキーに殴られて4針も縫う重傷を負い、殴ったバッキーも指を骨折した(バッキー荒川事件)。バッキーはこの怪我が致命傷となり、翌年の1969年オフに現役を引退している。なお、1985年頃に荒川は来日したバッキーと再会し、恩讐を越えて仲良く握手していた。

その後、養子の荒川尭がプロ入りしたのを期に、公私のけじめをつけるため巨人軍コーチを勇退する。1973年途中からヤクルトアトムズの一軍打撃コーチに就任し、翌1974年には監督を務めた。コーチ陣に広岡達朗小森光生沼澤康一郎と早大の後輩を配し、早大カルテットと称された。1976年5月12日、成績不振の責任をとり、辞任。

フジテレビ日本テレビの解説者となる。現在はフリーの野球評論家。少年野球の指導者としても活動している。2006年にはゲスト解説として久々に公に姿を見せた。

人物

養子は荒川尭。尭は1969年のドラフトで「巨人とアトムズ以外は拒否」を表明し、大洋ホエールズ指名を拒否。それを快く思わない暴漢に襲われ、その後ヤクルトへのすぐのトレードを条件に、大洋へ一時入団したことで知られる(詳細は「荒川事件」の項を参照)。

荒川は歌舞伎役者六世尾上菊五郎のファンであり、その六世菊五郎が著書『おどり』(時代社 1948年刊)の中に『間を習うために植芝(盛平)先生の所に行った』と記したのを読み、『(六世菊五郎のような)あの名人が習いに行くくらいだから本物の先生だろう』と思い、自身も合気道を習うべく植芝に入門したという[4]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1953 毎日
大毎
99 283 251 33 79 9 6 1 103 20 8 4 5 0 26 -- 1 11 4 .315 .381 .410 .791
1954 116 422 374 45 101 21 0 5 137 25 6 1 5 2 41 -- 0 23 9 .270 .341 .366 .707
1955 116 424 374 46 99 21 2 3 133 34 2 3 4 1 44 1 1 31 5 .265 .343 .356 .699
1956 122 370 319 27 67 16 2 0 87 35 2 1 2 1 46 0 2 7 13 .210 .313 .273 .586
1957 95 266 237 20 59 11 0 2 76 7 1 1 1 0 27 1 1 18 7 .249 .328 .321 .649
1958 97 306 279 30 66 14 3 4 98 33 1 0 2 2 23 1 0 24 6 .237 .293 .351 .644
1959 75 117 101 4 22 5 0 0 27 12 0 0 0 1 13 3 2 9 3 .218 .316 .267 .583
1960 36 37 31 2 3 1 0 1 7 3 0 0 0 0 4 1 2 6 2 .097 .243 .226 .469
1961 46 45 39 0 7 2 0 0 9 3 0 0 0 1 5 0 0 5 0 .179 .267 .231 .498
通算:9年 802 2770 2005 207 503 100 13 16 677 172 20 10 19 8 229 7 9 134 49 .251 .329 .338 .667
  • 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(大毎オリオンズ)に球団名を変更

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1974年 昭和49年 ヤクルト 3位 130 60 63 7 .488 12 111 .233 3.14 44歳
1975年 昭和50年 4位 130 57 64 9 .471 16 101 .245 3.31 45歳
1976年 昭和51年 5位 130 52 68 10 .433 28.5 128 .260 3.88 46歳
通算:3年 289 127 142 20 .472 Aクラス1回、Bクラス2回
※1 1974年から1996年までは130試合制
※2 1976年、成績不振により5月13日から休養(29試合10勝15敗4分 勝率.400)。監督代行は広岡達朗
※3 通算成績は、実際に指揮した試合

記録

背番号

  • 22 (1953年 - 1959年)
  • 6 (1960年 - 1961年)
  • 73 (1962年 - 1970年、1973年 - 1976年)

登録名

  • 荒川 博 (あらかわ ひろし、1953年 - 1954年、1957年 - 1976年)
  • 荒川 博久 (あらかわ ひろひさ、1955年 - 1956年)

関連情報

著書

  • 『ヒットの打ち方 - クリーンアップを打てるバッターへ』(1977年、かんき出版
  • 『君は王貞治になれるか』(1980年、山手書房)
  • 『生まれ変わるバッティング - 勝つための野球術』(2001年、新星出版社
  • 『王選手コーチ日誌 1962 - 1969 一本足打法誕生の極意』(2010年、講談社

出演番組

映画出演

脚注

  1. ^ a b 「私だけが知る『巨人V9の真実』第7回 荒川博」週刊ポスト、2014年10月3日号、138頁。
  2. ^ a b 王 貞治の一本足打法 - SportsClick
  3. ^ 沢木耕太郎著『敗れざる者たち』(1979年文春文庫
  4. ^ 季刊合気ニュース NO.142 2004年秋号 ISBN 4900586277 荒川博インタビュー「野球に生かす合気道」 p31より。

関連項目

外部リンク