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「山田勝彦 (野球)」の版間の差分

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|選手名 = 山田 勝彦
|選手名 = 山田 勝彦
|所属球団 = 阪神タイガース
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|役職 = コーチ
|役職 = 二軍バッテリーコーチ
|背番号 = 82
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* 阪神タイガース (2013 - )
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'''山田 勝彦'''(やまだ かつひこ、[[1969年]][[7月2日]] - )は、[[愛知県]][[名古屋市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[捕手]])野球指導者
'''山田 勝彦'''(やまだ かつひこ、[[1969年]][[7月2日]] - )は、[[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]]出身の元[[プロ野球選手]]([[捕手]])・[[プロ野球コーチ|コーチ]]


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
=== プロ入り前 ===
=== 現役時代 ===
中学時代は陸上部に所属し、投てき種目で[[ジュニアオリンピック]]に出場。[[東邦高等学校|東邦高校]]時代に投手から捕手に転向し、[[1986年]]には[[選抜高等学校野球大会|春の選抜]]に出場。通算24[[本塁打]]を放ち、卒業後の[[1987年]]に[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]3位で[[阪神タイガース]]へ入団。[[1989年]]にプロ入り初出場を果たすと、[[1991年]]からは出場機会が増え、打率1割台と打撃には苦しんだが、プロ初本塁打を含む2本塁打をマーク。5年目の[[1992年]]には正捕手として投手陣をリードし、チーム2位躍進に貢献。打撃では打率.204と苦しんだが、本塁打は前年を少しだけ上回る4本を記録した。その後は正捕手の座を手中にするかと思われたが、[[関川浩一]]・[[矢野燿大]]などの存在もあり、自身も伸び悩む。[[1999年]]には[[野村克也]]監督に守備面を酷評されるが、[[2000年]]には[[規定打席]]不足ながら打率.319をマークするなど打撃面で開眼し、同年[[8月24日]]の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦ではプロ初のサヨナラヒットを放つ。[[2002年]]には正捕手の矢野が故障離脱をしたものの、チャンスを生かせず、逆に出場機会が減る。同年のシーズンオフに[[下柳剛]]・[[中村豊 (野球)|中村豊]]との複数トレードで、[[伊達昌司]]と共に[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]へ移籍。春季キャンプでは開始後わずか25分で故障し、12球団最速でリタイアしてしまい話題となってしまう。[[高橋信二]]の成長や[[中嶋聡]]の加入もあり、[[2005年]]引退。
[[東邦高等学校|東邦高校]]では高校通算24[[本塁打]]を放った。[[1987年]]の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]3位で[[阪神タイガース]]に入団。


[[1996年]][[6月29日]]の対ヤクルト戦の[[古田敦也]]の打席で阪神の投手[[嶋田哲也]]が古田の頭部付近に[[ビーンボール]]球を3球続けて投げたことで古田が嶋田に激怒、山田が古田を制止しようとたところ古田が放り上げたバットが山田に当たったことから山田も激高し応酬したため、そこから両チーム入り乱れての大乱闘に発展した。また山田は乱闘の際に古田に投げられたのを始め、ヤクルトの[[トーマス・オマリー]]と[[ヘンスリー・ミューレンス]]に殴られるなど凄まじい結果となった。山田曰く、これは古田がインサイドをえげつなく投手に要求してくるからその報復の意味もあったと後に語っている。
=== プロ入り後 ===
=== 阪神時代 ===
高卒だったこともあり、1年目の[[1988年]]は1軍出場なしに終わった。


守備面でキャッチングに不安定さが見られ、リードも相手が打てないと見たら同じ球を要求し続けるワンパターンさ(特に山田自身が苦手としていた外角スライダーを要求することが多かった)、細かい制球力のない投手に際どいコースを要求するなど投手にあわせたリードが出来ない面も見受けられた。
[[1989年]]に1試合だけだったがプロ入り初出場を果たした。

翌年[[1990年]]は再び1軍出場なしに終わった。

[[1991年]]は出場機会が増え、打率1割台と打撃には苦しんだが、プロ初本塁打を含む2本塁打をマークし、66試合に出場した。

こうして徐々に捕手としての実力をつけていき、5年目の[[1992年]]には、114試合に出場。正捕手として投手陣をリードした。打撃では打率.204と苦しんだが、本塁打は前年を少しだけ上回る4本を記録した。この年の阪神のチーム[[防御率]]は2.90であり、2位躍進の最大の要因となるなど、リード面では活躍した。

[[1993年]]は63試合出場にとどまり、打撃でも成績を残せなかった。

[[1994年]]も打撃不振が仇となり、58試合の出場に終わった。

[[1995年]]はさらに出場機会が減り、プロ初出場した1989年を除いて、初めて打席数が試合数を下回り、ましてや打率も1割にすら達しないシーズンとなった。

[[1996年]]6月29日の対ヤクルト戦の[[古田敦也]]の打席で阪神の投手[[嶋田哲也]]が古田の頭部付近に[[ビーンボール]]球を3球続けて投げたことで古田が嶋田に激怒、山田が古田を制止しようとたところ古田が放り上げたバットが山田に当たったことから山田も激高し応酬したため、そこから両チーム入り乱れての大乱闘に発展した。また山田は乱闘の際に古田に投げられたのを始め、ヤクルトの[[トーマス・オマリー]]と[[ヘンスリー・ミューレンス]]に殴られるなど凄まじい結果となった。山田曰く、これは古田がインサイドをえげつなく投手に要求してくるからその報復の意味もあったと後に語っている。同年は再び出場機会に恵まれるようになり、99試合の出場した。ただし、打率.190と打撃面では苦しんだ

[[1997年]]も正捕手に近い形での起用となり、92試合に出場し、1992年と同数の4本塁打を放ち、打率でも.262を記録するなど打撃面でも期待に応える形となった。

[[1998年]]は[[中日ドラゴンズ]]から[[矢野燿大|矢野輝弘]]が加入した。正捕手には矢野が起用されてしまい、同年は69試合に出場したものの、打率.203と打撃面でも精彩を欠くようになった。

[[1999年]]は[[昭和]]の名捕手で、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]を優勝に導くなど1990年代の常勝チームに育て上げ、正捕手[[古田敦也]]を育てた[[野村克也]]が新監督に就任した。野村は捕手に対しては重点的に見ており、山田の守備面に対して疑問に持つことが多かった。そのため出番が減少するようになった。前年同様正捕手には矢野が起用されてしまい、前年より出場機会を減らし、21試合の出場にとどまった。

[[2000年]]は若干出場機会が増加し、45試合に出場し、[[規定打席]]不足ながらも打率.319をマークした。

[[2001年]]は2番手捕手のような起用がなされ、54試合の出場し、打撃でも前年より若干下がったとはいえ、打率.276をマークするなど、打撃面では一定の成績を残した。なおこの年限りで野村は監督を辞任した。

[[2002年]]は正捕手の矢野が故障離脱をしたものの、チャンスを生かせず、逆に出場機会が減り、39試合の出場にとどまり、打撃面でも1割台と不調に終わってしまった。この年から監督に就任した[[星野仙一]]のチームの大改革もあり、オフに[[下柳剛]]・[[中村豊 (野球)|中村豊]]との複数トレードで[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に[[伊達昌司]]と共に移籍した。

1992年に114試合に出場してから、翌年以降正捕手の座を手中にするかと思われたが、[[関川浩一]]や[[矢野燿大|矢野輝弘]](関川らとのトレードで加入)などの存在に加え、自身も伸び悩み、非力な打撃も災いして1992年以外に100試合以上出場したシーズンはなかった。守備面でキャッチングに不安定さが見られ、リードも相手が打てないと見たら同じ球を要求し続けるワンパターンさ(特に山田自身が苦手としていた外角スライダーを要求することが多かった)、細かい制球力のない投手に際どいコースを要求するなど投手にあわせたリードが出来ない面も見受けられ、[[野村克也]]監督には酷評された<ref>ただし、野村は山田の性格の真面目さやコーチとしての適正は後に出版された著書の一冊である「阪神タイガース暗黒時代再び」で評価している。</ref>

=== 日本ハム時代 ===
移籍1年目の[[2003年]]は翌春のキャンプでキャンプ開始後わずか25分で故障して12球団最速でリタイアしてしまい話題となってしまった。前年までの正捕手[[野口寿浩]]の移籍で正捕手を狙ったが、[[高橋信二]]の成長もあり、40試合の出場終わり、打撃面でも不調だったがそれなりに存在感を見せた。

しかし、翌年[[2004年]]は右肘の故障や前年成長した高橋信二が26本塁打を放ち、[[規定打席]]に到達するほどの活躍を見せたことから、出場機会が大幅に激減し、3試合の出場に終わった。さらにこの年は打席に立つことはなかった。

[[2005年]]は高橋信二の故障離脱でチャンスが来るかに思えたが、この年も故障や[[中嶋聡]]の出場が増えたこともあり、1試合の出場に留まった。また、この年も打席に立つことはなかった。オフにこの年限りでの引退を表明した。


=== 現役引退後 ===
=== 現役引退後 ===
引退後球団側から二軍バッテリーコーチ就任の要請があったがこれを辞退、阪神時代の監督である野村を慕って[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]のバッテリーコーチに就任し、[[2010年]]まで務めた。その後[[2011年]]から[[2012年]]まで[[オリックス・バファローズ]]の一軍バッテリーコーチを務め<ref>http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/1385.html</ref>、[[2013年]]からは古巣阪神の一軍バッテリーコーチ、[[2016年]]からは二軍バッテリーコーチを務める。
引退後球団側から二軍バッテリーコーチ就任の要請があったがこれを辞退。[[2006年]]、阪神時代の監督である野村を慕って[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の一軍バッテリーコーチに就任。試合前に投手、捕手と共に対戦相手を抑える為のシュミレーションを、試合後は実際の対戦データをチェック。試合の無い月曜日も休日返上でコーチ室に籠り、対戦データやビデオ映像から、1番 - 9番まで、1打席ずつ、1球ごとに配球をシュミレート→分析→ミーティングで投手と捕手にアドバイス。試合では盗塁・エンドラン・スクイズの気配を読み取り、何度も窮地を救った。[[嶋基宏]]を正捕手に育て上げ、[[2010年]]退任。その後[[2011年]]から[[2012年]]まで[[オリックス・バファローズ]]の一軍バッテリーコーチを務め<ref>http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/1385.html</ref>、[[伊藤光]]を育てた。[[2013年]]からは古巣阪神の一軍バッテリーコーチ、[[2016年]]からは二軍バッテリーコーチを務める。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==

2016年7月10日 (日) 04:50時点における版

山田 勝彦
阪神タイガース 二軍バッテリーコーチ #82
2016年3月20日 阪神鳴尾浜球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市熱田区
生年月日 (1969-07-02) 1969年7月2日(55歳)
身長
体重
183 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1987年 ドラフト3位
初出場 1989年10月15日
最終出場 2005年4月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

山田 勝彦(やまだ かつひこ、1969年7月2日 - )は、愛知県名古屋市熱田区出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ

来歴・人物

現役時代

中学時代は陸上部に所属し、投てき種目でジュニアオリンピックに出場。東邦高校時代に投手から捕手に転向し、1986年には春の選抜に出場。通算24本塁打を放ち、卒業後の1987年ドラフト3位で阪神タイガースへ入団。1989年にプロ入り初出場を果たすと、1991年からは出場機会が増え、打率1割台と打撃には苦しんだが、プロ初本塁打を含む2本塁打をマーク。5年目の1992年には正捕手として投手陣をリードし、チーム2位躍進に貢献。打撃では打率.204と苦しんだが、本塁打は前年を少しだけ上回る4本を記録した。その後は正捕手の座を手中にするかと思われたが、関川浩一矢野燿大などの存在もあり、自身も伸び悩む。1999年には野村克也監督に守備面を酷評されるが、2000年には規定打席不足ながら打率.319をマークするなど打撃面で開眼し、同年8月24日ヤクルト戦ではプロ初のサヨナラヒットを放つ。2002年には正捕手の矢野が故障離脱をしたものの、チャンスを生かせず、逆に出場機会が減る。同年のシーズンオフに下柳剛中村豊との複数トレードで、伊達昌司と共に日本ハムファイターズへ移籍。春季キャンプでは開始後わずか25分で故障し、12球団最速でリタイアしてしまい話題となってしまう。高橋信二の成長や中嶋聡の加入もあり、2005年引退。

1996年6月29日の対ヤクルト戦の古田敦也の打席で阪神の投手嶋田哲也が古田の頭部付近にビーンボール球を3球続けて投げたことで古田が嶋田に激怒、山田が古田を制止しようとたところ古田が放り上げたバットが山田に当たったことから山田も激高し応酬したため、そこから両チーム入り乱れての大乱闘に発展した。また山田は乱闘の際に古田に投げられたのを始め、ヤクルトのトーマス・オマリーヘンスリー・ミューレンスに殴られるなど凄まじい結果となった。山田曰く、これは古田がインサイドをえげつなく投手に要求してくるからその報復の意味もあったと後に語っている。

守備面ではキャッチングに不安定さが見られ、リードも相手が打てないと見たら同じ球を要求し続けるワンパターンさ(特に山田自身が苦手としていた外角スライダーを要求することが多かった)、細かい制球力のない投手に際どいコースを要求するなど投手にあわせたリードが出来ない面も見受けられた。

現役引退後

引退後は球団側から二軍バッテリーコーチ就任の要請があったが、これを辞退。2006年、阪神時代の監督である野村を慕って東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍バッテリーコーチに就任。試合前に投手、捕手と共に対戦相手を抑える為のシュミレーションをし、試合後は実際の対戦データをチェック。試合の無い月曜日も休日返上でコーチ室に籠り、対戦データやビデオ映像から、1番 - 9番まで、1打席ずつ、1球ごとに配球をシュミレート→分析→ミーティングで投手と捕手にアドバイス。試合では盗塁・エンドラン・スクイズの気配を読み取り、何度も窮地を救った。嶋基宏を正捕手に育て上げ、2010年退任。その後は2011年から2012年までオリックス・バファローズの一軍バッテリーコーチを務め[1]伊藤光を育てた。2013年からは古巣・阪神の一軍バッテリーコーチ、2016年からは二軍バッテリーコーチを務める。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 阪神 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1991 66 166 149 14 19 4 0 2 29 6 0 0 6 1 10 1 0 41 3 .128 .181 .195 .376
1992 114 340 313 17 64 12 0 4 88 31 0 1 9 3 14 8 1 81 7 .204 .239 .281 .520
1993 63 115 108 7 19 3 0 0 22 2 0 0 4 0 2 2 1 31 1 .176 .198 .204 .402
1994 58 114 103 8 21 2 0 3 32 8 2 0 4 1 6 0 0 17 1 .204 .245 .311 .556
1995 30 19 16 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 2 0 0 7 0 .063 .167 .063 .229
1996 99 301 274 19 52 9 0 2 67 18 0 0 6 3 17 4 1 52 9 .190 .237 .245 .482
1997 92 238 214 14 56 16 0 4 84 21 0 0 6 0 17 2 1 37 7 .262 .319 .393 .711
1998 69 146 138 4 28 2 0 0 30 6 0 0 0 1 6 1 1 26 5 .203 .240 .217 .457
1999 21 39 35 2 5 1 0 0 6 0 0 0 3 0 1 0 0 8 2 .143 .167 .171 .338
2000 45 102 94 6 30 4 1 2 42 11 0 0 4 1 2 2 1 21 2 .319 .337 .447 .784
2001 54 147 134 14 37 7 0 2 50 10 0 2 4 1 7 2 1 31 8 .276 .315 .373 .688
2002 39 106 97 9 15 3 0 1 21 9 0 0 3 0 6 2 0 21 6 .155 .204 .216 .420
2003 日本ハム 40 82 77 7 13 1 0 1 17 8 1 0 2 0 3 0 0 15 3 .169 .200 .221 .421
2004 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
2005 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:16年 795 1916 1753 121 360 64 1 21 489 130 3 3 52 11 93 24 7 388 54 .205 .247 .279 .526

記録

背番号

  • 61 (1988年 - 1991年)
  • 35 (1992年、2005年)
  • 27 (1993年 - 2002年)
  • 24 (2003年 - 2004年)
  • 70 (2006年 - 2010年)
  • 72 (2011年 - 2012年)
  • 82 (2013年 - )

脚注

関連項目

外部リンク