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== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 太平洋戦争以前 ===
医師・佐藤慶治の息子として[[東京]]で生れる。[[静岡県立静岡高等学校|静岡中学校]]を経て、[[1916年]]11月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#44期|44期]])を卒業し、[[1917年]]12月、海軍[[少尉]]に任官。運送艦「[[能登呂 (水上機母艦)|能登呂]]」[[分隊]]長、[[鎮海警備府|鎮海防備隊]]分隊長などを経て、[[海軍水雷学校]]高等科で学ぶ。
医師・佐藤慶治の息子として[[東京]]で生れる。[[静岡県立静岡高等学校|静岡中学校]]を経て、[[1916年]](大正5年)11月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#44期|44期]])を卒業し、11月22日附で海軍[[少尉候補生]]<ref name="S10士官名簿">現役海軍士官名簿. 昭和10年1月1日調。 {{NDLDC|1905470}} p.75 少佐4.11.30 大尉11.12.1 少尉6.12.1 出身5.11.22(少尉候補生)</ref><ref name="大正kp1294">大正6年11月24日官報第1294号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2953407}} pp.2-4(佐藤康夫p.3少尉候補生《原文516》、p.4常磐乗組《原文518》)</ref>。[[浅間型装甲巡洋艦]]2番艦「[[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]]」乗組<ref name="大正kp1294"/>。同期には、[[西田正雄]](第三次ソロモン海戦時の戦艦「[[比叡 (戦艦)|比叡]]」艦長)、[[黒島亀人]](開戦時の連合艦隊参謀)、[[柳本柳作]](空母「[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]」艦長)、[[早川幹夫]](重巡「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」艦長)、[[松田千秋]](戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」艦長)、[[朝倉豊次]](戦艦「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]」艦長)、[[篠田勝清]](戦艦「[[山城 (戦艦)|山城]]」艦長)等がいる<ref name="大正kp1294"/>。


[[1917年]](大正6年)8月17日、佐藤康夫や小西要人少尉候補生は[[扶桑型戦艦]]1番艦「[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]」乗組を命じられる<ref name="大正kp1515">大正6年8月18日 官報第1515号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2953629}} p.5佐藤扶桑乗組《原文393》</ref>。12月1日附で、海軍[[少尉]]に任官<ref name="S10士官名簿"/><ref name="大正kp1601">大正7年12月3日 官報第1601号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2953714}} p.8佐藤少尉任官《原文46》、p.25佐藤平戸乗組《原文81》</ref>。[[筑摩型防護巡洋艦]]3番艦「[[平戸 (防護巡洋艦)|平戸]]」乗組<ref name="大正kp1601"/>。
以後、「[[楢型駆逐艦|欅]]」乗組、「[[矢矧 (防護巡洋艦)|矢矧]]」・潜水母艦「韓崎」の各水雷長、「[[神風型駆逐艦 (初代)|第11号掃海艇]]」(長月 [I])艇長、「[[樺型駆逐艦|楓]]」「[[桃型駆逐艦|桃]]」「[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]」「[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]」「[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]」の各駆逐[[艦長]]、馬公防備隊副長、第1防備隊[[司令]]、「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」副長、第5駆逐隊司令などを歴任し、[[1940年]]11月、海軍[[大佐]]に進級。
その後、[[海軍水雷学校]]高等科で学ぶ。
1919年(大正8年)12月1日附で海軍[[中尉]]任官<ref>大正8年12月2日官報第2119号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2954312}} p.7(42頁、下段)</ref>。


小型艦の乗組を経て、1922年(大正11年)12月1日附で海軍[[大尉]]任官<ref name="S10士官名簿"/><ref>大正11年12月2日官報第3102号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2955221}} p.5(57頁中段)</ref>。12月20日附で運送艦「[[能登呂 (水上機母艦)|能登呂]]」[[分隊]]長に補職される<ref name="大正kp3118">大正11年12月21日官報第3118号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2955238}} p.3</ref>。
[[太平洋戦争]]を第9駆逐隊司令として迎え、数々の海戦や作戦に参加した。第8駆逐隊司令転属直後の1943年3月3日、[[ビスマルク海海戦]]に参加、[[ダンピア海峡|ダンピール海峡]]において司令駆逐艦「朝潮」と運命を共にした。

1924年(大正13年)4月25日附で、能登呂分隊長から[[鎮海警備府|鎮海防備隊]]分隊長へ転勤<ref name="大正kp3500">大正13年4月26日官報第3500号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2955648}} p.3</ref>。10月25日附で横須賀鎮守府附となる<ref name="大正kp3654">大正13年10月27日官報第3654号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2955802}} p.6</ref>。以後、「[[楢型駆逐艦|欅]]」乗組を経て、1925年(大正15年)12月1日附で[[筑摩型防護巡洋艦]]2番艦「[[矢矧 (防護巡洋艦)|矢矧]]」水雷長に補職<ref name="大正kp4283">大正15年12月2日(木)官報第4283号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2956433}} p.11</ref>。

1927年(昭和2年)12月1日、潜水母艦「韓崎」水雷長<ref name="kp279">昭和2年12月2日(金)官報第279号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2956739}} p.9</ref>。1928年(昭和3年)12月10日附で[[潮型掃海艇]]の第十一号掃海艇([[神風型駆逐艦 (初代)|旧初代神風型駆逐艦「長月」]])<ref>[[#達昭和3年6月]]pp.7-10『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス 昭和三年六月二十日 海軍大臣 岡田啓介|掃海艇 長月 ヲ 第十一號掃海艇 トス』</ref>艇長に任命される<ref name="kp587">昭和3年12月11日(火)官報第587号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2957052}} p.10</ref>。

1934年(昭和4年)5月10日、佐藤は[[樺型駆逐艦]]「楓」駆逐艦長に補職<ref name="kp707">昭和4年5月11日(土)官報第707号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2957173}} p.3</ref>。同年11月30日附で、海軍[[少佐]]任官<ref name="S10士官名簿"/><ref name="kp878">昭和4年12月2日(月)官報第878号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2957345}} p.6(11頁二段目)</ref>。

1930年(昭和5年)12月1日、[[桃型駆逐艦]](二等駆逐艦)1番艦「桃」駆逐艦長<ref name="kp1179">昭和5年12月2日(火)官報第1179号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2957646}} p.11</ref>。

1932年(昭和7年)11月15日、[[神風型駆逐艦 (2代)|神風型駆逐艦]]3番艦「[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]」駆逐艦長に任命される<ref name="kp1765">昭和7年11月16日(水)官報第1765号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2958236}} p.3</ref>。

1934年(昭和9年)11月15日、佐藤は[[吹雪型駆逐艦]]12番艦「[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]」駆逐艦長となる(前任の敷波駆逐艦長は[[伊崎俊二]]中佐)<ref name="kp2364">昭和9年11月16日(金)官報第2364号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2958840}} p.10</ref>。
敷波駆逐艦長として活動中の1935年(昭和10年)11月15日附で、海軍[[中佐]]任官<ref name="kp2663">昭和10年11月16日(土)官報第2663号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2959142}} p.3(368頁三段目)</ref>。
[[1936年]](昭和11年)12月1日附で、吹雪型21番艦「[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]」駆逐艦長<ref name="官報2976">昭和11年12月02日 官報第2976号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2959458}} p.22</ref>。

[[1937年]](昭和12年)7月6日附で、佐藤は建造中の[[朝潮型駆逐艦]]3番艦「[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]」艤装員長に補職(後任の暁駆逐艦長は[[篠田勝清]]少佐)<ref name="官報3013">昭和12年7月7日 官報第3152号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2959635}} p.8</ref>。10月31日、巡洋艦2隻([[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]])、朝潮型駆逐艦2隻([[大潮 (駆逐艦)|大潮]]、満潮)は同時に竣工。佐藤は制式に満潮駆逐艦長(初代)となる<ref name="jirei84">{{アジア歴史資料センター|C13072072400|昭和12年10月31日(発令10月31日付)海軍辞令公報(号外)第84号 p.47}}</ref>。
12月1日、佐藤(満潮艦長)は馬公防備隊副長へ転任する<ref name="jirei99">{{アジア歴史資料センター|C13072072700|昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(号外)第99号 pp.27-28}}</ref>。

[[1938年]](昭和13年)8月1日、佐藤中佐は第1防備隊[[司令]]へ転任(後任の馬公防備隊副長は、駆逐艦「[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]」初代駆逐艦長[[森可久]]少佐)<ref name="jirei219">{{アジア歴史資料センター|C13072074200|昭和13年8月5日(発令8月5日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第219号 p.1佐藤補職、p.2森補職}}</ref>。

[[1939年]](昭和14年)11月15日、佐藤は[[妙高型重巡洋艦]]2番艦「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」副長に補職<ref name="jirei402">{{アジア歴史資料センター|C13072076700|昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.27八代補職、p.39佐藤補職}}</ref>。同日附で[[八代祐吉]]大佐(当時、重巡[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]艦長)も那智艦長に任命された<ref name="jirei402"/>。

[[1940年]](昭和15年)7月20日附で那智副長の任を解かれ、呉鎮守府附<ref name="jirei506">{{アジア歴史資料センター|C13072078400|昭和15年7月20日(発令7月20日付)海軍辞令公報(部内限)第506号 p.38}}</ref>。8月15日、佐藤中佐は[[杉浦嘉十]]中佐の後任として'''第5駆逐隊'''司令に補職<ref name="jirei517">{{アジア歴史資料センター|C13072078700|昭和15年8月15日(発令8月15日付)海軍辞令公報(部内限)第517号 p.48}}</ref>。
同年11月15日、海軍[[大佐]]に進級<ref name="jirei554">{{アジア歴史資料センター|C13072079400|昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第554号 p.16}}</ref>。同日附で日本海軍は第五水雷戦隊(司令官[[原顕三郎]]少将、旗艦「[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]」)を編制<ref name="jirei555">{{アジア歴史資料センター|C13072079400|昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第555号 p.47}}</ref>。第5駆逐隊は第五水雷戦隊所属となり、佐藤大佐は引き続き神風型駆逐艦4隻([[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]、[[旗風 (駆逐艦)|旗風]]、[[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]]、[[朝風 (2代神風型駆逐艦)|朝風]])の第5駆逐隊を指揮して支那事変の最前線で活動する。

[[1941年]](昭和16年)4月10日、佐藤大佐(第5駆逐隊司令)は[[朝潮型駆逐艦]]4隻([[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]])で編制された'''第9駆逐隊'''の駆逐隊司令に任命される(佐藤の後任の第5駆逐隊司令は、重巡[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]副長[[小川莚喜]]中佐)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072080700|昭和16年4月10日(発令4月10日付)海軍辞令公報(部内限)第615号 p.44}}</ref>。当時のの第9駆逐隊は第四水雷戦隊(司令官[[西村祥治]]少将、旗艦「[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]」)に所属していた。

[[太平洋戦争]]を第9駆逐隊司令として迎え、数々の海戦や作戦に参加した。第8駆逐隊司令転属<ref name="jirei1054"/>直後の1943年(昭和18年)[[3月3日]]、[[ビスマルク海海戦]]に参加、[[ダンピア海峡|ダンピール海峡]]において司令駆逐艦「朝潮」沈没時戦死した。太平洋戦争における経歴は以下のとおり


===スラバヤ沖海戦===
===スラバヤ沖海戦===
{{main|スラバヤ沖海戦}}
{{main|スラバヤ沖海戦}}


佐藤康夫(当時海軍大佐、第9駆逐隊司令)は、1942年2月27日-3月1日に起きた『スラバヤ沖海戦』で名を馳せた<ref name="巡洋艦戦記140">[[#巡洋艦戦記]]140-142頁『猛進駆逐隊』</ref>。2月27日昼戦において、第五戦隊(重巡[[那智 (重巡洋艦)|那智]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])、第二水雷戦隊(司令官[[田中頼三]]少将:軽巡「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」)、第四水雷戦隊(司令官[[西村祥治]]少将:軽巡「[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]」)は[[酸素魚雷]]の長射程を頼りに一万m以上で魚雷を発射した<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]444頁</ref>。高木司令からの全軍突撃命令がくだされたあとの第四水雷戦隊子隊の第2駆逐隊([[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]])による雷撃も距離8000mほどだった。ところが第四水雷戦隊・第9駆逐隊(佐藤司令)は駆逐艦[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲《司令駆逐艦》]]」と「[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]を率いて、さらに敵艦隊に接近した<ref name="佐藤艦長続445">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]445頁</ref>。
佐藤康夫(当時海軍大佐、第9駆逐隊司令)は、1942年(昭和17年)2月27日-3月1日に起きた『スラバヤ沖海戦』で名を馳せた<ref name="巡洋艦戦記140">[[#巡洋艦戦記]]140-142頁『猛進駆逐隊』</ref>。2月27日昼戦において、第五戦隊(重巡[[那智 (重巡洋艦)|那智]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])、第二水雷戦隊(司令官[[田中頼三]]少将:軽巡「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」)、第四水雷戦隊(司令官[[西村祥治]]少将:軽巡「[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]」)は[[酸素魚雷]]の長射程を頼りに一万m以上で魚雷を発射した<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]444頁</ref>。高木司令からの全軍突撃命令がくだされたあとの第四水雷戦隊子隊の第2駆逐隊([[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]])による雷撃も距離8000mほどだった。ところが第四水雷戦隊・第9駆逐隊(佐藤司令)は指揮下の駆逐艦2隻([[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]」[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]を率いて、さらに敵艦隊に接近した<ref name="佐藤艦長続445">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]445頁</ref>。
日本艦隊の他隊が次々に魚雷を発射し反転していくのを見て、「朝雲」水雷長が「司令、もう撃ちましょう」と何度も催促するのを「もうちっと、もうちっと」と発射の号令を下さなかった。仮屋貞雄大尉(朝雲砲術長)によれば、岩橋透中佐(朝雲駆逐艦長)が「第2駆逐隊と同じく距離8000mでの発射と退避」を進言したのに対して佐藤司令は「艦長、後ろを見るな」と一言し、肉薄攻撃を続けた<ref name="佐藤艦長続445"/>。
日本艦隊の他隊が次々に魚雷を発射し反転していくのを見て、「朝雲」水雷長が「司令、もう撃ちましょう」と何度も催促するのを「もうちっと、もうちっと」と発射の号令を下さなかった。仮屋貞雄大尉(朝雲砲術長)によれば、岩橋透中佐(朝雲駆逐艦長)が「第2駆逐隊と同じく距離8000mでの発射と退避」を進言したのに対して佐藤司令は「艦長、後ろを見るな」と一言し、肉薄攻撃を続けた<ref name="佐藤艦長続445"/>。
5000m([[戦史叢書]]では6000m)まで接近したところで魚雷を発射<ref name="佐藤艦長続446">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]446頁</ref>。しかし尚も反転せずにそのまま直進を続け敵艦隊に肉薄しつづけた。これに対して連合軍艦隊はイギリス駆逐艦「[[エンカウンター (駆逐艦)|エンカウンター]]」と「エレクトラ」が反撃した<ref name="佐藤艦長続446"/>。距離3000mでの砲撃戦で「エレクトラ」は航行不能となったが、反撃の一弾が「朝雲」の機械室に命中し、電源故障を起こした<ref name="佐藤艦長続446"/>。電源が止まった「朝雲」ではあったが佐藤大佐の「砲は人力で操作せよ、砲撃を続行せよ」との命令の下、砲塔の各個照準砲撃と「峯雲」の砲撃により、ついに「エレクトラ」を撃沈した<ref name="佐藤艦長続446"/>。朝雲、峯雲の活躍を見ていた「村雨」水雷長は佐藤司令の一瞬の決心と実行力に感嘆している<ref name="佐藤艦長続446"/>。
5000m([[戦史叢書]]では6000m)まで接近したところで魚雷を発射<ref name="佐藤艦長続446">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]446頁</ref>。しかし尚も反転せずにそのまま直進を続け敵艦隊に肉薄しつづけた。これに対して連合軍艦隊はイギリス駆逐艦「[[エンカウンター (駆逐艦)|エンカウンター]]」と「エレクトラ」が反撃した<ref name="佐藤艦長続446"/>。距離3000mでの砲撃戦で「エレクトラ」は航行不能となったが、反撃の一弾が「朝雲」の機械室に命中し、電源故障を起こした<ref name="佐藤艦長続446"/>。電源が止まった「朝雲」ではあったが佐藤大佐の「砲は人力で操作せよ、砲撃を続行せよ」との命令の下、砲塔の各個照準砲撃と「峯雲」の砲撃により、ついに「エレクトラ」を撃沈した<ref name="佐藤艦長続446"/>。9駆(朝雲、峯雲の活躍を見ていた「村雨」水雷長は佐藤司令の一瞬の決心と実行力に感嘆している<ref name="佐藤艦長続446"/>。
2月27日昼戦の日本側指揮官であった第五戦隊司令官[[高木武雄]]少将も、この第9駆逐隊と佐藤大佐の奮闘ぶりを特筆し、称賛している。<!---スラバヤ沖海戦総指揮官は蘭印部隊指揮官高橋伊望中将。--->もっとも第9駆逐隊は軽巡1隻の撃沈報告しており、戦果検討の席上で異論に対し佐藤が「遠くへ逃げてばかりいた奴になにがわかるか!」と怒鳴り付けた一幕もあった<ref name="巡洋艦戦記140"/>。
2月27日昼戦の日本側指揮官であった第五戦隊司令官[[高木武雄]]少将も、この第9駆逐隊と佐藤大佐の奮闘ぶりを特筆し、称賛している。<!---スラバヤ沖海戦総指揮官は蘭印部隊指揮官高橋伊望中将。--->もっとも第9駆逐隊は「エレクトラ」撃沈・「エンカウンター」撃退の戦果に対し、軽巡1隻・駆逐艦2隻の撃沈報告しており<ref>[[#四水戦スラバヤ(4)]]p.25『(ロ)「スラバヤ」沖海戰ニ於テ朝雲峯雲ハ巡洋艦三隻駆逐艦三隻ノ優秀ナル敵ト交戰勇戰敢闘敵巡洋艦一隻駆逐艦二隻ヲ撃沈シ以テ我ガ水雷戰隊ノ本領ヲ遺憾ナク發揮シ帝國海軍ノ傳統ニ光輝アラシメタリ』</ref>、戦果検討の席上で異論に対し佐藤が「遠くへ逃げてばかりいた奴になにがわかるか!」と怒鳴り付けた一幕もあった<ref name="巡洋艦戦記140"/>。


===ガダルカナル島の戦い===
===ガダルカナル島の戦い===
佐藤を非常に褒めていたのが、[[橋本信太郎]]少将(ガダルカナル島戦当時、第三水雷戦隊司令官。昭和18年2月より水雷学校校長)である<ref name="佐藤艦長続447">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]447-450頁『武人としての心構え』</ref>。制空権・制海権のない海域における駆逐艦による輸送作戦([[鼠輸送]])によって損傷艦が続出し、自分から輸送作戦参加を申し出る駆逐隊司令はいなかった<ref name="佐藤艦長続447"/>。橋本司令官が迷っていると、佐藤は「私の隊にやらせて下さい」と申し出たという<ref name="佐藤艦長続447"/>。橋本少将は佐藤について『淡々として、しかも謙虚、まことに頭が下がる思いであった』と水雷学校で語ったという<ref name="佐藤艦長続447"/>。佐藤は引続き「朝雲」を司令駆逐艦として戦場にのぞんだが、10月2日に第9駆逐隊「[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]」が被弾して内地へ回航される。10月11-12日の[[サボ島沖海戦]]では重巡洋艦「[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]」と駆逐艦「[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]]」救援におもむくが空襲により第9駆逐隊「[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]」が沈没したため、「朝雲」をして乗組員を救助した。第9駆逐隊は「朝雲」1隻となり、[[第三次ソロモン海戦]]や[[ケ号作戦]]に参加した。
佐藤を非常に褒めていたのが、[[橋本信太郎]]少将([[ガダルカナル島い|ガダルカナル島戦]]当時、第三水雷戦隊司令官。昭和18年2月14日、三水戦司令官を[[木村昌福]]少将と交替<ref name="jirei1053">{{アジア歴史資料センター|C13072089700|昭和18年2月15日(発令2月14日)海軍辞令公報(部内限)第1053号 p.28}}</ref>。3月15日より水雷学校校長<ref name="jirei1069">{{アジア歴史資料センター|C13072090000|昭和18年3月15日(発令3月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1069号 p.6}}</ref>)である<ref name="佐藤艦長続447">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]447-450頁『武人としての心構え』</ref>。制空権・制海権のない海域における駆逐艦による輸送作戦([[鼠輸送]])によって損傷艦が続出し、自分から輸送作戦参加を申し出る駆逐隊司令はいなかった<ref name="佐藤艦長続447"/>。橋本司令官が迷っていると、佐藤は「私の隊にやらせて下さい」と申し出たという<ref name="佐藤艦長続447"/>。橋本少将は佐藤について『淡々として、しかも謙虚、まことに頭が下がる思いであった』と水雷学校で語ったという<ref name="佐藤艦長続447"/>。佐藤は引続き「朝雲」を司令駆逐艦として戦場にのぞんだが、10月2日に第9駆逐隊「[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]」が被弾して内地へ回航される。10月11-12日の[[サボ島沖海戦]]では重巡洋艦「[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]」と駆逐艦「[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]]」(第11駆逐隊)救援におもむくが空襲により第9駆逐隊「[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]」が沈没したため、「朝雲」をして乗組員を救助した。健在の第9駆逐隊は「朝雲」1隻となり<ref>[[#内令昭和17年11月(4)]]p.25『内令第二千百十七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年十一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「夏雲、」ヲ削ル|第十一驅逐隊ノ項中「吹雪、」及「、叢雲」ヲ削ル』</ref>、[[第三次ソロモン海戦]]や[[ケ号作戦]]に参加した。


===その最期===
===その最期===
{{main|ビスマルク海海戦}}
{{main|ビスマルク海海戦}}


1943年(昭和18年)2月15日、佐藤は[[朝潮型駆逐艦]]4隻(朝潮、大潮、満潮、荒潮)で編制された第8駆逐隊司令に任命された<ref name="jirei1054">{{アジア歴史資料センター|C13072089700|昭和18年2月15日(発令2月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1054号 p.31佐藤・小西補職・山代免職}}『第九驅逐隊司令海軍大佐 佐藤康夫(五七二)補第八驅逐隊司令/第八驅逐隊司令海軍大佐 山代勝守(七八二)横須賀鎮守府附被仰付』</ref>。後任の第9駆逐隊司令[[小西要人]]大佐(後日、空母「[[雲龍 (空母)|雲龍]]」艦長として戦死)<ref name="jirei1054"/>、佐藤とは海軍兵学校同期である<ref name="大正kp1294"/>。だが佐藤が初代駆逐艦長を務めた朝潮型3番艦「[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]」は11月13日の[[第三次ソロモン海戦]]で大破、戦闘不能状態だった。
1943年(昭和18年)2月15日、佐藤は[[朝潮型駆逐艦]]4隻(朝潮、荒潮、大潮、満潮)で編制された第8駆逐隊司令に任命された。だが「[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]」は[[バリ島沖海戦]]で大破して戦闘不能状態で既に内地で修理中であり、2月20日に「[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]」が米潜水艦に撃沈され、実働戦力は「朝潮、荒潮」の2隻のみとなる。同月末、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は東部ニューギニアの要衝ラエに対する増援作戦「八十一号作戦」に護衛部隊として参加<ref name="佐藤艦長続447"/>。日本海軍と日本陸軍の妥協の産物である本作戦は、作戦を立案した海軍側でも成算の見込みがほとんど無く、全滅の可能性が高いことは実施部隊の中では認識されていた。佐藤はラバウル出撃の前の晩に海兵の一期下で同じ分隊であった特務艦「[[野島 (給炭艦)|野島]]」艦長松本亀太郎大佐と酒を酌み交わした際に、「今度の作戦は危ないかもしれん。貴様の艦がやられたときにはすぐに飛んでいって救助してやるから安心しろ」と約束していた<ref name="将器63">[[#戦場の将器]]63頁</ref>。本作戦には、かつて佐藤が司令駆逐艦としていた「朝雲」も加わっていた。
2月20日、佐藤が乗艦する朝潮型2番艦「[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]」は米潜水艦[[アルバコア (SS-218)|アルバコア]] (''USS Albacore, SS-218'')に撃沈され、佐藤は司令駆逐艦を臨時に「荒潮」に変更<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070429900|昭和18年3月17日(金)海軍公報(部内限)第4342号 p.17}}『○司令驅逐艦變更 第八驅逐隊司令ハ二月二十一日司令驅逐艦ヲ荒潮ニ變更セリ』</ref>。実動戦力は2隻(朝潮、荒潮)のみとなる。
同月末、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は東部ニューギニアの要衝ラエに対する増援作戦「八十一号作戦」(指揮官[[草鹿任一]]海軍中将/[[南東方面艦隊]]司令長官兼務[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]司令長官)に護衛部隊(指揮官[[木村昌福]]第三水雷戦隊司令官<ref name="jirei1053"/>)として参加<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]51-54頁『ラエ船団輸送に関する陸海軍現地協定』</ref><ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]54-55頁『護衛準備』</ref>。日本海軍と日本陸軍の妥協の産物である本作戦は、作戦を立案した海軍側でも成算の見込みがほとんど無く、作戦を直接担当する[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]](外南洋部隊指揮官[[三川軍一]]中将/第八艦隊司令長官)も憂慮していた<ref name="叢書96撤収56">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]56-57頁</ref>。佐藤はラバウル出撃の前の晩に海兵の一期下で同じ分隊であった特務艦「[[野島 (給炭艦)|野島]]」艦長[[松本亀太郎]]大佐([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#45期|海兵45期]])<ref name="大正kp1595">大正6年11月25日 官報第1601号。国立国会図書館デジタルコレクション {{NDLDC|2953709}} p.6松本亀太郎任少尉候補生《原文534》磐手乗組《原文535》</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088200|昭和17年11月16日(発令11月16日付)海軍辞令公報(部内限)第988号 p.11松本補職}}</ref>と酒を酌み交わした際に、「今度の作戦は危ないかもしれん。貴様の艦がやられたときにはすぐに飛んでいって救助してやるから安心しろ」と約束していた<ref name="将器63">[[#戦場の将器]]63頁</ref>。本作戦には、かつて佐藤が司令駆逐艦としていた「朝雲」と、駆逐艦長を務めた「敷波」も加わっていた。


[[3月2日]]、空襲により輸送船「旭盛丸」が沈没、生存者と陸兵を朝雲、雪風が救助してラエへ送り届け、船団護衛に戻った<ref>[[#戦場の将器]]60頁</ref>。
[[3月2日]]、空襲により輸送船「旭盛丸」が沈没、生存者と陸兵を駆逐艦2隻(朝雲、雪風が救助してラエへ送り届け、船団護衛に戻った<ref>[[#戦場の将器]]60頁</ref><ref name="叢書96撤収56"/>。
[[3月3日]]、米軍機の空襲により輸送船団は大損害を受け、護衛部隊からは[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]が沈没もしくは航行不能となった<ref>[[#戦場の将器]]62頁</ref>。第三水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(負傷)は沈没する「白雪」から「[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]」へ移動し、同艦から残存艦艇(敷波、浦波、朝潮、雪風、朝雲)に一時退避命令を下した。佐藤は無傷であった第8駆逐隊司令駆逐艦「[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]」に座乗していたが、作戦前に松本大佐と交わしていた約束を守り、『ワレ野島艦長トノ約束アリ、野島救援ノノチ避退ス」との信号を発した<ref name="将器63"/>。木村司令官が佐藤の要請を承認したため、「朝潮」は単艦で「野島」救助に向かった<ref name="将器63"/>。<!---木村司令官の承認がなければ、佐藤の行動は命令違反になる。--->「野島」に近づいたところ近くに航行不能となった「荒潮」が漂流しており、「朝潮」は松本大佐を含め両艦の生存者を救出後、避退に移った<ref name="将器64">[[#戦場の将器]]64-65頁</ref>。しかし直後に[[B-17_(航空機)|B-17爆撃機]]16機、[[A-20 (航空機)|A-20攻撃機]]12機、[[B-25_(航空機)|B-25爆撃機]]10機、[[ブリストル ボーファイター|ブリストル・ボーファイター]]5機、[[P-38 (航空機)|P-38戦闘機]]11機が船団を攻撃、神愛丸、太明丸、帝洋丸、野島」が相次いで被弾沈没した。被弾し航行不能となっていた「大井川丸荒潮、時津風も、同日から翌日にかけて撃沈された。
[[3月3日]]、米軍機の空襲により輸送船団は大損害を受け、護衛部隊からは駆逐艦3隻([[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]が沈没もしくは航行不能となった<ref>[[#戦場の将器]]62頁</ref><ref name="叢書96撤収57">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]57-61頁『輸送船団の壊滅』</ref>。
第三水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(負傷)は沈没する「白雪」(旗艦)から「[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]」へ移動して救助作業を指揮していたが連合軍機発進の報告をうけて残存艦艇(敷波、浦波、朝潮、雪風、朝雲)に救助作業中止と一時退避命令を下した<ref name="叢書96撤収61">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]61-63頁『遭難者の救助』</ref>。佐藤は無傷であった第8駆逐隊司令駆逐艦「[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]」に座乗していたが、作戦前に松本大佐と交わしていた約束を守り、『ワレ野島艦長トノ約束アリ、野島救援ノノチ避退ス」との信号を発した<ref name="将器63"/><ref name="叢書96撤収61"/>。
木村司令官が佐藤の要請を承認したため、「朝潮」は単艦で「野島」救助に向かった<ref name="将器63"/>。<!---木村司令官の承認がなければ、佐藤の行動は命令違反になる。--->「野島」に近づいたところ近くに航行不能となった「荒潮」が漂流しており、「朝潮」は松本大佐を含め両艦(荒潮、野島)の生存者を救出後、避退に移った(荒潮は残留乗組員により退避を続行)<ref name="将器64">[[#戦場の将器]]64-65頁</ref><ref name="叢書96撤収61"/>。しかし直後に連合軍機多数<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]59頁では合計約40機と記述</ref>([[B-17_(航空機)|B-17爆撃機]]16機、[[A-20 (航空機)|A-20攻撃機]]12機、[[B-25_(航空機)|B-25爆撃機]]10機、[[ブリストル ボーファイター|ブリストル・ボーファイター]]5機、[[P-38 (航空機)|P-38戦闘機]]11機が船団を攻撃、残存艦(神愛丸、太明丸、帝洋丸、野島)は相次いで被弾沈没した<ref name="叢書96撤収57"/>。被弾し航行不能となっていた「大井川丸」<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]60頁『大井川丸』</ref>と駆逐艦2隻(荒潮、時津風)2隻<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]60頁『荒潮』『時津風』</ref>、同日から翌3月4日にかけて撃沈された<ref name="叢書96撤収61"/>


「朝潮」は付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため、敵機の集中攻撃により航行不能となる<ref name="将器64"/>。朝潮艦長吉井中佐、救助されていた「荒潮」艦長久保木中佐以下多数の将兵がこの戦闘で戦死した。総員退艦命令が下され、生存していた松本大佐が退艦しようとしたところ、佐藤大佐はまだ無事生存していて、松本大佐がいるのを見つけると「早く退艦しろよ」と声をかけたという。松本大佐が「司令こそ早く退艦してくださいよ」というと、司令は寂しく笑って「いや、俺はもう疲れたよ。このへんでゆっくり休ませてもらうよ。さあ、貴様は早く退艦したまえ。」と言い、沈みつつある「朝潮」の前甲板に座り込んだという。瞬時にその覚悟を悟った松本大佐は意を決して別れを告げると海に飛び込み艦から離れた。しばらく泳いでから「朝潮」を振り返ってみると、沈みつつある朝潮の前甲板で腕と足を組み悠然と大空を見上げている佐藤大佐の姿があったという<!---出典 佐藤和正著「太平洋海戦3 決戦篇」ビスマルク海海戦の項より--->駆逐隊司令として太平洋での海戦参加回数27回、[[ガダルカナル島]]への輸送参加12回、挙げた武勲は数知れず、その挺身精神とその適切な状況判断能力で知られた歴戦の水雷屋であった佐藤はこうして戦死した<ref name="将器64"/>。
「朝潮」は付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため、敵機の集中攻撃により航行不能となる<ref name="将器64"/>。朝潮艦長吉井五郎中佐、救助されていた「荒潮」艦長久保木英雄中佐以下多数の将兵がこの戦闘で戦死した<ref name="叢書96撤収61"/>。総員退艦命令が下され、生存していた松本大佐(野島艦長)が退艦しようとしたところ、佐藤大佐はまだ無事生存していて、松本大佐がいるのを見つけると「早く退艦しろよ」と声をかけたという。松本大佐が「司令こそ早く退艦してくださいよ」というと、司令は寂しく笑って「いや、俺はもう疲れたよ。このへんでゆっくり休ませてもらうよ。さあ、貴様は早く退艦したまえ。」と言い、沈みつつある「朝潮」の前甲板に座り込んだという。瞬時にその覚悟を悟った松本大佐は意を決して別れを告げると海に飛び込み艦から離れた。しばらく泳いでから「朝潮」を振り返ってみると、沈みつつある朝潮の前甲板で腕と足を組み悠然と大空を見上げている佐藤大佐の姿があったという<ref>出典 佐藤和正著「太平洋海戦3 決戦篇」ビスマルク海海戦の項より</ref>駆逐隊司令として太平洋での海戦参加回数27回、[[ガダルカナル島]]への輸送参加12回、挙げた武勲は数知れず、その挺身精神とその適切な状況判断能力で知られた歴戦の水雷屋であった佐藤はこうして戦死した<ref name="将器64"/>。


「満潮」1隻だけとなった第8駆逐隊は4月1日附で解隊<ref>[[#内令昭和18年4月(1)]]p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』</ref>。佐藤は横須賀鎮守府附という扱いになる<ref name="jirei1085">{{アジア歴史資料センター|C13072090400|昭和18年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1085号 p.11}}</ref>。生還した松本大佐も4月20日附で横須賀鎮守府附となった<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072090700|昭和18年4月20日(発令4月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1098号 p.24松本免職}}</ref>。
木村少将は佐藤司令の最期を[[古賀峯一]]大将([[横須賀鎮守府]]司令長官)に報告<ref name="将器64"/>。生前の軍功に報いる形で、佐藤は戦死後二階級特進、海軍中将に任ぜられている<ref name="佐藤艦長続447"/>。


木村昌福少将(3月6日免第三水雷戦隊司令官<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089900|昭和18年3月6日(発令3月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1064号 p.29}}</ref>。6月8日附で第一水雷戦隊司令官<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072091500|昭和18年6月9日(発令6月8日付)海軍辞令公報(部内限)第1140号 p.44木村補職}}</ref>)は佐藤司令の最期を[[古賀峯一]]大将([[横須賀鎮守府]]司令長官)に報告<ref name="将器64"/>。生前の軍功に報いる形で、佐藤は戦死後二階級特進、海軍中将に任ぜられている<ref name="佐藤艦長続447"/><ref name="叢書96撤収61"/>。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史叢書26 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書26海軍進攻作戦}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070089800|title=昭和3年達完/6月|ref=達昭和3年6月}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1976|month=8|title=戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) {{small|ガ島撤収後}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書96ガ島撤収後}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070173700|title=昭和17年11月(4) 内令(昭和17年11月17日~昭和17年11月25日)|ref=内令昭和17年11月(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070176200|title=昭和18年1月〜4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)|ref=内令昭和18年4月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14120969000|title=支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊 潜水隊 水雷隊 掃海隊 海軍武功調査/5駆隊機密第36号の65 第5駆逐隊支那事変第8回功績概見表|ref=支那事変8回5dg}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14120978700|title=支那事変 第9回功績概見表綴 海軍武功調査/支那事変第9回駆逐隊功績概見表/5駆隊機密第43号の51 第5駆逐隊支那事変第9回功績概見表|ref=支那事変9回5dg}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030110600|title=昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)|ref=四水戦スラバヤ(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030110700|title=昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)|ref=四水戦スラバヤ(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030110800|title=昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)|ref=四水戦スラバヤ(3)}}
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* {{Cite book|和書|author=[[生出寿]]|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官の生涯}} 戦場の将器 木村昌福|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref=戦場の将器}}
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**「戦術の極意」<駆逐艦「[[槇 (松型駆逐艦)|槇]]」艦長・石塚栄少佐の証言>(太平洋戦争時、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
**「戦術の極意」<駆逐艦「[[槇 (松型駆逐艦)|槇]]」艦長・石塚栄少佐の証言>(太平洋戦争時、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
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* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史叢書26 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書26海軍進攻作戦}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1976|month=8|title=戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) {{small|ガ島撤収後}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書96ガ島撤収後}}
* {{Cite book|和書|author=「丸」編集部編|year=2011|month=8|title=巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ|publisher=光人社|origyear=1990|ISBN=978-4-7698-2700-9|ref=巡洋艦戦記}}
* {{Cite book|和書|author=「丸」編集部編|year=2011|month=8|title=巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ|publisher=光人社|origyear=1990|ISBN=978-4-7698-2700-9|ref=巡洋艦戦記}}
** 萱嶋浩一『重巡「那智」神技の砲雷戦を語れ {{small|主砲発令所長が綴るスラバヤ沖海戦の苦き勝利}}』(萱嶋は重巡「那智」砲術長以前は駆逐艦「峯雲」砲術長で、佐藤司令の指揮を体験していた)
** 萱嶋浩一『重巡「那智」神技の砲雷戦を語れ {{small|主砲発令所長が綴るスラバヤ沖海戦の苦き勝利}}』(萱嶋は重巡「那智」砲術長以前は駆逐艦「峯雲」砲術長で、佐藤司令の指揮を体験していた)

== 脚注 ==
<div style="font-size:88%">{{reflist|2}}</div>

== 関連項目 ==
*[[海軍兵学校 (日本)]]


==外部リンク==
==外部リンク==

2016年7月22日 (金) 02:32時点における版

佐藤 康夫
生誕 1894年3月31日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1943-03-03) 1943年3月3日(48歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1917年 - 1943年
最終階級 海軍中将
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佐藤 康夫(さとう やすお、1894年3月31日 - 1943年3月3日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

太平洋戦争以前

医師・佐藤慶治の息子として東京で生れる。静岡中学校を経て、1916年(大正5年)11月、海軍兵学校44期)を卒業し、11月22日附で海軍少尉候補生[1][2]浅間型装甲巡洋艦2番艦「常磐」乗組[2]。同期には、西田正雄(第三次ソロモン海戦時の戦艦「比叡」艦長)、黒島亀人(開戦時の連合艦隊参謀)、柳本柳作(空母「蒼龍」艦長)、早川幹夫(重巡「鳥海」艦長)、松田千秋(戦艦「大和」艦長)、朝倉豊次(戦艦「武蔵」艦長)、篠田勝清(戦艦「山城」艦長)等がいる[2]

1917年(大正6年)8月17日、佐藤康夫や小西要人少尉候補生は扶桑型戦艦1番艦「扶桑」乗組を命じられる[3]。12月1日附で、海軍少尉に任官[1][4]筑摩型防護巡洋艦3番艦「平戸」乗組[4]。 その後、海軍水雷学校高等科で学ぶ。 1919年(大正8年)12月1日附で海軍中尉任官[5]

小型艦の乗組を経て、1922年(大正11年)12月1日附で海軍大尉任官[1][6]。12月20日附で運送艦「能登呂分隊長に補職される[7]

1924年(大正13年)4月25日附で、能登呂分隊長から鎮海防備隊分隊長へ転勤[8]。10月25日附で横須賀鎮守府附となる[9]。以後、「」乗組を経て、1925年(大正15年)12月1日附で筑摩型防護巡洋艦2番艦「矢矧」水雷長に補職[10]

1927年(昭和2年)12月1日、潜水母艦「韓崎」水雷長[11]。1928年(昭和3年)12月10日附で潮型掃海艇の第十一号掃海艇(旧初代神風型駆逐艦「長月」[12]艇長に任命される[13]

1934年(昭和4年)5月10日、佐藤は樺型駆逐艦「楓」駆逐艦長に補職[14]。同年11月30日附で、海軍少佐任官[1][15]

1930年(昭和5年)12月1日、桃型駆逐艦(二等駆逐艦)1番艦「桃」駆逐艦長[16]

1932年(昭和7年)11月15日、神風型駆逐艦3番艦「春風」駆逐艦長に任命される[17]

1934年(昭和9年)11月15日、佐藤は吹雪型駆逐艦12番艦「敷波」駆逐艦長となる(前任の敷波駆逐艦長は伊崎俊二中佐)[18]。 敷波駆逐艦長として活動中の1935年(昭和10年)11月15日附で、海軍中佐任官[19]1936年(昭和11年)12月1日附で、吹雪型21番艦「」駆逐艦長[20]

1937年(昭和12年)7月6日附で、佐藤は建造中の朝潮型駆逐艦3番艦「満潮」艤装員長に補職(後任の暁駆逐艦長は篠田勝清少佐)[21]。10月31日、巡洋艦2隻(鈴谷熊野)、朝潮型駆逐艦2隻(大潮、満潮)は同時に竣工。佐藤は制式に満潮駆逐艦長(初代)となる[22]。 12月1日、佐藤(満潮艦長)は馬公防備隊副長へ転任する[23]

1938年(昭和13年)8月1日、佐藤中佐は第1防備隊司令へ転任(後任の馬公防備隊副長は、駆逐艦「朝雲」初代駆逐艦長森可久少佐)[24]

1939年(昭和14年)11月15日、佐藤は妙高型重巡洋艦2番艦「那智」副長に補職[25]。同日附で八代祐吉大佐(当時、重巡熊野艦長)も那智艦長に任命された[25]

1940年(昭和15年)7月20日附で那智副長の任を解かれ、呉鎮守府附[26]。8月15日、佐藤中佐は杉浦嘉十中佐の後任として第5駆逐隊司令に補職[27]。 同年11月15日、海軍大佐に進級[28]。同日附で日本海軍は第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将、旗艦「名取」)を編制[29]。第5駆逐隊は第五水雷戦隊所属となり、佐藤大佐は引き続き神風型駆逐艦4隻(春風旗風松風朝風)の第5駆逐隊を指揮して支那事変の最前線で活動する。

1941年(昭和16年)4月10日、佐藤大佐(第5駆逐隊司令)は朝潮型駆逐艦4隻(朝雲夏雲峯雲山雲)で編制された第9駆逐隊の駆逐隊司令に任命される(佐藤の後任の第5駆逐隊司令は、重巡筑摩副長小川莚喜中佐)[30]。当時のの第9駆逐隊は第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将、旗艦「那珂」)に所属していた。

太平洋戦争を第9駆逐隊司令として迎え、数々の海戦や作戦に参加した。第8駆逐隊司令転属[31]直後の1943年(昭和18年)3月3日ビスマルク海海戦に参加、ダンピール海峡において司令駆逐艦「朝潮」沈没時に戦死した。太平洋戦争における経歴は以下のとおり。

スラバヤ沖海戦

佐藤康夫(当時海軍大佐、第9駆逐隊司令)は、1942年(昭和17年)2月27日-3月1日に起きた『スラバヤ沖海戦』で名を馳せた[32]。2月27日昼戦において、第五戦隊(重巡那智羽黒)、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:軽巡「神通」)、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:軽巡「那珂」)は酸素魚雷の長射程を頼りに一万m以上で魚雷を発射した[33]。高木司令からの全軍突撃命令がくだされたあとの第四水雷戦隊子隊の第2駆逐隊(村雨五月雨夕立春雨)による雷撃も距離8000mほどだった。ところが第四水雷戦隊・第9駆逐隊(佐藤司令)は指揮下の駆逐艦2隻(朝雲」、峯雲)を率いて、さらに敵艦隊に接近した[34]。 日本艦隊の他隊が次々に魚雷を発射し反転していくのを見て、「朝雲」水雷長が「司令、もう撃ちましょう」と何度も催促するのを「もうちっと、もうちっと」と発射の号令を下さなかった。仮屋貞雄大尉(朝雲砲術長)によれば、岩橋透中佐(朝雲駆逐艦長)が「第2駆逐隊と同じく距離8000mでの発射と退避」を進言したのに対して佐藤司令は「艦長、後ろを見るな」と一言し、肉薄攻撃を続けた[34]。 5000m(戦史叢書では6000m)まで接近したところで魚雷を発射[35]。しかし尚も反転せずにそのまま直進を続け敵艦隊に肉薄しつづけた。これに対して連合軍艦隊はイギリス駆逐艦「エンカウンター」と「エレクトラ」が反撃した[35]。距離3000mでの砲撃戦で「エレクトラ」は航行不能となったが、反撃の一弾が「朝雲」の機械室に命中し、電源故障を起こした[35]。電源が止まった「朝雲」ではあったが佐藤大佐の「砲は人力で操作せよ、砲撃を続行せよ」との命令の下、砲塔の各個照準砲撃と「峯雲」の砲撃により、ついに「エレクトラ」を撃沈した[35]。9駆(朝雲、峯雲)の活躍を見ていた「村雨」水雷長は佐藤司令の一瞬の決心と実行力に感嘆している[35]。 2月27日昼戦の日本側指揮官であった第五戦隊司令官高木武雄少将も、この第9駆逐隊と佐藤大佐の奮闘ぶりを特筆し、称賛している。もっとも第9駆逐隊は「エレクトラ」撃沈・「エンカウンター」撃退の戦果に対し、軽巡1隻・駆逐艦2隻の撃沈を報告しており[36]、戦果検討の席上で異論に対し佐藤が「遠くへ逃げてばかりいた奴になにがわかるか!」と怒鳴り付けた一幕もあった[32]

ガダルカナル島の戦い

佐藤を非常に褒めていたのが、橋本信太郎少将(ガダルカナル島戦当時、第三水雷戦隊司令官。昭和18年2月14日、三水戦司令官を木村昌福少将と交替[37]。3月15日より水雷学校校長[38])である[39]。制空権・制海権のない海域における駆逐艦による輸送作戦(鼠輸送)によって損傷艦が続出し、自分から輸送作戦参加を申し出る駆逐隊司令はいなかった[39]。橋本司令官が迷っていると、佐藤は「私の隊にやらせて下さい」と申し出たという[39]。橋本少将は佐藤について『淡々として、しかも謙虚、まことに頭が下がる思いであった』と水雷学校で語ったという[39]。佐藤は引続き「朝雲」を司令駆逐艦として戦場にのぞんだが、10月2日に第9駆逐隊「峯雲」が被弾して内地へ回航される。10月11-12日のサボ島沖海戦では重巡洋艦「古鷹」と駆逐艦「叢雲」(第11駆逐隊)救援におもむくが空襲により第9駆逐隊「夏雲」が沈没したため、「朝雲」をして乗組員を救助した。健在の第9駆逐隊は「朝雲」1隻となり[40]第三次ソロモン海戦ケ号作戦に参加した。

その最期

1943年(昭和18年)2月15日、佐藤は朝潮型駆逐艦4隻(朝潮、大潮、満潮、荒潮)で編制された第8駆逐隊司令に任命された[31]。後任の第9駆逐隊司令小西要人大佐(後日、空母「雲龍」艦長として戦死)[31]、佐藤とは海軍兵学校同期である[2]。だが佐藤が初代駆逐艦長を務めた朝潮型3番艦「満潮」は11月13日の第三次ソロモン海戦で大破、戦闘不能状態だった。 2月20日、佐藤が乗艦する朝潮型2番艦「大潮」は米潜水艦アルバコア (USS Albacore, SS-218)に撃沈され、佐藤は司令駆逐艦を臨時に「荒潮」に変更[41]。実動戦力は2隻(朝潮、荒潮)のみとなる。 同月末、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は東部ニューギニアの要衝ラエに対する増援作戦「八十一号作戦」(指揮官草鹿任一海軍中将/南東方面艦隊司令長官兼務第十一航空艦隊司令長官)に護衛部隊(指揮官木村昌福第三水雷戦隊司令官[37])として参加[42][43]。日本海軍と日本陸軍の妥協の産物である本作戦は、作戦を立案した海軍側でも成算の見込みがほとんど無く、作戦を直接担当する第八艦隊(外南洋部隊指揮官三川軍一中将/第八艦隊司令長官)も憂慮していた[44]。佐藤はラバウル出撃の前の晩に海兵の一期下で同じ分隊であった特務艦「野島」艦長松本亀太郎大佐(海兵45期[45][46]と酒を酌み交わした際に、「今度の作戦は危ないかもしれん。貴様の艦がやられたときにはすぐに飛んでいって救助してやるから安心しろ」と約束していた[47]。本作戦には、かつて佐藤が司令駆逐艦としていた「朝雲」と、駆逐艦長を務めた「敷波」も加わっていた。

3月2日、空襲により輸送船「旭盛丸」が沈没、生存者と陸兵を駆逐艦2隻(朝雲、雪風)が救助してラエへ送り届け、船団護衛に戻った[48][44]3月3日、米軍機の空襲により輸送船団は大損害を受け、護衛部隊からは駆逐艦3隻(白雪荒潮時津風)が沈没もしくは航行不能となった[49][50]。 第三水雷戦隊司令官木村昌福少将(負傷)は沈没する「白雪」(旗艦)から「敷波」へ移動して救助作業を指揮していたが、連合軍機発進の報告をうけて残存艦艇(敷波、浦波、朝潮、雪風、朝雲)に救助作業中止と一時退避命令を下した[51]。佐藤は無傷であった第8駆逐隊司令駆逐艦「朝潮」に座乗していたが、作戦前に松本大佐と交わしていた約束を守り、『ワレ野島艦長トノ約束アリ、野島救援ノノチ避退ス」との信号を発した[47][51]。 木村司令官が佐藤の要請を承認したため、「朝潮」は単艦で「野島」救助に向かった[47]。「野島」に近づいたところ近くに航行不能となった「荒潮」が漂流しており、「朝潮」は松本大佐を含め両艦(荒潮、野島)の生存者を救出後、避退に移った(荒潮は残留乗組員により退避を続行)[52][51]。しかし直後に連合軍機多数[53]B-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P-38戦闘機11機)が船団を攻撃、残存艦(神愛丸、太明丸、帝洋丸、野島)は相次いで被弾沈没した[50]。被弾し航行不能となっていた「大井川丸」[54]と駆逐艦2隻(荒潮、時津風)2隻も[55]、同日から翌3月4日にかけて撃沈された[51]

「朝潮」は付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため、敵機の集中攻撃により航行不能となる[52]。朝潮艦長吉井五郎中佐、救助されていた「荒潮」艦長久保木英雄中佐以下多数の将兵がこの戦闘で戦死した[51]。総員退艦命令が下され、生存していた松本大佐(野島艦長)が退艦しようとしたところ、佐藤大佐はまだ無事生存していて、松本大佐がいるのを見つけると「早く退艦しろよ」と声をかけたという。松本大佐が「司令こそ早く退艦してくださいよ」というと、司令は寂しく笑って「いや、俺はもう疲れたよ。このへんでゆっくり休ませてもらうよ。さあ、貴様は早く退艦したまえ。」と言い、沈みつつある「朝潮」の前甲板に座り込んだという。瞬時にその覚悟を悟った松本大佐は意を決して別れを告げると海に飛び込み艦から離れた。しばらく泳いでから「朝潮」を振り返ってみると、沈みつつある朝潮の前甲板で腕と足を組み悠然と大空を見上げている佐藤大佐の姿があったという[56]。駆逐隊司令として太平洋での海戦参加回数27回、ガダルカナル島への輸送参加12回、挙げた武勲は数知れず、その挺身精神とその適切な状況判断能力で知られた歴戦の水雷屋であった佐藤はこうして戦死した[52]

「満潮」1隻だけとなった第8駆逐隊は4月1日附で解隊[57]。佐藤は横須賀鎮守府附という扱いになる[58]。生還した松本大佐も4月20日附で横須賀鎮守府附となった[59]

木村昌福少将(3月6日免第三水雷戦隊司令官[60]。6月8日附で第一水雷戦隊司令官[61])は佐藤司令の最期を古賀峯一大将(横須賀鎮守府司令長官)に報告[52]。生前の軍功に報いる形で、佐藤は戦死後二階級特進、海軍中将に任ぜられている[39][51]

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和3年達完/6月』。Ref.C12070089800。 
    • 『昭和17年11月(4) 内令(昭和17年11月17日~昭和17年11月25日)』。Ref.C12070173700。 
    • 『昭和18年1月〜4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)』。Ref.C12070176200。 
    • 『支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊 潜水隊 水雷隊 掃海隊 海軍武功調査/5駆隊機密第36号の65 第5駆逐隊支那事変第8回功績概見表』。Ref.C14120969000。 
    • 『支那事変 第9回功績概見表綴 海軍武功調査/支那事変第9回駆逐隊功績概見表/5駆隊機密第43号の51 第5駆逐隊支那事変第9回功績概見表』。Ref.C14120978700。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030110600。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030110700。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030110800。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030110900。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(5)』。Ref.C08030110000。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(6)』。Ref.C08030110100。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(7)』。Ref.C08030110200。 
  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6 
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9 
    • 「戦術の極意」<駆逐艦「」艦長・石塚栄少佐の証言>(太平洋戦争時、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
  • 将口泰浩『キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』新潮文庫、2009年8月。ISBN 978-4-10-138411-5 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 「丸」編集部編『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
    • 萱嶋浩一『重巡「那智」神技の砲雷戦を語れ 主砲発令所長が綴るスラバヤ沖海戦の苦き勝利』(萱嶋は重巡「那智」砲術長以前は駆逐艦「峯雲」砲術長で、佐藤司令の指揮を体験していた)

脚注

  1. ^ a b c d 現役海軍士官名簿. 昭和10年1月1日調。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1905470 p.75 少佐4.11.30 大尉11.12.1 少尉6.12.1 出身5.11.22(少尉候補生)
  2. ^ a b c d 大正6年11月24日官報第1294号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953407 pp.2-4(佐藤康夫p.3少尉候補生《原文516》、p.4常磐乗組《原文518》)
  3. ^ 大正6年8月18日 官報第1515号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953629 p.5佐藤扶桑乗組《原文393》
  4. ^ a b 大正7年12月3日 官報第1601号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953714 p.8佐藤少尉任官《原文46》、p.25佐藤平戸乗組《原文81》
  5. ^ 大正8年12月2日官報第2119号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954312 p.7(42頁、下段)
  6. ^ 大正11年12月2日官報第3102号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955221 p.5(57頁中段)
  7. ^ 大正11年12月21日官報第3118号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955238 p.3
  8. ^ 大正13年4月26日官報第3500号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955648 p.3
  9. ^ 大正13年10月27日官報第3654号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955802 p.6
  10. ^ 大正15年12月2日(木)官報第4283号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956433 p.11
  11. ^ 昭和2年12月2日(金)官報第279号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956739 p.9
  12. ^ #達昭和3年6月pp.7-10『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス 昭和三年六月二十日 海軍大臣 岡田啓介|掃海艇 長月 ヲ 第十一號掃海艇 トス』
  13. ^ 昭和3年12月11日(火)官報第587号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957052 p.10
  14. ^ 昭和4年5月11日(土)官報第707号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957173 p.3
  15. ^ 昭和4年12月2日(月)官報第878号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957345 p.6(11頁二段目)
  16. ^ 昭和5年12月2日(火)官報第1179号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957646 p.11
  17. ^ 昭和7年11月16日(水)官報第1765号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958236 p.3
  18. ^ 昭和9年11月16日(金)官報第2364号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958840 p.10
  19. ^ 昭和10年11月16日(土)官報第2663号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959142 p.3(368頁三段目)
  20. ^ 昭和11年12月02日 官報第2976号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959458 p.22
  21. ^ 昭和12年7月7日 官報第3152号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959635 p.8
  22. ^ 昭和12年10月31日(発令10月31日付)海軍辞令公報(号外)第84号 p.47」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072400 
  23. ^ 昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(号外)第99号 pp.27-28」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  24. ^ 昭和13年8月5日(発令8月5日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第219号 p.1佐藤補職、p.2森補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200 
  25. ^ a b 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.27八代補職、p.39佐藤補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  26. ^ 昭和15年7月20日(発令7月20日付)海軍辞令公報(部内限)第506号 p.38」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078400 
  27. ^ 昭和15年8月15日(発令8月15日付)海軍辞令公報(部内限)第517号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078700 
  28. ^ 昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第554号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079400 
  29. ^ 昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第555号 p.47」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079400 
  30. ^ 昭和16年4月10日(発令4月10日付)海軍辞令公報(部内限)第615号 p.44」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080700 
  31. ^ a b c 昭和18年2月15日(発令2月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1054号 p.31佐藤・小西補職・山代免職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700 『第九驅逐隊司令海軍大佐 佐藤康夫(五七二)補第八驅逐隊司令/第八驅逐隊司令海軍大佐 山代勝守(七八二)横須賀鎮守府附被仰付』
  32. ^ a b #巡洋艦戦記140-142頁『猛進駆逐隊』
  33. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)444頁
  34. ^ a b #佐藤 艦長続編(文庫)445頁
  35. ^ a b c d e #佐藤 艦長続編(文庫)446頁
  36. ^ #四水戦スラバヤ(4)p.25『(ロ)「スラバヤ」沖海戰ニ於テ朝雲峯雲ハ巡洋艦三隻駆逐艦三隻ノ優秀ナル敵ト交戰勇戰敢闘敵巡洋艦一隻駆逐艦二隻ヲ撃沈シ以テ我ガ水雷戰隊ノ本領ヲ遺憾ナク發揮シ帝國海軍ノ傳統ニ光輝アラシメタリ』
  37. ^ a b 昭和18年2月15日(発令2月14日)海軍辞令公報(部内限)第1053号 p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700 
  38. ^ 昭和18年3月15日(発令3月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1069号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090000 
  39. ^ a b c d e #佐藤 艦長続編(文庫)447-450頁『武人としての心構え』
  40. ^ #内令昭和17年11月(4)p.25『内令第二千百十七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年十一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「夏雲、」ヲ削ル|第十一驅逐隊ノ項中「吹雪、」及「、叢雲」ヲ削ル』
  41. ^ 昭和18年3月17日(金)海軍公報(部内限)第4342号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C12070429900 『○司令驅逐艦變更 第八驅逐隊司令ハ二月二十一日司令驅逐艦ヲ荒潮ニ變更セリ』
  42. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後51-54頁『ラエ船団輸送に関する陸海軍現地協定』
  43. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後54-55頁『護衛準備』
  44. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後56-57頁
  45. ^ 大正6年11月25日 官報第1601号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953709 p.6松本亀太郎任少尉候補生《原文534》磐手乗組《原文535》
  46. ^ 昭和17年11月16日(発令11月16日付)海軍辞令公報(部内限)第988号 p.11松本補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088200 
  47. ^ a b c #戦場の将器63頁
  48. ^ #戦場の将器60頁
  49. ^ #戦場の将器62頁
  50. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後57-61頁『輸送船団の壊滅』
  51. ^ a b c d e f #戦史叢書96ガ島撤収後61-63頁『遭難者の救助』
  52. ^ a b c d #戦場の将器64-65頁
  53. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後59頁では合計約40機と記述
  54. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後60頁『大井川丸』
  55. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後60頁『荒潮』『時津風』
  56. ^ 出典 佐藤和正著「太平洋海戦3 決戦篇」ビスマルク海海戦の項より
  57. ^ #内令昭和18年4月(1)p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』
  58. ^ 昭和18年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1085号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090400 
  59. ^ 昭和18年4月20日(発令4月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1098号 p.24松本免職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090700 
  60. ^ 昭和18年3月6日(発令3月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1064号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089900 
  61. ^ 昭和18年6月9日(発令6月8日付)海軍辞令公報(部内限)第1140号 p.44木村補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091500 

関連項目

外部リンク