「北号作戦」の版間の差分
切れたアンカーリンクを修復: 2023-08-11 (ただし変更大につき誤推定の可能性あり 13≥5) #海戦の推移⇝レイテ沖海戦#10月17日~22日 |
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{{Battlebox |
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{{参照方法|date=2011年4月}} |
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| battle_name=北号作戦 |
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[[File:Battleship-carrier Ise.jpg|thumb|right|280px|戦艦「[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]」]] |
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| campaign=フィリピンの戦い (1944-1945年) |
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'''北号作戦'''(ほくごうさくせん)は、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])末期、[[1945年]][[2月10日]]から[[2月20日|20日]]にかけて行われた[[日本軍]]の撤収、及び輸送作戦である。[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の歴史において事実上最後の成功を収めた作戦。 |
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|colour_scheme=background:#ffccaa |
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| image=[[File:Battleship-carrier Ise.jpg|300px]] |
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| caption={{small|作戦の中核を担った航空戦艦伊勢。}} |
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| conflict=[[太平洋戦争]] |
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| date=1945年2月10日〜1945年2月20日 |
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| place=[[東シナ海]] |
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| result=日本軍の作戦成功 |
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| combatant1={{JPN1889}} |
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| combatant2={{USA1912}} |
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| commander1={{flagicon2|日本|naval}}[[松田千秋]]少将<br />{{flagicon2|日本|naval}}[[古村啓蔵]]少将 |
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| commander2= |
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| strength1=戦艦2<br />軽巡洋艦1<br />駆逐艦3 |
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| strength2=基地航空隊、潜水艦 |
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| casualties1=無し |
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| casualties2=無し |
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|}} |
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'''北号作戦'''(ほくごうさくせん)は<ref name="叢書一〇二405">[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、405-406頁「北号作戦」</ref>、[[太平洋戦争]]末期、[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]で敗れた[[大日本帝国海軍]]が、東南アジアに取り残されていた残存艦艇を日本本土に脱出させた輸送作戦である{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=545a-546|ps=北号作戦}}。日本軍の[[シーレーン]]が崩壊する中<ref name="叢書九三206">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]、206-210頁「軍令部総長の指示」</ref>、この作戦に参加した艦艇6隻に燃料と重要資源を搭載{{Sfn|戦史叢書79|1975|pp=460-461|ps=北号作戦}}、[[輸送船]]や[[タンカー]]の代替とした{{Sfn|日本水雷戦史|1986|pp=620-622|ps=奇跡の北号作戦(二月)}}。 |
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== 概要 == |
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この作戦の半月前、南シナ海においてこの作戦と同様の航路を取った「[[ヒ86船団]]」が、[[アメリカ海軍]][[機動部隊]]に捕捉されてほぼ全滅しており、極めて危険な作戦で最悪は部隊の全滅も覚悟されていたが<ref>作戦前、「完部隊」司令官・松田千秋少将は[[第十方面艦隊]]司令長官・[[福留繁]]中将から「二度と諸君らに相見えることは無いだろう」と告げられていた。『丸』</ref>、まったく損害を受けずに完全な成功を収めたことで、[[キスカ島撤退作戦]]と同様に「奇跡の作戦」などと評される。 |
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北号作戦は、[[1945年]](昭和20年)[[2月10日]]から[[2月20日|20日]]にかけて行われた[[日本軍]]の撤収、及び輸送作戦である<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、283頁「昭和20年2月10日」</ref><ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.5〔 (二)南號作戰ハ戦局ノ急迫ニ伴ヒ愈ヽ強化セラレタルガ之ト並行シ十日北號作戰部隊編成セラレ第四航空戰隊(大淀ヲ含ム)第二水雷戰隊ヲ以テ重要物資ノ急速還送並ニ同部隊所属艦艇ノ内地歸投ヲ企圖セラレ二十日之ガ成功ヲ見タリ 〕</ref>。 |
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制海権・制空権の喪失により[[シンガポール]]周辺で孤立していた艦艇のうち{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=808-809}}、[[第四航空戦隊]]([[日向 (戦艦)|日向]]、[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]])と[[第二水雷戦隊]]の駆逐艦3隻([[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]])を、重要物資の輸送を兼ねて日本本土へ帰投させた<ref name="叢書九三211">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]、211-212頁「二 第四航空戦隊等の内地帰還と重要資源物資の運搬」</ref><ref name="叢書一〇二405" />。 |
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[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の歴史において成功を収めた事実上最後の作戦。 |
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作戦名は、同時期に一般輸送船により行われていた資源強行輸送の「[[南号作戦]]」{{Sfn|戦史叢書92|1976|pp=332-333|ps=海軍の南号、北号作戦}}(1月25日から3月9日)<ref>[[#叢書93|戦史叢書93巻]]、210頁「作戦の実施経過」</ref>に対応して連合艦隊が命名したものである<ref name="叢書九三211" /><ref>[[#S20大淀戦闘詳報]]p.40、[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.19〔 十日一四二五(長官)GF(宛略)GF電令作第五一〇號 一.4sf司令官ハ4sf(伊勢日向)大淀2sd(霞朝霜初霜)1dg(神風野風)ヲ指揮シ速ニ昭南ヲ出撃人員重要物資ヲ内地還送作戰ヲ実施スベシ 本作戰部隊ヲ'''北號作戰'''ト呼稱ス/二.南號作戰部隊ハ南號作戰ノ要領ニ依リ北號作戰部隊ノ護衛ヲ強化スベシ 〕</ref>。また指揮官[[松田千秋]]第四航空戦隊司令官により「任務完遂」を意味する'''完部隊'''と命名されていた<ref name="叢書九三211" />{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=545b-546}}。 |
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北号作戦実施の半月前、南シナ海において本作戦と同様の航路を取った[[ヒ86船団]]は、[[アメリカ海軍]]の[[機動部隊]]に捕捉されて壊滅的損害を受けていた<ref name="叢書九三205">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]、205-206頁「ヒ八六船団の潰滅」</ref>。極めて危険な作戦で最悪は部隊の全滅も覚悟されていたが(後述)、損害を受けずに完全な成功を収めたことで、[[キスカ島撤退作戦]]と同様に「奇跡の作戦」などと評される{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=859a-867|ps=6 第四航空戦隊、奇跡の生還(二月)―日向、伊勢の北号作戦}}。 |
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== 背景 == |
== 背景 == |
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[[南シナ海]]における連合軍の[[通商破壊]]作戦の本格化によって、[[大日本帝国|日本]]の軍需・民需輸送船の損害が増大し、南方からの資源輸送が極めて困難となっていた。また[[シンガポール]]に在泊していた水上戦力が日本本土と切り離され、これらの戦力が本土防衛に参加できず遊兵化する恐れがあった。そのため、これらの高速・重武装の戦闘艦艇を用いて |
[[南シナ海]]における連合軍の[[通商破壊]]作戦の本格化によって、[[大日本帝国|日本]]の軍需・民需輸送船の損害が増大し、南方からの資源輸送が極めて困難となっていた{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=538-539|ps=方面艦隊新編の必要性}}{{Sfn|戦史叢書92|1976|pp=331-332|ps=緊急還送作戦実施の総長指示等}}。また[[シンガポール]]に在泊していた水上戦力が日本本土と切り離され、これらの戦力が本土防衛に参加できず遊兵化する恐れがあった。そのため通常の輸送船やタンカーだけでなく、これらの高速・重武装の戦闘艦艇を用いて資源輸送や船団護衛を行い{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=467-472|ps=燃料並に重要物資緊急還送作戦}}、かつ内地へ撤収させる必要に迫られた。 |
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この時期になると日本軍の制空権や制海権は失われ、同時に連合軍の[[潜水艦]]や[[航空機]]は活発に行動しており{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=456-457|ps=護衛作戦の概況}}、戦闘艦艇といえども安全な航海は望めない状況だった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=859b}}。 |
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作戦名は、同時期に一般輸送船により行われていた資源強行輸送の「[[南号作戦]]」に対応して命名されたものである。 |
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3ヶ月前の1944年(昭和19年)11月21日には戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]と駆逐艦[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]が{{Sfn|日本水雷戦史|1986|pp=579-580}}、日本本土への帰還中に米潜水艦[[シーライオン (SS-315)|シーライオンII]]に撃沈された<ref>[[#叢書93|戦史叢書93巻]]、67頁「第二遊撃部隊のマニラ撤退と第一遊撃部隊の内地回航」</ref>。 |
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12月3日、日本本土へ帰投中の戦艦[[榛名 (戦艦)|榛名]]と空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]および護衛駆逐艦3隻([[冬月 (駆逐艦)|冬月]]、[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]、[[槇 (松型駆逐艦)|槇]])が米潜水艦の[[ウルフパック]]に襲われ、隼鷹と槇が大破した{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=797-799}}{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=589}}。同年12月13日にも、同じく日本本土に戻ろうとした重巡洋艦[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]が米潜水艦[[バーゴール (潜水艦)|バーゴール]]の雷撃で大破し、帰国を断念していた{{#tag:Ref|妙高を護衛していた駆逐艦[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]はヒ82船団に加入して内地へ帰投し([[南号作戦]]){{Sfn|日本水雷戦史|1986|pp=619-620|ps=南号作戦に協力(一月~三月)}}、妙高は姉妹艦[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]に曳航されてシンガポールに戻った{{Sfn|大塚、錨と翼|1993|pp=32-33|ps=重巡・羽黒に便乗}}{{Sfn|日本水雷戦史|1986|pp=584-585|ps=潮、バーガルをとり逃がす(十二月十三日)}}。|group="注"}}。 |
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12月19日には特攻兵器[[桜花 (航空機)|桜花]]をフィリピンへ輸送中の空母[[雲龍 (空母)|雲龍]]が<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、272頁「昭和19年12月19日」</ref>、米潜水艦[[レッドフィッシュ (潜水艦)|レッドフィッシュ]]に撃沈された{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=814-817}}<ref>[[#叢書93|戦史叢書93巻]]、95-96頁「櫻花の緊急比島輸送成らず・「雲龍」の沈没」</ref>。 |
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さらに潜水艦だけでなく[[アメリカ海軍]]機動部隊と[[イギリス海軍]]機動部隊も[[東シナ海]]や[[南シナ海]]での作戦を開始した{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=536-537|ps=英機動部隊の空襲}}{{Sfn|戦史叢書92|1976|p=364|ps=米機動部隊の仏印方面来襲}}{{Sfn|戦史叢書92|1976|pp=367-368|ps=付記 英太平洋艦隊のパレンバン等空襲}}。 |
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[[1945年]](昭和20年)1月上旬から中旬にかけて[[ヒ86船団]]と[[ヒ87船団]]が{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=463-467|ps=米機動部隊の南シナ海進入とヒ八六船団の大被害}}、[[第38任務部隊]]によって壊滅的被害を受けるに至った{{#tag:Ref|ヒ87船団部隊を護衛していた駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]は第二水雷戦隊本隊(司令官[[古村啓蔵]]少将:霞、朝霜、初霜)に合流するため[[マレー半島]]東岸を航行中の1月24日、米潜水艦[[ブラックフィン (潜水艦)|ブラックフィン]]に撃沈された{{Sfn|日本水雷戦史|1986|pp=617-619|ps=シンガポールの二水戦}}{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446-447|ps=米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧}}。|group="注"}}。([[グラティテュード作戦]]){{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=542-543|ps=一般情勢}}。 |
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米機動部隊([[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]])を率いる[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]提督は[[レイテ沖海戦]]([[レイテ沖海戦#10月17日~22日|エンガノ岬沖海戦]])で取り逃がした[[第三艦隊 (日本海軍)#六代(1942年7月14日新編〜1944年11月15日解散)|小沢機動部隊]]の残存戦艦2隻(伊勢、日向)を撃沈しようと、個人的な闘志を燃やしていたのである{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=51-52|ps=南シナ海に入る}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=806-807}}。 |
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また1月24日、英軍機動部隊は空母4隻([[インドミタブル (空母)|インドミタブル]]、[[インディファティガブル (空母)|インディファティガブル]]、[[イラストリアス (空母・初代)|イラストリアス]]、[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]])の艦上機多数([[TBF (航空機)|TBFアヴェンジャー]] 48機、[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]] 16機、[[F4U (航空機)|F4Uコルセア]] 32機、[[フェアリー ファイアフライ|ファイアフライ戦闘機]] 12機)により、[[スマトラ島]][[パレンバン]]の石油精製施設を爆撃した{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=808-809}}。1月29日にも英空母艦上機によるパレンバン空襲があり、同製油所の能力は大幅に低下した{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=536}}。第二遊撃部隊が停泊するシンガポール近海のリンガ泊地も、英空母機による奇襲を受ける可能性があった{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=808-809}}。 |
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2月1日、[[B-29 (航空機)|B-29爆撃機]]多数がシンガポールを爆撃し{{Sfn|戦史叢書92|1976|pp=365-367|ps=パレンバン空襲と防空戦闘の概要}}、日本側は5万トン浮きドックが破壊されるなどの損害を受けた{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=808-809}}。 |
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同時期の日本海軍は、南西方面に残る艦艇・部隊の再編を実施していた{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=539-541|ps=西部方面部隊、第十方面艦隊の新設}}。[[1945年]](昭和20年)2月5日附で[[第五艦隊 (日本海軍)#二代の第五艦隊|第五艦隊]](司令長官[[志摩清英]]中将)<ref name="叢書九三178">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]、178-179頁「第五艦隊の解隊」</ref>および第二遊撃部隊は解隊される<ref>[[#S20春南西方面一般情勢]]p.1「一九四五年に於けるボルネオ方面の作戰」</ref><ref name="栄光追憶81">[[#栄光の追憶]]81頁「二月五日(月)本日附第五艦隊を戦時編制より除かれ、足柄を5Sに編入」</ref>。 |
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残存部隊(巡洋艦〈[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]、大淀〉等、第四航空戦隊〈日向、伊勢〉<ref name="叢書九三178" />、第二水雷戦隊)および[[南遣艦隊#第一南遣艦隊|第一南遣艦隊]]、[[南遣艦隊#第二南遣艦隊|第二南遣艦隊]]、[[航空艦隊#第十三航空艦隊|第十三航空艦隊]]等を中核として{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=540-542}}<ref>[[#叢書93|戦史叢書93巻]]、191-192頁「第十方面艦隊の編成/南西方面艦隊の改編」</ref>、[[第十方面艦隊]]{{Sfn|戦史叢書92|1976|p=370|ps=第十方面艦隊の編成}}(司令長官[[福留繁]]中将、参謀長[[朝倉豊次]]少将)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072103400|昭和20年2月9日(発令2月5日付)海軍辞令公報(甲)第1717号 pp.9,14}}</ref>を新編した<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、281-282頁「昭和20年2月5日」</ref><ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] pp.4-5〔 (ロ)我軍ノ情況(一)菲島及南支那海方面戰局ノ急轉ニ関聯五日第五艦隊及第二遊撃部隊ハ解編セラレ第十三航空艦隊第一、第二南遣艦隊及第五戰隊第四航空戰隊ヲ以テ第十方面艦隊ヲ編成二水戰(内地所在部隊ヲ除ク)ハ一時之ガ作戰指揮下ニ入ル 次デ更ニ七日第十方面艦隊及第四南遣艦隊ハ聯合艦隊司令長官ノ指揮下ヲ離レ南方軍總司令官ノ指揮下ニ入リ南方要域ノ確保ニ任ズルコトトナレリ 〕</ref>。 |
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== 完部隊 == |
== 完部隊 == |
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=== 作戦準備 === |
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[[大本営]]海軍部は1945年(昭和20年)[[2月4日]]、シンガポール方面の大型艦について今後の行動方針を示した<ref name="叢書(88)271">[[#戦史叢書海軍戦備(2)]]271頁</ref>。[[第四航空戦隊]](伊勢、日向、大淀)は物資人員を搭載して内地帰投、重巡洋艦部隊(足柄、羽黒)はシンガポール方面に残り緊急輸送任務や敵水上艦隊迎撃等に投入、第二水雷戦隊(霞、朝霜、初霜)は四航戦または船団護衛として内地帰投、重巡高雄、妙高は応急修理を実施して機会があれば内地帰投、駆逐艦[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]は船団護衛に協力して内地帰投、というものである<ref name="叢書(88)271"/>。2月6日、各隊はリンガ泊地を発ち7日シンガポール着、9日に物件搭載を終えた<ref name="叢書(88)271"/>。2月10日、大本営は四航戦と二水戦に対し、正式に内地帰投輸送作戦実施を下令<ref name="叢書(88)271"/>。これを受けて[[第十方面艦隊]]司令長官[[福留繁]]中将は同日以後の「完部隊」出撃を命じた<ref name="叢書(88)271"/>。 |
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[[大本営]]海軍部(軍令部)は1945年(昭和20年)[[2月4日]]<ref name="叢書九三211" />、シンガポール方面の大型艦について今後の行動方針を示した{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=545b-546}}。[[第四航空戦隊]](伊勢、日向、大淀)は物資人員を搭載して内地帰投、重巡洋艦部隊([[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])はシンガポール方面に残り緊急輸送任務や敵水上艦隊迎撃等に投入、第二水雷戦隊(霞、朝霜、初霜)は、四航戦または船団を護衛して内地帰投、重巡2隻([[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]])は応急修理を実施して機会があれば内地帰投、艦体前部喪失・応急艦首装着の駆逐艦[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]は船団護衛に協力して内地帰投、というものである{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=271}}。 |
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これらの方針は第五艦隊解隊と時を同じくして、関係部隊・各艦に内示された<ref name="叢書九三211" /><ref name="栄光追憶81" />。 |
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当初、連合艦隊司令部(司令長官[[豊田副武]]大将、参謀長[[草鹿龍之介]]中将)は、四航戦の内地回航に反対だったという<ref name="叢書九三211" />。 |
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2月6日、各隊・各艦はリンガ泊地を発ち、7日シンガポールに到着した<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.7〔 (イ)一般経過 二月六日軍艦日向ニ於テ搭載物件並ニ航路選定ニ関シ第一次打合セヲ行ヒ同日一七〇〇昭南「セレター」軍港ニ回航翌七日午后着即時輸送物件搭載ヲ開始シ晝夜兼業ヲ以テ八日迄ニ第一次重量物件ヲ完了セル處軍務機密第〇六一八五〇番電ニ依リ一部訂正アリ第二回打合セノ上更ニ重量物件ノ搭載ヲ續行シ十日一六〇〇出撃準備完了 〕</ref>。2月10日、大本営は四航戦と二水戦に対し、正式に内地帰投輸送作戦実施を下令する{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=271}}。これを受けて[[第十方面艦隊]]司令長官[[福留繁]]中将は同日以後の「完部隊」出撃を命じた{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=271}}。 |
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参加艦隊は、[[第四航空戦隊]]([[伊勢型戦艦]]《[[日向 (戦艦)|日向]]、[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]》、[[軽巡洋艦]][[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]])、[[第二水雷戦隊]](駆逐艦[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]])で構成されており、旗艦は第四航空戦隊旗艦日向で、同戦隊司令官の[[松田千秋]]少将が指揮した。松田少将はこの部隊を「完部隊」と命名、これは「任務を完遂する」という意味を込めてである。 |
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参加艦艇は、[[第四航空戦隊]]([[伊勢型戦艦]]〈[[日向 (戦艦)|日向]]、[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]〉、[[軽巡洋艦]]〈[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]〉)、[[第二水雷戦隊]](駆逐艦[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]〔二水戦司令官[[古村啓蔵]]少将座乗〕、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]])で構成されていた{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=545b-546}}。完部隊旗艦は日向で、四航戦司令官の[[松田千秋]]少将が指揮した<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.4〔 (イ)任務企圖 軍艦大淀ハ大海機密第〇四一四三七番電GF電令作第五一〇號及SBB電令作第三號ニ依リ昭南セレター軍港ニ於テ軍務機密第〇六一八五〇番電及〇八一六四二番電ニ依ル人員並ニ重要物資ヲ急速搭載シ'''完部隊'''〔4sf(日向伊勢大淀)2sd(霞初霜朝霜)〕ヲ編制、4sf司令官指揮ノモトニ昭和二十年二月十日一七〇〇「セレター」軍港出撃敵策動海面ヲ強行突破シ内海西部ニ回航スルト共ニ本緊急重要物資ヲ内地ニ輸送セント企圖ス 〕</ref><ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] pp.7-8〔 (3)自二月十日至二月二十日(部隊)北號作戰部隊(完部隊)|(指揮官)4sf司令官|(兵力)4sf(日向伊勢大淀)(編制)GF/2sd〔霞(旗艦)21dg(初霜朝霜)(編制)2F/1dg(神風野風)汐風ハ一時指揮ヲ受ク|南方所在人員及重要物資ノ緊急内地還送 〕</ref>。 |
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2月14日昼頃に、香港から駆逐艦 野風 神風が護衛に加わった。 |
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前月から第五戦隊に編入されていた大淀は<ref>[[#S1911五艦隊(4)]] p.18〔 (二)自一月一日至二月五日第二遊撃部隊艦船所在一覧表/大淀5Sニ編入 〕</ref>{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=614}}、北号作戦実施に際し第四航空戦隊に編入されている{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=616-618|ps=大淀から見た北号作戦(二月)}}(2月10日附)<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.10〔 此ヨリ曩七日第十方面艦隊ハGF長官ノ指揮ヲ離レ南方軍總司令官ノ指揮下ニ入ル次デ九日西部方面部隊指揮官(第十方面艦隊長官)ノ令ニ依リ4sf2sd大淀ハ十日以後機ヲ見テ緊急内地還送作戰實施ノコトトナルガ更ニ十日戰時編制ノ改編アリテ大淀ハ4sfニ編入同隊ハ第十方面艦隊ヨリ除カレGF附属トナリ當隊(霞《旗艦》初霜朝霜)亦GF電令作第五〇九號ニ依リ第十方面艦隊長官ノ作戰指揮下ヲ離レ一時4sf司令官ノ作戰式下ニ入リ同電令作第五一〇號ニ依リ4sf 1dgト共ニ北號作戰部隊ヲ編成緊急内地還送作戰實施ノコトトナレリ 〕</ref>。 |
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だが「航空戦隊」とは名ばかりであった{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=618a}}。航空戦艦2隻は[[カタパルト]]すら撤去しており{{Sfn|大内、航空戦艦|2014|pp=87-88}}、完部隊の搭載機は大淀の[[零式水上偵察機]]2機だけだった{{Sfn|大塚、錨と翼|1993|p=34}}。そこで大淀搭載の水上偵察機や基地航空隊が「完部隊」の対潜哨戒を担当、また[[海南島]]から[[福州市|福州]]周辺を第1駆逐隊([[野風 (駆逐艦)|野風]]、[[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]])<ref name="叢書九三211" />、福州から内地を峯風型駆逐艦[[汐風 (駆逐艦)|汐風]]が護衛するという計画が立てられる<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] pp.4-5〔 (ロ)警戒 機密完部隊命令作第一號同別紙ニ依リ厳重ナル警戒ヲ行フト共ニ積極的ニ電探水測兵器ヲ全幅活用シ對潜對空ノ警戒ヲ厳ニシ又敵第七艦隊並ニ機動部隊ニ對シテハ本艦搭載機ヲ以テ索敵ヲ行ヒ更ニ九三六空ヲ始メ各基地航空兵力ノ協力ヲ得テ對潜直衛ニ充テル 尚GF命令ニ依リ第一駆逐隊(神風野風)ヲ海南島福州沖間ニ又汐風ヲ福州内地間護隊ニ編入シ警戒ヲ厳ニス 〕</ref>。 |
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作戦前、「完部隊」司令官[[松田千秋]]少将および[[野村留吉]]日向艦長達は[[第十方面艦隊]]司令長官[[福留繁]]中将から「二度と諸君らに相見えることは無いだろう」と告げられていた{{#tag:Ref|1500第10方面艦隊司令長官福留繁中将見送りの為来艦(註、日向)。積荷の状況視察の後准士官以上に対し激励訣別の訓示を行われ「再会の期すべきものなし。突入以上の困難なる作戦、切に諸君の善戦を祈る」と結ばる。真にその通り。一同感奮。我(註、野村艦長)代りてお礼を述べ「誓って任務完遂御期待に添わん」と述ぶ。<ref>[[#栄光の追憶]]82頁</ref>|group="注"}}。 |
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部隊は[[シンガポール]]にて、航空燃料用の[[ガソリン]]・[[生ゴム]]・[[錫]]などの当時稀少な物資を目一杯積み込んだ。[[航空戦艦]]に改造されていたものの搭載機を持たなかった日向、伊勢では(搭載機が無い経緯は[[伊勢型戦艦]]を参照)、艦後部の広大な飛行機格納庫が物資の主要積載場所となった。駆逐艦はもとより日向、伊勢の両戦艦も、甲板上にまで可燃性の高いガソリンを詰めたドラム缶多数が搭載されたため、たとえ軽微な攻撃であっても被弾すれば極めて危険な状態だった。軍令部は「半分の艦が日本本土に戻れれば上出来で、全滅の可能性もある」と予測したが「伊勢、日向、大淀は運が強いからどんな作戦でも成功する」とする意見もあった<ref>[[#大淀生涯]]、420-421頁</ref>。 |
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前述のように、部隊は[[シンガポール]]にて、航空燃料用の[[ガソリン]]・[[生ゴム]]・[[錫]]などの当時稀少な物資を目一杯積み込んだ{{Sfn|大内、航空戦艦|2014|pp=97-98}}。[[航空戦艦]]に改造されていたものの搭載機を持たなかった[[伊勢型戦艦]]2隻(日向、伊勢)では、艦後部の広大な飛行機格納庫が物資の主要積載場所となった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=860a}}。大淀は航空機格納庫(作戦司令部施設)を燃料庫に改造した<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.6〔 (二)特ニ準備セル事項 〕</ref>。駆逐艦はもとより大淀や両戦艦も、甲板上にまで可燃性の高いガソリンを詰めたドラム缶多数が搭載されたため、たとえ軽微な攻撃であっても被弾すれば極めて危険な状態だった{{Sfn|軽巡二十五隻|2014|pp=290-291|ps=最後の物資輸送に成功す}}。軍令部は「半分の艦が日本本土に戻れれば上出来で、全滅の可能性もある」と予測したが「伊勢、日向、大淀は運が強いからどんな作戦でも成功する」とする意見もあった{{Sfn|軽巡二十五隻|2014|p=291}}{{Sfn|16歳の海戦|2011|p=405}}。 |
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搭載物資は以下の通りである。日向(伊勢)はそれぞれ、航空揮発油ドラム缶4994個(5200個)、航空機揮発油タンク内100トン(〃トン)、普通揮発油ドラム缶326個(伊勢搭載せず)、ゴム1750トン(〃トン)、錫820トン(1750トン)、タングステン144トン、水銀24トン、輸送人員油田開発技術員等440名(551名)<ref name="叢書(88)272">[[#戦史叢書海軍戦備(2)]]272頁</ref>。大淀は輸送人員159名、ゴム50トン、錫120トン、亜鉛40トン、タングステン20トン、水銀20トン、航空揮発油ドラム缶86個、航空機揮発油タンク内70トン。「霞、朝霜、初霜」はゴム・錫3隻合計140トン<ref name="叢書(88)272"/>。 |
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=== 戦力 === |
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'''完部隊'''(指揮官:第四航空戦隊司令官[[松田千秋]]少将、[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#44%E6%9C%9F|海兵44期]]) |
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松田千秋によれば、燃料を少しでも節約するために艦隊速力を16ノットに抑えた<ref name="海軍反省会弐156">[[#海軍反省会2]]156頁</ref>。完部隊は1945年2月10日にシンガポールを出航。すでに護衛[[戦闘機]]や[[哨戒機]]などの支援は望めない状況だった。完部隊はフィリピンのマニラ方面に突入すると見せかけたのち、北上して日本本土へ向かう<ref name="海軍反省会弐156"/>。アメリカ軍は作戦を暗号解読で察知し、付近の自軍に迎撃命令を発していた<ref>機動部隊は[[硫黄島の戦い]]に投入されるため、陸軍の第五航空軍と潜水艦部隊(26隻)が迎撃に向かった。『丸』</ref>。 |
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*[[旗艦]]:[[日向 (戦艦)|日向]](艦長:[[野村留吉]]少将、[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#46期|海兵46期]]) |
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*'''第四航空戦隊'''(司令官:松田千秋少将) |
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**:日向、[[伊勢 (戦艦)|伊勢]](艦長:[[中瀬泝]]少将、[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#45期|海兵45期]])、[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]](艦長:[[牟田口格郎]]大佐、海兵44期) |
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*'''第二水雷戦隊'''(司令官:[[古村啓蔵]]少将、海兵45期) |
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**旗艦:[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]](駆逐艦長:[[山名寛雄]]中佐、[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#55期|海兵55期]]) |
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**'''第21駆逐隊'''(司令:[[石井汞]]中佐、[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#50期|海兵50期]])''':'''[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]](駆逐艦長:[[酒匂雅三]]少佐、[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#62期|海兵62期]])、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]](駆逐艦長:[[杉原輿四郎|杉原與四郎]]中佐、[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#57期|海兵57期]]) |
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搭載物資は以下の通りである<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] pp.40-41〔 十日二二一四 十方面艦隊司令長官(宛略)十方面艦隊機密第一〇二二一四番電 完部隊緊急輸送人員物件左ノ通(内容略) 〕</ref>{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=860b|ps=野村留吉少将「完部隊による北号作戦中の日誌」より}}。 |
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途中何度か[[アメリカ陸軍]]航空隊機による空襲や[[アメリカ海軍]]の潜水艦([[バーゴール (潜水艦)|バーゴール]]、[[ブロワー (潜水艦)|ブロワー]]、[[フラッシャー (潜水艦)|フラッシャー]]、[[バッショー (潜水艦)|バッショー]]等」)による接触・攻撃を受ける。しかしいずれの攻撃も回避、または事前に撃退に成功した<ref>『丸』では、フラッシャーが浮上攻撃中に伊勢の主砲により撃退とされている。一方、アメリカ側の記録では砲撃を行った戦艦は日向で、撃退されたのはフラッシャーと共に攻撃を仕掛けようとしたバッショーとなっている。どちらにせよこれは日本戦艦が主砲で水上目標を撃退した最後の事例となった。</ref>。2度にわたるアメリカ軍機による攻撃には、2度とも近隣に発生していた[[スコール]]に隠れて攻撃を回避することに成功した。松田少将以下、各艦の臨機応変な対応が功を奏し、このほかの連合軍の攻撃もすべて回避できた。2月20日、完部隊は部隊名の命名意図のとおり無傷で[[呉鎮守府|呉]]に到着し、輸送作戦は完璧な成功を収めた<ref name="叢書(88)271"/>。 |
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日向(伊勢)はそれぞれ、航空揮発油ドラム缶4994個(5200個)、航空機揮発油タンク内100トン(〃トン)、普通揮発油ドラム缶326個(伊勢は搭載せず)、ゴム1750トン(〃トン)、錫820トン(1750トン)、タングステン144トン、水銀24トン、輸送人員油田開発技術員等440名(551名){{Sfn|戦史叢書88|1975|p=272}}。大淀は輸送人員159名、ゴム50トン、錫120トン、亜鉛40トン、タングステン20トン、水銀20トン、航空揮発油ドラム缶86個、航空機揮発油タンク内70トン<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] pp.5-6〔 (二)作戰準備 〕</ref>。霞、朝霜、初霜はゴム・錫3隻合計140トン{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=272}}。 |
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=== 作戦行動 === |
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松田少将(四航戦司令官)によれば、燃料を少しでも節約するために艦隊速力を16ノットに抑えた{{Sfn|海軍反省会(2)|2011|p=156}}。完部隊は1945年(昭和20年)2月10日夕刻、在泊艦艇に見送られシンガポールを出航した<ref>[[#栄光の追憶]]82頁「在泊艦陸上各部より「シッカリやれよ!!」の盛大なる見送りを受く。思わず歯を喰いしばる。」</ref><ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.7〔 同日一七〇〇「セレター」軍港發先ニ出港セル2sdト合同二〇四〇 四航空戰二水戰ハ第二警戒航行序列ニ占位シ一斉回航之字運動X法ニテ昭南海峡ヲ出撃ス 〕、[[#S20大淀戦闘詳報]] p.10〔 一八一〇|昭南海峡ニ於テ警戒隊(霞初霜朝霜)ト合同 〕</ref>。完部隊が出撃すると島々から[[日の丸]]が振られ、乗組員は[[スパイ]]を疑ったという{{Sfn|大塚、錨と翼|1993|p=34}}。すでに[[戦闘機]]や[[哨戒機]]などの護衛や支援は望めない状況だった。完部隊はフィリピンのマニラ方面に突入すると見せかけたのち、北上して日本本土へ向かう{{Sfn|海軍反省会(2)|2011|p=156}}。アメリカ軍は作戦を暗号解読で察知し、付近の自軍に迎撃命令を発していた{{Sfn|大内、航空戦艦|2014|p=99}}{{#tag:Ref|アメリカ軍機動部隊は[[硫黄島の戦い]]に投入されるため、陸軍の第五航空軍と潜水艦部隊(26隻)が迎撃に向かった。『丸』|group="注"}}。 |
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[[聯合艦隊|連合艦隊]]司令部などの海軍上層部では「半数戻ってくれば上出来」と予測していたが、部隊がまったく損害を受けず全艦無事に帰還したことを知り、狂喜乱舞したとされる。松田少将も、軍令部の[[富岡定俊]]少将から感謝されたと回想している<ref name="海軍反省会弐157">[[#海軍反省会2]]157頁</ref>。<!--(タンカー東城丸が3月に航空ガソリン輸送に成功している)このとき持ち帰られたガソリンは、内地に持ち込まれた最後の航空燃料となった。-->本作戦は連合国軍にとっても意表を突かれた結果であり、戦後、松田少将がアメリカ海軍第七艦隊の参謀へ本作戦について訊ねたところ「いや、あれはすっかりやられた」という答えが返ってきたという。 |
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途中何度か[[アメリカ陸軍]]航空隊機による空襲や[[アメリカ海軍]]の潜水艦([[バーゴール (潜水艦)|バーゴール]]、[[ブロワー (潜水艦)|ブロワー]]、[[フラッシャー (潜水艦)|フラッシャー]]、[[バッショー (潜水艦)|バッショー]]等)による接触・攻撃を受けた{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=621}}。しかしいずれの攻撃も回避、または事前に撃退に成功した{{#tag:Ref|『丸』では、フラッシャーが浮上攻撃中に伊勢の主砲により撃退とされている。一方、アメリカ側の記録では砲撃を行った戦艦は日向で、撃退されたのはフラッシャーと共に攻撃を仕掛けようとしたバッショーとなっている。どちらにせよこれは日本戦艦が主砲で水上目標を撃退した最後の事例となった。|group="注"}}。2度にわたるアメリカ軍機による攻撃には、2度とも近隣に発生していた[[スコール]]に隠れて攻撃を回避することに成功した。 |
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しかしながら6隻の艦での輸送でありながら、物資の量としては中型貨物船1隻分に過ぎなかった。専用の輸送船ではない以上は仕方ないことであるが、この程度の量の物資の輸送に成功したことを狂喜せねばならないこと自体が、当時の日本の窮状を示していたと言える。<!-- おそらく独自研究扱いされて削除されたのだろうが、参考文献の『歴史群像』2004年10月号 No.67 に記述された内容。--> |
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これが戦中の日本に外地から持ち込まれた最後の燃料であったと言われる。 |
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2月12日昼前、朝霜が米潜水艦([[ブラックフィン (潜水艦)|ブラックフィン]])を発見して爆雷を投下した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=862}}<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.32〔 一二(天候略)一一三五カムラン南方一八〇浬ニテ朝霜敵潜探知攻撃戰果ナシ/午後北號部隊敵潜数隻發見攻撃戰果ナシ 〕</ref>。 |
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この後、伊勢、日向の2戦艦は港に係留され浮き砲台とされ二度と出撃する事は無かった。両艦には相当の燃料が残っており、これらは[[大和型戦艦]][[大和 (戦艦)|大和]]に移された<ref name="海軍反省会弐157"/>。大和はこの燃料を元に[[菊水作戦]]に参加し、[[坊ノ岬沖海戦]]に臨んだ<ref name="海軍反省会弐157"/>。 |
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夕刻{{Sfn|16歳の海戦|2011|p=404}}、大淀は水上偵察機1機{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=618a}}(2号機)を射出<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.15〔 一七一六|第二号機射出制圧ニ向セシム爾カムラン湾ニ向フ 〕</ref>。陸上基地からも[[第四十航空隊|九三六海軍航空隊]]や足柄搭載水上偵察機が対潜哨戒に従事した<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] pp.42-43〔 十二日二一四五カムラン基地(宛略)カムラン基地機密第一二二一四五番電 明日北號護衛予定〇八〇〇基地發九三六空二機足柄機一一〇〇基地発九三六空二機大淀機(直衛後三亜帰投)尚指揮下ニ編入サルベキ九七式飛行艇未着ノ爲不参加 〕</ref>。大淀2号機は艦隊直掩を実施したのち、カムラン湾に向かった{{Sfn|大塚、錨と翼|1993|p=35}}。大淀機はカムラン湾、海南島、厦門、基隆の水上機基地を利用しながら完部隊を追いかけて内地へむかった{{Sfn|大塚、錨と翼|1993|p=36}}。 |
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2月13日、ブラックフィンの報告を受けたアメリカ陸軍航空部隊は[[B-24 (航空機)|B-24重爆]]多数を投入したが、雲に覆われた完部隊を認識できず、あきらめて去った{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=863-864|ps=頭上のB-24(二月十三日)}}。また日向や霞の[[レーダー]]が水上目標を探知した<ref>[[#栄光の追憶]]83頁「二月十三日(火)」</ref>。米潜水艦3隻(ブロワー、バーゴール、フラッシャー)が相次いで魚雷多数を発射するが{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=618b-619|ps=またもや潜水艦に追わる(二月)}}、1本も命中しなかった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=864}}<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.32〔 一三(天候略)(略)一三四〇伊勢被雷撃初霜攻撃効果ナシ|一三四六大淀被雷撃被害ナシ 〕</ref>。 |
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伊勢は魚雷8本を発見し、回避に成功した<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.8〔 此ノ間一三日一三四二本艦ハ左四五度二五〇〇米ニ敵潜望鏡ヲ發見右ニ大回避スルト共ニ僚艦ニ信號拳銃二發ヲ以テ通報ス、回避後幾何モナク二本ノ雷隻(一本跳㞮)ヲ發見之ト併行ニ回避航行ス是ヨリ稍早ク本艦後方ニ占位シアリタル伊勢ハ後方ヨリ他ノ潜水艦ニヨリ八本ノ雷撃ヲ受ケタルモ克ク之ヲ回避セリ又一四日〇一〇四本艦左後方ヨリノ追撃シ来タル雷跡發見面舵ニ急速轉舵回避スルト共ニ信號弾赤二發ヲ以テ僚艦ニ通報シコトナキヲ得タリ 〕</ref><ref name="追憶83">[[#栄光の追憶]]83頁「1340伊勢敵潜水艦発見、雷撃八本、幸い被害なし。内一本は水面航走せるを高角砲にて狙撃爆発せしむ」</ref>。内1本を高角砲の射撃で爆破した<ref name="追憶83" />。 |
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夕刻、日向は米潜水艦[[バッショー (潜水艦)|バッショー]]に対し36cm主砲による砲撃を実施{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=864}}、効果はなかったがバッショーは潜航したため襲撃の機会を失った<ref>[[#栄光の追憶]]83頁「1618左前方二二kmに浮上潜水艦発見、主砲々撃するも効果なし」</ref>{{#tag:Ref|大内健二『航空戦艦「伊勢」「日向」』99-100頁では、「後方の2番艦日向の左舷前方200mに敵潜水艦が浮上して前方を進む伊勢を追跡しようとしたので、日向は高角砲と主砲で射撃した。潜水艦は急速潜航した。」としている{{Sfn|大内、航空戦艦|2014|pp=99-100}}。|group="注"}}。 |
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2月14日昼頃、天候が悪化する中で[[澎湖諸島]][[馬公市]]からやってきた第1駆逐隊([[野風 (駆逐艦)|野風]]、[[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]]){{#tag:Ref|第1駆逐隊(野風、神風)は2月初旬から馬公市に進出していた{{Sfn|駆逐艦戦記|2011|p=335}}。|group="注"}}が完部隊に合流する{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=865}}<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.43〔 十四日(司令官)4sf(宛略)信令第一九號 警戒航行序列ニ左ヲ追加ス 第八 日向 伊勢 大淀ノ順ニ單縦陣距離一粁 霞 初霜 朝霜 夫々日向ノ〇度右八〇度左八〇度一.五粁 野風 神風夫々伊勢ノ右及左一〇〇度一.五粁 〕</ref>。悪天候のため、旧式の[[神風型駆逐艦 (2代)|神風型駆逐艦]]や[[峯風型駆逐艦]]では速力18ノットの戦艦についてゆくのもやっとだった{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|p=337}}。 |
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約1時間後、アメリカ軍大型爆撃機が数十機が飛来したが、悪天候のため完部隊を捕捉できず、あきらめて帰投した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=864}}。夕刻、完部隊の前方に[[第7艦隊 (アメリカ軍)|米軍第七艦隊]]が航行しているとの情報があり、大淀は水上偵察機1機{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=619a}}(1号機)を射出した<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.21〔 一六三〇|第一號機射出(索敵並ニ前路哨戒) 〕</ref>。だが誤報であった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=866}}{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=619b-200|ps=レーダー射撃用意!(二月十五日)}}。 |
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2月15日未明から朝にかけて完部隊は不審な影を発見、各艦は水上見張り用の[[仮称二号電波探信儀二型|二十二号レーダー]]を射撃用に用いる準備をしたが、二度とも中国民間の[[ジャンク (船)|ジャンク船団]]だった{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=619a}}<ref>[[#栄光の追憶]]84頁「敵第七艦隊の動静尚不明なる状況に於て念の為、電探射撃準備を整え情況を見る。此の度も亦ヂャンク船団なること判明。[[富士川の戦い|水鳥の笑い話]]に終る」</ref>。 |
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2月15日夜に[[馬祖島]]で仮泊、燃料補給を実施した(日向→霞〔船体接触、損傷軽微〕、伊勢→初霜、大淀→朝霜)<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.33〔 一五(天候略)二〇〇〇4sf2sd福州沖仮泊|霞日向ヨリ、初霜伊勢ヨリ、朝霜大淀ヨリ}燃料補給{二五〇噸、三〇〇噸、二五〇噸|霞横付ノ際船体一部破損戰斗航海支障ナシ 〕</ref>。ここで完部隊は第1駆逐隊と分離した<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.9〔 十五日一九三〇馬祖島泊地ニ假泊朝霜ニ二五〇噸重油ヲ補給シ曩ニ海南島東方海面ニテ護衛隊ニ入リシ第一駆逐隊ト分離シ十六日〇〇〇〇假泊發北上中〇五五六本艦ノ左七〇度方向ニ魚雷音二ヲ聴知(水測)セルヲ以テ急速單独回避ヲ行フト共ニ信號弾ヲ以テ僚艦ニ通報シ之ヲ後方ニ躱シ得タリ 〕</ref>。台湾海峡を通過中に、既に落伍していたとも伝えられる{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=866}}<ref>[[#栄光の追憶]]84頁「台湾海峡予想以上に季節風強く、速力出でず、二十節にて駆逐隊難航を極め、野風、神風後落見失う」</ref>。第1駆逐隊はシンガポールに向かった{{#tag:Ref|シンガポール到着前の2月20日{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|p=337}}、野風はカムラン湾近海で潜水艦[[パーゴ (潜水艦)|パーゴ]]に撃沈された{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446-447|ps=米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧}}。|group="注"}}。 |
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完部隊は日付変更と共に出発する<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.33〔 一六(天候略)〇〇〇〇4sf2sd福州沖發 〕</ref>。完部隊が同地出航の際、野風・神風らの代わりに第1駆逐隊が護衛として付けた駆逐艦[[汐風 (駆逐艦)|汐風]]もまた{{#tag:Ref|峯風型駆逐艦の汐風と、[[若竹型駆逐艦]]の[[朝顔 (駆逐艦)|朝顔]]は、2月15日付で第1駆逐隊に編入されていた<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070504000|昭和20年2月21日(秘)海軍公報 第4938号 p.22}}〔 内令第一三六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年二月十五日 第一驅逐隊ノ項中「神風」ノ下ニ「、汐風、朝顔」ヲ加フ 〕</ref>。|group="注"}}、暗黒と悪天候のため完部隊からはぐれてしまった<ref>[[#栄光の追憶]]84頁「二月十六日(金)0000視界暗黒の中に馬祖泊地を出撃す。当地より内地迄第一駆逐隊に代り護衛に従事すべく命ぜられたる駆逐艦汐風は出港時見失い遂に合同できず」</ref>。 |
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同時刻、[[支那方面艦隊]]所属の駆逐艦[[蓮 (駆逐艦)|蓮]]が、北上する第四航空戦隊と遭遇した{{Sfn|海軍三等士官|1982|pp=298-300|ps=(十一)四航戦福州沖を北上す。}}。感激した堀之内(蓮艦長)は四航戦からの誰何信号に「われ蓮、今より貴隊を護衛せんとす」と発信して右正横3000mに占位したが、悪天候下の[[樅型駆逐艦]]では戦艦の速力について行けず、蓮は30分程で後落したという{{Sfn|海軍三等士官|1982|pp=299-300}}。 |
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2月16日夜から17日朝にかけて{{Sfn|戦史叢書79|1975|p=461}}、完部隊は[[舟山群島|舟山島]]泊地に仮泊した<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.33〔 一六(天候略)二〇三〇4sf2sd舟山島假泊地 〕-〔 一七(天候略)〇七〇〇4sf 2sd舟山島泊地發 〕</ref>。出港後、黄海を横断する<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.9〔 同日晝間B-24ノ觸接ヲ受ケツゝ北上内地ニ来襲ノ敵機動部隊ノ情勢ヲ見ル爲二一一〇舟山島ニ假泊翌一七日〇七〇〇出港花島山ノ北側ヲ経テ黄海南部ニ出テ朝鮮南西沿岸ニ接航 〕</ref>。 |
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18日夕刻から19日朝にかけて{{Sfn|戦史叢書79|1975|p=461}}、朝鮮半島南岸で仮泊した<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.34〔 一八(天候略)一八四五4sf2sd朝鮮南岸昌善島泊地假泊 〕-〔 一九(天候略)〇七〇〇4sf2sd昌善島泊地發(内地回航) 〕</ref>。 |
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同日夜には下関に到着{{Sfn|戦史叢書79|1975|p=461}}、[[六連島|六連泊地]]で仮泊した<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.9〔 一八日再ビ敵機動部隊ノ情勢ヲ見ル爲朝鮮昌善島ニ假泊一九日〇七〇〇假泊地發對馬島ノ東方ヲ経テ同日一六二四下関掃海水道着一七三〇六連假泊二二〇〇假泊地發翌二十日一〇三〇呉軍港ニ入港同日搭載物件ノ大部ヲ揚搭シ本作戰ヲ完了セリ 〕</ref>。 |
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翌[[2月20日]]午前10時{{Sfn|戦史叢書79|1975|p=461}}、完部隊6隻(日向、伊勢、大淀、霞、初霜、朝霜)は呉に到着した<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.48〔 十八日(司令官)4sf二十日一〇三〇(宛略)第一軍隊区分トナセ 4sf機密第二〇一〇三〇番電 北號作戰部隊〔4sf(日向伊勢大淀)〕2sd(霞初霜朝霜)呉着異状ナシ燃料残額合計二九〇〇噸 〕、[[#S20.04二水戦詳報(1)]] pp.10-11〔 北號作戰部隊(除1dg)十日二〇三〇ジョホールバール出撃途中敵潜敵機ノ觸接攻撃ヲ蒙リツツモ其ノ都度之ヲ避退排除シ二十日呉着其ノ任務ヲ達成セリ 〕</ref><ref>前述の途上ではぐれた汐風は、前日の19日に呉に入港している。</ref>。輸送作戦は完璧な成功を収めた{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=271}}。大淀偵察機2機も無事に母艦へ戻っている<ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.49〔 二十日一九二〇大淀|(司令長官)4sf|タナ七 本艦飛行機二機共呉空着異状ナシ 〕</ref>{{Sfn|大塚、錨と翼|1993|p=42}}。艦艇研究家[[木俣滋郎]]によれば、完部隊(大淀)が回避した潜水艦は英米合計26隻におよぶという{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=620}}(戦史叢書54巻では、約10隻の潜水艦と遭遇とする){{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=545b-546}}。 |
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== 結果 == |
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本作戦時伊勢艦長だった[[中瀬泝]]少将は、戦後の『軍艦伊勢全国大会祭典』で述べた祭文中で「超へて昭和二十年二月の北号作戦は昭南より航空燃料を満載し敵の勢力下三,五〇〇海里を突破する危険極まりなき行動なりしを以て、中央に於ても十中八九その生還を期せざり由。」と語っている{{Sfn|海軍三等士官|1982|pp=299-300}}。このように[[連合艦隊]]司令部などの海軍上層部では失敗を予測していたが、完部隊がまったく損害を受けず全艦無事に帰還したことを知り、狂喜乱舞したとされる{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=621}}。連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将も「完部隊」の労苦を労った<ref name="叢書九三211" /><ref>[[#S20大淀戦闘詳報]] p.49〔 二十日一六〇三(長官)GF(宛略)GF機密第二〇一六〇三番電 北號作戰部隊関係各部ガ有ユル困難ヲ克服シ任務ヲ完遂シタルヲ慶祝シ其ノ労苦ヲ多トス 〕</ref>。松田少将も、軍令部の[[富岡定俊]]少将から感謝されたと回想している{{Sfn|海軍反省会(2)|2011|p=157}}。<!--(タンカー東城丸が3月に航空ガソリン輸送に成功している)このとき持ち帰られたガソリンは、内地に持ち込まれた最後の航空燃料となった。-->本作戦は連合国軍にとっても意表を突かれた結果であり、戦後、松田少将がアメリカ海軍第七艦隊の参謀へ本作戦について訊ねたところ「いや、あれはすっかりやられた」という答えが返ってきたという。 |
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しかしながら6隻の艦での輸送でありながら、物資の量としては中型貨物船1隻分に過ぎなかった。専用の輸送船ではない以上は仕方ないことであるが、この程度の量の物資の輸送に成功したことを狂喜せねばならないこと自体が、当時の日本の窮状を示していたと言える<ref>参考文献『歴史群像』2004年10月号 No.67</ref>。 |
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2月23日、第二水雷戦隊司令官[[古村啓蔵]]少将は、二水戦旗艦を霞から[[阿賀野型軽巡洋艦|軽巡洋艦]][[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]に変更した<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]] p.8〔 (備考)二十三日迄霞ヲ爾後矢矧ヲ旗艦トス 〕、同部隊戦闘詳報 p.11〔 (2)二十日呉ニテ2F(大和)ト會シ回航部隊ハ第二艦隊長官麾下ニ復シ二十三日旗艦ヲ霞ヨリ矢矧ニ復歸セリ 〕</ref>。 |
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2月25日、大淀は呉練習戦隊に編入されて[[練習艦]]となった<ref>[[#S1812呉練習戦隊(4)]] p.3〔 (二)二月二十五日附大淀當戰隊ニ編入生徒乗艦實習準備中 〕</ref>。大淀の水上偵察機搭乗員や整備員は矢矧に転勤となった{{Sfn|大塚、錨と翼|1993|pp=43-45|ps=転勤・即・出撃(菊水作戦)}}。 |
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3月1日、第四航空戦隊は解隊された<ref name="叢書九三213">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]、213頁「第四航空戦隊の解隊」</ref>。予備艦となった日向に対し、日向の[[野村留吉]]艦長は「[[霊魂|霊]]あるものと信ずる軍艦日向の為に万酷の涙流る」と嘆いている<ref>[[#栄光の追憶]]85頁</ref>。 |
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2隻(日向、伊勢)には燃料が残っており、これらは戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]に移された{{#tag:Ref|野村留吉(日向艦長)が『サンデー日本 48号』に書いた紀行文によれば、艦底のバルジに残っていた重油600トン{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=867}}。日向乗組員によれば、伊勢型2隻合計約1,500トンであった<ref>[[#栄光の追憶]]102頁</ref>。|group="注"}}。大和はこの燃料を元に[[菊水作戦]]に参加し、[[坊ノ岬沖海戦]]に臨んだ{{Sfn|海軍反省会(2)|2011|p=157}}。同海戦で北号作戦に参加した駆逐艦2隻(霞、朝霜)は沈没、7月下旬、3隻(伊勢、日向、大淀)は[[呉軍港空襲]]で大破着底した{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=891-894}}。同時期、初霜も舞鶴で触雷し、着底して喪われた{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=651}}。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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<references /> |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=10|title=戦史叢書88 海軍戦備(2) {{small|開戦以後}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書海軍戦備(2)}} |
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* {{Cite book|和書|author= |
* {{Cite book|和書|author=大内健二|coauthors=|year=2014|month=6|chapter=|title=航空戦艦「伊勢」「日向」{{small|航空母艦と戦艦を一体化させた恐るべき軍艦 付・航空巡洋艦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2834-1|ref={{SfnRef|大内、航空戦艦|2014}}}} |
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* 加藤寛 「奇蹟を呼び起こした人艦一体の物資輸送 『伊勢』『日向』の北号作戦」『歴史群像』2004年10月号 No.67、学習研究社、pp.168-177。 |
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* 大塚好古「ハイブリッド戦艦「伊勢」型の無念」『[[丸 (雑誌)|丸]]』2008年12月号(通巻七五二号)、[[潮書房]]、90-95頁 |
* 大塚好古「ハイブリッド戦艦「伊勢」型の無念」『[[丸 (雑誌)|丸]]』2008年12月号(通巻七五二号)、[[潮書房]]、90-95頁 |
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*<!--オオツカ1993-->{{Cite book|和書|author=大塚常夫|authorlink=|year=1993|month=12|title={{small|海軍十三期飛行予備学生}} 錨と翼の一年十ヶ月|chapter=戦艦変じて輸送船(北号輸送作戦)|publisher=アサヒ出版|ISBN=|ref={{SfnRef|大塚、錨と翼|1993}}}} 大塚は大淀水上偵察機搭乗員(2月12日大淀より発進)。 |
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* {{Cite book|和書|author=[[戸高一成]]編|year=2011|month=1|title=[証言録] 海軍反省会2|publisher=株式会社PHP研究所|isbn=978-4-569-79338-2|ref=海軍反省会2}} |
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*<!-- オブチ1990 -->{{Cite book|和書|author=小淵守男|authorlink=小淵守男|coauthors=|year=1990|title=航跡の果てに {{small|新鋭巡洋艦大淀の生涯}}|publisher=[[今日の話題社]]|isbn=4-87565-136-8|ref={{SfnRef|大淀の生涯|1990}}}} |
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*<!-- オブチ2011 -->{{Cite book|和書|author=小淵守男|year=2011|month=11|title={{small|少年水兵の太平洋戦争}} 巡洋艦「大淀」16歳の海戦|chapter=第十一章 北号輸送作戦|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2713-9|ref={{SfnRef|16歳の海戦|2011}}}} |
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* 加藤寛 「奇蹟を呼び起こした人艦一体の物資輸送 『伊勢』『日向』の北号作戦」『歴史群像』2004年10月号 No.67、学習研究社、pp.168-177。 |
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* <!-- キマタ1977 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|date=1977-07|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本空母戦史|1977}}}} |
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* <!-- キマタ1986 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|date=1986-03|title=日本水雷戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本水雷戦史|1986}}}} |
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* <!-- キマタ1989 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|date=1989-03|title=日本軽巡戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本軽巡戦史|1989}}}} |
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* <!-- キマタ2013 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|date=2013-06|origyear=1988|title=撃沈戦記 {{small|海原に果てた日本艦船25隻の航跡}}|chapter=3.航空戦艦「日向」「伊勢」|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2786-3|ref={{SfnRef|撃沈戦記|2013}}}} |
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* <!--サトウ1993 -->{{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正|date=1993-05|title=艦長たちの太平洋戦争 {{small|34人の艦長が語った勇者の条件}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=47698-2009-7|ref={{SfnRef|佐藤、艦長たち|1993}}}} |
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** 価値ある敵 <駆逐艦「神風」艦長・春日均中佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦「白雪」水雷長、水雷艇「初雁」艇長、駆逐艦「神風」艦長等) |
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* <!-- トダカ2011 -->{{Cite book|和書|editor=戸高一成|editor-link=戸高一成|year=2011|month=1|title=[証言録] 海軍反省会2|publisher=株式会社PHP研究所|isbn=978-4-569-79338-2|ref={{SfnRef|海軍反省会(2)|2011}}}} |
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* <!-- ハラ2014 -->{{Cite book|和書|author=原為一ほか|authorlink=原為一|year=2014|month=12|title=軽巡二十五隻 {{small|駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1580-8|ref={{SfnRef|軽巡二十五隻|2014}}}} |
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**{{small|当時「大淀」航海長・海軍中佐}}内田信雄『艦隊司令部用旗艦「大淀」の航跡 {{small|連合艦隊旗艦としても栄光をになった名艦の生涯を綴る航海長の手記}}』 |
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* {{Cite book|和書|author=日向会事務局|year=1977|month=7|title={{small|航空戦艦の活躍}} 軍艦日向栄光の追憶|publisher=日向会事務局|isbn=|ref=栄光の追憶}} |
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*<!--ホウエイチョウ46 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海上護衛戦|volume=第46巻|year=1971|month=5|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書46|1971}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ54 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南西方面海軍作戦 {{small|第二段作戦以降}}|series=戦史叢書|volume=第54巻|year=1972|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書54|1972}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ79 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中國方面海軍作戦(2) {{small|昭和十三年四月以降}}|series=戦史叢書|volume=第79巻|year=1975|month=1|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書79|1975}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ88 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍戦備(2) {{small|開戦以後}}|series=戦史叢書|volume=第88巻|year=1975|month=10|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書88|1975}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ92 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南西方面陸軍作戦 {{small|マレー・蘭印の防衛}}|volume=第92巻|date=1976-01|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書92|1976}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ93 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> {{small|―戦争最終期―}}|series=戦史叢書|volume=第93巻|year=1976|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書93}} |
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*<!--ホウエイチョウ102 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 陸海軍年表 {{small|付 兵器・兵語の解説}}|series=戦史叢書|volume=第102巻|year=1980|month=1|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書102}} |
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*<!-- ホリノウチ1982 -->{{Cite book|和書|author=堀之内芳郎|coauthors=野崎慶三(発行人)|year=1982|month=6|chapter=第十四章 最期の二トッパ -駆逐艦「蓮」艦長時代-|title=海軍三等士官・裏街道|publisher=震洋通信|isbn=|ref={{SfnRef|海軍三等士官|1982}}}} |
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*<!-- マル2011 -->{{Cite book|和書|author=「丸」編集部編|year=2011|month=7|title={{small|駆逐艦戦記}} 駆逐艦「神風」電探戦記|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4-7698-2696-5|ref={{SfnRef|駆逐艦戦記|2011}}}} |
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**{{small|最新鋭電波兵器を駆使して海戦を生きぬいた四年間―}}雨ノ宮洋之介『駆逐艦「神風」電探戦記』 |
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C14061154300|title=1.1945年春に於ける南西方面の一般情勢|ref=S20春南西方面一般情勢}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030020100|title=昭和19年11月1日~昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(4)|ref=S1911五艦隊(4)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030578500|title=昭和20年2月10日~軍艦大淀戦闘詳報|ref=S20大淀戦闘詳報}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030103000|title=昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S20.04二水戦詳報(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030079100|title=昭和18年12月1日~昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(4)|ref=S1812呉練習戦隊(4)}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2023年9月30日 (土) 12:02時点における最新版
北号作戦 | |
---|---|
作戦の中核を担った航空戦艦伊勢。 | |
戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1945年2月10日〜1945年2月20日 | |
場所:東シナ海 | |
結果:日本軍の作戦成功 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
松田千秋少将 古村啓蔵少将 |
|
戦力 | |
戦艦2 軽巡洋艦1 駆逐艦3 |
基地航空隊、潜水艦 |
損害 | |
無し | 無し |
北号作戦(ほくごうさくせん)は[1]、太平洋戦争末期、フィリピンの戦いで敗れた大日本帝国海軍が、東南アジアに取り残されていた残存艦艇を日本本土に脱出させた輸送作戦である[2]。日本軍のシーレーンが崩壊する中[3]、この作戦に参加した艦艇6隻に燃料と重要資源を搭載[4]、輸送船やタンカーの代替とした[5]。
概要
[編集]北号作戦は、1945年(昭和20年)2月10日から20日にかけて行われた日本軍の撤収、及び輸送作戦である[6][7]。 制海権・制空権の喪失によりシンガポール周辺で孤立していた艦艇のうち[8]、第四航空戦隊(日向、伊勢、大淀)と第二水雷戦隊の駆逐艦3隻(霞、朝霜、初霜)を、重要物資の輸送を兼ねて日本本土へ帰投させた[9][1]。 日本海軍の歴史において成功を収めた事実上最後の作戦。 作戦名は、同時期に一般輸送船により行われていた資源強行輸送の「南号作戦」[10](1月25日から3月9日)[11]に対応して連合艦隊が命名したものである[9][12]。また指揮官松田千秋第四航空戦隊司令官により「任務完遂」を意味する完部隊と命名されていた[9][13]。
北号作戦実施の半月前、南シナ海において本作戦と同様の航路を取ったヒ86船団は、アメリカ海軍の機動部隊に捕捉されて壊滅的損害を受けていた[14]。極めて危険な作戦で最悪は部隊の全滅も覚悟されていたが(後述)、損害を受けずに完全な成功を収めたことで、キスカ島撤退作戦と同様に「奇跡の作戦」などと評される[15]。
背景
[編集]南シナ海における連合軍の通商破壊作戦の本格化によって、日本の軍需・民需輸送船の損害が増大し、南方からの資源輸送が極めて困難となっていた[16][17]。またシンガポールに在泊していた水上戦力が日本本土と切り離され、これらの戦力が本土防衛に参加できず遊兵化する恐れがあった。そのため通常の輸送船やタンカーだけでなく、これらの高速・重武装の戦闘艦艇を用いて資源輸送や船団護衛を行い[18]、かつ内地へ撤収させる必要に迫られた。
この時期になると日本軍の制空権や制海権は失われ、同時に連合軍の潜水艦や航空機は活発に行動しており[19]、戦闘艦艇といえども安全な航海は望めない状況だった[20]。 3ヶ月前の1944年(昭和19年)11月21日には戦艦金剛と駆逐艦浦風が[21]、日本本土への帰還中に米潜水艦シーライオンIIに撃沈された[22]。 12月3日、日本本土へ帰投中の戦艦榛名と空母隼鷹および護衛駆逐艦3隻(冬月、涼月、槇)が米潜水艦のウルフパックに襲われ、隼鷹と槇が大破した[23][24]。同年12月13日にも、同じく日本本土に戻ろうとした重巡洋艦妙高が米潜水艦バーゴールの雷撃で大破し、帰国を断念していた[注 1]。 12月19日には特攻兵器桜花をフィリピンへ輸送中の空母雲龍が[28]、米潜水艦レッドフィッシュに撃沈された[29][30]。
さらに潜水艦だけでなくアメリカ海軍機動部隊とイギリス海軍機動部隊も東シナ海や南シナ海での作戦を開始した[31][32][33]。 1945年(昭和20年)1月上旬から中旬にかけてヒ86船団とヒ87船団が[34]、第38任務部隊によって壊滅的被害を受けるに至った[注 2]。(グラティテュード作戦)[37]。 米機動部隊(第3艦隊)を率いるウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督はレイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)で取り逃がした小沢機動部隊の残存戦艦2隻(伊勢、日向)を撃沈しようと、個人的な闘志を燃やしていたのである[38][39]。
また1月24日、英軍機動部隊は空母4隻(インドミタブル、インディファティガブル、イラストリアス、ヴィクトリアス)の艦上機多数(TBFアヴェンジャー 48機、F6Fヘルキャット 16機、F4Uコルセア 32機、ファイアフライ戦闘機 12機)により、スマトラ島パレンバンの石油精製施設を爆撃した[8]。1月29日にも英空母艦上機によるパレンバン空襲があり、同製油所の能力は大幅に低下した[40]。第二遊撃部隊が停泊するシンガポール近海のリンガ泊地も、英空母機による奇襲を受ける可能性があった[8]。 2月1日、B-29爆撃機多数がシンガポールを爆撃し[41]、日本側は5万トン浮きドックが破壊されるなどの損害を受けた[8]。
同時期の日本海軍は、南西方面に残る艦艇・部隊の再編を実施していた[42]。1945年(昭和20年)2月5日附で第五艦隊(司令長官志摩清英中将)[43]および第二遊撃部隊は解隊される[44][45]。 残存部隊(巡洋艦〈足柄、羽黒、大淀〉等、第四航空戦隊〈日向、伊勢〉[43]、第二水雷戦隊)および第一南遣艦隊、第二南遣艦隊、第十三航空艦隊等を中核として[46][47]、第十方面艦隊[48](司令長官福留繁中将、参謀長朝倉豊次少将)[49]を新編した[50][51]。
完部隊
[編集]作戦準備
[編集]大本営海軍部(軍令部)は1945年(昭和20年)2月4日[9]、シンガポール方面の大型艦について今後の行動方針を示した[13]。第四航空戦隊(伊勢、日向、大淀)は物資人員を搭載して内地帰投、重巡洋艦部隊(足柄、羽黒)はシンガポール方面に残り緊急輸送任務や敵水上艦隊迎撃等に投入、第二水雷戦隊(霞、朝霜、初霜)は、四航戦または船団を護衛して内地帰投、重巡2隻(高雄、妙高)は応急修理を実施して機会があれば内地帰投、艦体前部喪失・応急艦首装着の駆逐艦天津風は船団護衛に協力して内地帰投、というものである[52]。 これらの方針は第五艦隊解隊と時を同じくして、関係部隊・各艦に内示された[9][45]。 当初、連合艦隊司令部(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将)は、四航戦の内地回航に反対だったという[9]。
2月6日、各隊・各艦はリンガ泊地を発ち、7日シンガポールに到着した[53]。2月10日、大本営は四航戦と二水戦に対し、正式に内地帰投輸送作戦実施を下令する[52]。これを受けて第十方面艦隊司令長官福留繁中将は同日以後の「完部隊」出撃を命じた[52]。
参加艦艇は、第四航空戦隊(伊勢型戦艦〈日向、伊勢〉、軽巡洋艦〈大淀〉)、第二水雷戦隊(駆逐艦霞〔二水戦司令官古村啓蔵少将座乗〕、朝霜、初霜)で構成されていた[13]。完部隊旗艦は日向で、四航戦司令官の松田千秋少将が指揮した[54][55]。 前月から第五戦隊に編入されていた大淀は[56][57]、北号作戦実施に際し第四航空戦隊に編入されている[58](2月10日附)[59]。 だが「航空戦隊」とは名ばかりであった[60]。航空戦艦2隻はカタパルトすら撤去しており[61]、完部隊の搭載機は大淀の零式水上偵察機2機だけだった[62]。そこで大淀搭載の水上偵察機や基地航空隊が「完部隊」の対潜哨戒を担当、また海南島から福州周辺を第1駆逐隊(野風、神風)[9]、福州から内地を峯風型駆逐艦汐風が護衛するという計画が立てられる[63]。
作戦前、「完部隊」司令官松田千秋少将および野村留吉日向艦長達は第十方面艦隊司令長官福留繁中将から「二度と諸君らに相見えることは無いだろう」と告げられていた[注 3]。
前述のように、部隊はシンガポールにて、航空燃料用のガソリン・生ゴム・錫などの当時稀少な物資を目一杯積み込んだ[65]。航空戦艦に改造されていたものの搭載機を持たなかった伊勢型戦艦2隻(日向、伊勢)では、艦後部の広大な飛行機格納庫が物資の主要積載場所となった[66]。大淀は航空機格納庫(作戦司令部施設)を燃料庫に改造した[67]。駆逐艦はもとより大淀や両戦艦も、甲板上にまで可燃性の高いガソリンを詰めたドラム缶多数が搭載されたため、たとえ軽微な攻撃であっても被弾すれば極めて危険な状態だった[68]。軍令部は「半分の艦が日本本土に戻れれば上出来で、全滅の可能性もある」と予測したが「伊勢、日向、大淀は運が強いからどんな作戦でも成功する」とする意見もあった[69][70]。
戦力
[編集]完部隊(指揮官:第四航空戦隊司令官松田千秋少将、海兵44期)
搭載物資は以下の通りである[71][72]。 日向(伊勢)はそれぞれ、航空揮発油ドラム缶4994個(5200個)、航空機揮発油タンク内100トン(〃トン)、普通揮発油ドラム缶326個(伊勢は搭載せず)、ゴム1750トン(〃トン)、錫820トン(1750トン)、タングステン144トン、水銀24トン、輸送人員油田開発技術員等440名(551名)[73]。大淀は輸送人員159名、ゴム50トン、錫120トン、亜鉛40トン、タングステン20トン、水銀20トン、航空揮発油ドラム缶86個、航空機揮発油タンク内70トン[74]。霞、朝霜、初霜はゴム・錫3隻合計140トン[73]。
作戦行動
[編集]松田少将(四航戦司令官)によれば、燃料を少しでも節約するために艦隊速力を16ノットに抑えた[75]。完部隊は1945年(昭和20年)2月10日夕刻、在泊艦艇に見送られシンガポールを出航した[76][77]。完部隊が出撃すると島々から日の丸が振られ、乗組員はスパイを疑ったという[62]。すでに戦闘機や哨戒機などの護衛や支援は望めない状況だった。完部隊はフィリピンのマニラ方面に突入すると見せかけたのち、北上して日本本土へ向かう[75]。アメリカ軍は作戦を暗号解読で察知し、付近の自軍に迎撃命令を発していた[78][注 4]。
途中何度かアメリカ陸軍航空隊機による空襲やアメリカ海軍の潜水艦(バーゴール、ブロワー、フラッシャー、バッショー等)による接触・攻撃を受けた[79]。しかしいずれの攻撃も回避、または事前に撃退に成功した[注 5]。2度にわたるアメリカ軍機による攻撃には、2度とも近隣に発生していたスコールに隠れて攻撃を回避することに成功した。
2月12日昼前、朝霜が米潜水艦(ブラックフィン)を発見して爆雷を投下した[80][81]。 夕刻[82]、大淀は水上偵察機1機[60](2号機)を射出[83]。陸上基地からも九三六海軍航空隊や足柄搭載水上偵察機が対潜哨戒に従事した[84]。大淀2号機は艦隊直掩を実施したのち、カムラン湾に向かった[85]。大淀機はカムラン湾、海南島、厦門、基隆の水上機基地を利用しながら完部隊を追いかけて内地へむかった[86]。
2月13日、ブラックフィンの報告を受けたアメリカ陸軍航空部隊はB-24重爆多数を投入したが、雲に覆われた完部隊を認識できず、あきらめて去った[87]。また日向や霞のレーダーが水上目標を探知した[88]。米潜水艦3隻(ブロワー、バーゴール、フラッシャー)が相次いで魚雷多数を発射するが[89]、1本も命中しなかった[90][91]。 伊勢は魚雷8本を発見し、回避に成功した[92][93]。内1本を高角砲の射撃で爆破した[93]。 夕刻、日向は米潜水艦バッショーに対し36cm主砲による砲撃を実施[90]、効果はなかったがバッショーは潜航したため襲撃の機会を失った[94][注 6]。
2月14日昼頃、天候が悪化する中で澎湖諸島馬公市からやってきた第1駆逐隊(野風、神風)[注 7]が完部隊に合流する[97][98]。悪天候のため、旧式の神風型駆逐艦や峯風型駆逐艦では速力18ノットの戦艦についてゆくのもやっとだった[99]。 約1時間後、アメリカ軍大型爆撃機が数十機が飛来したが、悪天候のため完部隊を捕捉できず、あきらめて帰投した[90]。夕刻、完部隊の前方に米軍第七艦隊が航行しているとの情報があり、大淀は水上偵察機1機[100](1号機)を射出した[101]。だが誤報であった[102][103]。 2月15日未明から朝にかけて完部隊は不審な影を発見、各艦は水上見張り用の二十二号レーダーを射撃用に用いる準備をしたが、二度とも中国民間のジャンク船団だった[100][104]。
2月15日夜に馬祖島で仮泊、燃料補給を実施した(日向→霞〔船体接触、損傷軽微〕、伊勢→初霜、大淀→朝霜)[105]。ここで完部隊は第1駆逐隊と分離した[106]。台湾海峡を通過中に、既に落伍していたとも伝えられる[102][107]。第1駆逐隊はシンガポールに向かった[注 8]。 完部隊は日付変更と共に出発する[108]。完部隊が同地出航の際、野風・神風らの代わりに第1駆逐隊が護衛として付けた駆逐艦汐風もまた[注 9]、暗黒と悪天候のため完部隊からはぐれてしまった[110]。 同時刻、支那方面艦隊所属の駆逐艦蓮が、北上する第四航空戦隊と遭遇した[111]。感激した堀之内(蓮艦長)は四航戦からの誰何信号に「われ蓮、今より貴隊を護衛せんとす」と発信して右正横3000mに占位したが、悪天候下の樅型駆逐艦では戦艦の速力について行けず、蓮は30分程で後落したという[112]。
2月16日夜から17日朝にかけて[113]、完部隊は舟山島泊地に仮泊した[114]。出港後、黄海を横断する[115]。 18日夕刻から19日朝にかけて[113]、朝鮮半島南岸で仮泊した[116]。 同日夜には下関に到着[113]、六連泊地で仮泊した[117]。 翌2月20日午前10時[113]、完部隊6隻(日向、伊勢、大淀、霞、初霜、朝霜)は呉に到着した[118][119]。輸送作戦は完璧な成功を収めた[52]。大淀偵察機2機も無事に母艦へ戻っている[120][121]。艦艇研究家木俣滋郎によれば、完部隊(大淀)が回避した潜水艦は英米合計26隻におよぶという[122](戦史叢書54巻では、約10隻の潜水艦と遭遇とする)[13]。
結果
[編集]本作戦時伊勢艦長だった中瀬泝少将は、戦後の『軍艦伊勢全国大会祭典』で述べた祭文中で「超へて昭和二十年二月の北号作戦は昭南より航空燃料を満載し敵の勢力下三,五〇〇海里を突破する危険極まりなき行動なりしを以て、中央に於ても十中八九その生還を期せざり由。」と語っている[112]。このように連合艦隊司令部などの海軍上層部では失敗を予測していたが、完部隊がまったく損害を受けず全艦無事に帰還したことを知り、狂喜乱舞したとされる[79]。連合艦隊司令長官豊田副武大将も「完部隊」の労苦を労った[9][123]。松田少将も、軍令部の富岡定俊少将から感謝されたと回想している[124]。本作戦は連合国軍にとっても意表を突かれた結果であり、戦後、松田少将がアメリカ海軍第七艦隊の参謀へ本作戦について訊ねたところ「いや、あれはすっかりやられた」という答えが返ってきたという。
しかしながら6隻の艦での輸送でありながら、物資の量としては中型貨物船1隻分に過ぎなかった。専用の輸送船ではない以上は仕方ないことであるが、この程度の量の物資の輸送に成功したことを狂喜せねばならないこと自体が、当時の日本の窮状を示していたと言える[125]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 妙高を護衛していた駆逐艦潮はヒ82船団に加入して内地へ帰投し(南号作戦)[25]、妙高は姉妹艦羽黒に曳航されてシンガポールに戻った[26][27]。
- ^ ヒ87船団部隊を護衛していた駆逐艦時雨は第二水雷戦隊本隊(司令官古村啓蔵少将:霞、朝霜、初霜)に合流するためマレー半島東岸を航行中の1月24日、米潜水艦ブラックフィンに撃沈された[35][36]。
- ^ 1500第10方面艦隊司令長官福留繁中将見送りの為来艦(註、日向)。積荷の状況視察の後准士官以上に対し激励訣別の訓示を行われ「再会の期すべきものなし。突入以上の困難なる作戦、切に諸君の善戦を祈る」と結ばる。真にその通り。一同感奮。我(註、野村艦長)代りてお礼を述べ「誓って任務完遂御期待に添わん」と述ぶ。[64]
- ^ アメリカ軍機動部隊は硫黄島の戦いに投入されるため、陸軍の第五航空軍と潜水艦部隊(26隻)が迎撃に向かった。『丸』
- ^ 『丸』では、フラッシャーが浮上攻撃中に伊勢の主砲により撃退とされている。一方、アメリカ側の記録では砲撃を行った戦艦は日向で、撃退されたのはフラッシャーと共に攻撃を仕掛けようとしたバッショーとなっている。どちらにせよこれは日本戦艦が主砲で水上目標を撃退した最後の事例となった。
- ^ 大内健二『航空戦艦「伊勢」「日向」』99-100頁では、「後方の2番艦日向の左舷前方200mに敵潜水艦が浮上して前方を進む伊勢を追跡しようとしたので、日向は高角砲と主砲で射撃した。潜水艦は急速潜航した。」としている[95]。
- ^ 第1駆逐隊(野風、神風)は2月初旬から馬公市に進出していた[96]。
- ^ シンガポール到着前の2月20日[99]、野風はカムラン湾近海で潜水艦パーゴに撃沈された[36]。
- ^ 峯風型駆逐艦の汐風と、若竹型駆逐艦の朝顔は、2月15日付で第1駆逐隊に編入されていた[109]。
出典
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- ^ 戦史叢書102巻、283頁「昭和20年2月10日」
- ^ #S20.04二水戦詳報(1) p.5〔 (二)南號作戰ハ戦局ノ急迫ニ伴ヒ愈ヽ強化セラレタルガ之ト並行シ十日北號作戰部隊編成セラレ第四航空戰隊(大淀ヲ含ム)第二水雷戰隊ヲ以テ重要物資ノ急速還送並ニ同部隊所属艦艇ノ内地歸投ヲ企圖セラレ二十日之ガ成功ヲ見タリ 〕
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- ^ 大内、航空戦艦 2014, pp. 97–98.
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- ^ #S20大淀戦闘詳報 p.7〔 同日一七〇〇「セレター」軍港發先ニ出港セル2sdト合同二〇四〇 四航空戰二水戰ハ第二警戒航行序列ニ占位シ一斉回航之字運動X法ニテ昭南海峡ヲ出撃ス 〕、#S20大淀戦闘詳報 p.10〔 一八一〇|昭南海峡ニ於テ警戒隊(霞初霜朝霜)ト合同 〕
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- ^ #S20.04二水戦詳報(1) p.8〔 此ノ間一三日一三四二本艦ハ左四五度二五〇〇米ニ敵潜望鏡ヲ發見右ニ大回避スルト共ニ僚艦ニ信號拳銃二發ヲ以テ通報ス、回避後幾何モナク二本ノ雷隻(一本跳㞮)ヲ發見之ト併行ニ回避航行ス是ヨリ稍早ク本艦後方ニ占位シアリタル伊勢ハ後方ヨリ他ノ潜水艦ニヨリ八本ノ雷撃ヲ受ケタルモ克ク之ヲ回避セリ又一四日〇一〇四本艦左後方ヨリノ追撃シ来タル雷跡發見面舵ニ急速轉舵回避スルト共ニ信號弾赤二發ヲ以テ僚艦ニ通報シコトナキヲ得タリ 〕
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- ^ #S20.04二水戦詳報(1) p.33〔 一五(天候略)二〇〇〇4sf2sd福州沖仮泊|霞日向ヨリ、初霜伊勢ヨリ、朝霜大淀ヨリ}燃料補給{二五〇噸、三〇〇噸、二五〇噸|霞横付ノ際船体一部破損戰斗航海支障ナシ 〕
- ^ #S20大淀戦闘詳報 p.9〔 十五日一九三〇馬祖島泊地ニ假泊朝霜ニ二五〇噸重油ヲ補給シ曩ニ海南島東方海面ニテ護衛隊ニ入リシ第一駆逐隊ト分離シ十六日〇〇〇〇假泊發北上中〇五五六本艦ノ左七〇度方向ニ魚雷音二ヲ聴知(水測)セルヲ以テ急速單独回避ヲ行フト共ニ信號弾ヲ以テ僚艦ニ通報シ之ヲ後方ニ躱シ得タリ 〕
- ^ #栄光の追憶84頁「台湾海峡予想以上に季節風強く、速力出でず、二十節にて駆逐隊難航を極め、野風、神風後落見失う」
- ^ #S20.04二水戦詳報(1) p.33〔 一六(天候略)〇〇〇〇4sf2sd福州沖發 〕
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- ^ 前述の途上ではぐれた汐風は、前日の19日に呉に入港している。
- ^ #S20大淀戦闘詳報 p.49〔 二十日一九二〇大淀|(司令長官)4sf|タナ七 本艦飛行機二機共呉空着異状ナシ 〕
- ^ 大塚、錨と翼 1993, p. 42.
- ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 620.
- ^ #S20大淀戦闘詳報 p.49〔 二十日一六〇三(長官)GF(宛略)GF機密第二〇一六〇三番電 北號作戰部隊関係各部ガ有ユル困難ヲ克服シ任務ヲ完遂シタルヲ慶祝シ其ノ労苦ヲ多トス 〕
- ^ 海軍反省会(2) 2011, p. 157.
- ^ 参考文献『歴史群像』2004年10月号 No.67
参考文献
[編集]- 大内健二『航空戦艦「伊勢」「日向」航空母艦と戦艦を一体化させた恐るべき軍艦 付・航空巡洋艦』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年6月。ISBN 978-4-7698-2834-1。
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- 大塚常夫「戦艦変じて輸送船(北号輸送作戦)」『海軍十三期飛行予備学生 錨と翼の一年十ヶ月』アサヒ出版、1993年12月。 大塚は大淀水上偵察機搭乗員(2月12日大淀より発進)。
- 小淵守男『航跡の果てに 新鋭巡洋艦大淀の生涯』今日の話題社、1990年。ISBN 4-87565-136-8。
- 小淵守男「第十一章 北号輸送作戦」『少年水兵の太平洋戦争 巡洋艦「大淀」16歳の海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年11月。ISBN 978-4-7698-2713-9。
- 加藤寛 「奇蹟を呼び起こした人艦一体の物資輸送 『伊勢』『日向』の北号作戦」『歴史群像』2004年10月号 No.67、学習研究社、pp.168-177。
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。
- 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。
- 木俣滋郎「3.航空戦艦「日向」「伊勢」」『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社〈光人社NF文庫〉、2013年6月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-2786-3。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年5月。ISBN 47698-2009-7。
- 価値ある敵 <駆逐艦「神風」艦長・春日均中佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦「白雪」水雷長、水雷艇「初雁」艇長、駆逐艦「神風」艦長等)
- 戸高一成 編『[証言録] 海軍反省会2』株式会社PHP研究所、2011年1月。ISBN 978-4-569-79338-2。
- 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8。
- 当時「大淀」航海長・海軍中佐内田信雄『艦隊司令部用旗艦「大淀」の航跡 連合艦隊旗艦としても栄光をになった名艦の生涯を綴る航海長の手記』
- 日向会事務局『航空戦艦の活躍 軍艦日向栄光の追憶』日向会事務局、1977年7月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海上護衛戦』 第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1972年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦(2) 昭和十三年四月以降』 第79巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1975年1月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍戦備(2) 開戦以後』 第88巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1975年10月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面陸軍作戦 マレー・蘭印の防衛』 第92巻、朝雲新聞社、1976年1月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』 第93巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1976年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1980年1月。
- 堀之内芳郎、野崎慶三(発行人)「第十四章 最期の二トッパ -駆逐艦「蓮」艦長時代-」『海軍三等士官・裏街道』震洋通信、1982年6月。
- 「丸」編集部編『駆逐艦戦記 駆逐艦「神風」電探戦記』光人社、2011年7月。ISBN 978-4-7698-2696-5。
- 最新鋭電波兵器を駆使して海戦を生きぬいた四年間―雨ノ宮洋之介『駆逐艦「神風」電探戦記』
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『1.1945年春に於ける南西方面の一般情勢』。Ref.C14061154300。
- 『昭和19年11月1日~昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030020100。
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- 『昭和18年12月1日~昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030079100。