「ポール・ゴーギャン」の版間の差分
Crisco 1492 (会話 | 投稿記録) m (GR) File renamed: File:Paul Gauguin 125.jpg → File:Paul Gauguin - Self-Portrait with Halo and Snake.jpg File renaming criterion #2: To change from a meaningless or ambiguous name to a name that desc... |
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'''ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン'''({{lang-fr|Eugène Henri Paul Gauguin}} {{IPA-fr| |
'''ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン'''({{lang-fr|Eugène Henri Paul Gauguin}} {{IPA-fr|øʒɛn ãʁi pol ɡoɡɛ̃}}<small> [http://ja.forvo.com/word/paul_gauguin#fr 発音例]</small>, [[1848年]][[6月7日]] - [[1903年]][[5月8日]])は、[[フランス]]の[[ポスト印象派]]の[[画家]]。姓は「ゴギャン」「ゴーガン」とも。 |
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==生涯== |
==生涯== |
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=== 出生から少年時代 === |
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1848年、[[1848年のフランス革命|二月革命]]の年に[[パリ]]に生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米[[ペルー]]の[[リマ]]に亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。 |
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ポール・ゴーギャンは、1848年、[[1848年のフランス革命|二月革命]]の年に[[パリ]]に生まれた。父クローヴィス・ゴーギャンは、共和系のジャーナリストであった。母アリーヌ・マリア・シャザルの母(祖母)は、初期社会主義の主唱者でペルー人の父を持つ{{仮リンク|フローラ・トリスタン|en|Flora Tristan}}であった。[[ナポレオン3世]]の[[クーデター]]で、共和主義者であった父クローヴィスは職を失い、一家は、パリを離れて[[ペルー]]に向かった<ref>[[#高階2008|高階 (2008: 128)]]。</ref>。しかし、父クローヴィスは、航海中に急死した。残されたポールとその母と姉は、[[リマ]]で、ポールの叔父を頼って、4年間を過ごした。母アリーヌは、[[インカ帝国]]の陶芸品を好んで収集していた。 |
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ポールが7歳の時、一家はフランスに戻り、父方の祖父を頼って[[オルレアン]]で生活を始めた。ここはゴーギャン家が昔から住んでいた土地であり、[[スペイン語]]で育っていたポールは、ここで[[フランス語]]を身に付けた。 |
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フランスに帰国後、ゴーギャンは[[オルレアン]]の神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、[[南アメリカ|南米]]や[[インド]]を訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、[[普仏戦争]]にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人([[証券会社]]の社員)となり、[[デンマーク]]出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、5人の子供に恵まれ、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。株式相場が大暴落して仕事に不安を覚えたとき、安定した生活に絶対的な保証はないと気付き、勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。 |
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=== 就職・結婚 === |
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1886年以来、[[ブルターニュ地域圏|ブルターニュ地方]]の[[ポン=タヴァン]]を拠点として制作した。この頃ポン=タヴァンで制作していた[[エミール・ベルナール (画家)|ベルナール]]、[[モーリス・ドニ|ドニ]]、[[シャルル・ラヴァル|ラヴァル]]らの画家のグループを[[ポン=タヴァン派]]というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴァン派の特徴的な様式は[[クロワソニズム]](フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。この間、1887年春にはラヴァルとともに[[パナマ]]に渡り、生活費のため運河建設の現場で働くが、体を壊し、6月末、暮らしやすい[[カリブ海]]のフランス領の島[[マルティニック島]]へ移動していた時期もある。この頃[[ジャポニスム]]の影響を受けた画家たちが頻繁に手掛けた形式、扇面構図の制作にも取り組んでいる。また、同じ頃、マルティニック島にはやがて日本を訪れることになるラフカディオ・ハーン([[小泉八雲]])が滞在していて、島のプレ山を眺めて『[[富嶽三十六景]]』を描いたあの偉大な日本の絵師[[葛飾北斎]]と似た仕事を誰かここの芸術家がやってくれないかと考えたという。しかし、再び病に倒れたゴーギャンは十月頃には帰国の途につく(一方のプレ山は1902年に災害史に残る大噴火を起こし、マルティニック島は首都[[サン・ピエール (マルティニーク)|サン・ピエール]]壊滅という悲劇に見舞われる)。 |
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ポールは、地元の学校に通った後、{{仮リンク|ラ・シャペル=サン=メマン|en|La Chapelle-Saint-Mesmin}}の格式あるカトリック系寄宿学校に3年間通った<ref>[[#Gayford|Gayford (2006: 99-100)]]。</ref>。14歳の時、パリの海軍予備校に入り、最終学年にオルレアンに戻ってリセ・ジャンヌ・ダルクを修了した。そして、商船の[[水先人]]見習いとして登録した。3年後、フランス海軍に入隊し、2年間勤めた<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 14)]]。</ref>。[[1867年]]7月7日、母が亡くなったが、ポールは、数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知らなかった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 18)]]、[[#Perruchot|Perruchot (1961: 44)]]。</ref>。[[1871年]]、23歳の時、パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、[[パリ証券取引所]]での職を得、株式仲買人として働くようになった。その後11年間にわたり、彼は、実業家として成功し、[[1879年]]には、株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていた<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 49)]]。</ref>><ref>{{Cite web|title=The Business of Art: Evidence from the Art Market |url=http://www.getty.edu/art/exhibitions/business/|website=getty.edu |publisher=J. Paul Getty Museum |year=2004 |accessdate=2015-07-20}}</ref>。 |
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[[1873年]]、ゴーギャンは、デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッド(1850年-1920年)と結婚した。2人の間には、エミール(1874年-1955年)、アリーヌ(1877年-97年)、クローヴィス(1879年-1900年)、ジャン・ルネ(1881年-1961年)、ポール・ロロン(1883年-1961年)の5人の子供が生まれた。 |
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1888年には南仏アルルで[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]と共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。一般的にゴッホが自ら耳を切ったとされるこの事件については、近年、耳を切ったのは実は剣を振りかざしたゴーギャンであったとの異説が唱えられているが、専門家の支持は得られていない。<ref>{{cite news |title=新説、ゴッホの耳を切ったのはゴーギャン? |newspaper=世界日報社 |date=2009-05-06 |url=http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/090506-185448.html |accessdate=2013-02-01}}</ref>。 |
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=== 絵の修業 === |
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[[ファイル:Paul Gauguin 056.jpg|thumb|left|300px|タヒチの女(浜辺にて)(1891年)[[オルセー美術館]] 蔵]] |
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株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは、余暇に絵を描くようになった。彼が住むパリ[[9区 (パリ)|9区]]には、印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは、画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしていた。[[カミーユ・ピサロ]]と知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描いたりしていた<ref name="met">{{Cite web |author=Cindy Kang |url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/gaug/hd_gaug.htm |title=Heilbrunn Timeline of Art History: Gauguin Biography |publisher=The Metropolitan Museum of Art |year=2000 |accessdate=2015-07-21}}</ref>。ピサロは、彼を、他の様々な画家たちにも紹介した。ゴーギャンは、[[1877年]]、川を渡って都心を離れたパリ[[15区 (パリ)|15区]]ヴォージラールに引っ越し、この時、初めて家にアトリエを持った<ref name= "Paris locations">[[#Staszak|Staszak (2003: 32)]]。</ref>。元株式仲買人で画家を目指していた親友[[エミール・シュフネッケル]]も、近くに住んでいた。ゴーギャンは、1879年の第4回[[印象派]]展に息子エミールの彫像を出品していたが、1881年と1882年の印象派展には、絵を出展した。作品は、不評であった<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 22)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 38-40)]]。</ref>。 |
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西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋([[ポリネシア]])にあるフランス領の島・[[タヒチ]]に渡ったのは1891年4月のことであった。しかしタヒチでも彼が夢に見ていた楽園の面影は消えつつあった。西欧化された首都のパペーテを離れ、原始の風景を求めて島の反対側にあるマタイエアという村に移り住んで現地の女性の絵を多く描く。しかし経済的に行き詰ったゴーギャンは1893年フランスに帰国。叔父の遺産を受け継ぎ、パリにアトリエを構える。本業である絵の売れゆきは思わしくなかったが、一方でタヒチの自然と島の少女との暮らしを綴った随想『[[ノアノア]]』を執筆した。(この時期は、交友のあった詩人[[ステファヌ・マラルメ|マラルメ]]のもとに出入りしたこともある)。しかし一度捨てた妻子に再び受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年には再びタヒチに渡航した。 |
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[[1882年]]、パリの株式市場が大暴落し、絵画市場も収縮した。ゴーギャンから絵を買い入れていた画商[[ポール・デュラン=リュエル]]も恐慌の影響を受け、絵の買付けを停止した。ゴーギャンの収入は急減し、彼は、その後の2年間、徐々に絵画を本業とすることを考えるようになった<ref name="met" />。ピサロや、時には[[ポール・セザンヌ]]と一緒に絵を描いて過ごすこともあった。[[1883年]]10月、彼は、ピサロに、画業で暮らしていきたいという決心を伝え、助けを求める手紙を送っている。翌[[1884年]]1月、ゴーギャンは、家族とともに、生活費の安い[[ルーアン]]に移り、生活の立て直しを図ったが、うまく行かず、その年のうちに、妻メットは[[デンマーク]]の[[コペンハーゲン]]に戻ってしまった。ゴーギャンも、11月、作品を手にコペンハーゲンに向かった<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 27-29)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 52-56)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Woher kommen wir Wer sind wir Wohin gehen wir.jpg|thumb|300px|『[[われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか]]』1897-1898年([[ボストン美術館]])]] |
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[[ファイル:Paul Gauguin 134.jpg|thumb|250px|3人のタヒチ人(1899年)]] |
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タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『[[われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか]]』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙な[[マルキーズ諸島]]に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。 |
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ゴーギャンは、コペンハーゲンで、防水布の外交販売を始めたが、言葉の壁にも阻まれ、失敗した。妻メットが、外交官候補生へのフランス語の授業を持って、家計を支える状態であった。ゴーギャンは、メットの求めを受けて、[[1885年]]、家族を残してパリに移った<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 56-62)]]。</ref>。 |
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[[ポール・セザンヌ]]に「支那の切り絵」と批評されるなど、同時代の画家たちからの受けは悪かったが、没後西洋と西洋絵画に深い問いを投げかけたゴーギャンの孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得していった。 |
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ファイル:Paul Gauguin 064.jpg|『ヴォージラールの市場の庭』1879年。[[スミス大学]]美術館。 |
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ファイル:Paul Gauguin 059.jpg|『冬の風景』1879年。[[ブダペスト国立西洋美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin 097.jpg|『ゴーギャン夫人の肖像』1880-81年頃。[[ビュールレ・コレクション]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin 001.jpg|『縫い物をする女』1880年。[[ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin 060.jpg|『ヴォージラールの庭』1881年。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。 |
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=== パリからポン=タヴァンへ(1885年-1886年) === |
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イギリスの作家[[サマセット・モーム]]の代表作「[[月と六ペンス]]」(初刊は1919年出版)の主人公の画家のモデルであった。 |
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ゴーギャンは、[[1885年]]6月、6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻った。その他の子は、コペンハーゲンのメットの元に残り、メットの稼ぎと家族・知人の助けで生活することとなった。ゴーギャンは、画家として生計を立てようと思ったが現実は厳しく、困窮して、雑多な雇われ仕事を余儀なくされている。クローヴィスは病気になり、ゴーギャンの姉マリーの支援で寄宿学校に行くことになった<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 38)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 63-67)]]。</ref>。パリ最初の1年に制作した作品は非常に少ない。[[1886年]]5月の第8回(最終回〉印象派展に19点の絵画と1点の木のレリーフを出展しているが<ref>{{Cite web |last1=Gersh-Nesic |first1=Berth |title=The Eighth Impressionist Exhibition - 1886 |url=http://arthistory.about.com/od/first_eight_exhibitions/a/eighth_Impressionism_exhibition.htm |website=arthistory.about.com |publisher=About.com |accessdate=2015-08-31}}</ref>、ほとんどがルーアンやコペンハーゲン時代の作品であり、唯一『水浴の女たち』が新たなモチーフを生み出した程度で、新味のあるものはほとんどなかった。それでも、{{仮リンク|フェリックス・ブラックモン|en|Félix Bracquemond}}はゴーギャンの作品を1点購入している。この時の印象派展で前衛画家の旗手として台頭したのが、[[新印象派]]と呼ばれる[[ジョルジュ・スーラ]]であったが、ゴーギャンは、スーラの点描主義を侮蔑した。この年、ゴーギャンは、ピサロと反目し、ピサロはその後ゴーギャンに対して敵対的な態度をとるようになる<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 39-41)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 67-68)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、[[1886年]]夏、[[ブルターニュ]]地方の[[ポン=タヴァン]]の画家コミュニティで暮らした。最初は、生活費が安いという理由で移ったのであるが、ここでの若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらした。[[シャルル・ラヴァル]]もその1人であり、彼は、後にパナマやマルティニーク島への旅をともにすることとなる<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 70-73)]]、[[#Thompson|Thompson (2010: 42-49)]]。</ref>。 |
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== 日本にある主なゴーギャン作品 == |
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* ブルターニュの少年の水浴(愛の森の水車小屋の水浴、ポン=タヴェン)([[ひろしま美術館]]) 油彩 キャンバス 1886年 [http://www.hiroshima-museum.jp/library/gallery/pdf/gallery2/gauguin.pdf 画像]([[Portable Document Format|PDF]]) |
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* 馬の頭部がある静物 ([[ブリヂストン美術館]]) 油彩 キャンバス 1886年 |
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* ブルターニュ風景 ([[国立西洋美術館]] [[松方コレクション]]) 油彩 キャンバス 1886年 |
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* [http://www.sompo-japan.co.jp/museum/gau/index.html アリスカンの並木路、アルル] ([[東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館]]) 油彩 キャンバス 1888年 |
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* 海辺に立つブルターニュの少女たち (国立西洋美術館 松方コレクション) 油彩 キャンバス 1889年 |
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* 乾草 (ブリヂストン美術館) 油彩 キャンバス 1889年 |
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* 小屋の前の犬、タヒチ ([[ポーラ美術館]]) 油彩 キャンバス 1892年 |
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* [http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a07.html かぐわしき大地] ([[大原美術館]]) 油彩 キャンバス 1892年 |
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この年の夏、ゴーギャンは、第8回印象派展で見たピサロや[[エドガー・ドガ]]の手法をまねてヌードのパステル画を描いている。また、『ブルターニュの羊飼い』のように、人物が表れるものの主に風景を描いた作品を多く制作している。『水浴するブルターニュの少年』は、彼がポン=タヴァンを訪れる度に回帰するテーマであるが、デザインや純色の大胆な使用において、明らかにドガを模倣している。イギリスのイラストレーター[[ランドルフ・コールデコット]]がブルターニュを描いた作品も、ポン=タヴァンの画家たちの想像力を刺激し、ゴーギャンは、ブルターニュの少女のスケッチで、意識的にコールデコットの作品を模倣している。ゴーギャンは、後にこの時のスケッチをパリのアトリエで油絵に仕上げているが、コールデコットの素朴さを取り入れることで、初期の印象派風の作品から脱皮したものとなっている<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 74-75)]]、[[#Thompson|Thompson (2010: 42-49)]]。</ref>。 |
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== 後世 == |
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* [[2015年]]2月7日 Nafea Faa Ipoipo(いつ結婚するの)[[1892年]]作が、[[プライベートセール]]にかけられ、史上最高額となる3億💲(日本円でおよそ360億円)で[[落札]]された<ref name=UWwark>{{cite web |url= http://media.yucasee.jp/posts/index/14576?la=nr3 |title= YUCASEE media(ゆかしメディア)|author= Abraham Group Holdings |date= February 10, 2015 |accessdate= 2015-02-10 }}</ref>。 |
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ゴーギャンは、パナマやマルティニーク島から帰った後も、ポン=タヴァンを訪れており、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]、シャルル・ラヴァル、エミール・シュフネッケル、その他多くの画家と交流した。このグループは、純色の大胆な使用と、象徴的な主題の選択が特徴であり、[[ポン=タヴァン派]]と呼ばれることになる。ゴーギャンは、印象派に至る伝統的なヨーロッパの絵画が余りに写実を重視し、象徴的な深みを欠いていることに反発していた。これに対し、アフリカやアジアの美術は、神話的な象徴性と活力に満ちあふれているように見えた。折しも、当時のヨーロッパでは、[[ジャポニズム]]に代表されるように、他文化への関心が高まっていた。 |
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==ギャラリー== |
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<gallery widths="150px" heights="150px" perrow="5"> |
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ファイル:Gauguin Women Bathing.jpg | 『水浴する女たち』1885年。[[国立西洋美術館]](東京)。 |
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ファイル:Paul Gauguin - La bergère bretonne.jpg|『ブルターニュの羊飼い』1886年。Laing Art Gallery。 |
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ファイル:Paul Gauguin 036.jpg|『ブルターニュの4人の女』1886年。[[ノイエ・ピナコテーク]]。 |
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ファイル:Gauguin - Bretonne.jpg|『ブルターニュの少女』1886年。{{仮リンク|バレル・コレクション|en|Burrell Collection}}。 |
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ファイル:Gauguin - Badende Bretonin- 1887.jpg|『水浴するブルターニュの少年』1886年。[[シカゴ美術館]]。 |
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Image:Paul Gauguin 029.jpg|『斧を持つ男』1891年<br />私蔵 |
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</gallery> |
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Image:Paul Gauguin - Te aa no areois - Google Art Project.jpg|『アレオイの種』1892年<br />[[ニューヨーク近代美術館]] |
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Image:Arearea, by Paul Gauguin.jpg|『アレアレア』1892年<br />[[オルセー美術館]] |
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Image:Paul Gauguin 031.jpg|『月と地球』1893年<br />[[ニューヨーク近代美術館]] |
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Image:Paul Gauguin 004.jpg|『ジャワの女、アンナ』1893年<br />私蔵 |
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Image:Paul Gauguin 128.jpg|『果物を持つ女』1893年<br />[[エルミタージュ美術館]] |
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Image:Paul Gauguin 090.jpg|『母性』1899年<br />[[エルミタージュ美術館]] |
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Image:Paul Gauguin - Deux Tahitiennes.jpg|『二人のタヒチ女』1899年<br />[[メトロポリタン美術館]] |
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</gallery></center> |
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ゴーギャンの作品は、[[フォークアート]]と日本の[[浮世絵]]の影響を受けながら、[[クロワゾニスム]]に向かっていった。クロワゾニスムとは、批評家{{仮リンク|エドゥアール・デュジャルダン|en|Édouard Dujardin}}が、ベルナールやゴーギャンによる、平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴とする描き方に対して付けた名前であり、中世の[[七宝焼き]](クロワゾネ)の装飾技法から来ている。 |
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== 自画像 == |
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<center><gallery widths="180px" heights="180px"> |
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Image:Paul Gauguin 112.jpg|1888年<br />[[ゴッホ美術館]] |
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Image:Paul Gauguin - Self-Portrait with Halo and Snake.jpg|1889年<br />[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]] |
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Image:Gauguin portrait 1889.JPG|1889–1890年<br />[[オルセー美術館]] |
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Image:Paul Gauguin 111.jpg|1893年<br />[[オルセー美術館]] |
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</gallery></center> |
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クロワゾニスムの真髄と言われる1889年の『黄色いキリスト』では、重厚な黒い輪郭線で区切られた純色の色面が強調されている。そこでは、古典的な[[遠近法]]や、色の微妙なグラデーションといった、[[ルネサンス美術]]以来の重要な原則を捨て去っている。さらに、彼の作品は、形態と色彩のどちらかが優位に立つのではなく、両者が等しい役割を持つ{{仮リンク|綜合主義|en|Synthetism}}に向かっていく。 |
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== 日本語文献 == |
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{{参照方法|date=2012年12月}} |
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ファイル:Gauguin Il Cristo giallo.jpg|『{{仮リンク|黄色いキリスト|en|The Yellow Christ}}』1889年。[[オルブライト=ノックス美術館]]。 |
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ファイル:Gauguin, Paul - Still Life with Profile of Laval - Google Art Project.jpg|『ラヴァルの横顔のある静物』1886年。[[インディアナポリス美術館]]。 |
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[[ファイル:Paul Gauguin 1891.png|thumb|180px|(1891年)]] |
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</gallery> |
|||
:※品切・絶版も含んだ一部。 |
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'''自著''' |
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* 『[[ノアノア]]』、[[岩切正一郎]]訳([[ちくま学芸文庫]]、1999年) ISBN 4-480-08519-X |
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*: 前川堅市訳で[[岩波文庫]](ISBN 4-00-325491-0 )や、田村恵子訳([[求龍堂]]、1997年 ISBN 4-7630-9716-4)もある。 |
|||
* 『ゴーギャン オヴィリ、一野蛮人の記録』 [[ダニエル・ゲラン]]編、[[岡谷公二]]訳([[みすず書房]]、1980年、復刊2009年 ISBN 978-4-6220-1521-5) |
|||
* 『ゴーギャンの手紙』 (東珠樹編訳、美術公論社、1988年) ISBN 4-89330-080-6 |
|||
* 『タヒチ・ノート ゴーギャン手稿』 [[ルネ・ユイグ]]文、東珠樹訳・解説(美術公論社、1987年) ISBN 4-89330-079-2 |
|||
* 『ゴーガン 私記 アヴァン・エ・アプレ』 前川堅市編訳(美術選書:[[美術出版社]] 1976年) |
|||
* 『ゴーガン=ゴッホ往復書簡』 丹治恆次郎編、([[白水社]]、1993年) ISBN 978-4-5600-1160-7 |
|||
*: ※ フランス語教科書、訳書は『ファン・ゴッホの手紙』(みすず書房)を参照 |
|||
'''入門書''' |
|||
* 『もっと知りたいゴーギャン 生涯と作品』 六人部昭典([[東京美術]]、2009年) ISBN 978-4-8087-0863-4 |
|||
* 『ゴーギャン 夢と現実のはざまで』、ガブリエレ・クレパルディ、[[樺山紘一]]監修 |
|||
*: [[昭文社]]ART BOOK、2007年 ポケットサイズのアートブック ISBN 978-4-3982-1454-6 |
|||
* 『ゴーガン 野生の幻影を追い求めた芸術家の魂』、高橋明也編 |
|||
*: 〈Rikuyosha art view〉[[六耀社]]、2001年 ISBN 978-4-8973-7422-2 |
|||
* 『ゴーギャン 私の中の野性』、フランソワーズ・カシャン、田辺希久子訳 |
|||
*: 〈[[「知の再発見」双書]]13〉([[創元社]]、1992年) ISBN 978-4-4222-1063-6 |
|||
'''伝記研究''' |
|||
* 『最後のゴーガン 〈異国〉の変貌』、[[丹治恒次郎]] ([[みすず書房]]、2003年) ISBN 978-4-6220-7028-3 |
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* 『未完のゴーガン タヒチ以前の生活と思想』、[[池辺一郎]](みすず書房、1982年) ISBN 978-4-6220-1577-2 |
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* 『タヒチのゴーギャン』 B・ダニエルソン、[[中村三郎]]訳 (美術公論社、1984年) ISBN 4-89330-045-8 |
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* 『ゴーギャン 芸術・楽園・イヴ』、[[湯原かの子]]([[講談社]]選書メチエ、1995年) ISBN 4-06-258044-6 |
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* 『ゴーギャンの世界』、[[福永武彦]] ([[新潮社]]、1961年、[[講談社文芸文庫]]、1993年) ISBN 978-4-0619-6208-8 |
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* 『ゴーギャン 岩波世界の巨匠』、ペギー・ヴァンス、[[広田治子]]訳([[岩波書店]]、1992年) ISBN 978-4-0000-8471-0 |
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'''画集''' |
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* 『ゴーギャン ビジュアル美術館3』、マイケル・ハワード 広田治子監訳 (同朋舎出版、1993年) ISBN 4-8104-1309-8 |
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* 『ゴーガン ギャラリー世界の巨匠』、ロバート・ゴールドウォーター、嘉門安雄訳(美術出版社 1990年、新版1994年) |
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* 『ゴーガン』 <ヴィヴァン・25人の画家12> [[丹尾安典]]編・解説 (講談社、新版1995年) |
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* 『ゴーガン』 <アート・ライブラリー> アラン・ボウネス、富田章訳 (西村書店、1994年) |
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*『ゴーギャン 現代世界の美術 アート・ギャラリー4』 (集英社、1986年)。 |
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*『ゴーギャン展 図録』 2009年、[[名古屋ボストン美術館]]と[[東京国立近代美術館]]での展覧会。 |
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=== マルティニーク島 === |
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== 脚注 == |
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[[1887年]]、ゴーギャンは、[[パナマ]]を訪れた後、6月から11月までの約半年、友人のシャルル・ラヴァルとともに、[[マルティニーク]]の[[サン・ピエール (マルティニーク)|サン・ピエール]]に滞在した。ゴーギャンは、パナマ滞在中に[[破産]]し、当時のフランス法に従い、ラヴァルとともに、国の費用で本国に戻ることになった。しかし、2人は、マルティニークのサン・ピエール港で船を降りた。この下船が計画的なものだったのか、突発的なものだったのかについては、研究者の間で意見が分かれている。初め、2人は原住民の小屋に住んで人間観察を楽しんでいたが、夏になると暑く、雨漏りがした。ゴーギャンは、[[赤痢]]と[[マラリア]]にも苦しんだ。マルティニークにいる間、彼は12点前後の作品を制作した。戸外の情景を明るい色彩で描いたものである。島内を旅行して回り、インド系移民の村も訪れたと思われるが、彼の後の作品にはインド的モチーフが取り入れられている。 |
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{{脚注ヘルプ}} |
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ファイル:Tropical Vegetation.jpg|『マルティニークの風景』1887年。[[スコットランド国立美術館]]。 |
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ファイル:Gauguin Huttes sous les arbres.jpg|『林の中の小屋』1887年。個人コレクション。 |
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ファイル:Paul Gauguin 089.jpg|『海辺II』1887年。個人コレクション。 |
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ファイル:At The Pond.jpg|『池』1887年。[[ゴッホ美術館]]。 |
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ファイル:Gauguin Conversation Tropiques.jpg|『熱帯の立ち話』1887年。個人コレクション。 |
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ファイル:Paul Gauguin 087.jpg|『マンゴー摘み』1887年。ゴッホ美術館。 |
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=== ゴッホとの共同生活 === |
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== 関連映画 == |
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[[ファイル:Vincent van Gogh - Paul Gauguin (Man in a Red Beret).jpg|thumb|200px|ゴッホ『ポール・ゴーギャン(赤いベレー帽の男)』1888年。[[ゴッホ美術館]]。]] |
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ゴーギャンのマルティニークでの作品は、絵具商アルセーヌ・ポワティエの店に展示された。ポワティエと取引のあった[[グーピル商会]]の[[テオドルス・ファン・ゴッホ]](テオ)とその兄で画家の[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]は、その絵を見て感銘を受けた。テオはゴーギャンの絵を900フランで購入してグーピル商会に展示し、富裕な顧客に紹介した。同時に、フィンセントとゴーギャンも親しくなり、手紙で芸術論を戦わせた<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 113-17)]]、[[#Thompson|Thompson (2010: 52-54)]]。</ref>。グーピル商会との取引は、テオが1891年1月に亡くなった後も続いた。 |
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[[1888年]]、ゴーギャンは、南仏[[アルル]]に移っていたゴッホの「[[黄色い家]]」で、9週間にわたる共同生活を送った。しかし、2人の関係は次第に悪化し、ゴーギャンはここを去ることとした。12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生した。ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、同じ日の夜、ゴッホが左耳を切り、これを新聞に包んでラシェルという名の娼婦に手渡したのだという。翌日、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはアルルを去った<ref>[[#Gayford|Gayford (2006: 284)]]。</ref>。2人はその後二度と会うことはなかったが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは、[[1890年]]、[[アントウェルペン]]にアトリエを設けようという提案までしている<ref>[[#Pickvance|Pickvance (1986: 62)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、後に、アルルでゴッホに画家としての成長をもたらしたのは自分だと主張している。ゴッホ自身は、『エッテンの庭の想い出』で、想像に基づいて描くというゴーギャンの理論を試してみたことはあったものの、ゴッホには合わず、自然をモデルに描くという方法にすぐに回帰している<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 76-77)]]。</ref>。 |
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=== 最初のタヒチ滞在 === |
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1890年までには、ゴーギャンは、次の旅行先として[[タヒチ]]を思い描いていた。[[1891年]]2月にパリの{{仮リンク|オテル・ドゥルオー|en|Hôtel Drouot}}で行った売立てが成功し、旅行資金ができた<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 125)]]。</ref>。この売立ての成功は、ゴーギャンに依頼された[[オクターヴ・ミルボー]]が好意的な批評を書いたことによるものであった。コペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 127)]]。</ref>。その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 157-67)]]。</ref>。とはいえ、彼は、これまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 143)]]。</ref>。 |
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タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだ[[パペーテ]]で過ごした。パペーテでレジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパプアーリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、『{{仮リンク|ファタタ・テ・ミティ(海辺で)|en|Fatata te Miti (By the Sea)}}』や、『{{仮リンク|イア・オラナ・マリア|ca|Ia Orana Maria}}』といった作品を描いた。後者は、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっている<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 182)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Gauguin - Die Gesandten der Oro.jpg|thumb|right|200px|ゴーギャンのノート(時期不詳、[[ルーヴル美術館]])。]] |
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ゴーギャンの傑作の多くは、この時期以降に生み出されている。最初にタヒチ住民をモデルとした肖像画は、[[ポリネシア]]風のモチーフを取り入れた『ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)』と考えられる。彼は、この作品を、パトロンでシュフネッケルの友人{{仮リンク|ジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレー|en|George-Daniel de Monfreid}}に送った<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 92, 136-38)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、{{仮リンク|アリオイ|en|Arioi}}という独自の共同体や{{仮リンク|オロ|en|'Oro}}神についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。その最初が『アレオイの種』であり、オロ神の現世での妻ヴァイラウマティを表している。 |
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彼がパリのモンフレーに送った絵は、全部で9点であり、これらは、コペンハーゲンで亡きゴッホの作品と一緒に展示された。売れたのはわずか2点で、ゴッホの作品と比べても不評だったものの、好評だったとの報告を聞いてゴーギャンは意を強くし、手元の70点ほどを携えて帰国しようと考えた<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 193)]]、[[#Thompson|Thompson (2010: 166)]]。</ref>。いずれにせよ、滞在資金は尽きており、国の費用で帰国するほかなかった。その上、健康も害しており、当地の医者に心臓病だとの診断を受けていた。[[梅毒]]の初期症状であったとの見方もある<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 188)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、後に、『[[ノアノア]]』という紀行文を書いている。当初は、自身の絵についての論評とタヒチでの体験を記したものと受け止められていたが、現在では、空想と剽窃が入り込んでいることが指摘されている<ref name="www.nytimes.com">{{Cite news |first=Holland | last=Cotter | title = The Self-Invented Artist| url = http://www.nytimes.com/2011/02/25/arts/design/25gaugin.html | date =2011-02-24 | accessdate =2015-08-02 | work=The New York Times}}</ref>。この本で、彼は、テハマナ(通称テフラ)という13歳の少女を現地で妻としていたことを明かしている。1892年夏の時点で、彼女はゴーギャンの子を宿していたが、その後その子がどうなったかの記録はない<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 179-82)]]。</ref>。 |
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ファイル:Paul Gauguin 040.jpg|『ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)』1891年。[[ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin 071.jpg|『イア・オラナ・マリア(我マリアを拝する)』1891年。[[メトロポリタン美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin 056.jpg|『タヒチの女(浜辺にて)』1891年。[[オルセー美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin - Fatata te Miti (By the Sea) - Google Art Project.jpg|『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)』1892年。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin - Te aa no areois - Google Art Project.jpg|『アレオイの種』1892年。[[ニューヨーク近代美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin- Manao tupapau (The Spirit of the Dead Keep Watch).JPG|『{{仮リンク|死者の霊が見ている|en|Spirit of the Dead Watching}}』1892年。[[オルブライト=ノックス美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin, ca.1891-1893, Tehura (Teha'amana), polychromed pua wood, H. 22.2 cm. Realized during Gauguin's first voyage to Tahiti. Musée d'Orsay, Paris.jpg|『テフラ(テハマナ)』1891-93年。[[オルセー美術館]]。 |
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=== フランスへの帰国 === |
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[[ファイル:Gauguin by Mucha.jpg|thumb|right|200px|パリの[[アルフォンス・ミュシャ]]のアトリエで[[ハーモニウム]]を演奏するゴーギャン(1895年頃)。]] |
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[[1893年]]8月、ゴーギャンはフランスに戻り、タヒチの題材を基に作品の制作を続けた。『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』、『ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)』などである<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 181)]]。</ref>。[[1894年]]11月に[[ポール・デュラン=リュエル]]の画廊で開かれた展覧会はある程度の成功を見せ、展示された40のうち11点が相当の高値で売れた。ゴーギャンは、画家がよく訪れる[[モンパルナス]]地区の外れにアパルトマンを借り、毎週「サロン」と称して集まりを開いた。インド系とマレー系のハーフだという10代の少女を囲っており、『{{仮リンク|ジャワ女アンナ|ca|Annah la javanesa}}』のモデルとしている<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 197-99)]]。</ref>。 |
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11月の展覧会の成功にもかかわらず、ゴーギャンは、デュラン=リュエルとの取引を失っており、その理由は明らかでない。これによって、ゴーギャンは、アメリカ市場への売り込みの機会を失った<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 200)]]。</ref>。1894年初めには、紀行文『ノア・ノア』のために実験的手法による木版画を試みた。その年の夏には、ポン=タヴァンを再訪した。翌[[1895年]]、パリで作品の売立てを行ったが、これは失敗に終わった。同年3月、画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]が自分の画廊でゴーギャンの作品を展示したが、この時は2人は取引関係の合意には至らなかった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 208)]]。</ref>。 |
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また、同年4月に開会した[[国民美術協会 (フランス)|国民美術協会]]のサロンに、冬の間に陶芸家{{仮リンク|エルネスト・シャプレ|fr|Ernest Chaplet}}の協力を得て焼き上げていた陶製彫像『{{仮リンク|オヴィリ|en|Oviri (Gauguin)}}』を提出した<ref>{{Cite web |title=Oviri |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/sculpture/commentaire_id/oviri-11308.html?cHash=f88883513c |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2015-08-03}}</ref>。この作品はサロンに却下されたという説と、シャプレの後押しによってかろうじて入選したという説がある<ref>[[#Frèches-Thory|Frèches-Thory (1988: 372)]]。</ref>。 |
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この頃には、妻メットとの破局は決定的になっていた。2人が会うことはなく、金銭問題をめぐって争い続けた。ゴーギャンは、叔父イシドアから1万3000フランの遺産を相続したものの、当初、妻に一銭も渡そうとしなかった。最終的に、メットには1500フランが分与されたものの、その後はシュフネッケルを通じてしか連絡をとろうとしなかった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 194, 210)]]、[[#Thompson|Thompson (2010: 182)]]。</ref>。 |
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ファイル:Paul Gauguin 004.jpg|『ジャワ女アンナ』1893年。個人コレクション。 |
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ファイル:Paul Gauguin 113.jpg|『{{仮リンク|マハナ・ノ・アトゥア|it|Giorno di dio}}(神の日)』1894年。[[シカゴ美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin 068.jpg|『{{仮リンク|ナヴェ・ナヴェ・モエ|pl|Nave nave moe}}』1894年。[[エルミタージュ美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin, 1894, Oviri (Sauvage), partially glazed stoneware, 75 x 19 x 27 cm, Musée d'Orsay, Paris.jpg|『オヴィリ』1894-95年。[[オルセー美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin - Nave Nave Fenua from the Noa Noa Series - Google Art Project.jpg|『ナヴェ・ナヴェ・ファヌ(かぐわしき大地)』、『ノア・ノア』の木版画、1894年。[[アートギャラリー・オブ・オンタリオ]]。 |
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=== 2度目のタヒチ滞在 === |
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[[File:Agostini - Tahiti, plate page 0080.png|thumb|250px|ゴーギャンのタヒチ・ピュナオイアでの家(1896年撮影)。]] |
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ゴーギャンは、[[1895年]]6月28日、再びタヒチに向けて出発した。一つの原因は、『[[メルキュール・ド・フランス]]』誌の1895年6月号に、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]と{{仮リンク|カミーユ・モークレール|en|Camille Mauclair}}がそろってゴーギャンを批判する記事を書いたことにある。パリで孤立したゴーギャンは、タヒチに逃げ場を求めるほかなかったといわれている<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 185-86)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 209-10)]]。</ref>。 |
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同年9月にタヒチに着き、その後の6年間のほとんどを、パペーテ周辺の画家コミュニティで暮らした。徐々に絵の売上げも増加しつつあり、友人や支持者の支援もあったため、生活は安定するようになった。ただ、1898年から1899年にはパペーテで事務仕事をしなければならなかったようであるが、記録は余り残っていない。パペーテの東10マイルにある富裕な{{仮リンク|ピュナオイア|en|Puna'auia}}地区に家を建て、広大なアトリエを構えた<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 215)]]。</ref>。 |
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好きな時には、パペーテに行って植民地の社交界に顔を出せるよう、馬車を持っていた。『メルキュール・ド・フランス』誌を購読し、パリの画家、画商、批評家、パトロンたちと熱心に手紙のやり取りをしていた<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 214-15)]]。</ref>。パペーテにいる間に、地元の政治では次第に大きな発言権を持つようになり、植民地政府に批判的な地元誌''Les Guêpes''(スズメバチ)誌に寄稿し、更には自ら月刊誌''Le Sourire''誌(後に''Journal méchant'')を編集・刊行するようになった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 232-35)]]。</ref>。[[1900年]]2月には、''Les Guêpes''誌の編集者に就任し、[[1901年]]9月に島を去るまで続けた。彼が編集者を務めていた間の同誌は、知事と官僚に対する口汚い攻撃が特徴であったが、かといって原住民の権利を擁護しているわけでもなかった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 233)]]。</ref>。 |
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少なくとも最初の1年は、絵を描かず、彫刻に集中していることをモンフレーに伝えている。この時期の木彫りの彫刻が、モンフレーのコレクションに少数残っている。『十字架のキリスト』という、50センチメートルほどの円柱状の木の彫刻を仕上げているが、ブルターニュ地方のキリスト教彫刻の影響を受けたものと思われる<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 188-90)]]。</ref>。絵に復帰すると、『ネヴァモア』のように、性的イメージをはらんだヌードを描くようになる。この頃のゴーギャンが訴えようとした相手は、パリの鑑賞者ではなく、パペーテの植民者たちであった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 217-19)]]。</ref>。 |
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健康状態はますます悪くなり、何度も入院した。フランスにいた当時、彼は[[コンカルノー]]を訪れた際に酔ってけんかをし、足首を砕かれる怪我を負った<ref>[[#Danielsson|Danielsson (1965: 163)]]。</ref>。この時の骨折が完治していなかった。その治療には[[ヒ素]]が用いられた。また、ゴーギャンは湿疹を訴えていたが、現在では、これは梅毒の進行を示すものと推測されている<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 188)]]、[[#Thompson|Thompson (2010: 222-23)]]。</ref>。 |
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[[1897年]]4月、彼は、最愛の娘アリーヌが[[肺炎]]で亡くなったとの知らせを受け取った。同じ月、彼は、土地が売却されたため家を立ち退かざるを得なくなった。銀行から借入れをして、今までよりも豪華な家を建てようとしたが、身の丈に合わない借入れにより、その年の末には銀行から担保権を行使されそうになった<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 193-95)]]。</ref>。悪化する健康と借金の重荷の中、絶望の縁に追い込まれた。その年、自ら畢生の傑作と認める大作『[[われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか]]』を仕上げた。モンフレーへの手紙によれば、作品完成の後、自殺を試みたという<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 194-200)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 225-29]]。</ref>。この作品は、翌[[1898年]]11月、ヴォラールの画廊で、関連作品8点とともに展示された<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/events/exhibitions/archives/exhibitions-archives/browse/16/article/gauguin-tahiti-latelier-des-tropiques-4206.html |title=Gauguin - Tahiti, The workshop of the Tropics |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2015-08-15}}</ref>。これは、1893年にデュラン=リュエル画廊で開いて以来の、パリでの個展であり、今度は批評家たちも肯定的な評価を下した。ただ、『われわれはどこから来たのか』は、賛否両論であり、ヴォラールはこれを売るのに苦労した。1901年にようやく2500フランで販売され、そのうちヴォラールの手数料は500フランであったという。 |
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ヴォラールは、それまでジョルジュ・ショーデというパリの画商を通じてゴーギャンから絵を購入していたが、ショーデが1899年秋に死去すると、直接の契約を締結した<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 225-29)]]。</ref>。この契約で、ゴーギャンは、毎月300フランの前渡金を受け取るとともに、少なくとも25点の作品を各200フランで売り、その上、画材の提供を受けることになった。ゴーギャンは、これによって、より原始的な社会を求めて[[マルキーズ諸島]]に移住するという計画が実現できると考えた。そして、タヒチでの最後の数か月を、優雅に暮らした<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 228-28)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 234)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、タヒチで良い粘土を入手できなかったことから、陶器作品を続けることができなくなっていた<ref>[[#Danielsson1969|Danielsson (1969: 18)]]。</ref>。また、印刷機がなかったため、{{仮リンク|モノタイプ|en|monotyping}}を使わざるを得なかった。 |
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ゴーギャンがタヒチにいる間に妻にしていたのは、プナオイア地区に住んでいたパウラという少女で、妻にした時に14歳半であった<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 182)]]。</ref>。彼女との間には2人の子供ができ、うち女の子は生後間もなく亡くなり、男の子はパウラが育てた。パウラは、ゴーギャンがマルキーズ諸島に行く時、同行するのを断った<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 228)]]。</ref>。 |
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ファイル:Paul Gauguin - Oyez Hui Iesu (Christ on the Cross).jpg|『十字架のキリスト』(1896年)からの転写(反転)。[[ボストン美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin 091.jpg|『ネヴァモア』1897年。[[コートールド美術研究所]]。 |
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ファイル:Woher kommen wir Wer sind wir Wohin gehen wir.jpg|『[[われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか]]』1897-1898年。ボストン美術館。 |
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ファイル:Paul Gauguin 134.jpg|『3人のタヒチ人』1899年。 |
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ファイル:Paul Gauguin, Eve (The Nightmare), 1899–1900 monotype.jpg|『夜(悪夢)』1899–1900年、モノタイプ。[[J・ポール・ゲティ美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin - Tahitian Woman with Evil Spirit - Google Art Project.jpg|『邪悪な精のついたタヒチの女性』1899-1900年、モノタイプ。[[シュテーデル美術館]]。 |
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=== マルキーズ諸島 === |
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[[ファイル:Atuona - Maison du Jouir (1).JPG|right|thumb|ゴーギャンの家「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の家)」の復元。]] |
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ゴーギャンは、最初にタヒチのパペーテを訪れた時から、マルキーズ諸島で作られた碗や武器を見て、マルキーズ諸島に行きたいという思いを持っていた<ref>[[#Danielsson1969|Danielsson (1969: 18)]]。</ref>。しかし、実際にマルキーズに行ってみて分かったのは、ここも、タヒチと同様、文化的な独自性を既に失っているということだった。太平洋の島々の中でも、マルキーズは、最も西欧の病気(特に[[結核]])で汚染された島々だった。18世紀には8万人いたという人口は、当時4000人にまで落ち込んでいた<ref>[[#Danielsson|Danielsson (1965: 25)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、[[1901年]]9月16日、[[ヒバ・オア島]]に着き、アトオナの町に住み始めた。アトオナは、マルキーズ諸島全体の政庁がある所で、パペーテよりは開発が遅れていたが、パペーテとの間で汽船の定期便があった。医師がいたが、翌年2月にパペーテに去ってしまったため、ゴーギャンは、ベトナム人冒険家のングエン・ヴァン・カムと、プロテスタントの牧師で医学を学んだことがあるというポール・ヴェルニエに病気の治療を頼ることになり、2人と親しくなった<ref>[[#Danielsson|Danielsson (1965: 236, 249-50)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 235-36)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、ミサに欠かさず通うことで地元の司教の機嫌をとってから、町の中心部にカトリック布教所から土地を買い取った。司教ジョセフ・マルタンは、当初、タヒチでゴーギャンがカトリック側を支持する言論活動を行っていたことから、ゴーギャンに好意的に振る舞った<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 239)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Paul Gauguin - Père Paillard - NGA 1963.10.238.jpg|thumb|left|180px|『好色親爺』1902年。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)]]。マルタン司教をあざけったもの。]] |
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ゴーギャンは、この土地に2階建ての建物を建て、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけた。壁には、彼が集めたポルノ写真が飾られていた<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 238)]]。</ref>。初めの頃、この家には、写真を見ようと多くの地元住民が詰めかけた<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 240)]]。</ref>。このことだけでも司教には不快なことだったが、ゴーギャンは、その上、司教とその愛人と噂される召使を当てこすった2体の彫刻を階段の前に置いたり<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 256)]]。</ref>、カトリックのミッション・スクールの制度を批判したりしたことで、司教との関係は更に悪化した<ref>[[#Eisenman|Eisenman (1999: 170)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、ミッション・スクールから2マイル半以上離れた生徒は通学の義務がないと主張し、これによって多くの女生徒が学校に行かなくなってしまった。その中の1人、14歳の少女ヴァエホ(マリー=ローズとも呼ばれた)を、彼は妻とした<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 240-41)]]。</ref>。少女にとっては、健康状態のますます悪化したゴーギャンを毎日手当てしてやらなければならず、楽な仕事ではなかった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 235-36)]]。</ref>。それでも、彼女はゴーギャンとの同居を選び、翌年には娘を生んだ<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 241, 255)]]。</ref>。 |
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1901年11月までに、新居を設け、ヴァエホ、料理人と2人の召使、犬のペゴー、猫1匹と暮らし始めた。ここでゴーギャンは制作に専念するようになり、翌1902年4月にはヴォラールに20枚のキャンバスを送っている<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 241-55)]]。</ref>。彼は、モンフレーに、マルキーズではモデルも見つけやすいので新しいモチーフを見つけることができると思うと書き送っている<ref>[[#Szech|Szech (2015: 148)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、タヒチ時代のテーマを避けて、風景画、静物画、人物の習作に取り組んだが、タヒチ時代の絵を深化させた『扇を持った若い女』、『赤いケープをまとったマルキーズの男』、『未開の物語』という3作品を制作している。 |
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1902年には、ゴーギャンの健康状態は再び悪化し、足の痛み、動悸、全身の衰弱といった症状に悩まされた。9月には、足の怪我の痛みが激しくなり、モルヒネ注射をせざるを得なくなった。視力も悪化し、最後の自画像で、彼は眼鏡をかけている。 |
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ファイル:Paul Gauguin - Jeune fille à l'éventail - Folkwang G53.jpg|『扇を持った若い女』1902年。[[フォルクヴァンク美術館]]。 |
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File:Paul Gauguin - Contes barbares - Folkwang G54.jpg|『未開の物語』1902年。フォルクヴァンク美術館。 |
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ファイル:Paul Gauguin - Le Sorcier d'Hiva Oa.jpg|thumb|『赤いケープをまとったマルキーズの男』1902年。[[リエージュ近代美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin - Self Portrait 1903 - Kunstmuseum Basel 1943.jpg|『自画像』1903年。[[バーゼル市立美術館]]。 |
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1902年7月、妊娠中だったヴァエホが、ゴーギャンのもとを去り、家族と友人のいる隣村で子供を産もうと、帰ってしまった。ヴァエホは、9月に子供を産んだが、戻ってくることはなかった。ゴーギャンは、その後、新たな「妻」を設けることはしていない。ちょうどこの時期に、ゴーギャンとマルタン司教との間でのミッション・スクールをめぐる論争が加熱していた。 |
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12月には、病気のため、ほとんど絵の制作ができなくなった。『前語録 (Avant et après)』と題する自伝的回顧録を書き始め、2か月で完成させた<ref name= "Avant et après">{{Cite web |url = http://archive.org/details/avanteta00gaug |title = Avant et après: avec les vingt-sept dessins du manuscrit original (1923 )|publisher=Internet Archive |language = フランス語 |accessdate=2015-08-28}}</ref>。表題には、タヒチに来る前と後の体験を綴ったという意味と、祖母の回顧録『過去と未来』への敬意が含まれていると考えられる。ポリネシアでの生活、自分の生涯、文学・絵画への批評などが雑多に綴られたものである。その中には、地元当局や、マルタン司教、妻メットやデンマーク人一般などへの批判も盛り込まれている<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 247-52)]]。</ref>。 |
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[[1903年]]初頭、ゴーギャンは、島の[[国家憲兵]]ジャン=ポール・クラヴェリーやその部下の無能力や汚職を告発する活動を始めた。ゴーギャンは、逆にクラヴェリーから名誉毀損で告発され、3月27日、罰金500フラン、禁錮3か月の判決を受けた。ゴーギャンはすぐにパペーテの裁判所に控訴し、その旅費の資金集めを始めたが、5月8日の朝、急死した<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 265-76)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 252-54)]]。</ref>。 |
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ファイル:Paul Gauguin 106.jpg|『海辺の騎手たち』1902年。個人コレクション。 |
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ファイル:Paul Gauguin - Landscape with a Pig and a Horse (Hiva Oa) - Google Art Project.jpg |『豚と馬のいる風景』1903年。{{仮リンク|アテネウム美術館|en|Ateneumb}}([[ヘルシンキ]])。 |
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ファイル:Gauguin Nature morte aux oiseaux exotiques I.jpg|『異国の鳥のある静物』1902年。[[プーシキン美術館]]。 |
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=== 死去 === |
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[[ファイル:Oviri on the Tomb of Gauguin.jpg|thumb|200px|アトオナにあるゴーギャンの墓と『オヴィリ』像。]] |
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ゴーギャンは、名誉毀損で有罪判決を受けてから、その控訴のための準備をしていた<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 271-74)]]。</ref>。この時点で体力は落ち込んでおり、体の痛みも激しかった。彼は、再びモルヒネに頼るようになった。死は、1903年5月8日の朝、突然訪れた。それに先立ち、ゴーギャンは、ポール・ヴェルニエ牧師を呼び、ふらふらすると訴えている。ヴェルニエ牧師は、ゴーギャンと言葉を交わし、容態が安定していると考えて立ち去った。ところが、午前11時、近くの住人ティオカが、ゴーギャンが死んでいるのを発見した。そして、マルキーズ諸島の伝統的なやり方に則って、蘇りのために彼の頭を噛んだ。枕元には、[[アヘンチンキ]]の空の瓶が置いてあり、その過剰摂取が死の原因ではないかと疑われることになった<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 274-75)]]。</ref>。他方、ヴェルニエは、心臓発作が死因だと考えている<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 257 n.78)]]。</ref>。 |
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ゴーギャンは、翌9日の午後2時、カトリック教会のカルヴァリー墓地に埋葬された。[[1973年]]、彼の遺志に従って、『オヴィリ』のブロンズ像が横に置かれた。皮肉にも、ゴーギャンの墓の一番近くに埋葬されているのは、マルタン司教である。 |
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ゴーギャン死亡の報は、1903年8月23日までフランスに届かなかった。遺言はなく、価値のない家財はアトオナで競売に付され、手紙、原稿、絵画は9月5日にパペーテで競売にかけられた。このように財産が速やかに処分されてしまったため、彼の晩年に関する情報が失われてしまったと指摘されている。メット・ゴーギャンが競売の売上金を受け取ったが、およそ4000フランであった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 255)]]。</ref>。 |
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== 後世 == |
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[[ポール・セザンヌ]]に「中国の切り絵」と批評されるなど、同時代の画家たちからの受けは悪かったが、没後西洋と西洋絵画に深い問いを投げかけたゴーギャンの孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得していった。 |
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イギリスの作家[[サマセット・モーム]]の代表作『[[月と六ペンス]]』(初刊は1919年出版)の主人公の画家のモデルであった。 |
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[[2015年]]2月7日 Nafea Faa Ipoipo(いつ結婚するの)[[1892年]]作が、[[プライベートセール]]にかけられ、史上最高額となる3億💲(日本円でおよそ360億円)で[[落札]]された<ref name=UWwark>{{cite web |url= http://media.yucasee.jp/posts/index/14576?la=nr3 |title= YUCASEE media(ゆかしメディア)|author= Abraham Group Holdings |date= 2015-02-10 |accessdate= 2015-02-10 }}</ref>。 |
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=== 関連映画 === |
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* 『[[黄金の肉体 ゴーギャンの夢]]』 ''The Wolf at the Door'' (1986年) |
* 『[[黄金の肉体 ゴーギャンの夢]]』 ''The Wolf at the Door'' (1986年) |
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*: 監督[[ヘニング・カールセン]]、出演[[ドナルド・サザーランド]]、フランス・デンマーク合作映画 |
*: 監督[[ヘニング・カールセン]]、出演[[ドナルド・サザーランド]]、フランス・デンマーク合作映画 |
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* 『[[シークレット・パラダイス (映画)|シークレット・パラダイス]]』 ''PARADISE found'' (2003年) |
* 『[[シークレット・パラダイス (映画)|シークレット・パラダイス]]』 ''PARADISE found'' (2003年) |
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*: 監督[[マリオ・アンドレアキオ]]、出演[[キーファー・サザーランド]]、フランス映画 |
*: 監督[[マリオ・アンドレアキオ]]、出演[[キーファー・サザーランド]]、フランス映画 |
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== 作品 == |
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=== 自画像 === |
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ファイル:Paul Gauguin 112.jpg|1888年。[[ゴッホ美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin 125.jpg|1889年。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]。 |
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ファイル:Gauguin portrait 1889.JPG|1889–1890年。[[オルセー美術館]]。 |
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ファイル:Paul Gauguin 111.jpg|1893年。オルセー美術館。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author=[[高階秀爾]] |title=近代美術の巨匠たち |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波現代文庫]] |year=2008 |id=ISBN 978-4-00-602130-6 |ref=高階2008}} |
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* {{Cite book |last=Danielsson |first=Bengt |year=1965 |title=Gauguin in the South Seas |location=New York |publisher=Doubleday and Company |ref=Danielsson}} |
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* {{Cite web |last=Danielsson |first=Bengt |year=1969 |url=http://www.penn.museum/documents/publications/expedition/PDFs/11-4/The%20Exotic.pdf |title=The Exotic Sources of Gauguin's Art |format=PDF |accessdate=2015-08-15 |ref=Danielsson1969}} |
|||
* {{Cite book |last=Eisenman |first=Stephen F. |year=1999 |title=Gauguin's Skirt |location=London |publisher=Thames and Hudson |id=ISBN 978-0500280386 |ref=Eisenman}} |
|||
*{{Cite book |last=Frèches-Thory |first=Claire |others= Peter Zegers |title=The Art of Paul Gauguin |publisher=National Gallery of Art |year= 1988 |isbn=0-8212-1723-2 |lccn=88-81005 |ref=Frèches-Thory}} |
|||
* {{Cite book |last=Gayford |first=Martin |year=2006 |title=The Yellow House: Van Gogh, Gauguin, and Nine Turbulent Weeks in Arles |location=London |publisher=Penguin Books |id=ISBN 0-670-91497-5 |ref=Gayford}} |
|||
* {{Cite book |last=Mathews |first=Nancy Mowll |year=2001 |title=Paul Gauguin, an Erotic Life |location=New Haven, Connecticut |publisher=Yale University Press |id=ISBN 0-300-09109-5 |ref=Mathews}}. |
|||
* {{Cite book |last=Perruchot |first=Henri |title=La Vie de Gauguin |date=1961 |publisher= Hachette |language=French|ASIN=B0014QL91I |ref=Perruchot}} |
|||
* {{Cite book |last=Pickvance |first=Ronald |title=Van Gogh In Saint-Rémy and Auvers |publisher=Metropolitan Museum of Art |location=New York |year=1986 |isbn=0-87099-477-8 |ref=Pickvance}} |
|||
* {{Cite book |last=Staszak |first=Jean-François |title=Géographies de Gauguin |url={{Google books|id_AUj-DycAC|plainurl=yes}} |year=2003 |id=ISBN 2749501245 |ref=Staszak}} |
|||
* {{Cite book |last=Szech |first=Anna |title=Paul Gauguin |publisher=Fondation Beyeler (Hatje Cantz) |year¬=2015 |isbn=978-3775739597 |ref=Szech}} |
|||
* {{Cite book|last=Thompson|first=Don|title=The $12 Million Stuffed Shark: The Curious Economics of Contemporary Art |year=2010 |publisher=Palgrave Macmillan |isbn=978-0230620599 |ref=Thompson}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[象徴主義]] |
* [[象徴主義]] |
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* [[アルベール・オーリエ]] |
* [[アルベール・オーリエ]] |
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* [[ポール・ゴーギャンの作品一覧]] |
* [[熱海の捜査官]] |
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*[[ポール・ゴーギャンの作品一覧]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Commons&cat|Paul Gauguin}} |
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*[http://www.museumsyndicate.com/artist.php?artist=496 ゴーギャン ギャラリー]{{en icon}} |
*[http://www.museumsyndicate.com/artist.php?artist=496 ゴーギャン ギャラリー]{{en icon}} |
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*[http://www.owlstand.com/ |
* [http://www.owlstand.com/#/exhibitions/e20b5af9-f5e5-41b6-b0a9-db9acc8c3d8e ポール・ゴーギャンの作品] |
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2015年11月23日 (月) 11:49時点における版
ポール・ゴーギャン Paul Gauguin | |
---|---|
生誕 |
1848年6月7日 フランス共和国 パリ |
死没 |
1903年5月8日(54歳没) フランス領ポリネシア マルキーズ諸島 |
国籍 | フランス |
著名な実績 | 絵画、彫刻、陶芸、エングレービング |
運動・動向 | ポスト印象派、綜合主義、プリミティヴィスム |
影響を与えた 芸術家 | エドヴァルド・ムンク、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック |
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(フランス語: Eugène Henri Paul Gauguin フランス語発音: [øʒɛn ãʁi pol ɡoɡɛ̃] 発音例, 1848年6月7日 - 1903年5月8日)は、フランスのポスト印象派の画家。姓は「ゴギャン」「ゴーガン」とも。
生涯
出生から少年時代
ポール・ゴーギャンは、1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父クローヴィス・ゴーギャンは、共和系のジャーナリストであった。母アリーヌ・マリア・シャザルの母(祖母)は、初期社会主義の主唱者でペルー人の父を持つフローラ・トリスタンであった。ナポレオン3世のクーデターで、共和主義者であった父クローヴィスは職を失い、一家は、パリを離れてペルーに向かった[1]。しかし、父クローヴィスは、航海中に急死した。残されたポールとその母と姉は、リマで、ポールの叔父を頼って、4年間を過ごした。母アリーヌは、インカ帝国の陶芸品を好んで収集していた。
ポールが7歳の時、一家はフランスに戻り、父方の祖父を頼ってオルレアンで生活を始めた。ここはゴーギャン家が昔から住んでいた土地であり、スペイン語で育っていたポールは、ここでフランス語を身に付けた。
就職・結婚
ポールは、地元の学校に通った後、ラ・シャペル=サン=メマンの格式あるカトリック系寄宿学校に3年間通った[2]。14歳の時、パリの海軍予備校に入り、最終学年にオルレアンに戻ってリセ・ジャンヌ・ダルクを修了した。そして、商船の水先人見習いとして登録した。3年後、フランス海軍に入隊し、2年間勤めた[3]。1867年7月7日、母が亡くなったが、ポールは、数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知らなかった[4]。1871年、23歳の時、パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働くようになった。その後11年間にわたり、彼は、実業家として成功し、1879年には、株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていた[5]>[6]。
1873年、ゴーギャンは、デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッド(1850年-1920年)と結婚した。2人の間には、エミール(1874年-1955年)、アリーヌ(1877年-97年)、クローヴィス(1879年-1900年)、ジャン・ルネ(1881年-1961年)、ポール・ロロン(1883年-1961年)の5人の子供が生まれた。
絵の修業
株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは、余暇に絵を描くようになった。彼が住むパリ9区には、印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは、画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしていた。カミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描いたりしていた[7]。ピサロは、彼を、他の様々な画家たちにも紹介した。ゴーギャンは、1877年、川を渡って都心を離れたパリ15区ヴォージラールに引っ越し、この時、初めて家にアトリエを持った[8]。元株式仲買人で画家を目指していた親友エミール・シュフネッケルも、近くに住んでいた。ゴーギャンは、1879年の第4回印象派展に息子エミールの彫像を出品していたが、1881年と1882年の印象派展には、絵を出展した。作品は、不評であった[9]。
1882年、パリの株式市場が大暴落し、絵画市場も収縮した。ゴーギャンから絵を買い入れていた画商ポール・デュラン=リュエルも恐慌の影響を受け、絵の買付けを停止した。ゴーギャンの収入は急減し、彼は、その後の2年間、徐々に絵画を本業とすることを考えるようになった[7]。ピサロや、時にはポール・セザンヌと一緒に絵を描いて過ごすこともあった。1883年10月、彼は、ピサロに、画業で暮らしていきたいという決心を伝え、助けを求める手紙を送っている。翌1884年1月、ゴーギャンは、家族とともに、生活費の安いルーアンに移り、生活の立て直しを図ったが、うまく行かず、その年のうちに、妻メットはデンマークのコペンハーゲンに戻ってしまった。ゴーギャンも、11月、作品を手にコペンハーゲンに向かった[10]。
ゴーギャンは、コペンハーゲンで、防水布の外交販売を始めたが、言葉の壁にも阻まれ、失敗した。妻メットが、外交官候補生へのフランス語の授業を持って、家計を支える状態であった。ゴーギャンは、メットの求めを受けて、1885年、家族を残してパリに移った[11]。
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『ヴォージラールの市場の庭』1879年。スミス大学美術館。
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『冬の風景』1879年。ブダペスト国立西洋美術館。
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『ゴーギャン夫人の肖像』1880-81年頃。ビュールレ・コレクション。
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『縫い物をする女』1880年。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。
-
『ヴォージラールの庭』1881年。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。
パリからポン=タヴァンへ(1885年-1886年)
ゴーギャンは、1885年6月、6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻った。その他の子は、コペンハーゲンのメットの元に残り、メットの稼ぎと家族・知人の助けで生活することとなった。ゴーギャンは、画家として生計を立てようと思ったが現実は厳しく、困窮して、雑多な雇われ仕事を余儀なくされている。クローヴィスは病気になり、ゴーギャンの姉マリーの支援で寄宿学校に行くことになった[12]。パリ最初の1年に制作した作品は非常に少ない。1886年5月の第8回(最終回〉印象派展に19点の絵画と1点の木のレリーフを出展しているが[13]、ほとんどがルーアンやコペンハーゲン時代の作品であり、唯一『水浴の女たち』が新たなモチーフを生み出した程度で、新味のあるものはほとんどなかった。それでも、フェリックス・ブラックモンはゴーギャンの作品を1点購入している。この時の印象派展で前衛画家の旗手として台頭したのが、新印象派と呼ばれるジョルジュ・スーラであったが、ゴーギャンは、スーラの点描主義を侮蔑した。この年、ゴーギャンは、ピサロと反目し、ピサロはその後ゴーギャンに対して敵対的な態度をとるようになる[14]。
ゴーギャンは、1886年夏、ブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らした。最初は、生活費が安いという理由で移ったのであるが、ここでの若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらした。シャルル・ラヴァルもその1人であり、彼は、後にパナマやマルティニーク島への旅をともにすることとなる[15]。
この年の夏、ゴーギャンは、第8回印象派展で見たピサロやエドガー・ドガの手法をまねてヌードのパステル画を描いている。また、『ブルターニュの羊飼い』のように、人物が表れるものの主に風景を描いた作品を多く制作している。『水浴するブルターニュの少年』は、彼がポン=タヴァンを訪れる度に回帰するテーマであるが、デザインや純色の大胆な使用において、明らかにドガを模倣している。イギリスのイラストレーターランドルフ・コールデコットがブルターニュを描いた作品も、ポン=タヴァンの画家たちの想像力を刺激し、ゴーギャンは、ブルターニュの少女のスケッチで、意識的にコールデコットの作品を模倣している。ゴーギャンは、後にこの時のスケッチをパリのアトリエで油絵に仕上げているが、コールデコットの素朴さを取り入れることで、初期の印象派風の作品から脱皮したものとなっている[16]。
ゴーギャンは、パナマやマルティニーク島から帰った後も、ポン=タヴァンを訪れており、エミール・ベルナール、シャルル・ラヴァル、エミール・シュフネッケル、その他多くの画家と交流した。このグループは、純色の大胆な使用と、象徴的な主題の選択が特徴であり、ポン=タヴァン派と呼ばれることになる。ゴーギャンは、印象派に至る伝統的なヨーロッパの絵画が余りに写実を重視し、象徴的な深みを欠いていることに反発していた。これに対し、アフリカやアジアの美術は、神話的な象徴性と活力に満ちあふれているように見えた。折しも、当時のヨーロッパでは、ジャポニズムに代表されるように、他文化への関心が高まっていた。
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『水浴する女たち』1885年。国立西洋美術館(東京)。
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『ブルターニュの羊飼い』1886年。Laing Art Gallery。
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『ブルターニュの4人の女』1886年。ノイエ・ピナコテーク。
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『ブルターニュの少女』1886年。バレル・コレクション。
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『水浴するブルターニュの少年』1886年。シカゴ美術館。
ゴーギャンの作品は、フォークアートと日本の浮世絵の影響を受けながら、クロワゾニスムに向かっていった。クロワゾニスムとは、批評家エドゥアール・デュジャルダンが、ベルナールやゴーギャンによる、平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴とする描き方に対して付けた名前であり、中世の七宝焼き(クロワゾネ)の装飾技法から来ている。
クロワゾニスムの真髄と言われる1889年の『黄色いキリスト』では、重厚な黒い輪郭線で区切られた純色の色面が強調されている。そこでは、古典的な遠近法や、色の微妙なグラデーションといった、ルネサンス美術以来の重要な原則を捨て去っている。さらに、彼の作品は、形態と色彩のどちらかが優位に立つのではなく、両者が等しい役割を持つ綜合主義に向かっていく。
-
『黄色いキリスト』1889年。オルブライト=ノックス美術館。
-
『ラヴァルの横顔のある静物』1886年。インディアナポリス美術館。
マルティニーク島
1887年、ゴーギャンは、パナマを訪れた後、6月から11月までの約半年、友人のシャルル・ラヴァルとともに、マルティニークのサン・ピエールに滞在した。ゴーギャンは、パナマ滞在中に破産し、当時のフランス法に従い、ラヴァルとともに、国の費用で本国に戻ることになった。しかし、2人は、マルティニークのサン・ピエール港で船を降りた。この下船が計画的なものだったのか、突発的なものだったのかについては、研究者の間で意見が分かれている。初め、2人は原住民の小屋に住んで人間観察を楽しんでいたが、夏になると暑く、雨漏りがした。ゴーギャンは、赤痢とマラリアにも苦しんだ。マルティニークにいる間、彼は12点前後の作品を制作した。戸外の情景を明るい色彩で描いたものである。島内を旅行して回り、インド系移民の村も訪れたと思われるが、彼の後の作品にはインド的モチーフが取り入れられている。
-
『マルティニークの風景』1887年。スコットランド国立美術館。
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『林の中の小屋』1887年。個人コレクション。
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『海辺II』1887年。個人コレクション。
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『池』1887年。ゴッホ美術館。
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『熱帯の立ち話』1887年。個人コレクション。
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『マンゴー摘み』1887年。ゴッホ美術館。
ゴッホとの共同生活
ゴーギャンのマルティニークでの作品は、絵具商アルセーヌ・ポワティエの店に展示された。ポワティエと取引のあったグーピル商会のテオドルス・ファン・ゴッホ(テオ)とその兄で画家のフィンセント・ファン・ゴッホは、その絵を見て感銘を受けた。テオはゴーギャンの絵を900フランで購入してグーピル商会に展示し、富裕な顧客に紹介した。同時に、フィンセントとゴーギャンも親しくなり、手紙で芸術論を戦わせた[17]。グーピル商会との取引は、テオが1891年1月に亡くなった後も続いた。
1888年、ゴーギャンは、南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で、9週間にわたる共同生活を送った。しかし、2人の関係は次第に悪化し、ゴーギャンはここを去ることとした。12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生した。ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、同じ日の夜、ゴッホが左耳を切り、これを新聞に包んでラシェルという名の娼婦に手渡したのだという。翌日、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはアルルを去った[18]。2人はその後二度と会うことはなかったが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは、1890年、アントウェルペンにアトリエを設けようという提案までしている[19]。
ゴーギャンは、後に、アルルでゴッホに画家としての成長をもたらしたのは自分だと主張している。ゴッホ自身は、『エッテンの庭の想い出』で、想像に基づいて描くというゴーギャンの理論を試してみたことはあったものの、ゴッホには合わず、自然をモデルに描くという方法にすぐに回帰している[20]。
最初のタヒチ滞在
1890年までには、ゴーギャンは、次の旅行先としてタヒチを思い描いていた。1891年2月にパリのオテル・ドゥルオーで行った売立てが成功し、旅行資金ができた[21]。この売立ての成功は、ゴーギャンに依頼されたオクターヴ・ミルボーが好意的な批評を書いたことによるものであった。コペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した[22]。その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった[23]。とはいえ、彼は、これまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった[24]。
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごした。パペーテでレジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパプアーリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)』や、『イア・オラナ・マリア』といった作品を描いた。後者は、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっている[25]。
ゴーギャンの傑作の多くは、この時期以降に生み出されている。最初にタヒチ住民をモデルとした肖像画は、ポリネシア風のモチーフを取り入れた『ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)』と考えられる。彼は、この作品を、パトロンでシュフネッケルの友人ジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレーに送った[26]。
ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ神についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。その最初が『アレオイの種』であり、オロ神の現世での妻ヴァイラウマティを表している。
彼がパリのモンフレーに送った絵は、全部で9点であり、これらは、コペンハーゲンで亡きゴッホの作品と一緒に展示された。売れたのはわずか2点で、ゴッホの作品と比べても不評だったものの、好評だったとの報告を聞いてゴーギャンは意を強くし、手元の70点ほどを携えて帰国しようと考えた[27]。いずれにせよ、滞在資金は尽きており、国の費用で帰国するほかなかった。その上、健康も害しており、当地の医者に心臓病だとの診断を受けていた。梅毒の初期症状であったとの見方もある[28]。
ゴーギャンは、後に、『ノアノア』という紀行文を書いている。当初は、自身の絵についての論評とタヒチでの体験を記したものと受け止められていたが、現在では、空想と剽窃が入り込んでいることが指摘されている[29]。この本で、彼は、テハマナ(通称テフラ)という13歳の少女を現地で妻としていたことを明かしている。1892年夏の時点で、彼女はゴーギャンの子を宿していたが、その後その子がどうなったかの記録はない[30]。
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『ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)』1891年。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。
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『イア・オラナ・マリア(我マリアを拝する)』1891年。メトロポリタン美術館。
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『タヒチの女(浜辺にて)』1891年。オルセー美術館。
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『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)』1892年。ナショナル・ギャラリー (ワシントン)。
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『アレオイの種』1892年。ニューヨーク近代美術館。
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『死者の霊が見ている』1892年。オルブライト=ノックス美術館。
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『テフラ(テハマナ)』1891-93年。オルセー美術館。
フランスへの帰国
1893年8月、ゴーギャンはフランスに戻り、タヒチの題材を基に作品の制作を続けた。『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』、『ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)』などである[31]。1894年11月にポール・デュラン=リュエルの画廊で開かれた展覧会はある程度の成功を見せ、展示された40のうち11点が相当の高値で売れた。ゴーギャンは、画家がよく訪れるモンパルナス地区の外れにアパルトマンを借り、毎週「サロン」と称して集まりを開いた。インド系とマレー系のハーフだという10代の少女を囲っており、『ジャワ女アンナ』のモデルとしている[32]。
11月の展覧会の成功にもかかわらず、ゴーギャンは、デュラン=リュエルとの取引を失っており、その理由は明らかでない。これによって、ゴーギャンは、アメリカ市場への売り込みの機会を失った[33]。1894年初めには、紀行文『ノア・ノア』のために実験的手法による木版画を試みた。その年の夏には、ポン=タヴァンを再訪した。翌1895年、パリで作品の売立てを行ったが、これは失敗に終わった。同年3月、画商アンブロワーズ・ヴォラールが自分の画廊でゴーギャンの作品を展示したが、この時は2人は取引関係の合意には至らなかった[34]。
また、同年4月に開会した国民美術協会のサロンに、冬の間に陶芸家エルネスト・シャプレの協力を得て焼き上げていた陶製彫像『オヴィリ』を提出した[35]。この作品はサロンに却下されたという説と、シャプレの後押しによってかろうじて入選したという説がある[36]。
この頃には、妻メットとの破局は決定的になっていた。2人が会うことはなく、金銭問題をめぐって争い続けた。ゴーギャンは、叔父イシドアから1万3000フランの遺産を相続したものの、当初、妻に一銭も渡そうとしなかった。最終的に、メットには1500フランが分与されたものの、その後はシュフネッケルを通じてしか連絡をとろうとしなかった[37]。
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『ジャワ女アンナ』1893年。個人コレクション。
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『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』1894年。シカゴ美術館。
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『ナヴェ・ナヴェ・モエ』1894年。エルミタージュ美術館。
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『オヴィリ』1894-95年。オルセー美術館。
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『ナヴェ・ナヴェ・ファヌ(かぐわしき大地)』、『ノア・ノア』の木版画、1894年。アートギャラリー・オブ・オンタリオ。
2度目のタヒチ滞在
ゴーギャンは、1895年6月28日、再びタヒチに向けて出発した。一つの原因は、『メルキュール・ド・フランス』誌の1895年6月号に、エミール・ベルナールとカミーユ・モークレールがそろってゴーギャンを批判する記事を書いたことにある。パリで孤立したゴーギャンは、タヒチに逃げ場を求めるほかなかったといわれている[38]。
同年9月にタヒチに着き、その後の6年間のほとんどを、パペーテ周辺の画家コミュニティで暮らした。徐々に絵の売上げも増加しつつあり、友人や支持者の支援もあったため、生活は安定するようになった。ただ、1898年から1899年にはパペーテで事務仕事をしなければならなかったようであるが、記録は余り残っていない。パペーテの東10マイルにある富裕なピュナオイア地区に家を建て、広大なアトリエを構えた[39]。
好きな時には、パペーテに行って植民地の社交界に顔を出せるよう、馬車を持っていた。『メルキュール・ド・フランス』誌を購読し、パリの画家、画商、批評家、パトロンたちと熱心に手紙のやり取りをしていた[40]。パペーテにいる間に、地元の政治では次第に大きな発言権を持つようになり、植民地政府に批判的な地元誌Les Guêpes(スズメバチ)誌に寄稿し、更には自ら月刊誌Le Sourire誌(後にJournal méchant)を編集・刊行するようになった[41]。1900年2月には、Les Guêpes誌の編集者に就任し、1901年9月に島を去るまで続けた。彼が編集者を務めていた間の同誌は、知事と官僚に対する口汚い攻撃が特徴であったが、かといって原住民の権利を擁護しているわけでもなかった[42]。
少なくとも最初の1年は、絵を描かず、彫刻に集中していることをモンフレーに伝えている。この時期の木彫りの彫刻が、モンフレーのコレクションに少数残っている。『十字架のキリスト』という、50センチメートルほどの円柱状の木の彫刻を仕上げているが、ブルターニュ地方のキリスト教彫刻の影響を受けたものと思われる[43]。絵に復帰すると、『ネヴァモア』のように、性的イメージをはらんだヌードを描くようになる。この頃のゴーギャンが訴えようとした相手は、パリの鑑賞者ではなく、パペーテの植民者たちであった[44]。
健康状態はますます悪くなり、何度も入院した。フランスにいた当時、彼はコンカルノーを訪れた際に酔ってけんかをし、足首を砕かれる怪我を負った[45]。この時の骨折が完治していなかった。その治療にはヒ素が用いられた。また、ゴーギャンは湿疹を訴えていたが、現在では、これは梅毒の進行を示すものと推測されている[46]。
1897年4月、彼は、最愛の娘アリーヌが肺炎で亡くなったとの知らせを受け取った。同じ月、彼は、土地が売却されたため家を立ち退かざるを得なくなった。銀行から借入れをして、今までよりも豪華な家を建てようとしたが、身の丈に合わない借入れにより、その年の末には銀行から担保権を行使されそうになった[47]。悪化する健康と借金の重荷の中、絶望の縁に追い込まれた。その年、自ら畢生の傑作と認める大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。モンフレーへの手紙によれば、作品完成の後、自殺を試みたという[48]。この作品は、翌1898年11月、ヴォラールの画廊で、関連作品8点とともに展示された[49]。これは、1893年にデュラン=リュエル画廊で開いて以来の、パリでの個展であり、今度は批評家たちも肯定的な評価を下した。ただ、『われわれはどこから来たのか』は、賛否両論であり、ヴォラールはこれを売るのに苦労した。1901年にようやく2500フランで販売され、そのうちヴォラールの手数料は500フランであったという。
ヴォラールは、それまでジョルジュ・ショーデというパリの画商を通じてゴーギャンから絵を購入していたが、ショーデが1899年秋に死去すると、直接の契約を締結した[50]。この契約で、ゴーギャンは、毎月300フランの前渡金を受け取るとともに、少なくとも25点の作品を各200フランで売り、その上、画材の提供を受けることになった。ゴーギャンは、これによって、より原始的な社会を求めてマルキーズ諸島に移住するという計画が実現できると考えた。そして、タヒチでの最後の数か月を、優雅に暮らした[51]。
ゴーギャンは、タヒチで良い粘土を入手できなかったことから、陶器作品を続けることができなくなっていた[52]。また、印刷機がなかったため、モノタイプを使わざるを得なかった。
ゴーギャンがタヒチにいる間に妻にしていたのは、プナオイア地区に住んでいたパウラという少女で、妻にした時に14歳半であった[53]。彼女との間には2人の子供ができ、うち女の子は生後間もなく亡くなり、男の子はパウラが育てた。パウラは、ゴーギャンがマルキーズ諸島に行く時、同行するのを断った[54]。
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『十字架のキリスト』(1896年)からの転写(反転)。ボストン美術館。
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『ネヴァモア』1897年。コートールド美術研究所。
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『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年。ボストン美術館。
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『3人のタヒチ人』1899年。
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『夜(悪夢)』1899–1900年、モノタイプ。J・ポール・ゲティ美術館。
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『邪悪な精のついたタヒチの女性』1899-1900年、モノタイプ。シュテーデル美術館。
マルキーズ諸島
ゴーギャンは、最初にタヒチのパペーテを訪れた時から、マルキーズ諸島で作られた碗や武器を見て、マルキーズ諸島に行きたいという思いを持っていた[55]。しかし、実際にマルキーズに行ってみて分かったのは、ここも、タヒチと同様、文化的な独自性を既に失っているということだった。太平洋の島々の中でも、マルキーズは、最も西欧の病気(特に結核)で汚染された島々だった。18世紀には8万人いたという人口は、当時4000人にまで落ち込んでいた[56]。
ゴーギャンは、1901年9月16日、ヒバ・オア島に着き、アトオナの町に住み始めた。アトオナは、マルキーズ諸島全体の政庁がある所で、パペーテよりは開発が遅れていたが、パペーテとの間で汽船の定期便があった。医師がいたが、翌年2月にパペーテに去ってしまったため、ゴーギャンは、ベトナム人冒険家のングエン・ヴァン・カムと、プロテスタントの牧師で医学を学んだことがあるというポール・ヴェルニエに病気の治療を頼ることになり、2人と親しくなった[57]。
ゴーギャンは、ミサに欠かさず通うことで地元の司教の機嫌をとってから、町の中心部にカトリック布教所から土地を買い取った。司教ジョセフ・マルタンは、当初、タヒチでゴーギャンがカトリック側を支持する言論活動を行っていたことから、ゴーギャンに好意的に振る舞った[58]。
ゴーギャンは、この土地に2階建ての建物を建て、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけた。壁には、彼が集めたポルノ写真が飾られていた[59]。初めの頃、この家には、写真を見ようと多くの地元住民が詰めかけた[60]。このことだけでも司教には不快なことだったが、ゴーギャンは、その上、司教とその愛人と噂される召使を当てこすった2体の彫刻を階段の前に置いたり[61]、カトリックのミッション・スクールの制度を批判したりしたことで、司教との関係は更に悪化した[62]。
ゴーギャンは、ミッション・スクールから2マイル半以上離れた生徒は通学の義務がないと主張し、これによって多くの女生徒が学校に行かなくなってしまった。その中の1人、14歳の少女ヴァエホ(マリー=ローズとも呼ばれた)を、彼は妻とした[63]。少女にとっては、健康状態のますます悪化したゴーギャンを毎日手当てしてやらなければならず、楽な仕事ではなかった[64]。それでも、彼女はゴーギャンとの同居を選び、翌年には娘を生んだ[65]。
1901年11月までに、新居を設け、ヴァエホ、料理人と2人の召使、犬のペゴー、猫1匹と暮らし始めた。ここでゴーギャンは制作に専念するようになり、翌1902年4月にはヴォラールに20枚のキャンバスを送っている[66]。彼は、モンフレーに、マルキーズではモデルも見つけやすいので新しいモチーフを見つけることができると思うと書き送っている[67]。
ゴーギャンは、タヒチ時代のテーマを避けて、風景画、静物画、人物の習作に取り組んだが、タヒチ時代の絵を深化させた『扇を持った若い女』、『赤いケープをまとったマルキーズの男』、『未開の物語』という3作品を制作している。
1902年には、ゴーギャンの健康状態は再び悪化し、足の痛み、動悸、全身の衰弱といった症状に悩まされた。9月には、足の怪我の痛みが激しくなり、モルヒネ注射をせざるを得なくなった。視力も悪化し、最後の自画像で、彼は眼鏡をかけている。
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『扇を持った若い女』1902年。フォルクヴァンク美術館。
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『未開の物語』1902年。フォルクヴァンク美術館。
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『赤いケープをまとったマルキーズの男』1902年。リエージュ近代美術館。
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『自画像』1903年。バーゼル市立美術館。
1902年7月、妊娠中だったヴァエホが、ゴーギャンのもとを去り、家族と友人のいる隣村で子供を産もうと、帰ってしまった。ヴァエホは、9月に子供を産んだが、戻ってくることはなかった。ゴーギャンは、その後、新たな「妻」を設けることはしていない。ちょうどこの時期に、ゴーギャンとマルタン司教との間でのミッション・スクールをめぐる論争が加熱していた。
12月には、病気のため、ほとんど絵の制作ができなくなった。『前語録 (Avant et après)』と題する自伝的回顧録を書き始め、2か月で完成させた[68]。表題には、タヒチに来る前と後の体験を綴ったという意味と、祖母の回顧録『過去と未来』への敬意が含まれていると考えられる。ポリネシアでの生活、自分の生涯、文学・絵画への批評などが雑多に綴られたものである。その中には、地元当局や、マルタン司教、妻メットやデンマーク人一般などへの批判も盛り込まれている[69]。
1903年初頭、ゴーギャンは、島の国家憲兵ジャン=ポール・クラヴェリーやその部下の無能力や汚職を告発する活動を始めた。ゴーギャンは、逆にクラヴェリーから名誉毀損で告発され、3月27日、罰金500フラン、禁錮3か月の判決を受けた。ゴーギャンはすぐにパペーテの裁判所に控訴し、その旅費の資金集めを始めたが、5月8日の朝、急死した[70]。
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『海辺の騎手たち』1902年。個人コレクション。
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『異国の鳥のある静物』1902年。プーシキン美術館。
死去
ゴーギャンは、名誉毀損で有罪判決を受けてから、その控訴のための準備をしていた[71]。この時点で体力は落ち込んでおり、体の痛みも激しかった。彼は、再びモルヒネに頼るようになった。死は、1903年5月8日の朝、突然訪れた。それに先立ち、ゴーギャンは、ポール・ヴェルニエ牧師を呼び、ふらふらすると訴えている。ヴェルニエ牧師は、ゴーギャンと言葉を交わし、容態が安定していると考えて立ち去った。ところが、午前11時、近くの住人ティオカが、ゴーギャンが死んでいるのを発見した。そして、マルキーズ諸島の伝統的なやり方に則って、蘇りのために彼の頭を噛んだ。枕元には、アヘンチンキの空の瓶が置いてあり、その過剰摂取が死の原因ではないかと疑われることになった[72]。他方、ヴェルニエは、心臓発作が死因だと考えている[73]。
ゴーギャンは、翌9日の午後2時、カトリック教会のカルヴァリー墓地に埋葬された。1973年、彼の遺志に従って、『オヴィリ』のブロンズ像が横に置かれた。皮肉にも、ゴーギャンの墓の一番近くに埋葬されているのは、マルタン司教である。
ゴーギャン死亡の報は、1903年8月23日までフランスに届かなかった。遺言はなく、価値のない家財はアトオナで競売に付され、手紙、原稿、絵画は9月5日にパペーテで競売にかけられた。このように財産が速やかに処分されてしまったため、彼の晩年に関する情報が失われてしまったと指摘されている。メット・ゴーギャンが競売の売上金を受け取ったが、およそ4000フランであった[74]。
後世
ポール・セザンヌに「中国の切り絵」と批評されるなど、同時代の画家たちからの受けは悪かったが、没後西洋と西洋絵画に深い問いを投げかけたゴーギャンの孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得していった。
イギリスの作家サマセット・モームの代表作『月と六ペンス』(初刊は1919年出版)の主人公の画家のモデルであった。
2015年2月7日 Nafea Faa Ipoipo(いつ結婚するの)1892年作が、プライベートセールにかけられ、史上最高額となる3億💲(日本円でおよそ360億円)で落札された[75]。
関連映画
- 『黄金の肉体 ゴーギャンの夢』 The Wolf at the Door (1986年)
- 監督ヘニング・カールセン、出演ドナルド・サザーランド、フランス・デンマーク合作映画
- 『シークレット・パラダイス』 PARADISE found (2003年)
- 監督マリオ・アンドレアキオ、出演キーファー・サザーランド、フランス映画
作品
自画像
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1888年。ゴッホ美術館。
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1889年。ナショナル・ギャラリー。
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1889–1890年。オルセー美術館。
-
1893年。オルセー美術館。
脚注
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