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「Wikipedia:井戸端/subj/各種議論や各種依頼における数を頼んだ議事進行への対策について」の版間の差分

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:::;『それではどうしても納得できない』
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:::そういうことです。このままでは『いつまでも納得しない人』ですよ。--[[利用者:Keisotyo|Keisotyo]]([[利用者‐会話:Keisotyo|会話]]) 2015年6月6日 (土) 04:43 (UTC)
:::そういうことです。このままでは『いつまでも納得しない人』ですよ。--[[利用者:Keisotyo|Keisotyo]]([[利用者‐会話:Keisotyo|会話]]) 2015年6月6日 (土) 04:43 (UTC)
::::{{返信|IP58xv氏}}辞退が許されるなら「大差は無い」と考えます。コメント依頼だって見て見ぬ振りされてるものがあるでしょうから。
::::文書案は、最悪一人でも可能なことですからね。草案なりが完成してから改めて賛意を問えば済む話なので、今此処で賛意を得る必要は無いと考えます。内容の問題だと思いますので。
::::{{返信|Keisotyo氏}}(※Keisotyo氏へ向けた発言です。IP58xv氏から見ると不当な表現が含まれている可能性があります。)
::::粗方間違っていないと考えますが、もう少し「泳がせて」おいても良いのではないでしょうか。放っておいたからって害が出る類のものでもないでしょう。「危険思想」であることは確かですが、少なくとも陪審員制なる案を出せるぐらいには真面目に考えているのですから、何か言うたびに論理的に「難癖をつけて」いればその内に何か妙案が浮かぶかも知れませんよ。
::::もしも「''『自分は常に正しい』と考えがちな人''」自身が納得出来るような解決策の案が出されるのであれば、それは「''『自分は常に正しい』と考えがちな人''」と合意を形成する時の参考になるかも知れませんしね。
::::[[利用者:Maddestmagician|世界最狂の魔法使いCray-G]]([[利用者‐会話:Maddestmagician|会話]]) 2015年6月6日 (土) 08:17 (UTC)

2015年6月6日 (土) 08:18時点における版

各種議論や各種依頼における数を頼んだ議事進行への対策について

各記事のノートや削除依頼、コメント依頼などを拝見していると、時折、必ずしもルールに即していない主張が多数の参加者によって支持され、黒でも白になってしまう、また逆に白でも黒になってしまう、多勢に無勢で押し切らえてしまう状況にあるように思います。この状況はWikipediaの方針に即していないのはあきらかであり、なんらかの抜本的な対策が必要なのではないかと考える次第です。

現実社会においては司法、行政、立法の三権を分立させてうまく公平性を保つような仕組みとしているのに対し、Wikipediaをみると、行政(管理者による)、立法(ルール整備)はある程度うまくいっているように見えますが、司法の場に該当する各種依頼が上に述べたように多数派によって壟断されてしまい得る状況にあるのではないかという話です。例えば、ある議論において一人が正論を述べていたとしても三人が反論を行っていた場合には、議論は容易には決着しないでしょうが、そうした時、多数派が「いつまでも納得しない」や「コミュニティを疲弊させる」などといった手段を弄して議論相手を吊るし上げた場合には、多数派はコメント依頼やブロック依頼においても基本的に多数派による数を頼んだ議事進行が可能であるということです。運が良ければ、多数派を上回る数の善意の第三者が参加する可能性もありえますが、そうでないケースがありえるというのは問題でしょう。そもそもが、Wikipediaにおいて、己とまったく関係のない、興味のない分野の審議に中立的な姿勢で臨み、労力をかけて問題の根幹を探り、コメントを書くボランティア精神溢れる利用者が多数存在するというのは考えにくいものがあります。

こうした状況を是正するような妙案はないものでしょうか。例えば陪審員制度を創設するだとか。--IP58xv会話2015年6月4日 (木) 06:30 (UTC)[返信]

コメントある議論において一人が正論を述べていたとしても三人が反論を行っていた場合、その一人のほうが「正論」であるという判断を行なう権力を誰かが持つというのは危険なことなので、方針やガイドラインを案内し、コメント依頼などで参加者を増やすという形で解決するのがウィキペディアのやり方、てことだと理解しています。一人の側でも、三人の側でも、あるいはたとえそれが「正論」であったとしても議論の進め方がまずいようなら、方針やガイドラインを理解していない、しようとしない、ということでブロックの対象になる。というのが、今の日本語版のありようだと思います。
例示されている陪審員制度というのは、「己とまったく関係のない、興味のない分野の審議に中立的な姿勢で臨み、労力をかけて問題の根幹を探り、コメントを書く」ことを強制させることですから、ボランティアで成り立つウィキペディアにはそぐわないでしょう。司法的な部分を担うグループを作るということでは、英語版ほかでWikipedia:裁定委員会Wikipedia:調停委員会というのがあり、日本語版でもかつて議論はされていました。--Ks aka 98会話2015年6月4日 (木) 12:13 (UTC)[返信]
「その一人のほうが「正論」であるという判断を行なう権力を誰かが持つというのは危険なこと」とありますが、だからといって多勢に無勢を許容するというのはWikipediaの方針になじまないものでしょう。そもそも権力を与えるのが危険というのであれば、管理者やその他の特権ユーザも危険な存在であるということになるため、その論は現行制度そのものも否定するものであるはずです。「議論の進め方がまずい」というのは暴言、虚偽、個人攻撃、印象操作といったものに抵触する行為ということになろうかと思いますが、これは少数派であっても多数派であっても行いうる行為であって必ずしも少数派のみが行いうる行為ではなく、寧ろ、多数派のほうがそのような行為に類する蓋然性が高い行為を数を頼んで行い易い土壌がWikipediaにあるように思えます。つまり、多数派によって支配された議論では多数派のコンセンサスがそのままコミュニティの判断とみなされる蓋然性が高く、そこに誤謬や虚偽があるとしても見逃されやすい、一方で、少数派が同様の行為を働いたとしたら、それが軽度の問題や単なるミスであるとしても、たちまち多数派によって吊るし上げられそのままブロックという流れになってしまう。つまり、本来のWikipediaの方針、ルールを余所に、正論を述べるユーザをブロック、追放さえすることが可能であるというのが現状のWikipediaの実際上のシステムであり、それこそが危険であるというのがこの提言の意図するところです。
陪審員制度はウィキペディアへの確かに労力を強要するものです。しかし、それが「ボランティアで成り立つウィキペディアにそぐわない」ということはないと考えます。管理者やその他の特権ユーザは実際に労力を強要されており、それで実際上、現在運用されているということを考えれば、その論もまた的を射ていない論であると思います。すくなくても「そぐわない」として早々に切り捨てるのは早計でしょう。
裁定委員会、調停委員会というのは知りませんでしたが、ちょっとWikipedia:裁定委員会を読んだ所、わたしが想定しているようなものとはまったく異なりますが、少なくともそういった裁定機関皆無の現状よりはましともいえるかなという感はします。わたしがぼんやりと想定している陪審員制度とは、論争や審議の解決に際して、ある程度ルールに通暁していると思われるユーザ(一定の経験があるユーザということになるでしょうか?)の中から、無作為に復数人選出し、Wikipediaのルールにもとづき個々の論争に即した対処を管理者に勧告するような機関です。勧告ですから強制力はありませんから管理者は勧告に従う必要はありませんが、参考にするというものです。問題は、論争の度に提訴が乱発され陪審員を招集することなれば、Wikipediaコミュニティの支払うことになるコストは膨大になることになるため、そこをいかに抑制するかということになろうかと思いますが…。まあ、これは単なる一案にすぎません。なにか妙案がないものですかね。--IP58xv会話2015年6月4日 (木) 13:29 (UTC)[返信]
コメント 良くも悪くもボランティアだけで運用しているプロジェクトですので、仰るような仕組みを作るのは難しいでしょう。陪審員なら信頼の厚い有能な人材でなくては務まりませんが、そんな貴重な人材に仲介役を押し付けるようなことが認められるとも思えません。もし白が黒に、黒が白になってしまったのを見つけた時は、ウィキペディアでは一事不再理などはありませんので、もう一度提案・依頼して、それをひっくり返してみせれば済むことです。賛成ばかりだったのが、やり直したら何故か反対ばかりになるとか(その逆も)実際には割とあることで、それは「間違えたら後で修正する」「失敗しても回復できる」というウィキペディアの基本的な姿勢でもあります。--Hisagi(氷鷺)会話2015年6月4日 (木) 13:46 (UTC)[返信]
まあ、確かに記事内容については仰せの通りなのでしょうけど、ここで論じているのは記事内容だけでなくユーザに対するコメント依頼やブロック依頼でもみられ得ることです。つまり恣意的なルール運用によって、ブロックとなってしまう被害者が存在し、逆に問題のあるユーザであっても見逃されてしまうというケースがありえるということです。--IP58xv会話2015年6月4日 (木) 14:35 (UTC)[返信]
記事と同じだと思えばいかがでしょう。別にウィキペディアは常に正しくある訳ではありません。また、ウィキペディアに参加する権利なんてものが全員に保障されている訳でもありません。どうやったって人間が集まれば不満も出ますし、どうやったって「理不尽なことで不利益を被った」と主張する人が出てきます。その辺も込みで、ウィキペディアに参加してください。--Hisagi/氷鷺会話2015年6月4日 (木) 14:49 (UTC)[返信]
それもそうでしょうが、そうした不正義をできるだけなくすということが現実社会では絶え間なく模索され実現されてきています。Wikipediaにおいても同様に模索されてもいいと考える訳です。--IP58xv会話2015年6月4日 (木) 14:56 (UTC)[返信]
具体的に何の件か知りませんが、「納得すべきことに納得できない」だけのお話のように聞こえますので、このまま同じ主張を繰り返されても仕方がない(何も変わらない)と思いますよ。本当に、陪審員的なものを立ててまで対策を立てないといけないような問題が起きているのなら、実例をお願いします。--Hisagi/氷鷺会話2015年6月4日 (木) 15:29 (UTC)[返信]
わたしが想定している事態は既に述べているとおりです。「納得すべきことに納得できないだけ」と仰るのはWikipediaでは常に「納得すべきこと」、正しいことのみが行われていると仰っているのでしょうか。あなたはつい先ほど「賛成ばかりだったのが、やり直したら何故か反対ばかりになるとか(その逆も)実際には割とあること」、「ウィキペディアは常に正しくある訳ではありません。」と述べているじゃありませんか。こういう事態を改善できないかというお話です。--IP58xv会話2015年6月4日 (木) 15:44 (UTC)[返信]
ええ、ですからその恣意的ななんとかでどういう問題が起きているのか、改善すべき問題がどういうものか、提示してみてください。架空の問題であれば特段対策を講ずることもありません。--Hisagi/氷鷺会話2015年6月4日 (木) 15:52 (UTC)[返信]
ええ、ではなくて、あなた自身「ウィキペディアは常に正しくある訳ではありません。」と述べているでしょ。これはウソだったんですか?改善すべき問題については既に冒頭に、一番初めに述べています。--IP58xv会話2015年6月4日 (木) 15:56 (UTC)[返信]
誤解させてしまったようですみません。ウィキペディアに常に正しくあることを求めるな(間違えたら(ブロックしたら)直せば(解除すれば)済む話)…くらいの意味だったんですけどね。そして、改善すべき問題とやらが(どの程度)実在するのかも曖昧なのでは、検討しようがありません。私も一番最初に言っていますが、これは最初から無理な話だと思いますよ。--Hisagi/氷鷺会話2015年6月4日 (木) 16:13 (UTC)[返信]
つまり、Hisagiさんとしてはそのような実態はないので改善すべきことはない、というご意見ということですね。まあ、それはひとつの見解としてはありえなくもないと思います。ご意見ありがとうございました。--IP58xv会話2015年6月4日 (木) 17:18 (UTC)[返信]
  • (コメント)ほぼKs aka 98さんの言うとおりだと思います。そもそもこの提言は前提からおかしくて「一人が正論を述べていた」という判定を誰がしたのかが不明です。どういった立場の人が正論と判定したのかはとても重要な事です。議論において一方だけが普遍な正論という場合はほとんどありません。多くの場合、多数派・少数派の双方ともが自分が正しいと思っていて、各々の立場で自らの主張は正義・正論であると思い込んでいるため議論が紛糾する事になります。本当に少数派の方だけが正論ならば両者の主張の違いを見極めて、井戸端でもコメント依頼でもいいので、具体的に理路整然と説明して人を集めれば流れは変わります。それができないのは議論の進め方や説明の仕方が不味かったということであり、反省を次に生かすしかありません。--Sureturn会話2015年6月5日 (金) 07:04 (UTC)[返信]
  • コメント 特定の事物が絡む案件では『ミートパペット的な複数利用者』のような利用者群の存在を感じることはあります。個人的にそのような利用者群であろうと、方針文書のグレーゾーンなところを場合場合で都合のいいように解釈するようなことや、WP:ILLEGITに準ずる行為を行なわなければ問題は小さいものと考えます。
とはいえ誰某の行動に問題があると考えても、多数派のうち個人対象のコメント依頼を行なうと他数名が出てきて紛糾しうやむやになったり多数派対象のコメント依頼を行なうと論点がまとめにくかったりするのでWikipedia:裁定委員会などは実働すればありがたいでしょう。まあその前にしばし議論から離れて自分がヒートアップしてないかとか彼我の何が問題と感じたかなどを客観的にまとめることのほうが先だと思います、熱が入ると気付かないうちに余計なこと言ってたり論点ずれたりするものですので。--210.141.54.169 2015年6月5日 (金) 09:16 (UTC)[返信]
コメント興味深い話題だとは思うのですが、改善の最大の問題は労働力の確保なのではないでしょうか。陪審員制度は興味深いのですが、立候補ならやらない方がマシなので「条件を満たす中から無作為に選ぶ」ことになると思います。選ばれたら強制なのか辞退出来るのかも問題ですし、その仕組みを組み込むのにどれぐらいのコストが必要なのかも問題です。そもそも陪審員に「何をさせるのか」も重要だと思います。決定権を与えるのか、ミニ調査投票をさせるだけなのか、或いは議論を分析して問題点(循環論法や論点回避など)の指摘をするだけなのか。あまり権限を与えない方向なのであれば、むしろ議論の際に頻出する問題点と対策などの手順書を用意する方が安価でいいかも知れません。--世界最狂の魔法使いCray-G会話2015年6月5日 (金) 14:28 (UTC)[返信]
>立候補ならやらない方がマシなので「条件を満たす中から無作為に選ぶ」ことになると思います。
同感です。
強制かどうかですが、強制は難しいので極力協力を呼びかけるぐらいでしょう。おそらくですね、ユーザのなかにはコメント依頼を覗いたこともない人も沢山いると思うんです。指名されて声がけされれば協力しないでもないという方もいらっしゃるのではないかと。権限については、大きすぎず、小さすぎずがいいでしょう。決定権を与えてしまってもいいのですが、陪審員としての意思統一を行った上での勧告で十分だと思います。この勧告は公示されることになるため、強制力はないものの意味あるものになると思います。勿論、意思統一の際には、議論を分析することが各員には課せられます。手順書を用意するとのことですが、その手順書が参照されなければ意味がありません。現在、Wikipedia上にはルールがあるわけですが、必ずしも論争の際にそれらに則った議論が行われている訳ではないと思います。誰かがルールを指摘しても議論の趨勢によって解釈はいかようにも変化してしまうし、黙殺されてしまうことさえありえます。
この案の問題はいかにコストを抑えるかです。無数にある論争の度に陪審員集結ということになれば考えただけで凄いことになりそうですからね。要するに訴訟の濫発をいかに抑えるかだと思うのですが、そうですね陪審員による審議期間をたとえば二週間としその間は提訴者は一切の編集を行えないようにするとかどうでしょうかね。--IP58xv会話2015年6月5日 (金) 16:17 (UTC)[返信]
陪審員としての意思統一を行った上での勧告で十分~~意味あるものになると思います。
それが為されたならば確かにそれで充分に意味があることに同意します。ですが「陪審員としての意思統一」でまた同じように揉め、本件問題提起のそもそもである「多数の参加者陪審員によって支持され~~多勢に無勢で押し切らえてしまう状況」が再現されるだけのことになるのではないかと懸念します。
これを防ぐ為に「無作為に選ばれた」陪審員に対し「客観的に判断する為のルール」を課すのであれば、同じことが非陪審員(例えば議論参加者)にも出来るはずですし、陪審員に出来ないことは非陪審員にも出来ません。例えばルールに議論の分析があるならば、議論の分析が陪審員にも可能であることが仮定されていることになります。それが仮定出来るのであれば非陪審員にも仮定出来るはずなので、第三者意見が入る以外は意味が無いのかな、と。つまり「ミニ調査投票」や「強制コメント依頼」に過ぎず、既存の「調査投票」や「コメント依頼」の利用が少ないのと同じ理由で利用が少なくなるのではないかと思います。これを打破出来る妙案が必要と考えます。
Wikipedia上にはルールがあるわけですが~~
その「ルール」は手順を定めていません。例えばWikipedia:論争の解決ではステップ2: 論争の相手と話し合うのような大雑把な枠組みでの手順を示していますが、私の言う手順書とはこの「論争の相手と話し合う」の中での話し合う手順を記したものです。例えば国会での討論では手続きが規則として定められています。国会での討論は多数決投票の前段階として有権者(=国会議員)にアピールする為のものであり、合意形成を主目的とするwikipediaでの議論とは大きく異なります。ですがそれに対する共通認識が礼儀や冷静など、「国会での討論」でも「楽しい雑談」でも共通する方法論しかルール/ガイドライン化されていません。どちらが正しいかは意見が分かれるにしても、手順書に従っているか否かは(手順が妥当ではないと主張する以外は)意見が分かれることは(熱くなっていなければ)無いでしょう。煩雑になるのは問題ですが、「両者が認める点」が多ければそれだけ誤解を解き易く=相互理解し易く=合意が形成され易くなると考えます。
この案の問題はいかにコストを抑えるか~~要するに訴訟の濫発をいかに抑えるか
引用部前半に同意するとともに、同後半に異論を提示します。私の見解では「頻発されることを前提として濫発されても良いぐらいコストを抑える必要がある」です。利用されない制度なら無意味です、既に同じ目的を持った制度が存在していますので。つまり「調査投票」や「コメント依頼」が。なのでそれとの差別化が必要であり、その差別化可能な唯一の要素は「手軽さ」しかないと考えます。依頼する方(議論参加者)にも、依頼される方(この場合は陪審員)にも。
私は、陪審員側の最大にして深刻なコストとは説明責任だと考えます。誰でも紛糾している議論なんぞに巻き込まれたくはありませんし、紛糾するような微妙な議題に関して「責任を以って」発言出来るほど強固な意見を持っている人も少ないでしょう。ついでに言うと、有意な編集をしているウィキペディアンがそれに巻き込まれることはwikipediaにとってあまり有益とは思えません。対策として陪審員を辞退可能(≒協力をお願いするだけ)にするなら、結局のところ「議論に積極的に参加したい程に強固な意見を持っている人」以外は粗方辞退するわけで、イコール本件問題提起のそもそもの「~~などといった手段を弄して議論相手を吊るし上げ」る為に弄する手段が増えるだけの話になってしまうわけです。
で、陪審員にとって手軽にするならそれは結局議論参加者にも出来ること(手順書など)に帰着してしまうのかな、と。議題に関する意見を言わない(=巻き込まれないようにする)のであれば議論進行上の問題を指摘するぐらいしか出来ることは無く、議論進行上の問題を指摘する為の知識が全体的に不足している(ので揉めている)のだから陪審員(やその候補者)にそれを知らせる為の文書が必要になるのかな、と。そしたら陪審員無しにも出来るよな、と。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2015年6月6日 (土) 03:41 (UTC)[返信]
末に返信します。--IP58xv会話2015年6月6日 (土) 04:20 (UTC)[返信]
  • そもそもの話が問題では?
  • 「黒でも白になってしまう、また逆に白でも黒になってしまう、多勢に無勢で押し切らえてしまう状況にあるように思」うような人は、『自分は常に正しい』と考えがちな人なのではないのでしょうか。であれば、そう思う人の方に問題があるのだという可能性が大いにあります。そんな場合、みんなどうしてこんな話に乗るのかを、自分の主張をいったん置いて考える、そんな感覚が大事だと思うんですよ。
  • 私は割とへそ曲がりなので、様々な議論で私の意見が通らなかったことは多いですけど、ここでの議論が完全に変な方向へ向かってる、そんな風に感じたことはないですね。無政府的な議論の流れだけで決定してゆくというここのやり方は、おおむね成功していると感じています。--Keisotyo会話2015年6月5日 (金) 22:33 (UTC)[返信]
結局こういう人は、陪審制で思い通りの結論に至らなければ第二、第三の陪審制を求めるだけでしょうね。陪審員制の裁判なんか見てても弁護士の誘導次第でかなり変な判決に至ったりもしますし、そういった仕組みによって公平・公正な結論に至るという保証があるわけではありません。訴えた少数派に不利な結論に至ったら、それはそれでまた騒ぎ出すでしょうね。--Sureturn会話2015年6月6日 (土) 02:15 (UTC)[返信]
わたしは別にわたしや特定の個人、グループと関連した議題を提起しているわけではないので議題を特定の個人と結びつける言説はご遠慮くださると幸いです。--IP58xv会話2015年6月6日 (土) 04:19 (UTC)[返信]

世界最狂の魔法使いCray-Gさんへ。確かに陪審員が議論の分析ができるかどうかは不明です。コメント依頼で集まる人と同様でしょう。ただ、双方の差は、片方が自律的に議論参加するのに対し片方は無作為に指名された参加者であるということです。これは大きな差ではないでしょうか。コメント依頼との差別化は当然必要でわたしはコメント依頼の上位に陪審員性を想定していました。自律的に集まるユーザ層と無作為に選出されるユーザ層、どちらにより権威をもたせるべきかと考えると後者になるべきではないかと思います。「有意な編集をしているウィキペディアンがそれに巻き込まれることはwikipediaにとってあまり有益とは思えません。」についてはその通りなんですが、少しずつコミュニティに対する責務を分担してwikipediaの質を底上げできれば、それはそういったウィキペディアンにとっても有益なことでしょう。まあ、しかし、ここで述べている陪審員制は単なる思いつきレベルの案ですので、わたしとしてはこの案に拘泥しているわけではありません。仰せの文書案については、確かに現状のWikipedia:論争の解決は粗すぎるのには同意します。文書を充実させることによっても同じ目的が達成できるのであれば、それもいいと思います。そちらのほうが皆さんの賛意を得やすいですかねぇ。--IP58xv会話2015年6月6日 (土) 04:37 (UTC)[返信]

IP58xv様へ。ここまでの議論、よく読んでみてください。あなたへの意見は、ほぼどれもこうなのですよ。
『互いの議論で合意を作りながら進めるのがここの流儀。それでほぼうまくいっている。あなたの案はそれには合わない』
私の言葉もその一つの形にすぎません。これまでの人たちもみんなそういっている。あなたはそれに対し、
『それではどうしても納得できない』
そういうことです。このままでは『いつまでも納得しない人』ですよ。--Keisotyo会話2015年6月6日 (土) 04:43 (UTC)[返信]
返信 (IP58xv氏宛) 辞退が許されるなら「大差は無い」と考えます。コメント依頼だって見て見ぬ振りされてるものがあるでしょうから。
文書案は、最悪一人でも可能なことですからね。草案なりが完成してから改めて賛意を問えば済む話なので、今此処で賛意を得る必要は無いと考えます。内容の問題だと思いますので。
返信 (Keisotyo氏宛) (※Keisotyo氏へ向けた発言です。IP58xv氏から見ると不当な表現が含まれている可能性があります。)
粗方間違っていないと考えますが、もう少し「泳がせて」おいても良いのではないでしょうか。放っておいたからって害が出る類のものでもないでしょう。「危険思想」であることは確かですが、少なくとも陪審員制なる案を出せるぐらいには真面目に考えているのですから、何か言うたびに論理的に「難癖をつけて」いればその内に何か妙案が浮かぶかも知れませんよ。
もしも「『自分は常に正しい』と考えがちな人」自身が納得出来るような解決策の案が出されるのであれば、それは「『自分は常に正しい』と考えがちな人」と合意を形成する時の参考になるかも知れませんしね。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2015年6月6日 (土) 08:17 (UTC)[返信]