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'''イブン・アラビー''' |
'''イブン・アラビー'''({{lang-ar|ابن عربيي}} Ibn al-ʿArabī, {{lang-ar|محي الدین أبو عبد الله محمد بن علي بن محمد بن العربي الحاتمي الطائي}} Muḥī al-Dīn Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn ʿAlī ibn Muḥammad ibn al-ʿArabī al-Ḥātimī aṭ-Ṭāʾī 生没年 [[1165年]][[7月28日]] - [[1240年]][[11月10日]])は、[[中世]]の[[イスラーム思想家]]。[[存在一性論]]・[[完全人間論]]を唱えて[[イスラーム神秘主義]]([[スーフィズム]])の確立に寄与し、後世に影響を与えた。 |
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==生涯== |
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[[イスラーム教徒]]の[[セビリア王国]]の支配下にあった[[アンダルシア州|アンダルシア]]の[[ムルシア]]で[[アラブ人|アラブ系]]の名門に生まれる。 |
[[イスラーム教徒]]の[[セビリア王国]]の支配下にあった[[アンダルシア州|アンダルシア]]の[[ムルシア]]で[[アラブ人|アラブ系]]の名門に生まれる。12世紀後半はセビリアの統治者であった[[ムワッヒド朝]]の[[アブー・ヤアクーブ・ユースフ1世]](在位:[[1163年]] - [[1184年]])の治世であり、ユースフ1世は文化を重んじていたため宮廷には[[イブン・ルシュド]](アヴェロエス)や[[イブン・トゥファイル]]などが集い、セビリアは当時を代表する文化都市のひとつであった。 |
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父アリーはイブン・ルシュドと親しく、後年主著のひとつ『マッカ啓示』での記述によるとアラビーがイブン・ルシュドと面会したのは15〜16歳の時であったといい、老齢であったイブン・ルシュドはアラビーの洞察力に驚いたという。その後もイブン・ルシュドらとの交流は続き、[[1194年]]にイブン・ルシュドが[[コルドバ]]で亡くなったときイブン・アラビーは30歳で、その葬儀に参列している。青年期に[[セビリア]]で[[イスラーム法学|法学]]・[[イスラーム神学|神学]]・[[ハディース学]]を学ぶ。その頃、病床にあった彼は幻視体験から[[スーフィズム]](taṣawwuf タサウウフ、タサッウフ)を学ぶようになった。以後の10年程をアンダルシア・[[マグリブ]]各地を遍歴して、[[スーフィー]]行者とともに修行した。この時期にアラビーが教えを受けたスーフィーの師匠として、アブー・ジャアファル・ウライニー(Abū Jaʿfar al-ʿUraynī)、アブー・ヤアクーブ・カイスィー(Abū Yaʿqūb al-Qaysī)、サーリフ・アダウィー(Ṣāliḥ al-ʿAdawī)、アブー・ハッジャージュ・ユースフ(Abū al-Ḥajjāj Yūsuf)などがおり、ファーティマ・ビント・ムサンナー(Fāṭima bint al-Muthannā)、シャムス・ウンムル=フカラー(Shams Umm al-Fuqarā')といった女性スーフィー行者からも師として学んだことが知られている。 |
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翌年、[[アナトリア]]からの巡礼団が彼の教説に感銘して、[[コンヤ]]への来住を要請されてこれに応じた。その後も[[バグダード]]・[[アレッポ]]・[[ダマスカス]]・カイロ・メッカなどを訪問するなど、その人生の大部分を旅に費やしている<ref name="WDL"/>。 |
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アラビーはその人生の大部分を旅に費やしている<ref name="WDL"/>。[[ヒジュラ暦]]597年([[1200年]] - [[1201年]])にアラビーは夢告を受けて[[マッカ]](メッカ)への巡礼を志して東方に旅立った。[[1202年]]に[[カイロ]]、[[エルサレム]]を経て[[ハッジ|マッカ巡礼]]を果たした彼はそのまま同地に2年間滞在して、更なる研究に没頭する<ref name="WDL">{{cite web |url = http://www.wdl.org/en/item/7437/ |title = The Meccan Revelations |website = [[World Digital Library]] |date = 1900-1999 |accessdate = 2013-07-14 }}</ref>。[[1204年]]、彼はマッカにおける研究の集大成である『[[マッカの啓示]]』( الفتوحات المكية al-Futūḥāt al-Makkiyya)を著した。 |
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⚫ | 晩年は支援者であった富豪の招きでダマス |
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翌[[1204年]]、[[アナトリア]]を出て[[コンヤ]]、[[マラティヤ]]の巡礼団を率いてきたマジュドゥッディーン・イスハーク(Shaykh Majd al-Dīn Isḥāq ibn Yūsuf)と出会い、アラビーの教説に感銘したイスハークの誘いを受けて、1205年にコンヤへの復路に同行することとなった。その後も帰還の巡礼団とともに[[バグダード]]・[[モースル]]を経てイスハークの勧めもあってマラティヤに移住した。この時期に[[ルーム・セルジューク朝]]の[[カイホスロー1世]]がコンヤで復位(在位:[[1205年]] - [[1210年]])し、イスハークがカイホスローの宮廷に招かれた際にアラビーも同時に伺候して謁見し、下賜品を授かった。このマジュドゥッディーン・イスハークの息子が、後にアラビーの直弟子のひとりとしてアラビーの教説の流布に奔走した[[サドルッディーン・クーナウィー]]([[:en:Sadr al-Din al-Qunawi|Ṣadr al-Dīn al-Qunawī]] )である。翌年にもアラビーは近隣への旅を続け、エルサレム・カイロ・マッカなどを訪問し、1210年にはコンヤに再び戻った。1212年にバグダードに赴いているが、これはカイホスロー1世の後を継いだ[[カイカーウス1世|カイカーウース1世]](在位 [[1211年]] - [[1220年]])の即位の報告をカリフ宮廷に報告するため同地を訪れていたイスハークと同道したものと考えられる。アラビーはカイカーウース1世のために実践的なアドバイスを書簡に残している。この時期アラビーは[[アレッポ]]や[[スィヴァス]]を訪ねているが、主にマラティヤで生活をしている。また[[1221年]]には息子サアドゥッディーン・ムハンマド(Saʿd al-Dīn Muḥammad [[1221年]] - [[1258年]])を儲けた。 |
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⚫ | 晩年は支援者であった富豪の招きで[[ダマスクス]]に居を定めた。遅くとも[[1230年]]には同地にいることが知られているが、ここでは彼の言説への反対者からの厳しい批判を浴びたものの、同時に多くの擁護者にも恵まれた。彼はそこで夢告により[[アダム]]から預言者[[ムハンマド]]に至る27名の[[預言者]]の伝記・思想論集である『[[叡智の根源]]』( فصوص الحكم Fuṣūṣ al-Ḥikam)を著した。彼自身の言によると、夢の中に預言者ムハンマドが現れて口述を行って彼に執筆を迫ったのだという。また、彼は[[詩人]]及び[[ザーヒル派]]([[:en:Ẓāhirī]])[[ウラマー]]としても知られて著作を残しており、その数は生涯で200を越える。彼の没後、郊外の[[カシオン山]]中腹に墓廟が築かれ、一部のイスラム教徒からは巡礼の対象地とされ、墓廟周辺は彼の名前にちなんだ「ムフイッディーン地区」という地区名で呼ばれているほどである<ref>東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、108-113頁</ref>。 |
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== 思想と批判 == |
== 思想と批判 == |
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===「存在一性論」と「完全人間説」=== |
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彼はイスラーム神秘主義におけるもっとも重要かつ高度な思想家であった。アラビーの思想の特徴をまとめると、「存在一性論」(waḥda al-wujūd)という存在論と、「完全人間説」(insān kāmil)という人間論にそれぞれ代表させる事が出来る。この世界はすべて一者の自己顕現(tajallī)として理解される。すなわち、この世界には自存している「無限定存在」(wujūd muṭlaq)である神[[アッラーフ]]と、それそのものでは非存在であるがアッラーフに依拠する事で初めて存在し得る「被限定存在」(wujūd muqayyd)である被造物に大きく分けられる。アラビーはこれに加え、それらのいずれとも異なる第三要素として「真実在の真実性(ḥaqīqa al-ḥaqā'iq)」を想定する<ref>東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、113-115頁</ref>。万物は見かけ上は全く違うように見えるが、実は全て神の知恵の中にある1形態に過ぎず、本質的には同一の物体であるとするのが「存在一性論」(Waḥda al-wujūd)である。 |
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(ただし、「存在一性論」という用語自体はアラビー自身は使用しておらず、最初に「存在一性論」という用語を使用し始めた人物が誰であるが諸説ある。近年、その候補者としてアラビーの批判者であった[[イブン・タイミーヤ]]が最初のひとりであるとする研究が出されている。)<ref>東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、114頁</ref> |
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⚫ | 宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」(wujūd)と呼ぶ。これは現実にこの世に存在している「存在者」や「現実存在」(mawjūd)とは全く異なる原理存在であるとする。そしてその存在の究極位を[[プロティノス]]の「一者」と同じように「存在の彼方」に置くと同時に、それが全存在世界の太源であると考えた<ref>{{Cite book|和書|author=井筒俊彦|year=2001|title=意識の形而上学|publisher=中公文庫|pages=P.36}}</ref>。イブン・アラビーの「存在」は、無名無相、つまり一切の「…である」という述語を受け付けない。「神である」とも言えない。なぜなら神以前の神は、普通の意味の神ではないからである<ref>{{Cite book|和書|author=井筒俊彦|year=2001|title=意識の形而上学|publisher=中公文庫|pages=P.37}}</ref>。「存在」(wujūd)には、「自己顕現」(tajallī)に向かう志向性が本源的に備わっており、「隠れた神」は「顕れた神」にならずにはいられない。無名無相の「存在」が「アッラー」という名を持つに至るこの段階は、ヴェーダーンタ哲学における意味分節する以前の全体存在である「上梵」から言葉によって言い表すことができる経験的世界である「名色」へと移り変わる段階にあたる、と井筒俊彦は解説する<ref>{{Cite book|和書|author=井筒俊彦|year=2001|title=意識の形而上学|publisher=中公文庫|pages=P.37}}</ref>。 |
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===イブン・アラビー思想と「存在一性論学派」の展開=== |
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直弟子であったクーナウィー([[1207年]] - [[1274年]])は、思索の赴くままに叙述したイブン・アラビーの作品を整理し、それらに自ら注釈を施す等して体系化に勤めた。クーナウィーは『叡智の台座』の注釈を施した他に、同じく同書の注釈を著したジャンディー(Mu'ayyid al-Dīn al-Jandī ? -[[1291年]]頃?)や、アラビーの思想を哲学的さらに深化させたティリムサーニー(‘Afīf al-Dīn al-Tilimsānī 1291年)、ペルシア語神秘主義詩人として有名な[[ファフルッディーン・イラーキー|イラーキー]](Fakhr al-Dīn Ibrahīm ‘Irāqī )ら後進達の育成も行っている。なかでも[[イルハン朝]]ではクーナウィーとジャンディーから教えを受けたスフラワルディー教団に属すスーフィー思想家アブドゥッラッザーク・カーシャーニー(ʿAbd al-Razzāq al-Qāshānī [[:tr:Abdürrezzak Kaşanî|:tr]] , ? - 1335年)は「存在一性論」の正しさを主張して、アッラーフの至高性を強く主張しアラビーを批判した同時代人のアラーウッダウラ・スィムナーニー(ʿAlā' al-Dawla Simnanī, [[1336年]]没)と論争を行っている。カーシャーニーはイラン以東でのアラビーの思想の展開にも大きな足跡を残しており、カーシャーニーの弟子ダーウード・カイサリー([[:en:Dawūd al-Qayṣarī|Dāwūd al-Qayṣarī]] [[1260年]]頃- [[1351年]])、カイサリーの弟子ルクヌッディーン・シーラーズィー(Rukn al-Dīn al-Shīrāzī, [[1367年]]没)がいるが、3者とも『叡智の台座』の注釈書を著しており、カーシャーニーとカイサリーの注釈書は地域を問わず広く読まれた。シーラーズィーの注釈書はペルシア語訳がされ、これがペルシア語訳『叡智の台座』の注釈書としては最古のひとつとなっている。 |
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ダマスクスでイブン・アラビーやクーナウィーと親交を持ったサアドゥッディーン・ハンムーヤという人物の弟子、アズィーズ・ナサフィーが『完全人間』(Kitāb al-insān al-kāmil)というペルシア語によるアラビー思想の解説書を著し、これがペルシア語文化圏におけるアラビーの思想的影響を大きく残した。やはり同じ『完全人間』という書名のアラビア語による著書を残したアブドゥルカリーム・ジーリー([[:en:Abdul Karim Jili|ʿAbd al-Karīm al-Jīlī]], [[1326年]] - [[1424年]])がおり、[[イェメン]]の[[ラスール朝]]治下のザービドで後半生を過ごし、『マッカ啓示』の理解困難な箇所に注釈を施す等をしている。[[15世紀]]には[[ティムール朝]]時代に活躍した[[ホラーサーン]]出身のスーフィー詩人[[ジャーミー]]が、『叡智の台座』やそれをアラビー本人が要約した『台座の刻印』(Naqsh al-Fuṣūṣ)にそれぞれ注釈を施している。ジャーミーはいわゆる存在一性論学派のなかでも最も有名な思想家のひとりである。 |
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イランや中央アジアでのアラビー研究は主にペルシア語訳書や注釈書を介して中国にも伝播し、漢文によるイスラーム思想の著述がはじまる17世紀前後からアラビーの存在一性論の影響が見られるようになる。『清眞大學』の著者[[王岱輿]]([[1570年]]頃 - [[1657年]]頃)や『歸眞總義』の張中( [[1670年]]没)、アズィーズ・ナサフィーやジャーミーの著作を漢訳した舍起靈([[1710年]]没)らがいる。 |
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一方、[[オスマン朝]]では創建当初からアラビーに傾倒する思想家が多く、オスマン朝時代の知識人、思想家の大半はなんらかの形でその思想的影響化あると言われている。 |
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上述のダーウード・カイサリーが[[イズニク]]で建てられた最初の[[マドラサ]]の初代学院長を勤め、その後も『マッカ啓示』やクーナウィーの著作等を注釈、ペルシア語、[[オスマン語]]に翻訳する |
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ウラマーが陸続と現れ、オスマン朝の最初のシャイフル=イスラームとされているムッラー・ファナーリー([[:tr:Molla Şemsüddin-i Fenari|Mullā Shams al-Dīn Fanārī]] [[1350年]] - [[1431年]])も『マッカ啓示』やクーナウィーの著書『玄秘の鍵』(Miftāḥ al-Ghayb)の注釈書を著し、さらに同書や『叡智の台座』の釈講を行っている。 |
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エジプトでは、アラビーに対する批判者も多かったが、マムルーク朝時代を中心に「存在一性論学派」の学統は隆盛した<ref>東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、117-122頁</ref>。 |
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===イブン・アラビーとその学派への批判=== |
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彼の教説は各地に熱狂的な支持者を生み出す一方、反対派も多く、カイロでは暗殺計画があったと言われている。 |
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アラビーの完全人間論では、修行の途中において、人間は神アッラーフの名・属性([[アッラーフの99の美名]])はもとより、本質までも体験出来るとしている<ref>東長靖「存在一性論学派における存在論と完全人間論」『イスラームとスーフィズム』 2013年、143-145頁</ref>。 |
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⚫ | 宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」 |
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唯一なる神アッラーフは人間とは絶対的に隔絶された高みにあるとする主張はスーフィズムの勃興期から存在し、アラビーの存在顕現論そのものは認めつつも、アッラーフの至高性を保つためには「本質まで体験し得る」という部分に反発する論者も多かった。その代表的な人物のひとりに[[イブン・タイミーヤ]]がおり、15世紀の[[ビカーイー]](Burhān al-Dīn al-Biqāʿī [[1406年]]頃 - [[1480年]])や同じく[[スユーティー]]([[:en:Al-Suyuti|Jalāl al-Dīn al-Suyuṭī]] [[1445年]] –[[1505年]])といった有名な学識者達がイブン・アラビー批判を展開したのも、主にアラビーの「存在一性論」や「完全人間説」で説かれている「造物主であるアッラーフと被造物を区別しない」立場についてであった<ref>東長靖「マムルーク朝初期のタサウウフの位置づけ」『イスラームとスーフィズム』 2013年、210-215頁</ref>。 |
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⚫ | [[イブン・タイミーヤ]]などを含む多くの有名なウラマーがイブン・アラビーは[[ムスリム]]ではないと断じている。彼が著作中に示した思想にはイスラム教の枠を超えるものがあり、例えば彼は[[古代エジプト]]の[[ファラオ]]が自身を神だとみなしていたことを正しいことだと主張している。これは「我こそは真理なり(anā al-Ḥaqq)」という有名なスーフィー的「酔言」(shaṭḥ シャトフ)を述べた逸話でも9世紀の有名なスーフィー修行者ハッラージュ(Abū ʿAbd Allāh al-Ḥusayn al-al-Ḥallāj)が、悪魔[[イブリース]]が地獄の劫火に焼かれ、ファラオも[[モーセ]]の出エジプトにおいて海でも溺れさせられても翻意しなかった事をあげ、イブリースやファラオの行動にこそ真の信仰みて両者を称えた逸話に因んでいる。 |
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スーフィズムの思潮は、スーフィーの修行によって感得した境地を「我こそは真理なり」や「アッラーフに讃えあれ」と呼ぶべきところを「我に讃えあれ」といった「酔言」に表現したり、数々の「奇行」を残した上記のハッラージュやアブー・ヤズィード・バスターミーに代表される「酔ったスーフィー」と、スーフィーの修行を積みつつムスリムとしての道徳や規範を遵守すべきとする[[ジュナイド]]に代表される「醒めたスーフィー」におおよそ大別される。イブン・タイミーヤはジュナイドの系列の「醒めたスーフィー」こそ真に実践すべきスーフィズムであり、否定すべき不信仰者の代表である悪魔イブリースやファラオと敬虔なムスリムとの区別すら否定する、ハッラージュやその伝統に属するイブン・アラビーとその論者たちを厳しく批判した。アッラーフによって滅ぼされたこれらの存在も(ハッラージュやイブン・アラビーらが主張するように)「正しい」「真の信仰者」としてしまっては、不信仰者(カーフィル)への[[ジハード]]や[[ハッド刑]]も認められなくなってしまい、イスラームにおける社会秩序が崩壊してしまうため、断じて認められなかった。イブン・タイミーヤの主張では、昨今の[[モンゴル帝国]]の侵攻や人々の[[シャリーア]]無視の原因は、こういった「存在一性論」の論者達等の出現によるものである、としていた<ref>東長靖「マムルーク朝初期のタサウウフの位置づけ」『イスラームとスーフィズム』 2013年、210-215頁</ref>。 |
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==脚注== |
==脚注== |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*東長靖「イブン・アラビー」『岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2002年) ISBN 978-4-00-080201-7 |
*東長靖「イブン・アラビー」『岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2002年) ISBN 978-4-00-080201-7 |
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*東長靖『イスラームとスーフィズム ―神秘主義・聖者信仰・道徳―』(名古屋大学出版会, 2013年2月) |
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:同「第4章 イブン・アラビーと存在一性論学派」108-122頁 |
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:同「第10章 マムルーク朝初期のタサウウフの位置づけ ―イブン・タイミーヤの「スーフィズム」批判を中心として―」190-203頁 |
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:同「第11章 マムルーク朝末期におけるタサウウフをめぐる論争 ―ビカーイー・スユーティー論争を中心に―」190-203頁 |
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*リチャード・ヴァーダリー「イブン・アル・アラビー」『世界伝記大事典 世界編 1』(ほるぷ出版、1980年) |
*リチャード・ヴァーダリー「イブン・アル・アラビー」『世界伝記大事典 世界編 1』(ほるぷ出版、1980年) |
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*古林清一「イブン=アルアラビー」『世界歴史大事典 2』(教育出版センター、1991年) ISBN 978-4-7632-4001-9 |
*古林清一「イブン=アルアラビー」『世界歴史大事典 2』(教育出版センター、1991年) ISBN 978-4-7632-4001-9 |
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2015年2月4日 (水) 05:10時点における版
イブン・アラビー(アラビア語: ابن عربيي Ibn al-ʿArabī, アラビア語: محي الدین أبو عبد الله محمد بن علي بن محمد بن العربي الحاتمي الطائي Muḥī al-Dīn Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn ʿAlī ibn Muḥammad ibn al-ʿArabī al-Ḥātimī aṭ-Ṭāʾī 生没年 1165年7月28日 - 1240年11月10日)は、中世のイスラーム思想家。存在一性論・完全人間論を唱えてイスラーム神秘主義(スーフィズム)の確立に寄与し、後世に影響を与えた。
生涯
イスラーム教徒のセビリア王国の支配下にあったアンダルシアのムルシアでアラブ系の名門に生まれる。12世紀後半はセビリアの統治者であったムワッヒド朝のアブー・ヤアクーブ・ユースフ1世(在位:1163年 - 1184年)の治世であり、ユースフ1世は文化を重んじていたため宮廷にはイブン・ルシュド(アヴェロエス)やイブン・トゥファイルなどが集い、セビリアは当時を代表する文化都市のひとつであった。
父アリーはイブン・ルシュドと親しく、後年主著のひとつ『マッカ啓示』での記述によるとアラビーがイブン・ルシュドと面会したのは15〜16歳の時であったといい、老齢であったイブン・ルシュドはアラビーの洞察力に驚いたという。その後もイブン・ルシュドらとの交流は続き、1194年にイブン・ルシュドがコルドバで亡くなったときイブン・アラビーは30歳で、その葬儀に参列している。青年期にセビリアで法学・神学・ハディース学を学ぶ。その頃、病床にあった彼は幻視体験からスーフィズム(taṣawwuf タサウウフ、タサッウフ)を学ぶようになった。以後の10年程をアンダルシア・マグリブ各地を遍歴して、スーフィー行者とともに修行した。この時期にアラビーが教えを受けたスーフィーの師匠として、アブー・ジャアファル・ウライニー(Abū Jaʿfar al-ʿUraynī)、アブー・ヤアクーブ・カイスィー(Abū Yaʿqūb al-Qaysī)、サーリフ・アダウィー(Ṣāliḥ al-ʿAdawī)、アブー・ハッジャージュ・ユースフ(Abū al-Ḥajjāj Yūsuf)などがおり、ファーティマ・ビント・ムサンナー(Fāṭima bint al-Muthannā)、シャムス・ウンムル=フカラー(Shams Umm al-Fuqarā')といった女性スーフィー行者からも師として学んだことが知られている。
アラビーはその人生の大部分を旅に費やしている[1]。ヒジュラ暦597年(1200年 - 1201年)にアラビーは夢告を受けてマッカ(メッカ)への巡礼を志して東方に旅立った。1202年にカイロ、エルサレムを経てマッカ巡礼を果たした彼はそのまま同地に2年間滞在して、更なる研究に没頭する[1]。1204年、彼はマッカにおける研究の集大成である『マッカの啓示』( الفتوحات المكية al-Futūḥāt al-Makkiyya)を著した。
翌1204年、アナトリアを出てコンヤ、マラティヤの巡礼団を率いてきたマジュドゥッディーン・イスハーク(Shaykh Majd al-Dīn Isḥāq ibn Yūsuf)と出会い、アラビーの教説に感銘したイスハークの誘いを受けて、1205年にコンヤへの復路に同行することとなった。その後も帰還の巡礼団とともにバグダード・モースルを経てイスハークの勧めもあってマラティヤに移住した。この時期にルーム・セルジューク朝のカイホスロー1世がコンヤで復位(在位:1205年 - 1210年)し、イスハークがカイホスローの宮廷に招かれた際にアラビーも同時に伺候して謁見し、下賜品を授かった。このマジュドゥッディーン・イスハークの息子が、後にアラビーの直弟子のひとりとしてアラビーの教説の流布に奔走したサドルッディーン・クーナウィー(Ṣadr al-Dīn al-Qunawī )である。翌年にもアラビーは近隣への旅を続け、エルサレム・カイロ・マッカなどを訪問し、1210年にはコンヤに再び戻った。1212年にバグダードに赴いているが、これはカイホスロー1世の後を継いだカイカーウース1世(在位 1211年 - 1220年)の即位の報告をカリフ宮廷に報告するため同地を訪れていたイスハークと同道したものと考えられる。アラビーはカイカーウース1世のために実践的なアドバイスを書簡に残している。この時期アラビーはアレッポやスィヴァスを訪ねているが、主にマラティヤで生活をしている。また1221年には息子サアドゥッディーン・ムハンマド(Saʿd al-Dīn Muḥammad 1221年 - 1258年)を儲けた。
晩年は支援者であった富豪の招きでダマスクスに居を定めた。遅くとも1230年には同地にいることが知られているが、ここでは彼の言説への反対者からの厳しい批判を浴びたものの、同時に多くの擁護者にも恵まれた。彼はそこで夢告によりアダムから預言者ムハンマドに至る27名の預言者の伝記・思想論集である『叡智の根源』( فصوص الحكم Fuṣūṣ al-Ḥikam)を著した。彼自身の言によると、夢の中に預言者ムハンマドが現れて口述を行って彼に執筆を迫ったのだという。また、彼は詩人及びザーヒル派(en:Ẓāhirī)ウラマーとしても知られて著作を残しており、その数は生涯で200を越える。彼の没後、郊外のカシオン山中腹に墓廟が築かれ、一部のイスラム教徒からは巡礼の対象地とされ、墓廟周辺は彼の名前にちなんだ「ムフイッディーン地区」という地区名で呼ばれているほどである[2]。
思想と批判
「存在一性論」と「完全人間説」
彼はイスラーム神秘主義におけるもっとも重要かつ高度な思想家であった。アラビーの思想の特徴をまとめると、「存在一性論」(waḥda al-wujūd)という存在論と、「完全人間説」(insān kāmil)という人間論にそれぞれ代表させる事が出来る。この世界はすべて一者の自己顕現(tajallī)として理解される。すなわち、この世界には自存している「無限定存在」(wujūd muṭlaq)である神アッラーフと、それそのものでは非存在であるがアッラーフに依拠する事で初めて存在し得る「被限定存在」(wujūd muqayyd)である被造物に大きく分けられる。アラビーはこれに加え、それらのいずれとも異なる第三要素として「真実在の真実性(ḥaqīqa al-ḥaqā'iq)」を想定する[3]。万物は見かけ上は全く違うように見えるが、実は全て神の知恵の中にある1形態に過ぎず、本質的には同一の物体であるとするのが「存在一性論」(Waḥda al-wujūd)である。 (ただし、「存在一性論」という用語自体はアラビー自身は使用しておらず、最初に「存在一性論」という用語を使用し始めた人物が誰であるが諸説ある。近年、その候補者としてアラビーの批判者であったイブン・タイミーヤが最初のひとりであるとする研究が出されている。)[4]
また、人間とは神が持つ全ての属性の集合体によって構成されており、その中でもそれを自覚した「完全人間説」(insān kāmil)と呼ぶべき人が預言者であり、ムハンマドはその最後の人物であるとする「完全人間説」(insān kāmil)によって構成されており、人間は元から神の一部である以上、心や意識に苦痛をもたらす禁欲的な探求を採ることは無意味であると唱えたのである。
宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」(wujūd)と呼ぶ。これは現実にこの世に存在している「存在者」や「現実存在」(mawjūd)とは全く異なる原理存在であるとする。そしてその存在の究極位をプロティノスの「一者」と同じように「存在の彼方」に置くと同時に、それが全存在世界の太源であると考えた[5]。イブン・アラビーの「存在」は、無名無相、つまり一切の「…である」という述語を受け付けない。「神である」とも言えない。なぜなら神以前の神は、普通の意味の神ではないからである[6]。「存在」(wujūd)には、「自己顕現」(tajallī)に向かう志向性が本源的に備わっており、「隠れた神」は「顕れた神」にならずにはいられない。無名無相の「存在」が「アッラー」という名を持つに至るこの段階は、ヴェーダーンタ哲学における意味分節する以前の全体存在である「上梵」から言葉によって言い表すことができる経験的世界である「名色」へと移り変わる段階にあたる、と井筒俊彦は解説する[7]。
彼の思想は弟子のサドルッディーン・クーナウィー(Ṣadr al-Dīn al-Qunawī)らによって体系化され、全てのイスラーム教徒(及び一部のキリスト教思想家)に影響を与える一方で、イブン・タイミーヤに代表される反対論を唱える思想家を生み出し、イスラーム教の思想・歴史に大きな影響を与えることになる。
イブン・アラビー思想と「存在一性論学派」の展開
直弟子であったクーナウィー(1207年 - 1274年)は、思索の赴くままに叙述したイブン・アラビーの作品を整理し、それらに自ら注釈を施す等して体系化に勤めた。クーナウィーは『叡智の台座』の注釈を施した他に、同じく同書の注釈を著したジャンディー(Mu'ayyid al-Dīn al-Jandī ? -1291年頃?)や、アラビーの思想を哲学的さらに深化させたティリムサーニー(‘Afīf al-Dīn al-Tilimsānī 1291年)、ペルシア語神秘主義詩人として有名なイラーキー(Fakhr al-Dīn Ibrahīm ‘Irāqī )ら後進達の育成も行っている。なかでもイルハン朝ではクーナウィーとジャンディーから教えを受けたスフラワルディー教団に属すスーフィー思想家アブドゥッラッザーク・カーシャーニー(ʿAbd al-Razzāq al-Qāshānī :tr , ? - 1335年)は「存在一性論」の正しさを主張して、アッラーフの至高性を強く主張しアラビーを批判した同時代人のアラーウッダウラ・スィムナーニー(ʿAlā' al-Dawla Simnanī, 1336年没)と論争を行っている。カーシャーニーはイラン以東でのアラビーの思想の展開にも大きな足跡を残しており、カーシャーニーの弟子ダーウード・カイサリー(Dāwūd al-Qayṣarī 1260年頃- 1351年)、カイサリーの弟子ルクヌッディーン・シーラーズィー(Rukn al-Dīn al-Shīrāzī, 1367年没)がいるが、3者とも『叡智の台座』の注釈書を著しており、カーシャーニーとカイサリーの注釈書は地域を問わず広く読まれた。シーラーズィーの注釈書はペルシア語訳がされ、これがペルシア語訳『叡智の台座』の注釈書としては最古のひとつとなっている。
ダマスクスでイブン・アラビーやクーナウィーと親交を持ったサアドゥッディーン・ハンムーヤという人物の弟子、アズィーズ・ナサフィーが『完全人間』(Kitāb al-insān al-kāmil)というペルシア語によるアラビー思想の解説書を著し、これがペルシア語文化圏におけるアラビーの思想的影響を大きく残した。やはり同じ『完全人間』という書名のアラビア語による著書を残したアブドゥルカリーム・ジーリー(ʿAbd al-Karīm al-Jīlī, 1326年 - 1424年)がおり、イェメンのラスール朝治下のザービドで後半生を過ごし、『マッカ啓示』の理解困難な箇所に注釈を施す等をしている。15世紀にはティムール朝時代に活躍したホラーサーン出身のスーフィー詩人ジャーミーが、『叡智の台座』やそれをアラビー本人が要約した『台座の刻印』(Naqsh al-Fuṣūṣ)にそれぞれ注釈を施している。ジャーミーはいわゆる存在一性論学派のなかでも最も有名な思想家のひとりである。
イランや中央アジアでのアラビー研究は主にペルシア語訳書や注釈書を介して中国にも伝播し、漢文によるイスラーム思想の著述がはじまる17世紀前後からアラビーの存在一性論の影響が見られるようになる。『清眞大學』の著者王岱輿(1570年頃 - 1657年頃)や『歸眞總義』の張中( 1670年没)、アズィーズ・ナサフィーやジャーミーの著作を漢訳した舍起靈(1710年没)らがいる。
一方、オスマン朝では創建当初からアラビーに傾倒する思想家が多く、オスマン朝時代の知識人、思想家の大半はなんらかの形でその思想的影響化あると言われている。 上述のダーウード・カイサリーがイズニクで建てられた最初のマドラサの初代学院長を勤め、その後も『マッカ啓示』やクーナウィーの著作等を注釈、ペルシア語、オスマン語に翻訳する ウラマーが陸続と現れ、オスマン朝の最初のシャイフル=イスラームとされているムッラー・ファナーリー(Mullā Shams al-Dīn Fanārī 1350年 - 1431年)も『マッカ啓示』やクーナウィーの著書『玄秘の鍵』(Miftāḥ al-Ghayb)の注釈書を著し、さらに同書や『叡智の台座』の釈講を行っている。
エジプトでは、アラビーに対する批判者も多かったが、マムルーク朝時代を中心に「存在一性論学派」の学統は隆盛した[8]。
イブン・アラビーとその学派への批判
彼の教説は各地に熱狂的な支持者を生み出す一方、反対派も多く、カイロでは暗殺計画があったと言われている。
アラビーの完全人間論では、修行の途中において、人間は神アッラーフの名・属性(アッラーフの99の美名)はもとより、本質までも体験出来るとしている[9]。 唯一なる神アッラーフは人間とは絶対的に隔絶された高みにあるとする主張はスーフィズムの勃興期から存在し、アラビーの存在顕現論そのものは認めつつも、アッラーフの至高性を保つためには「本質まで体験し得る」という部分に反発する論者も多かった。その代表的な人物のひとりにイブン・タイミーヤがおり、15世紀のビカーイー(Burhān al-Dīn al-Biqāʿī 1406年頃 - 1480年)や同じくスユーティー(Jalāl al-Dīn al-Suyuṭī 1445年 –1505年)といった有名な学識者達がイブン・アラビー批判を展開したのも、主にアラビーの「存在一性論」や「完全人間説」で説かれている「造物主であるアッラーフと被造物を区別しない」立場についてであった[10]。
イブン・タイミーヤなどを含む多くの有名なウラマーがイブン・アラビーはムスリムではないと断じている。彼が著作中に示した思想にはイスラム教の枠を超えるものがあり、例えば彼は古代エジプトのファラオが自身を神だとみなしていたことを正しいことだと主張している。これは「我こそは真理なり(anā al-Ḥaqq)」という有名なスーフィー的「酔言」(shaṭḥ シャトフ)を述べた逸話でも9世紀の有名なスーフィー修行者ハッラージュ(Abū ʿAbd Allāh al-Ḥusayn al-al-Ḥallāj)が、悪魔イブリースが地獄の劫火に焼かれ、ファラオもモーセの出エジプトにおいて海でも溺れさせられても翻意しなかった事をあげ、イブリースやファラオの行動にこそ真の信仰みて両者を称えた逸話に因んでいる。
スーフィズムの思潮は、スーフィーの修行によって感得した境地を「我こそは真理なり」や「アッラーフに讃えあれ」と呼ぶべきところを「我に讃えあれ」といった「酔言」に表現したり、数々の「奇行」を残した上記のハッラージュやアブー・ヤズィード・バスターミーに代表される「酔ったスーフィー」と、スーフィーの修行を積みつつムスリムとしての道徳や規範を遵守すべきとするジュナイドに代表される「醒めたスーフィー」におおよそ大別される。イブン・タイミーヤはジュナイドの系列の「醒めたスーフィー」こそ真に実践すべきスーフィズムであり、否定すべき不信仰者の代表である悪魔イブリースやファラオと敬虔なムスリムとの区別すら否定する、ハッラージュやその伝統に属するイブン・アラビーとその論者たちを厳しく批判した。アッラーフによって滅ぼされたこれらの存在も(ハッラージュやイブン・アラビーらが主張するように)「正しい」「真の信仰者」としてしまっては、不信仰者(カーフィル)へのジハードやハッド刑も認められなくなってしまい、イスラームにおける社会秩序が崩壊してしまうため、断じて認められなかった。イブン・タイミーヤの主張では、昨今のモンゴル帝国の侵攻や人々のシャリーア無視の原因は、こういった「存在一性論」の論者達等の出現によるものである、としていた[11]。
脚注
- ^ a b “The Meccan Revelations”. World Digital Library (1900-1999). 2013年7月14日閲覧。
- ^ 東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、108-113頁
- ^ 東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、113-115頁
- ^ 東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、114頁
- ^ 井筒俊彦『意識の形而上学』中公文庫、2001年、P.36頁。
- ^ 井筒俊彦『意識の形而上学』中公文庫、2001年、P.37頁。
- ^ 井筒俊彦『意識の形而上学』中公文庫、2001年、P.37頁。
- ^ 東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、117-122頁
- ^ 東長靖「存在一性論学派における存在論と完全人間論」『イスラームとスーフィズム』 2013年、143-145頁
- ^ 東長靖「マムルーク朝初期のタサウウフの位置づけ」『イスラームとスーフィズム』 2013年、210-215頁
- ^ 東長靖「マムルーク朝初期のタサウウフの位置づけ」『イスラームとスーフィズム』 2013年、210-215頁
参考文献
- 東長靖「イブン・アラビー」『岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2002年) ISBN 978-4-00-080201-7
- 東長靖『イスラームとスーフィズム ―神秘主義・聖者信仰・道徳―』(名古屋大学出版会, 2013年2月)
- 同「第4章 イブン・アラビーと存在一性論学派」108-122頁
- 同「第10章 マムルーク朝初期のタサウウフの位置づけ ―イブン・タイミーヤの「スーフィズム」批判を中心として―」190-203頁
- 同「第11章 マムルーク朝末期におけるタサウウフをめぐる論争 ―ビカーイー・スユーティー論争を中心に―」190-203頁
- リチャード・ヴァーダリー「イブン・アル・アラビー」『世界伝記大事典 世界編 1』(ほるぷ出版、1980年)
- 古林清一「イブン=アルアラビー」『世界歴史大事典 2』(教育出版センター、1991年) ISBN 978-4-7632-4001-9
- 井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫、1991年)
- 井筒俊彦『意識の形而上学』(中公文庫、2001年)
外部リンク
- Ibn Arabi - スタンフォード哲学百科事典「イブン・アラビー」の項目。