「ゲルニカ (絵画)」の版間の差分
編集の要約なし |
Asturio Cantabrio (会話 | 投稿記録) 加筆 タグ: サイズの大幅な増減 |
||
7行目: | 7行目: | ||
| artist = [[パブロ・ピカソ]] |
| artist = [[パブロ・ピカソ]] |
||
| year = 1937年 |
| year = 1937年 |
||
| type = [[油彩]]、 |
| type = [[油彩]]、キャンバス |
||
| height = 349 |
| height = 349 |
||
| width = |
| width = 777 |
||
| city = [[マドリード]] |
| city = {{Flagicon|ESP}} [[マドリード州]]・[[マドリード]] |
||
| museum = [[ソフィア王妃芸術センター]] |
| museum = [[ソフィア王妃芸術センター]] |
||
}} |
}} |
||
17行目: | 17行目: | ||
| image1 = [http://en-two.iwiki.icu/wiki/File:PicassoGuernica.jpg 『ゲルニカ』の画像] |
| image1 = [http://en-two.iwiki.icu/wiki/File:PicassoGuernica.jpg 『ゲルニカ』の画像] |
||
}} |
}} |
||
『'''ゲルニカ'''』(''{{lang|es|Guernica}}'')は、[[スペイン]]の画家[[パブロ・ピカソ]]が[[スペイン内戦]]中 |
『'''ゲルニカ'''』(''{{lang|es|Guernica}}'')は、[[スペイン]]の画家[[パブロ・ピカソ]]が[[スペイン内戦]]中の1937年に描いた[[絵画]]、およびそれと同じ絵柄で作られた[[タペストリー]]作品である。[[ドイツ空軍]]の[[コンドル軍団]]によって[[ビスカヤ県]]の[[ゲルニカ]]が受けた都市無差別爆撃([[ゲルニカ爆撃]])を主題としている。20世紀を象徴する絵画であるとされ<ref name=ootaka>大高(1992)</ref>、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある<ref name=blunt36>ブラント(1981)、p.36</ref>。発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。 |
||
== |
== 経過 == |
||
=== ゲルニカ爆撃 === |
|||
[[File:Bundesarchiv Bild 183-H25224, Guernica, Ruinen.jpg|thumb|right|200px|爆撃で廃墟と化したゲルニカ]] |
|||
[[スペイン内戦]]の最中の[[1937年]][[4月26日]]、[[スペイン]]北部・[[バスク自治州|バスク州]]の小都市ゲルニカが[[フランシスコ・フランコ|フランコ将軍]]を支援する[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]によって[[空爆]]を受けた。史上初めての都市無差別空爆と言われることがある<ref>[[第一次世界大戦]]では[[ロンドン]]がゴータ爆撃機や[[飛行船]]による爆撃を受けて民間人を含む多数の被害者を出している([[ドイツによる戦略爆撃 (第一次世界大戦)]])。「史上初」認定は話者の主観や史料認識に依存しがちでしばしば正確性を欠いている。ナチスによるゲルニカ空爆と同じ[[1937年]]の[[8月15日]]から[[南京市|南京]]が[[日本軍]]により空爆を受けている。</ref>。滞在中のパリでこの報を聞いたピカソは、かねて[[スペイン人民戦線|人民戦線]]政府より依頼されていた同年の[[パリ万国博覧会 (1937年)|パリ万国博覧会]]スペイン館の[[壁画]]として急遽ゲルニカを題にこの作品に取り組み、[[6月4日]]には完成させる。 |
|||
{{seealso|ゲルニカ爆撃}} |
|||
ピカソは[[スペイン第二共和政|共和国政府]]を支持しており、1937年1月には[[フランシスコ・フランコ]]を風刺する内容の詩『フランコの夢と嘘』を著し、後には詩に添える[[銅版画]]を製作していた<ref>マーティン(2003)、p.27</ref>。この銅版画でフランコは怪物の姿として描かれており、売られた絵葉書の収益は共和国政府の救援資金となった<ref name=arai4548>荒井(1991)、pp.45-48</ref>。[[スペイン内戦]]中の1937年1月、共和国政府は在フランスのスペイン大使館を経由してピカソに[[パリ万国博覧会 (1937年)|パリ万国博覧会]]のスペイン館を飾る[[壁画]]の製作依頼を行った<ref name=kano73>狩野(2003)、p.73</ref><ref name=arai3336/>。ピカソは依頼に対して明確な返事をしなかったが、スペイン内戦とは無関係の[[シュルレアリスム]]風の壁画を制作する予定だったとされている<ref>マーティン(2003)、p.65</ref>。1980年頃にパリのピカソ美術館で発見されたスケッチによれば、この構想は画家やモデルが登場する個人的な世界の描写だったが、後の『ゲルニカ』に含まれる太陽や女のイメージは既に存在していた<ref name=arai4548/>。4月半ばにはこの個人的世界の絵画に対して、鉛筆とインクによる素描を仕上げていたが、1937年4月26日に[[ビスカヤ県]]の[[ゲルニカ]]が[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]ドイツ軍によって都市無差別爆撃([[ゲルニカ爆撃]])を受け、ピカソはゲルニカ爆撃を主題に選んだ。この絵画の製作に先立つ数年間、ピカソは女性関係に翻弄されてほとんど絵を描かなかったが、この絵画では熱心に作業を行った<ref>アメリア・アレナス『人はなぜ傑作に夢中になるの? モナリザからゲルニカまで』淡交社、木下哲夫訳、1999年、p.168</ref>。 |
|||
スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結。この絵は[[ロンドン]]などを巡回したのちに[[第二次世界大戦|ヨーロッパの戦火]]を避け、[[1939年]]、[[アメリカ合衆国|米国]]に渡り[[ニューヨーク近代美術館]]に預けられる。第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めるが、「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」とピカソは拒否した。 |
|||
=== 製作 === |
|||
ピカソは[[1973年]]にこの世を去る。フランコ将軍も[[1975年]]に没し、政体の代わったスペインと[[ニューヨーク近代美術館]]との間にこの絵の返還交渉が再び始まった。[[1981年]]になってようやくスペインに返還され、現在は[[マドリード]]の[[ソフィア王妃芸術センター]]に展示されている。 |
|||
==== 習作 ==== |
|||
この絵画では習作を計45枚描くが<ref name=miyashita45>宮下(2008)、p.45</ref>、1枚を除いて日付や制作順を表す番号が添えられ、全45枚が保存されている<ref name=blunt36/>。5月1日の午後に習作の製作を開始し、初日には青色のデッサン用紙に鉛筆で6枚の習作を描いたが、初日の習作にはすでに、傷ついた馬、超然とした牡牛、灯火を持つ女などの主要な要素が登場している<ref name=miyashita4245>宮下(2008)、pp.42-45</ref><ref name=martin8184>マーティン(2003)、pp.81-84</ref>。また、戦争画には戦い、爆弾、殺戮者などがつきものだが<ref name=miyashita5758>宮下(2008)、pp.57-58</ref>、習作から壁画の完成までこのような加害者はついに登場することはなかった<ref name=martin8184/>。5月2日はカトリックの安息日である日曜日であり、普段なら娘のマヤと出かける曜日だったが、マヤのことも忘れて作業に没頭した<ref name=tobu1721>ピカソ(1995)、p.17-21</ref>。この日は苦悶する馬の表情を集中的に描き、それまでの14枚の習作は紙に鉛筆で描いていたが、初めてキャンバスに油絵具で習作を描いた<ref name=miyashita52>宮下(2008)、p.52</ref>。前日の習作では構成要素がほぼ静止していたのに対して、この日の習作では喘いだ馬が頭を折り曲げ、女は驚愕の表情を浮かべるという具合に変化した<ref name=martin8184/>。この日までに構図がほぼ固まったが、ゲルニカ爆撃を直接的に示す要素は何ひとつなく、あくまでも絵画は爆撃の隠喩という意味合いが強かった<ref name=martin8184/>。わずか2日間で絵画製作は大きな進展を見せ、その後の1週間はほとんど何もせずに放置したが<ref name=martin8184/>、メーデーの数日後には「スペイン軍部への嫌悪の意味を込めた『ゲルニカ』を製作中である」とする声明を発表した<ref name=martin11>マーティン(2003)、p.11</ref>。スペイン内戦開戦当初はピカソが反乱軍の味方であるという噂が広まっていたため、自身の立場を明らかにする意味合いもあった<ref name=isahai16>砂盃富男『ゲルニカの悲劇を越えて』沖積舎、2000年、p.16</ref>。 |
|||
5月8日には製作を再開し、幼子の屍を抱いた女が初めて登場した<ref name=martin8587>マーティン(2003)、pp.85-87</ref>。習作の製作中にも内戦の状況は刻々と変化しており、ピカソは共産党系のユマニテ紙で状況を把握しながら習作に修正を加えていった<ref name=martin8587/>。5月9日は日曜日だったが、2週連続でマヤとの外出をキャンセルして作業に臨んだ。この日の習作では女や幼子の位置がたびたび変化し、それぞれの要素に関連性が持たせられ、立体感や明暗の対比なども意識された<ref name=martin8587/>。前週の馬の造形を集中して掘り下げたように、9日には子の屍を抱く女単独の習作がペンで精細に描かれた<ref name=miyashita5758/>。前週はほぼ正方形の白紙が習作に使用されたが、5月8日と9日の2日間は横長の白紙が習作に使用され、縦横比は最終的な壁画の形状に近づいた<ref name=martin8587/>。牡牛の顔は人間に似通い始めて正面に向けられ、腕が千切れたふたりの女が登場した<ref name=martin8587/>。夜の場面であることがはっきりと示され、最終的な作品に登場するすべての人物が出そろった<ref name=arai119>荒井(1991)、p.119</ref>。 |
|||
ピカソは大戦後これと同じ図柄の[[タペストリー]]を3つ制作しており、そのひとつは[[ニューヨーク]]にある[[国際連合]]本部の[[国際連合安全保障理事会]]議場前に展示されている。 |
|||
==== キャンバス ==== |
|||
『ゲルニカ』は、その誕生からその遍路の間も[[反戦]]のシンボルであり続けてきた<ref>[[ベトナム戦争|ベトナム紛争]]末期の[[1974年]]に[[ソンミ村虐殺事件]]がらみで、米国にあったこの絵自身がテロに遭っている。赤いスプレーで落書きされたものだが幸いに[[ワニス]]の上だったので、容易に消すことができた。</ref><ref>スペインに帰ってからは、旧フランコ派とともにバスク独立運動(→[[バスク祖国と自由|ETA]])にからんだテロが懸念された。最初のころは機関銃で武装した兵士に守られての展示であった。その後も一時は防弾ガラス越しの観賞であったが、現在は2mほどの距離から直に見ることができる。</ref><ref>対[[イラク戦争|イラク侵攻]]を控えた[[2003年]][[2月5日]]に[[コリン・パウエル|パウエル]]米国[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]が国連本部で[[プレスリリース|記者会見]]した際に、背景にある『ゲルニカ』のタピストリーがカーテンで隠された。抗議で翌日カーテンが撤去されるという顛末があった。</ref><ref>現在、バスクの[[ビルバオ]]に出来た[[ビルバオ・グッゲンハイム美術館|グッゲンハイム美術館]]と常設されているマドリードの王妃美術館との間で『ゲルニカ』所蔵の論争が起こり、相互にその正当性を主張して決着が注目されている。</ref>。ただ、ピカソが後に[[フランス共産党|共産党]]員になったことや人民戦線との繋がりから、ピカソの義憤の象徴と解釈するのには異論もある。 |
|||
[[File:Picasso qga.jpg|thumb|right|200px|ゲルニカを描いたアトリエの地にある記念額]] |
|||
5月11日の朝、パリのグラン・ゾーギュスタンにあるアトリエで縦349cm×横777cmの[[キャンバス]]に向かいはじめた<ref name=martin8891>マーティン(2003)、pp.88-91</ref>。それまでピカソはモデル以外とは製作過程を共有せず、製作途中の作品を撮影したことはなかったが、助手役を務めた[[ドラ・マール]]は様々な段階でキャンバスの写真を8枚撮影し<ref name=miyashita39>宮下(2008)、p.39</ref>、時には製作中のピカソもカメラに収めた<ref name=martin8891/>。11日に撮られた1枚目の写真では、習作の段階で右端にいた女は左端に移され、右半分には3人の女が加えられ、この日のうちに巨大なキャンバスはある程度要素で埋め尽くされた<ref name=martin8891/>。巨大なキャンバスに向かいながらも、習作を描くことも続けていた。特に女の頭部と牡牛を頻繁に描いており<ref name=miyashita67>宮下(2008)、p.67</ref>、女の頭部は1937年10月26日に完成する『[[泣く女]]』に結実しているとされる。助手はドラひとりだったが、アトリエを訪ねてきたマリー=テレーズとドラが鉢合わせし、口論や小突き合いをしたこともあった<ref name=martin8891/>。5月13日に撮られた2枚目の写真では、太陽に似た形象が出現し、画面が黒く塗られ始めた<ref name=miyashita8283>宮下(2008)、pp.82-83</ref>。 |
|||
==作品== |
|||
画像は外部リンクを参照のこと。 |
|||
5月16日-19日頃に撮られた3枚目の写真では、馬の顔や兵士の向きが変更され<ref name=miyashita8283/>、前掲の人間は女と兵士の屍のみに整理され、戦士の拳の位置にも変化が加えられた<ref name=martin9294>マーティン(2003)、pp.92-94</ref>。当時は「突きあげた拳」がファシストに対する反戦のシンボルとして世界に広まっており<ref name=martin8587/><ref name=arai123>荒井(1991)、p.123</ref>、当初は戦士が右腕を突き上げていたが、政治色を弱めるためか体の横に伸ばされた<ref name=martin9294/><ref name=arai124>荒井(1991)、p.124</ref><ref name=miyashita8487>宮下(2008)、pp.84-87</ref>。太陽のような形象は押しつぶされてアーモンド型になり、牡牛の目の前に三日月に似た形象が出現した<ref name=miyashita8487/>。5月20日-24日頃に撮られた4枚目の写真では、それまで頭を垂れていた馬が頭を起こし、鼻孔を開いて豪気を示した<ref name=martin9294/>。三日月に似た形象は消え去って時間帯が曖昧となり、色や模様のあるコラージュが貼り付けられた<ref name=miyashita8487/>。5月27日頃に撮られた5枚目の写真ではコラージュが取り去られたが、6月1日頃に撮られた6枚目の写真では再びコラージュが試みられた<ref name=miyashita8487/>。6月4日頃に撮られた7枚目の写真では再びコラージュが剥がされ、兵士の人間性が失われて石膏像のようになった<ref name=miyashita8487/>。完成時に撮られた8枚目の写真ではアーモンド型の光源の中に電球が描かれた<ref name=martin9294/><ref name=miyashita89>宮下(2008)、p.89</ref>。 |
|||
1937年の作品は縦3.5m、横7.8mの大作である。[[キャンバス]]に工業用絵具[[ペンキ]]によって描かれた。これが後に絵画としての傷みの要因となるが、大作にしては短時間(1ヶ月弱)で描ききれた(油彩よりも乾きが速く、作業効率も高い上にコストも安い)のである。当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれている。あえて血の色を見せなかったことが格別の効果を与えている。各部分の習作や、後の[[タペストリー]]作品は彩色が施されている。 |
|||
ピカソは絵画をスペイン共和国に無償で寄贈する予定だったが、5月28日には在フランスのスペイン大使館員が来訪し、材料費という名目で15万フランを受け取った<ref name=martin111114/>。製作末期の作業過程は判然としておらず、何度も背景の色調の修正、灰色の上塗り、馬の体への線の書きいれなど細部の修正を行った<ref name=martin9294/>。この際にはドラの手を借りているが、ピカソの作品に本人以外の手が加わったのはこの絵画が初めてだとされる<ref name=martin9294/>。仕上げとして右端に半開きの扉を描いたが、それ以降も微修正を続けた<ref name=martin95>マーティン(2003)、p.95</ref>。6月4日頃には絵画がほぼ完成したとされ、6月6日にはスペイン人詩人のホセ・ベルガミン、スペイン人学者のフアン・ラレーラ、イタリア人彫刻家の[[アルベルト・ジャコメッティ]]、ドイツ人画家の[[マックス・エルンスト]]、フランス人詩人の[[ポール・エリュアール]]と[[アンドレ・ブルトン]]、イギリス人画家のローランド・ペンローズ、彫刻家の[[ヘンリー・ムーア]]がアトリエに来訪し、ドラ以外に初めて絵画を披露した<ref name=martin95/>。 |
|||
死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬などが戦争の悲惨さを訴えている。全体の構成は[[キリストの磔刑]]図をイメージさせる。人間の目をした牛の顔や窓から室内に首を突き出す人物など奇妙な像もあり、さまざまに解釈されている。ピカソが好んで描いてきた[[闘牛]]や[[ミノタウロス]]の神話などとの関連も指摘できる。なお兵士、動物以外の人物はすべて[[女]]として描かれている。 |
|||
=== 公開と批評 === |
|||
『ゲルニカ』完成以降、[[平和運動]]の象徴とされたピカソは、それ故に[[朝鮮戦争]]をテーマとした作品を引き受けた。ちなみに、この作品内の泣き叫ぶ女だけを独立した作品にした『[[泣く女]]』という絵がある。 |
|||
[[File:La Tour Eiffel en 1937 contrast.png|thumb|right|200px|[[パリ万国博覧会 (1937年)|パリ万博]]の会場と[[エッフェル塔]]]] |
|||
絵画がアトリエから万博会場に搬入された日付は不明だが<ref name=arai3336/>、1937年6月末には絵画が運ばれ、入口から見て右手の壁面全体に絵画が掛けられた<ref name=arai3336>荒井(1991)、pp.33-36</ref>。なお、スペイン館の3階には破壊されたゲルニカの写真が展示され、またフランス人詩人のポール・エリュアールによる『ゲルニカの勝利』という詩が掲げられた<ref name=arai3336/>。写実的な絵画を期待していた関係者の中には、より目立たない位置に移すことを計画した人々もいたが、ピカソの名声を考慮して万博閉幕まで入口ホールに掲げられた<ref name=arai126>荒井(1991)、p.126</ref>。7月12日にはスペイン館の完成披露宴でこの絵画が公開された<ref>マーティン(2003)、p.101</ref>。前衛芸術家や一部の知識人を除けば絵画の評判はいま一つであり<ref name=tobu2124/>、「深刻化するスペインの危機を視覚的に表現していない」「ナチスの酷い犯罪の真相をだれにでもすぐにわかるように描いていない」などの批判が聞かれ、新聞などで絵画が取り上げられることはなかった<ref name=martin111114>マーティン(2003)、pp.111-114</ref>。スペイン館の開館がパリ万博自体の開会より遅れたこともあって、公式パンフレットにこの絵画が記載されることもなかった<ref name=tobu2124/>。しかし、スペイン人美術評論家のジャン・カスーはとてもスペイン的な絵画であると評価し、スペイン人詩人のホセ・ベルガミンは祖国の本質を反映して体現していると評価した<ref name=martin111114/>。クリスチャン・ゼルヴォスは『カイエ・ダール』誌の丸々一冊をこの絵画の特集に当て、ドラの記録写真とともに取り上げた<ref name=tobu2124/>。 |
|||
== 裏話 == |
|||
『ゲルニカ』制作の裏には2人の女、ドラ・マールとフランソワーズ・ジローの争いがあったと言われている。『ゲルニカ』の制作過程をドラが写真に記録したことは有名であるが、そこにフランソワーズが嫉妬心を抱き、『ゲルニカ』制作中、ピカソが工業用のペンキまみれで描いている背後で、2人の取っ組み合いがあったという訳である。 |
|||
万博閉幕後の12月にはフランス人建築家の[[ル・コルビュジエ]]が「ピカソの壁画は醜いばかりで、観る者の心を萎えさせる」と、政治的な理由ではなく美学的な理由で絵画を批判した<ref name=martin111114/><ref name=arai148>荒井(1991)、p.148</ref>。閉幕後には展示品の大半が海路で[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]に送られたが、共和国政府は反乱軍の攻撃に対する対応で手一杯であり、[[ジョアン・ミロ]]の絵画、{{仮リンク|アルベルト・サンチェス・ペレス|es|Alberto Sánchez Pérez}}の彫刻など、積み荷となった美術品の多くが紛失した<ref name=martin119123>マーティン(2003)、pp.119-123</ref>。共和国政府の所有物であるはずのこの絵画はなぜかスペインに送られることはなく、[[アレクサンダー・カルダー]]や[[ジュリオ・ゴンザレス]]などパリ在住の他の画家の作品同様に<ref name=arai152159>荒井(1991)、pp.152-159</ref>、パリにあるピカソのアトリエに送り返された<ref name=martin119123/>。1938年1月には[[スカンディナビア半島]]で開催された四人展<ref>現代「フランス」を代表する4人として、[[ジョルジュ・ブラック]]、{{仮リンク|アンリ・ローランス|en|Henri Laurens}}、[[アンリ・マティス]]、ピカソが選ばれた。</ref>に絵画を出展したが<ref name=arai152159/>、ここでは称賛の対象にも侮蔑の対象にもならなかった<ref>マーティン(2003)、p.120</ref>。1938年10月にはロンドンの展覧会に出展し、収益をスペイン共和国政府に送金した<ref name=martin119123/><ref name=arai152159/>。美術評論家のロジャー・ヒンクスはピカソが絵画に知的遊戯や当世風ガラクタを持ち込んだと異議を唱え、美術史家のアンソニー・ブラントはピカソがスペイン内戦の複雑な真相を理解できていないと批判した<ref name=martin119123/><ref name=arai152159/>。スティーヴン・スペンダーや美術批評家の[[ハーバート・リード]]は批判者に反論し、スペンダーはこの絵画が「傑作かもしれない」と指摘した初の人物である<ref>マーティン(2003)、p.127</ref>。この頃には共和国軍の敗戦が濃厚となっており、年を越した1939年3月31日にはフランコ独裁政権が誕生した。 |
|||
この2人は『ゲルニカ』にも描かれており、右上の手を挙げて泣き叫ぶ女はドラ・マール、ランプを持ち覗き込むようにして絵の中心にある女がフランソワーズ・ジローだと言われている。ちなみに、左下に倒れている兵士はピカソ自身であるという。 |
|||
=== ニューヨークでの保管 === |
|||
==注釈== |
|||
[[File:MoMa NY USA 1.jpg|thumb|right|200px|暫定的な保管場所となった[[ニューヨーク近代美術館]](MoMA)]] |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Reflist}} |
|||
1937年12月、アメリカ芸術家会議は共和国支援のために『ゲルニカ展』を企画し、この展覧会は約1年半後に実現した<ref name=tobu2124/>。1939年5月には絵画がアメリカ合衆国に送られ、[[ニューヨーク]]、[[ロサンゼルス]]、[[サンフランシスコ]]、[[シカゴ]]での展覧会に出展された<ref name=martin136141>マーティン(2003)、pp.136-141</ref>。すでにスペイン内戦が終結していたこともあり、アメリカでは内戦の悲劇の象徴ではなく一枚の現代美術作品と捉えられた<ref name=arai152159/>。ゲルニカ展のオープニングには[[エレノア・ルーズヴェルト]](ファーストレディ)、{{仮リンク|サイモン・グッゲンハイム|en|Simon Guggenheim}}(実業家)、[[W・アヴェレル・ハリマン]](政治家)、[[ジョージア・オキーフ]](芸術家)、[[ソーントン・ワイルダー]](劇作家)などが出席した。美術評論家のエリザベス・マコースランドはピカソが孤立から社会との連帯に転じたことを象徴する絵であるとしたが、美術記者のエドウィン・オールデン・ジュエルは現代美術に侵入しつつある異質な意図の典型だとした<ref name=martin136141/>。鑑賞者の賛否は分かれ、スペインの孤児を救援するための収益は少額にとどまった<ref name=martin136141/>。1939年9月には[[第二次世界大戦]]が勃発したため、ピカソは戦場に近いフランスに戻すことを躊躇し、絵画はそのままアメリカ合衆国の[[ニューヨーク近代美術館]](MoMA)に保管された<ref name=martin154155>マーティン(2003)、pp.154-155</ref><ref name=arai152159/>。1940年から1942年にはピカソの回顧展がシカゴを筆頭にアメリカ合衆国内の10か所で開催され、展示作品には必ずこの絵画が含まれた<ref name=martin154155/>。1950-1960年代のスペインでは、独裁政権に対する抵抗の印としてこの絵画の複製を飾る家庭が多く、[[バスク自治州|バスク地方]]では特に顕著だった<ref>マーティン(2003)、p.174</ref>。 |
|||
==関連項目== |
|||
*[[パブロ・ピカソ]] |
|||
1953年には第二次大戦開戦後初めて絵画がヨーロッパに戻され、[[ミラノ]]で開催されたピカソの回顧展に出展され、反戦平和のシンボルとして『朝鮮戦争の虐殺』(1951年)とともに並べられた<ref name=tobu2124>ピカソ(1995)、p.21-24</ref>。1954年にはブラジルの{{仮リンク|サンパウロ近代美術館|en|São Paulo Museum of Modern Art}}の回顧展に、1955年夏には18年ぶりにパリに戻って回顧展に出展された<ref name=martin183184>マーティン(2003)、pp.183-184</ref>。1937年の初公開時とは異なり、回顧展の最重要作品としてパリ市民に称えられた<ref name=martin183184/>。ピカソ自身は1955年の夏中ずっと[[ニース]]に滞在しており、このパリでの回顧展の際も、また死去するまでにも再び絵画を間近で見ることはなかった。1955年秋から1956年には[[ブリュッセル]]と[[ストックホルム]]に加え、ドイツのミュンヘン、ケルン、ハンブルクで展示された。ドイツ国民は主題の奥に潜むドイツ空軍を意識することなく、現代アートの傑作として鑑賞した<ref name=arai162>荒井(1991)、p.162</ref>。1957年には再びアメリカ合衆国に戻ると、3か所で展示された後にニューヨーク近代美術館に戻り、1958年以後には幾度もの修復作業がなされた<ref name=martin183184/>。1968年にはフランコ政権で副首相を務める[[ルイス・カレーロ・ブランコ]]が美術庁長官に手紙を送り、絵画がスペインの財産であること、スペインへの返還をニューヨーク近代美術館に申し立てるよう求めた<ref name=martin173176>マーティン(2003)、pp.173-176</ref>。1969年には美術庁長官が絵画のスペインへの返還を求める声明を出し、フランコ自身がそれを望んでいると付け加えた<ref name=martin173176/>。ニューヨーク近代美術館はピカソの意思を尊重するとし、ピカソ本人は現時点では絵画がニューヨークにとどまること、スペイン人民の自由が確立した時点でスペイン政府に返還することを希望した<ref name=martin173176/>。 |
|||
*[[スペイン内戦]] |
|||
*[[大塚国際美術館]] 「ゲルニカ」の実物大レプリカが置かれている。 |
|||
1960年代後半のアメリカ合衆国で[[ベトナム戦争]]参戦が誤りだったという論調が趨勢を占めると、改めてこの絵画の様式が注目されるようになり、反戦のシンボルとしてデモなどに使用された<ref name=arai165168>荒井(1991)、pp.165-168</ref>。アメリカ軍によるベトナムでの残虐な軍事行動が報じられると、一部の美術家や著作家たちはアメリカ合衆国が絵画を手元に置いておく権利がないと考え、1967年には約400人の美術家・著作家が、1970年には256人の美術家・著作家がピカソに対して絵画の撤去を要請する運動を行った<ref name=arai165168/><ref name=tobu2124/>。 |
|||
=== スペインへの返還 === |
|||
[[File:Museo del Prado (Madrid) 04.jpg|thumb|right|200px|スペインへの返還先となった[[プラド美術館]]]] |
|||
1973年4月8日、ピカソはフランスの[[ムージャン]]にある自宅で死去した。1974年2月にはアーティストの{{仮リンク|トニー・シャフラジ|en|Tony Shafrazi}}が赤色のスプレー缶で落書きを行う事件が起こり、これ以後の展示中は常に絵画のそばに監視員が配備された<ref>マーティン(2003)、p.185</ref>。1975年11月20日にフランコが死去し、[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]が国王に就任して民主化への移行期を迎えると、絵画のスペイン返還を求める声が高まった<ref name=martin193198>マーティン(2003)、pp.193-198</ref>。1977年には民主化後初の総選挙が行われ、その後成立したスペイン国会では絵画の返還を求める決議案が可決された<ref name=martin193198/><ref name=arai184188>荒井(1991)、pp.184-188</ref>。1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めた[[マドリード]]の国立[[プラド美術館]]、絵画の主題の対象地となった[[ゲルニカ]]、ピカソの出生地の[[マラガ]]、ピカソが青年時代を過ごした[[バルセロナ]]などが絵画の受け入れ先に手を挙げた<ref name=martin193198/><ref name=arai184188/>。マドリード、マラガ、ゲルニカの各市長とバルセロナの[[ピカソ美術館 (バルセロナ)|ピカソ美術館]]館長をゲストに行われたテレビの討論番組では、絵画の受け入れ先をめぐって白熱した議論が繰り広げられた<ref name=martin203207>マーティン(2003)、pp.203-207</ref>。 |
|||
政治状況の不安定さに加え、遺産相続者間の係争も問題だったが、1981年にはようやく絵画のスペイン返還が決定した<ref name=martin203207/>。特に[[バスク国 (歴史的な領域)|バスク地方]]ではこの絵画をバスクの受難と解放のシンボルとみなし<ref name=arai193195>荒井(1991)、pp.193-195</ref>、[[バスク自治州]]は熱心に絵画の展示を希望したが、9月10日にマドリードのプラド美術館別館(カソン・デル・ブエン・レティーロ)に運び込まれた<ref name=martin203207/>。スペインでこの絵画は「故国の土を踏んだ最後の亡命者」とされており<ref name=kawanari154>川成洋『スペイン その民族とこころ』悠思社、1992年、p.154</ref>、もっとも保守的でフランコ独裁政権との親和性が強かった{{仮リンク|ABC (新聞)|label=ABC|en|ABC (newspaper)}}紙でさえも、[[社説]]で同様の論調を示した<ref name=tobu911>ピカソ(1995)、p.9-11</ref>。西側諸国では絵画のスペイン帰還が大きく報じられ、日本では[[朝日新聞]]が5段抜きの見出しでもっとも大きく取り上げた<ref name=tobu911/>。絵画の搬入に合わせ、別館は温度・湿度管理装置、爆発物検知装置、ラジオとテレビによる監視システムなど、様々なテロ対策設備が加えられ<ref name=martin201>マーティン(2003)、p.201</ref><ref name=arai193195/>、さらに直接攻撃を防ぐために絵画は[[防弾ガラス]]で覆われた<ref name=martin222227/>。絵画は展示室の中にある密封状態に近い小部屋に設置され、磁気読み取りの保安カードを持った人間のみが小部屋に入ることができた<ref name=martin201/>。プラド美術館のホセ・マヌエル・ピタ・アンドラーデ館長は本館での展示を希望していたため、スペイン政府がこのような形態での保管を支持したことに不満を示し、ただちに館長を辞任した<ref name=martin219220>マーティン(2003)、pp.219-220</ref>。10月25日、ピカソの生誕100周年記念日に一般公開された<ref name=tobu911/>。なお、45枚の習作すべてもプラド美術館で展示された<ref name=ootaka/>。 |
|||
=== ソフィア王妃芸術センターでの展示 === |
|||
[[File:MuseoReinaSofiaMadrid.JPG|thumb|right|200px|現在の保管場所である[[ソフィア王妃芸術センター]]]] |
|||
1992年9月、マドリード市内に国立[[ソフィア王妃芸術センター]]が開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された<ref name=martin219220/>。10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った<ref name=martin219220/>。10年前に絵画の受け入れを希望したバスク地方はこのマドリード市内での移動に不満を示した<ref name=martin219220/>。プラド美術館でもソフィア王妃芸術センターでも絵画の破壊行為が起こったことはなく、1995年には防弾ガラスが取り除かれた<ref name=martin228229>マーティン(2003)、pp.228-229</ref>。同時に展示室内から展示室の側壁に移されたため、鑑賞者が正面から絵画全体を観ることはできなくなったが、展示室内に鑑賞者があふれて身動きが取れなくなることは避けられた<ref name=martin228229/>。絵画の両脇には非武装の警備員が配備されているが、絵画まで4mの距離まで近づくことができる<ref name=martin228229/>。1992年の開館当初のソフィア王妃芸術センターは、この絵画を除けば凡庸なコレクションであるとされたが<ref name=martin219220/>、1997年にはプラド美術館の入館者数を上回り、スペインでもっとも入館者数の多い美術館となった<ref name=martin228229/>。 |
|||
1992年には[[バルセロナオリンピック]]に合わせた文化行事のためにバルセロナが、1995年には[[第二次世界大戦]]終戦50周年にちなんで日本政府が、1996年にはピカソの大回顧展を開催するフランス政府が、1997年にはゲルニカに近い[[ビルバオ]]に開館した[[ビルバオ・グッゲンハイム美術館]]が、2000年には数十年に渡って絵画を管理していたニューヨーク近代美術館が絵画の貸与を希望したが、ソフィア王妃芸術センターはすべての打診を拒否した<ref name=martin222227>マーティン(2003)、pp.222-227</ref>。1995年から1996年にかけて、日本の[[京都国立近代美術館]]と[[東武美術館]]で「ピカソ、愛と苦悩 -『ゲルニカ』への道」と題したピカソ展が行われた<ref name=tobu911/>。この絵画に関連する「闘牛」「磔刑」「ミノタウロス」「女」「アトリエ」の5本柱で構成され、この絵画に関しては原寸大のポラロイド写真複製が展示された<ref name=tobu911/>。1997年10月、グッゲンハイム美術館開館記念式典にフアン・カルロス1世国王夫妻が来賓した折、建物を設計したアメリカ人の[[フランク・ゲーリー]]は、絵画が本来あるべき場所がグッゲンハイム美術館であることを国王夫妻に示唆した<ref name=martin222227/>。 |
|||
== 作品 == |
|||
=== 画面構成 === |
|||
[[パリ万国博覧会 (1937年)|パリ万国博覧会]]のスペイン館を飾る[[壁画]]を意図して製作されたこともあり、絵画は縦349cm×横777cmの横長の大作である<ref name=arai126/>。[[キャンバス]]に工業用絵具[[ペンキ]]で描かれ、ペンキの使用は後に傷みの要因となったが、ペンキは[[油絵具]]よりも乾きが速く作業効率が高いため、1か月弱と大作にしては短期間で描ききることができた。当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれているが、各部分の習作や後のタペストリー作品は彩色が施されている。ピカソはこの絵画の製作と並行して何枚もの習作を描いており、泣き叫ぶ女だけを独立した作品にした『[[泣く女]]』という絵がある。[[第二次世界大戦]]後、ピカソはこの絵画と同じ図柄の[[タペストリー]]を3つ制作しており、そのひとつは[[ニューヨーク]]にある[[国際連合]]本部の[[国際連合安全保障理事会]]議場前に展示されている。日本の徳島県鳴門市にある[[大塚国際美術館]]には絵画の実物大のレプリカが置かれている。 |
|||
中央に大きな長方形、左右に小さな長方形があり、中世の教会に飾られた[[祭壇画|三連祭壇画]]にも似た3枚の長方形を連想させる<ref name=arai126/>。右側の長方形には3人の女が描かれている。左上の女は灯火を手に窓から身を乗り出し、右の女は燃え盛る家から落下(もしくは爆発によって吹き飛ばされて)しており、左下の女は中央に駆け寄っている<ref name=arai127>荒井(1991)、p.127</ref>。左側の長方形には女と牡牛が描かれている。女は子の屍を抱えて泣き叫んでおり、牡牛は女を守るかのように立っている<ref name=arai127/>。中央の長方形には馬と戦士が描かれている。馬は槍で貫かれて頭を上方に突き出し、戦士は折れた剣を握りしめて死んでいる<ref name=arai127/>。中央の長方形は大きな三角形で仕切られており、その頂点には女が持つ灯火が配置されている。三角形の左斜線は馬の首元から馬の右脚や戦士の腕で構成され、逆側の斜線は駆け寄る女の身体で構成されている<ref name=arai127/>。灯火の左脇には目のような形の光源があり、その左下には上方に羽ばたきながら口を開けている鳥が描かれている<ref name=arai128130>荒井(1991)、pp.128-130</ref>。色彩はモノクロームに近いが、無色に近い灰色、紫みがかったり青みがかった灰色など、様々な色合いの灰色が用いられており、光と闇の効果を高めている<ref name=arai128130/>。要素は単純な形態で描かれ、絵画の普遍的性格を強めている<ref name=arai128130/>。惨劇の主要な要素は中央の三角形に集められているが、これは[[ギリシア建築|ギリシア神殿建築]]を連想させる。 |
|||
画面全体には中世の三連祭壇画とギリシア神殿建築というふたつの異なる{{仮リンク|宗教美術|en|Religious art}}の影響を見ることができる<ref name=arai128130/>。左手のテーブルと右手の扉で屋内を連想させるが、同時に右手の屋根瓦や窓で屋外をも連想させている。また、太陽のような光源で昼を連想させるが、女が持つ灯火で夜をも連想させている<ref name=arai128130/>。このような設定で時間や空間の超越を表現しており<ref name=miyashita89/><ref name=miyashita133134/>、画面構成で明らかになった{{仮リンク|宗教画|en|Christian art}}的性格をさらに強めている<ref name=arai128130/>。 |
|||
=== 解釈 === |
|||
; 全体の解釈 |
|||
ピカソ自身は1940年代初頭に、「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。大衆、観客は、馬と牡牛を自分で解釈できるシンボルとして見ようとしている」と述べたが<ref name=arai142>荒井(1991)、p.142</ref>、1945年には画商のジェローム・セックラーに対して「牡牛は[[ファシズム]]ではなく、残忍性と暗黒である。(中略)馬は人民を表す(中略)『ゲルニカ』の壁画は象徴的、寓意的なものである。だから、わたしは馬や牡牛やその他を使ったのだ」と述べた<ref name=tobu2124/><ref name=kawanari153>川成洋『スペイン その民族とこころ』悠思社、1992年、p.153</ref>。ピカソは動物たちの象徴性だけは認めたが、その他の要素については多くを語らず、また具体的な意味合いなどを説明することなく世を去った<ref name=tobu2124/>。美術史家の[[宮下誠]]は、全体として「キリスト教的黙示録のヴィジョン、死と再生の息詰まるドラマ、ヒューマニズム救済の希求、すべてを見抜く神の眼差し、それでも繰り返される不条理な諍いと死、人間の愚かさと賢明さ、人知を超えた明暗、善悪の葛藤の象徴的表現の最良の結果」を描いているとしている<ref name=miyashita135>宮下(2008)、p.135</ref>。 |
|||
; 牡牛 |
|||
現代絵画において、この絵画ほど様々な解釈が示された絵画は稀である<ref name=arai128130/>。個々の要素が善悪のどちらを表すのかを判断するのは難しく、特に牡牛(ミーノータウロス)は善悪それぞれに解釈されてきた<ref name=arai131135>荒井(1991)、pp.131-135</ref>。[[ギリシア神話]]の怪物である[[ミーノータウロス]]は暴力、好色、平和など様々な象徴であり、ピカソは1935年から1937年にかけてミーノータウロスを集中的に描いている<ref name=miyashita4245/>。ピカソは大の[[闘牛]]好きであったことから、牡牛を[[スペイン]]の象徴とする解釈もあり、災厄から遠ざかろうとするピカソ自身であるとする解釈もある<ref name=miyashita128132>宮下(2008)、pp.128-132</ref>。芸術心理学者の[[ルドルフ・アルンハイム]]は、牡牛の体の向きの変更を「真に天才的な発明」とし、苦悩や悲嘆を画面外に伝える役割を持っているとみなした<ref name=arai124>荒井(1991)、p.124</ref>。アルンハイムは牡牛の尻を[[イベリア半島]]の形になぞらえ、スペインを表すシンボルであるとした<ref name=arai124/>。しかし、カーラ・ゴットリープ(Carla Gottlieb)はアルンハイムの解釈を批判し、牡牛が女の存在に気づいていないかのように冷淡であることに疑問を呈し、牡牛と馬のシンボル性について問題を提起した<ref name=arai131135/>。ゴットリープは、無表情で行動を起こさず、惨劇に加わることをしない牡牛を、牡牛のイメージを持ち、かつスペイン内戦に対して不干渉政策を取る[[フランス]]の隠喩であるとした<ref name=arai131135/>。 |
|||
; 馬、灯火を持つ女、兵士 |
|||
瀕死の馬はゲルニカ爆撃の犠牲者や共和国政府であるとする解釈が一般的であるが、より普遍的には瀕死のヒューマニズムであり、フランコの[[ファシズム]]の崩壊であるとする研究者もいる<ref name=miyashita128132/>。西洋絵画は伝統的に蝋燭や灯火を[[真理]]の象徴として描いており、この絵画でも灯火を持つ女は真理を表すことがほぼ確実だが<ref name=miyashita4245/>、[[社会主義]]の象徴であるとする研究者もいる<ref name=miyashita128132/>。ゴットリープは灯火の女が「善、正義および理性を意味する光明の運び手」とし、小さな灯火が共和国軍兵士であると解釈しているが、絵画と現実世界の政治を強く結びつけていることには批判もある<ref name=arai131135/>。死んだ兵士はファシズムの犠牲となった戦士とみるのが単純だが、スペイン市民の代表とも考えられる<ref name=miyashita128132/>。 |
|||
; 子の屍を抱く女、駆け寄る女、落ちる女 |
|||
子の屍を抱く女はゲルニカ爆撃の被害者であるとされる<ref name=arai131135/>。子の屍を抱く女は西洋絵画の伝統的主題である[[ピエタ]](磔刑に処されたキリストを抱くマリア)でもあり<ref name=miyashita5758/>、その姿勢はピカソが1929年から1932年にかけて描いた[[マグダラのマリア]]の姿勢にも似通っている<ref name=miyashita128132/>。[[ニコラ・プッサン]]などが書いた伝統的主題である[[幼児虐殺|嬰児虐殺]]の影響を見る研究者もいる<ref name=miyashita128132/>。右手から中央に駆け寄る女は、屍を抱く女を慰めようとする何かであるとされている<ref name=arai131135/>。[[ソビエト連邦]]はスペインから遠距離にありながら、即座に共和国政府を支援した唯一の国であり、駆け寄る女はソビエト連邦の隠喩であるとされることが多い<ref name=arai131135/>。建物から落ちる女はピカソ自身、また[[キリスト]]の象徴であるとされる<ref name=miyashita133134/>。 |
|||
; 光源、鳥 |
|||
内部に電球が描かれた光源は神の眼、すべてを明るみに出す証人であるとされる<ref name=miyashita133134>宮下(2008)、pp.133-134</ref>。光源の内部には現代を意識させる唯一の要素である電球が描かれており、現代のテクノロジーと爆撃の惨劇の関連を示唆している可能性がある<ref name=arai128130/>。資本主義国家またはキリスト教的救済の希望を欠いた世界とする研究者もいる<ref name=miyashita133134/>。机の上の鳥は精霊や平和の象徴であるとされる<ref name=miyashita133134/>。 |
|||
=== 影響 === |
|||
一般の人々以外にも、この絵画は多くの芸術家に影響を与えている。戦後のフランスに起こった[[アンフォルメル]]の画家たち、[[ピエール・スーラージュ]]、{{仮リンク|ジョルジュ・マテュー|en|Georges Mathieu}}などはこの絵画の規模や多義的な性格に影響を受けたとされている<ref name=miyashita102103>宮下(2008)、pp.102-103</ref>。また、[[ニューヨーク近代美術館]]で展示されていた時期には、[[スチュアート・デイヴィス]]、{{仮リンク|ロバート・マザーウェル|en|Robert Motherwell}}、[[アーシル・ゴーキー]]、[[ウィレム・デ・クーニング]]、[[ジャクソン・ポロック]]など、アメリカ合衆国の[[抽象表現主義]]画家の多くがこの絵画に影響を受けたとされる<ref>マーティン(2003)、p.161</ref><ref name=miyashita5758/>。1980年代にはドイツの[[アンゼルム・キーファー]]が描いた歴史画、イギリスの[[ギルバート・アンド・ジョージ]]の作品、1990年代には[[ビル・ヴィオラ]]の三連画などにこの絵画の影響がみられる<ref name=miyashita102103/>。2000年代にはドイツの{{仮リンク|ネオ・ラオホ|en|Neo Rauch}}などにもこの絵画の影響が見られるとされる<ref name=miyashita102103/>。影響を受けた日本人画家では[[岡本太郎]]が代表的だが、[[藤田嗣治]]の『アッツ島の玉砕』などにもこの絵画の影響がみられる<ref name=miyashita102103/>。 |
|||
== 脚注 == |
|||
{{reflist|3}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* 荒井信一『ゲルニカ物語 ピカソと現代史』岩波書店、1991年 |
|||
* カールステン=ペーター・ヴァルンケ、インゴ・F・ヴァルター『ピカソ』(全2巻)タッシェン・ジャパン、2007年 |
|||
* 大高保二郎『ピカソ美術館 第4巻 戦争と平和』集英社、1992年 |
|||
* アンソニー・ブラント『ピカソ <ゲルニカ>の誕生』荒井信一訳、みすず書房、1981年 |
|||
* ラッセル・マーティン『ピカソの戦争 ゲルニカの真実』木下哲夫訳、白水社、2003年 |
|||
* 宮下誠『ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』光文社新書、2008年 |
|||
* ピカソ(画)『PICASSO 愛と苦悩『ゲルニカ』への道』ジェラール・レニエ/マリア・テレサ・オカーニャ/神吉敬三/大高保二郎監修、東武美術館、1995年(1995年-1996年の京都国立近代美術館・東武美術館におけるピカソ展のカタログ) |
|||
== 外部リンク == |
|||
{{commonscat|Gernika (Pablo Picasso)}} |
|||
* [http://www.elrelojdesol.com/zoomable-paintings/pablo-ruiz-picasso/index2.htm Guernica – Zoomable version.] |
|||
* [http://www.aestheticrealism.org/GUERNICA_dk.htm Art Opposes Injustice! – Picasso's Guernica: For Life] by Dorothy Koppelman |
|||
{{DEFAULTSORT:けるにか}} |
{{DEFAULTSORT:けるにか}} |
||
60行目: | 122行目: | ||
[[Category:戦略爆撃]] |
[[Category:戦略爆撃]] |
||
[[Category:戦争画]] |
[[Category:戦争画]] |
||
<!--以下は大幅加筆前の文章の一部です。独自研究くさかったり、出典がなかったり、単なるトリビアにすぎなかったりしますが、出典が示された場合には有用な文章もあるため、コメントアウトで残します。--> |
|||
<!--スペインに帰ってからは、旧フランコ派とともにバスク独立運動(→[[バスク祖国と自由|ETA]])にからんだテロが懸念された。最初のころは機関銃で武装した兵士に守られての展示であった。その後も一時は防弾ガラス越しの観賞であったが、現在は2mほどの距離から直に見ることができる。2003年2月5日、[[イラク戦争|イラク侵攻]]を控えたアメリカ合衆国の[[コリン・パウエル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]が国連本部で記者会見した際に、背景にある『ゲルニカ』のタペストリーはカーテンで隠された。このことに対する抗議の意味を込めて、翌日にカーテンが撤去される事件があった。バスク自治州の[[ビルバオ]]に建設された[[ビルバオ・グッゲンハイム美術館]]と常設されているマドリードのソフィア王妃芸術センターとの間で『ゲルニカ』所蔵論争が起こり、相互にその正当性を主張して決着が注目されている。ただ、ピカソが後に[[フランス共産党|共産党]]員になったことや人民戦線との繋がりから、ピカソの義憤の象徴と解釈するのには異論もある。--> |
|||
<!--『ゲルニカ』制作の裏には2人の女、[[ドラ・マール]]と[[フランソワーズ・ジロー]]の争いがあったと言われている。『ゲルニカ』の制作過程をドラが写真に記録したことにフランソワーズが嫉妬心を抱き、『ゲルニカ』制作中、ピカソが工業用のペンキまみれで描いている背後で、2人の取っ組み合いがあったという訳である。この2人は『ゲルニカ』にも描かれており、右上の手を挙げて泣き叫ぶ女はドラ・マール、ランプを持ち覗き込むようにして絵の中心にある女がフランソワーズ・ジローだと言われている。ちなみに、左下に倒れている兵士はピカソ自身であるという。--> |
2014年11月26日 (水) 01:19時点における版
作者 | パブロ・ピカソ |
---|---|
製作年 | 1937年 |
種類 | 油彩、キャンバス |
寸法 | 349 cm × 777 cm (137 in × 306 in) |
所蔵 | ソフィア王妃芸術センター、 マドリード州・マドリード |
画像外部リンク | |
---|---|
『ゲルニカ』の画像 |
『ゲルニカ』(Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られたタペストリー作品である。ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。20世紀を象徴する絵画であるとされ[1]、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある[2]。発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。
経過
ゲルニカ爆撃
ピカソは共和国政府を支持しており、1937年1月にはフランシスコ・フランコを風刺する内容の詩『フランコの夢と嘘』を著し、後には詩に添える銅版画を製作していた[3]。この銅版画でフランコは怪物の姿として描かれており、売られた絵葉書の収益は共和国政府の救援資金となった[4]。スペイン内戦中の1937年1月、共和国政府は在フランスのスペイン大使館を経由してピカソにパリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画の製作依頼を行った[5][6]。ピカソは依頼に対して明確な返事をしなかったが、スペイン内戦とは無関係のシュルレアリスム風の壁画を制作する予定だったとされている[7]。1980年頃にパリのピカソ美術館で発見されたスケッチによれば、この構想は画家やモデルが登場する個人的な世界の描写だったが、後の『ゲルニカ』に含まれる太陽や女のイメージは既に存在していた[4]。4月半ばにはこの個人的世界の絵画に対して、鉛筆とインクによる素描を仕上げていたが、1937年4月26日にビスカヤ県のゲルニカがナチスドイツ軍によって都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を受け、ピカソはゲルニカ爆撃を主題に選んだ。この絵画の製作に先立つ数年間、ピカソは女性関係に翻弄されてほとんど絵を描かなかったが、この絵画では熱心に作業を行った[8]。
製作
習作
この絵画では習作を計45枚描くが[9]、1枚を除いて日付や制作順を表す番号が添えられ、全45枚が保存されている[2]。5月1日の午後に習作の製作を開始し、初日には青色のデッサン用紙に鉛筆で6枚の習作を描いたが、初日の習作にはすでに、傷ついた馬、超然とした牡牛、灯火を持つ女などの主要な要素が登場している[10][11]。また、戦争画には戦い、爆弾、殺戮者などがつきものだが[12]、習作から壁画の完成までこのような加害者はついに登場することはなかった[11]。5月2日はカトリックの安息日である日曜日であり、普段なら娘のマヤと出かける曜日だったが、マヤのことも忘れて作業に没頭した[13]。この日は苦悶する馬の表情を集中的に描き、それまでの14枚の習作は紙に鉛筆で描いていたが、初めてキャンバスに油絵具で習作を描いた[14]。前日の習作では構成要素がほぼ静止していたのに対して、この日の習作では喘いだ馬が頭を折り曲げ、女は驚愕の表情を浮かべるという具合に変化した[11]。この日までに構図がほぼ固まったが、ゲルニカ爆撃を直接的に示す要素は何ひとつなく、あくまでも絵画は爆撃の隠喩という意味合いが強かった[11]。わずか2日間で絵画製作は大きな進展を見せ、その後の1週間はほとんど何もせずに放置したが[11]、メーデーの数日後には「スペイン軍部への嫌悪の意味を込めた『ゲルニカ』を製作中である」とする声明を発表した[15]。スペイン内戦開戦当初はピカソが反乱軍の味方であるという噂が広まっていたため、自身の立場を明らかにする意味合いもあった[16]。
5月8日には製作を再開し、幼子の屍を抱いた女が初めて登場した[17]。習作の製作中にも内戦の状況は刻々と変化しており、ピカソは共産党系のユマニテ紙で状況を把握しながら習作に修正を加えていった[17]。5月9日は日曜日だったが、2週連続でマヤとの外出をキャンセルして作業に臨んだ。この日の習作では女や幼子の位置がたびたび変化し、それぞれの要素に関連性が持たせられ、立体感や明暗の対比なども意識された[17]。前週の馬の造形を集中して掘り下げたように、9日には子の屍を抱く女単独の習作がペンで精細に描かれた[12]。前週はほぼ正方形の白紙が習作に使用されたが、5月8日と9日の2日間は横長の白紙が習作に使用され、縦横比は最終的な壁画の形状に近づいた[17]。牡牛の顔は人間に似通い始めて正面に向けられ、腕が千切れたふたりの女が登場した[17]。夜の場面であることがはっきりと示され、最終的な作品に登場するすべての人物が出そろった[18]。
キャンバス
5月11日の朝、パリのグラン・ゾーギュスタンにあるアトリエで縦349cm×横777cmのキャンバスに向かいはじめた[19]。それまでピカソはモデル以外とは製作過程を共有せず、製作途中の作品を撮影したことはなかったが、助手役を務めたドラ・マールは様々な段階でキャンバスの写真を8枚撮影し[20]、時には製作中のピカソもカメラに収めた[19]。11日に撮られた1枚目の写真では、習作の段階で右端にいた女は左端に移され、右半分には3人の女が加えられ、この日のうちに巨大なキャンバスはある程度要素で埋め尽くされた[19]。巨大なキャンバスに向かいながらも、習作を描くことも続けていた。特に女の頭部と牡牛を頻繁に描いており[21]、女の頭部は1937年10月26日に完成する『泣く女』に結実しているとされる。助手はドラひとりだったが、アトリエを訪ねてきたマリー=テレーズとドラが鉢合わせし、口論や小突き合いをしたこともあった[19]。5月13日に撮られた2枚目の写真では、太陽に似た形象が出現し、画面が黒く塗られ始めた[22]。
5月16日-19日頃に撮られた3枚目の写真では、馬の顔や兵士の向きが変更され[22]、前掲の人間は女と兵士の屍のみに整理され、戦士の拳の位置にも変化が加えられた[23]。当時は「突きあげた拳」がファシストに対する反戦のシンボルとして世界に広まっており[17][24]、当初は戦士が右腕を突き上げていたが、政治色を弱めるためか体の横に伸ばされた[23][25][26]。太陽のような形象は押しつぶされてアーモンド型になり、牡牛の目の前に三日月に似た形象が出現した[26]。5月20日-24日頃に撮られた4枚目の写真では、それまで頭を垂れていた馬が頭を起こし、鼻孔を開いて豪気を示した[23]。三日月に似た形象は消え去って時間帯が曖昧となり、色や模様のあるコラージュが貼り付けられた[26]。5月27日頃に撮られた5枚目の写真ではコラージュが取り去られたが、6月1日頃に撮られた6枚目の写真では再びコラージュが試みられた[26]。6月4日頃に撮られた7枚目の写真では再びコラージュが剥がされ、兵士の人間性が失われて石膏像のようになった[26]。完成時に撮られた8枚目の写真ではアーモンド型の光源の中に電球が描かれた[23][27]。
ピカソは絵画をスペイン共和国に無償で寄贈する予定だったが、5月28日には在フランスのスペイン大使館員が来訪し、材料費という名目で15万フランを受け取った[28]。製作末期の作業過程は判然としておらず、何度も背景の色調の修正、灰色の上塗り、馬の体への線の書きいれなど細部の修正を行った[23]。この際にはドラの手を借りているが、ピカソの作品に本人以外の手が加わったのはこの絵画が初めてだとされる[23]。仕上げとして右端に半開きの扉を描いたが、それ以降も微修正を続けた[29]。6月4日頃には絵画がほぼ完成したとされ、6月6日にはスペイン人詩人のホセ・ベルガミン、スペイン人学者のフアン・ラレーラ、イタリア人彫刻家のアルベルト・ジャコメッティ、ドイツ人画家のマックス・エルンスト、フランス人詩人のポール・エリュアールとアンドレ・ブルトン、イギリス人画家のローランド・ペンローズ、彫刻家のヘンリー・ムーアがアトリエに来訪し、ドラ以外に初めて絵画を披露した[29]。
公開と批評
絵画がアトリエから万博会場に搬入された日付は不明だが[6]、1937年6月末には絵画が運ばれ、入口から見て右手の壁面全体に絵画が掛けられた[6]。なお、スペイン館の3階には破壊されたゲルニカの写真が展示され、またフランス人詩人のポール・エリュアールによる『ゲルニカの勝利』という詩が掲げられた[6]。写実的な絵画を期待していた関係者の中には、より目立たない位置に移すことを計画した人々もいたが、ピカソの名声を考慮して万博閉幕まで入口ホールに掲げられた[30]。7月12日にはスペイン館の完成披露宴でこの絵画が公開された[31]。前衛芸術家や一部の知識人を除けば絵画の評判はいま一つであり[32]、「深刻化するスペインの危機を視覚的に表現していない」「ナチスの酷い犯罪の真相をだれにでもすぐにわかるように描いていない」などの批判が聞かれ、新聞などで絵画が取り上げられることはなかった[28]。スペイン館の開館がパリ万博自体の開会より遅れたこともあって、公式パンフレットにこの絵画が記載されることもなかった[32]。しかし、スペイン人美術評論家のジャン・カスーはとてもスペイン的な絵画であると評価し、スペイン人詩人のホセ・ベルガミンは祖国の本質を反映して体現していると評価した[28]。クリスチャン・ゼルヴォスは『カイエ・ダール』誌の丸々一冊をこの絵画の特集に当て、ドラの記録写真とともに取り上げた[32]。
万博閉幕後の12月にはフランス人建築家のル・コルビュジエが「ピカソの壁画は醜いばかりで、観る者の心を萎えさせる」と、政治的な理由ではなく美学的な理由で絵画を批判した[28][33]。閉幕後には展示品の大半が海路でバレンシアに送られたが、共和国政府は反乱軍の攻撃に対する対応で手一杯であり、ジョアン・ミロの絵画、アルベルト・サンチェス・ペレスの彫刻など、積み荷となった美術品の多くが紛失した[34]。共和国政府の所有物であるはずのこの絵画はなぜかスペインに送られることはなく、アレクサンダー・カルダーやジュリオ・ゴンザレスなどパリ在住の他の画家の作品同様に[35]、パリにあるピカソのアトリエに送り返された[34]。1938年1月にはスカンディナビア半島で開催された四人展[36]に絵画を出展したが[35]、ここでは称賛の対象にも侮蔑の対象にもならなかった[37]。1938年10月にはロンドンの展覧会に出展し、収益をスペイン共和国政府に送金した[34][35]。美術評論家のロジャー・ヒンクスはピカソが絵画に知的遊戯や当世風ガラクタを持ち込んだと異議を唱え、美術史家のアンソニー・ブラントはピカソがスペイン内戦の複雑な真相を理解できていないと批判した[34][35]。スティーヴン・スペンダーや美術批評家のハーバート・リードは批判者に反論し、スペンダーはこの絵画が「傑作かもしれない」と指摘した初の人物である[38]。この頃には共和国軍の敗戦が濃厚となっており、年を越した1939年3月31日にはフランコ独裁政権が誕生した。
ニューヨークでの保管
1937年12月、アメリカ芸術家会議は共和国支援のために『ゲルニカ展』を企画し、この展覧会は約1年半後に実現した[32]。1939年5月には絵画がアメリカ合衆国に送られ、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴでの展覧会に出展された[39]。すでにスペイン内戦が終結していたこともあり、アメリカでは内戦の悲劇の象徴ではなく一枚の現代美術作品と捉えられた[35]。ゲルニカ展のオープニングにはエレノア・ルーズヴェルト(ファーストレディ)、サイモン・グッゲンハイム(実業家)、W・アヴェレル・ハリマン(政治家)、ジョージア・オキーフ(芸術家)、ソーントン・ワイルダー(劇作家)などが出席した。美術評論家のエリザベス・マコースランドはピカソが孤立から社会との連帯に転じたことを象徴する絵であるとしたが、美術記者のエドウィン・オールデン・ジュエルは現代美術に侵入しつつある異質な意図の典型だとした[39]。鑑賞者の賛否は分かれ、スペインの孤児を救援するための収益は少額にとどまった[39]。1939年9月には第二次世界大戦が勃発したため、ピカソは戦場に近いフランスに戻すことを躊躇し、絵画はそのままアメリカ合衆国のニューヨーク近代美術館(MoMA)に保管された[40][35]。1940年から1942年にはピカソの回顧展がシカゴを筆頭にアメリカ合衆国内の10か所で開催され、展示作品には必ずこの絵画が含まれた[40]。1950-1960年代のスペインでは、独裁政権に対する抵抗の印としてこの絵画の複製を飾る家庭が多く、バスク地方では特に顕著だった[41]。
1953年には第二次大戦開戦後初めて絵画がヨーロッパに戻され、ミラノで開催されたピカソの回顧展に出展され、反戦平和のシンボルとして『朝鮮戦争の虐殺』(1951年)とともに並べられた[32]。1954年にはブラジルのサンパウロ近代美術館の回顧展に、1955年夏には18年ぶりにパリに戻って回顧展に出展された[42]。1937年の初公開時とは異なり、回顧展の最重要作品としてパリ市民に称えられた[42]。ピカソ自身は1955年の夏中ずっとニースに滞在しており、このパリでの回顧展の際も、また死去するまでにも再び絵画を間近で見ることはなかった。1955年秋から1956年にはブリュッセルとストックホルムに加え、ドイツのミュンヘン、ケルン、ハンブルクで展示された。ドイツ国民は主題の奥に潜むドイツ空軍を意識することなく、現代アートの傑作として鑑賞した[43]。1957年には再びアメリカ合衆国に戻ると、3か所で展示された後にニューヨーク近代美術館に戻り、1958年以後には幾度もの修復作業がなされた[42]。1968年にはフランコ政権で副首相を務めるルイス・カレーロ・ブランコが美術庁長官に手紙を送り、絵画がスペインの財産であること、スペインへの返還をニューヨーク近代美術館に申し立てるよう求めた[44]。1969年には美術庁長官が絵画のスペインへの返還を求める声明を出し、フランコ自身がそれを望んでいると付け加えた[44]。ニューヨーク近代美術館はピカソの意思を尊重するとし、ピカソ本人は現時点では絵画がニューヨークにとどまること、スペイン人民の自由が確立した時点でスペイン政府に返還することを希望した[44]。
1960年代後半のアメリカ合衆国でベトナム戦争参戦が誤りだったという論調が趨勢を占めると、改めてこの絵画の様式が注目されるようになり、反戦のシンボルとしてデモなどに使用された[45]。アメリカ軍によるベトナムでの残虐な軍事行動が報じられると、一部の美術家や著作家たちはアメリカ合衆国が絵画を手元に置いておく権利がないと考え、1967年には約400人の美術家・著作家が、1970年には256人の美術家・著作家がピカソに対して絵画の撤去を要請する運動を行った[45][32]。
スペインへの返還
1973年4月8日、ピカソはフランスのムージャンにある自宅で死去した。1974年2月にはアーティストのトニー・シャフラジが赤色のスプレー缶で落書きを行う事件が起こり、これ以後の展示中は常に絵画のそばに監視員が配備された[46]。1975年11月20日にフランコが死去し、フアン・カルロス1世が国王に就任して民主化への移行期を迎えると、絵画のスペイン返還を求める声が高まった[47]。1977年には民主化後初の総選挙が行われ、その後成立したスペイン国会では絵画の返還を求める決議案が可決された[47][48]。1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館、絵画の主題の対象地となったゲルニカ、ピカソの出生地のマラガ、ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先に手を挙げた[47][48]。マドリード、マラガ、ゲルニカの各市長とバルセロナのピカソ美術館館長をゲストに行われたテレビの討論番組では、絵画の受け入れ先をめぐって白熱した議論が繰り広げられた[49]。
政治状況の不安定さに加え、遺産相続者間の係争も問題だったが、1981年にはようやく絵画のスペイン返還が決定した[49]。特にバスク地方ではこの絵画をバスクの受難と解放のシンボルとみなし[50]、バスク自治州は熱心に絵画の展示を希望したが、9月10日にマドリードのプラド美術館別館(カソン・デル・ブエン・レティーロ)に運び込まれた[49]。スペインでこの絵画は「故国の土を踏んだ最後の亡命者」とされており[51]、もっとも保守的でフランコ独裁政権との親和性が強かったABC紙でさえも、社説で同様の論調を示した[52]。西側諸国では絵画のスペイン帰還が大きく報じられ、日本では朝日新聞が5段抜きの見出しでもっとも大きく取り上げた[52]。絵画の搬入に合わせ、別館は温度・湿度管理装置、爆発物検知装置、ラジオとテレビによる監視システムなど、様々なテロ対策設備が加えられ[53][50]、さらに直接攻撃を防ぐために絵画は防弾ガラスで覆われた[54]。絵画は展示室の中にある密封状態に近い小部屋に設置され、磁気読み取りの保安カードを持った人間のみが小部屋に入ることができた[53]。プラド美術館のホセ・マヌエル・ピタ・アンドラーデ館長は本館での展示を希望していたため、スペイン政府がこのような形態での保管を支持したことに不満を示し、ただちに館長を辞任した[55]。10月25日、ピカソの生誕100周年記念日に一般公開された[52]。なお、45枚の習作すべてもプラド美術館で展示された[1]。
ソフィア王妃芸術センターでの展示
1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された[55]。10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った[55]。10年前に絵画の受け入れを希望したバスク地方はこのマドリード市内での移動に不満を示した[55]。プラド美術館でもソフィア王妃芸術センターでも絵画の破壊行為が起こったことはなく、1995年には防弾ガラスが取り除かれた[56]。同時に展示室内から展示室の側壁に移されたため、鑑賞者が正面から絵画全体を観ることはできなくなったが、展示室内に鑑賞者があふれて身動きが取れなくなることは避けられた[56]。絵画の両脇には非武装の警備員が配備されているが、絵画まで4mの距離まで近づくことができる[56]。1992年の開館当初のソフィア王妃芸術センターは、この絵画を除けば凡庸なコレクションであるとされたが[55]、1997年にはプラド美術館の入館者数を上回り、スペインでもっとも入館者数の多い美術館となった[56]。
1992年にはバルセロナオリンピックに合わせた文化行事のためにバルセロナが、1995年には第二次世界大戦終戦50周年にちなんで日本政府が、1996年にはピカソの大回顧展を開催するフランス政府が、1997年にはゲルニカに近いビルバオに開館したビルバオ・グッゲンハイム美術館が、2000年には数十年に渡って絵画を管理していたニューヨーク近代美術館が絵画の貸与を希望したが、ソフィア王妃芸術センターはすべての打診を拒否した[54]。1995年から1996年にかけて、日本の京都国立近代美術館と東武美術館で「ピカソ、愛と苦悩 -『ゲルニカ』への道」と題したピカソ展が行われた[52]。この絵画に関連する「闘牛」「磔刑」「ミノタウロス」「女」「アトリエ」の5本柱で構成され、この絵画に関しては原寸大のポラロイド写真複製が展示された[52]。1997年10月、グッゲンハイム美術館開館記念式典にフアン・カルロス1世国王夫妻が来賓した折、建物を設計したアメリカ人のフランク・ゲーリーは、絵画が本来あるべき場所がグッゲンハイム美術館であることを国王夫妻に示唆した[54]。
作品
画面構成
パリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画を意図して製作されたこともあり、絵画は縦349cm×横777cmの横長の大作である[30]。キャンバスに工業用絵具ペンキで描かれ、ペンキの使用は後に傷みの要因となったが、ペンキは油絵具よりも乾きが速く作業効率が高いため、1か月弱と大作にしては短期間で描ききることができた。当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれているが、各部分の習作や後のタペストリー作品は彩色が施されている。ピカソはこの絵画の製作と並行して何枚もの習作を描いており、泣き叫ぶ女だけを独立した作品にした『泣く女』という絵がある。第二次世界大戦後、ピカソはこの絵画と同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、そのひとつはニューヨークにある国際連合本部の国際連合安全保障理事会議場前に展示されている。日本の徳島県鳴門市にある大塚国際美術館には絵画の実物大のレプリカが置かれている。
中央に大きな長方形、左右に小さな長方形があり、中世の教会に飾られた三連祭壇画にも似た3枚の長方形を連想させる[30]。右側の長方形には3人の女が描かれている。左上の女は灯火を手に窓から身を乗り出し、右の女は燃え盛る家から落下(もしくは爆発によって吹き飛ばされて)しており、左下の女は中央に駆け寄っている[57]。左側の長方形には女と牡牛が描かれている。女は子の屍を抱えて泣き叫んでおり、牡牛は女を守るかのように立っている[57]。中央の長方形には馬と戦士が描かれている。馬は槍で貫かれて頭を上方に突き出し、戦士は折れた剣を握りしめて死んでいる[57]。中央の長方形は大きな三角形で仕切られており、その頂点には女が持つ灯火が配置されている。三角形の左斜線は馬の首元から馬の右脚や戦士の腕で構成され、逆側の斜線は駆け寄る女の身体で構成されている[57]。灯火の左脇には目のような形の光源があり、その左下には上方に羽ばたきながら口を開けている鳥が描かれている[58]。色彩はモノクロームに近いが、無色に近い灰色、紫みがかったり青みがかった灰色など、様々な色合いの灰色が用いられており、光と闇の効果を高めている[58]。要素は単純な形態で描かれ、絵画の普遍的性格を強めている[58]。惨劇の主要な要素は中央の三角形に集められているが、これはギリシア神殿建築を連想させる。
画面全体には中世の三連祭壇画とギリシア神殿建築というふたつの異なる宗教美術の影響を見ることができる[58]。左手のテーブルと右手の扉で屋内を連想させるが、同時に右手の屋根瓦や窓で屋外をも連想させている。また、太陽のような光源で昼を連想させるが、女が持つ灯火で夜をも連想させている[58]。このような設定で時間や空間の超越を表現しており[27][59]、画面構成で明らかになった宗教画的性格をさらに強めている[58]。
解釈
- 全体の解釈
ピカソ自身は1940年代初頭に、「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。大衆、観客は、馬と牡牛を自分で解釈できるシンボルとして見ようとしている」と述べたが[60]、1945年には画商のジェローム・セックラーに対して「牡牛はファシズムではなく、残忍性と暗黒である。(中略)馬は人民を表す(中略)『ゲルニカ』の壁画は象徴的、寓意的なものである。だから、わたしは馬や牡牛やその他を使ったのだ」と述べた[32][61]。ピカソは動物たちの象徴性だけは認めたが、その他の要素については多くを語らず、また具体的な意味合いなどを説明することなく世を去った[32]。美術史家の宮下誠は、全体として「キリスト教的黙示録のヴィジョン、死と再生の息詰まるドラマ、ヒューマニズム救済の希求、すべてを見抜く神の眼差し、それでも繰り返される不条理な諍いと死、人間の愚かさと賢明さ、人知を超えた明暗、善悪の葛藤の象徴的表現の最良の結果」を描いているとしている[62]。
- 牡牛
現代絵画において、この絵画ほど様々な解釈が示された絵画は稀である[58]。個々の要素が善悪のどちらを表すのかを判断するのは難しく、特に牡牛(ミーノータウロス)は善悪それぞれに解釈されてきた[63]。ギリシア神話の怪物であるミーノータウロスは暴力、好色、平和など様々な象徴であり、ピカソは1935年から1937年にかけてミーノータウロスを集中的に描いている[10]。ピカソは大の闘牛好きであったことから、牡牛をスペインの象徴とする解釈もあり、災厄から遠ざかろうとするピカソ自身であるとする解釈もある[64]。芸術心理学者のルドルフ・アルンハイムは、牡牛の体の向きの変更を「真に天才的な発明」とし、苦悩や悲嘆を画面外に伝える役割を持っているとみなした[25]。アルンハイムは牡牛の尻をイベリア半島の形になぞらえ、スペインを表すシンボルであるとした[25]。しかし、カーラ・ゴットリープ(Carla Gottlieb)はアルンハイムの解釈を批判し、牡牛が女の存在に気づいていないかのように冷淡であることに疑問を呈し、牡牛と馬のシンボル性について問題を提起した[63]。ゴットリープは、無表情で行動を起こさず、惨劇に加わることをしない牡牛を、牡牛のイメージを持ち、かつスペイン内戦に対して不干渉政策を取るフランスの隠喩であるとした[63]。
- 馬、灯火を持つ女、兵士
瀕死の馬はゲルニカ爆撃の犠牲者や共和国政府であるとする解釈が一般的であるが、より普遍的には瀕死のヒューマニズムであり、フランコのファシズムの崩壊であるとする研究者もいる[64]。西洋絵画は伝統的に蝋燭や灯火を真理の象徴として描いており、この絵画でも灯火を持つ女は真理を表すことがほぼ確実だが[10]、社会主義の象徴であるとする研究者もいる[64]。ゴットリープは灯火の女が「善、正義および理性を意味する光明の運び手」とし、小さな灯火が共和国軍兵士であると解釈しているが、絵画と現実世界の政治を強く結びつけていることには批判もある[63]。死んだ兵士はファシズムの犠牲となった戦士とみるのが単純だが、スペイン市民の代表とも考えられる[64]。
- 子の屍を抱く女、駆け寄る女、落ちる女
子の屍を抱く女はゲルニカ爆撃の被害者であるとされる[63]。子の屍を抱く女は西洋絵画の伝統的主題であるピエタ(磔刑に処されたキリストを抱くマリア)でもあり[12]、その姿勢はピカソが1929年から1932年にかけて描いたマグダラのマリアの姿勢にも似通っている[64]。ニコラ・プッサンなどが書いた伝統的主題である嬰児虐殺の影響を見る研究者もいる[64]。右手から中央に駆け寄る女は、屍を抱く女を慰めようとする何かであるとされている[63]。ソビエト連邦はスペインから遠距離にありながら、即座に共和国政府を支援した唯一の国であり、駆け寄る女はソビエト連邦の隠喩であるとされることが多い[63]。建物から落ちる女はピカソ自身、またキリストの象徴であるとされる[59]。
- 光源、鳥
内部に電球が描かれた光源は神の眼、すべてを明るみに出す証人であるとされる[59]。光源の内部には現代を意識させる唯一の要素である電球が描かれており、現代のテクノロジーと爆撃の惨劇の関連を示唆している可能性がある[58]。資本主義国家またはキリスト教的救済の希望を欠いた世界とする研究者もいる[59]。机の上の鳥は精霊や平和の象徴であるとされる[59]。
影響
一般の人々以外にも、この絵画は多くの芸術家に影響を与えている。戦後のフランスに起こったアンフォルメルの画家たち、ピエール・スーラージュ、ジョルジュ・マテューなどはこの絵画の規模や多義的な性格に影響を受けたとされている[65]。また、ニューヨーク近代美術館で展示されていた時期には、スチュアート・デイヴィス、ロバート・マザーウェル、アーシル・ゴーキー、ウィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポロックなど、アメリカ合衆国の抽象表現主義画家の多くがこの絵画に影響を受けたとされる[66][12]。1980年代にはドイツのアンゼルム・キーファーが描いた歴史画、イギリスのギルバート・アンド・ジョージの作品、1990年代にはビル・ヴィオラの三連画などにこの絵画の影響がみられる[65]。2000年代にはドイツのネオ・ラオホなどにもこの絵画の影響が見られるとされる[65]。影響を受けた日本人画家では岡本太郎が代表的だが、藤田嗣治の『アッツ島の玉砕』などにもこの絵画の影響がみられる[65]。
脚注
- ^ a b 大高(1992)
- ^ a b ブラント(1981)、p.36
- ^ マーティン(2003)、p.27
- ^ a b 荒井(1991)、pp.45-48
- ^ 狩野(2003)、p.73
- ^ a b c d 荒井(1991)、pp.33-36
- ^ マーティン(2003)、p.65
- ^ アメリア・アレナス『人はなぜ傑作に夢中になるの? モナリザからゲルニカまで』淡交社、木下哲夫訳、1999年、p.168
- ^ 宮下(2008)、p.45
- ^ a b c 宮下(2008)、pp.42-45
- ^ a b c d e マーティン(2003)、pp.81-84
- ^ a b c d 宮下(2008)、pp.57-58
- ^ ピカソ(1995)、p.17-21
- ^ 宮下(2008)、p.52
- ^ マーティン(2003)、p.11
- ^ 砂盃富男『ゲルニカの悲劇を越えて』沖積舎、2000年、p.16
- ^ a b c d e f マーティン(2003)、pp.85-87
- ^ 荒井(1991)、p.119
- ^ a b c d マーティン(2003)、pp.88-91
- ^ 宮下(2008)、p.39
- ^ 宮下(2008)、p.67
- ^ a b 宮下(2008)、pp.82-83
- ^ a b c d e f マーティン(2003)、pp.92-94
- ^ 荒井(1991)、p.123
- ^ a b c 荒井(1991)、p.124
- ^ a b c d e 宮下(2008)、pp.84-87
- ^ a b 宮下(2008)、p.89
- ^ a b c d マーティン(2003)、pp.111-114
- ^ a b マーティン(2003)、p.95
- ^ a b c 荒井(1991)、p.126
- ^ マーティン(2003)、p.101
- ^ a b c d e f g h ピカソ(1995)、p.21-24
- ^ 荒井(1991)、p.148
- ^ a b c d マーティン(2003)、pp.119-123
- ^ a b c d e f 荒井(1991)、pp.152-159
- ^ 現代「フランス」を代表する4人として、ジョルジュ・ブラック、アンリ・ローランス、アンリ・マティス、ピカソが選ばれた。
- ^ マーティン(2003)、p.120
- ^ マーティン(2003)、p.127
- ^ a b c マーティン(2003)、pp.136-141
- ^ a b マーティン(2003)、pp.154-155
- ^ マーティン(2003)、p.174
- ^ a b c マーティン(2003)、pp.183-184
- ^ 荒井(1991)、p.162
- ^ a b c マーティン(2003)、pp.173-176
- ^ a b 荒井(1991)、pp.165-168
- ^ マーティン(2003)、p.185
- ^ a b c マーティン(2003)、pp.193-198
- ^ a b 荒井(1991)、pp.184-188
- ^ a b c マーティン(2003)、pp.203-207
- ^ a b 荒井(1991)、pp.193-195
- ^ 川成洋『スペイン その民族とこころ』悠思社、1992年、p.154
- ^ a b c d e ピカソ(1995)、p.9-11
- ^ a b マーティン(2003)、p.201
- ^ a b c マーティン(2003)、pp.222-227
- ^ a b c d e マーティン(2003)、pp.219-220
- ^ a b c d マーティン(2003)、pp.228-229
- ^ a b c d 荒井(1991)、p.127
- ^ a b c d e f g h 荒井(1991)、pp.128-130
- ^ a b c d e 宮下(2008)、pp.133-134
- ^ 荒井(1991)、p.142
- ^ 川成洋『スペイン その民族とこころ』悠思社、1992年、p.153
- ^ 宮下(2008)、p.135
- ^ a b c d e f g 荒井(1991)、pp.131-135
- ^ a b c d e f 宮下(2008)、pp.128-132
- ^ a b c d 宮下(2008)、pp.102-103
- ^ マーティン(2003)、p.161
参考文献
- 荒井信一『ゲルニカ物語 ピカソと現代史』岩波書店、1991年
- カールステン=ペーター・ヴァルンケ、インゴ・F・ヴァルター『ピカソ』(全2巻)タッシェン・ジャパン、2007年
- 大高保二郎『ピカソ美術館 第4巻 戦争と平和』集英社、1992年
- アンソニー・ブラント『ピカソ <ゲルニカ>の誕生』荒井信一訳、みすず書房、1981年
- ラッセル・マーティン『ピカソの戦争 ゲルニカの真実』木下哲夫訳、白水社、2003年
- 宮下誠『ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』光文社新書、2008年
- ピカソ(画)『PICASSO 愛と苦悩『ゲルニカ』への道』ジェラール・レニエ/マリア・テレサ・オカーニャ/神吉敬三/大高保二郎監修、東武美術館、1995年(1995年-1996年の京都国立近代美術館・東武美術館におけるピカソ展のカタログ)
外部リンク
- Guernica – Zoomable version.
- Art Opposes Injustice! – Picasso's Guernica: For Life by Dorothy Koppelman