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{{Infobox building
[[File:Tyntesfield 1.jpg|right|thumb|200px|ティンテスフィールド]]
| name = ティンテスフィールド
'''ティンテスフィールド''' (Tyntesfield)は、[[ゴシック・リヴァイヴァル建築]]の邸宅。[[イギリス]]・[[サマセット]]北部の村、ラクソール([[:en:Wraxall, Somerset|Wraxall]])にある。貿易商のギブズ(Gibbs)一家の[[カントリーハウス]]として[[1863年]]に建てられた。現在は[[ナショナル・トラスト]]の所有になっており、一般公開されている。
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| former_names = ティンテス・プレース {{en|(Tyntes Place)}}
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| caption = ティンテスフィールドを南側から望む
{{collapsed infobox section begin|地図と建物の概要}}
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| other_dimensions = 106部屋{{r|NTRoof}}<br />26のメイン・ベッドルーム、使用人部屋も含めて全体で43の寝室
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* {{仮リンク|ジョン・ノートン (建築家)|label=ジョン・ノートン|en|John Norton (architect)}}(主屋)
* {{仮リンク|ヘンリー・ウドワイヤー|en|Henry Woodyer}}(内装の調度)
* {{仮リンク|アーサー・ブロムフィールド|en|Arthur Blomfield}}(教会堂)}}
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* {{仮リンク|ジェームズ・パウエル・アンド・サンズ|label=パウエル|en|James Powell and Sons}}
* {{仮リンク|ハリー・エリス・ウールドリッジ|label=ウールドリッジ|en|Harry Ellis Wooldridge}}
* {{仮リンク|サルヴィアーティ (ガラス工房)|label=サルヴィアーティ|en|Salviati (glassmakers)}}
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* {{仮リンク|コリアー・アンド・プラックネット|en|Collier and Plucknett}}}}
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}}
'''ティンテスフィールド'''({{lang-en-short|Tyntesfield}})は、[[ヴィクトリア朝]]に建てられた[[ゴシック・リヴァイヴァル建築]]の邸宅およびその地所を指す。邸宅は[[イングランド]]南西部[[サマセット]]の、{{仮リンク|ノース・サマセット|en|North Somerset}}、{{仮リンク|ラクソール (サマセット)|label=ラクソール|en|Wraxall, Somerset}}に位置する。建物はグレードI(第一級)の指定文化財{{enlink|Listed building}}に指定されている。ティンテスフィールドの名前は、1500年頃からこの地域の地所を保有していた{{仮リンク|ティンテ準男爵家|en|Tynte baronets}}に因むものである。以前はこの場所に、[[16世紀]]に建てられた{{仮リンク|狩猟用別邸|en|Jagdschloss}}があり、19世紀初頭までファームハウス(農場の母屋)として使われていた。1830年代には{{仮リンク|ジョージ朝建築|en|Georgian architecture}}の邸宅が建てられ、1843年には[[肥料]]に用いられる[[グアノ]]で財を成した{{仮リンク|ウィリアム・ギブズ (実業家)|label=ウィリアム・ギブズ|en|William Gibbs (businessman)}}がこれを買い取った。[[1860年]]に、ギブズは邸宅の大拡張と改装に着手し、1870年代には[[聖堂|教会堂]]も加えられた。ギブズ家は、[[2001年]]に{{仮リンク|リチャード・ギブズ (第2代ラクソール男爵)|label=リチャード・ギブズ|en|Richard Gibbs, 2nd Baron Wraxall}}が死去するまでこの邸宅を保有していた。


ティンテスフィールドは[[2002年]]6月に[[ナショナル・トラスト]]によって買い取られた。この買い取りの前には、ティンテスフィールドが民間に渡るのを阻止し、確実に一般公開できるようにしようとする募金依頼活動が行われた。邸宅は、ナショナル・トラストの取得後ぴったり10週間、初めて一般向けに公開され、その後修繕済の部屋が増えたところでナショナル・トラストによる見学ツアーが追加された。
==歴史==
ギブス家は[[18世紀]]後半に[[スペイン]]とその植民地である[[南米]]諸国との貿易で財産を成し、この館が建てられた[[19世紀]]にはイギリス有数の金持ちになっていた。[[1843年]]に家長であったウィリアム・ギブズが当地にあった古い館を買い取り、7万ポンドをかけて現在残されているような華麗な[[ゴシック・リヴァイヴァル建築]]に造り替えた。美しい[[ステンドグラス]]をはじめ、当時の一流の技術者を結集して作った精巧なディテールも見どころのひとつ。一家は熱心な[[イングランド国教会]]の教徒で、[[1870年]]代に荘厳な[[教会]]も館内に増設された。


この邸宅には[[2014年]]1年で216,759人もの観光客が訪れたが、これは前年比1%の増加だった<ref>{{cite web |url=http://www.alva.org.uk/details.cfm?p=605 |title=Visits made in 2014 |accessdate=2016-08-09|work=Association of Leading Visitor Attractions }}</ref>。
ウィリアムの孫、ジョージは[[兵役]]や王室関連のいくつかの地方職を務めたほか、[[男爵]]家の娘と再婚するなどして(初めの妻は病死)、[[1928年]]に[[貴族]]の仲間入りを果たす。再婚後息子をもうけるが、この相続人が[[2001年]]に未婚のまま死亡したため、4世代が住んだこの館もついに売りに出された。[[歌手]]の[[カイリー・ミノーグ]]が食指を動かしたと噂されると、ナショナル・トラストが募金キャンペーンを始め、わずか100日で820万ポンドを集めて[[2002年]]に落札した。現在、75室ある部屋の調度品約3万点の写真撮影と記録が進められており、将来的には[[オンライン]]で公開される予定である。


==関連項目==
== 歴史 ==
=== 背景 ===
* [[エンジェル (2007年の映画)]]
{{Location map+|United Kingdom Somerset|width=300|float=right|caption=サマセット州でのそれぞれの位置関係|alt=サマセット州での、ティンテスフィールド、ブリッジウォーター、ハルスウェル・ハウス、チェルヴィー・コートの位置関係|places=
{{Location map~|United Kingdom Somerset|lat_deg=51|lat_min=26|lat_sec=25|lat_dir=N|lon_deg=2|lon_min=42|lon_sec=48|lon_dir=W|position=right|background=#FFF|label_size=80|label=ティンテスフィールド}}
{{Location map~|United Kingdom Somerset|lat_deg=51||lat_min=7|lat_sec=40|lat_dir=N|lon_deg=2|lon_min=59|lon_sec=34|lon_dir=W|position=right|background=#FFF|label_size=80|label=ブリッジウォーター}}
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{{Location map~|United Kingdom Somerset|lat_deg=51|lat_min=24|lat_sec=43|lat_dir=N|lon_deg=2|lon_min=46|lon_sec=12|lon_dir=W|position=left|background=#FFF|label_size=75|label=チェルヴィー・コート}}
}}
邸宅とその地所がある土地は、元々{{仮リンク|ティンテ準男爵家|en|Tynte baronets}}が所有していた不動産の一部だった{{sfn|Steven|2011|p=1}}。準男爵家はこの地域に1500年代から居住しており、{{仮リンク|ブリッジウォーター|en|Bridgwater}}近くの村、{{仮リンク|ゴートハースト|en|Goathurst}}にある{{仮リンク|ハルスウェル・ハウス|en|Halswell House}}を邸宅としていた。


18世紀遅くには、ジョン・ティンテが現在ティンテスフィールドが建つ地所を手に入れた。当時はこの建物に向かって[[ニレ]]並木が作られていたが、これは[[1678年]]にチャールズ・ハーボード({{lang-en-short|Charles Harbord}})の遺言により地所がラクソールの人々へ贈られた後、村からハーボードの元へ奉公に出ていた2人の少年を記念して植えられたものである{{sfn|Wright|2003|p=9}}。ティンテ家は当初この地所に住んでいたが<ref name="parksgardensUK">{{cite web|title=Tyntesfield, Bristol, England - history|url=http://www.parksandgardens.org/places-and-people/site/3337/history|work=Parks and Gardens UK|publisher=Parks and Gardens Data Services Ltd|accessdate=2016-08-12}}</ref><ref name="nationalheritage">{{National Heritage List for England |num=1000570 |desc=Tyntesfield|accessdate=4 April 2015}}</ref>、19世紀初頭に、ジョンは{{仮リンク|ブロックリー (サマセット)|label=ブロックリー|en|Brockley, Somerset}}に{{仮リンク|チェルヴィー・コート|en|Chelvey Court}}を建て、自らの主要な居住地とした{{sfn|Wright|2003|p=7}}。ティンテス・フィールド({{lang-en-short|Tynte's Place|links=no}})はファームハウス(農場の母屋)へ格下げされ、ジョン・ヴァウルズ({{lang-en-short|John Vowles|links=no}})に貸し出された{{sfn|Wright|2003|p=17}}。[[1813年]]には、隣接するベルモント地所を保有するジョージ・ペンローズ・シーモア({{lang-en-short|George Penrose Seymour|links=no}})が不動産を購入し、これを息子のジョージ・ターナー・シーモア牧師({{lang-en-short|The Rev. George Turner Seymour|links=no}})へ与えた<ref group="注">{{en|"The Rev."}} は牧師など聖職者に付ける敬称。</ref>{{sfn|Wright|2003|p=9}}。彼は、以前馬鍛冶屋の建物があった場所に新しく{{仮リンク|ジョージ朝建築|en|Georgian architecture}}の邸宅を建て、古いファームハウスは取り壊した{{sfn|Wright|2003|p=9}}。また{{仮リンク|ネイルシー|en|Nailsea}}に住むロバート・ニュートン({{lang-en-short|Robert Newton|links=no}})によって更なる改築が行われた<ref group="注">ネイルシーはサマセット北部にある町。ティンテスフィールドと同じノース・サマセットに位置する。</ref><ref>{{cite web|title=Reverend George Turner Seymour|url=http://farringford.co.uk/tennyson/reverend_george_turner_seymour.htm|publisher=Farringford|accessdate=30 January 2014}}</ref>{{sfn|Miller|2006|p=39}}。
==外部リンク==
* [http://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield/ ナショナル・トラスト]
* [http://www.youtube.com/watch?v=W0r4e-6CvXQ Youtubeビデオ]


=== ギブズ家による購入 ===
{{デフォルトソート:ていんてすふいると}}
[[1843年]]、地所は家族事業・{{仮リンク|アンソニー・ギブズ&サンズ|en|Antony Gibbs & Sons}}で財を成した、実業家の{{仮リンク|ウィリアム・ギブズ (実業家)|label=ウィリアム・ギブズ|en|William Gibbs (businessman)}}によって買い取られた。彼のいとこで[[ブリストル]]の銀行家だったジョージ・ギブズは1828年に隣接するベルモント地所を借り受けており、ウィリアムはシーモア牧師が1843年に亡くなった後、牧師の未亡人から屋敷を買い取った{{r|nationalheritage}}。[[1847年]]からは、会社は[[グアノ]]を[[ペルー]]から輸入し、[[肥料]]としてヨーロッパや北アメリカに販売する事業で、効果的な専売を行った<ref>{{cite book|title=[[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica Ninth Edition]]|article = Guano|publisher=[[:en:A & C Black|Adam & Charles Black]]|date=1880}}</ref>。グアノは{{仮リンク|チンチャ諸島|en|Chincha Islands}}で、契約労働の[[苦力|中国人苦力]]によって採掘されていたが、この中国人労働力は、ペルー政府が[[1856年]]に承認した条件に基づいて「黒人奴隷取引同等に」({{lang-en-short|"into a kind of Negro slave trade"|links=no}})格下げして扱われていた<ref>{{cite book|author = Stewart, Watt|title=Chinese Bondage in Peru|publisher=[[:en:Duke University Press|Duke University Press]]|date=1951|page = 22}}</ref>。この貿易から得た会社の利益は、ウィリアム・ギブズを[[イングランド]]の非貴族で最も裕福な人間にした{{sfn|Miller|2006|p=34}}。
[[Category:イングランドの建築物]]

[[Category:第一級指定建築物]]
人生を通して、ギブズとその妻マティルダ・ブランチ・クロウリー=ブーヴィー({{lang-en-short|Matilda Blanche Crawley-Boevey|links=no}}、通称ブランチ)<ref group="注">ブランチは{{仮リンク|クロウリー=ブーヴィー準男爵家|en|Crawley-Boevey baronets}}の出身である。</ref>は主にロンドンで生活した{{sfn|Hall|2009|p=103}}。2人は結婚生活を通して、主に{{仮リンク|ハイド・パーク・ガーデンズ|en|Hyde Park Gardens}}16番地({{lang-en-short|16 Hyde Park Gardens|links=no}})に住み、この場所をブランチの死まで家族で保有していた<ref group="注">ハイド・パーク・ガーデンズは[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]の北側にあり、東西に走る通り。ハイド・パークはロンドン中心部である[[ウェストミンスター]]・[[ケンジントン]]両地区にまたがる広大な公園である。</ref><ref name=OUPGibbs>{{cite web |url=http://www.oxforddnb.com/index/89/101089656/|title=William Gibbs |publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] |accessdate=2016-08-11}}{{smaller|(全文の閲覧には登録・ログインが必要)}}</ref>。一方で、仕事で定期的に{{仮リンク|ブリストル港|en|Port of Bristol}}を訪れていたギブズには、ブリストル港に程近い居住地が必要だった。このためギブズは、1843年にティンテス・プレースを買い取りに訪れ、邸宅の名前を現在の「'''ティンテスフィールド'''」({{lang-en-short|Tyntesfield|links=no}})に改めた{{r|OUPGibbs}}。購入から2、3年の内に、ギブズは邸宅を改築・増築する大規模な工事を開始した{{sfn|Miller|2006|pp=59–64}}。

改築に当たっては、様々な形が結び合わさったゆるいゴシック様式で、中世風の様式を復興した建築様式が選択された。ゴシック様式を選んだのは、{{仮リンク|オックスフォード運動|en|Oxford Movement}}の信奉者だったギブズ夫妻が、{{仮リンク|アングロカトリック派<!--高教会派ともいう-->|en|Anglo-Catholicism}}の信条を持っていたためである<ref name="Building Conservation.com">{{cite web| url=http://www.buildingconservation.com/articles/tyntesfield-interiors/tyntesfield-interiors.htm|title=Tyntesfield Interiors |publisher=Building Conservation.com|last=Schmitz|first=Sarah| accessdate=3 December 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160816043520/http://www.buildingconservation.com/articles/tyntesfield-interiors/tyntesfield-interiors.htm|archivedate=2016-08-16}}</ref>。この[[アングリカン・コミュニオン]]の分派は、建築家[[オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン|オーガスタス・ピュージン]]が1836年に著した本 {{en|"''Contrasts''"}} で説明されたような考え方を主張したが、これは中世ゴシック様式を復活させ、「中世の信仰や社会の仕組みを取り戻」そうとするものだった<ref name = "Guardian">{{cite web |url=http://www.guardian.co.uk/books/2012/feb/24/pugin-gothic-architect |title=Pugin, God's architect |author=Hill, Rosemary |date=24 February 2012 |accessdate=19 March 2012| publisher = [[ガーディアン|guardian.com]]|quote=a return to the faith and the social structures of the Middle Ages}}</ref>。ピュージンやギブズが門弟だったオックスフォード運動は、後にその哲学をさらに発展させ、キリスト教の崇拝にふさわしい建築様式はゴシック様式のみだと主張するようになった<ref>{{cite web |url=http://www.puseyhouse.org.uk/house/history/oxfordmovement/ |title=Oxford Movement |publisher=Pussey House |accessdate=3 December 2013|deadlink=2016-08-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121220085320/http://www.puseyhouse.org.uk/house/history/oxfordmovement|archivedate=2013-12-20}}</ref>。このような理由から、ゴシック様式はキリスト教信仰とそれに結びついた生活様式を象徴的に表現するものとなり、ギブズのような信心深い[[ヴィクトリア朝]]の人間に礼賛された{{r|Building Conservation.com}}。邸宅に付随した教会堂の完成は、建物の中世風[[僧院]]の雰囲気をさらに高め、オックスフォード運動の信奉者に深く愛された。教会の完成時には、4本の[[タレット (建築)|タレット]]を備え、急勾配の屋根が付いた、当時の流行にならった正方形の塔でそのデザインが強調されていたが、この塔は[[1935年]]に取り壊されてしまった{{sfn|Pevsner|1973|pp=348–349}}。

=== 再発展 ===
[[File:Tyntesfield House - geograph.org.uk - 412294.jpg|thumb|300px|ビジターズ・センターを通って、西側から邸宅に向かうアプローチの写真。事実上邸宅の裏側に当たる。建築家の{{仮リンク|ジョン・ノートン (建築家)|label=ジョン・ノートン|en|John Norton (architect)}}は、非対称のデザインを強調するため変則的な窓を設計した。この写真は、屋根とその模様{{enlink|Diapering|diaper-pattern}}の修理が行われる前の2005年9月に撮影された。|alt=手前側、写真中心に走る小道の先に、ティンテスフィールドの邸宅が見える。西側から望んだ邸宅には、小塔が林立し一部ツタが這っている。]]
[[File:Tyntesfield1866.jpg|thumb|300px|1866年版の雑誌『{{仮リンク|ビルディング (雑誌)|label=ビルディング|en|Building (magazine)}}』に掲載されたティンテスフィールドの絵。中央に見える時計塔は、[[#アーシュラ、レディ・ラクソール:1931年 – 1979年|レディ・ラクソール]]の判断で取り壊されたが、これが屋敷の荒廃を招いた。|alt=雑誌に掲載されたティンテスフィールドの白黒版画。庭園より一段高い場所に大きな窓が多数付いた邸宅が建っているが、中央からやや右寄りの屋根に時計塔が突き出している。]]

[[1854年]]、ウィリアム・ギブズは、以前も仕事を依頼したことがある建築家の{{仮リンク|ジョン・グレゴリー・クレイス (デザイナー)|label=ジョン・グレゴリー・クレイス|en|John Gregory Crace (designer)}}に、ティンテスフィールドの主要な部屋を再設計し装飾するよう依頼した。この時作られた新しい設計では、金箔を貼った鏡板や木工品、鋳造物や{{仮リンク|マントルピース|en|Fireplace mantel}}に至るまで、全てゴシック様式で作られた{{r|OUPGibbs}}。

改築作業は[[1863年]]になるまで熱心には行われず、この年ウィリアム・ギブズは地所を概ね[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ゴシック・リヴァイヴァル様式]]で建て替えることを決めた。建築業者には{{仮リンク|ウィリアム・キュービット (政治家)|label=ウィリアム・キュービット & Co.|en|William Cubitt (politician)}}、建築家には{{仮リンク|ジョン・ノートン (建築家)|label=ジョン・ノートン|en|John Norton (architect)}}が選ばれた{{sfn|Miller|2006|pp=63–64}}。ノートンの設計は元々の建物を覆うように作られた。彼は追加のフロアを作り、2つの新しいウィング(翼棟)と塔を付け加えた。ノートンは、複数の歴史的時代にまたがった修復と改築の、建築的連続性の重要さを強調した設計を行った。結果として、いくつかの壁は質素なまま残されたのに対し、他のものには、以前の建築様式に融和するよう、ゴシック様式や自然主義の彫刻が行われた{{r|Minerva}}。

==== 設計 ====
建物は2種類の{{仮リンク|バス・ストーン|en|Bath stone}}を用いて建てられており{{refnest|group="注"|バス・ストーンは、サマセット州[[バース (イングランド)|バース]]付近で産出される建築用の[[石灰岩]]<ref>{{Cite encyclopedia|author=[[小西友七]]|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=Bath stone|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=[[東京都]][[文京区]]|publisher=[[大修館書店]]|publication-date=2011|series=[[ジーニアス (辞典)|ジーニアス]]|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。}}、屋根は[[タレット (建築)|タレット]]が林立し精巧に作り込まれた、絵のように美しい外観をしている。建築様式を複数組み合わせた効果と、選び抜かれた素材は、ジャーナリストの{{仮リンク|サイモン・ジェンキンス|en|Simon Jenkins}}によって {{en|"severe"}}(近寄りがたい)と表現されている{{r|VicWeb}}。修繕の間、石工たちは建物の保全も行いながら、時には新しい区画へ彫刻をコピーし、新たな塑像を作っていたが、これは[[石灰]]でできた目地の大半を塗り直す{{enlink|repointing}}だけでなく、風化した部品をその建築様式で標準的なものへ取り替えることも目的だった{{r|Minerva}}。全ての石材は、[[グロスタシャー]]・{{仮リンク|テトベリー|en|Tetbury}}近くのヴェイジーズ採石場({{lang-en-short|Veyzeys quarry|links=no}})で産出された[[コッツウォルズ|コッツウォルド]]{{仮リンク|ウーライト|label=魚卵状石灰岩|en|Oolite}}を使い、元からあったものとぴったり合うように作られた<ref name=Minerva>{{cite web |url=http://minervaconservation.com/projects/tyntesfield.htm |title=Tyntesfield |publisher=Minerva Conservation |accessdate=4 April 2013}}</ref>。使用人用のウィングと教会堂を含む邸宅は、[[1973年]]にグレード{{en|II*}} の指定文化財{{enlink|listed building}}となり<ref>{{cite web |title=Servants' wing and chapel |work={{仮リンク|イメージズ・オブ・イングランド|label=Images of England|en|Images of England}}|publisher=[[イングリッシュ・ヘリテッジ|English Heritage]] |url=http://www.imagesofengland.org.uk/details/default.aspx?id=33585 |accessdate=2016-08-12}}</ref>、現在ではグレードがグレードI に引き上げられている<ref>{{National Heritage List for England |num=1129053 |desc=Tyntesfield House, servants wing and chapel |accessdate=2016-08-12}}</ref>。

庭の向こうにバックウェル・ヒル<ref group="注">{{lang-en-short|Backwell Hill|links=no}}</ref>を望む東向きの建物正面と、中庭エントランスがある北側は、[[黄土色]]のバス・ストーンで作られた日よけが付けられているが{{r|Minerva}}、主に奉公部屋や使用人区画に当てられた裏手側の南面は、より安値で薄赤色の{{仮リンク|ドレイコット (サマセット)|label=ドレイコット|en|Draycott, Somerset}}産[[大理石]]が粗石積みされていて<ref group="注">ドレイコットもサマセット州にある村。[[チェダーチーズ]]の発祥地[[チェダー]]にも程近い。</ref>{{r|Minerva}}、[[漆喰]]仕上げされている。どの面にもゴシック様式のメイン・ウィンドウ、[[テューダー朝]]様式の出窓{{enlink||Oriel window}}、煙突、屋根裏に付随した屋根窓付きの切り妻などが多数設置されている<ref name=VicWeb>{{cite web |url=http://www.victorianweb.org/art/architecture/homes/1d.html |title=Tyntesfield|publisher=Victorian web |accessdate=4 April 2013|deadlink=2016-08-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131023061636/http://www.victorianweb.org/art/architecture/homes/1d.html|archivedate=2013-10-23}}</ref>。ノートンは変則的な屋根を作り、傾斜や切り妻に違いを持たせることで、建物の非対称的な設計を際立たせた{{r|Minerva}}。外装で最後に足されたのは、巨大な鉄製の温室で、{{en|Hart, Son, Peard and Co.}}{{enlink|Hart, Son, Peard and Co.|a=on}}によって屋敷裏手に設置された<ref>{{cite web |url=http://www.countrylifeimages.co.uk/Image.aspx?id=77e9afb6-76c6-44ec-bec4-465a260aedbe&rd=2%7Cconservatory%7C%7C1%7C20%7C88%7C150 |title=Tyntesfield conservatory |publisher=[[:en:Country Life (magazine)|Country Life Magazine]] |accessdate=4 April 2013}}</ref>、改装されたティンテスフィールドは、ブランチ・ギブズのいとこで作家の[[シャーロット・ヤング]]に、「心の中の教会のよう」({{lang-en-short|"like a church in spirit"|links=no}})と評された{{r|OUPGibbs}}。

内装も同じくゴシック様式で揃えられた。クレイスは内装の模様替えにも従事し、ある場所では元々あった作品を広げたり改作したりした一方で、別の場所では新しく図案を作ったりした。他にもこの家には、{{仮リンク|ジェームズ・パウエル・アンド・サンズ|label=パウエル|en|James Powell and Sons}}や{{仮リンク|ハリー・エリス・ウールドリッジ|label=ウールドリッジ|en|Harry Ellis Wooldridge}}によるガラス細工、{{en|Hart, Son, Peard and Co.}} による鉄工、{{仮リンク|サルヴィアーティ (ガラス工房)|label=サルヴィアーティ|en|Salviati (glassmakers)}}によるモザイクなどが収められた。キュービット側の現場監督だったジョージ・プラックネット({{lang-en-short|George Plucknett|links=no}})は、[[ウォリック (イングランド)|ウォリック]]の家具屋・{{仮リンク|コリアー・アンド・プラックネット|en|Collier and Plucknett}}にいたジェームズ・プラックネット({{lang-en-short|James Plucknett|links=no}})の親戚だった。このため、ギブズは多くの道具をわざわざこの工房に依頼して作らせ<ref>{{cite web |url=http://www.countrylifeimages.co.uk/Image.aspx?id=c69f5064-50b9-4a51-a7f9-079d2d5c33fa&rd=2%7Ctyntesfield%7C%7C1%7C20%7C34%7C150 |title=Tyntesfield Hallway |publisher=[[:en:Country Life (magazine)|Country Life Magazine]] |accessdate=4 April 2013}}</ref>、その中には妻に合うよう作られた浴室も含まれていた{{r|Telg3301273}}。熟練の腕前の粋が光ったこれらの作品は、ギブズによって自身の美術品コレクションに加えられた{{r|OUPGibbs}}。

邸宅の改築が行われている間、ウィリアム・ギブズは[[デヴォン]]にあるマンヘッド・パーク{{enlink|Mamhead Park}}を借りていた{{sfn|Hogg|2011}}。メイン・ベッドルームを23、使用人の寝室も含め47も備えるこの大邸宅の改装には、実に7万[[スターリング・ポンド|ポンド]]の金額がかけられた({{Inflation-year|UK}}年のレートで£{{formatnum:{{Inflation|UK|70000|1863|{{Inflation-year|UK}}|r=-4}}}}に相当){{Inflation-fn|UK}}{{refnest|group="注"|2013年は英国ポンドに対して緩やかに円安が進んだ時期であり、単純に1月の始値と12月の終値の平均値を取ると、1ポンドあたりおよそ157.6円となる<ref>{{cite web|url=http://info.finance.yahoo.co.jp/history/?code=GBPJPY%3DX&sy=2013&sm=1&ey=2013&em=12&tm=m|title=イギリス ポンド / 日本 円【GBPJPY】:外国為替(2013年分)|work=Yahoo!ファイナンス|publisher=Yahoo!|accessdate=2016-08-15}}</ref>。簡略化のために1ポンド160円相当として計算すると、建設費には9億3,440万円相当がかけられたことになる。}}。改築費用の総額は、ギブズの事業収益18ヶ月分に相当していた{{sfn|Miller|2006|p=59}}。主要な建物部分の工事が完成した後、ギブズはアンソニー・ギブズ&サンズの株式を、甥である{{仮リンク|ハックス・ギブズ (初代オールデナム男爵)|label=ヘンリー・ハックス・ギブズ|en|Hucks Gibbs, 1st Baron Aldenham}}(後のオールデナム男爵)に売却して資金を確保し、その資金で隣接する2つの不動産も買い取っている。東側のベルモント地所は甥のジョージ・ルイス・モンク・ギブズ({{lang-en-short|George Lewis Monck Gibbs|links=no}})から買い取り{{sfn|Wright|2003|p=12}}、買い取った地所を合わせて農園を作り、[[酪農]]や[[林業]]に乗り出している。土地購入はこれ以降も行われ、最盛期にはティンテスフィールドの地所は{{convert|6000|acre}}超となった。地所は、北は{{仮リンク|ポーティスヘッド (サマセット)|label=ポーティスヘッド|en|Portishead, Somerset}}から、南はメイン・ハウスのある谷まで至る{{convert|1000|acre}}もの森林で囲まれていた<ref group="注">ポーティスヘッドはラクソールのすぐ北にある村。サマセットの北側で隣接する[[ブリストル]]にも程近い位置にある。</ref>。邸宅と地所では、500人以上が雇われていた{{r|OUPGibbs}}。

=== 教会堂 ===
[[File:Tyntesfieldchapel.JPG|thumb|right|275px|教会堂はアーサー・ブロムフィールドによってパリの[[サント・シャペル]]を模して作られた。写真は南側のメイン・エントランス側中庭から撮影されたもの。|alt=邸宅のはじにある教会堂はレンガ造りで、赤茶色の屋根には小塔が等間隔に複数建っている。]]
ギブズがティンテスフィールドに最後に加えたのは教会堂だった。工事は[[1872年]]から[[1877年]]にかけて行われ、邸宅の北側に{{仮リンク|アーサー・ブロムフィールド|en|Arthur Blomfield}}の手でゴシック様式の教会堂が付け加えられた。この教会堂は[[パリ]]・[[シテ島]]の[[サント・シャペル]]を模して作られたもので{{r|Building Conservation.com}}、{{仮リンク|ウィリアム・ヒル&サンズ|en|William Hill & Sons}}によって[[オルガン]]が据え付けられ{{sfn|Miller|2006|p=106}}、地下にはギブズが納められることを想定した地下納体堂{{enlink|Burial vault (tomb)|vault}}が作られた。しかし、地元ラクソールの{{仮リンク|全聖人教会 (ラクソール)|label=全聖人教会|en|All Saints Church, Wraxall}}の教会区司祭や、教会の支援者である{{仮リンク|ゴージズ家|en|Gorges family}}の反対を受け、[[バース (イングランド)|バース]]および[[ウェルズ (イングランド)|ウェルズ]]地区主教{{enlink|Bishop of Bath and Wells}}は、ティンテスフィールドの教会堂の[[聖別]]を認めなかった。これは教会が、ギブズ家に地元の信者を大勢奪われるのではないかと危惧したためである。この処置にもかかわらず、教会堂はティンテスフィールドの暮らしで中心的役割を担い、家族や来客による祈りが1日2回行われていたという{{r|OUPGibbs}}。家族はティンテスフィールドに居住していた間、多くは{{仮リンク|祈願節|en|Rogation days}}や[[クリスマス]]の期間に、地元住民へ教会堂を開放していた{{refnest|group="注"|祈願節はキリスト昇天祭({{lang-en-short|Ascension Day|links=no}})前の3日間を指す<ref>{{Cite encyclopedia|author=[[小西友七]]|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=Rogation Days|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=[[文京区]]|publisher=[[大修館書店]]|publication-date=2011|series=[[ジーニアス (辞典)|ジーニアス]]|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。キリスト昇天祭は[[復活祭|イースター]]から40日後の木曜日で、{{en|"Holy Thursday"}} とも呼ばれる<ref>{{Cite encyclopedia|author=小西友七|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=Rogation Days|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=文京区|publisher=大修館書店|publication-date=2011|series=ジーニアス|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。}}{{sfn|Wright|2003|p=34}}。最後の建築が終了したことを祝い、ブランチのいとこであるシャーロット・ヤングは、教会堂をティンテスフィールド建築計画の最終的完成と表現し、「家の財産{{interp|である地所全体}}に{{仮リンク|リトル・ギディング|en|Little Gidding}}そっくりの雰囲気」を与える({{lang-en-short|providing "a character to the household almost resembling that of Little Gidding"|links=no}})と評した。[[ケンブリッジシャー]]・{{仮リンク|ハンティンドンシャー|en|Huntingdonshire}}に位置するリトル・ギディングは、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]即位時に、19世紀のアングロ=カトリックを大いなる理想と考えていた、{{仮リンク|ニコラス・フェラー|en|Nicholas Ferrar}}のふるさとである{{r|OUPGibbs}}。

== 所有者の変遷 ==
=== ウィリアム・ギブズ:1846年 – 1875年 ===
[[File:TyntesfieldGibbFamily.jpg|thumb|300px|ウィリアムとブランチのギブズ夫妻とその家族(1862年 - 63年頃)|alt=男性が6人、女性が子供1人を含んで4人写った写真。中央にはこの屋敷を建てたウィリアム・ギブズと妻ブランチが座り、その周りに2人の子や孫が集まっている。]]
ウィリアムとその妻マティルダ・ブランチの間には、7人の子供が生まれた。全員が信心深い[[イングランド国教会|国教徒]]で、ウィリアムと妻ブランチは{{仮リンク|オックスフォード運動|en|Oxford Movement}}の支援者だった。ウィリアムは[[オックスフォード大学]]の[[キーブル・カレッジ (オックスフォード大学)|キーブル・カレッジ]]の多大な後援者で{{refnest|group="注"|[[エポニム]]を与えられた{{仮リンク|ジョン・キーブル|en|John Keble}}は、国教会の牧師も務めていた一方、ギブズ夫妻が支援していたオックスフォード運動の先導者でもあった<ref>{{Cite encyclopedia|author=小西友七|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=Keble, John|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=文京区|publisher=大修館書店|publication-date=2011|series=ジーニアス|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。}}、自身の後半生を慈善事業に捧げた人物でもあった。ギブズはまた{{仮リンク|絶対禁酒主義|en|Teetotalism}}を貫いた人物でもあり、彼は地元のフェイランド・イン({{lang-en-short|Failand Inn}})を買い取って地所の保有地に加え<ref group="注">イン {{en|(Inn)}} は主に英国で使われる単語で、宿屋を指すもの。</ref>、これにより呑み騒ぐような振る舞いを自制した(その後インは、[[1962年]]に2代ラクソール卿によって、{{仮リンク|カレッジ・ブルワリー|en|Courage Brewery}}に売却されている)<ref group="注">カレッジ・ブルワリーは1787年にロンドンで創業したビール醸造所。</ref>{{sfn|Wright|2003|p=36}}。ウィリアムは[[1875年]][[4月3日]]にこの屋敷で亡くなった。[[4月9日]]に併設された教会堂で葬儀が行われた後、地所で働いていた30人の手で、亡骸はラクソールの{{仮リンク|全聖人教会 (ラクソール)|label=全聖人教会|en|All Saints Church, Wraxall}}へ運ばれた。ウィリアムは教会構内の家族区画に埋葬されている{{r|OUPGibbs}}。

=== アンソニー・ギブズ:1875年 – 1907年 ===
ウィリアムの死後、地所は長男アンソニーが相続した。オックスフォード大学の{{仮リンク|エクセター・カレッジ (オックスフォード大学)|label=エクセター・カレッジ|en|Exeter College, Oxford}}を卒業して文学修士号を取得した後、アンソニーは[[イギリス陸軍]]の{{仮リンク|ノース・サマセット義勇農騎兵団|en|North Somerset Yeomanry}}に加わり、少佐となった。[[1872年]][[6月22日]]にはジャネット・ルイーザ・メリヴェイル({{lang-en-short|Janet Louisa Merivale|links=no}})と結婚し、家族の地所を管理するためティンテスフィールドに戻っている。アンソニーは[[治安判事]]など様々な官職を歴任し、後にはサマセット副統監も務めた。夫妻の間には10人の子供が生まれた{{sfn|Miller|2006|p=116}}。

1880年代の間、アンソニーは{{仮リンク|ヘンリー・ウドワイヤー|en|Henry Woodyer}}に玄関広間の階段を再設計させている。この改修により、下層階にはガラス張りの天窓からより多く採光できるようになったほか、玄関広間は客間(応接室)に作り替えられた{{r|Building Conservation.com}}{{sfn|Pevsner|1973|pp=348}}。ウドワイヤーはまた、元々家政婦の部屋だった部分を一部潰して、食堂を拡張した。クレイスが当初使っていた壁紙は、英国でスペインの押し型模様が入った革を真似て作られた、模造品の[[和紙]]でできたものだったが、14歳の見習い工によって明るい色に変えられ、クリーム色の背景に塗り替えられた。{{仮リンク|コリアー・アンド・プラックネット|en|Collier and Plucknett}}が作った{{仮リンク|サイドボード<!--つまり、食器棚-->|en|Sideboard}}はさらに拡張された。新しい家具調度品は、またコリアー・アンド・プラックネットに発注された{{r|Telg3301273}}。同時に、アンソニーは電力を導入し、ティンテスフィールドは英国で電灯が点った最初期の例となった{{r|NTRoof}}。アンソニーは最初に電気が通った夜、メイン・エントランスの灯りを眺めて過ごし、火事も起きず家族も安心して過ごせることを確認したという{{r|Building Conservation.com}}。[[1868年]]から[[1884年]]の間に、{{en|Waygood and Co.}} によって水圧式[[エレベーター]]が導入され、[[2008年]]にはこの遺物が発見された。木製のリフトカーが1階部分で見つかっているほか、屋根裏では直径{{convert|55|inch|adj=on|format=off}}の{{仮リンク|綱車|en|Sheave}}が発見された<ref>{{cite web|last=Cooper|first=David A.|title=Report and assessment of the waygood luggage/passenger lift|url=http://www.cibseliftsgroup.org/docs/THE%20WATER%20HYDRAULIC%20LIFT%20AT%20TYNTESFIELD%20HOUSE.pdf|publisher=National Trust/CIBSE Lifts Group|accessdate=2016-08-12|format=PDF}}</ref>。

=== ジョージ・エイブラハム・ギブズ、初代ラクソール男爵:1907年 – 1931年 ===
[[File:Tyntesfield staircase.JPG|thumb|left|階段室の回廊|alt=吹き抜けになった階段室の回廊。上層階では吹き抜け沿いに手すり付きの廊下があり、見物者が壁掛けの絵画を見ている。下層階には暖炉が見える。]]
アンソニーの長男だった{{仮リンク|ジョージ・ギブズ (初代ラクソール男爵)|label=ジョージ・エイブラハム・ギブズ(初代ラクソール男爵)|en|George Gibbs, 1st Baron Wraxall}}は、ノース・サマセット義勇農騎兵団の大佐となり、{{仮リンク|第2次ボーア戦争|en|Second Boer War}}の際には勇敢に戦った。[[イングランド]]に帰国したジョージは、ヴィクトリア・フローレンス・デ・バーグ・ロング({{lang-en-short|The Hon. Victoria Florence de Burgh Long|links=no}})と結婚し、[[デヴォン]]の村{{仮リンク|クリスト・セント・ジョージ|en|Clyst St George}}へ引っ越した。[[1918年]]から[[1928年]]の間、ジョージはブリストル選挙区選出の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員{{enlink|Bristol West (UK Parliament constituency)|MP for Bristol West}}を務め、[[1928年]]には、{{仮リンク|王室会計局長官|en|Treasurer of the Household}}としての仕事が評価されて{{仮リンク|ラクソール男爵|en|Baron Wraxall}}に叙爵され、[[連合王国貴族]]の仲間入りを果たした{{sfn|Steven|2011|p=3}}。

ジョージの所有下で、客間{{r|drawingroom|group="注"}}は[[ルネサンス]]期の{{仮リンク|ベネチア・ゴシック建築|label=ベネチア・ゴシック建築様式|en|Venetian Gothic architecture}}に改装された<ref>{{cite web|url=http://www.countrylifeimages.co.uk/Image.aspx?id=e1c7652e-d805-499c-95e5-8b9c4f9ae980&rd=2%7C%20decorative%7C%7C1%7C20%7C46%7C150|title=Tyntesfield Drawing Room|publisher=[[:en:Country Life (magazine)|Country Life Magazine]]|accessdate=4 April 2013}}</ref>。この過程で、クレイスのデザインしたステンシルは、上塗りされるか[[ダマスク織]]の絹に覆われてしまったほか、ノートンの作った[[暖炉]]は移動され、家具は[[エドワード朝]]様式のものと交換され、絨毯は{{仮リンク|ジョンソンズ・クリーナーズUK|label=スケッチリー|en|Johnsons Cleaners UK}}で染められてしまった{{sfn|Steven|2011|p=3}}。[[1917年]]には戦争協力として、鉄製の温室は取り壊され、鋳つぶされて弾薬に変えられた{{sfn|Miller|2006|p=159}}。

娘アルビナ({{lang-en-short|Albina|links=no}})は生き延びたものの、ジョージの最初の妻ヴィクトリアは、[[1920年]]に[[インフルエンザ]]をこじらせティンテスフィールドで亡くなった。[[1927年]]には、ジョージは{{仮リンク|アーサー・ロウリー (第6代ウェンロック男爵)|label=アーサー・ウェンロック|en|Arthur Lawley, 6th Baron Wenlock}}の娘、アーシュラ・メアリー・ロウリー({{lang-en-short|Ursula Mary Lawley|links=no}})と結婚した。舅であるアーサー・ウェンロックは、後に第6代かつ最後のウェンロック男爵となっている。夫婦の間には2人の息子、{{仮リンク|リチャード・ギブズ (第2代ラクソール男爵)|label=リチャード|en|Richard Gibbs, 2nd Baron Wraxall}}と{{仮リンク|ユースタス・ギブズ (第3代ラクソール男爵)|label=ユースタス|en|Eustace Gibbs, 3rd Baron Wraxall}}が生まれた<ref group="注">第2代ラクソール男爵になったリチャードは、「ジョージ・リチャード」との名前だが、「リチャード」の名前でよく知られている。なおリチャードは1928年、ユースタスは1929年生まれ。</ref>。[[1931年]][[10月28日]]、ジョージはティンテスフィールドで58年の生涯を閉じた{{r|parksgardensUK}}。

=== アーシュラ、レディ・ラクソール:1931年 – 1979年 ===
[[File:Tyntesfield Dining room.JPG|thumb|食堂の中|alt=長細いテーブルが据えられ、両側に8脚程度の椅子が置かれている。食堂自体も長細く、壁には絵画や大きな鏡が掛けられている。]]
<!-- 記事内でこの節へのアンカーリンクあり。節名変更時は注意 -->
ラクソール卿の未亡人となったアーシュラ(レディ・ラクソール)の元には、2歳にもならない子供が2人と広大な地所が残された一方で、得られる収入はほんのわずかだった。彼女の能力・実行力の現れとして伝えられるのは、邸宅の中心的だった時計塔にまつわる話である。[[1935年]]、この時計塔は[[乾腐病]]{{enlink|Dry rot}}や湿気による木材腐敗のために全面的改修が必要になった。この際彼女は即座に時計塔の解体を決め、後々使えそうな金属部品だけ取り置いて、まるで最初から時計塔など無かったかのように屋根を再建築した{{r|Building Conservation.com}}。

[[第二次世界大戦]]の間、ブリストルにあった{{仮リンク|クリフトン・ハイ・スクール (ブリストル)|label=クリフトン・ハイ・スクール|en|Clifton High School, Bristol}}がギブズ家の地所に移転してきたほか、[[1941年]]にはアメリカ軍医療部隊{{enlink|Medical Corps (United States Army)|U.S. Army Medical Corps}}が、地所の一角に「第74総合病院」({{lang-en-short|The 74th General Hospital|links=no}})として知られる傷病兵向けの病院施設を建設した{{sfn|Boyce|2012|pp=71–85}}{{sfn|Wright|2003|p=26}}{{sfn|Wright|1990|p=}}。一時的なテント村の建設の結果、[[アメリカ陸軍工兵司令部]]によって、当時のイングランドで最長だった{{仮リンク|モチノキ|en|Holly|preserve=1}}[[垣根]]が破られることになった{{sfn|Wright|2003|p=26}}{{sfn|Wright|1990|p=}}{{sfn|Wakefield|1994|p=101}}。多くのテントは後に[[プレハブ工法|プレハブ小屋]]や{{仮リンク|かまぼこ型組み立て兵舎|en|Nissen hut}}に置換され、[[ノルマンディー上陸作戦]]([[D-デイ]])後にはヨーロッパ最大の米軍病院となった{{sfn|Wright|2003|p=26}}{{sfn|Wright|1990|p=}}{{sfn|Wakefield|1994|p=101}}。戦闘の間、地所付きの農場管理は英国政府の{{仮リンク|農漁業食糧省 (イギリス)|label=農漁業食糧省|en|Ministry of Agriculture, Fisheries and Food (United Kingdom)}}が引き受け、レディ・ラクソールのみが自作農場 {{en|(The Home Farm)}} に留まった{{sfn|Wright|1990|p=}}。

{{仮リンク|ブリストル空襲|en|Bristol Blitz}}の間は爆弾が幾度も地所に着弾した<ref group="注">ブリストルはサマセットに北側で隣接している。ティンテスフィールドはサマセットの中でも北側のエリアであるノース・サマセットに位置しており、ブリストルにも程近い。</ref>。[[1940年]]9月に、{{仮リンク|フィルトン|en|Filton}}にあった[[ブリストル飛行機]]の工場が襲撃された際には、爆弾によって地所の水供給路が絶たれたほか{{sfn|Wright|1990}}、後の襲撃でも、玄関広間上の採光用天窓が爆弾でひどく壊された。戦争が終結した後の[[1946年]]、英国[[国防省 (イギリス)|国防省]]はティンテスフィールドの修復補助金を出すと申し出たが、レディ・ラクソールはこれを拒否した。結果として湿気や鳥が天窓から入り込む有様となり、この惨状は[[ナショナル・トラスト]]が建物を引き取り、改修工事に乗り出すまで放置された{{r|Building Conservation.com}}。

=== リチャード・ギブズ、第2代ラクソール男爵:1979年 – 2001年 ===
[[File:Tyntesfield Drawing room.JPG|thumb|客間{{r|drawingroom|group="注"}}の様子|alt=壁には暖炉、絵画が設置されている。暖炉の前にはカウチやソファがある]]
{{仮リンク|リチャード・ギブズ (第2代ラクソール男爵)|label=ジョージ・リチャード・ロウリー・ギブズ|en|Richard Gibbs, 2nd Baron Wraxall}}、通称リチャードは、[[1928年]][[5月16日]]に生まれ、[[イートン・カレッジ]]を経て[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]に進んだ。その後[[コールドストリームガーズ]] {{en|(The Coldstream Guards)}} に8年間仕官している<ref>{{cite web|last=Rayfield|first=Suzanne|title=Tyntesfield House|url=http://www.probuspontivyfr.org/TyntesfieldHouse.htm|work=Club de Pontivy|publisher=Probus|accessdate=21 January 2014|deadlink=2016-08-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140704042652/http://www.probuspontivyfr.org/TyntesfieldHouse.htm|archivedate=2014-07-04}}</ref>{{sfn|Steven|2011|p=4}}。リチャードは生涯未婚で通し、家督は弟で外交官のユースタス・ギブズ({{lang-en-short|Sir Eustace Gibbs|links=no}})が継いで第3代ラクソール男爵となった{{sfn|Miller|2006|p=9}}。

リチャードは[[2001年]]に、[[気管支喘息|喘息]]発作の合併症で未婚のまま亡くなったが{{sfn|Steven|2011|p=4}}、彼はティンテスフィールドで、実質的な居住空間としてわずか3部屋しか使用していなかったという{{sfn|Miller|2006|p=170}}。
{{clear}}
== ナショナル・トラストによる買い取り ==
第二次世界大戦終結後、多数の歴史的[[カントリー・ハウス]]が取り壊されたり冒涜され荒廃していった。1945年から1955年の間には、450もの重要な邸宅が完全に取り壊されている。1970年代、これを見かねた[[ナショナル・トラスト]]は、建築家の{{仮リンク|マーク・ジルアード|en|Mark Girouard}}に対し、[[ヴィクトリア朝]]に建てられ現存する英国中のカントリー・ハウスの、重要度や構造の保全度を評価して一覧にするよう委託した。ジルアードは報告書をまとめ、これは後に {{en|"''The Victorian Country House''"}} との題名で上梓されたが、[[1976年]]に発行された改訂第2版に、訪問可能な邸宅としてティンテスフィールドが登場する{{sfn|Girouard|1979}}。報告書を受けて、ナショナル・トラストは、ティンテスフィールドを保全すべき不動産のリストで第2位に位置づけた。これについてジルアードは、「ティンテスフィールドほど、あの時代を華麗に表現しているヴィクトリア朝のカントリー・ハウスは存在しない」({{lang-en-short|"There is no other Victorian country house which so richly represents its age as Tyntesfield."}})と述べた{{r|BBC2045513}}。

最後の当主となったリチャード・ギブズは、後々ティンテスフィールドを売却しなくてはいけない日が訪れることは悟っていた。これは大家族の保有する様々な資産や、家を住み良い環境に整えるのに必要である多大な維持費用を考えるとやむないことだった。また自分が死ぬと莫大な[[相続税]]が生じることも認識していたため、リチャードは遺言で、自分の財産を弟と異母姉の生存している子供たちに分配するよう委託した(この遺言での受取人は総勢19人になった)<ref group="注">[[#ジョージ・エイブラハム・ギブズ、初代ラクソール男爵:1907年 – 1931年|先述の通り]]、初代ラクソール男爵だったジョージには、前妻ヴィクトリアとの間に娘のアルビナ、後妻アーシュラとの間にリチャード(2代ラクソール男爵)、ユースタス(3代ラクソール男爵)と3人の子供がいた。</ref>{{sfn|Miller|2006|p=170}}。

リチャードの遺言には、相続人の過半数が地所の売り渡しに同意する必要があるとの委託書があり、また同意が得られた場合には、12ヶ月以内に競売を行って最高値を付けた入札者に地所を引き渡すよう書かれていた。邸宅と、{{convert|1000|acre}}の農場・{{convert|650|acre}}の森林・30の家やコテージの付いた地所は、{{仮リンク|サヴィルズ|en|Savills}}により主に3つに分けられて競売のリストに載せられ、総額は1,500万[[スターリング・ポンド|ポンド]]と見積もられた{{refnest|group="注"|競売の行われた2002年の1,500万ポンドは、{{Inflation|UK|15000000|2002|2013|fmt=eq}}である{{Inflation-fn|UK}}。2013年はアメリカドルに対して緩やかに円安が進んだ時期であり、単純に1月の始値と12月の終値の平均値を取ると、1ドルあたりおよそ94.51円となる<ref name="USDJPY2013">{{cite web|url=http://info.finance.yahoo.co.jp/history/?code=USDJPY%3DX&sy=2013&sm=1&ey=2013&em=12&tm=m|title=アメリカ ドル / 日本 円【USDJPY】:外国為替(2013年分)|work=Yahoo!ファイナンス|publisher=Yahoo!|accessdate=2016-08-15}}</ref>。これを元に計算すると、地所の見積もり値は2013年の日本円に換算して20億1,200万円ほどになる。また当時の100万ポンドは{{Inflation|UK|1000000|2002|2013|fmt=eq}}で、これを元に計算すると、2013年の日本円ではおよそ1億3,400万円相当、キャンペーンで集めようとした3,500万ポンドはおよそ46億9400万円相当となる。}}<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/1871591.stm|title='Remarkable' house for sale|publisher=BBC News|date=13 March 2002|accessdate=2 April 2013}}</ref>。また[[クリスティーズ]]はそれぞれ別個の[[競売|オークション]]で、邸宅や地所が競売されることを確約する契約を結んだ(ここで総額は1,500万ポンドを超えると見積もられた){{r|BBCnews020419}}。

[[1991年]]に{{仮リンク|チャスルトン・ハウス|en|Chastleton House}}を買い取って以来、ナショナル・トラストにはカントリーハウス買い取りの経験が無かった上、この一般公開までには7年もかかっている<ref name=Telg3301273>{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/property/propertyadvice/propertymarket/3301273/Faith-hope-and-a-charity.html|title=Faith, hope and a charity|author=Giles Worsley|publisher=[[デイリー・テレグラフ|Daily Telegraph]]|date=20 April 2002|accessdate=2016-08-15}}</ref>。またナショナル・トラスト自身に、他の入札者と張り合うだけの特別な重要性も無く、作曲家の[[アンドルー・ロイド・ウェバー]]や、ポップ・スターの[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]や[[カイリー・ミノーグ]]がナショナル・トラストと競合すると各種メディアで書き立てられた<ref name="BBCnews020419">{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/1938469.stm|title=Historic estate goes on sale|publisher=BBC News|date=19 April 2002|accessdate=2016-08-15}}</ref>。一方2002年5月には、ナショナル・トラストの新総長 ({{en|Director-General}}) に就任した{{仮リンク|フィオナ・レイノルズ|en|Fiona Reynolds}}が、「セーブ・ティンテスフィールド」キャンペーン({{lang-en-short|The ''"Save Tyntesfield"'' campaign|links=no}})を通じて3,500万ポンドを集める募金要請を打ち上げた<ref name="BBCnews020430">{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/1958370.stm|title=Famous flock to save historic hall|publisher=BBC News|date=30 April 2002|accessdate=2016-08-16}}</ref>。この要請には、デザイナーの{{仮リンク|ローレンス・ルウェリン=ボウエン|en|Laurence Llewelyn-Bowen}}やニュースキャスターの{{仮リンク|ジョン・スノウ (ジャーナリスト)|label=ジョン・スノウ|en|Jon Snow (journalist)}}、さらに複数の一流建築家や歴史学者が賛同した{{r|BBCnews020430}}。ナショナル・トラストの要請によりわずか100日で820万ポンドが集まったが<ref name=BBC2045513>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/2045513.stm|title=Trust 'hopeful' of buying historic mansion|publisher=BBC News|date=14 June 2002|accessdate=2016-08-13}}</ref>、この内訳は一般から集まった300万ポンド強に加え、100万ポンドと400万ポンドという匿名での大口寄付2件も寄せられた結果だった<ref>{{cite web|title=The Campaign To Save the Tyntesfield Estate|url=http://www.everettgenerations.com/EveredInEng.htm|publisher=Everett Generations|accessdate=30 January 2014}}</ref>。ナショナル・トラストは{{仮リンク|国民文化財記念基金|en|National Heritage Memorial Fund}}の議長{{仮リンク|リズ・フォーガン|en|Liz Forgan}}との交渉の末に、基金から1,740万ポンドを受け取った{{r|NTRoof}}<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/2019546.stm|title=Lottery cash pledge for Tyntesfield|publisher=BBC News|date=31 May 2002|accessdate=2016-08-16}}</ref>{{r|bombsandbears}}。これは基金から1度に拠出された金額として過去最高であり、後に論争を呼ぶことにもなっている<ref name="bombsandbears">{{cite news|url=http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2008/aug/05/heritage|title=Bombs, bears and a carved coconut: inside a neo-Gothic treasure trove|last=Siddique|first=Haroon|date=5 August 2008|publisher=The Guardian|page=8|accessdate=5 August 2008}}</ref>。また{{仮リンク|国営宝くじ (イギリス)|label=イギリス国営宝くじ|en|National Lottery (United Kingdom)}}は、必要となる大がかりな保全作業に、追加で2,500万ポンドを充てると発表した{{r|Minerva}}。

オークションの結果、以前のような「ティンテスフィールド地所」は消失した。ナショナル・トラストは、邸宅や家庭菜園、公園を含む地所の主要・中心地区のみを買い取った上、追加で土地売却も行っている。現在「ティンテスフィールド」として知られているのは、{{convert|150|acre}}の土地にある、邸宅と周辺の庭園である。チャールトン農園({{lang-en-short|Charlton Farm|links=no}})は、現在{{仮リンク|チルドレンズ・ホスピス・サウス・ウェスト|en|Children's Hospice South West}}に保有され、末期症状に侵された子供たちに[[緩和医療|緩和ケア]]を提供する施設として運用されている<ref>{{cite web|title=Charlton Farm|url=http://www.chsw.org.uk/charlton-farm|publisher=Children's Hospice South West|accessdate=2016-08-16}}</ref>。{{仮リンク|チャールトン・ハウス (ラクソール)|label=チャールトン・ハウス|en|Charlton House, Wraxall}}は民間に売り払われ、[[1927年]]からダウンズ・スクール({{lang-en-short|Downs School|links=no}})に利用されている<ref>{{cite web|title=The History of the Downs|url=http://www.thedownsschool.co.uk/the-history-of-the-downs/|publisher=Down's school|accessdate=20 May 2013}}</ref><ref>{{cite web|title=Downs School, Wraxall, The , (also known as Charlton House), Bristol, England|url=http://www.parksandgardens.org/places-and-people/site/1123|publisher=Parks & Gardens UK|accessdate=20 May 2013}}</ref>。

=== 買取後の大規模改修工事 ===
2002年に所有権を取得した後、ナショナル・トラストのスタッフは邸宅や庭園の保全を確約し、ギブズ家によって4代をかけて収集された邸宅の調度品をカタログ化し始めた。当初は30人のボランティアスタッフで作業が行われていたが、2013年までには雇われスタッフ・ボランティア合わせて600人が従事するようになり、これはナショナル・トラストが管理している他のどの地所よりも多いスタッフ数だった{{sfn|Steven|2011|p=4}}。

買取後の修繕工事は、邸宅が風雨に耐えられるようにすることを主眼に置いていた{{r|Building Conservation.com}}。英国の一般家屋の20倍もの大きさがある屋根の修繕は、大規模に屋根状の独立した足場枠を建てることで解決された<ref>{{cite web|title=Tyntesfield Grade I listed building, Bristol UK|url=http://www.harsco-i.co.uk/case_studies/?view=1305|publisher=Harsco|accessdate=30 January 2014|deadlink=2016-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202154245/http://www.harsco-i.co.uk/case_studies/?view=1305|archivedate=2014-02-02}}</ref>。修繕工事中には、建物の外側全体を覆うように{{convert|28|mi}}のトンネル状[[足場]]が組まれた<ref>{{cite web|title=Conserving the house|url=http://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield/our-work/projects/conserving-the-house/|publisher=National Trust|accessdate=21 January 2014|deadlink=2016-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140201174806/http://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield/our-work/projects/conserving-the-house/|archivedate=2014-02-01}}</ref>。これにより18ヶ月以上に渡る修理・修復が可能となり、はっきりした赤と黒のタイルでできた[[幾何学|幾何学的]]{{仮リンク|ダイパリング|en|Diapering}}模様も復元された<ref name=NTRoof>{{cite web|url=http://www.nationaltrust.org.uk/article-1356399096669/|title=Tyntesfield roof uncovered after years under wraps|publisher=[[ナショナル・トラスト|National Trust]]|date=2013-03-27|accessdate=2 April 2013|deadlink=2016-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151018120334/http://www.nationaltrust.org.uk/article-1356399096669/|archivedate=2015-10-18}}</ref>。地所には、[[銅]]で覆われた特殊なケーブルで再度電気配線された(これは火事や[[齧歯類]]被害防止が実証されている)。元々あった[[鉛]]パイプは多くが交換され、主に最適な区画デザインをすることで防火対策が計画・実行された。内装工事では、天窓の修繕や高所の内装工事ができるよう、玄関広間に{{convert|43|ft}}の足場が組まれた{{r|Building Conservation.com}}。これらの初期修繕には1,000万ポンド以上がかかり、そのほとんどは「セーブ・ティンテスフィールド」キャンペーンや来場者への宝くじ販売で賄われた{{sfn|Miller|2006|pp=174–175}}。

ナショナル・トラスト側は、作業実施中に見学者を入れることには消極的だった。これは1974年に制定された{{仮リンク|1974年労働安全衛生法 (イギリス)|label=労働安全衛生法|en|Health and Safety at Work etc. Act 1974}}で要求されるコストや、重要な改修工事に遅れが出かねないことを心配したものだった。しかし工事には何かと物入りであり、このことからナショナル・トラストは、改修工事を一般の人に間近で見てもらうことは、自分の寄付金の行き先や修繕の結果を見せることになり、より多くの寄付金が集まるきっかけになると気付かされた{{r|Building Conservation.com}}{{sfn|Miller|2006|pp=174–175}}。

== 地所 ==
{{wide image|Tyntesfield 2.jpg|750px|エントランス部分のパノラマ写真。左から右に、図書館、エントランス・ホール、メイン・ハウス、寝室棟と教会堂|alt=エントランス部分のパノラマ写真。左から右に、図書館、エントランス・ホール、メイン・ハウス、寝室棟と教会堂}}

=== 邸宅の内装 ===
[[File:TyntesfieldDrawingRoom0.jpg|thumb|275px|1878年に{{仮リンク|ベッドフォード・レミア|en|Bedford Lemere}}によって撮影された客間の写真|alt=天井にはシャンデリア、壁には絵画や大きな鏡、暖炉が設置されている。床には文机やクッション、ソファなどが置かれている]]
邸宅のメインとなる部屋には、図書館、客間{{r|drawingroom|group="注"}}、{{仮リンク|イギリス・ビリヤード|en|English billiards}}室、食堂、教会堂が含まれる。修繕工事の間ナショナル・トラストは、初めて工事の様子を一般公開し、「ティンテスフィールドを甦らせる挑戦の証人」({{lang-en-short|"witness the challenge of bringing Tyntesfield back to life"}})になってほしいと宣伝した{{sfn|Lilwall-Smith|2005|p=119-122}}。

図書館は、ナショナル・トラストの保有する中で最も重要な、紳士階級の図書館と見なされている。図書館の絨毯や家具のいくつかは{{仮リンク|ジョン・グレゴリー・クレイス (デザイナー)|label=ジョン・グレゴリー・クレイス|en|John Gregory Crace (designer)}}の設計によるもので{{sfn|Steven|2011|p=4}}、所蔵図書はナショナル・トラストが保有する[[ヴィクトリア朝]]の図書コレクションとして最大のものである<ref>{{cite web |title=English Country House Libraries (page 4) |url=http://www.beautiful-libraries.com/3500-4.html |publisher=Beautiful Libraries |accessdate=30 January 2014|deadlink=2016-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140715145115/http://www.beautiful-libraries.com/3500-4.html|archivedate=2014-07-15}}</ref><ref>{{cite web |title=National Trust libraries gazetteer |url=http://copac.jisc.ac.uk/about/libraries/ntgazetteer.html|publisher=copc |accessdate=2016-08-16}}</ref>。

邸宅の中心には玄関広間と階段があるが、これは元々の設計から数多の変更を加えられたものである{{sfn|Miller|2006|p=137}}。

ナショナル・トラストが所有権を取得して以来、天窓を修復するため玄関広間には足場が設置されていた。この足場が設置されている間、建築美術鑑定士のリサ・エスタライチャー<ref group="注">{{lang-en-short|The architectural paint analyst Lisa Oestreicher|links=no}}</ref>は、人の出入りが頻繁だった空間や部屋に使われていた、装飾面の設計を調査した。この調査によって3つの大きなフェーズが明らかになった。オリジナルは1860年代に作られ、続く1870年代には更新と改造が行われた。1887年から1890年には改装が行われ、主要空間には元々クレイスが設計したモチーフと緑色が復活した{{r|Building Conservation.com}}。天窓の工事が完了した後、ナショナル・トラストは、[[クリスティーズ]]の請負人に台無しにされた古い{{仮リンク|シェニール織物|label=シェニール織|en|Chenille fabric}}の絨毯を取り替え、代わりにリニー・クーパー<ref group="注">{{lang-en-short|Linney Cooper|links=no}}</ref>によるレプリカ・デザインで、ウィルトン・カーペット({{lang-en-short|Wilton carpet}})が制作した絨毯を導入したが、この代金45,000ポンドは公共宝くじによる寄付で賄われた{{r|Building Conservation.com}}。

=== 調度品の内容 ===
[[File:TyntesfieldWindow.jpg|thumb|275px|right|ティンテスフィールドには多数の[[ステンドグラス]]が設置されている。|alt=ステンドグラスの写真。中央やや上よりに、白い花と葉っぱがあしらわれた円に縁取りされた黄色い王冠がデザインされているほか、この縁取りと同じ白い花と葉っぱがステンドグラス全体を縁取っている]]
クリスティーズは元々、邸宅内には1万点を超える調度品があると見積もっていたが、[[2008年]]までには全体で3万点もの調度品がリスト化された。この中には、{{仮リンク|ウィリアム・バターフィールド|en|William Butterfield}}の設計による銀器や、[[オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン|オーガスタス・ピュージン]]や[[ジョン・ラスキン]]のオリジナル・プリント本、[[第二次世界大戦]]中の不発弾、宝石で覆われた杯、19世紀の{{仮リンク|フロッキング (織り方)|label=フロック・ペーパー|en|Flocking (texture)}}でできた壁紙1巻き、顔や髪が彫られた[[ココナッツ]]などが含まれる{{r|bombsandbears}}。2013年までに目録へ47,154点が登録されたが、現在でも未分析で目録化されていない部屋が存在する<ref>{{cite web |url=http://www.nationaltrustcollections.org.uk/search/highlights/Tyntesfield,-Somerset/1 |title=Highlights from Tyntesfield, Somerset |publisher=National Trust Collections |accessdate=2 April 2013}}</ref>。

==== 絵画 ====
ギブズ家が所有していた膨大な絵画コレクションの大半も、ナショナル・トラストへ寄贈された。コレクションの多くは、ウィリアムによって[[スペイン]]から持ち込まれたものである。コレクションの状態は幾分悪かったが、この損害は水気によるものだけではなく、皮肉なことにギブズ家の家業だった[[グアノ]]によるところも大きかった。コレクションの中で最も重要な作品は、17世紀にスペインの画家、{{仮リンク|アロンソ・デ・ジェラ・サンブラノ|label=サンブラノ|en|Alonso de Llera Zambrano}}が[[ローマのラウレンティウス]]を描いた作品で、広間の壁中腹に掛けられていた。絵画は、ウィリアム・ギブズが近郊の村{{仮リンク|フラックス・ボートン|en|Flax Bourton}}に建てた教会を拠点に活動する、地元の美術修復士、ブッシュ・アンド・ベリー<ref group="注">{{lang-en-short|Bush and Berry|links=no}}</ref>によって洗浄・修復された{{r|Building Conservation.com}}。2011年には、[[ニューヨーク]]で行われたクリスティーズのオークションにおいて、[[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]]による絵 {{es|"''The Mater Dolorosa''"}}({{lang-en-short|"''Mother of Sorrows''"}}、意味:悲しみの聖母)がナショナル・トラストの手で競り落とされたが、これはウィリアムが1910年頃までに購入し、ティンテスフィールドに掛けられていた絵画だった<ref>{{cite web |url=http://www.westerndailypress.co.uk/Old-Master-Tyntesfield-s-great-hall-100-years/story-12325600-detail/story.html#axzz2PP5QABBq |title=Old Master back in Tyntesfield's great hall&nbsp;... after 100 years |publisher=Western Daily Press |date=29 March 2011 |accessdate=2016-08-16|work=SomersetLive}}</ref>。

=== ホーム・ファーム・ビジター・センター ===
自作農場({{lang-en-short|The Home Farm|links=no}})の建物は1880年代に建てられ、2層に分割されている。南側は2階建ての木製屋根で覆われた作業場で、農場の動物を養育するのに使われていた。上層はメイン・ヤードで、東西に2つのウィング(翼棟)を持っており、片方は以前の豚小屋に繋がっている。農場の事務所は北ウィングにあり、四角く緩やかに南へ傾斜した庭を囲うように建っている{{r|TiS12740095}}。

グレードII* の指定文化財だった建物には全面的な改修工事の必要があり{{refnest|group="注"|英国の指定文化財{{enlink|Listed building}}には、3段階がある。1番上はグレードI、次がこのグレードII*、その下がグレードIIである。グレードII* の要件は {{en|"particularly important buildings of more than special interest"}}(特別な文化財以上の重要性を持つ建物)、グレードII の要件は {{en|"Grade II buildings are of special interest, warranting every effort to preserve them"}}(特別な文化財で、保全に努力する必要があるもの)とされている<ref>{{cite web |url=http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20121204113822/http://www.culture.gov.uk/images/publications/Principles_Selection_Listing.pdf|title=Principles of Selection for Listing Buildings |publisher=Department of Culture, Media and Sport |format=PDF |date=March 2010 |accessdate=2016-08-16|page=4}}</ref>。}}、ナショナル・トラストの計画では邸宅に続いて第2位の重要性を与えられた。ナショナル・トラストはこの建物を、総合的かつ独立したビジター・センターに作り替え、以下を備えた施設として2011年半ばにオープンさせた<ref name=TiS12740095>{{cite web |url=http://www.westerndailypress.co.uk/Farm-buildings-opened-public-enjoy-Tyntesfield/story-12740095-detail/story.html#axzz2PP5QABBq |title=Farm buildings opened up for public to enjoy at Tyntesfield estate |publisher=Western Daily Press |date=9 June 2011 |accessdate=2016-08-16}}</ref>。
* アッパー・ヤード({{lang-en-short|Upper yard|links=no}}、上層階)
** チケット売り場・インフォメーション
** デモンストレーション・エリア:訪問する職人たちによる地元工芸の実演。
** プラント・センター:基金のため、庭師が育てた植物の内、余った物を販売している。
** 農場風遊び場({{lang-en-short|Farm-themed play area|links=no}})
** 中古本売店:売り上げはナショナル・トラストの基金になる。
* レストラン:以前あった2階建ての屋根付き作業場は完全に改装され、カフェ・レストランに作り替えられた。同じ建物には土産物屋も入っている。新設された階段やエレベーター、橋状の通路は全て鉄製で、ここを通ってアッパー・ヤードに向かうことができる。
* 東側の別棟:ビジター・センターに電力や空調を提供するための建物。[[太陽光発電]]、光起電性電池、バイオマス・ボイラーの組み合わせ発電を行っている。

=== 大庭園 ===
[[File:Tyntesfield House - geograph.org.uk - 1207964.jpg|thumb|right|275px|東側の幾何学的庭園から邸宅を望む(2008年4月撮影)|alt=石で縁取られた円形の花壇に若木が1本生えている。花壇の奥には小道が続き、その向こうに邸宅が見える]]
邸宅はナショナル・トラストがオークションで獲得した{{convert|150|acre}}の大庭園の中に立地しており、邸宅をこの環境の中に残せるよう周辺の地所も手入れが続けられている。樹木に覆われた庭園から並木道を抜けると欄干の付いたテラスに出ることができ、また散歩道を抜けると{{仮リンク|バラ園|en|Rose garden}}や{{仮リンク|サマー・ハウス|en|Summer house}}、鳥小屋{{enlink|Aviary}}、[[コンクリート]]で縁取られた以前の池へ出られるが、この池は第二次世界大戦以降水が抜かれたままである{{sfn|Miller|2006|p=166}}。
{{clear}}
=== 家庭菜園 ===
[[家庭菜園]]には[[温室]]や冷床{{refnest|group="注"|{{en|"frames."}} 加温せずに苗を寒さから保護する枠組み<ref>{{Cite encyclopedia|author=[[小西友七]]|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=cold frame|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=[[東京都]][[文京区]]|publisher=[[大修館書店]]|publication-date=2011|series=[[ジーニアス (辞典)|ジーニアス]]|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。}}、大きな[[古典主義|古典的]]{{仮リンク|オランジェリー|en|Orangery}}([[オレンジ]]温室栽培園){{refnest|group="注"|本来寒冷地では育たないオレンジを温室を用いて育てるのは、英国の富豪や貴族にとって富の象徴だった<ref>{{Cite encyclopedia|author=[[小西友七]]|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=orangery|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=[[東京都]][[文京区]]|publisher=[[大修館書店]]|publication-date=2011|series=[[ジーニアス (辞典)|ジーニアス]]|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。}}、庭師用の区画がある{{sfn|Greenacre|2003|p=39}}。

==== オランジェリー ====
[[File:Tyntesfield Orangery.JPG|thumb|300px|left|修復中のオランジェリー|alt=上部の半円形に四角形が足された大きな窓が6枚見える。修復中のためオランジェリーの側面には足場とビニールが見える]]
グレードII* に指定されたオランジェリーは、かつては家庭菜園の中での中心的建築だった。一方で、ナショナル・トラストが地所を買い上げてから、オランジェリーは荒廃しかねないような危うい状況に置かれ、[[イングリッシュ・ヘリテッジ]]でリスクのある文化財を登録する{{仮リンク|ヘリテッジ・アット・リスク|en|Heritage at Risk}}で、最も緊急性の高いカテゴリAに分類された<ref>{{cite web |title=South West England |url=http://www.english-heritage.org.uk/publications/HAR_Register_South_West_2009/southwest-2009-har-register.pdf |work=Heritage at Risk |publisher=[[イングリッシュ・ヘリテッジ|English Heritage]] |format=PDF |accessdate=30 June 2010 |page=177|deadlink=2016-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131022170933/http://www.english-heritage.org.uk/publications/HAR_Register_South_West_2009/southwest-2009-har-register.pdf|archivedate=2013-10-21}}</ref>{{r|Telg8763221}}。

[[1897年]]に[[切石積み]]と赤い[[レンガ]]で建てられたこのオランジェリーは、[[ヴィクトリア朝]]後期に建てられた[[古典主義]]様式のオランジェリーとして数少ない現存例である。東西の設計には中央玄関を含めて7つの{{読み仮名|柱間|はしらま}}、南北には3つの柱間があり、頂上には上薬をかけられた鉄製の隅棟付き屋根が付けられている{{refnest|group="注"|{{読み仮名|隅棟|すみむね}}とは、屋根の済で斜め方向に降りている棟<ref>{{cite encyclopedia|encyclopedia=デジタル大辞泉|title=隅棟|publisher=[[小学館]]|series=[[大辞泉]]}}</ref>。}}。水平に突き出た{{仮リンク|ゲイソン|en|geison}}{{refnest|group="注"|日本語では「{{読み仮名|軒蛇腹|のきじゃばら}}」と呼ばれる<ref>{{cite encyclopedia|encyclopedia=独和大辞典|edition=2|publisher=[[小学館]]|title=Geison|year=2000|author=国松孝二|isbn=4095150327|ncid=BA43793949|id={{全国書誌番号|20020375}}}}</ref>。古代ギリシャ・ローマの建築に見られるもので、フリーズ(蛇腹)から張り出しエンタブラチュアの一部を成す。[[ドーリア式]]、[[イオニア式]]、[[コリント式]]の建築などで見られるもの。}}が付いた[[エンタブラチュア]]は、[[イオニア式]]半柱支えと角の[[付柱]]の上に鎮座している。西側正面にあり家庭菜園に面した中央玄関の柱間は、[[ポルチコ|ポルティコ]]状になっており、ポルティコの壁には巨大な柱が取り付けられているほか、でこぼこの[[ペディメント]]には小さな[[オクルス]]が付けられている。どの柱間にも、装飾的な縁取りがなされ要石が付き、上部が半円形になっている大きな窓が設置されている<ref>{{cite web |url=http://www.britishlistedbuildings.co.uk/en-489537-orangery-at-tyntesfield-park-wraxall-and |title=Orangery at Tyntesfield |publisher=BritishListedBuildings.co.uk |accessdate=3 April 2013}}</ref>。

オランジェリーを保全し修復するため、ナショナル・トラストは{{仮リンク|バース・カレッジ|label=バース市大学|en|Bath College}}やニンバス・コンサベーション有限責任会社({{lang-en-short|Nimbus Conservation Ltd|links=no}})と革新的パートナーシップを結び、12人の見習い石工をプロ職人と共に働かせてその技術に磨きを掛け、それから必要となる専門的石工作業を行わせるプロジェクトを立ち上げた{{r|NTorangery}}。ナショナル・トラストは修繕に関わる他のプロ職人や学者のためにもワークショップを開いたが、このワークショップは後に修繕に関心を持つ一般人にも門戸が開かれ、全員が建物の修繕に必要とされる技術を実践的に学ぶようになった。技術を磨くためのこの育成戦略を打ち上げたことに対し、[[デイリー・テレグラフ]]が後援する2011年の「[[イングリッシュ・ヘリテッジ]]・エンジェル賞」({{lang-en-short|English Heritage Angel Award|links=no}})がナショナル・トラストへ贈られている<ref name=Telg8763221>{{cite web |url=http://www.telegraph.co.uk/culture/angel-awards/8763221/The-Angel-Awards-Tyntesfield-Orangery-Somerset.html |title=Tyntesfield Orangery |publisher=[[デイリー・テレグラフ|Daily Telegraph]] |date=17 September 2011 |accessdate=2016-08-16}}</ref><ref>{{cite web |url=http://innorthsomerset.co.uk/news/tyntesfield-wins-major-award-for-restoration-of-orangery |title=Tyntesfield wins major award for restoration of Orangery |publisher=InNorthSomerset.co.uk |date=3 November 2011 |accessdate=2016-08-16}}</ref>。

事業には42万ポンドの予算が付き、基礎や下層の石造建築を安定化させることに主眼が置かれた。大半は基礎部分に固定用材料を注入する工事で完成させられたが、この方法には化学反応と硬化のための時間がかかった。このため壁や屋根から作業が進められ、最後に装飾部分の工事が行われた。オランジェリーは現在、一部がカフェとして使われているほか、残りの部分はナショナル・トラストによる国際的技術養成センターになっており、新しい職人や修繕作業の専門家を育てるための訓練が行われている<ref name="NTorangery">{{cite web |url=http://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield/our-work/projects/the-orangery-restoration/ |title=The orangery restoration |publisher=[[ナショナル・トラスト|National Trust]] |accessdate=21 January 2014|deadlink=2016-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140201174803/http://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield/our-work/projects/the-orangery-restoration/|archivedate=2014-02-01}}</ref>。

==== 鳥小屋 ====
ティンテスフィールドの鳥小屋{{enlink|Aviary}}は邸宅の西側に位置し、古い温室の基礎と隣接している。鳥小屋は[[1880年]]に外来の鳥を飼うため設置されたが、初代ラクソール伯爵の娘ドリーン・アルビナ({{lang-en-short|Doreen Albina|links=no}})のための「子供の家」(プレイハウス)に作り替えられた。鳥小屋は地所の特徴の1つと考えられており<ref>{{cite web |url=http://www.bristolpost.co.uk/Twittering-1880s-style/story-11278323-detail/story.html |title=Twittering 1880s style at Tyntesfield estate |publisher=Bristol Evening Post |accessdate=2016-08-16}}</ref>、さらにグレードII の指定文化財になっている<ref>{{cite web |title=Aviary immediately north west of Tyntesfield House |url=http://www.heritagegateway.org.uk/Gateway/Results_Single.aspx?uid=1061329&resourceID=5|work=Heritage Gateway |publisher=[[イングリッシュ・ヘリテッジ|English Heritage]] |accessdate=2016-08-16}}</ref>。

=== 製材工場 ===
[[File:Tyntesfield Sawmill.jpg|thumb|275px|製材工場の建物。現在では全体が修復され、学習センター({{lang-en-short|Learning Centre|links=no}})に作り替えられている|alt=木立の奥にオレンジ色のレンガで作られた小屋が見える。小屋の屋根にはガラスの天窓や煙突が付いている]]
この土地が採石場として使われていた時代に親方小屋があった場所へ、[[1899年]]に新しい[[製材|製材工場]]が建てられた。この建物には2つの[[蒸気エンジン]]と[[空圧]]動力機が設置され、地所中へ電力供給を行っていた。エンジンは現在エンジン室({{lang-en-short|the Engine Room|links=no}})と呼ばれている部屋に設置されていたが、天窓室({{lang-en-short|The Lantern Room|links=no}})には複数の[[鉛蓄電池]]も置かれていた。開設後、電力供給をより楽にするため、地所全ての製材工場をこの建物へ移す決定がなされた。蒸気エンジンは[[ディーゼルエンジン|ディーゼル発電機]]に交換され、第二次世界大戦後には電力が国営の高圧線配電網で供給されるようになった。1960年代には製材工場は解体され、全ての木材は第三者の土建業者に引き渡されて、のこぎり製の木工製品に利用された<ref>{{cite web |url=http://www.nationaltrust.org.uk/article-1356393353175/ |title=The story of the Sawmill Centre at Tyntesfield |publisher=[[ナショナル・トラスト|National Trust]] |date=6 May 2009 |accessdate=2 April 2013|deadlink=2016-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150829215219/http://www.nationaltrust.org.uk/article-1356393353175|archivedate=2015-08-29}}</ref>。

ナショナル・トラストの管理下で製材工場は改装され、教育センターと、ビジネスや一般人向けに貸し出される機能スペースとの複合施設に作り替えられた。この建物はナショナル・トラストのスタッフやボランティアによって、学校でティンテスフィールドを訪問するグループへの教育に利用されることが最も多い。メイン・ハウスには{{仮リンク|バイオマス・ヒーティング・システム|label=バイオマス・ボイラー|en|Biomass heating system}}が設置されており、石油を使う古い火力発電ボイラーと比べて、年間で141[[トン]]の[[二酸化炭素]]を削減することができる<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/local/bristol/hi/people_and_places/history/newsid_8644000/8644149.stm|title=Tyntesfield House's biomass boiler to be switched on|publisher=BBC News|date=26 April 2010|accessdate=2 April 2013}}</ref>。以前木材小屋があった別の区画には、新しく[[コウモリ]]用の止まり木が据えられ、「コウモリ宮殿」({{lang-en-short|a "bat palace"|links=no}})と呼ばれている。[[2009年]]5月には、修繕作業へ協力した団体の1つである{{仮リンク|文化遺産宝くじ基金|en|Heritage Lottery Fund}}の総長、{{仮リンク|ジェニー・アブラムスキー|en|Jenny Abramsky}}によって、センターの開設が宣言された<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/local/bristol/hi/people_and_places/history/newsid_8034000/8034267.stm|title=Tyntesfield gets new learning hub|publisher=BBC News|date=6 May 2009|accessdate=2 April 2013}}</ref>。

=== 動物相 ===
[[File:Tyntesfield Stable block.JPG|thumb|ティンテスフィールドの馬小屋区画。屋根にはコウモリ用の止まり木がある|alt=赤茶色の屋根にオレンジ色のレンガ壁が合わせられた建物。]]
==== コウモリ ====
英国に住む17種の[[コウモリ]]のうち10種類が地所で見つかっており{{r|tyntesbat}}、うち8種は建物の構造内に生息している<!--原文:Ten of the seventeen species of UK bat are found on the property, eight within the structure of the house alone.-->。希少種で絶滅の危機に瀕している{{仮リンク|ヒメキクガシラコウモリ|en|Lesser horseshoe bat}}や[[キクガシラコウモリ]]も地所に生息している。維持管理作業はコウモリの[[冬眠]]や繁殖時期に合わせるように行われ、建設作業の合間には新しい止まり木も作られている。訪問者は、運が良ければ有線テレビシステムで地所に住むコウモリの姿を見ることもできる<ref name="tyntesbat">{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/bristol/8069573.stm |title=Tyntesfield's bat policy praised |publisher=BBC News |date=27 May 2009 |accessdate=2 April 2013}}</ref>。
{{clear}}
== 映画撮影での利用 ==
ティンテスフィールドは数々の映画撮影に利用されている。

[[2006年]]のテレビ映画『{{仮リンク|ドラキュラ (2006年の映画)|label=ドラキュラ|en|Dracula (2006 film)}}』は、ティンテスフィールドで撮影された{{r|imdb}}。この作品は[[ブラム・ストーカー]]による[[吸血鬼ドラキュラ (小説)|同名小説]]を翻案したもので、制作は{{仮リンク|ITVグラナダ|label=グラナダ・テレビジョン|en|ITV Granada}}、[[BBCウェールズ]]、[[ボストン]]の{{仮リンク|WGBH-TV|en|WGBH-TV}}が行った。

[[2007年]]の映画『[[エンジェル (2007年の映画)|エンジェル]]』でもティンテスフィールドが使われている<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/bristol/content/image_galleries/angel_tyntesfield_gallery.shtml|title=Tyntesfield's movie stardom|work=Historic Places|publisher=[[英国放送協会|BBC Bristol]]|accessdate=2016-08-16}}</ref><ref name="bristolpost080918">{{cite news|url=http://www.bristolpost.co.uk/tyntesfield-makes-film-debut/story-11231067-detail/story.html|title=Tyntesfield makes its film debut|publisher=Bristol Post|accessdate=2016-08-16|date=2008-09-18}}</ref>。この作品は英国の作家{{仮リンク|エリザベス・テイラー (小説家)|label=エリザベス・テイラー|en|Elizabeth Taylor (novelist)}}の小説を元にしており、ヒロインの寝室に客間<ref group="注" name="drawingroom">{{en|"Drawing room."}} 応接室や居間などの意味に使われることもある。</ref>が使われるなどした。

[[2013年]]には『[[ドクター・フー|DOCTOR WHO]]』のエピソード『井戸の魔女』{{enlink|Hide (Doctor Who)}}がティンテスフィールドで撮影された<ref name="imdb">{{cite web|url=http://www.imdb.com/search/title?locations=Tyntesfield%20House%20and%20Estate,%20Wraxall,%20Somerset,%20England,%20UK|title=Most Popular Titles With Location Matching "Tyntesfield House and Estate, Wraxall, Somerset, England, UK" |publisher=[[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]]|accessdate=2016-08-16}}</ref>{{r|sherlock}}。

[[2016年]]正月に[[BBC One]]で放送された『[[SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁]]』では、事件の依頼主であるカーマイケル夫妻の邸宅や、[[ロンドン]]にある[[ジョン・H・ワトスン|ワトスン医師]]の邸宅として用いられた<ref name="sherlock">{{cite web|url=https://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield/features/sherlock-at-tyntesfield|title=Sherlock at Tyntesfield|publisher=National Trust|work=Tyntesfield|accessdate=2016-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160816092548/https://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield/features/sherlock-at-tyntesfield|archivedate=2016-08-16}}</ref><ref group="注">『忌まわしき花嫁』は、英国では特別編としてテレビ放映されたが、日本では映画扱いとして劇場公開されている。</ref>。

また[[ITV (イギリス)|ITV]]制作で同年3月に放送された『{{仮リンク|ドクター・ソーン<!--邦題未定ですので転記のみ-->|en|Doctor Thorne (TV series)}}』{{en|''Doctor Thorne''}} にもティンテスフィールドで撮影されたシーンが用いられている{{r|sherlock}}<ref>{{cite web|url=https://www.nationaltrust.org.uk/features/our-places-in-dr-thorne|title=Our places in Dr Thorne|publisher=National Trust|work=Back to For film and TV lovers|accessdate=2016-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160816093849/https://www.nationaltrust.org.uk/features/our-places-in-dr-thorne|archivedate=2016-08-16}}</ref>。この作品は、『[[ダウントン・アビー]]』などを手掛けた脚本家[[ジュリアン・フェロウズ]]が、[[ヴィクトリア朝]]の英国人作家{{仮リンク|アンソニー・トロロープ|en|Anthony Trollope}}の同名作品『{{仮リンク|ソーン医師|en|Doctor Thorne}}』を翻案したドラマ作品である<ref>{{cite web|url=http://dramanavi.net/news/2015/04/19-4.php|title=『ダウントン・アビー』クリエイター、19世紀を舞台にした小説をドラマ化!|date=2015-04-27|accessdate=2016-08-16|work=海外ドラマNAVI|publisher=[[WOWOW]]}}</ref>。

[[ブリストル]]や邸宅の建つ{{仮リンク|ノース・サマセット|en|North Somerset}}を舞台にした2016年の映画『{{仮リンク|ゴールデン・イヤーズ (2016年の映画)|label=ゴールデン・イヤーズ|en|Golden Years (2016 film)}}』(原題)の撮影も行われている<ref>{{cite web|url=http://www.nailseapeople.com/tyntesfield|title=Golden Years at Tyntesfield|work=Tyntesfield|publisher=NAILSEA ​PEOPLE|accessdate=2016-08-16}}</ref>。

== 訪問者のアクセス方法 ==
ティンテスフィールドへの訪問者は、B3128号線上にあるメイン・エントランスを通って邸宅に入るが、{{仮リンク|M5モーターウェイ|en|M5 motorway}}の19・20どちらのジャンクションからでも辿り着くことができる<ref group="注">[[モーターウェイ]]はイギリスの高速道路である。B3128号線を含むB道路はイギリスの道路の分類法で、A道路に比べて重要度の低いものが分類される{{enlink|B roads in Zone 3 of the Great Britain numbering scheme}}。</ref>。ホーム・ファーム・ビジター・センターとチケット売り場から{{convert|50|m}}の位置に駐車場が設置されている。駐車料金は1日3[[スターリング・ポンド|ポンド]]だが、ナショナル・トラストの会員カードと有効なステッカーがあるか、ブルーバッジが交付されている場合には無料になる{{r|prices}}{{refnest|group="注"|ブルーバッジとは英国の公認ツアーガイド資格<ref>{{cite web|url=http://www.jrtga.com/|title=JRTGA 英国公認日本語ガイド協会|accessdate=2016-08-16}}</ref>。}}。最寄りの鉄道駅は{{仮リンク|ネイルシー・アンド・バックウェル駅|en|Nailsea and Backwell railway station}}で、ティンテスフィールドからは{{convert|2|mi}}離れている。また{{仮リンク|ブリストル・バス・ステーション|en|Bristol Bus Station}}からは定期バスが運行されている<ref>{{cite web |url=https://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield#How%20to%20get%20here |title=How to get here |publisher=National Trust|work=Tyntesfield|accessdate=2016-08-16}}</ref>。

ホーム・ファーム・ビジター・センターは訪問者が最初に立ち寄る場所で、カフェやレストラン、土産物屋、トイレ、チケット売り場など様々なサービスが提供されている。入場料は、地所と庭園のみのもの、邸宅を含めた全体のものと2つに分かれている<ref name="prices">{{cite web|url=https://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield#Prices|title=Prices|work=Tyntesfield|publisher=National Trust|accessdate=2016-08-16}}</ref>。邸宅への入場は30分ごとの入場時間区画に分けられた、時間指定チケットで管理されている。ビジター・センターから邸宅までは庭園や木立を抜ける{{convert|400|m|adj=on}}の歩道を歩くか、邸宅を通ってオランジェリーに向かうバイオ・[[ディーゼルエンジン|ディーゼルバス]]に乗ることができる<ref>{{cite web |url=https://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield#Facilities%20and%20access|title=Facilities and Access |publisher=National Trust|accessdate=4 April 2013}}</ref>。

季節によって異なるアトラクションが実施されており、[[ジオキャッシング]]大会は年6回開かれている。動物相やその生息地に焦点を当てた散歩道も、{{仮リンク|通行権|label=公共通行権|en|Right of way}}の元に設置されており、年中無料で散策できる<ref>{{cite web |url=http://www.telegraph.co.uk/gardening/gardeningpicturegalleries/8259515/Top-calorie-busting-National-Trust-walks.html?image=4 |title=Top calorie-busting National Trust walks |publisher=[[デイリー・テレグラフ|Daily Telegraph]] |accessdate=4 April 2013}}</ref>。

== 関連項目 ==
* {{仮リンク|ノース・サマセット|en|North Somerset}}のグレードI 指定文化財の一覧{{enlink|Grade I listed buildings in North Somerset}}
* [[サマセット]]にある[[ナショナル・トラスト]]の保有不動産{{enlink|List of National Trust properties in Somerset}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
=== 参考文献 ===
{{refbegin}}
* {{cite book |last=Boyce |first=Michael|title=Tyntesfield in WWII: The Story of an American Army Hospital 1943–45 and the Tyntesfield 'village' 1946–60 |year=2012 |publisher=SilverWood Books |isbn=978-1-78132-071-6 |ref=harv}}
* {{cite book |url=http://www.british-history.ac.uk/report.aspx?compid=18531 |contribution=Goathurst: Manors |editor-last=Dunning |editor-first=R. W. |publisher=Oxford University Press |year=1992 |title=A History of the County of Somerset: Volume 6: Andersfield, Cannington, and North Petherton Hundreds (Bridgwater and neighbouring parishes) |isbn=978-0-19-722780-0 |ref=harv}}
* {{cite book |title=The Victorian Country House |first=Mark |last=Girouard |authorlink=:en:Mark Girouard |publisher=[[イェール大学|Yale University Press]]{{enlink|Yale University Press}}|date=1 July 1979 |year=1979|isbn=978-0-300-02390-9 |ref=harv|{{NCID|BA13218839}}|oclc=5028996}}
* {{cite book |last=Greenacre|first=Francis W. |title=Tyntesfield|year=2003|publisher=National Trust|isbn=978-1843590804|ref=harv}}
* {{cite book |last=Hall |first=Michael |title=The Victorian Country House: From the Archives of Country Life |year=2009 |ref=harv |publisher=Aurum Press |isbn=978-1-84513-457-0}}
* {{cite book |title=My Dear Uncle William, Tyntesfield Letters |first=David J. |last=Hogg |isbn=978-0-9554457-2-9 |year=2011 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Lilwall-Smith |first=Andrew |title=Period Living & Traditional Homes Escapes |year=2005 |publisher=Jarrold Publishing |isbn=9780711735941|url=http://books.google.com/?id=5NS_jmUTVLMC&pg=PA119&lpg=PA119&dq=Tyntesfield+restoration+public#v=onepage&q=Tyntesfield%20restoration%20public&f=false|ref=harv}}
* {{cite book |title=Fertile Fortune&nbsp;– The Story of Tyntesfield |first=James |last=Miller |publisher=National Trust |year=2006 |isbn=978-1-905400-40-9 |ref=harv}}
* {{cite book |title=The buildings of England: North Somerset and Bristol |first=Nikolaus |last=Pevsner |authorlink=:en:Nikolaus Pevsner |year=1973 |publisher=Penguin |isbn=978-0-14-071013-7 |ref=harv}}
* {{cite web |url=http://www.lovetts.eu/Tyntesfield.pdf|format=PDF|title=History of the House and Family at Tyntesfield|first=Terry |last=Steven |publisher=Kennet Valley National Trust |date=17 January 2011 |accessdate=8 November 2013 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Wakefield |first=Ken |title=Operation Bolero: The Americans in Bristol and the West Country 1942–45 |year=1994 |publisher=Crecy Books |ref=harv |isbn=978-0-947554-51-4}}
* {{cite book |title=Villages at War |first=Peter |last= Wright |year=1990 |isbn=978-0-9516257-0-5 |ref=harv}}
* {{cite web |last=Wright |first=Peter |url=http://www.ndlhs.org.uk/ebooks/Tyntesfield-Local-Memories.pdf |format=PDF |title=Local Memories & Research&nbsp;– Pennant Special No.8: Tyntesfield |publisher=Nailsea and District Local History Society |date=June 2003 |accessdate=3 April 2013 |ref=harv}}
=== 発展資料 ===
* {{cite book |title=Diaries of Tyntesfield |first=David J. |last=Hogg |isbn=978-0-9554457-3-6 |year=2009 |publisher=David J. Hogg}}
{{refend}}

== 外部リンク ==
{{Commons category|Tyntesfield}}
* [https://www.nationaltrust.org.uk/tyntesfield Tyntesfield ナショナル・トラストによるティンテスフィールドの紹介ページ]
* {{cite web|url=https://www.nationaltrust.org.uk/documents/access-guide/1431729788480-tyntesfield.pdf|title=Tyntesfield Access StatementNational|publisher=[[ナショナル・トラスト]]|accessdate=2016-08-16|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160816091439/https://www.nationaltrust.org.uk/documents/access-guide/1431729788480-tyntesfield.pdf|archivedate=2016-08-16}} - 最終ページでティンテスフィールドの見取り図を見ることができる。
* [http://www.bbc.co.uk/bristol/in_pictures/360_panoramas/tyntesfield/index.shtml BBCによるティンテスフィールドのパノラマ写真ツアー]
* [http://www.minervaconservation.com/projects/tyntesfield.htm ティンテスフィールドで働く石工たち]
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[[Category:1863年設立]]
[[Category:19世紀の建築物]]
[[Category:19世紀の建築物]]
[[Category:第一級指定建築物]]
[[Category:ゴシック・リヴァイヴァル建築]]
[[Category:イングランドの建築物]]
[[Category:ノース・サマセット]]
[[Category:ノース・サマセット]]

2016年8月16日 (火) 13:22時点における版

ティンテスフィールド
Tyntesfield
ティンテスフィールドを南側から望む
ティンテスフィールドを南側から望む
地図と建物の概要
ティンツフィールドの位置(サマセット内)
ティンツフィールド
旧名称 ティンテス・プレース (Tyntes Place)
概要
用途 カントリー・ハウス
建築様式 ゴシック・リヴァイヴァル建築
自治体 サマセットノース・サマセットラクソール
イングランドの旗 イングランド
座標 北緯51度26分25秒 西経2度42分49秒 / 北緯51.4403度 西経2.7135度 / 51.4403; -2.7135
完成 1863年
建設費 £70,000
クライアント ウィリアム・ギブズ
所有者 ナショナル・トラスト
寸法
他の寸法 106部屋[1]
26のメイン・ベッドルーム、使用人部屋も含めて全体で43の寝室
技術的詳細
床面積 40,000平方フィート (3,700 m2)
設計・建設
建築家
他関係者
主要建設者 ウィリアム・キュービット & Co.英語版
文化財指定 Grade I listed (Listed building
ウェブサイト
Tyntesfield @ National Trust
脚注
テンプレートを表示

ティンテスフィールド: Tyntesfield)は、ヴィクトリア朝に建てられたゴシック・リヴァイヴァル建築の邸宅およびその地所を指す。邸宅はイングランド南西部サマセットの、ノース・サマセットラクソールに位置する。建物はグレードI(第一級)の指定文化財 (Listed buildingに指定されている。ティンテスフィールドの名前は、1500年頃からこの地域の地所を保有していたティンテ準男爵家英語版に因むものである。以前はこの場所に、16世紀に建てられた狩猟用別邸英語版があり、19世紀初頭までファームハウス(農場の母屋)として使われていた。1830年代にはジョージ朝建築英語版の邸宅が建てられ、1843年には肥料に用いられるグアノで財を成したウィリアム・ギブズがこれを買い取った。1860年に、ギブズは邸宅の大拡張と改装に着手し、1870年代には教会堂も加えられた。ギブズ家は、2001年リチャード・ギブズが死去するまでこの邸宅を保有していた。

ティンテスフィールドは2002年6月にナショナル・トラストによって買い取られた。この買い取りの前には、ティンテスフィールドが民間に渡るのを阻止し、確実に一般公開できるようにしようとする募金依頼活動が行われた。邸宅は、ナショナル・トラストの取得後ぴったり10週間、初めて一般向けに公開され、その後修繕済の部屋が増えたところでナショナル・トラストによる見学ツアーが追加された。

この邸宅には2014年1年で216,759人もの観光客が訪れたが、これは前年比1%の増加だった[2]

歴史

背景

サマセット州での、ティンテスフィールド、ブリッジウォーター、ハルスウェル・ハウス、チェルヴィー・コートの位置関係
ティンテスフィールド
ティンテスフィールド
ブリッジウォーター
ブリッジウォーター
ハルスウェル・ハウス
ハルスウェル・ハウス
チェルヴィー・コート
チェルヴィー・コート
サマセット州でのそれぞれの位置関係

邸宅とその地所がある土地は、元々ティンテ準男爵家英語版が所有していた不動産の一部だった[3]。準男爵家はこの地域に1500年代から居住しており、ブリッジウォーター近くの村、ゴートハースト英語版にあるハルスウェル・ハウス英語版を邸宅としていた。

18世紀遅くには、ジョン・ティンテが現在ティンテスフィールドが建つ地所を手に入れた。当時はこの建物に向かってニレ並木が作られていたが、これは1678年にチャールズ・ハーボード(: Charles Harbord)の遺言により地所がラクソールの人々へ贈られた後、村からハーボードの元へ奉公に出ていた2人の少年を記念して植えられたものである[4]。ティンテ家は当初この地所に住んでいたが[5][6]、19世紀初頭に、ジョンはブロックリー英語版チェルヴィー・コート英語版を建て、自らの主要な居住地とした[7]。ティンテス・フィールド(英: Tynte's Place)はファームハウス(農場の母屋)へ格下げされ、ジョン・ヴァウルズ(英: John Vowles)に貸し出された[8]1813年には、隣接するベルモント地所を保有するジョージ・ペンローズ・シーモア(英: George Penrose Seymour)が不動産を購入し、これを息子のジョージ・ターナー・シーモア牧師(英: The Rev. George Turner Seymour)へ与えた[注 1][4]。彼は、以前馬鍛冶屋の建物があった場所に新しくジョージ朝建築英語版の邸宅を建て、古いファームハウスは取り壊した[4]。またネイルシー英語版に住むロバート・ニュートン(英: Robert Newton)によって更なる改築が行われた[注 2][9][10]

ギブズ家による購入

1843年、地所は家族事業・アンソニー・ギブズ&サンズ英語版で財を成した、実業家のウィリアム・ギブズによって買い取られた。彼のいとこでブリストルの銀行家だったジョージ・ギブズは1828年に隣接するベルモント地所を借り受けており、ウィリアムはシーモア牧師が1843年に亡くなった後、牧師の未亡人から屋敷を買い取った[6]1847年からは、会社はグアノペルーから輸入し、肥料としてヨーロッパや北アメリカに販売する事業で、効果的な専売を行った[11]。グアノはチンチャ諸島英語版で、契約労働の中国人苦力によって採掘されていたが、この中国人労働力は、ペルー政府が1856年に承認した条件に基づいて「黒人奴隷取引同等に」(英: "into a kind of Negro slave trade")格下げして扱われていた[12]。この貿易から得た会社の利益は、ウィリアム・ギブズをイングランドの非貴族で最も裕福な人間にした[13]

人生を通して、ギブズとその妻マティルダ・ブランチ・クロウリー=ブーヴィー(英: Matilda Blanche Crawley-Boevey、通称ブランチ)[注 3]は主にロンドンで生活した[14]。2人は結婚生活を通して、主にハイド・パーク・ガーデンズ英語版16番地(英: 16 Hyde Park Gardens)に住み、この場所をブランチの死まで家族で保有していた[注 4][15]。一方で、仕事で定期的にブリストル港英語版を訪れていたギブズには、ブリストル港に程近い居住地が必要だった。このためギブズは、1843年にティンテス・プレースを買い取りに訪れ、邸宅の名前を現在の「ティンテスフィールド」(英: Tyntesfield)に改めた[15]。購入から2、3年の内に、ギブズは邸宅を改築・増築する大規模な工事を開始した[16]

改築に当たっては、様々な形が結び合わさったゆるいゴシック様式で、中世風の様式を復興した建築様式が選択された。ゴシック様式を選んだのは、オックスフォード運動の信奉者だったギブズ夫妻が、アングロカトリック派英語版の信条を持っていたためである[17]。このアングリカン・コミュニオンの分派は、建築家オーガスタス・ピュージンが1836年に著した本 "Contrasts" で説明されたような考え方を主張したが、これは中世ゴシック様式を復活させ、「中世の信仰や社会の仕組みを取り戻」そうとするものだった[18]。ピュージンやギブズが門弟だったオックスフォード運動は、後にその哲学をさらに発展させ、キリスト教の崇拝にふさわしい建築様式はゴシック様式のみだと主張するようになった[19]。このような理由から、ゴシック様式はキリスト教信仰とそれに結びついた生活様式を象徴的に表現するものとなり、ギブズのような信心深いヴィクトリア朝の人間に礼賛された[17]。邸宅に付随した教会堂の完成は、建物の中世風僧院の雰囲気をさらに高め、オックスフォード運動の信奉者に深く愛された。教会の完成時には、4本のタレットを備え、急勾配の屋根が付いた、当時の流行にならった正方形の塔でそのデザインが強調されていたが、この塔は1935年に取り壊されてしまった[20]

再発展

手前側、写真中心に走る小道の先に、ティンテスフィールドの邸宅が見える。西側から望んだ邸宅には、小塔が林立し一部ツタが這っている。
ビジターズ・センターを通って、西側から邸宅に向かうアプローチの写真。事実上邸宅の裏側に当たる。建築家のジョン・ノートン英語版は、非対称のデザインを強調するため変則的な窓を設計した。この写真は、屋根とその模様 (diaper-patternの修理が行われる前の2005年9月に撮影された。
雑誌に掲載されたティンテスフィールドの白黒版画。庭園より一段高い場所に大きな窓が多数付いた邸宅が建っているが、中央からやや右寄りの屋根に時計塔が突き出している。
1866年版の雑誌『ビルディング英語版』に掲載されたティンテスフィールドの絵。中央に見える時計塔は、レディ・ラクソールの判断で取り壊されたが、これが屋敷の荒廃を招いた。

1854年、ウィリアム・ギブズは、以前も仕事を依頼したことがある建築家のジョン・グレゴリー・クレイス英語版に、ティンテスフィールドの主要な部屋を再設計し装飾するよう依頼した。この時作られた新しい設計では、金箔を貼った鏡板や木工品、鋳造物やマントルピース英語版に至るまで、全てゴシック様式で作られた[15]

改築作業は1863年になるまで熱心には行われず、この年ウィリアム・ギブズは地所を概ねゴシック・リヴァイヴァル様式で建て替えることを決めた。建築業者にはウィリアム・キュービット & Co.英語版、建築家にはジョン・ノートン英語版が選ばれた[21]。ノートンの設計は元々の建物を覆うように作られた。彼は追加のフロアを作り、2つの新しいウィング(翼棟)と塔を付け加えた。ノートンは、複数の歴史的時代にまたがった修復と改築の、建築的連続性の重要さを強調した設計を行った。結果として、いくつかの壁は質素なまま残されたのに対し、他のものには、以前の建築様式に融和するよう、ゴシック様式や自然主義の彫刻が行われた[22]

設計

建物は2種類のバス・ストーン英語版を用いて建てられており[注 5]、屋根はタレットが林立し精巧に作り込まれた、絵のように美しい外観をしている。建築様式を複数組み合わせた効果と、選び抜かれた素材は、ジャーナリストのサイモン・ジェンキンス英語版によって "severe"(近寄りがたい)と表現されている[24]。修繕の間、石工たちは建物の保全も行いながら、時には新しい区画へ彫刻をコピーし、新たな塑像を作っていたが、これは石灰でできた目地の大半を塗り直す (repointingだけでなく、風化した部品をその建築様式で標準的なものへ取り替えることも目的だった[22]。全ての石材は、グロスタシャーテトベリー英語版近くのヴェイジーズ採石場(英: Veyzeys quarry)で産出されたコッツウォルド魚卵状石灰岩英語版を使い、元からあったものとぴったり合うように作られた[22]。使用人用のウィングと教会堂を含む邸宅は、1973年にグレードII* の指定文化財 (listed buildingとなり[25]、現在ではグレードがグレードI に引き上げられている[26]

庭の向こうにバックウェル・ヒル[注 6]を望む東向きの建物正面と、中庭エントランスがある北側は、黄土色のバス・ストーンで作られた日よけが付けられているが[22]、主に奉公部屋や使用人区画に当てられた裏手側の南面は、より安値で薄赤色のドレイコット英語版大理石が粗石積みされていて[注 7][22]漆喰仕上げされている。どの面にもゴシック様式のメイン・ウィンドウ、テューダー朝様式の出窓 (Oriel window、煙突、屋根裏に付随した屋根窓付きの切り妻などが多数設置されている[24]。ノートンは変則的な屋根を作り、傾斜や切り妻に違いを持たせることで、建物の非対称的な設計を際立たせた[22]。外装で最後に足されたのは、巨大な鉄製の温室で、Hart, Son, Peard and Co. (enによって屋敷裏手に設置された[27]、改装されたティンテスフィールドは、ブランチ・ギブズのいとこで作家のシャーロット・ヤングに、「心の中の教会のよう」(英: "like a church in spirit")と評された[15]

内装も同じくゴシック様式で揃えられた。クレイスは内装の模様替えにも従事し、ある場所では元々あった作品を広げたり改作したりした一方で、別の場所では新しく図案を作ったりした。他にもこの家には、パウエル英語版ウールドリッジ英語版によるガラス細工、Hart, Son, Peard and Co. による鉄工、サルヴィアーティ英語版によるモザイクなどが収められた。キュービット側の現場監督だったジョージ・プラックネット(英: George Plucknett)は、ウォリックの家具屋・コリアー・アンド・プラックネット英語版にいたジェームズ・プラックネット(英: James Plucknett)の親戚だった。このため、ギブズは多くの道具をわざわざこの工房に依頼して作らせ[28]、その中には妻に合うよう作られた浴室も含まれていた[29]。熟練の腕前の粋が光ったこれらの作品は、ギブズによって自身の美術品コレクションに加えられた[15]

邸宅の改築が行われている間、ウィリアム・ギブズはデヴォンにあるマンヘッド・パーク (Mamhead Parkを借りていた[30]。メイン・ベッドルームを23、使用人の寝室も含め47も備えるこの大邸宅の改装には、実に7万ポンドの金額がかけられた(2023年のレートで£8,460,000に相当)[31][注 8]。改築費用の総額は、ギブズの事業収益18ヶ月分に相当していた[33]。主要な建物部分の工事が完成した後、ギブズはアンソニー・ギブズ&サンズの株式を、甥であるヘンリー・ハックス・ギブズ英語版(後のオールデナム男爵)に売却して資金を確保し、その資金で隣接する2つの不動産も買い取っている。東側のベルモント地所は甥のジョージ・ルイス・モンク・ギブズ(英: George Lewis Monck Gibbs)から買い取り[34]、買い取った地所を合わせて農園を作り、酪農林業に乗り出している。土地購入はこれ以降も行われ、最盛期にはティンテスフィールドの地所は6,000エーカー (2,400 ha)超となった。地所は、北はポーティスヘッド英語版から、南はメイン・ハウスのある谷まで至る1,000エーカー (400 ha)もの森林で囲まれていた[注 9]。邸宅と地所では、500人以上が雇われていた[15]

教会堂

邸宅のはじにある教会堂はレンガ造りで、赤茶色の屋根には小塔が等間隔に複数建っている。
教会堂はアーサー・ブロムフィールドによってパリのサント・シャペルを模して作られた。写真は南側のメイン・エントランス側中庭から撮影されたもの。

ギブズがティンテスフィールドに最後に加えたのは教会堂だった。工事は1872年から1877年にかけて行われ、邸宅の北側にアーサー・ブロムフィールド英語版の手でゴシック様式の教会堂が付け加えられた。この教会堂はパリシテ島サント・シャペルを模して作られたもので[17]ウィリアム・ヒル&サンズ英語版によってオルガンが据え付けられ[35]、地下にはギブズが納められることを想定した地下納体堂 (vaultが作られた。しかし、地元ラクソールの全聖人教会英語版の教会区司祭や、教会の支援者であるゴージズ家英語版の反対を受け、バースおよびウェルズ地区主教 (Bishop of Bath and Wellsは、ティンテスフィールドの教会堂の聖別を認めなかった。これは教会が、ギブズ家に地元の信者を大勢奪われるのではないかと危惧したためである。この処置にもかかわらず、教会堂はティンテスフィールドの暮らしで中心的役割を担い、家族や来客による祈りが1日2回行われていたという[15]。家族はティンテスフィールドに居住していた間、多くは祈願節英語版クリスマスの期間に、地元住民へ教会堂を開放していた[注 10][38]。最後の建築が終了したことを祝い、ブランチのいとこであるシャーロット・ヤングは、教会堂をティンテスフィールド建築計画の最終的完成と表現し、「家の財産[である地所全体]にリトル・ギディング英語版そっくりの雰囲気」を与える(英: providing "a character to the household almost resembling that of Little Gidding")と評した。ケンブリッジシャーハンティンドンシャー英語版に位置するリトル・ギディングは、チャールズ1世即位時に、19世紀のアングロ=カトリックを大いなる理想と考えていた、ニコラス・フェラー英語版のふるさとである[15]

所有者の変遷

ウィリアム・ギブズ:1846年 – 1875年

男性が6人、女性が子供1人を含んで4人写った写真。中央にはこの屋敷を建てたウィリアム・ギブズと妻ブランチが座り、その周りに2人の子や孫が集まっている。
ウィリアムとブランチのギブズ夫妻とその家族(1862年 - 63年頃)

ウィリアムとその妻マティルダ・ブランチの間には、7人の子供が生まれた。全員が信心深い国教徒で、ウィリアムと妻ブランチはオックスフォード運動の支援者だった。ウィリアムはオックスフォード大学キーブル・カレッジの多大な後援者で[注 11]、自身の後半生を慈善事業に捧げた人物でもあった。ギブズはまた絶対禁酒主義英語版を貫いた人物でもあり、彼は地元のフェイランド・イン(: Failand Inn)を買い取って地所の保有地に加え[注 12]、これにより呑み騒ぐような振る舞いを自制した(その後インは、1962年に2代ラクソール卿によって、カレッジ・ブルワリー英語版に売却されている)[注 13][40]。ウィリアムは1875年4月3日にこの屋敷で亡くなった。4月9日に併設された教会堂で葬儀が行われた後、地所で働いていた30人の手で、亡骸はラクソールの全聖人教会英語版へ運ばれた。ウィリアムは教会構内の家族区画に埋葬されている[15]

アンソニー・ギブズ:1875年 – 1907年

ウィリアムの死後、地所は長男アンソニーが相続した。オックスフォード大学のエクセター・カレッジを卒業して文学修士号を取得した後、アンソニーはイギリス陸軍ノース・サマセット義勇農騎兵団英語版に加わり、少佐となった。1872年6月22日にはジャネット・ルイーザ・メリヴェイル(英: Janet Louisa Merivale)と結婚し、家族の地所を管理するためティンテスフィールドに戻っている。アンソニーは治安判事など様々な官職を歴任し、後にはサマセット副統監も務めた。夫妻の間には10人の子供が生まれた[41]

1880年代の間、アンソニーはヘンリー・ウドワイヤー英語版に玄関広間の階段を再設計させている。この改修により、下層階にはガラス張りの天窓からより多く採光できるようになったほか、玄関広間は客間(応接室)に作り替えられた[17][42]。ウドワイヤーはまた、元々家政婦の部屋だった部分を一部潰して、食堂を拡張した。クレイスが当初使っていた壁紙は、英国でスペインの押し型模様が入った革を真似て作られた、模造品の和紙でできたものだったが、14歳の見習い工によって明るい色に変えられ、クリーム色の背景に塗り替えられた。コリアー・アンド・プラックネット英語版が作ったサイドボード英語版はさらに拡張された。新しい家具調度品は、またコリアー・アンド・プラックネットに発注された[29]。同時に、アンソニーは電力を導入し、ティンテスフィールドは英国で電灯が点った最初期の例となった[1]。アンソニーは最初に電気が通った夜、メイン・エントランスの灯りを眺めて過ごし、火事も起きず家族も安心して過ごせることを確認したという[17]1868年から1884年の間に、Waygood and Co. によって水圧式エレベーターが導入され、2008年にはこの遺物が発見された。木製のリフトカーが1階部分で見つかっているほか、屋根裏では直径55-インチ (1,400 mm)*綱車英語版が発見された[43]

ジョージ・エイブラハム・ギブズ、初代ラクソール男爵:1907年 – 1931年

吹き抜けになった階段室の回廊。上層階では吹き抜け沿いに手すり付きの廊下があり、見物者が壁掛けの絵画を見ている。下層階には暖炉が見える。
階段室の回廊

アンソニーの長男だったジョージ・エイブラハム・ギブズ(初代ラクソール男爵)は、ノース・サマセット義勇農騎兵団の大佐となり、第2次ボーア戦争の際には勇敢に戦った。イングランドに帰国したジョージは、ヴィクトリア・フローレンス・デ・バーグ・ロング(英: The Hon. Victoria Florence de Burgh Long)と結婚し、デヴォンの村クリスト・セント・ジョージ英語版へ引っ越した。1918年から1928年の間、ジョージはブリストル選挙区選出の庶民院議員 (MP for Bristol Westを務め、1928年には、王室会計局長官英語版としての仕事が評価されてラクソール男爵に叙爵され、連合王国貴族の仲間入りを果たした[44]

ジョージの所有下で、客間[注 14]ルネサンス期のベネチア・ゴシック建築様式英語版に改装された[45]。この過程で、クレイスのデザインしたステンシルは、上塗りされるかダマスク織の絹に覆われてしまったほか、ノートンの作った暖炉は移動され、家具はエドワード朝様式のものと交換され、絨毯はスケッチリー英語版で染められてしまった[44]1917年には戦争協力として、鉄製の温室は取り壊され、鋳つぶされて弾薬に変えられた[46]

娘アルビナ(英: Albina)は生き延びたものの、ジョージの最初の妻ヴィクトリアは、1920年インフルエンザをこじらせティンテスフィールドで亡くなった。1927年には、ジョージはアーサー・ウェンロック英語版の娘、アーシュラ・メアリー・ロウリー(英: Ursula Mary Lawley)と結婚した。舅であるアーサー・ウェンロックは、後に第6代かつ最後のウェンロック男爵となっている。夫婦の間には2人の息子、リチャードユースタスが生まれた[注 15]1931年10月28日、ジョージはティンテスフィールドで58年の生涯を閉じた[5]

アーシュラ、レディ・ラクソール:1931年 – 1979年

長細いテーブルが据えられ、両側に8脚程度の椅子が置かれている。食堂自体も長細く、壁には絵画や大きな鏡が掛けられている。
食堂の中

ラクソール卿の未亡人となったアーシュラ(レディ・ラクソール)の元には、2歳にもならない子供が2人と広大な地所が残された一方で、得られる収入はほんのわずかだった。彼女の能力・実行力の現れとして伝えられるのは、邸宅の中心的だった時計塔にまつわる話である。1935年、この時計塔は乾腐病 (Dry rotや湿気による木材腐敗のために全面的改修が必要になった。この際彼女は即座に時計塔の解体を決め、後々使えそうな金属部品だけ取り置いて、まるで最初から時計塔など無かったかのように屋根を再建築した[17]

第二次世界大戦の間、ブリストルにあったクリフトン・ハイ・スクール英語版がギブズ家の地所に移転してきたほか、1941年にはアメリカ軍医療部隊 (U.S. Army Medical Corpsが、地所の一角に「第74総合病院」(英: The 74th General Hospital)として知られる傷病兵向けの病院施設を建設した[47][48][49]。一時的なテント村の建設の結果、アメリカ陸軍工兵司令部によって、当時のイングランドで最長だったモチノキ英語版垣根が破られることになった[48][49][50]。多くのテントは後にプレハブ小屋かまぼこ型組み立て兵舎英語版に置換され、ノルマンディー上陸作戦D-デイ)後にはヨーロッパ最大の米軍病院となった[48][49][50]。戦闘の間、地所付きの農場管理は英国政府の農漁業食糧省英語版が引き受け、レディ・ラクソールのみが自作農場 (The Home Farm) に留まった[49]

ブリストル空襲英語版の間は爆弾が幾度も地所に着弾した[注 16]1940年9月に、フィルトン英語版にあったブリストル飛行機の工場が襲撃された際には、爆弾によって地所の水供給路が絶たれたほか[49]、後の襲撃でも、玄関広間上の採光用天窓が爆弾でひどく壊された。戦争が終結した後の1946年、英国国防省はティンテスフィールドの修復補助金を出すと申し出たが、レディ・ラクソールはこれを拒否した。結果として湿気や鳥が天窓から入り込む有様となり、この惨状はナショナル・トラストが建物を引き取り、改修工事に乗り出すまで放置された[17]

リチャード・ギブズ、第2代ラクソール男爵:1979年 – 2001年

壁には暖炉、絵画が設置されている。暖炉の前にはカウチやソファがある
客間[注 14]の様子

ジョージ・リチャード・ロウリー・ギブズ、通称リチャードは、1928年5月16日に生まれ、イートン・カレッジを経てサンドハースト王立陸軍士官学校に進んだ。その後コールドストリームガーズ (The Coldstream Guards) に8年間仕官している[51][52]。リチャードは生涯未婚で通し、家督は弟で外交官のユースタス・ギブズ(英: Sir Eustace Gibbs)が継いで第3代ラクソール男爵となった[53]

リチャードは2001年に、喘息発作の合併症で未婚のまま亡くなったが[52]、彼はティンテスフィールドで、実質的な居住空間としてわずか3部屋しか使用していなかったという[54]

ナショナル・トラストによる買い取り

第二次世界大戦終結後、多数の歴史的カントリー・ハウスが取り壊されたり冒涜され荒廃していった。1945年から1955年の間には、450もの重要な邸宅が完全に取り壊されている。1970年代、これを見かねたナショナル・トラストは、建築家のマーク・ジルアード英語版に対し、ヴィクトリア朝に建てられ現存する英国中のカントリー・ハウスの、重要度や構造の保全度を評価して一覧にするよう委託した。ジルアードは報告書をまとめ、これは後に "The Victorian Country House" との題名で上梓されたが、1976年に発行された改訂第2版に、訪問可能な邸宅としてティンテスフィールドが登場する[55]。報告書を受けて、ナショナル・トラストは、ティンテスフィールドを保全すべき不動産のリストで第2位に位置づけた。これについてジルアードは、「ティンテスフィールドほど、あの時代を華麗に表現しているヴィクトリア朝のカントリー・ハウスは存在しない」(: "There is no other Victorian country house which so richly represents its age as Tyntesfield.")と述べた[56]

最後の当主となったリチャード・ギブズは、後々ティンテスフィールドを売却しなくてはいけない日が訪れることは悟っていた。これは大家族の保有する様々な資産や、家を住み良い環境に整えるのに必要である多大な維持費用を考えるとやむないことだった。また自分が死ぬと莫大な相続税が生じることも認識していたため、リチャードは遺言で、自分の財産を弟と異母姉の生存している子供たちに分配するよう委託した(この遺言での受取人は総勢19人になった)[注 17][54]

リチャードの遺言には、相続人の過半数が地所の売り渡しに同意する必要があるとの委託書があり、また同意が得られた場合には、12ヶ月以内に競売を行って最高値を付けた入札者に地所を引き渡すよう書かれていた。邸宅と、1,000エーカー (400 ha)の農場・650エーカー (260 ha)の森林・30の家やコテージの付いた地所は、サヴィルズ英語版により主に3つに分けられて競売のリストに載せられ、総額は1,500万ポンドと見積もられた[注 18][58]。またクリスティーズはそれぞれ別個のオークションで、邸宅や地所が競売されることを確約する契約を結んだ(ここで総額は1,500万ポンドを超えると見積もられた)[59]

1991年チャスルトン・ハウス英語版を買い取って以来、ナショナル・トラストにはカントリーハウス買い取りの経験が無かった上、この一般公開までには7年もかかっている[29]。またナショナル・トラスト自身に、他の入札者と張り合うだけの特別な重要性も無く、作曲家のアンドルー・ロイド・ウェバーや、ポップ・スターのマドンナカイリー・ミノーグがナショナル・トラストと競合すると各種メディアで書き立てられた[59]。一方2002年5月には、ナショナル・トラストの新総長 (Director-General) に就任したフィオナ・レイノルズ英語版が、「セーブ・ティンテスフィールド」キャンペーン(英: The "Save Tyntesfield" campaign)を通じて3,500万ポンドを集める募金要請を打ち上げた[60]。この要請には、デザイナーのローレンス・ルウェリン=ボウエン英語版やニュースキャスターのジョン・スノウ英語版、さらに複数の一流建築家や歴史学者が賛同した[60]。ナショナル・トラストの要請によりわずか100日で820万ポンドが集まったが[56]、この内訳は一般から集まった300万ポンド強に加え、100万ポンドと400万ポンドという匿名での大口寄付2件も寄せられた結果だった[61]。ナショナル・トラストは国民文化財記念基金英語版の議長リズ・フォーガン英語版との交渉の末に、基金から1,740万ポンドを受け取った[1][62][63]。これは基金から1度に拠出された金額として過去最高であり、後に論争を呼ぶことにもなっている[63]。またイギリス国営宝くじ英語版は、必要となる大がかりな保全作業に、追加で2,500万ポンドを充てると発表した[22]

オークションの結果、以前のような「ティンテスフィールド地所」は消失した。ナショナル・トラストは、邸宅や家庭菜園、公園を含む地所の主要・中心地区のみを買い取った上、追加で土地売却も行っている。現在「ティンテスフィールド」として知られているのは、150エーカー (61 ha)の土地にある、邸宅と周辺の庭園である。チャールトン農園(英: Charlton Farm)は、現在チルドレンズ・ホスピス・サウス・ウェスト英語版に保有され、末期症状に侵された子供たちに緩和ケアを提供する施設として運用されている[64]チャールトン・ハウス英語版は民間に売り払われ、1927年からダウンズ・スクール(英: Downs School)に利用されている[65][66]

買取後の大規模改修工事

2002年に所有権を取得した後、ナショナル・トラストのスタッフは邸宅や庭園の保全を確約し、ギブズ家によって4代をかけて収集された邸宅の調度品をカタログ化し始めた。当初は30人のボランティアスタッフで作業が行われていたが、2013年までには雇われスタッフ・ボランティア合わせて600人が従事するようになり、これはナショナル・トラストが管理している他のどの地所よりも多いスタッフ数だった[52]

買取後の修繕工事は、邸宅が風雨に耐えられるようにすることを主眼に置いていた[17]。英国の一般家屋の20倍もの大きさがある屋根の修繕は、大規模に屋根状の独立した足場枠を建てることで解決された[67]。修繕工事中には、建物の外側全体を覆うように28マイル (45 km)のトンネル状足場が組まれた[68]。これにより18ヶ月以上に渡る修理・修復が可能となり、はっきりした赤と黒のタイルでできた幾何学的ダイパリング英語版模様も復元された[1]。地所には、で覆われた特殊なケーブルで再度電気配線された(これは火事や齧歯類被害防止が実証されている)。元々あったパイプは多くが交換され、主に最適な区画デザインをすることで防火対策が計画・実行された。内装工事では、天窓の修繕や高所の内装工事ができるよう、玄関広間に43フィート (13 m)の足場が組まれた[17]。これらの初期修繕には1,000万ポンド以上がかかり、そのほとんどは「セーブ・ティンテスフィールド」キャンペーンや来場者への宝くじ販売で賄われた[69]

ナショナル・トラスト側は、作業実施中に見学者を入れることには消極的だった。これは1974年に制定された労働安全衛生法英語版で要求されるコストや、重要な改修工事に遅れが出かねないことを心配したものだった。しかし工事には何かと物入りであり、このことからナショナル・トラストは、改修工事を一般の人に間近で見てもらうことは、自分の寄付金の行き先や修繕の結果を見せることになり、より多くの寄付金が集まるきっかけになると気付かされた[17][69]

地所

エントランス部分のパノラマ写真。左から右に、図書館、エントランス・ホール、メイン・ハウス、寝室棟と教会堂
エントランス部分のパノラマ写真。左から右に、図書館、エントランス・ホール、メイン・ハウス、寝室棟と教会堂

邸宅の内装

天井にはシャンデリア、壁には絵画や大きな鏡、暖炉が設置されている。床には文机やクッション、ソファなどが置かれている
1878年にベッドフォード・レミア英語版によって撮影された客間の写真

邸宅のメインとなる部屋には、図書館、客間[注 14]イギリス・ビリヤード英語版室、食堂、教会堂が含まれる。修繕工事の間ナショナル・トラストは、初めて工事の様子を一般公開し、「ティンテスフィールドを甦らせる挑戦の証人」(: "witness the challenge of bringing Tyntesfield back to life")になってほしいと宣伝した[70]

図書館は、ナショナル・トラストの保有する中で最も重要な、紳士階級の図書館と見なされている。図書館の絨毯や家具のいくつかはジョン・グレゴリー・クレイス英語版の設計によるもので[52]、所蔵図書はナショナル・トラストが保有するヴィクトリア朝の図書コレクションとして最大のものである[71][72]

邸宅の中心には玄関広間と階段があるが、これは元々の設計から数多の変更を加えられたものである[73]

ナショナル・トラストが所有権を取得して以来、天窓を修復するため玄関広間には足場が設置されていた。この足場が設置されている間、建築美術鑑定士のリサ・エスタライチャー[注 19]は、人の出入りが頻繁だった空間や部屋に使われていた、装飾面の設計を調査した。この調査によって3つの大きなフェーズが明らかになった。オリジナルは1860年代に作られ、続く1870年代には更新と改造が行われた。1887年から1890年には改装が行われ、主要空間には元々クレイスが設計したモチーフと緑色が復活した[17]。天窓の工事が完了した後、ナショナル・トラストは、クリスティーズの請負人に台無しにされた古いシェニール織英語版の絨毯を取り替え、代わりにリニー・クーパー[注 20]によるレプリカ・デザインで、ウィルトン・カーペット(: Wilton carpet)が制作した絨毯を導入したが、この代金45,000ポンドは公共宝くじによる寄付で賄われた[17]

調度品の内容

ステンドグラスの写真。中央やや上よりに、白い花と葉っぱがあしらわれた円に縁取りされた黄色い王冠がデザインされているほか、この縁取りと同じ白い花と葉っぱがステンドグラス全体を縁取っている
ティンテスフィールドには多数のステンドグラスが設置されている。

クリスティーズは元々、邸宅内には1万点を超える調度品があると見積もっていたが、2008年までには全体で3万点もの調度品がリスト化された。この中には、ウィリアム・バターフィールド英語版の設計による銀器や、オーガスタス・ピュージンジョン・ラスキンのオリジナル・プリント本、第二次世界大戦中の不発弾、宝石で覆われた杯、19世紀のフロック・ペーパー英語版でできた壁紙1巻き、顔や髪が彫られたココナッツなどが含まれる[63]。2013年までに目録へ47,154点が登録されたが、現在でも未分析で目録化されていない部屋が存在する[74]

絵画

ギブズ家が所有していた膨大な絵画コレクションの大半も、ナショナル・トラストへ寄贈された。コレクションの多くは、ウィリアムによってスペインから持ち込まれたものである。コレクションの状態は幾分悪かったが、この損害は水気によるものだけではなく、皮肉なことにギブズ家の家業だったグアノによるところも大きかった。コレクションの中で最も重要な作品は、17世紀にスペインの画家、サンブラノ英語版ローマのラウレンティウスを描いた作品で、広間の壁中腹に掛けられていた。絵画は、ウィリアム・ギブズが近郊の村フラックス・ボートン英語版に建てた教会を拠点に活動する、地元の美術修復士、ブッシュ・アンド・ベリー[注 21]によって洗浄・修復された[17]。2011年には、ニューヨークで行われたクリスティーズのオークションにおいて、バルトロメ・エステバン・ムリーリョによる絵 "The Mater Dolorosa": "Mother of Sorrows"、意味:悲しみの聖母)がナショナル・トラストの手で競り落とされたが、これはウィリアムが1910年頃までに購入し、ティンテスフィールドに掛けられていた絵画だった[75]

ホーム・ファーム・ビジター・センター

自作農場(英: The Home Farm)の建物は1880年代に建てられ、2層に分割されている。南側は2階建ての木製屋根で覆われた作業場で、農場の動物を養育するのに使われていた。上層はメイン・ヤードで、東西に2つのウィング(翼棟)を持っており、片方は以前の豚小屋に繋がっている。農場の事務所は北ウィングにあり、四角く緩やかに南へ傾斜した庭を囲うように建っている[76]

グレードII* の指定文化財だった建物には全面的な改修工事の必要があり[注 22]、ナショナル・トラストの計画では邸宅に続いて第2位の重要性を与えられた。ナショナル・トラストはこの建物を、総合的かつ独立したビジター・センターに作り替え、以下を備えた施設として2011年半ばにオープンさせた[76]

  • アッパー・ヤード(英: Upper yard、上層階)
    • チケット売り場・インフォメーション
    • デモンストレーション・エリア:訪問する職人たちによる地元工芸の実演。
    • プラント・センター:基金のため、庭師が育てた植物の内、余った物を販売している。
    • 農場風遊び場(英: Farm-themed play area
    • 中古本売店:売り上げはナショナル・トラストの基金になる。
  • レストラン:以前あった2階建ての屋根付き作業場は完全に改装され、カフェ・レストランに作り替えられた。同じ建物には土産物屋も入っている。新設された階段やエレベーター、橋状の通路は全て鉄製で、ここを通ってアッパー・ヤードに向かうことができる。
  • 東側の別棟:ビジター・センターに電力や空調を提供するための建物。太陽光発電、光起電性電池、バイオマス・ボイラーの組み合わせ発電を行っている。

大庭園

石で縁取られた円形の花壇に若木が1本生えている。花壇の奥には小道が続き、その向こうに邸宅が見える
東側の幾何学的庭園から邸宅を望む(2008年4月撮影)

邸宅はナショナル・トラストがオークションで獲得した150エーカー (61 ha)の大庭園の中に立地しており、邸宅をこの環境の中に残せるよう周辺の地所も手入れが続けられている。樹木に覆われた庭園から並木道を抜けると欄干の付いたテラスに出ることができ、また散歩道を抜けるとバラ園サマー・ハウス英語版、鳥小屋 (Aviaryコンクリートで縁取られた以前の池へ出られるが、この池は第二次世界大戦以降水が抜かれたままである[78]

家庭菜園

家庭菜園には温室や冷床[注 23]、大きな古典的オランジェリーオレンジ温室栽培園)[注 24]、庭師用の区画がある[81]

オランジェリー

上部の半円形に四角形が足された大きな窓が6枚見える。修復中のためオランジェリーの側面には足場とビニールが見える
修復中のオランジェリー

グレードII* に指定されたオランジェリーは、かつては家庭菜園の中での中心的建築だった。一方で、ナショナル・トラストが地所を買い上げてから、オランジェリーは荒廃しかねないような危うい状況に置かれ、イングリッシュ・ヘリテッジでリスクのある文化財を登録するヘリテッジ・アット・リスク英語版で、最も緊急性の高いカテゴリAに分類された[82][83]

1897年切石積みと赤いレンガで建てられたこのオランジェリーは、ヴィクトリア朝後期に建てられた古典主義様式のオランジェリーとして数少ない現存例である。東西の設計には中央玄関を含めて7つの柱間はしらま、南北には3つの柱間があり、頂上には上薬をかけられた鉄製の隅棟付き屋根が付けられている[注 25]。水平に突き出たゲイソン英語版[注 26]が付いたエンタブラチュアは、イオニア式半柱支えと角の付柱の上に鎮座している。西側正面にあり家庭菜園に面した中央玄関の柱間は、ポルティコ状になっており、ポルティコの壁には巨大な柱が取り付けられているほか、でこぼこのペディメントには小さなオクルスが付けられている。どの柱間にも、装飾的な縁取りがなされ要石が付き、上部が半円形になっている大きな窓が設置されている[86]

オランジェリーを保全し修復するため、ナショナル・トラストはバース市大学英語版やニンバス・コンサベーション有限責任会社(英: Nimbus Conservation Ltd)と革新的パートナーシップを結び、12人の見習い石工をプロ職人と共に働かせてその技術に磨きを掛け、それから必要となる専門的石工作業を行わせるプロジェクトを立ち上げた[87]。ナショナル・トラストは修繕に関わる他のプロ職人や学者のためにもワークショップを開いたが、このワークショップは後に修繕に関心を持つ一般人にも門戸が開かれ、全員が建物の修繕に必要とされる技術を実践的に学ぶようになった。技術を磨くためのこの育成戦略を打ち上げたことに対し、デイリー・テレグラフが後援する2011年の「イングリッシュ・ヘリテッジ・エンジェル賞」(英: English Heritage Angel Award)がナショナル・トラストへ贈られている[83][88]

事業には42万ポンドの予算が付き、基礎や下層の石造建築を安定化させることに主眼が置かれた。大半は基礎部分に固定用材料を注入する工事で完成させられたが、この方法には化学反応と硬化のための時間がかかった。このため壁や屋根から作業が進められ、最後に装飾部分の工事が行われた。オランジェリーは現在、一部がカフェとして使われているほか、残りの部分はナショナル・トラストによる国際的技術養成センターになっており、新しい職人や修繕作業の専門家を育てるための訓練が行われている[87]

鳥小屋

ティンテスフィールドの鳥小屋 (Aviaryは邸宅の西側に位置し、古い温室の基礎と隣接している。鳥小屋は1880年に外来の鳥を飼うため設置されたが、初代ラクソール伯爵の娘ドリーン・アルビナ(英: Doreen Albina)のための「子供の家」(プレイハウス)に作り替えられた。鳥小屋は地所の特徴の1つと考えられており[89]、さらにグレードII の指定文化財になっている[90]

製材工場

木立の奥にオレンジ色のレンガで作られた小屋が見える。小屋の屋根にはガラスの天窓や煙突が付いている
製材工場の建物。現在では全体が修復され、学習センター(英: Learning Centre)に作り替えられている

この土地が採石場として使われていた時代に親方小屋があった場所へ、1899年に新しい製材工場が建てられた。この建物には2つの蒸気エンジン空圧動力機が設置され、地所中へ電力供給を行っていた。エンジンは現在エンジン室(英: the Engine Room)と呼ばれている部屋に設置されていたが、天窓室(英: The Lantern Room)には複数の鉛蓄電池も置かれていた。開設後、電力供給をより楽にするため、地所全ての製材工場をこの建物へ移す決定がなされた。蒸気エンジンはディーゼル発電機に交換され、第二次世界大戦後には電力が国営の高圧線配電網で供給されるようになった。1960年代には製材工場は解体され、全ての木材は第三者の土建業者に引き渡されて、のこぎり製の木工製品に利用された[91]

ナショナル・トラストの管理下で製材工場は改装され、教育センターと、ビジネスや一般人向けに貸し出される機能スペースとの複合施設に作り替えられた。この建物はナショナル・トラストのスタッフやボランティアによって、学校でティンテスフィールドを訪問するグループへの教育に利用されることが最も多い。メイン・ハウスにはバイオマス・ボイラー英語版が設置されており、石油を使う古い火力発電ボイラーと比べて、年間で141トン二酸化炭素を削減することができる[92]。以前木材小屋があった別の区画には、新しくコウモリ用の止まり木が据えられ、「コウモリ宮殿」(英: a "bat palace")と呼ばれている。2009年5月には、修繕作業へ協力した団体の1つである文化遺産宝くじ基金英語版の総長、ジェニー・アブラムスキー英語版によって、センターの開設が宣言された[93]

動物相

赤茶色の屋根にオレンジ色のレンガ壁が合わせられた建物。
ティンテスフィールドの馬小屋区画。屋根にはコウモリ用の止まり木がある

コウモリ

英国に住む17種のコウモリのうち10種類が地所で見つかっており[94]、うち8種は建物の構造内に生息している。希少種で絶滅の危機に瀕しているヒメキクガシラコウモリ英語版キクガシラコウモリも地所に生息している。維持管理作業はコウモリの冬眠や繁殖時期に合わせるように行われ、建設作業の合間には新しい止まり木も作られている。訪問者は、運が良ければ有線テレビシステムで地所に住むコウモリの姿を見ることもできる[94]

映画撮影での利用

ティンテスフィールドは数々の映画撮影に利用されている。

2006年のテレビ映画『ドラキュラ英語版』は、ティンテスフィールドで撮影された[95]。この作品はブラム・ストーカーによる同名小説を翻案したもので、制作はグラナダ・テレビジョン英語版BBCウェールズボストンWGBH-TVが行った。

2007年の映画『エンジェル』でもティンテスフィールドが使われている[96][97]。この作品は英国の作家エリザベス・テイラー英語版の小説を元にしており、ヒロインの寝室に客間[注 14]が使われるなどした。

2013年には『DOCTOR WHO』のエピソード『井戸の魔女』 (Hide (Doctor Who)がティンテスフィールドで撮影された[95][98]

2016年正月にBBC Oneで放送された『SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁』では、事件の依頼主であるカーマイケル夫妻の邸宅や、ロンドンにあるワトスン医師の邸宅として用いられた[98][注 27]

またITV制作で同年3月に放送された『ドクター・ソーン英語版Doctor Thorne にもティンテスフィールドで撮影されたシーンが用いられている[98][99]。この作品は、『ダウントン・アビー』などを手掛けた脚本家ジュリアン・フェロウズが、ヴィクトリア朝の英国人作家アンソニー・トロロープの同名作品『ソーン医師英語版』を翻案したドラマ作品である[100]

ブリストルや邸宅の建つノース・サマセットを舞台にした2016年の映画『ゴールデン・イヤーズ英語版』(原題)の撮影も行われている[101]

訪問者のアクセス方法

ティンテスフィールドへの訪問者は、B3128号線上にあるメイン・エントランスを通って邸宅に入るが、M5モーターウェイ英語版の19・20どちらのジャンクションからでも辿り着くことができる[注 28]。ホーム・ファーム・ビジター・センターとチケット売り場から50メートル (160 ft)の位置に駐車場が設置されている。駐車料金は1日3ポンドだが、ナショナル・トラストの会員カードと有効なステッカーがあるか、ブルーバッジが交付されている場合には無料になる[102][注 29]。最寄りの鉄道駅はネイルシー・アンド・バックウェル駅英語版で、ティンテスフィールドからは2マイル (3.2 km)離れている。またブリストル・バス・ステーション英語版からは定期バスが運行されている[104]

ホーム・ファーム・ビジター・センターは訪問者が最初に立ち寄る場所で、カフェやレストラン、土産物屋、トイレ、チケット売り場など様々なサービスが提供されている。入場料は、地所と庭園のみのもの、邸宅を含めた全体のものと2つに分かれている[102]。邸宅への入場は30分ごとの入場時間区画に分けられた、時間指定チケットで管理されている。ビジター・センターから邸宅までは庭園や木立を抜ける400-メートル (1,300 ft)の歩道を歩くか、邸宅を通ってオランジェリーに向かうバイオ・ディーゼルバスに乗ることができる[105]

季節によって異なるアトラクションが実施されており、ジオキャッシング大会は年6回開かれている。動物相やその生息地に焦点を当てた散歩道も、公共通行権英語版の元に設置されており、年中無料で散策できる[106]

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ "The Rev." は牧師など聖職者に付ける敬称。
  2. ^ ネイルシーはサマセット北部にある町。ティンテスフィールドと同じノース・サマセットに位置する。
  3. ^ ブランチはクロウリー=ブーヴィー準男爵家英語版の出身である。
  4. ^ ハイド・パーク・ガーデンズはハイド・パークの北側にあり、東西に走る通り。ハイド・パークはロンドン中心部であるウェストミンスターケンジントン両地区にまたがる広大な公園である。
  5. ^ バス・ストーンは、サマセット州バース付近で産出される建築用の石灰岩[23]
  6. ^ 英: Backwell Hill
  7. ^ ドレイコットもサマセット州にある村。チェダーチーズの発祥地チェダーにも程近い。
  8. ^ 2013年は英国ポンドに対して緩やかに円安が進んだ時期であり、単純に1月の始値と12月の終値の平均値を取ると、1ポンドあたりおよそ157.6円となる[32]。簡略化のために1ポンド160円相当として計算すると、建設費には9億3,440万円相当がかけられたことになる。
  9. ^ ポーティスヘッドはラクソールのすぐ北にある村。サマセットの北側で隣接するブリストルにも程近い位置にある。
  10. ^ 祈願節はキリスト昇天祭(英: Ascension Day)前の3日間を指す[36]。キリスト昇天祭はイースターから40日後の木曜日で、"Holy Thursday" とも呼ばれる[37]
  11. ^ エポニムを与えられたジョン・キーブル英語版は、国教会の牧師も務めていた一方、ギブズ夫妻が支援していたオックスフォード運動の先導者でもあった[39]
  12. ^ イン (Inn) は主に英国で使われる単語で、宿屋を指すもの。
  13. ^ カレッジ・ブルワリーは1787年にロンドンで創業したビール醸造所。
  14. ^ a b c d "Drawing room." 応接室や居間などの意味に使われることもある。
  15. ^ 第2代ラクソール男爵になったリチャードは、「ジョージ・リチャード」との名前だが、「リチャード」の名前でよく知られている。なおリチャードは1928年、ユースタスは1929年生まれ。
  16. ^ ブリストルはサマセットに北側で隣接している。ティンテスフィールドはサマセットの中でも北側のエリアであるノース・サマセットに位置しており、ブリストルにも程近い。
  17. ^ 先述の通り、初代ラクソール男爵だったジョージには、前妻ヴィクトリアとの間に娘のアルビナ、後妻アーシュラとの間にリチャード(2代ラクソール男爵)、ユースタス(3代ラクソール男爵)と3人の子供がいた。
  18. ^ 競売の行われた2002年の1,500万ポンドは、2013年時点の$21,290,188と同等である[31]。2013年はアメリカドルに対して緩やかに円安が進んだ時期であり、単純に1月の始値と12月の終値の平均値を取ると、1ドルあたりおよそ94.51円となる[57]。これを元に計算すると、地所の見積もり値は2013年の日本円に換算して20億1,200万円ほどになる。また当時の100万ポンドは2013年時点の$1,419,346と同等で、これを元に計算すると、2013年の日本円ではおよそ1億3,400万円相当、キャンペーンで集めようとした3,500万ポンドはおよそ46億9400万円相当となる。
  19. ^ 英: The architectural paint analyst Lisa Oestreicher
  20. ^ 英: Linney Cooper
  21. ^ 英: Bush and Berry
  22. ^ 英国の指定文化財 (Listed buildingには、3段階がある。1番上はグレードI、次がこのグレードII*、その下がグレードIIである。グレードII* の要件は "particularly important buildings of more than special interest"(特別な文化財以上の重要性を持つ建物)、グレードII の要件は "Grade II buildings are of special interest, warranting every effort to preserve them"(特別な文化財で、保全に努力する必要があるもの)とされている[77]
  23. ^ "frames." 加温せずに苗を寒さから保護する枠組み[79]
  24. ^ 本来寒冷地では育たないオレンジを温室を用いて育てるのは、英国の富豪や貴族にとって富の象徴だった[80]
  25. ^ 隅棟すみむねとは、屋根の済で斜め方向に降りている棟[84]
  26. ^ 日本語では「軒蛇腹のきじゃばら」と呼ばれる[85]。古代ギリシャ・ローマの建築に見られるもので、フリーズ(蛇腹)から張り出しエンタブラチュアの一部を成す。ドーリア式イオニア式コリント式の建築などで見られるもの。
  27. ^ 『忌まわしき花嫁』は、英国では特別編としてテレビ放映されたが、日本では映画扱いとして劇場公開されている。
  28. ^ モーターウェイはイギリスの高速道路である。B3128号線を含むB道路はイギリスの道路の分類法で、A道路に比べて重要度の低いものが分類される (B roads in Zone 3 of the Great Britain numbering scheme
  29. ^ ブルーバッジとは英国の公認ツアーガイド資格[103]

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参考文献

発展資料

外部リンク