「断夫山古墳」の版間の差分
Saigen Jiro (会話 | 投稿記録) 修正。 |
Saigen Jiro (会話 | 投稿記録) テンプレートに地図移動。 |
||
(2人の利用者による、間の13版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{日本の古墳 |
|||
{{出典の明記|date=2014年9月10日 (水) 05:24 (UTC)}} |
|||
|名称 = 断夫山古墳 |
|||
{{日本の古墳| |
|||
画像=[[File:Danpusan |
|画像 = [[File:Danpusan Kofun zenkei.JPG|280px]]<br />墳丘横景<br />(左手前から右奥へ後円部、造出、前方部) |
||
|所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]]旗屋町 |
|||
名称= 断夫山古墳| |
|||
|緯度度 = 35|緯度分 = 7|緯度秒 = 51.33 |
|||
所在地= [[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]]旗屋町| |
|||
|経度度 =136|経度分 = 54|経度秒 = 11.27 |
|||
位置= {{ウィキ座標2段度分秒|35|07|51|N|136|54|11|E|region:JP-23|display=inline,title}}| |
|||
|ISO = JP-23 |
|||
形状= [[前方後円墳]]| |
|||
|形状 = [[前方後円墳]] |
|||
規模= 墳丘長151m<br />高さ16.2m| |
|||
|規模 = 墳丘長151m(推定復元約160m?)<br />高さ16m(前方部) |
|||
築造年代= [[6世紀]]初頭| |
|||
|築造年代 = [[6世紀]]前半 |
|||
被葬者= (伝)[[宮簀媛]]([[ヤマトタケル|日本武尊]]妃)<br />(推定)[[尾張連草香]]| |
|||
|埋葬施設 = 不明 |
|||
史跡指定= 国の[[史跡]]「断夫山古墳」| |
|||
|被葬者 = (伝)[[宮簀媛|宮簀媛命]]([[ヤマトタケル|日本武尊]]妃)<br />(推定)[[尾張氏]]首長<br /> (一説に[[尾張草香|尾張連草香]]や目子媛) |
|||
出土品= [[円筒埴輪]]・[[須恵器]]| |
|||
|出土品 = [[円筒埴輪]]・[[須恵器]] |
|||
特記事項= 東海地方第1位の規模}} |
|||
|史跡指定 = 国の[[史跡]]「断夫山古墳」 |
|||
[[File:Atsuta-Jingu-Park.jpg|thumb|200px|right|[[ステレオグラム|ステレオ]]空中写真{{国土航空写真}}]] |
|||
|特記事項 = 愛知県第1位の規模 |
|||
[[File:Danpusan-kofun 01.JPG|thumb|250px|right|後円部]] |
|||
|地図 = Japan Aichi |
|||
|アイコン = 前方後円墳-南南東 |
|||
}} |
|||
'''断夫山古墳'''(だんぷさんこふん/だんぷやまこふん)は、[[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]]旗屋町にある[[前方後円墳]]。国の[[史跡]]に指定されている。 |
|||
[[熱田神宮]]では「陀武夫御墓」と称するほか{{Sfn|宮記|2012年|pp=32-35}}、古くは「鷲峰山」「団浮山」「段峰山」などとも表記された{{Sfn|断夫山古墳(平凡社)|1981年}}{{Sfn|愛知県史 資料編3|2005年|pp=384-385}}。 |
|||
'''断夫山古墳'''(だんぷさんこふん/だんぷやまこふん)は、[[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]]の[[熱田神宮公園]]内にある[[前方後円墳]]。国の[[史跡]]に指定されている。 |
|||
愛知県 |
愛知県では最大規模の古墳で、[[6世紀]]前半([[古墳時代]]後期)の築造と推定される。 |
||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
[[名古屋市]]中心市街地からやや南、熱田台地南西縁の標高約10メートルの地に位置する大型前方後円墳である{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。かつては海岸線が熱田台地西側近くまで伸びており、古墳は[[伊勢湾]]を広く望んだ立地になる{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。現在までに本格的な発掘調査はなされていない{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。 |
|||
熱田神宮公園の敷地も含めてかつては[[熱田神宮]]の管理下にあったが、第二次大戦後に名古屋市の戦災復興事業に伴い借換地となり、[[1980年]](昭和55年)に[[愛知県]]の所有となって現在に至る。[[1987年]](昭和62年)[[7月9日]]に国の[[史跡]]に指定された。 |
|||
墳形は前方後円形で、前方部を南南東方に向ける。墳丘は3段築成で、前方部が発達した[[古墳時代]]後期の特徴を示し、古墳南東隅(前方部右隅)が削られているものの概ね良好に遺存する{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。現在の墳丘長は約150メートルを測り、美濃・尾張地方では最大規模で、当時としては全国でも屈指の規模になる。墳丘の西側くびれ部には[[造出]]があり、ここからは多量の[[須恵器]]が出土した{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。また墳丘の表面には[[円筒埴輪]]列が巡らされていたほか、[[葺石]]と見られる川原石も検出されている{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。墳丘の周囲には周濠が巡らされていたが、現在見る濠は後世の造作によるものであり、消失した本来の周濠はさらに広範囲に及ぶものであった{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。埋葬施設・副葬品は明らかではない{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。 |
|||
== 規模と構造 == |
|||
立地は名古屋台地が伊勢湾に突き出した先端部に所在する。周壕は埋め立てられているが、墳形は当時の姿をとどめている。 |
|||
* 墳丘全長 151メートル |
|||
* 前方部の幅 116メートル |
|||
* 後円部の直径 80メートル |
|||
* 前方部の高さ 16.2メートル |
|||
* 後円部の高さ 13メートル |
|||
この断夫山古墳の築造時期は、出土した埴輪・須恵器を基に古墳時代後期の[[6世紀]]前半頃{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}{{Sfn|愛知県史 資料編3|2005年|pp=384-385}}{{Sfn|赤塚次郎|2015年}}(または[[5世紀]]末-6世紀初頭頃{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}})と推定され、当時尾張地方に大きな勢力を持った[[尾張氏]]の首長墓に比定される{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。周辺では南方に[[白鳥古墳 (名古屋市)|白鳥古墳]](前方後円墳、墳丘長70メートル)があるほか、[[熱田神宮公園野球場|熱田球場]]の位置には北山古墳(前方後円墳か:非現存)があったと想定されており、一帯は断夫山古墳とともに一連の首長墓群を成したと推測される{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。また北方には古墳時代の遺構として[[高蔵遺跡]]があるが、これは断夫山古墳の被葬者に直接掌握された人々の遺跡とされる{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=792-793}}。 |
|||
後円部は台状で三段に築かれていたと見られており、二段目の傾斜面に[[土師器|土師質]]の[[埴輪|円筒埴輪]]を巡らせ、河原石の[[葺石]]を葺いた造りになっていた。また、北西の前方部と後円部の間(くびれ部)に「[[造り出し]]」と呼ばれる方形の壇が造られており、[[須恵器]]なども発見されたことからここで祭事が行なわれていたと考えられている。古墳の内部構造は未調査で解っていない。 |
|||
本古墳はかつて[[宮簀媛|宮簀媛命]]([[ヤマトタケル|日本武尊]]妃)の墓として[[熱田神宮]]大宮司家の管理下にあり、「断夫山」という名称もその宮簀媛伝承に基づくという{{Sfn|赤塚次郎|2015年}}。『[[尾張名所図会]]』には「鷲峯山」として見え、3月3日のみ立ち入りが許され墳頂から熱田一円を見渡せた様子が描かれている<ref>史跡説明板。</ref>。[[明治]]に入って熱田神宮所属地化、のち戦後に入って愛知県有地化し、[[1987年]]([[昭和]]62年)に古墳域は国の[[史跡]]に指定された。その後現在までに古墳含む周辺一帯は[[熱田神宮公園]]として整備されている{{Sfn|愛知県史 資料編3|2005年|pp=384-385}}{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。 |
|||
古墳の周囲には石垣で組まれた周濠が巡らされているが、現在のものは第二次大戦後に造られたもので、かつてどのような構造・規模であったのかは不明。現在は全域を樹木に覆われ、周囲からその全景を見渡すことは難しい。100メートル程南にはヤマトタケルの墓の伝承を持つ[[白鳥古墳 (名古屋市)|白鳥古墳]]がある。 |
|||
=== 近世以降の変遷 === |
|||
* [[1876年]]([[明治]]9年)、熱田神宮所属地化(これ以前は熱田大宮司家が宮簀媛命墓として奉仕){{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。 |
|||
* [[1929年]]([[昭和]]4年)、[[大場磐雄]]が造出上で須恵器を採集{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。 |
|||
* 戦後、名古屋市による戦災復興事業で仮換地<ref name="熱田神宮公園"/>。 |
|||
* [[1969年]](昭和44年)、測量調査(名古屋大学){{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。 |
|||
* [[1980年]](昭和55年)、愛知県有地化<ref name="熱田神宮公園">[http://www.atsutajingu-park.com/enjoy/danpusan/index.html 断夫山古墳](熱田神宮公園・高蔵公園公式)。</ref>。 |
|||
* [[1987年]](昭和62年)7月9日、「断夫山古墳」として国の史跡に指定<ref name="国指定"/>。 |
|||
* [[1988年]](昭和63年)、測量調査(愛知考古学談話会){{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。 |
|||
== 規模・構造 == |
|||
[[File:Atsuta-Jingu-Park.jpg|thumb|220px|right|{{center|断夫山古墳の空中写真(1987年)}}{{small|{{国土航空写真}}}}<br />[[:File:Danpusan stereo.jpg|ステレオ写真はこちら]]]] |
|||
[[ファイル:断夫山古墳 周濠復原図.png|thumb|240px|right|{{center|周濠推定復原図}}]] |
|||
古墳の規模は次の通り{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。 |
|||
* 墳丘長:151メートル(推定復元160メートル程度か{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}) |
|||
* 後円部 - 3段築成。 |
|||
** 直径:80メートル |
|||
** 高さ:13メートル |
|||
* 前方部 - 3段築成。 |
|||
** 幅:116メートル |
|||
** 高さ:16メートル |
|||
* [[造出]] |
|||
** 西側くびれ部:約25メートル×17メートル |
|||
古墳の規模は、築造当時(6世紀前半頃)の大王墓の[[今城塚古墳]]([[大阪府]][[高槻市]]、190メートル、[[継体天皇]]真陵か)には及ばないものの、[[岩戸山古墳]]([[福岡県]][[八女市]]、135メートル、[[磐井 (古代豪族)|筑紫君磐井]]墓か)を上回り、全国で屈指の規模になる{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。墳丘のうち前方部の幅・高さは後円部の直径・高さを上回っており、前方部が大きく発達するという古墳時代後期の特徴を示す。ただし南東隅は後世に削り取られているほか、測量調査の結果から前方部前面が改変を受けた可能性が指摘されている{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。 |
|||
墳丘周囲には周濠が巡らされていたが、現在見るものは昭和期に造作されたものになる{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。本来の周濠については明治期の地籍図から復原が試みられており、現在の周濠を大きく上回る規模の盾形周濠であったと推定されている{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。ただし前方部前面の濠の幅のみ広いことから、測量調査でも示唆されるように前方部が後世に削られた可能性が高いとされ、その場合には本来の墳丘長は160メートル程度であったと推定されている{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。また尾張の大型前方後円墳の多くが二重周濠を有することから、断夫山古墳の周濠も二重であった(推定盾形周濠のさらに外側に周濠があった)可能性が指摘される{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。二重周濠を持つとすれば、地籍図の形状からして内濠周堤には張出(内堤張出)があった可能性もあるという{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。 |
|||
<gallery> |
|||
File:Danpusan-kofun 04.JPG|墳丘全景<br />{{small|右に後円部、左に前方部。}} |
|||
File:Danpusan Kofun funchou-1.JPG|後円部墳頂 |
|||
File:Danpusan Kofun funchou-2.JPG|墳丘上<br />{{small|前方部から後円部を望む。}} |
|||
File:Danpusan Kofun kouenbu.JPG|後円部 |
|||
File:Danpusan Kofun tsukuridashi.JPG|造出 |
|||
File:Danpusan Kofun zenpoubu.JPG|前方部前端<br />{{small|南東隅(右手前)は欠損する。}} |
|||
</gallery> |
|||
== 出土品 == |
== 出土品 == |
||
[[ファイル:高蔵遺跡出土 大型円筒埴輪 (名古屋市見晴台考古資料館).JPG|thumb|220px|right|{{center|大型[[円筒埴輪]]([[高蔵遺跡]]出土)}}{{small|本来は断夫山古墳に設置されたと見られる。[[見晴台遺跡|名古屋市見晴台考古資料館]]展示。}}]] |
|||
* 円筒埴輪 |
|||
墳丘からは後円部下段に[[円筒埴輪]]列が確認されているほか、少量の朝顔形埴輪片・形象埴輪片も検出されている{{Sfn|愛知県史 資料編3|2005年|pp=384-385}}。円筒埴輪は土師質・須恵質の両方があり、一部は6突帯7段以上に及ぶ大型埴輪である{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。断夫山古墳の勢力下にあった高蔵遺跡からも、本来は断夫山古墳に設置されたと見られる大型円筒埴輪が出土している。これらの埴輪については東山古窯([[猿投窯]]の一地域)で焼かれたとする説が知られる<ref>『愛知県の歴史(県史23)』 山川出版社、2001年、pp. 34-35。</ref>。以上の出土埴輪は[[名古屋市博物館]]・[[見晴台遺跡|名古屋市見晴台考古資料館]]・[[南山大学]][[南山大学人類学博物館|人類学博物館]]などに所蔵されている{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。 |
|||
* [[須恵器]]片 |
|||
* 子持坏片 |
|||
また、造出などからは多量の[[須恵器]]が出土したと報告されているが、その多くが行方不明となっている{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。現在に伝わるものはいずれも全形の不明な小片で、[[豊田市郷土資料館]]・名古屋市見晴台考古資料館などに所蔵されている{{Sfn|深谷淳|2009年|pp=20-32}}。なお、行方不明となった須恵器のうちには子持高坏があったといわれる。これを美濃・尾張地方の限定的な地域に見られる脚付蓋杯であったと見て、類似の出土状況を示す小幡池下古墳(名古屋市[[守山区]]:非現存)ほか瑞穂台地南部の古墳群を断夫山古墳の先行首長墓群に比定する説がある{{Sfn|新修名古屋市史 第1巻|1997年|pp=405-407}}。 |
|||
これらはかつて古墳の東側に住んでいた住民が掘り出したものを個人が譲り受けたもので、後に[[南山大学]]に寄贈された。現在では[[南山大学人類学博物館]]で見る事が出来る。 |
|||
これらの埴輪・須恵器の製作年代は、5世紀末から6世紀前半と推定される{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。そのほかの副葬品の出土などは知られていない。 |
|||
== 由来 == |
|||
5-6世紀に周辺の海人(当時、[[伊勢湾]]は現在より北まで入り込んでいた)に影響力を持っていた[[尾張氏]]の首長の墓と考えられている。特に、娘である目子媛(めのこひめ)をオホド王(後の[[継体天皇]])に嫁がせた事で天皇の外戚となった[[尾張連草香]](おわりのむらじくさか)が有力視されている。 |
|||
== 被葬者 == |
|||
熱田神宮社伝では、[[ヤマトタケル|日本武尊]]の妃・[[宮簀媛]](ミヤズヒメ)の墓とする。 |
|||
被葬者は明らかでない。熱田神宮では、古くから「陀武夫御墓」と称して[[ヤマトタケル|日本武尊]]妃の'''[[宮簀媛|宮簀媛命]]'''(みやずひめのみこと)の墓とする。神宮では、南方約300メートルにある[[白鳥古墳 (名古屋市)|白鳥古墳]]も「白鳥御陵」と称して日本武尊の陵としており、現在も毎年5月8日に白鳥古墳と断夫山古墳とにおいて御陵墓祭を行なっている{{Sfn|宮記|2012年|pp=32-35}}。ただし史書上でのヤマトタケル伝説の想定年代は4世紀頃となり、断夫山古墳の築造時期とは大きく隔たる{{Sfn|赤塚次郎|2015年}}。 |
|||
<div class="thumb tright"> |
|||
<div class="NavFrame" style="text-align:center;font-size:80%"> |
|||
'''『[[日本書紀]]』に基づく関係系図''' |
|||
{{familytree/start|style="text-align:left; font-size:100%"}} |
|||
{{familytree|border=0|||||||01| 01=[[[尾張氏]]]<br />'''[[尾張草香|尾張連草香]]'''}} |
|||
{{familytree|border=0|||||||!|}} |
|||
{{familytree|border=0|01|~|y|~|02| 01={{Supra|26}} [[継体天皇]]|02={{color|#FC4E6B|'''目子媛'''}}}} |
|||
{{familytree|border=0|||||)|-|.|}} |
|||
{{familytree|border=0||||01|02| 01={{Supra|27}} [[安閑天皇]]|02={{Supra|28}} [[宣化天皇]]}} |
|||
{{familytree/end}} |
|||
</div></div> |
|||
学術的には、この断夫山古墳は尾張地方で最大規模の古墳であることから、古代豪族の'''[[尾張氏]]'''(おわりうじ、尾張連)の首長墓になると考えられている{{Sfn|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年|pp=782-783}}。『[[日本書紀]]』ではこの6世紀頃のこととして、[[継体天皇]](第26代)の妃として[[尾張草香|尾張連草香]](おわりのむらじくさか)の娘の目子媛(めのこひめ)があったとし、さらに目子媛はのちの[[安閑天皇]](第27代)・[[宣化天皇]](第28代)を産んだと記載しており、尾張氏が継体大王の外戚としてヤマト王権と強い結びつきを持っていたことが知られる{{Sfn|赤塚次郎|2015年}}。古墳分布の様相的にも尾張地方は継体大王の支持勢力の中で最大勢力を成しており、越前から擁立されたという継体大王の即位に尾張氏が大きく貢献した様子が指摘される<ref>水谷千秋 『継体天皇と朝鮮半島の謎(文春新書925)』 文藝春秋、2013年、pp. 92-93、。</ref><ref>[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-01-04-06.htm 「継体天皇の擁立基盤」]『福井県史 通史編1 原始・古代』 福井県、1993年。</ref>。具体的な断夫山古墳の被葬者については、尾張連草香に比定する説や、目子媛に比定する説がある{{Sfn|愛知県史 資料編3|2005年|pp=384-385}}。 |
|||
== 文化財 == |
|||
なお、[[春日井市]]にある[[味美二子山古墳]]の被葬者と断夫山古墳の被葬者は密接な関係にあった可能性が指摘される。 |
|||
=== 国の史跡 === |
|||
* 断夫山古墳 - 昭和62年7月9日指定<ref name="国指定">{{国指定文化財等データベース|401|1462|断夫山古墳}}</ref><ref name="国指定文化財">[http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000008447.html 国指定文化財](名古屋市ホームページ)。</ref>。 |
|||
== |
== 考証 == |
||
[[File:Tumulus and ancient shrines distribution map of South Nagoya during the tumulus period.png|thumb|180px|right|{{Center|古墳時代の熱田周辺}}{{small|中央に年魚市潟(愛智潟)、その北縁に[[熱田神宮|熱田社]]と断夫山古墳。}}]] |
|||
* [[名古屋鉄道]] - [[神宮前駅]] |
|||
考古学的には、断夫山古墳や熱田神宮(本来は尾張氏氏神)の存在からこの熱田台地一帯が尾張氏の本拠地であったと想定されるが、熱田台地では断夫山古墳以前の大型古墳の築造が知られないことから、当地に移動した尾張氏一族が尾張統一の記念碑(象徴)的に断夫山古墳を築造したとする説がある{{Sfn|新修名古屋市史 第1巻|1997年|pp=520-522}}。また、断夫山古墳を始めとする熱田台地の大型古墳は古墳時代後期から営まれ始めるが、それとともに尾張地方では「尾張型須恵器」や「尾張型埴輪」といった特徴的な土器や製塩遺跡が出現することから、これらのシステム化された特産製品の生産を基に形成された統治集団が尾張氏に比定される{{Sfn|赤塚次郎|2015年}}<ref>藤井康隆 「「尾張氏」とは何者か」『古代史研究の最前線 古代豪族』 洋泉社、2015年、pp. 134-135。</ref>。 |
|||
* [[東海旅客鉄道|JR東海]][[東海道本線|東海道線]] - [[熱田駅]] |
|||
* [[名古屋市営地下鉄名城線]] - [[神宮西駅]]もしくは[[西高蔵駅]] |
|||
なお、この熱田台地では西縁に断夫山古墳・白鳥古墳などの古墳群、東縁に熱田神宮が位置し、首長墓域と聖域の棲み分けが図られていることから、熱田神宮の実際の鎮座を古墳群と同時期の6世紀頃と類推する説がある{{Sfn|新修名古屋市史 第1巻|1997年|pp=520-522}}。この熱田神宮と尾張の古墳群に関しては、神宮境外摂社の分布と断夫山古墳成立以前の各在地勢力の古墳群の分布とを対応づける説もある{{Sfn|新修名古屋市史 第1巻|1997年|pp=486-488}}。 |
|||
* [[名古屋市営バス]] - 「熱田駅西」「高蔵」下車 |
|||
== 関連施設 == |
|||
* [[名古屋市博物館]](名古屋市[[瑞穂区]]瑞穂通) - 埴輪を所蔵・展示。 |
|||
* [[見晴台遺跡|名古屋市見晴台考古資料館]](名古屋市[[南区 (名古屋市)|南区]]見晴町) - 埴輪・須恵器を所蔵・展示。 |
|||
* [[南山大学]][[南山大学人類学博物館|人類学博物館]](名古屋市[[昭和区]]山里町) - 埴輪を所蔵。 |
|||
* [[豊田市郷土資料館]]([[豊田市]]) - 須恵器を所蔵。 |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{reflist|2}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* 史跡説明板(名古屋市教育委員会設置) |
|||
* 地方自治体発行文献 |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2005|chapter=|title=愛知県史 資料編3 考古3 古墳|publisher=愛知県|isbn=|ref={{Harvid|愛知県史 資料編3|2005年}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1997|chapter=|title=[[名古屋市史|新修名古屋市史]] 第1巻|publisher=名古屋市|isbn=|ref={{Harvid|新修名古屋市史 第1巻|1997年}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2008|chapter=|title=[[名古屋市史|新修名古屋市史]] 資料編 考古1|publisher=名古屋市|isbn=|ref={{Harvid|新修名古屋市史 資料編 考古1|2008年}}}} |
|||
* 百科事典 |
|||
** {{Cite book|和書|author=早川正一|chapter=断夫山古墳(だんぷやまこふん)|year=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref={{Harvid|断夫山古墳(国史)}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1981|chapter=断夫山古墳(だんぷやまこふん)|title=[[日本歴史地名大系]] 23 愛知県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582490237|ref={{Harvid|断夫山古墳(平凡社)|1981年}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1989|chapter=断夫山古墳(だんぷさんこふん)|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4040012308|ref={{Harvid|断夫山古墳(角川)|1989年}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=[[小林三郎 (考古学者)|小林三郎]]|year=1989|chapter=断夫山古墳(だんぷざんこふん)|title=[[日本古墳大辞典]]|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=978-4490102604|ref={{Harvid|断夫山古墳(古墳)|1989年}}}} |
|||
** {{Wikicite|reference=[https://kotobank.jp/word/%E6%96%AD%E5%A4%AB%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3-95460 「断夫山古墳(だんぷさんこふん)」]『国指定史跡完全ガイド』、講談社(リンクは朝日新聞社「コトバンク」)|ref={{Harvid|国指定史跡完全ガイド}}}}。 |
|||
* その他書籍 |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=深谷淳|year=2009|chapter=断夫山古墳の周濠|title=名古屋市見晴台考古資料館研究紀要 第11号|publisher=名古屋市見晴台考古資料館|isbn=|ref={{Harvid|深谷淳|2009年}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2012|chapter=|title=熱田神宮宮記|publisher=[[熱田神宮]]|isbn=|ref={{Harvid|宮記|2012年}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=『歴史読本』編集部編|author=赤塚次郎|year=2015|chapter=断夫山古墳(だんぶやまこふん) -尾張の政権-|title=ここまでわかった! 古代王権と古墳の謎(新人物文庫356)|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=978-4046013064|ref={{Harvid|赤塚次郎|2015年}}}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* [[白鳥古墳 (名古屋市)|白鳥古墳]] - 断夫山古墳に次ぐ首長墓。 |
|||
{{Commons|Category:Danpusan kofun}} |
|||
* [[ |
* [[大須二子山古墳]] |
||
* [[尾張氏]] |
|||
* [[白鳥古墳 (名古屋市)]] |
|||
* [[熱田神宮]] |
|||
== 外部リンク == |
|||
{{DEFAULTSORT:たんふさん こふん}} |
|||
{{Commonscat|Danpusan kofun}} |
|||
* [http://www.atsutajingu-park.com/enjoy/danpusan/index.html 断夫山古墳] - 熱田神宮公園・高蔵公園公式サイト |
|||
* {{国指定文化財等データベース|401|1462|断夫山古墳}} |
|||
* [http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/kinenbutu/siseki/kunisitei/0878.html 断夫山古墳] - 愛知県ホームページ「文化財ナビ愛知」 |
|||
{{DEFAULTSORT:たんふさんこふん}} |
|||
[[Category:愛知県の古墳]] |
[[Category:愛知県の古墳]] |
||
[[Category:前方後円墳]] |
|||
[[Category:愛知県にある国指定の史跡]] |
|||
[[Category:熱田区の歴史]] |
[[Category:熱田区の歴史]] |
||
[[Category:愛知県にある国指定の史跡]] |
|||
[[Category:前方後円墳]] |
|||
[[Category:尾張氏|墓たんふさんこふん]] |
[[Category:尾張氏|墓たんふさんこふん]] |
2015年10月21日 (水) 14:36時点における版
断夫山古墳 | |
---|---|
墳丘横景 (左手前から右奥へ後円部、造出、前方部) | |
所在地 | 愛知県名古屋市熱田区旗屋町 |
位置 | 北緯35度7分51.33秒 東経136度54分11.27秒 / 北緯35.1309250度 東経136.9031306度座標: 北緯35度7分51.33秒 東経136度54分11.27秒 / 北緯35.1309250度 東経136.9031306度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長151m(推定復元約160m?) 高さ16m(前方部) |
埋葬施設 | 不明 |
出土品 | 円筒埴輪・須恵器 |
築造時期 | 6世紀前半 |
被葬者 |
(伝)宮簀媛命(日本武尊妃) (推定)尾張氏首長 (一説に尾張連草香や目子媛) |
史跡 | 国の史跡「断夫山古墳」 |
特記事項 | 愛知県第1位の規模 |
地図 |
断夫山古墳(だんぷさんこふん/だんぷやまこふん)は、愛知県名古屋市熱田区旗屋町にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。
熱田神宮では「陀武夫御墓」と称するほか[1]、古くは「鷲峰山」「団浮山」「段峰山」などとも表記された[2][3]。
愛知県では最大規模の古墳で、6世紀前半(古墳時代後期)の築造と推定される。
概要
名古屋市中心市街地からやや南、熱田台地南西縁の標高約10メートルの地に位置する大型前方後円墳である[4]。かつては海岸線が熱田台地西側近くまで伸びており、古墳は伊勢湾を広く望んだ立地になる[4]。現在までに本格的な発掘調査はなされていない[5]。
墳形は前方後円形で、前方部を南南東方に向ける。墳丘は3段築成で、前方部が発達した古墳時代後期の特徴を示し、古墳南東隅(前方部右隅)が削られているものの概ね良好に遺存する[5]。現在の墳丘長は約150メートルを測り、美濃・尾張地方では最大規模で、当時としては全国でも屈指の規模になる。墳丘の西側くびれ部には造出があり、ここからは多量の須恵器が出土した[4]。また墳丘の表面には円筒埴輪列が巡らされていたほか、葺石と見られる川原石も検出されている[4]。墳丘の周囲には周濠が巡らされていたが、現在見る濠は後世の造作によるものであり、消失した本来の周濠はさらに広範囲に及ぶものであった[4]。埋葬施設・副葬品は明らかではない[4]。
この断夫山古墳の築造時期は、出土した埴輪・須恵器を基に古墳時代後期の6世紀前半頃[5][3][6](または5世紀末-6世紀初頭頃[4])と推定され、当時尾張地方に大きな勢力を持った尾張氏の首長墓に比定される[4]。周辺では南方に白鳥古墳(前方後円墳、墳丘長70メートル)があるほか、熱田球場の位置には北山古墳(前方後円墳か:非現存)があったと想定されており、一帯は断夫山古墳とともに一連の首長墓群を成したと推測される[4]。また北方には古墳時代の遺構として高蔵遺跡があるが、これは断夫山古墳の被葬者に直接掌握された人々の遺跡とされる[7]。
本古墳はかつて宮簀媛命(日本武尊妃)の墓として熱田神宮大宮司家の管理下にあり、「断夫山」という名称もその宮簀媛伝承に基づくという[6]。『尾張名所図会』には「鷲峯山」として見え、3月3日のみ立ち入りが許され墳頂から熱田一円を見渡せた様子が描かれている[8]。明治に入って熱田神宮所属地化、のち戦後に入って愛知県有地化し、1987年(昭和62年)に古墳域は国の史跡に指定された。その後現在までに古墳含む周辺一帯は熱田神宮公園として整備されている[3][4]。
近世以降の変遷
- 1876年(明治9年)、熱田神宮所属地化(これ以前は熱田大宮司家が宮簀媛命墓として奉仕)[4]。
- 1929年(昭和4年)、大場磐雄が造出上で須恵器を採集[4]。
- 戦後、名古屋市による戦災復興事業で仮換地[9]。
- 1969年(昭和44年)、測量調査(名古屋大学)[4]。
- 1980年(昭和55年)、愛知県有地化[9]。
- 1987年(昭和62年)7月9日、「断夫山古墳」として国の史跡に指定[10]。
- 1988年(昭和63年)、測量調査(愛知考古学談話会)[4]。
規模・構造
古墳の規模は次の通り[4]。
- 墳丘長:151メートル(推定復元160メートル程度か[5])
- 後円部 - 3段築成。
- 直径:80メートル
- 高さ:13メートル
- 前方部 - 3段築成。
- 幅:116メートル
- 高さ:16メートル
- 造出
- 西側くびれ部:約25メートル×17メートル
古墳の規模は、築造当時(6世紀前半頃)の大王墓の今城塚古墳(大阪府高槻市、190メートル、継体天皇真陵か)には及ばないものの、岩戸山古墳(福岡県八女市、135メートル、筑紫君磐井墓か)を上回り、全国で屈指の規模になる[5]。墳丘のうち前方部の幅・高さは後円部の直径・高さを上回っており、前方部が大きく発達するという古墳時代後期の特徴を示す。ただし南東隅は後世に削り取られているほか、測量調査の結果から前方部前面が改変を受けた可能性が指摘されている[5]。
墳丘周囲には周濠が巡らされていたが、現在見るものは昭和期に造作されたものになる[4]。本来の周濠については明治期の地籍図から復原が試みられており、現在の周濠を大きく上回る規模の盾形周濠であったと推定されている[5]。ただし前方部前面の濠の幅のみ広いことから、測量調査でも示唆されるように前方部が後世に削られた可能性が高いとされ、その場合には本来の墳丘長は160メートル程度であったと推定されている[5]。また尾張の大型前方後円墳の多くが二重周濠を有することから、断夫山古墳の周濠も二重であった(推定盾形周濠のさらに外側に周濠があった)可能性が指摘される[5]。二重周濠を持つとすれば、地籍図の形状からして内濠周堤には張出(内堤張出)があった可能性もあるという[5]。
-
墳丘全景
右に後円部、左に前方部。 -
後円部墳頂
-
墳丘上
前方部から後円部を望む。 -
後円部
-
造出
-
前方部前端
南東隅(右手前)は欠損する。
出土品
墳丘からは後円部下段に円筒埴輪列が確認されているほか、少量の朝顔形埴輪片・形象埴輪片も検出されている[3]。円筒埴輪は土師質・須恵質の両方があり、一部は6突帯7段以上に及ぶ大型埴輪である[4]。断夫山古墳の勢力下にあった高蔵遺跡からも、本来は断夫山古墳に設置されたと見られる大型円筒埴輪が出土している。これらの埴輪については東山古窯(猿投窯の一地域)で焼かれたとする説が知られる[11]。以上の出土埴輪は名古屋市博物館・名古屋市見晴台考古資料館・南山大学人類学博物館などに所蔵されている[5]。
また、造出などからは多量の須恵器が出土したと報告されているが、その多くが行方不明となっている[5]。現在に伝わるものはいずれも全形の不明な小片で、豊田市郷土資料館・名古屋市見晴台考古資料館などに所蔵されている[5]。なお、行方不明となった須恵器のうちには子持高坏があったといわれる。これを美濃・尾張地方の限定的な地域に見られる脚付蓋杯であったと見て、類似の出土状況を示す小幡池下古墳(名古屋市守山区:非現存)ほか瑞穂台地南部の古墳群を断夫山古墳の先行首長墓群に比定する説がある[12]。
これらの埴輪・須恵器の製作年代は、5世紀末から6世紀前半と推定される[4]。そのほかの副葬品の出土などは知られていない。
被葬者
被葬者は明らかでない。熱田神宮では、古くから「陀武夫御墓」と称して日本武尊妃の宮簀媛命(みやずひめのみこと)の墓とする。神宮では、南方約300メートルにある白鳥古墳も「白鳥御陵」と称して日本武尊の陵としており、現在も毎年5月8日に白鳥古墳と断夫山古墳とにおいて御陵墓祭を行なっている[1]。ただし史書上でのヤマトタケル伝説の想定年代は4世紀頃となり、断夫山古墳の築造時期とは大きく隔たる[6]。
学術的には、この断夫山古墳は尾張地方で最大規模の古墳であることから、古代豪族の尾張氏(おわりうじ、尾張連)の首長墓になると考えられている[4]。『日本書紀』ではこの6世紀頃のこととして、継体天皇(第26代)の妃として尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘の目子媛(めのこひめ)があったとし、さらに目子媛はのちの安閑天皇(第27代)・宣化天皇(第28代)を産んだと記載しており、尾張氏が継体大王の外戚としてヤマト王権と強い結びつきを持っていたことが知られる[6]。古墳分布の様相的にも尾張地方は継体大王の支持勢力の中で最大勢力を成しており、越前から擁立されたという継体大王の即位に尾張氏が大きく貢献した様子が指摘される[13][14]。具体的な断夫山古墳の被葬者については、尾張連草香に比定する説や、目子媛に比定する説がある[3]。
文化財
国の史跡
考証
考古学的には、断夫山古墳や熱田神宮(本来は尾張氏氏神)の存在からこの熱田台地一帯が尾張氏の本拠地であったと想定されるが、熱田台地では断夫山古墳以前の大型古墳の築造が知られないことから、当地に移動した尾張氏一族が尾張統一の記念碑(象徴)的に断夫山古墳を築造したとする説がある[16]。また、断夫山古墳を始めとする熱田台地の大型古墳は古墳時代後期から営まれ始めるが、それとともに尾張地方では「尾張型須恵器」や「尾張型埴輪」といった特徴的な土器や製塩遺跡が出現することから、これらのシステム化された特産製品の生産を基に形成された統治集団が尾張氏に比定される[6][17]。
なお、この熱田台地では西縁に断夫山古墳・白鳥古墳などの古墳群、東縁に熱田神宮が位置し、首長墓域と聖域の棲み分けが図られていることから、熱田神宮の実際の鎮座を古墳群と同時期の6世紀頃と類推する説がある[16]。この熱田神宮と尾張の古墳群に関しては、神宮境外摂社の分布と断夫山古墳成立以前の各在地勢力の古墳群の分布とを対応づける説もある[18]。
関連施設
- 名古屋市博物館(名古屋市瑞穂区瑞穂通) - 埴輪を所蔵・展示。
- 名古屋市見晴台考古資料館(名古屋市南区見晴町) - 埴輪・須恵器を所蔵・展示。
- 南山大学人類学博物館(名古屋市昭和区山里町) - 埴輪を所蔵。
- 豊田市郷土資料館(豊田市) - 須恵器を所蔵。
脚注
- ^ a b 宮記 & 2012年, pp. 32–35.
- ^ 断夫山古墳(平凡社) & 1981年.
- ^ a b c d e 愛知県史 資料編3 & 2005年, pp. 384–385.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 新修名古屋市史 資料編 考古1 & 2008年, pp. 782–783.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 深谷淳 & 2009年, pp. 20–32.
- ^ a b c d e 赤塚次郎 & 2015年.
- ^ 新修名古屋市史 資料編 考古1 & 2008年, pp. 792–793.
- ^ 史跡説明板。
- ^ a b 断夫山古墳(熱田神宮公園・高蔵公園公式)。
- ^ a b 断夫山古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 『愛知県の歴史(県史23)』 山川出版社、2001年、pp. 34-35。
- ^ 新修名古屋市史 第1巻 & 1997年, pp. 405–407.
- ^ 水谷千秋 『継体天皇と朝鮮半島の謎(文春新書925)』 文藝春秋、2013年、pp. 92-93、。
- ^ 「継体天皇の擁立基盤」『福井県史 通史編1 原始・古代』 福井県、1993年。
- ^ 国指定文化財(名古屋市ホームページ)。
- ^ a b 新修名古屋市史 第1巻 & 1997年, pp. 520–522.
- ^ 藤井康隆 「「尾張氏」とは何者か」『古代史研究の最前線 古代豪族』 洋泉社、2015年、pp. 134-135。
- ^ 新修名古屋市史 第1巻 & 1997年, pp. 486–488.
参考文献
- 史跡説明板(名古屋市教育委員会設置)
- 地方自治体発行文献
- 百科事典
- 早川正一「断夫山古墳(だんぷやまこふん)」『国史大辞典』吉川弘文館。
- 「断夫山古墳(だんぷやまこふん)」『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』平凡社、1981年。ISBN 978-4582490237。
- 「断夫山古墳(だんぷさんこふん)」『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年。ISBN 978-4040012308。
- 小林三郎「断夫山古墳(だんぷざんこふん)」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 978-4490102604。
- 「断夫山古墳(だんぷさんこふん)」『国指定史跡完全ガイド』、講談社(リンクは朝日新聞社「コトバンク」)。
- その他書籍
- 深谷淳「断夫山古墳の周濠」『名古屋市見晴台考古資料館研究紀要 第11号』名古屋市見晴台考古資料館、2009年。
- 『熱田神宮宮記』熱田神宮、2012年。
- 赤塚次郎 著「断夫山古墳(だんぶやまこふん) -尾張の政権-」、『歴史読本』編集部編 編『ここまでわかった! 古代王権と古墳の謎(新人物文庫356)』KADOKAWA、2015年。ISBN 978-4046013064。