「福澤桃介」の版間の差分
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{{Infobox 人物 |
{{Infobox 人物 |
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|氏名=福澤 桃介 |
|氏名=福澤 桃介 |
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|画像= Fukuzawa Momosuke 45-year-old.jpg |
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|画像説明= 福澤桃介(45歳頃) |
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|生年月日= |
|生年月日=[[慶應]]4年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]](新暦:[[1868年]][[8月13日]]) |
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|生誕地= [[武蔵国]][[横見郡]]荒子村<br>(現[[埼玉県]][[吉見町]]) |
|生誕地 = [[武蔵国]][[横見郡]]荒子村<br />(現・[[埼玉県]][[比企郡]][[吉見町]]) |
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|没年月日= |
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1868|8|13|1938|2|15}} |
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|死没地 = [[東京市]][[渋谷区]]上智町 |
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|職業=[[実業家]]、[[政治家]] |
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|職業 = [[実業家]]、[[政治家]] |
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{{政治家 |
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[[File:Fukuzawa Momosuke young.jpg|thumb|若き日の福澤桃介]] |
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|人名 = 福澤 桃介 |
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'''福澤 桃介'''(ふくざわ とうすけ/ももすけ、[[1868年]][[6月25日]]([[慶應]]4年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[1938年]]([[昭和]]13年)[[2月15日]])は、日本の[[実業家]]、[[政治家]]。旧姓は岩崎<ref>間違われることが多いが、[[三菱財閥]]の[[岩崎家]]とは無関係。</ref>。 |
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|各国語表記 = ふくざわ ももすけ |
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|画像 = Fukuzawa Momosuke young.jpg |
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|画像説明 = 若き日の福澤桃介 |
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|国略称 = {{JPN1889}} |
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|前職 = 実業家 |
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|所属政党 = [[立憲政友会]]、[[政友倶楽部]]、無所属 |
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|国旗 = JPN |
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|職名 = [[衆議院|衆議院議員]] |
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|選挙区 = 千葉県郡部第1区 |
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|当選回数 = 1回 |
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|就任日 = [[1912年]][[5月15日]] |
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|退任日 = [[1914年]][[12月25日]] |
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'''福澤 桃介'''(ふくざわ ももすけ、[[慶應]]4年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]](新暦:[[1868年]][[8月13日]]) - [[1938年]]([[昭和]]13年)[[2月15日]])は、[[明治]]から[[昭和]]初期にかけて活動した日本の[[実業家]]。 |
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旧姓は岩崎で、[[福澤諭吉]]の婿養子となり福澤姓を名乗る。[[相場師]]として[[日露戦争]]後の株式投機で財を成し、その後実業界に転ずる。主として電気事業に関与し、[[名古屋電燈|名古屋電灯]]を買収して社長となり[[木曽川]]などで[[水力発電|水力]]開発を手がけ、後に大手電力会社[[大同電力]]の初代社長となった。これらの電気事業での活動により「電気王」「電力王」と呼ばれるに至る。また、実業家としての活動の傍ら、一時期[[衆議院]]議員(当選1回)も務めたことがある。 |
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[[日清紡績]]、[[矢作水力]](現・[[東亞合成]])、[[大同電力]](現・[[関西電力]])、[[東邦電力]](現・[[中部電力]])、[[東邦瓦斯]]、[[大同特殊鋼]]などを次々に設立。他にも数々の企業経営(福澤財閥)に携わり、「'''日本の電力王'''」と言われる。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[慶應]]4年([[1868年]])生まれ、[[武蔵国]]([[埼玉県]])出身。[[慶應義塾]]在学中に創設者[[福澤諭吉]]の養子(婿養子)となり、岩崎桃介を改め福澤桃介を名乗る。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]留学の後、[[1889年]](明治22年)より[[北海道炭礦鉄道]](後の[[北海道炭礦汽船]])に勤めるが、[[結核]]を患い辞職。療養生活中に[[株式投資]]に手を染めた。[[1898年]](明治31年)から10年の間は製紙会社勤務、独立した商店の経営と失敗、再度の北海道炭礦鉄道勤務、[[日露戦争]]後の株式市場での活躍、紡績・肥料・ビール・鉱山・ガス事業などでの起業・投資、と複数の事業や会社に関係したが、最終的には[[電力会社|電気事業]]の経営に落ち着いた<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]199-200・253-254頁</ref>。 |
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岩崎桃介は、[[武蔵国]][[横見郡]]荒子村(現在の[[埼玉県]][[吉見町]])の貧しい[[農家]]・岩崎紀一の次男として生まれた。六人兄弟で、妹(三女)に[[アララギ派]]の[[歌人]]の[[杉浦翠子]](旧姓・岩崎)がいる。翠子は、「激情の歌人」として知られ、近代日本の[[グラフィックデザイナー]]で多摩帝国美術学校(現・[[多摩美術大学]])の初代学長となった[[杉浦非水]]の妻ともなった。また、別の妹(二女)・出淵てるは[[矢作製鉄]]社長・[[出淵国保]]の母である。[[洋画家]]の[[岩崎勝平]]は甥。 |
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電気事業では[[1909年]](明治42年)より[[中部地方]]の[[名古屋電燈|名古屋電灯]]を買収する。これに前後して他にも[[九州|九州地方]]をはじめ各地の電気事業に関与した。[[1912年]](明治45年)から[[1914年]](大正3年)まで[[衆議院]]議員を1期のみ務め、1914年には名古屋電灯社長に就任して[[木曽川]]開発に着手。[[1921年]](大正10年)、戦前期の業界大手「五大電力」の一角である[[大同電力]]初代社長に転じ、[[大井ダム]]をはじめとする木曽川の電源開発を主導した。電気事業での活動により「電気王」「電力王」の異名を取るに至る<ref group="注釈">桃介自身は「電気王」と言っている(『福澤桃介翁伝』逸話篇「桃介翁の失敗談」178頁、など)。「電力王」の表現は死後刊行の伝記『激流の人 電力王福澤桃介の生涯』(矢田弥八著、光風社書店、1968年)、『電力王福沢桃介』(堀和久著、ぱる出版、1984年)や『財界の鬼才』(宮寺敏雄著、四季社、1953年)中の「第四話 事業界に入り電力王となる」など。</ref>。[[1928年]](昭和3年)に実業界を引退し、[[1938年]](昭和13年)に死去した。 |
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桃介6歳のとき、生家は母サダの岩崎の本家のあった[[川越]](現在の[[川越市]])に転居した(妹の翠子は川越で生まれた)。同郷出身の[[水村精]]が川越で埼玉県初の民営銀行・[[川越銀行]]を興しており、その伝手を頼った。また、サダの出た岩崎家は川越で財を成しておりサダも商才があったが、父の紀一は入り婿で風流人だった。紀一は川越で提灯屋を営むが失敗、生計は貧しさを極め、桃介は裸足で学校に通ったが、神童として有名であった。紀一は、岩崎本家が設立に関与した[[第八十五国立銀行]]に勤務、サダも本家から借りた金で金貸しをするなど、子供らの学費の工面を続けた。[[1882年]]([[明治]]15年)、桃介は旧知の旧川越藩士の娘が嫁いでいた[[眞野秀雄]]を頼って[[慶應義塾]]に進学した。慶應義塾の運動会で桃介の眉目秀麗ぶりが[[福澤諭吉]]の妻・錦の目にとまり、娘(次女)の房(ふさ)に引き合わされ、在学中の[[1886年]](明治19年)、福澤諭吉の婿養子となる。慶應義塾を卒業すると[[1887年]]に渡米し、[[ペンシルバニア鉄道]]の見習をした後、[[1889年]]に帰国。房と結婚し福澤姓に変わった。帰国後は、[[北海道炭礦汽船]]、[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]などに勤務した。 |
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== 経歴 == |
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しかし、[[肺結核]]にかかり、[[1894年]]から療養生活を送らざるを得なくなる。療養の間、株取引で蓄えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。当時は[[日清戦争]]の最中で、日本の勝利による株価の高騰もあり、百発百中の株で、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。療養により病状が好転し、株で得た金を元手に実業界に進出する。いみじくも、その後、相場は暗転した。 |
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=== 生い立ち === |
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福澤桃介、旧名岩崎桃介は、[[慶應]]4年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]<ref name="momo_p16">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]16-21頁</ref>([[明治元年]]、新暦:[[1868年]][[8月13日]])、[[武蔵国]][[横見郡]]荒子村(現・[[埼玉県]][[比企郡]][[吉見町]]荒子)に生まれた<ref name="momo1913_p53">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]53-56頁</ref>。父は岩崎紀一、母はサダといい、桃介は男女各3人の6人兄弟の次男であった<ref name="momo1913_p53"/>。 |
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父の紀一は[[北足立郡]][[原市町]](現・[[上尾市]])の[[名主]]の家の出身で、岩崎の本家も代々[[名主]]を務める家柄であったが、紀一が[[婿養子]]に入ったサダの家(桃介の生家)は末端の分家であり、少しの土地を持つのみの[[水呑百姓]]であった<ref name="momo_p16"/>。農業だけでは生活できないため生家は荒子村で雑貨や荒物を扱う商いも手がけていたが、桃介と2人の妹が生まれたところで[[川越町 (埼玉県)|川越町]](現・[[川越市]])に移り住み、ここで[[提灯]]屋を開業する<ref name="momo_p16"/>。桃介は川越の小学校へ通うようになったが、貧乏で下駄を買うのが容易でないため裸足で小学校へ通学したという<ref name="momo_p24">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]24-30頁</ref>。[[1878年]](明治11年)川越に[[第八十五国立銀行]]が設立されると、父紀一が提灯屋を廃業して同銀行に勤めるようになり家計はやや楽になった<ref name="momo_p24"/>。 |
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[[Image:Momosukebashi Bridge 2011-06 4.jpg|thumb|桃介橋]] |
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[[File:Fukuzawa Momosuke Memorial 2.jpg|thumb|福澤桃介の別荘(長野県南木曽町)]] |
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[[1906年]]、療養後に再就職していた北海道炭礦汽船を退職、[[瀬戸鉱山]]を設立して社長に就任。[[1907年]]、[[日清紡ホールディングス|日清紡績]]を設立、相場から離れる。[[木曽川]]の[[水利権]]を獲得し、[[1911年]]、[[岐阜県]][[加茂郡]]に[[八百津発電所]]を築いた。同年、日本瓦斯会社を設立。これらを始めとして、[[1924年]]には[[恵那郡]]に日本初の本格的[[ダム式発電所]]である[[大井ダム|大井発電所]]を、[[1926年]]には[[中津川市]]に[[落合ダム|落合発電所]]などを建築し、また矢作水力(現・[[東亞合成]])、大阪送電などの設立を次々に行う。[[1912年]]に[[読書発電所]]の工事用として架けた橋は後に[[桃介橋]]と呼ばれ、[[1993年]]に[[近代化遺産]]として復元、[[1994年]]には発電所とともに国の[[重要文化財]]に指定された。 |
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学問好きということで小学校へ通う傍ら川越の漢学塾にも通い、卒業後は父の実家に預けられて原市町の漢学塾で学ぶ<ref name="momo1913_p61">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]61-62頁</ref>。兄の育太郎は小学校を出るとすぐ[[丁稚|丁稚奉公]]に出されていたが、桃介は学問ができるということで川越の中学校に進んだ<ref name="momo1913_p61"/>。中学校を出ると、政治家を志し上京して学問を続けようということになり、[[福澤諭吉]]が開いている「[[慶應義塾]]」へと入学した<ref>[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]66-67頁</ref>。[[1883年]](明治16年)夏、16歳のときのことである<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜2頁</ref>。 |
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[[Image:Sadayakko Kawakami and Tosuke Fukuzawa.jpg|thumb|left|210px|福澤 桃介(右は[[川上貞奴]])]] |
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[[1920年]]には、大阪送電を改組する形で、五大電力資本の一角たる[[大同電力]](戦時統合で関西配電。現・[[関西電力]])と[[東邦電力]](現・[[中部電力]])を設立、社長に就任した。この事業によって「'''日本の電力王'''」と呼ばれることになる。[[起業家]]でもあった発明王[[トーマス・エジソン|エジソン]]は桃介の電力事業を支援した。[[1922年]]には東邦瓦斯(現・[[東邦ガス]])を設立、ほかにも[[愛知電気鉄道]](後に名岐鉄道と合併。現・[[名古屋鉄道]])の経営に携わったほか、[[大同特殊鋼]]などの一流企業を次々に設立し、「'''名古屋発展の父'''」と呼ばれる。その後、政界に進出、[[衆議院]][[議員]]になり、[[政友倶楽部]]に属した。 |
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=== 福澤家入り === |
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[[1926年]](昭和1年)には、[[帝国劇場]]会長に就任する。 |
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[[ファイル:Yukichi Fukuzawa 1891.jpg|thumb|義父[[福澤諭吉]]]] |
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岩崎桃介が通う慶應義塾では、しばしば[[運動会]]が開かれるようになって評判を集めていた<ref name="momo_p57">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]57-65頁</ref>。運動会で桃介は駆け足が得意であったという<ref name="momo_p57"/>。この運動会は福澤諭吉も妻や娘を連れて見物しており、学生の運動振りを見ながら娘の婿選びの機会になっていると噂されていた<ref name="momo_p57"/>。 |
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千種区覚王山の[[日泰寺]]舎利殿参道には、桃介の功績を偲んだ「追憶碑」がある。碑文には、「福澤桃介君は天縦の奇才にして、火力のみに依存していた電力供給を尾張信濃の渓谷を四萬年駄々と亜流していた河水を電力に変え、数百万家庭並びに大小幾百数千の工業を供給誘起、名古屋を日本第三の都会となした」と刻まれている。 |
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桃介が運動会に参加していた当時は、諭吉の次女である房(ふさ)の結婚問題が福澤家には起きていた<ref name="momo_p57"/>。その折柄、運動会で桃介の姿が諭吉の妻・錦の目に留まる<ref name="momo_p57"/>。長女の里の賛同も得、諭吉も乗気になり、桃介は房の結婚相手に抜擢された<ref name="momo_p57"/>。福澤家側は卒業後の洋行(留学)費用を出すという条件で桃介を[[婿養子]]に誘い、桃介の側もこれを承諾して養子入りが決定<ref name="momo_p57"/>。[[1886年]](明治19年)12月17日付で、房との結婚を前提に桃介は福澤家へ養子入りして福澤家の人間、すなわち福澤桃介となった<ref name="momo_p57"/>。桃介自身はこの養子入りについて後に自著にて、世間では諭吉が桃介を将来有望の青年と思って養子にしたと思われているが実際にはそうでない、と述べている<ref name="momo1913_p75">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]75・81-82頁</ref>。また、洋行のために養子になるのは情けないと後悔し当時は非常に残念に思ったという<ref name="momo1913_p75"/>。 |
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晩年は「日本初の[[俳優|女優]]」[[川上貞奴]]と同居し、夫婦同然の生活であった。貞奴とは慶應義塾の塾生(18歳)のときからの相思相愛であった。 |
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福澤家に入って[[1887年]](明治20年)2月2月、[[横浜港]]より[[アメリカ合衆国]]へと出発し、義兄の[[福澤一太郎|一太郎]]が留学中の[[ニューヨーク州]][[ポキプシー (ニューヨーク州の市)|ポキプシー]]に翌月到着する<ref name="momo_p77">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]77-78頁</ref>。語学勉強の傍ら実業学校に通い、次いで[[ボストン]]近郊の語学学校へ通う<ref name="momo_p77"/>。滞米2年目の[[1888年]](明治21年)1月からは[[フィラデルフィア]]に移り、当時アメリカ最大の鉄道会社であった[[ペンシルバニア鉄道]]に事務見習いとして入った<ref name="momo_p77"/>。その後は同社にあってその鉄道網を乗り潰し、語学勉強を除いては留学というより[[修学旅行]]のようであったという<ref name="momo_p82">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]82-85頁</ref>。 |
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== その他 == |
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[[関東大震災]]の影響で金融の道が閉ざされた時には、対日感情が悪化しつつあったアメリカに乗り込み、前代未聞の2万5千ドルもの外資導入に成功している。彼は前大統領[[ウィリアム・H・タフト|タフト]]、モルガン財閥の大番頭ラモンドら政財界の大物らを前に、世界最大の富強を誇るアメリカを称えた後で、「しかし、アメリカは、黄金の毒素によって、今にローマのように衰亡する道を歩いている」と即興の演説を始め、「そのアメリカから、金の毒を、わずかながら取り出してやろうとする私は、実は貴国から感謝されていいはずです」とぶち上げ、大喝采を受ける。 |
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留学の予定は[[1890年]](明治23年)までであったが、結局大学の学位を取ることなく予定を早めて帰国することとなり、[[1889年]](明治22年)11月15日横浜港に帰着した<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]99-100頁</ref>。帰国後の12月に房と結婚し、同月23日には戸籍上の分家の手続きを済ませた<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]107頁</ref>。 |
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桃介の電力事業の評価は極めて高く、発電所のモニュメントには元老[[山縣有朋]]・[[西園寺公望]]のみならず、発明王[[トーマス・エジソン|エジソン]]、フランス前首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]、無線電信の発明者[[グリエルモ・マルコーニ|マルコーニ]]らが賞賛のメッセージを寄せている。 |
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=== 北海道炭礦鉄道へ入社 === |
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一方で桃介を快く思わない者もいたようで、例えば評論家の湯本城川は自著『財界の名士とはこんなもの?』の中で「あんたが今日傍若無人の振舞をしても、誰れも何んとも云はぬのは、あんたが偉いのではない、死んだ諭吉翁が偉いからですぜ」と非難している<ref>湯本城川著『[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914370/1 財界の名士とはこんなもの? 第1巻]』事業と人物社、[[1924年]][[12月1日]]、[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914370/51 85 - 87ページ]。かっこ内は[[引用]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Kakugoro_Inoue.jpg|thumb|北海道炭礦鉄道時代の上司[[井上角五郎]]]] |
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桃介が帰国する直前の1889年11月、[[北海道炭礦鉄道]](後の[[北海道炭礦汽船]]、通称「北炭」)が設立された。設立の中心となったのは[[堀基]]で、福澤諭吉も設立に助力していた<ref name="momo_p110">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]110-117頁</ref>。この北炭に、諭吉の口添えもあって桃介は1889年12月31日に入社する<ref name="momo_p110"/>。しばらく東京にて鉄道の事務見習いをした後、1890年4月[[北海道]]へ赴任し、夫婦で[[札幌市]]へと移り住んだ<ref name="momo_p110"/>。 |
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==著書== |
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*『富の成功』東亜堂書房 1911 |
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*『桃介式』実業之世界社 1911 |
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*『欧米株式活歴史』池田藤四郎 1912 |
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*『無遠慮に申上候』実業之日本社 1912 |
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*『桃介は斯くの如し』星文館 1913 |
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*『予の致富術』東亜堂書房 1916 |
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*『金持になる工夫』尚栄堂 1917 |
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*『狸の腹つゝみ』昭文堂ほか 1917 |
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*『貯蓄と投資』[[岡本学]]共著 尚栄堂 1917 |
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*『貧富一新』ダイヤモンド社 1919 |
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*『槍ケ岳を中心として』ダイヤモンド社 1924 |
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*『財界人物我観』ダイヤモンド社 1930 |
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*『桃介夜話』先進社 1931 |
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*『西洋文明の没落 東洋文明の勃興』ダイヤモンド社 1932 |
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*『福沢桃介の人間学』五月書房 1984 |
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*『福沢桃介の経営学』五月書房 1985 |
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*『財界人物我観』図書出版社 1990 |
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*『福澤桃介式 比類なき大実業家のメッセージ』パンローリング 2009 |
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北海道での生活は長くなく、最初の冬を前に房が長男[[福澤駒吉|駒吉]](1891年1月誕生)を妊娠したので10月に夫婦そろって東京へ戻る<ref name="momo_p110"/>。北海道では運輸の仕事に従事していたが、東京に戻った丁度その頃、北炭では東京に支店を構えて[[シンガポール]]などへと石炭を輸出することになったため、外国語ができるということで桃介は東京に転任、石炭販売担当に転じた<ref name="momo1913_p103">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]103-105頁</ref>。こうして東京にて石炭販売の主任となった桃介は、[[名古屋市|名古屋]]にて愛知石炭商会を経営していた[[下出民義]]らと取引をするようになった<ref name="momo_p118">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]118-120頁</ref>。 |
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==関連文献== |
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*『福沢桃介翁伝』福沢桃介翁伝記編纂所 1939 |
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*宮寺敏雄『財界の鬼才 福沢桃介の生涯』四季社 1953 |
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*矢田弥八『激流の人 電力王福沢桃介の生涯』光風社書店 1968 |
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*宮寺敏雄『経営の鬼才福沢桃介』五月書房 1984 |
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*[[堀和久]]『電力王福沢桃介』ぱる出版 1984 |
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*[[浅利佳一郎]]『鬼才福沢桃介の生涯』日本放送出版協会 2000 |
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*[[杉本苑子]]『冥府回廊』日本放送出版協会、1984 のち文春文庫(福沢房を中心とした小説)「春の波涛」の原作。 |
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[[1893年]](明治26年)4月上旬、北炭社内の大改革により免職となるが、その後再入社した<ref>「新重役入社後の炭鉱鉄道会社」『[[読売新聞]]』1893年6月3日付朝刊</ref>。免職の経緯は[[井上角五郎]]によると、更迭された初代社長の堀基に代わって[[高島嘉右衛門]]が社長となったが、高島は経営に[[易経|易断]](高島易断)を持ち込み、社員の免職もこれで判断していたところ、易で桃介は免職と出たため実際に免職されたのだという<ref name="momo_p118"/>。同年5月、井上が北炭に理事として入る(後に専務取締役)<ref>[[#hokutan|『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』]]50頁他</ref>。再入社した桃介は井上の下で重役付きとなり、社内改革に従事した<ref name="momo_p118"/>。 |
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== 関連項目 == |
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{{Commonscat|Fukuzawa Momosuke}} |
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=== 病気と株式入門 === |
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* [[春の波涛]]:[[日本放送協会|NHK]]の[[1985年]]の[[大河ドラマ]]。川上貞奴を中心に福澤桃介、[[川上音二郎]]らを描いた群像劇。 |
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北炭に勤めていた[[1894年]](明治27年)夏、会社が石炭運搬のため購入した船舶の検査を横浜で行っていた際、そこで[[喀血]]してしまう<ref name="momo1913_p105">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]105-110頁</ref>。[[結核]]と診察され、諭吉が関与していた[[北里柴三郎]]の病院「[[北里研究所病院|養生園]]」に入院することとなった<ref name="momo1913_p105"/>。入院生活中、薬の飲みすぎで胃腸を悪くし衰弱したので、やがて[[大磯町|大磯]]([[神奈川県]])へと移り、東京の忙しい生活を離れて静養するばかりの日々を過ごした<ref name="momo1913_p105"/>。 |
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* [[井上角五郎]] |
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* [[松永安左エ門]] |
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結核を患い静養を余儀なくされたことが桃介が[[投資|株式投資]]を始める契機であった。自身が後に語るところによれば、養家の世話になってもよい家族の分は別として、自分の生活費が尽きてしまうのが心配であった上に、日々退屈であったので、病床でも何かできることはないかと考えて株式投資を思い立ったという<ref name="momo1913_p105"/>。これまで倹約していた上に[[三田 (東京都港区)|三田]]の諭吉本邸に附属する家に住んでおり家賃がなかったことから当時すでに3,000円の貯金があり、ここから1,000円を割き資本として投資を始めた<ref name="momo1913_p105"/>。当時は[[日清戦争]]が終戦を迎える頃で、初心者でも買えば必ず利益があがる時期であった<ref name="momo1913_p105"/>。 |
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* [[木曽電気製鉄]] |
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1年ほど経って健康を回復したので仕事に復帰しようと思い立ち、[[1895年]](明治28年)12月、仲買に命じて[[玉 (投資用語)|買い玉]]の[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]]株を清算してみると、約10万円の利益が手元に残った<ref name="momo1913_p112">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]112-118頁</ref>。1年間で10万円を稼いだということで勢いづいたためその後も株式投資を続けたが、[[1896年]](明治29年)の春より相場は下落、秋には暴落してしまい先の利益の半分を失った<ref name="momo1913_p112"/>。その後は相場を辞め、国内の温泉・海水浴場をほとんど巡るなど旅行ばかりの日々を送る<ref name="momo1913_p123">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]123-125頁</ref>。北炭に残る井上角五郎に随行して[[上海]]や[[香港]]へ出向いたこともあった<ref name="momo1913_p123"/>。その間の[[1898年]](明治31年)9月、遊んでばかりいるのを心配した親戚の[[中上川彦次郎]]が[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]へ桃介を取締役として入れたが、折り合いが合わず長続きしなかった<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]152-153頁</ref>。 |
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=== 丸三商会の失敗 === |
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[[1899年]](明治32年)、健康が回復したということで独立した商売人を志して貿易商「丸三商会」を旗揚げした<ref name="momo_p156">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]156-160頁</ref>。本店を東京の[[三十間堀]]に構え、北海道から鉄道の[[枕木]]を中国北部へ輸出するということで[[小樽市|小樽]]と[[神戸市|神戸]]に支店を配し、後に中国[[大連市|大連]]にも支店を設けるという陣容であった<ref name="momo_p156"/>。このうち神戸支店には、懇意であった慶應義塾の後輩[[松永安左エ門]]を[[日本銀行]]から引き抜いて登用している<ref name="yasu_p47">[[#yasu1931|『自叙伝松永安左エ門』]]47-51頁</ref>。また、商会の支配人は慶應義塾元幹事の益田という人物で、松永曰く、桃介が諭吉のへそくりをいくらか借りたので商会の財務監督に送り込まれたらしいという<ref name="yasu_p47"/>。 |
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丸三商会では中上川が経営し他に友人も多数在籍する[[三井銀行]]と金融の取引をしていた<ref name="momo1913_p125">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]125-129頁</ref>。しかし途中で方針が変わった模様で融資を断るようになる<ref name="momo1913_p125"/>。同時期、慶應義塾の先輩である[[森下岩楠]]が経営する東京興信所が、丸三商会の取引先からの問い合わせに対し福澤桃介の信用は絶無、資産は僅少である旨を報告した<ref name="momo1913_p125"/>。取引先が離れ、融資も断られた丸三商会は行き詰ってしまう<ref name="momo1913_p125"/>。諭吉にも「眼玉の飛出るほど」叱られる始末であった<ref name="momo_p156"/>。この失敗で興奮したためか病気が再発し、神戸に出張する途中で倒れて京都の[[同志社病院]]に一時期入院した<ref name="momo1913_p125"/>。この件で桃介は自分をいじめた者には強く当たろうと決心し、慶應義塾は敵であるとすら考えたという<ref name="momo1913_p125"/>。また、松永が神戸から病院に急行すると、桃介は福澤家の養子を今日限りで止めて旧の岩崎姓に戻ると言って聞かなかったとのことである<ref>[[#yasu1931|『自叙伝松永安左エ門』]]52-53頁</ref>。 |
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帰京すると三田の旧宅に留まるのが面白くないということで[[大森 (大田区)|大森]]の田圃の中にあった一軒家を借り、静養も兼ねて謹慎の日々を送る<ref name="momo_p174">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]174-176頁</ref>。そうしているうちに、[[1901年]](明治34年)[[2月3日]]、義父の福澤諭吉が死去した<ref name="momo_p174"/>。この5か月後の同年7月、北炭の常務・井上角五郎に誘われて同社に復帰し、元の重役付として勤め始めた<ref name="momo_p174"/>。以後[[1906年]](明治39年)10月に辞職してサラリーマン生活を終えるまで長く在籍している<ref name="momo_p174"/>。この間、北炭の[[外債]]発行に関係した<ref name="momo_p174"/>。 |
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=== 成金 === |
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三度北炭に復帰した後は、株式投資は小遣いをとる程度には続けていたが<ref name="momo1913_p123"/>、当時勃発した[[日露戦争]]では先の日清戦争と異なり日本は賠償金を獲得できず、このことからかつてのように景気が良くなることはない、との説が一般的であったので、身を入れて株を買うということはなかった<ref name="momo1913_p131">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]131-145頁</ref>。しかし終戦翌年の[[1906年]](明治39年)春頃から相場が高騰し始めると、桃介も本格的に株式投資に乗り出した<ref name="momo1913_p131"/>。9月ごろに一部を除いて手仕舞いするが、まだ相場が騰貴するので、大株主の[[雨宮敬次郎]]や[[田中平八]]が売り出した北炭株を買い始める<ref name="momo1913_p131"/>。一時期は会社の乗っ取りも企てたが、株価の高騰であまりにも利益が上がるので12月から売り始め、まだ高騰を続ける中で売り繋いだ<ref name="momo1913_p131"/>。 |
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日露戦争後の株式投機で利益を挙げた桃介は「[[成金]]」の一人に数えられた。株式屋仲間の噂では、桃介はこの時期、仲買人の富倉林蔵・[[島徳蔵]]、相場師[[鈴木久五郎]]に次ぐ金額である350万円の巨利を得ているとのことであった<ref>「成金家の財産調べ」『読売新聞』1907年2月22日付朝刊。噂によると利益は富倉600万円、島500万円、鈴木400万円。</ref>。[[1907年]](明治40年)1月半ばの株価暴落に際しては手元に若干の[[宝田石油]]株が残っており含み損を抱えたが、3月に[[増資]]ということで株価が一時高騰したので、このときに売り切って利益を得た<ref name="momo1913_p131"/>。以後株式投資を止めて旅行へ出かける<ref name="momo1913_p131"/>。足を洗った桃介に対し、3・4月の安値を見て買いに回った鈴木久五郎は没落してしまう<ref name="momo1913_p131"/>。 |
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一躍成金となった桃介は、優良会社の株式が軒並み高騰している中で株式を新たに買うのは困難であるから、新会社を設立して将来に期待しようという考えから、[[岩崎清七]]と紡績会社の設立を目論む<ref name="nisshin_p39"/>。1907年1月、資本金1,000万円で[[日清紡ホールディングス|日清紡績株式会社]]が発足すると、初代専務取締役に就任した<ref name="nisshin_p60"/>。専務には[[佐久間福太郎]]も就任したが、佐久間とは紡績工場の近くの[[亀戸]]にて資本金20万円の東武銀行を共同経営する<ref name="nisshin_p109"/>。しかし佐久間系の幹部が不正事件を起したことで桃介は佐久間と対立し、このこともあって[[1910年]](明治43年)までに持株の大半を手放した上で常務取締役を辞任して日清紡績から撤退した<ref name="nisshin_p109"/>。 |
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: ''日清紡績での活動については[[#日清紡績|#事業・日清紡績]]も参照'' |
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紡績業の他にも、岩崎や[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]・[[馬越恭平]]とともに[[肥料]]会社の設立に参加する<ref name="momo_p219">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]219-227頁</ref>。この帝国肥料株式会社は資本金300万円をもって1906年10月に設立され、[[横浜市|横浜]]で肥料工場の建設に取り掛かるが、[[1908年]](明治41年)8月業界大手の大日本人造肥料(現・[[日産化学工業]])に合併された<ref>[[#jinzo|『大日本人造肥料株式会社五十年史』]]93-94頁</ref>。また、根津とは[[半田市|半田]]([[愛知県]])にあった「[[カブトビール]]」を共同で買収するが、根津と意見が合わず持株を売却し撤退した<ref name="momo_p219"/>。この時期には、瀬戸鉱山株式会社を設立し[[岡山県]]にて[[銅山]]を経営し、北海道では北炭の元社長堀基から[[農場]]を譲け受けて農場経営にも手を広げた<ref name="momo_p240">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]240-241頁</ref>。銅山経営は以後8年間採掘を試みるものの上手くいかず[[藤田財閥|藤田組]]に売却し撤収したが、農場経営は軌道に乗りその後も長く続いた<ref name="momo_p240"/>。 |
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=== 電気事業に参入 === |
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[[ファイル:Fukuzawa Momosuke 48-year-old.jpg|thumb|名古屋電灯応接室にて]] |
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紡績・肥料・ビール・鉱山・農場など様々な事業に投資した桃介は、[[電力会社|電気事業]]にも投資を始めていた。 |
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[[九州]]では1906年11月、[[佐賀県]]にて[[水力発電]]を計画する広滝水力電気株式会社の設立に際して大株主となる<ref name="toho_p59">[[#toho|『東邦電力史』]]59-62頁</ref>。また、福岡にて先に松永安左エ門らと出願していた市内での[[路面電車]]敷設の特許が1908年12月に下りると、[[1909年]](明治42年)8月大株主となって[[福博電気軌道|福博電気軌道株式会社]]を設立、自ら社長に就任した<ref name="toho_p54">[[#toho|『東邦電力史』]]54-59頁</ref>。 |
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: ''九州での活動は[[#九州電灯鉄道|#事業・九州電灯鉄道]]も参照'' |
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[[東海地方]]では[[豊橋市]](愛知県)の電力会社[[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気]]にまず関与した。同社は事業拡大のため1907年に資本金を15万円から50万円に拡大していたが、増資への応募が少なく地元以外からも出資者を募っていた<ref name="toyohashi4_p607">[[#toyo4|『豊橋市史』第四巻]]、607-608頁</ref>。桃介は創業者で社長の[[三浦碧水]]の勧めで1908年より出資して筆頭株主となり、翌1909年には社長に就任(1912年まで)して経営改革にあたった<ref name="toyohashi4_p607"/>。次いで東海地方では、豊橋電気よりも規模が大きい[[名古屋市]]の電力会社、[[名古屋電燈|名古屋電灯]]の買収に着手する。買収は1909年3月に始まり、翌[[1910年]](明治43年)6月末までに1万株を持つ筆頭株主となる至る<ref name="momo_p262">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]262-266頁</ref>。それと同時に会社内での地位が向上し、顧問を皮切りに相談役、取締役と昇進して1910年5月には常務取締役に選出された<ref name="meiden_p164">[[#meiden|『稿本名古屋電灯社史』]]164-173頁</ref>。 |
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名古屋電灯の後も電気事業への進出は続き、[[1911年]](明治44年)、[[島根県]]の浜田電気、[[千葉県]]の野田電気の社長に相次ぎ就任<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜10頁</ref>。また、[[四国]]・[[徳島県]]にて[[祖谷川]]開発を計画する[[四国水力電気]](旧・讃岐電気)の経営陣に依頼され、同年3月同社社長に就いた<ref>[[#shisui|『四水三十年史』]]43-44頁、{{NDLJP|1176966/45}}</ref>。翌年にも[[長崎県]][[佐世保市]]の佐世保電気の社長となっている<ref name="nenpu_p11">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜11頁</ref>。このように電気事業に積極的となったのは、電気事業を確実に利益の見込める事業であると認めたためで、全国各所に手を広げたのは趣味の旅行も兼ねて事業ができるためであるという<ref name="momo1913_p152">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]152-155頁</ref>。同時期には電気事業以外にも[[都市ガス|ガス]]事業にも注力する<ref name="momo1913_p152"/>。1910年4月、日本瓦斯株式会社(資本金200万円)が発足するとその社長に就任<ref>「日本瓦斯創立総会」『読売新聞』1910年4月29日付朝刊、「日本瓦斯成立」『読売新聞』1910年4月30日付朝刊</ref>。国内各地にて計画されつつあったガス事業を統括、経営することを目指した<ref>「瓦斯放資事業」『[[東京朝日新聞]]』1910年3月26日付朝刊</ref>。 |
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=== 政界入り === |
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[[1912年]](明治45年)5月、[[第11回衆議院議員総選挙]]に立候補して当選し、[[衆議院]]議員となった<ref name="giin">[[#giin|『歴代閣僚と国会議員名鑑』]]683頁</ref>。当選はこの1回のみで<ref name="giin"/>、[[1914年]](大正3年)12月に[[第2次大隈内閣]]によって[[衆議院解散|解散]]が行われるまでの1期務めただけである<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]298頁</ref>。当時45歳、[[立憲政友会]]公認で、特段深い縁故のない千葉県郡部から出馬してトップ当選を果たした<ref name="yomi19120522">「新顔代議士伝」『読売新聞』1912年5月22日付朝刊</ref>。 |
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議員生活を始めて半年ほどの1912年12月、[[第2次西園寺内閣]]に代わって[[第3次桂内閣]]が成立すると、にわかに[[憲政擁護運動]]が盛り上がった。運動の火種である[[交詢社]]のメンバーであったので、桃介も運動に参加している<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]300-301頁</ref>。翌[[1913年]](大正2年)2月、[[尾崎行雄]]・[[岡崎邦輔]]や交詢社のメンバーとともに政友会を離党し、小会派「[[政友倶楽部]]」を組織してそれに加わった<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]312頁</ref>。政友倶楽部では実業家ということで会派を代表して[[予算委員会]]理事となり、3月には[[本会議]]にて演説した<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]316-317頁</ref>。 |
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政友倶楽部を組織してしばらくすると、岡崎は政友会に復帰、尾崎らは[[中正会]]を組織するなど政友倶楽部はバラバラになる。その中で桃介は孤立して無所属となった<ref name="momo_p314">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]314-315頁</ref>。可愛がられていた政友会の[[松田正久]]に「君は政治に適さない」と言われ、結局その通りに議員生活は間もなく終わった<ref name="momo_p314"/>。その後[[1920年]](大正9年)の[[第14回衆議院議員総選挙]]に再び立憲政友会公認で、今度は岐阜県の選挙区から立候補する話が出たが、結局立候補を取りやめている<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]逸話編148-152頁</ref>。 |
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=== 木曽川開発へ === |
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[[ファイル:Shimpei Gotō.jpg|thumb|電源開発の協力者となった[[後藤新平]]]] |
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1910年に名古屋電灯常務となったものの短期間で一旦辞任していたが、同社の経営悪化により不満を持つ株主の中で、豊橋電気の再建や九州での実績からその手腕を期待して取締役に留まる福澤桃介に経営を一任すべしという意見が起るようになる<ref name="meiden_p190">[[#meiden|『稿本名古屋電灯社史』]]190-193頁</ref>。そして[[1913年]](大正2年)1月、桃介は常務取締役に復帰し、経営改革に着手する<ref name="meiden_p190"/>。同年9月には社長代理に指名され、[[1914年]](大正3年)12月には社長に選出された<ref name="meiden_p194">[[#meiden|『稿本名古屋電灯社史』]]194頁</ref>。 |
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: ''名古屋電灯での活動は[[#名古屋電灯|#事業・名古屋電灯]]も参照'' |
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名古屋電灯に入った桃介が主として手がけた事業は、中部地方を流れる[[木曽川]]の開発であった。松永安左エ門によると、桃介は「俺は木曽川で電力を起し、天下の水力王になるよ」と豪語していたという<ref>[[#miyadera|『財界の鬼才』]]356頁。カッコ内は引用。</ref>。桃介の木曽川開発は後年、「電気事業者としての福澤桃介氏は、木曽川を離れて福澤氏無く、福澤氏を離れて木曽川の開発無し」(『大同電力株式会社沿革史』)と評されている<ref name="daido_p6">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]6頁</ref>。 |
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桃介がまだ社長代理であった1914年初頭、まず名古屋電灯社内に臨時建設部が設置された<ref name="daido_p73"/>。同部はすでに完成していた八百津発電所よりも上流側における木曽川の電源開発を主たる任務とし、[[水利権]]を確保済みの地点における設計変更や新水利権の出願などに着手する<ref name="daido_p73"/>。開発を実行に移すには、従来から木曽川を用いていた[[神宮備林|木曽御料林]]の木材輸送が電源開発によって不可能になるので、御料林を管理する[[帝室林野局|帝室林野管理局]]との交渉が必要であった<ref name="daido_p10">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]10-14頁</ref>。桃介は御料林問題につき[[逓信大臣]]を務めた経験がある[[後藤新平]]に協力を求めてその助力を得、また、後藤の秘書官であった[[増田次郎]]を交渉役として推薦された<ref name="daido_p10"/>。 |
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御料林問題が解決し木曽川開発の見込みが立つと、名古屋電灯では電力の消化策として電気[[製鉄]]事業に着目し、電源開発部門と合わせて独立させ、[[1918年]](大正7年)9月[[木曽電気製鉄|木曽電気製鉄株式会社]](後の木曽電気興業)を設立<ref name="daido_p10"/>。新会社の木曽電気製鉄が木曽川や[[矢作川]]での電源開発を手がけ、その親会社の名古屋電灯は配電事業に特化するという体制とし、桃介は両社の社長を兼任した<ref name="daido_p10"/>。翌[[1919年]](大正8年)、木曽電気興業の手によって、八百津発電所に続く木曽川の発電所として賤母(しずも)発電所([[長野県]])が完成、続いて同社は大桑発電所(同)の建設にも取り掛かった<ref name="kansai_p178">[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]178-188頁</ref>。 |
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名古屋電灯の活動の一方で、他の地域での活動は漸次縮小した。社長であった佐世保電気は1912年11月九州電灯鉄道へ合併<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜12頁</ref>。野田電気社長は[[1916年]](大正5年)8月辞任、同年10月には浜田電気社長も辞任した<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜13頁</ref>。さらに四国水力電気社長も[[1917年]](大正6年)6月に退いている<ref>[[#shisui|『四水三十年史』]]141-142頁</ref>。反対に名古屋では、名古屋電灯以外にも、[[愛知電気鉄道]]の常務[[藍川清成]]に要請されて1914年8月同社社長に就任し、1917年6月に退任するまで同社の経営再建に助力する<ref>[[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]155-158・160-161頁</ref>。電力を利用する産業の企業にも取り組み<ref name="asano1210"/>、1916年8月名古屋電灯系列として[[電気製鋼所]]を設立して翌1917年9月より自ら社長を務め<ref name="steel_p44"/>、1918年には電源開発用の[[セメント]]製造を目的に名古屋セメントを設立して社長となった<ref name="asano1210"/>。 |
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さらに1919年9月、友人の[[三輪市太郎]]が持ち込んできた名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、[[安田善次郎]]の金融面での後援を取り付けて資本金1,000万円の[[東海道電気鉄道]]を設立、ここでも自ら社長に就任した<ref name="asano1210"/>。同社は東京・大阪間の電気鉄道敷設も視野に入れていたが、安田の死去で頓挫して[[1922年]](大正11年)7月に愛知電気鉄道へと吸収されている<ref name="asano1210"/>。 |
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=== 大井ダム === |
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[[ファイル:Oi Dam power station.jpg|thumb|大同電力が建設した[[大井ダム]]と大井発電所(左)]] |
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[[ファイル:Fukuzawa Momosuke Memorial 2.jpg|thumb|発電所建設の指揮を執った別荘(長野県南木曽町)]] |
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1919年11月、木曽電気興業と大阪の[[京阪電気鉄道]]の提携により、大阪送電株式会社が設立された<ref name="asano1209_p40">[[#asano1209|「木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業」]]40-43頁</ref>。社長は福澤桃介で、[[第一次世界大戦]]による好景気で電力不足に陥る[[近畿地方|関西地方]]へ木曽川で開発する電力を送電することを目的とした<ref name="asano1209_p40"/>。翌[[1920年]](大正9年)には、同じく関西方面への送電を目的とする[[山本条太郎]]率いる[[日本水力]]との合併案をまとめ、10月に大阪送電・木曽電気興業・日本水力の3社の合併を決定<ref name="daido_p45"/>。そして翌[[1921年]](大正10年)2月、3社の合併が成立し資本金1億円の新会社[[大同電力|大同電力株式会社]]が発足するに至った<ref name="daido_p54"/>。初代社長は福澤桃介である<ref name="daido_p54"/>。一方、木曽電気興業の母体である名古屋電灯は、複数の会社と合併して1921年10月に関西電気株式会社(翌年[[東邦電力]]に改称)となるが、同年12月、1914年以来務めてきた社長を退いている。 |
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: ''大同電力での活動は[[#大同電力|#事業・大同電力]]も参照'' |
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大同電力発足後も引き続き木曽川開発は進められ、1921年大桑発電所が運転を開始<ref name="kansai_p178"/>。[[1922年]](大正11年)には須原発電所(長野県)が完成し、翌年には桃山発電所(同)と、4万700[[ワット|キロワット]]と当時日本最大の[[読書発電所|読書(よみかき)発電所]]も竣工した<ref name="kansai_p178"/>。関西地方への送電線建設もあわせて進められ、1922年、[[大阪市]]郊外に[[変電所]]を設置して関西への送電を開始している<ref name="kansai_p178"/>。さらに1922年7月、大同電力は日本で初めての本格的ダム式発電所となる大井発電所([[大井ダム]]、岐阜県)の建設に着手する<ref name="kansai_p178"/>。 |
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この大井発電所は、計画当初の段階では従来の発電所と同じ水路式発電所の予定であったが、河川の落差が少ないためダム式発電所とするのが有利とされたため変更された<ref name="kansai_p178"/>。桃介自身が語るところによれば、日本では前例がなく早過ぎる、アメリカで研究ができてから始めた方が安全だという議論があったが、偉いものを造ろうという野心に燃えたためダム建設に着手することになったという<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]逸話篇262-263頁</ref>。ところが建設中の1923年9月、[[関東大震災]]が発生し、金融逼迫が生じて資金の調達が困難になってしまう<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]106頁</ref>。12月には国内金融機関からの融資が不調に終わったが、その後アメリカの{{日本語版にない記事リンク|ディロン・リード商会|en|Dillon, Read & Co.}}との間で[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]建て社債、すなわち[[外債]]の発行についての話が纏まり、1,500万ドル募集の仮契約調印まで漕ぎ着けた<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]359-360頁</ref>。 |
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桃介は秘書らを引き連れ、外債発行交渉のため[[1924年]](大正13年)5月13日横浜港を出向、31日に[[ニューヨーク]]へ到着した<ref name="kinyu_p145">[[#kinyu|『事業金融人物』]]145-148頁</ref>。出発前、交渉が失敗に終われば工事資金が調達できなくなり工事中断もありうるので、その場合は責任を負って日本には帰らず[[スイス]]へ移住する覚悟であると語っていたという<ref name="kinyu_p145"/>。困難な交渉の末、同年7月18日に本契約の調印が終わり、全米に大同電力社債の売り出しが発表された<ref name="kinyu_p145"/>。売り出しを見届けて桃介一行は2か月を過ごしたニューヨークを引き上げ、8月23日に帰国した<ref name="kinyu_p145"/>。滞米中の6月、水力開発に関する学識経験と[[慶應義塾大学]]に対する寄付などの教育への貢献を称え、[[ユニオン大学]]から[[理学博士]] (Doctor of Science) の学位が贈られている<ref>[[#kinyu|『事業金融人物』]]149-152頁</ref>。 |
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大井発電所は帰国後の1924年12月に完成<ref name="kansai_p178"/>。出力4万2,900キロワットで、読書発電所を抜いて当時日本最大の発電所であった<ref name="kansai_p178"/>。 |
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=== 引退と死去 === |
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[[1926年]](大正15年)4月、[[大倉喜八郎]]の退任に伴い[[帝国劇場|帝国劇場株式会社]]の会長に就任した<ref name="momo_itsuwa74">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]逸話篇74-78頁</ref>。桃介は同社の設立時(1907年)から関与しており、義兄[[福澤捨次郎]]が発起人の一人であった関係から設立に参加して株主となっていた<ref name="momo_itsuwa74"/>。その会長となり、「電気王」などと言われ独立して仕事ができるようになっていたのでこの際東京の社交界を取り仕切ってみようと考えたというが<ref name="momo_itsuwa74"/>、同年6月、[[東京海上日動ビルディング|東京海上ビル]]にて[[脳貧血]]を起して倒れた<ref name="momo_itsuwa74"/><ref name="momo_nenpu22">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜22-23頁</ref>。8月には復帰するが、翌[[1927年]](昭和2年)7月には[[腎臓]]摘出手術を受けた<ref name="momo_nenpu22"/>。 |
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[[1928年]](昭和3年)3月、帝国劇場会長を辞任<ref name="momo_nenpu22"/>。6月6日には実業界引退を宣言し、9日大同電力のほか同社系列の[[天竜川電力]]・[[北恵那交通|北恵那鉄道]]および豊国セメントの社長から退いた<ref name="momo_nenpu22"/>。当時61歳であった<ref name="momo_nenpu22"/>。[[1932年]](昭和7年)には[[家督]]を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居している<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜27頁</ref>。 |
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[[1937年]](昭和12年)[[2月15日]]、東京[[渋谷]]の本邸にて死去<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜28頁</ref>。満69歳没。死因は[[脳梗塞|脳塞栓]]であった<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]454頁</ref>。[[築地本願寺]]にて葬儀が行われ、[[多摩霊園]]に葬られた<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]456-457頁</ref>。 |
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== 事業 == |
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=== 日清紡績 === |
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日露戦争後の株価高騰で一躍成金となった桃介は、1906年頃より[[岩崎清七]]と紡績会社の設立を目論む<ref name="nisshin_p39">[[#nisshin|『日清紡績六十年史』]]39-45頁</ref>。優良会社の株式が軒並み高騰している中で株式を新たに買うのは困難であるから、新会社を設立して将来に期待しようという投機者流の考えからであったという<ref name="nisshin_p39"/>。桃介らの動きに先立ち、[[日比谷平左衛門]]が営む東京の有力綿糸商「日比谷商店」の番頭[[佐久間福太郎]]らも紡績会社設立に動き始めており、桃介や岩崎・佐久間らは繊維業界の重鎮でもあった日比谷平左衛門の助力を取り付けて会社設立に踏み切ることとなった<ref name="nisshin_p39"/>。 |
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1906年11月、最初の発起人会を開き、次いで創立委員会を開催する<ref name="nisshin_p47">[[#nisshin|『日清紡績六十年史』]]47-48頁</ref>。新会社の資本金は1,000万円で、株式は一般募集ではなく発起人の紹介によって申し込んだ者に割り当てる縁故募集の形としたが、新会社の前評判が良く、申し込みが殺到して割当の応募は株式総数の約10倍に上った<ref name="nisshin_p47"/>。翌[[1907年]](明治40年)1月26日、新会社[[日清紡ホールディングス|日清紡績株式会社]]が創立総会を開いて発足するに至る<ref name="nisshin_p60">[[#nisshin|『日清紡績六十年史』]]60-61頁</ref>。横浜の資産家[[平沼専蔵]]や佐久間福太郎、福澤桃介、岩崎清七らが取締役に選任され、その中で平沼が初代会長、佐久間・桃介の両名が初代専務取締役に互選された<ref name="nisshin_p60"/>。設立から1年余りが経過した[[1908年]](明治41年)6月より工場の一部操業を開始し、翌[[1909年]](明治42年)5月からは全面操業を始めて開業式を挙行している<ref>[[#nisshin|『日清紡績六十年史』]]83・87頁</ref>。 |
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桃介は専務であるとともに、一時期は1万株を持つ同社の筆頭株主であったが、工場の操業開始から1年余りで持ち株の大半を手放し、[[1910年]](明治43年)4月2日の臨時株主総会にて専務取締役を辞任した<ref name="nisshin_p109">[[#nisshin|『日清紡績六十年史』]]109-110頁</ref>。取締役であった岩崎清七によれば、桃介の日清紡績撤退は会社の前途を悲観したためという<ref name="nisshin_p109"/>。また、専務の佐久間盛太郎と別会社の経営をめぐり対立したことも原因であったといわれる<ref name="nisshin_p109"/>。日清紡績について、桃介は株を早期に売却して利益を得ようと考えたが、相場師と言われるのが嫌になって真面目な実業家と思われたいがために思いとどまったことがあったと後に自著で述べているが<ref name="momo1913_p131"/>、結局株式を売却して退くこととなった。 |
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=== 九州電灯鉄道 === |
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[[ファイル:MATSUNAGA Yasuzaemon.jpg|thumb|九州の電気事業に協力した[[松永安左エ門]]]] |
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1906年11月4日、実業家の[[中野致明]]・[[牟田万次郎]]・[[伊丹弥太郎]]らにより広滝水力電気株式会社という電力会社が設立され、[[筑後川]]水系城原川([[佐賀県]])での[[水力発電]]を計画した<ref name="toho_p59"/>。同社設立の際、桃介は[[福岡市|福岡]]の[[太田清蔵]]から株の引き受けを依頼され、資本金30万円総株数6,000株のうち1,500株を持つこととなった<ref name="momo1913_p145">[[#momo1913|『桃介は斯くの如し』]]145-152頁</ref>。同社は1908年10月に設備が完成して佐賀市などへの供給を開始、後に[[久留米市|久留米]]などへも供給を広げた<ref name="toho_p59"/>。 |
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同じ九州の[[福岡市]]では、先に[[松永安左エ門]]らと出願していた市内での[[路面電車]]敷設の特許が1908年12月に下りた<ref name="toho_p54"/>。しかしいざ設立という段階になると不況ということもあり株式の引き受けを渋るが、松永に押され2,000株の引き受けを決めた<ref name="momo1913_p145"/>。かくして[[1909年]](明治42年)8月31日、資本金60万円(総株数1万2,000株)にて[[福博電気軌道|福博電気軌道株式会社]]が発足<ref name="toho_p54"/>。桃介が取締役社長、松永が専務取締役となり直ちに着工、翌[[1910年]](明治43年)3月に開業させた<ref name="toho_p54"/>。なお福博電気軌道設立にあたり、[[三菱財閥]]の[[岩崎久弥]]が後援となって2,000株を引き受けていた<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]259-261頁</ref>。桃介は自著『桃介は斯くの如し』(1913年)の中で、相場師や虚業家などと言われて世間から排斥されている最中であったにも関らず岩崎久弥(同書中では「東京の或る富豪」となっている)に助力して貰えたことを今でも感謝していると述べている<ref name="momo1913_p145"/>。 |
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1910年9月5日、川上川([[嘉瀬川]])の開発を目的に九州電気株式会社が発足し、広滝水力電気を吸収する<ref name="toho_p59"/>。桃介は初代社長に就任し、後に松永が常務取締役となった<ref name="toho_p59"/>。翌[[1911年]](明治44年)10月、福博電気軌道が博多電灯に合併され博多電灯軌道となるが、社長には博多電灯の[[山口恒太郎]]が続投、松永が専務取締役に選出されたものの桃介は相談役に退いた<ref name="toho_p54"/>。九州電気は水力発電専門、博多電灯軌道は[[火力発電]]専門であったが、両社を合併して水力発電に重点を置いた方が有利であるとの考えから[[1912年]](明治45年)6月両社の合併が成立<ref name="toho_p59"/>。存続会社の博多電灯軌道は[[九州電灯鉄道|九州電灯鉄道株式会社]]へと社名を変更した<ref name="toho_p62">[[#toho|『東邦電力史』]]62-63頁</ref>。資本金は485万円で、社長に伊丹弥太郎、常務取締役に松永安左エ門らが就任<ref name="toho_p62"/>、桃介は相談役に留まった<ref name="nenpu_p11"/>。 |
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このように九州の事業は最終的に九州電灯鉄道へと発展したが、この事業の成功は大概松永安左エ門によるもので、桃介自身は「我れ関せず焉」で、時々顔を出しに九州へ行った程度であると述べている<ref name="momo1913_p145"/>。 |
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=== 名古屋電灯 === |
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==== 株式買収 ==== |
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[[ファイル:Shimoide Tamiyoshi.jpg|thumb|名古屋電灯副社長[[下出民義]]]] |
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日露戦争後の株式相場で財を成し各方面に投資を広げていた桃介は、1907年、ヨーロッパにて水力発電所からの長距離送電が成功したことを知り、名古屋の友人[[下出民義]]に名古屋周辺に水力発電に有利な場所があるならば調査して欲しいという手紙を出していた<ref name="momo_p254">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]254-255頁</ref>。これに対して下出は、名古屋の電力会社[[名古屋電燈|名古屋電灯]]への投資を勧めた<ref name="momo_p254"/>。この時は下出の誘いを受けなかったものの、同社の経営事情を検査したことのある慶應義塾の先輩[[矢田績]](当時[[三井銀行]]名古屋支店長)が訪れ、検査書類を見せて名古屋電灯を経営しないかと誘うと、最終的に桃介は同社への投資を決定<ref name="momo_p262"/>。1909年2月自ら名古屋へと赴き、下出・矢田と会って株の買収や支払い方法を打ち合わせた<ref name="momo_p262"/>。同年3月、名古屋電灯の株主名簿に福澤桃介の名が初めて登場<ref name="momo_p262"/>。6月末までに5千株余りを買収し、さらに翌1910年6月末には1万株を持つ筆頭株主となった<ref name="momo_p262"/>。下出によれば買収資金の出所は[[三菱銀行]]であったという<ref>[[#simoide|『下出民義自伝』]]32頁</ref>。 |
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桃介の進出に対し名古屋電灯側は1909年7月、矢田の仲介で桃介を顧問とし、同年10月には相談役のポストを新設して迎えた<ref name="meiden_p164"/>。さらに翌1910年1月には株主総会にて取締役に選出、同年5月には常務取締役に互選され同社の経営に深く関与する立場となった(当時社長は空席、常務は創業者の[[三浦恵民]]も在任)<ref name="meiden_p164"/>。名古屋電灯に乗り込むと、桃介は有力な競合会社名古屋電力の合併を画策する<ref name="momo_p262"/>。この名古屋電力は1906年名古屋や東京の資本家らにより設立、名古屋財界の[[奥田正香]]が社長を務め、[[渋沢栄一]]ら東京の大物実業家も関与する新興の電力会社で、[[木曽川]]開発を手がけて[[岐阜県]]にて[[八百津発電所]]を建設中であった<ref>[[#meiden|『稿本名古屋電灯社史』]]177-182頁</ref>。下出や矢田に斡旋を頼みつつ7月には桃介自身が2週間名古屋に滞在して合併反対派の翻意に努め、8月株主総会にて合併を決定<ref name="meiden_p164"/>。10月28日付で合併が成立するに至り、名古屋電灯は資本金775万円の電力会社となった<ref name="meiden_p164"/>。なお合併後の11月、名古屋電力から取締役となった[[兼松煕]]に常務を譲り、桃介は取締役に下がっている<ref name="meiden_p164"/>。 |
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==== 社長就任 ==== |
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[[ファイル:Yaotsu Old Power Plant Museum 2.jpg|thumb|木曽川で最初の水力発電所である[[八百津発電所]]]] |
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名古屋電灯ではその後、先に名古屋電力が着工していた八百津発電所が[[1911年]](明治44年)10月に完成<ref name="meiden_p183">[[#meiden|『稿本名古屋電灯社史』]]183-187頁</ref>。供給の拡大に要する費用を調達するため完成に先立つ同年4月、資本金を1,600万円とした<ref name="meiden_p183"/>。これらの組織拡大により社長職を置くことになり、名古屋市長在任中の[[加藤重三郎]]を招致、加藤は市長辞職の上で7月社長に就任した<ref name="meiden_p183"/>。しかし工事費の負担と余剰電力が重荷となり、1912年以降同社の業績は悪化してしまう<ref name="meiden_p190"/>。経営が悪化するにつれて株主の不満が高まって経営を刷新すべきという声が大きくなり、やがて豊橋電気の再建や九州での実績からその手腕を期待して取締役の福澤桃介に経営を一任すべしという意見が強くなっていった<ref name="meiden_p190"/>。 |
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現経営陣への批判が強くなった結果、常務の三浦恵民・兼松煕は1912年6月に辞任<ref name="meiden_p190"/>。12月には取締役・監査役全員が一斉辞任し、総改選を行うこととなった<ref name="meiden_p190"/>。新役員の選任は桃介に一任され、自身の他加藤重三郎や下出民義らを取締役に指名<ref name="meiden_p190"/>。翌[[1913年]](大正2年)1月には、社長に留まる加藤の下で桃介は常務取締役に復帰した<ref name="meiden_p190"/>。常務に就くと[[九州電灯鉄道]]支配人であった[[角田正喬]]を引き抜き名古屋電灯支配人に任命し、経営改革を進めた<ref name="meiden_p190"/>。 |
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名古屋電灯にて活動を再開しつつあった1913年秋、社長の加藤重三郎らが遊廓移転にからむ疑獄事件で起訴された<ref name="zaikai_p241">[[#zaikai|『中京財界史』]]241-244頁</ref>。加藤らは1913年12月第一審で有罪となった後翌[[1914年]](大正3年)の第二審で結局無罪となったが<ref name="zaikai_p241"/>、その間、名古屋電灯では社務を執れなくなった加藤に代わって1913年9月に桃介を社長代理に指名<ref name="meiden_p194"/>。さらに同年12月加藤が取締役社長を辞任すると、翌1914年12月桃介を後任社長に選出した<ref name="meiden_p194"/>。桃介の社長就任とともに下出も常務取締役に昇格し、[[1918年]](大正7年)2月に副社長のポストが新設されると副社長に就任している<ref name="meiden_p194"/>。 |
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==== 事業の拡大 ==== |
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[[ファイル:Shizumo power station.jpg|thumb|名古屋電灯臨時建設部が建設を手がけた賤母発電所]] |
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経営を掌握した桃介は、名古屋電灯の従来の保守的な経営方針を一変させて積極的な需要な需要創出に取り組み、販売キャンペーンや料金の引き下げによって販路の拡大を目指した<ref name="asano1210">[[#asano1210|「水力発電の発達と名古屋地域産業の近代化」]]23-27頁</ref>。一方で自ら出資者となり名古屋周辺にて新たに産業を起業する、という需要創出活動も行った<ref name="asano1210"/>。その一例が[[電気製鋼所]](特殊鋼メーカー[[大同特殊鋼]]の前身の一つ)である<ref name="asano1210"/>。 |
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電気製鋼所は名古屋電灯社内に設置された製鋼部を前身とする。桃介の命により余剰電力の消化策を検討していた顧問の[[寒川恒貞]]の提案により、1914年12月、名古屋電灯は電気製鋼事業の兼営を決定し、[[フェロアロイ]](合金鉄)や[[合金鋼|特殊鋼]]の生産を始めることとなった<ref name="steel_p44">[[#steel|『大同製鋼50年史』]]44-55頁</ref>。翌[[1915年]](大正4年)より試験生産を始め、10月に製鋼部を設置<ref name="steel_p44"/>。[[1916年]](大正5年)8月には工場の操業開始とともに製鋼部が独立して株式会社電気製鋼所が発足した<ref name="steel_p44"/>。同社の初代社長には下出民義が就いたが、[[1917年]](大正6年)9月からは桃介が兼任している<ref name="steel_p44"/>。 |
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また、1914年の初め、八百津発電所より上流側における木曽川開発に向けて調査を担当する部署として、名古屋電灯社内に臨時建設部が設置された<ref name="daido_p73">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]73-74頁</ref>。その後1916年2月に至り臨時建設部は組織が拡充され、木曽川の賤母(しずも)発電所と[[矢作川]]の串原仮発電所の建設にまず着手する<ref name="daido_p73"/>。並行して木曽川の水利権を確保すべく運動し、折りしも[[第1次世界大戦]]中のため[[製鉄]]事業が国家的課題となっていたので電気で[[銑鉄]]を製造するという電気製鉄事業に着目し、木曽川開発による発生電力の受け皿として同事業を企画し始める<ref name="asano1209_p34">[[#asano1209|「木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業」]]34-37頁</ref>。[[1917年]](大正6年)6月、名古屋電灯社内に製鉄部が設置され、電気製鉄の試験を開始<ref name="asano1209_p34"/>。この製鉄部と臨時建設部を新会社に移して新会社にて電源開発と電力の卸売りおよび製鉄事業を行い、名古屋電灯は配電事業に特化する、という方針が採られたため、翌[[1918年]](大正7年)9月8日、新会社[[木曽電気製鉄|木曽電気製鉄株式会社]](資本金1,700万円)が発足<ref name="asano1209_p37">[[#asano1209|「木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業」]]37-40頁</ref>。桃介は同社の社長に就任した<ref name="asano1209_p37"/>。 |
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配電専業となった名古屋電灯はその後、[[1920年]](大正9年)に[[一宮電気]]を合併したのを皮切りに、[[岐阜電気]]、[[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気]](桃介が社長を兼任)など愛知・[[岐阜県|岐阜]]両県の計6社を相次いで合併し、[[1921年]](大正10年)8月には資本金4,848万円の電力会社に発展した<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]39-42頁</ref>。同年4月には、さらに[[奈良県]]の[[関西水力電気]]との合併を決定する<ref name="toho_p82">[[#toho|『東邦電力史』]]82-83頁</ref>。しかしこの頃、水力開発に必要な事業資金獲得のために高配当策を採った(1921年上期は年率20%の配当を行った)ことなどが原因となり、名古屋電灯は会社の経理が行き詰まりつつあった<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]44頁</ref>。 |
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=== 大同電力 === |
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==== 大同電力成立 ==== |
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[[ファイル:Masuda Jiro.jpg|thumb|大同電力2代目社長[[増田次郎]]]] |
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名古屋における福澤桃介の事業については、「福澤氏が日本における財界の巨額として自他共に許す様になったのは愛知県下における同氏経営の事業が漸次発展するに至ったからである」(1924年)<ref>南冥生 「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00482322&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 名古屋財界のぞ記4]」『[[大阪毎日新聞]]』1924年7月30日付、神戸大学附属図書館「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/ 新聞記事文庫]」収録。カッコ内は引用</ref>と評価されていたものの、排外的な土地ゆえに地元の名古屋財界とは折り合いが悪かったという(下記[[#人物評]]参照)。後に桃介自身も、伊藤次郎左衛門(いとう呉服店、後の[[松坂屋]]を経営)などの地元財界には東京から「[[山師]]」がやってきたと見られて好感を持たれず、[[小山松寿]]([[名古屋新聞]]を経営)などからも攻撃された、と語っている<ref name="momo_itsuwap184">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]逸話篇184頁</ref>。それゆえこんな馬鹿らしい所にいるものかと思い、大阪進出を企てたことが、大阪送電、後の[[大同電力]]を立ち上げた理由という<ref name="momo_itsuwap184"/>。 |
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その大阪送電は1919年11月8日、木曽電気興業と[[京阪電気鉄道]]の提携により資本金2,000万円で設立され、桃介が初代社長となった<ref name="asano1209_p40"/>。[[第一次世界大戦]]による好景気で電力不足に陥っていた[[近畿地方|関西地方]]へ木曽川で開発する電力を送電することを起業目的としたが<ref name="asano1209_p40"/>、大阪送電設立に前後して、同様に関西地方への送電を目指す電力会社が設立されていた。一つは[[宇治川電気]]の関係者が中心となって設立した[[日本電力]]で、もう一つは[[山本条太郎]]や[[大阪電灯]]・[[京都電灯]]関係者が設立した[[日本水力]]である<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]156-158頁</ref>。3社鼎立の形になったが、翌[[1920年]](大正9年)春に[[戦後恐慌]]が発生すると、3社のうち大阪送電と日本水力の合併話が浮上する<ref name="daido_p45">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]45頁</ref>。同年10月、木曽電気興業に大阪送電・日本水力を加えた3社の合併が決定し、翌[[1921年]](大正10年)2月には合併が成立し資本金1億円の[[大同電力|大同電力株式会社]]が発足するに至った<ref name="daido_p54">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]53-54頁</ref>。社長には京阪電気鉄道社長の[[岡崎邦輔]]を推す声があったが、桃介が自分でやると言って結局初代社長となった<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]逸話篇195頁</ref>。 |
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一方、木曽電気興業の母体である名古屋電灯は、1921年10月に関西水力電気との合併が成立し、資本金約7,000万円の関西電気株式会社へと発展した<ref name="toho_p82">[[#toho|『東邦電力史』]]82-86頁</ref>。しかしこの時期、前述の経理の行き詰まりの他にも、会社の外で問題を抱えていた。以前から元社長の加藤重三郎や副社長の下出民義など、同社関係者の中には[[名古屋市会]]議員も兼ねる者がおり、このグループは「電政派」と呼ばれていた<ref>[[#zaikai|『中京財界史』]]313-315頁</ref>。このグループは市政掌握を狙って市長の座を狙い、1921年6月に現職市長[[佐藤孝三郎]]への不信任案を可決して自派の[[大喜多寅之助]]を市長に就任させたが、この行動が野党や市民からの強い批判を招いていたのである<ref>[[#zaikai|『中京財界史』]]347-349頁</ref>。関西電気成立後の1921年12月、副社長の下出とともに桃介は同社社長を辞任した<ref name="toho_p86">[[#toho|『東邦電力史』]]86-89頁</ref>。同時代の名古屋の実業家[[青木鎌太郎]]によると、桃介ら退陣したのは、市会における電政派の問題の責任をとったことも一因と見られるという<ref>[[#aoki|『中京財界五十年』]]113頁</ref>。関西電気の後任社長には九州電灯鉄道にて社長を務める[[伊丹弥太郎]]が、後任副社長には同社常務取締役の[[松永安左エ門]]がそれぞれ就任<ref name="toho_p86"/>。翌[[1922年]](大正11年)5月には九州電灯鉄道との合併が成立し、同年6月に関西電気が改称する形で中京地方と九州地方を供給区域とする資本金1億円超の電力会社[[東邦電力|東邦電力株式会社]]が発足している<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]93-95・103頁</ref>。 |
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==== 電源開発の進展 ==== |
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[[ファイル:Yomikaki power station 2011-06.jpg|thumb|大同電力が建設した[[読書発電所]]]] |
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大同電力成立後も木曽川開発は進展した。木曽電気興業時代に木曽川の賤母発電所(出力1万4,700キロワット)と[[矢作川]]の串原発電所(出力6,000キロワット)が運転を開始していたが、大同電力発足後[[1926年]](大正15年)までに以下の発電所が木曽川に建設された<ref name="kansai_p178"/>。 |
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* 大桑発電所 - 1921年8月運転開始、出力1万1,000キロワット |
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* 須原発電所 - 1922年7月竣工、出力9,200キロワット |
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* 桃山発電所 - 1923年12月竣工、出力2万3,100キロワット |
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* [[読書発電所]] - 1923年12月竣工、出力4万700キロワット |
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* [[大井ダム|大井発電所]] - 1924年12月竣工、出力4万2,900キロワット |
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* [[落合ダム|落合発電所]] - 1926年12月竣工、出力1万4,700キロワット |
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発電所群以外にも大同電力は、大阪市近郊に[[変電所]]を設置して1922年7月より関西地方への送電を開始し、1923年12月には木曽から大阪まで亘長200[[キロメートル]]を超える長距離送電線を完成させた<ref name="kansai_p178"/>。また、1923年10月、[[大阪電灯]]が大阪市によって市営化された際には、市営化の対象から外れた残余資産を大阪電灯から買収し、関西方面における地盤を強化<ref name="kansai_p178"/>。翌1924年2月には、関西地方の大手電力会社である[[宇治川電気]]と供給契約を締結し、宇治川電気に15万キロワットに及ぶ大量受電を契約させることに成功した<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]235-237頁</ref>。 |
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これらの木曽川開発について、桃介自身は後年、次のように語っている。 |
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{{Quote|「木曽川は、上流に貯水池が出来る。途中非常な急勾配があって水路式発電所が出来る。一番終ひにはダムが出来る。御料林であるから水源は千古に尽きない。而も大阪名古屋のマーケットに近い。恐らく日本の水力地点として、これに越すものはなからう。これを擇んだのは私の卓見で大成功と言へるが、工事を始めるとなると無鉄砲に早くやって、矢張り株主に迷惑をかけたやうなことで、功罪相償って差引き何も残ってゐはしない。」|[[#momo|『福澤桃介翁伝』逸話篇181-182頁]]}} |
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[[1928年]](昭和3年)6月、桃介は社長を辞任し、副社長であった[[増田次郎]]が後任社長となった<ref name="daido_p62">[[#daido|『大同電力株式会社』]]62頁</ref>。以降大同電力は増田が社長として率いていくが、桃介死後の[[1938年]](昭和13年)に「[[電力管理法]]」が成立し、翌年国策会社[[日本発送電]]が発足すると、[[1939年]](昭和14年)4月同社に合流して[[解散]]した<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]400-403・450-453頁</ref>。また、松永安左エ門に譲っていた東邦電力(旧・名古屋電灯)も電力管理法と次いで成立した「[[配電統制令]]」により設備を日本発送電や国策配電会社へと出資し、[[1942年]](昭和17年)4月に解散、大同と同じく姿を消した<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]593-594頁</ref>。 |
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== 人物 == |
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=== 人物評 === |
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桃介は北海道炭礦鉄道勤めを振り出しに丸三商会の旗揚げ、王子製紙入り、再度の北海道炭礦鉄道勤めを経て、事業界に入っても紡績・肥料・ビール・ガス・鉱山・農場と幅広く事業に手を出し、電気事業に参入してからも複数の企業を渡り歩いた。名古屋電灯を経営している際、同社は[[十五銀行]]系列の丁酉銀行から資金を借り入れたが、桃介は同行の経営者で親友の[[成瀬正恭]]から融資に対する個人保証を要求されたことがあった。これについて後年この理由を成瀬は次のように回想している。 |
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{{Quote|「福澤ほど事業転換の頻繁な人は珍しい。その福澤を信用して金を貸して置いて、本人が例の通り颯々と尻に帆かけて他の事業に転換されては貸した方が堪まらぬ。即ち珍保証(注:前掲の個人保証を指す)は福澤を名古屋電灯に繋ぎ留めて容易に転換を許さぬ為の要求であった。」| 成瀬正恭 | [[#momo|『福澤桃介翁伝』145頁]]}} |
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このような評価は他にもあり、丸三商会を旗揚げ(1899年)した際に[[松永安左エ門]]を日本銀行から引き抜いた(そもそも日本銀行入社の経緯が桃介の推薦である)が、松永が移籍のために日本銀行を辞職する際、総裁の[[山本達雄]]から、一緒に仕事をしようとしている桃介は尻の据わらぬ人だから冷静に考えるように、と引き止められたという<ref>[[#yasu1931|『自叙伝松永安左エ門』]]44-46頁</ref>。 |
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衆議院議員に当選(1912年)した際、新人議員紹介で新聞に以下のように紹介された。 |
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{{Quote|「日露戦後成金続出の時代にメキメキと名を揚げた成金党の旗頭、と云って他のガリガリ連の様な嫌味のある人物ではさらさらない。風采は瀟洒、眉目は清秀、挙動言語は軽快、明晰腹の底にもさっぱりした所がある。誰にも好かれる人物で故福澤翁に見抜かれたのも無理ではない。福澤翁の金力主義を極端に実地にやってのける主義、拝金主義精力主義奮闘主義の権化と見られ一部の青年間には成功者として羨望せらる。そこで自ら「桃介式」などといふ書物を著はして青年の心を釣って居る。」| 「新顔代議士伝 福澤桃介」『[[読売新聞]]』1912年5月22日付朝刊}} |
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ただし正反対の評価もあり、この頃に[[博文館]]という出版社に所属していた岡本学によると、岡本が桃介の本を出版しようと話を上司に持ちかけると、当時桃介の評判は良いものではないので店の沽券に関わる、として問題にされなかったという。その後、他の出版社から『富の成功』(1911年)という著書が出版された<ref>岡本学 [[#okamoto|『死獄』]]264頁、{{NDLJP|908780/146}}</ref>。なお後年、大同電力社長在任中にも、評論家の湯本城川に「あんたが今日傍若無人の振舞をしても、誰れも何んとも云はぬのは、あんたが偉いのではない、死んだ諭吉翁が偉いからですぜ、高慢ちきな鼻をあんまり動かすとヘシ折られますぜ」と評されている<ref>湯本城川 [[#yukawa|『財界の名士とはこんなもの?』第1巻]]85-87頁、{{NDLJP|914370/51}}。カッコ内は引用。</ref>。 |
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名古屋電灯を経営したものの、本人も自覚するように地元財界と折り合いが悪かった。名古屋財界人との関係については、 |
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{{Quote|「名古屋人は郷土観念が強い(中略)外来の事業家の如き、小癪なる侵入者として白眼をもって見られねばならぬ。現に電気王福澤桃介君、名古屋財界の雄として、天下の誰もが指を第一に屈するはずのところ肝心の名古屋では鼻汁もひっかけられぬ有様、『ああ、あの[[香具師]]か』で、極めて簡単に片づけられている」| 草田生 | 「排外心と土地熱 名古屋人気質のこと」『[[大阪朝日新聞]]』1925年8月11日付<ref>神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録、[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00482330&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE リンク]</ref>}} |
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と評された。一方、大阪財界とは[[太田光熈]]や[[島徳蔵]]らと大同電力を経営したが、その太田によると、桃介と組んで大阪送電を設立(1919年)した際、自身で経営する京阪電気鉄道以外にも大阪送電に参加する(大阪の)郊外電鉄があった方が有利であろうと考えたので各社の重役に声をかけたが、桃介のような者と一緒に仕事をすると今後どういう結果を招くか測り難いから十分警戒するように、と真面目に忠告してきた人物がいたという<ref>太田光熈 [[#ota|『電鉄生活三十年』]]88頁、カッコ内は引用</ref>。 |
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=== 親類縁者 === |
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[[ファイル:Fukuzawa Yukichi and Keio Gijuku's students.jpg|thumb|洋行送別の際に撮影(1887年)。2列目の右から5番目に福澤諭吉で、その左隣に桃介、右隣に実父岩崎紀一。]] |
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[[ファイル:Fukuzawa Momosuke and his relatives.jpg|thumb|1910年撮影。3列目の左から3番目が福澤桃介。桃介の2つ右隣は兄の岩崎育太郎、2列目の右端は弟の岩崎紀博、2列目の右から2番目は妹の[[杉浦翠子]]でその上(3列目の右から4番目)は翠子の夫の[[杉浦非水]]。]] |
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; 実父母 |
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:* 父:岩崎紀一 |
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:* 母:岩崎サダ |
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: 岩崎家は伝承によれば[[清和源氏]]の末裔で、[[武田勝頼]]に仕えていたが[[甲斐国]]から移って武蔵国に土着したとされる<ref name="momo_p16"/>。生家は末端の分家で、[[横見郡]]荒子村(現・[[埼玉県]][[比企郡]][[吉見町]])にわずかな土地のみをもつ[[水呑百姓]]であった<ref name="momo_p16"/>。父紀一は岩崎家の婿養子で、実家の矢部家は[[北足立郡]][[原市町]](現・[[上尾市]])の[[名主]]の家であったが、次男ということで婿に出された<ref name="momo_p16"/>。父紀一は[[1887年]](明治20年)11月、母サダは翌年2月、ともに桃介が米国留学中に死去している<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』年譜]]3頁</ref>。 |
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; 兄弟 |
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: 男3人、女3人の6人兄弟で、育太郎・桃介・れん・てる・紀博・すい、という順に生まれている<ref name="momo_p16"/>。 |
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:* 兄:岩崎育太郎 - 洋品商、川越商業会議所副会頭<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]389-390頁</ref>。息子に洋画家の[[岩崎勝平]]。 |
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:* 弟:岩崎紀博 - 書道家<ref name="miyadera_p50">[[#miyadera|『財界の鬼才』]]50-51頁</ref>。 |
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:* 妹:[[杉浦翠子]](旧名:岩崎翠) - [[歌人]]。洋画家[[杉浦非水]]の妻。 |
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; 福澤家関連 |
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:* 妻:福澤房 - 福澤諭吉次女。 |
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:* 義父:[[福澤諭吉]] |
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:* 義母:福澤錦 |
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: [[1886年]](明治19年)12月に福澤諭吉の養子となり、[[1889年]](明治22年)12月に房と結婚の上分家した。 |
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; 子 |
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: 妻房との間に2人の息子をもうけている。 |
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:* [[福澤駒吉]] - 長男、実業家。[[1891年]](明治24年)1月生まれ<ref name="jinji9">『人事興信録』第9版(1931年)フ18頁、{{NDLJP|1078695/1321}}</ref>。 |
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:* 福澤辰三 - 次男。[[1892年]](明治25年)3月生まれ<ref name="jinji9"/>。 |
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=== 川上貞奴との関係 === |
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[[ファイル:Sadayakko Kawakami.jpg|thumb|[[川上貞奴]]]] |
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桃介は後半生、[[川上音二郎]](1911年死去)の未亡人で女優の[[川上貞奴]]を伴侶とし、どこへ行くにも貞奴を連れていたという<ref>[[#miyadera|『財界の鬼才』]]215-219頁</ref>。 |
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読書発電所や大井発電所の建設中、木曽の三留野(現・[[南木曽町]])に山荘を構え、ここから現場を指揮していた<ref name="miyadera_p215">[[#miyadera|『財界の鬼才』]]215-219頁</ref>。山中の不便な山荘であったが、桃介が訪れるときは必ず貞奴も同伴して滞在した<ref name="miyadera_p215"/>。まだ大井ダムの建設中には、桃介が従業員の指揮を鼓舞するために資材牽引用の空中ケーブルで谷底へ下りるという危険な芸当を行ったことがあったが、この時同伴していた貞奴も一緒に谷底へ下りたというエピソードがある<ref>[[#miyadera|『財界の鬼才』]]225-228頁</ref>。 |
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これより先、桃介が名古屋電灯社長時代であった頃、桃介は名古屋の東二葉町に和洋折衷の邸宅(通称「[[文化のみち二葉館|二葉御殿]]」)を建設し、貞奴とともに暮らした<ref name="miyaderap231">[[#miyadera|『財界の鬼才』]]231-234頁</ref>。桃介が財界から引退した後も、東京[[永田町]]の桃介の別荘「桃水荘」にてともに暮らしている<ref name="miyaderap231"/>。 |
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== 主な役職 == |
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<!--社長・常務を務めた会社かつ就任・退任時期が判明するもののみ掲載--> |
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* [[衆議院]]議員:1912年5月当選([[第11回衆議院議員総選挙|第11回総選挙]])、1914年12月解散失職 |
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* 電力会社重役: |
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** [[名古屋電燈|名古屋電灯]]常務取締役:1910年5月就任、同年11月退任、1913年1月再就任、1914年12月社長昇格 |
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** 名古屋電灯取締役社長:1914年12月就任、1921年10月退任(関西電気と合併) |
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** [[東邦電力|関西電気]]取締役社長:1921年10月就任、同年12月退任 |
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** [[木曽電気製鉄|木曽電気興業]]取締役社長:1918年9月就任、1921年2月退任(大同電力と合併) |
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** [[大同電力]](旧・大阪送電)代表取締役社長:1919年11月就任、1928年6月退任 |
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** [[天竜川電力]]代表取締役社長:1926年3月就任<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]370頁</ref>、1928年6月退任 |
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** [[木曽川電力]](旧・電気製鋼所)取締役社長:1917年9月就任、1928年退任<ref>[[#steel|『大同製鋼50年史』]]84-85頁</ref> |
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** 野田電気取締役社長:1911年就任、1916年8月退任 |
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** 浜田電気取締役社長:1911年就任、1916年10月退任 |
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** [[四国水力電気]]取締役社長:1911年3月就任、1917年6月退任 |
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** 九州電気取締役社長:1910年9月就任、1912年6月退任(九州電灯鉄道と合併) |
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** 佐世保電気取締役社長:1912年就任、1912年11月退任(九州電灯鉄道と合併) |
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* ガス会社重役 |
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** 日本瓦斯取締役社長:1910年4月就任、1925年10月解散<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜21頁</ref> |
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** [[西部ガス|西部合同瓦斯]]取締役社長:1913年8月就任、1914年退任<ref>[[#tohogas|『東邦瓦斯50年史』]]55-56頁</ref> |
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* 電気鉄道会社重役 |
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** [[福博電気軌道]]取締役社長:1909年8月就任、1911年10月退任(博多電灯軌道と合併) |
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** [[愛知電気鉄道]]取締役社長:1914年8月就任、1917年6月退任 |
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* その他会社重役 |
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** [[日清紡ホールディングス|日清紡績]]常務取締役:1907年1月就任、1910年4月辞任 |
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** 名古屋セメント取締役社長:1919年7月就任<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜15頁</ref>、1922年8月退任(豊国セメントと合併)<ref name="mmc_p903"/> |
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** [[豊国セメント]]取締役社長:1922年8月就任、1928年退任<ref name="mmc_p903">[[#mmc|『三菱鉱業社史』]]903頁</ref> |
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** [[大同特殊鋼|大同製鋼]]取締役社長:1921年11月就任、1922年7月退任<ref>[[#steel|『大同製鋼50年史』]]76-79・82-86頁</ref> |
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** [[帝国劇場]]取締役会長:1926年4月就任、1928年3月退任 |
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上記以外で取締役や相談役として関与した企業(1914年以降)に、東海電極製造(現・[[東海カーボン]]、1918年設立、相談役)、[[矢作水力]](1919年設立、相談役)、[[白山水力]](同、相談役)、[[濃飛電気]](1921年設立、相談役)、[[尾三電力]](同、相談役)、[[東邦電力]](関西電気から改称、旧名古屋電灯・九州電灯鉄道、1921年より相談役)、大同電気製鋼所(現・[[大同特殊鋼]]、1922年より相談役)、[[九州鉄道 (2代)|九州鉄道]](1922年設立、取締役後相談役)、[[昭和電力]](1926年設立、相談役)がある<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜14-22頁</ref>。 |
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== 書籍 == |
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=== 著書 === |
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* 『富の成功』 - 1911年、東亜堂書房。{{NDLJP|803463}} |
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* 『桃介式』 - 1911年、実業之世界社。{{NDLJP|758411}} |
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* 『無遠慮に申上候』 - 1912年、実業之日本社。{{NDLJP|946217}} |
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* 『欧米株式活歴史』 - 1912年出版。{{NDLJP|946196}} |
|||
* 『桃介は斯くの如し』 - 1913年、星文館。 |
|||
* 『予の致富術』 - 1916年、東亜堂書房。{{NDLJP|955805}} |
|||
* 『貯蓄と投資』 - 岡本学との共著。1917年、尚栄堂。{{NDLJP|955869}} |
|||
* 『金持になる工夫』 - 1917年、尚栄堂。 |
|||
* 『狸の腹つゞみ』 - 1917年、昭文堂・文武堂。{{NDLJP|959095}} |
|||
* 『貧富一新』 - 1919年、[[ダイヤモンド社]]。{{NDLJP|958469}} |
|||
* 『槍ケ岳を中心として』 - 1924年、ダイヤモンド社。{{NDLJP|983069}} |
|||
* 『財界人物我観』 - 財界人の人物評。1930年、ダイヤモンド社。{{NDLJP|1268829}} |
|||
* 『桃介夜話』 - 1931年、先進社。{{NDLJP|1280522}} |
|||
* 『西洋文明の没落 東洋文明の勃興』 - 1932年、ダイヤモンド社。{{NDLJP|1130737}} |
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=== 伝記 === |
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<!-- 関係者の書に限定した --> |
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* 『福澤桃介翁伝』 - 大西理平編纂。自伝および評伝双方がある伝記。桃介本人にも読ませる予定で編纂が始まったが桃介死後の1939年に出版。 |
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* 『財界の鬼才 福澤桃介の生涯』 - [[四季社]]より1952年出版。著者の[[宮寺敏雄]]は元大同電力取締役。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<references/> |
<references group="注釈" /> |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=青木鎌太郎 |title=中京財界五十年 |publisher=[[中部経済新聞社]] |year=1951 |ref=aoki}} |
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* {{Cite book|和書|author=太田光熈 |title=電鉄生活三十年 |publisher=電鉄生活三十年 |year=1938 |ref=ota }} |
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* {{Cite book|和書|author=大西理平(編) |title=福澤桃介翁伝 |publisher=福澤桃介翁伝編纂所 |year=1939 |ref=momo }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=岡本学 |title=死獄 |publisher=日の出書房 |year=1920 |ref=okamoto }}{{NDLJP|908780}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[尾崎久弥]](編) |title=下出民義自伝 |publisher=(『東邦学園五十年史』別冊付録)、東邦学園 |year=1978 |ref=simoide }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=関西地方電気事業百年史編纂委員会(編)| title=関西地方電気事業百年史 |publisher=関西地方電気事業百年史編纂委員会 |year=1987 |ref=kansai }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=憲政資料編纂会(編) |title=歴代閣僚と国会議員名鑑 |publisher=政治大学校出版部 |year=1978 |ref=giin }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=四国水力電気(編) |title=四水三十年史 |publisher=四国水力電気 |year=1928 |ref=shisui }}{{NDLJP|1176966}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[城山三郎|杉浦英一]] |title=中京財界史 |publisher=中部経済新聞社 |year=1981 |ref=zaikai}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[大同特殊鋼|大同製鋼]](編) |title=大同製鋼50年史 |publisher=大同製鋼 |year=1967 |ref=steel}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=大同電力(編) |title=大同電力株式会社沿革史 |publisher=大同電力 |year=1941 |ref=daido}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[日産化学工業|大日本人造肥料]] |title=大日本人造肥料株式会社五十年史 |publisher=大日本人造肥料 |year=1936 |ref=jinzo }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=東邦電力史編纂委員会(編) |title=東邦電力史 |publisher=東邦電力史刊行会 |year=1962 |ref=toho}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=東邦瓦斯社史編集委員会(編) |title=東邦瓦斯50年史 |publisher=[[東邦瓦斯]] |year=1972 |ref=tohogas }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=豊橋市史編集委員会(編)|title=豊橋市史 |volume=第四巻現代編 |publisher=[[豊橋市]]|year=1987 |ref=toyo4 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会(編)|title=名古屋鉄道社史 |publisher=[[名古屋鉄道]] |year=1961 |ref=meitetsu }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[名古屋電燈|名古屋電灯]](編) |title=稿本名古屋電灯株式会社史 |publisher=中部電力能力開発センター |year=1989 |ref=meiden}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=日清紡績(編)|title=日清紡績六十年史|publisher=[[日清紡ホールディングス|日清紡績]]|year=1969|ref=nisshin }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=福澤桃介 |title=桃介は斯くの如し |publisher=星文館 |year=1913 |ref=momo1913 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=北海道炭礦汽船株式会社七十年史編纂委員会(編)| title=北海道炭礦汽船株式会社七十年史 |publisher=北海道炭礦汽船 |year=1958 |ref=hokutan }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[松永安左エ門]] | title=自叙伝松永安左エ門 |publisher=昭文閣書房 |year=1931 |ref=yasu1931 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[三菱マテリアル|三菱鉱業セメント]]総務部社史編纂室(編) |title=三菱鉱業社史 |publisher=三菱鉱業セメント |year=1976 |ref=mmc }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=宮寺敏雄 |title=財界の鬼才 福澤桃介の生涯 |publisher=四季社 |year=1953 |ref=miyadera }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=師尾誠治(編) |title=事業金融人物 大同電力二十年金融史考 |publisher=師尾誠治 |year=1940 |ref=kinyu }}{{NDLJP|1274904}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=湯本城川 |title=財界の名士とはこんなもの? |volume=第1巻 |publisher=事業と人物社 |year=1924 |ref=yukawa }}{{NDLJP|914370}} |
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* 雑誌記事 |
|||
** {{Cite journal|和書|author=浅野伸一 |title=木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業:木曽電気製鉄から大同電力へ |journal=経営史学 |volume=47 |number=2 |publisher=経営史学会 |date=2012-09 |pages=30-48 |ref=asano1209 }} |
|||
** {{Cite journal|和書|author=浅野伸一 |title=水力発電の発達と名古屋地域産業の近代化:福沢桃介の電力需要創出事業を中心に |journal=歴史学研究 |number=897 |publisher=歴史学研究会 |date=2012-10 |pages=18-32 |ref=asano1210 }} |
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== 関連項目 == |
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{{Commonscat|Fukuzawa Momosuke}} |
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* [[春の波涛]] - [[日本放送協会|NHK]]の[[大河ドラマ]](1985年)。川上貞奴を中心に福澤桃介、[[川上音二郎]]らを描いた群像劇。 |
|||
* [[桃介橋]] - 読書発電所建設の際に架橋された木橋。 |
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* [[大同大学]] - 死去の翌年に大同製鋼(現・大同特殊鋼)が設立した大同工業学校の後身。桃介を「大学の祖」と称する。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www1.kepco.co.jp/tokai/kisogawa/momosuke/monogatai.htm 電力王 福澤桃介] - 関西電力東海支社 |
* [http://www1.kepco.co.jp/tokai/kisogawa/momosuke/monogatai.htm 電力王 福澤桃介] - 関西電力東海支社 |
||
* [http://www.daido-it.ac.jp/daigakusyoukai/fukuzawa.html 大学紹介 / 大同大学の祖「福澤桃介」|大同大学] |
* [http://www.daido-it.ac.jp/daigakusyoukai/fukuzawa.html 大学紹介 / 大同大学の祖「福澤桃介」|大同大学] |
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* [http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/momosuke.html 福沢桃介(1)] |
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* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hukuzawa_t.html 福澤桃介の墓] |
* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hukuzawa_t.html 福澤桃介の墓] |
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{{Normdaten}} |
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* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person942.html 福沢 桃介:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) |
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{{DEFAULTSORT:ふくさわ ももすけ}} |
{{DEFAULTSORT:ふくさわ ももすけ}} |
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[[Category:日本の実業家]] |
[[Category:日本の実業家]] |
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[[Category:日本の投資家]] |
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[[Category:関西電力の人物]] |
[[Category:大同電力の人物]]<!-- [[Category:関西電力の人物]]を付け替え --> |
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[[Category:中部電力の人物]] |
[[Category:中部電力の人物]] |
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[[Category:東邦ガスの人物]] |
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[[Category:大同特殊鋼|人ふくさわ ももすけ]] |
[[Category:大同特殊鋼|人ふくさわ ももすけ]] |
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[[Category:王子製紙の人物]] |
[[Category:王子製紙の人物]] |
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[[Category:北海道炭礦汽船|人ふくさわ ももすけ]] |
[[Category:北海道炭礦汽船|人ふくさわ ももすけ]] |
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[[Category:愛知電気鉄道|人ふくさわ]] |
[[Category:愛知電気鉄道|人ふくさわ ももすけ]] |
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[[Category:明治時代の人物]] |
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[[Category:武蔵国の人物]] |
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[[Category:衆議院議員 (帝国議会)]] |
[[Category:衆議院議員 (帝国議会)]] |
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[[Category:千葉県選出の帝国議会議員]] |
[[Category:千葉県選出の帝国議会議員]] |
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[[Category:慶應義塾の塾生]] |
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[[Category:1868年生]] |
[[Category:1868年生]] |
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[[Category:1938年没]] |
[[Category:1938年没]] |
2015年3月31日 (火) 14:52時点における版
福澤 桃介 | |
---|---|
福澤桃介(45歳頃) | |
生誕 |
慶應4年6月25日(新暦:1868年8月13日) 武蔵国横見郡荒子村 (現・埼玉県比企郡吉見町) |
死没 |
1938年2月15日(69歳没) 東京市渋谷区上智町 |
職業 | 実業家、政治家 |
福澤 桃介 ふくざわ ももすけ | |
---|---|
若き日の福澤桃介 | |
前職 | 実業家 |
所属政党 | 立憲政友会、政友倶楽部、無所属 |
選挙区 | 千葉県郡部第1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1912年5月15日 - 1914年12月25日 |
福澤 桃介(ふくざわ ももすけ、慶應4年6月25日(新暦:1868年8月13日) - 1938年(昭和13年)2月15日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。
旧姓は岩崎で、福澤諭吉の婿養子となり福澤姓を名乗る。相場師として日露戦争後の株式投機で財を成し、その後実業界に転ずる。主として電気事業に関与し、名古屋電灯を買収して社長となり木曽川などで水力開発を手がけ、後に大手電力会社大同電力の初代社長となった。これらの電気事業での活動により「電気王」「電力王」と呼ばれるに至る。また、実業家としての活動の傍ら、一時期衆議院議員(当選1回)も務めたことがある。
概要
慶應4年(1868年)生まれ、武蔵国(埼玉県)出身。慶應義塾在学中に創設者福澤諭吉の養子(婿養子)となり、岩崎桃介を改め福澤桃介を名乗る。アメリカ留学の後、1889年(明治22年)より北海道炭礦鉄道(後の北海道炭礦汽船)に勤めるが、結核を患い辞職。療養生活中に株式投資に手を染めた。1898年(明治31年)から10年の間は製紙会社勤務、独立した商店の経営と失敗、再度の北海道炭礦鉄道勤務、日露戦争後の株式市場での活躍、紡績・肥料・ビール・鉱山・ガス事業などでの起業・投資、と複数の事業や会社に関係したが、最終的には電気事業の経営に落ち着いた[1]。
電気事業では1909年(明治42年)より中部地方の名古屋電灯を買収する。これに前後して他にも九州地方をはじめ各地の電気事業に関与した。1912年(明治45年)から1914年(大正3年)まで衆議院議員を1期のみ務め、1914年には名古屋電灯社長に就任して木曽川開発に着手。1921年(大正10年)、戦前期の業界大手「五大電力」の一角である大同電力初代社長に転じ、大井ダムをはじめとする木曽川の電源開発を主導した。電気事業での活動により「電気王」「電力王」の異名を取るに至る[注釈 1]。1928年(昭和3年)に実業界を引退し、1938年(昭和13年)に死去した。
経歴
生い立ち
福澤桃介、旧名岩崎桃介は、慶應4年6月25日[2](明治元年、新暦:1868年8月13日)、武蔵国横見郡荒子村(現・埼玉県比企郡吉見町荒子)に生まれた[3]。父は岩崎紀一、母はサダといい、桃介は男女各3人の6人兄弟の次男であった[3]。
父の紀一は北足立郡原市町(現・上尾市)の名主の家の出身で、岩崎の本家も代々名主を務める家柄であったが、紀一が婿養子に入ったサダの家(桃介の生家)は末端の分家であり、少しの土地を持つのみの水呑百姓であった[2]。農業だけでは生活できないため生家は荒子村で雑貨や荒物を扱う商いも手がけていたが、桃介と2人の妹が生まれたところで川越町(現・川越市)に移り住み、ここで提灯屋を開業する[2]。桃介は川越の小学校へ通うようになったが、貧乏で下駄を買うのが容易でないため裸足で小学校へ通学したという[4]。1878年(明治11年)川越に第八十五国立銀行が設立されると、父紀一が提灯屋を廃業して同銀行に勤めるようになり家計はやや楽になった[4]。
学問好きということで小学校へ通う傍ら川越の漢学塾にも通い、卒業後は父の実家に預けられて原市町の漢学塾で学ぶ[5]。兄の育太郎は小学校を出るとすぐ丁稚奉公に出されていたが、桃介は学問ができるということで川越の中学校に進んだ[5]。中学校を出ると、政治家を志し上京して学問を続けようということになり、福澤諭吉が開いている「慶應義塾」へと入学した[6]。1883年(明治16年)夏、16歳のときのことである[7]。
福澤家入り
岩崎桃介が通う慶應義塾では、しばしば運動会が開かれるようになって評判を集めていた[8]。運動会で桃介は駆け足が得意であったという[8]。この運動会は福澤諭吉も妻や娘を連れて見物しており、学生の運動振りを見ながら娘の婿選びの機会になっていると噂されていた[8]。
桃介が運動会に参加していた当時は、諭吉の次女である房(ふさ)の結婚問題が福澤家には起きていた[8]。その折柄、運動会で桃介の姿が諭吉の妻・錦の目に留まる[8]。長女の里の賛同も得、諭吉も乗気になり、桃介は房の結婚相手に抜擢された[8]。福澤家側は卒業後の洋行(留学)費用を出すという条件で桃介を婿養子に誘い、桃介の側もこれを承諾して養子入りが決定[8]。1886年(明治19年)12月17日付で、房との結婚を前提に桃介は福澤家へ養子入りして福澤家の人間、すなわち福澤桃介となった[8]。桃介自身はこの養子入りについて後に自著にて、世間では諭吉が桃介を将来有望の青年と思って養子にしたと思われているが実際にはそうでない、と述べている[9]。また、洋行のために養子になるのは情けないと後悔し当時は非常に残念に思ったという[9]。
福澤家に入って1887年(明治20年)2月2月、横浜港よりアメリカ合衆国へと出発し、義兄の一太郎が留学中のニューヨーク州ポキプシーに翌月到着する[10]。語学勉強の傍ら実業学校に通い、次いでボストン近郊の語学学校へ通う[10]。滞米2年目の1888年(明治21年)1月からはフィラデルフィアに移り、当時アメリカ最大の鉄道会社であったペンシルバニア鉄道に事務見習いとして入った[10]。その後は同社にあってその鉄道網を乗り潰し、語学勉強を除いては留学というより修学旅行のようであったという[11]。
留学の予定は1890年(明治23年)までであったが、結局大学の学位を取ることなく予定を早めて帰国することとなり、1889年(明治22年)11月15日横浜港に帰着した[12]。帰国後の12月に房と結婚し、同月23日には戸籍上の分家の手続きを済ませた[13]。
北海道炭礦鉄道へ入社
桃介が帰国する直前の1889年11月、北海道炭礦鉄道(後の北海道炭礦汽船、通称「北炭」)が設立された。設立の中心となったのは堀基で、福澤諭吉も設立に助力していた[14]。この北炭に、諭吉の口添えもあって桃介は1889年12月31日に入社する[14]。しばらく東京にて鉄道の事務見習いをした後、1890年4月北海道へ赴任し、夫婦で札幌市へと移り住んだ[14]。
北海道での生活は長くなく、最初の冬を前に房が長男駒吉(1891年1月誕生)を妊娠したので10月に夫婦そろって東京へ戻る[14]。北海道では運輸の仕事に従事していたが、東京に戻った丁度その頃、北炭では東京に支店を構えてシンガポールなどへと石炭を輸出することになったため、外国語ができるということで桃介は東京に転任、石炭販売担当に転じた[15]。こうして東京にて石炭販売の主任となった桃介は、名古屋にて愛知石炭商会を経営していた下出民義らと取引をするようになった[16]。
1893年(明治26年)4月上旬、北炭社内の大改革により免職となるが、その後再入社した[17]。免職の経緯は井上角五郎によると、更迭された初代社長の堀基に代わって高島嘉右衛門が社長となったが、高島は経営に易断(高島易断)を持ち込み、社員の免職もこれで判断していたところ、易で桃介は免職と出たため実際に免職されたのだという[16]。同年5月、井上が北炭に理事として入る(後に専務取締役)[18]。再入社した桃介は井上の下で重役付きとなり、社内改革に従事した[16]。
病気と株式入門
北炭に勤めていた1894年(明治27年)夏、会社が石炭運搬のため購入した船舶の検査を横浜で行っていた際、そこで喀血してしまう[19]。結核と診察され、諭吉が関与していた北里柴三郎の病院「養生園」に入院することとなった[19]。入院生活中、薬の飲みすぎで胃腸を悪くし衰弱したので、やがて大磯(神奈川県)へと移り、東京の忙しい生活を離れて静養するばかりの日々を過ごした[19]。
結核を患い静養を余儀なくされたことが桃介が株式投資を始める契機であった。自身が後に語るところによれば、養家の世話になってもよい家族の分は別として、自分の生活費が尽きてしまうのが心配であった上に、日々退屈であったので、病床でも何かできることはないかと考えて株式投資を思い立ったという[19]。これまで倹約していた上に三田の諭吉本邸に附属する家に住んでおり家賃がなかったことから当時すでに3,000円の貯金があり、ここから1,000円を割き資本として投資を始めた[19]。当時は日清戦争が終戦を迎える頃で、初心者でも買えば必ず利益があがる時期であった[19]。
1年ほど経って健康を回復したので仕事に復帰しようと思い立ち、1895年(明治28年)12月、仲買に命じて買い玉の大阪鉄道株を清算してみると、約10万円の利益が手元に残った[20]。1年間で10万円を稼いだということで勢いづいたためその後も株式投資を続けたが、1896年(明治29年)の春より相場は下落、秋には暴落してしまい先の利益の半分を失った[20]。その後は相場を辞め、国内の温泉・海水浴場をほとんど巡るなど旅行ばかりの日々を送る[21]。北炭に残る井上角五郎に随行して上海や香港へ出向いたこともあった[21]。その間の1898年(明治31年)9月、遊んでばかりいるのを心配した親戚の中上川彦次郎が王子製紙へ桃介を取締役として入れたが、折り合いが合わず長続きしなかった[22]。
丸三商会の失敗
1899年(明治32年)、健康が回復したということで独立した商売人を志して貿易商「丸三商会」を旗揚げした[23]。本店を東京の三十間堀に構え、北海道から鉄道の枕木を中国北部へ輸出するということで小樽と神戸に支店を配し、後に中国大連にも支店を設けるという陣容であった[23]。このうち神戸支店には、懇意であった慶應義塾の後輩松永安左エ門を日本銀行から引き抜いて登用している[24]。また、商会の支配人は慶應義塾元幹事の益田という人物で、松永曰く、桃介が諭吉のへそくりをいくらか借りたので商会の財務監督に送り込まれたらしいという[24]。
丸三商会では中上川が経営し他に友人も多数在籍する三井銀行と金融の取引をしていた[25]。しかし途中で方針が変わった模様で融資を断るようになる[25]。同時期、慶應義塾の先輩である森下岩楠が経営する東京興信所が、丸三商会の取引先からの問い合わせに対し福澤桃介の信用は絶無、資産は僅少である旨を報告した[25]。取引先が離れ、融資も断られた丸三商会は行き詰ってしまう[25]。諭吉にも「眼玉の飛出るほど」叱られる始末であった[23]。この失敗で興奮したためか病気が再発し、神戸に出張する途中で倒れて京都の同志社病院に一時期入院した[25]。この件で桃介は自分をいじめた者には強く当たろうと決心し、慶應義塾は敵であるとすら考えたという[25]。また、松永が神戸から病院に急行すると、桃介は福澤家の養子を今日限りで止めて旧の岩崎姓に戻ると言って聞かなかったとのことである[26]。
帰京すると三田の旧宅に留まるのが面白くないということで大森の田圃の中にあった一軒家を借り、静養も兼ねて謹慎の日々を送る[27]。そうしているうちに、1901年(明治34年)2月3日、義父の福澤諭吉が死去した[27]。この5か月後の同年7月、北炭の常務・井上角五郎に誘われて同社に復帰し、元の重役付として勤め始めた[27]。以後1906年(明治39年)10月に辞職してサラリーマン生活を終えるまで長く在籍している[27]。この間、北炭の外債発行に関係した[27]。
成金
三度北炭に復帰した後は、株式投資は小遣いをとる程度には続けていたが[21]、当時勃発した日露戦争では先の日清戦争と異なり日本は賠償金を獲得できず、このことからかつてのように景気が良くなることはない、との説が一般的であったので、身を入れて株を買うということはなかった[28]。しかし終戦翌年の1906年(明治39年)春頃から相場が高騰し始めると、桃介も本格的に株式投資に乗り出した[28]。9月ごろに一部を除いて手仕舞いするが、まだ相場が騰貴するので、大株主の雨宮敬次郎や田中平八が売り出した北炭株を買い始める[28]。一時期は会社の乗っ取りも企てたが、株価の高騰であまりにも利益が上がるので12月から売り始め、まだ高騰を続ける中で売り繋いだ[28]。
日露戦争後の株式投機で利益を挙げた桃介は「成金」の一人に数えられた。株式屋仲間の噂では、桃介はこの時期、仲買人の富倉林蔵・島徳蔵、相場師鈴木久五郎に次ぐ金額である350万円の巨利を得ているとのことであった[29]。1907年(明治40年)1月半ばの株価暴落に際しては手元に若干の宝田石油株が残っており含み損を抱えたが、3月に増資ということで株価が一時高騰したので、このときに売り切って利益を得た[28]。以後株式投資を止めて旅行へ出かける[28]。足を洗った桃介に対し、3・4月の安値を見て買いに回った鈴木久五郎は没落してしまう[28]。
一躍成金となった桃介は、優良会社の株式が軒並み高騰している中で株式を新たに買うのは困難であるから、新会社を設立して将来に期待しようという考えから、岩崎清七と紡績会社の設立を目論む[30]。1907年1月、資本金1,000万円で日清紡績株式会社が発足すると、初代専務取締役に就任した[31]。専務には佐久間福太郎も就任したが、佐久間とは紡績工場の近くの亀戸にて資本金20万円の東武銀行を共同経営する[32]。しかし佐久間系の幹部が不正事件を起したことで桃介は佐久間と対立し、このこともあって1910年(明治43年)までに持株の大半を手放した上で常務取締役を辞任して日清紡績から撤退した[32]。
- 日清紡績での活動については#事業・日清紡績も参照
紡績業の他にも、岩崎や根津嘉一郎・馬越恭平とともに肥料会社の設立に参加する[33]。この帝国肥料株式会社は資本金300万円をもって1906年10月に設立され、横浜で肥料工場の建設に取り掛かるが、1908年(明治41年)8月業界大手の大日本人造肥料(現・日産化学工業)に合併された[34]。また、根津とは半田(愛知県)にあった「カブトビール」を共同で買収するが、根津と意見が合わず持株を売却し撤退した[33]。この時期には、瀬戸鉱山株式会社を設立し岡山県にて銅山を経営し、北海道では北炭の元社長堀基から農場を譲け受けて農場経営にも手を広げた[35]。銅山経営は以後8年間採掘を試みるものの上手くいかず藤田組に売却し撤収したが、農場経営は軌道に乗りその後も長く続いた[35]。
電気事業に参入
紡績・肥料・ビール・鉱山・農場など様々な事業に投資した桃介は、電気事業にも投資を始めていた。
九州では1906年11月、佐賀県にて水力発電を計画する広滝水力電気株式会社の設立に際して大株主となる[36]。また、福岡にて先に松永安左エ門らと出願していた市内での路面電車敷設の特許が1908年12月に下りると、1909年(明治42年)8月大株主となって福博電気軌道株式会社を設立、自ら社長に就任した[37]。
- 九州での活動は#事業・九州電灯鉄道も参照
東海地方では豊橋市(愛知県)の電力会社豊橋電気にまず関与した。同社は事業拡大のため1907年に資本金を15万円から50万円に拡大していたが、増資への応募が少なく地元以外からも出資者を募っていた[38]。桃介は創業者で社長の三浦碧水の勧めで1908年より出資して筆頭株主となり、翌1909年には社長に就任(1912年まで)して経営改革にあたった[38]。次いで東海地方では、豊橋電気よりも規模が大きい名古屋市の電力会社、名古屋電灯の買収に着手する。買収は1909年3月に始まり、翌1910年(明治43年)6月末までに1万株を持つ筆頭株主となる至る[39]。それと同時に会社内での地位が向上し、顧問を皮切りに相談役、取締役と昇進して1910年5月には常務取締役に選出された[40]。
名古屋電灯の後も電気事業への進出は続き、1911年(明治44年)、島根県の浜田電気、千葉県の野田電気の社長に相次ぎ就任[41]。また、四国・徳島県にて祖谷川開発を計画する四国水力電気(旧・讃岐電気)の経営陣に依頼され、同年3月同社社長に就いた[42]。翌年にも長崎県佐世保市の佐世保電気の社長となっている[43]。このように電気事業に積極的となったのは、電気事業を確実に利益の見込める事業であると認めたためで、全国各所に手を広げたのは趣味の旅行も兼ねて事業ができるためであるという[44]。同時期には電気事業以外にもガス事業にも注力する[44]。1910年4月、日本瓦斯株式会社(資本金200万円)が発足するとその社長に就任[45]。国内各地にて計画されつつあったガス事業を統括、経営することを目指した[46]。
政界入り
1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、衆議院議員となった[47]。当選はこの1回のみで[47]、1914年(大正3年)12月に第2次大隈内閣によって解散が行われるまでの1期務めただけである[48]。当時45歳、立憲政友会公認で、特段深い縁故のない千葉県郡部から出馬してトップ当選を果たした[49]。
議員生活を始めて半年ほどの1912年12月、第2次西園寺内閣に代わって第3次桂内閣が成立すると、にわかに憲政擁護運動が盛り上がった。運動の火種である交詢社のメンバーであったので、桃介も運動に参加している[50]。翌1913年(大正2年)2月、尾崎行雄・岡崎邦輔や交詢社のメンバーとともに政友会を離党し、小会派「政友倶楽部」を組織してそれに加わった[51]。政友倶楽部では実業家ということで会派を代表して予算委員会理事となり、3月には本会議にて演説した[52]。
政友倶楽部を組織してしばらくすると、岡崎は政友会に復帰、尾崎らは中正会を組織するなど政友倶楽部はバラバラになる。その中で桃介は孤立して無所属となった[53]。可愛がられていた政友会の松田正久に「君は政治に適さない」と言われ、結局その通りに議員生活は間もなく終わった[53]。その後1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に再び立憲政友会公認で、今度は岐阜県の選挙区から立候補する話が出たが、結局立候補を取りやめている[54]。
木曽川開発へ
1910年に名古屋電灯常務となったものの短期間で一旦辞任していたが、同社の経営悪化により不満を持つ株主の中で、豊橋電気の再建や九州での実績からその手腕を期待して取締役に留まる福澤桃介に経営を一任すべしという意見が起るようになる[55]。そして1913年(大正2年)1月、桃介は常務取締役に復帰し、経営改革に着手する[55]。同年9月には社長代理に指名され、1914年(大正3年)12月には社長に選出された[56]。
- 名古屋電灯での活動は#事業・名古屋電灯も参照
名古屋電灯に入った桃介が主として手がけた事業は、中部地方を流れる木曽川の開発であった。松永安左エ門によると、桃介は「俺は木曽川で電力を起し、天下の水力王になるよ」と豪語していたという[57]。桃介の木曽川開発は後年、「電気事業者としての福澤桃介氏は、木曽川を離れて福澤氏無く、福澤氏を離れて木曽川の開発無し」(『大同電力株式会社沿革史』)と評されている[58]。
桃介がまだ社長代理であった1914年初頭、まず名古屋電灯社内に臨時建設部が設置された[59]。同部はすでに完成していた八百津発電所よりも上流側における木曽川の電源開発を主たる任務とし、水利権を確保済みの地点における設計変更や新水利権の出願などに着手する[59]。開発を実行に移すには、従来から木曽川を用いていた木曽御料林の木材輸送が電源開発によって不可能になるので、御料林を管理する帝室林野管理局との交渉が必要であった[60]。桃介は御料林問題につき逓信大臣を務めた経験がある後藤新平に協力を求めてその助力を得、また、後藤の秘書官であった増田次郎を交渉役として推薦された[60]。
御料林問題が解決し木曽川開発の見込みが立つと、名古屋電灯では電力の消化策として電気製鉄事業に着目し、電源開発部門と合わせて独立させ、1918年(大正7年)9月木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立[60]。新会社の木曽電気製鉄が木曽川や矢作川での電源開発を手がけ、その親会社の名古屋電灯は配電事業に特化するという体制とし、桃介は両社の社長を兼任した[60]。翌1919年(大正8年)、木曽電気興業の手によって、八百津発電所に続く木曽川の発電所として賤母(しずも)発電所(長野県)が完成、続いて同社は大桑発電所(同)の建設にも取り掛かった[61]。
名古屋電灯の活動の一方で、他の地域での活動は漸次縮小した。社長であった佐世保電気は1912年11月九州電灯鉄道へ合併[62]。野田電気社長は1916年(大正5年)8月辞任、同年10月には浜田電気社長も辞任した[63]。さらに四国水力電気社長も1917年(大正6年)6月に退いている[64]。反対に名古屋では、名古屋電灯以外にも、愛知電気鉄道の常務藍川清成に要請されて1914年8月同社社長に就任し、1917年6月に退任するまで同社の経営再建に助力する[65]。電力を利用する産業の企業にも取り組み[66]、1916年8月名古屋電灯系列として電気製鋼所を設立して翌1917年9月より自ら社長を務め[67]、1918年には電源開発用のセメント製造を目的に名古屋セメントを設立して社長となった[66]。
さらに1919年9月、友人の三輪市太郎が持ち込んできた名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、安田善次郎の金融面での後援を取り付けて資本金1,000万円の東海道電気鉄道を設立、ここでも自ら社長に就任した[66]。同社は東京・大阪間の電気鉄道敷設も視野に入れていたが、安田の死去で頓挫して1922年(大正11年)7月に愛知電気鉄道へと吸収されている[66]。
大井ダム
1919年11月、木曽電気興業と大阪の京阪電気鉄道の提携により、大阪送電株式会社が設立された[68]。社長は福澤桃介で、第一次世界大戦による好景気で電力不足に陥る関西地方へ木曽川で開発する電力を送電することを目的とした[68]。翌1920年(大正9年)には、同じく関西方面への送電を目的とする山本条太郎率いる日本水力との合併案をまとめ、10月に大阪送電・木曽電気興業・日本水力の3社の合併を決定[69]。そして翌1921年(大正10年)2月、3社の合併が成立し資本金1億円の新会社大同電力株式会社が発足するに至った[70]。初代社長は福澤桃介である[70]。一方、木曽電気興業の母体である名古屋電灯は、複数の会社と合併して1921年10月に関西電気株式会社(翌年東邦電力に改称)となるが、同年12月、1914年以来務めてきた社長を退いている。
- 大同電力での活動は#事業・大同電力も参照
大同電力発足後も引き続き木曽川開発は進められ、1921年大桑発電所が運転を開始[61]。1922年(大正11年)には須原発電所(長野県)が完成し、翌年には桃山発電所(同)と、4万700キロワットと当時日本最大の読書(よみかき)発電所も竣工した[61]。関西地方への送電線建設もあわせて進められ、1922年、大阪市郊外に変電所を設置して関西への送電を開始している[61]。さらに1922年7月、大同電力は日本で初めての本格的ダム式発電所となる大井発電所(大井ダム、岐阜県)の建設に着手する[61]。
この大井発電所は、計画当初の段階では従来の発電所と同じ水路式発電所の予定であったが、河川の落差が少ないためダム式発電所とするのが有利とされたため変更された[61]。桃介自身が語るところによれば、日本では前例がなく早過ぎる、アメリカで研究ができてから始めた方が安全だという議論があったが、偉いものを造ろうという野心に燃えたためダム建設に着手することになったという[71]。ところが建設中の1923年9月、関東大震災が発生し、金融逼迫が生じて資金の調達が困難になってしまう[72]。12月には国内金融機関からの融資が不調に終わったが、その後アメリカのディロン・リード商会(英語: Dillon, Read & Co.)との間で米ドル建て社債、すなわち外債の発行についての話が纏まり、1,500万ドル募集の仮契約調印まで漕ぎ着けた[73]。
桃介は秘書らを引き連れ、外債発行交渉のため1924年(大正13年)5月13日横浜港を出向、31日にニューヨークへ到着した[74]。出発前、交渉が失敗に終われば工事資金が調達できなくなり工事中断もありうるので、その場合は責任を負って日本には帰らずスイスへ移住する覚悟であると語っていたという[74]。困難な交渉の末、同年7月18日に本契約の調印が終わり、全米に大同電力社債の売り出しが発表された[74]。売り出しを見届けて桃介一行は2か月を過ごしたニューヨークを引き上げ、8月23日に帰国した[74]。滞米中の6月、水力開発に関する学識経験と慶應義塾大学に対する寄付などの教育への貢献を称え、ユニオン大学から理学博士 (Doctor of Science) の学位が贈られている[75]。
大井発電所は帰国後の1924年12月に完成[61]。出力4万2,900キロワットで、読書発電所を抜いて当時日本最大の発電所であった[61]。
引退と死去
1926年(大正15年)4月、大倉喜八郎の退任に伴い帝国劇場株式会社の会長に就任した[76]。桃介は同社の設立時(1907年)から関与しており、義兄福澤捨次郎が発起人の一人であった関係から設立に参加して株主となっていた[76]。その会長となり、「電気王」などと言われ独立して仕事ができるようになっていたのでこの際東京の社交界を取り仕切ってみようと考えたというが[76]、同年6月、東京海上ビルにて脳貧血を起して倒れた[76][77]。8月には復帰するが、翌1927年(昭和2年)7月には腎臓摘出手術を受けた[77]。
1928年(昭和3年)3月、帝国劇場会長を辞任[77]。6月6日には実業界引退を宣言し、9日大同電力のほか同社系列の天竜川電力・北恵那鉄道および豊国セメントの社長から退いた[77]。当時61歳であった[77]。1932年(昭和7年)には家督を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居している[78]。
1937年(昭和12年)2月15日、東京渋谷の本邸にて死去[79]。満69歳没。死因は脳塞栓であった[80]。築地本願寺にて葬儀が行われ、多摩霊園に葬られた[81]。
事業
日清紡績
日露戦争後の株価高騰で一躍成金となった桃介は、1906年頃より岩崎清七と紡績会社の設立を目論む[30]。優良会社の株式が軒並み高騰している中で株式を新たに買うのは困難であるから、新会社を設立して将来に期待しようという投機者流の考えからであったという[30]。桃介らの動きに先立ち、日比谷平左衛門が営む東京の有力綿糸商「日比谷商店」の番頭佐久間福太郎らも紡績会社設立に動き始めており、桃介や岩崎・佐久間らは繊維業界の重鎮でもあった日比谷平左衛門の助力を取り付けて会社設立に踏み切ることとなった[30]。
1906年11月、最初の発起人会を開き、次いで創立委員会を開催する[82]。新会社の資本金は1,000万円で、株式は一般募集ではなく発起人の紹介によって申し込んだ者に割り当てる縁故募集の形としたが、新会社の前評判が良く、申し込みが殺到して割当の応募は株式総数の約10倍に上った[82]。翌1907年(明治40年)1月26日、新会社日清紡績株式会社が創立総会を開いて発足するに至る[31]。横浜の資産家平沼専蔵や佐久間福太郎、福澤桃介、岩崎清七らが取締役に選任され、その中で平沼が初代会長、佐久間・桃介の両名が初代専務取締役に互選された[31]。設立から1年余りが経過した1908年(明治41年)6月より工場の一部操業を開始し、翌1909年(明治42年)5月からは全面操業を始めて開業式を挙行している[83]。
桃介は専務であるとともに、一時期は1万株を持つ同社の筆頭株主であったが、工場の操業開始から1年余りで持ち株の大半を手放し、1910年(明治43年)4月2日の臨時株主総会にて専務取締役を辞任した[32]。取締役であった岩崎清七によれば、桃介の日清紡績撤退は会社の前途を悲観したためという[32]。また、専務の佐久間盛太郎と別会社の経営をめぐり対立したことも原因であったといわれる[32]。日清紡績について、桃介は株を早期に売却して利益を得ようと考えたが、相場師と言われるのが嫌になって真面目な実業家と思われたいがために思いとどまったことがあったと後に自著で述べているが[28]、結局株式を売却して退くこととなった。
九州電灯鉄道
1906年11月4日、実業家の中野致明・牟田万次郎・伊丹弥太郎らにより広滝水力電気株式会社という電力会社が設立され、筑後川水系城原川(佐賀県)での水力発電を計画した[36]。同社設立の際、桃介は福岡の太田清蔵から株の引き受けを依頼され、資本金30万円総株数6,000株のうち1,500株を持つこととなった[84]。同社は1908年10月に設備が完成して佐賀市などへの供給を開始、後に久留米などへも供給を広げた[36]。
同じ九州の福岡市では、先に松永安左エ門らと出願していた市内での路面電車敷設の特許が1908年12月に下りた[37]。しかしいざ設立という段階になると不況ということもあり株式の引き受けを渋るが、松永に押され2,000株の引き受けを決めた[84]。かくして1909年(明治42年)8月31日、資本金60万円(総株数1万2,000株)にて福博電気軌道株式会社が発足[37]。桃介が取締役社長、松永が専務取締役となり直ちに着工、翌1910年(明治43年)3月に開業させた[37]。なお福博電気軌道設立にあたり、三菱財閥の岩崎久弥が後援となって2,000株を引き受けていた[85]。桃介は自著『桃介は斯くの如し』(1913年)の中で、相場師や虚業家などと言われて世間から排斥されている最中であったにも関らず岩崎久弥(同書中では「東京の或る富豪」となっている)に助力して貰えたことを今でも感謝していると述べている[84]。
1910年9月5日、川上川(嘉瀬川)の開発を目的に九州電気株式会社が発足し、広滝水力電気を吸収する[36]。桃介は初代社長に就任し、後に松永が常務取締役となった[36]。翌1911年(明治44年)10月、福博電気軌道が博多電灯に合併され博多電灯軌道となるが、社長には博多電灯の山口恒太郎が続投、松永が専務取締役に選出されたものの桃介は相談役に退いた[37]。九州電気は水力発電専門、博多電灯軌道は火力発電専門であったが、両社を合併して水力発電に重点を置いた方が有利であるとの考えから1912年(明治45年)6月両社の合併が成立[36]。存続会社の博多電灯軌道は九州電灯鉄道株式会社へと社名を変更した[86]。資本金は485万円で、社長に伊丹弥太郎、常務取締役に松永安左エ門らが就任[86]、桃介は相談役に留まった[43]。
このように九州の事業は最終的に九州電灯鉄道へと発展したが、この事業の成功は大概松永安左エ門によるもので、桃介自身は「我れ関せず焉」で、時々顔を出しに九州へ行った程度であると述べている[84]。
名古屋電灯
株式買収
日露戦争後の株式相場で財を成し各方面に投資を広げていた桃介は、1907年、ヨーロッパにて水力発電所からの長距離送電が成功したことを知り、名古屋の友人下出民義に名古屋周辺に水力発電に有利な場所があるならば調査して欲しいという手紙を出していた[87]。これに対して下出は、名古屋の電力会社名古屋電灯への投資を勧めた[87]。この時は下出の誘いを受けなかったものの、同社の経営事情を検査したことのある慶應義塾の先輩矢田績(当時三井銀行名古屋支店長)が訪れ、検査書類を見せて名古屋電灯を経営しないかと誘うと、最終的に桃介は同社への投資を決定[39]。1909年2月自ら名古屋へと赴き、下出・矢田と会って株の買収や支払い方法を打ち合わせた[39]。同年3月、名古屋電灯の株主名簿に福澤桃介の名が初めて登場[39]。6月末までに5千株余りを買収し、さらに翌1910年6月末には1万株を持つ筆頭株主となった[39]。下出によれば買収資金の出所は三菱銀行であったという[88]。
桃介の進出に対し名古屋電灯側は1909年7月、矢田の仲介で桃介を顧問とし、同年10月には相談役のポストを新設して迎えた[40]。さらに翌1910年1月には株主総会にて取締役に選出、同年5月には常務取締役に互選され同社の経営に深く関与する立場となった(当時社長は空席、常務は創業者の三浦恵民も在任)[40]。名古屋電灯に乗り込むと、桃介は有力な競合会社名古屋電力の合併を画策する[39]。この名古屋電力は1906年名古屋や東京の資本家らにより設立、名古屋財界の奥田正香が社長を務め、渋沢栄一ら東京の大物実業家も関与する新興の電力会社で、木曽川開発を手がけて岐阜県にて八百津発電所を建設中であった[89]。下出や矢田に斡旋を頼みつつ7月には桃介自身が2週間名古屋に滞在して合併反対派の翻意に努め、8月株主総会にて合併を決定[40]。10月28日付で合併が成立するに至り、名古屋電灯は資本金775万円の電力会社となった[40]。なお合併後の11月、名古屋電力から取締役となった兼松煕に常務を譲り、桃介は取締役に下がっている[40]。
社長就任
名古屋電灯ではその後、先に名古屋電力が着工していた八百津発電所が1911年(明治44年)10月に完成[90]。供給の拡大に要する費用を調達するため完成に先立つ同年4月、資本金を1,600万円とした[90]。これらの組織拡大により社長職を置くことになり、名古屋市長在任中の加藤重三郎を招致、加藤は市長辞職の上で7月社長に就任した[90]。しかし工事費の負担と余剰電力が重荷となり、1912年以降同社の業績は悪化してしまう[55]。経営が悪化するにつれて株主の不満が高まって経営を刷新すべきという声が大きくなり、やがて豊橋電気の再建や九州での実績からその手腕を期待して取締役の福澤桃介に経営を一任すべしという意見が強くなっていった[55]。
現経営陣への批判が強くなった結果、常務の三浦恵民・兼松煕は1912年6月に辞任[55]。12月には取締役・監査役全員が一斉辞任し、総改選を行うこととなった[55]。新役員の選任は桃介に一任され、自身の他加藤重三郎や下出民義らを取締役に指名[55]。翌1913年(大正2年)1月には、社長に留まる加藤の下で桃介は常務取締役に復帰した[55]。常務に就くと九州電灯鉄道支配人であった角田正喬を引き抜き名古屋電灯支配人に任命し、経営改革を進めた[55]。
名古屋電灯にて活動を再開しつつあった1913年秋、社長の加藤重三郎らが遊廓移転にからむ疑獄事件で起訴された[91]。加藤らは1913年12月第一審で有罪となった後翌1914年(大正3年)の第二審で結局無罪となったが[91]、その間、名古屋電灯では社務を執れなくなった加藤に代わって1913年9月に桃介を社長代理に指名[56]。さらに同年12月加藤が取締役社長を辞任すると、翌1914年12月桃介を後任社長に選出した[56]。桃介の社長就任とともに下出も常務取締役に昇格し、1918年(大正7年)2月に副社長のポストが新設されると副社長に就任している[56]。
事業の拡大
経営を掌握した桃介は、名古屋電灯の従来の保守的な経営方針を一変させて積極的な需要な需要創出に取り組み、販売キャンペーンや料金の引き下げによって販路の拡大を目指した[66]。一方で自ら出資者となり名古屋周辺にて新たに産業を起業する、という需要創出活動も行った[66]。その一例が電気製鋼所(特殊鋼メーカー大同特殊鋼の前身の一つ)である[66]。
電気製鋼所は名古屋電灯社内に設置された製鋼部を前身とする。桃介の命により余剰電力の消化策を検討していた顧問の寒川恒貞の提案により、1914年12月、名古屋電灯は電気製鋼事業の兼営を決定し、フェロアロイ(合金鉄)や特殊鋼の生産を始めることとなった[67]。翌1915年(大正4年)より試験生産を始め、10月に製鋼部を設置[67]。1916年(大正5年)8月には工場の操業開始とともに製鋼部が独立して株式会社電気製鋼所が発足した[67]。同社の初代社長には下出民義が就いたが、1917年(大正6年)9月からは桃介が兼任している[67]。
また、1914年の初め、八百津発電所より上流側における木曽川開発に向けて調査を担当する部署として、名古屋電灯社内に臨時建設部が設置された[59]。その後1916年2月に至り臨時建設部は組織が拡充され、木曽川の賤母(しずも)発電所と矢作川の串原仮発電所の建設にまず着手する[59]。並行して木曽川の水利権を確保すべく運動し、折りしも第1次世界大戦中のため製鉄事業が国家的課題となっていたので電気で銑鉄を製造するという電気製鉄事業に着目し、木曽川開発による発生電力の受け皿として同事業を企画し始める[92]。1917年(大正6年)6月、名古屋電灯社内に製鉄部が設置され、電気製鉄の試験を開始[92]。この製鉄部と臨時建設部を新会社に移して新会社にて電源開発と電力の卸売りおよび製鉄事業を行い、名古屋電灯は配電事業に特化する、という方針が採られたため、翌1918年(大正7年)9月8日、新会社木曽電気製鉄株式会社(資本金1,700万円)が発足[93]。桃介は同社の社長に就任した[93]。
配電専業となった名古屋電灯はその後、1920年(大正9年)に一宮電気を合併したのを皮切りに、岐阜電気、豊橋電気(桃介が社長を兼任)など愛知・岐阜両県の計6社を相次いで合併し、1921年(大正10年)8月には資本金4,848万円の電力会社に発展した[94]。同年4月には、さらに奈良県の関西水力電気との合併を決定する[95]。しかしこの頃、水力開発に必要な事業資金獲得のために高配当策を採った(1921年上期は年率20%の配当を行った)ことなどが原因となり、名古屋電灯は会社の経理が行き詰まりつつあった[96]。
大同電力
大同電力成立
名古屋における福澤桃介の事業については、「福澤氏が日本における財界の巨額として自他共に許す様になったのは愛知県下における同氏経営の事業が漸次発展するに至ったからである」(1924年)[97]と評価されていたものの、排外的な土地ゆえに地元の名古屋財界とは折り合いが悪かったという(下記#人物評参照)。後に桃介自身も、伊藤次郎左衛門(いとう呉服店、後の松坂屋を経営)などの地元財界には東京から「山師」がやってきたと見られて好感を持たれず、小山松寿(名古屋新聞を経営)などからも攻撃された、と語っている[98]。それゆえこんな馬鹿らしい所にいるものかと思い、大阪進出を企てたことが、大阪送電、後の大同電力を立ち上げた理由という[98]。
その大阪送電は1919年11月8日、木曽電気興業と京阪電気鉄道の提携により資本金2,000万円で設立され、桃介が初代社長となった[68]。第一次世界大戦による好景気で電力不足に陥っていた関西地方へ木曽川で開発する電力を送電することを起業目的としたが[68]、大阪送電設立に前後して、同様に関西地方への送電を目指す電力会社が設立されていた。一つは宇治川電気の関係者が中心となって設立した日本電力で、もう一つは山本条太郎や大阪電灯・京都電灯関係者が設立した日本水力である[99]。3社鼎立の形になったが、翌1920年(大正9年)春に戦後恐慌が発生すると、3社のうち大阪送電と日本水力の合併話が浮上する[69]。同年10月、木曽電気興業に大阪送電・日本水力を加えた3社の合併が決定し、翌1921年(大正10年)2月には合併が成立し資本金1億円の大同電力株式会社が発足するに至った[70]。社長には京阪電気鉄道社長の岡崎邦輔を推す声があったが、桃介が自分でやると言って結局初代社長となった[100]。
一方、木曽電気興業の母体である名古屋電灯は、1921年10月に関西水力電気との合併が成立し、資本金約7,000万円の関西電気株式会社へと発展した[95]。しかしこの時期、前述の経理の行き詰まりの他にも、会社の外で問題を抱えていた。以前から元社長の加藤重三郎や副社長の下出民義など、同社関係者の中には名古屋市会議員も兼ねる者がおり、このグループは「電政派」と呼ばれていた[101]。このグループは市政掌握を狙って市長の座を狙い、1921年6月に現職市長佐藤孝三郎への不信任案を可決して自派の大喜多寅之助を市長に就任させたが、この行動が野党や市民からの強い批判を招いていたのである[102]。関西電気成立後の1921年12月、副社長の下出とともに桃介は同社社長を辞任した[103]。同時代の名古屋の実業家青木鎌太郎によると、桃介ら退陣したのは、市会における電政派の問題の責任をとったことも一因と見られるという[104]。関西電気の後任社長には九州電灯鉄道にて社長を務める伊丹弥太郎が、後任副社長には同社常務取締役の松永安左エ門がそれぞれ就任[103]。翌1922年(大正11年)5月には九州電灯鉄道との合併が成立し、同年6月に関西電気が改称する形で中京地方と九州地方を供給区域とする資本金1億円超の電力会社東邦電力株式会社が発足している[105]。
電源開発の進展
大同電力成立後も木曽川開発は進展した。木曽電気興業時代に木曽川の賤母発電所(出力1万4,700キロワット)と矢作川の串原発電所(出力6,000キロワット)が運転を開始していたが、大同電力発足後1926年(大正15年)までに以下の発電所が木曽川に建設された[61]。
- 大桑発電所 - 1921年8月運転開始、出力1万1,000キロワット
- 須原発電所 - 1922年7月竣工、出力9,200キロワット
- 桃山発電所 - 1923年12月竣工、出力2万3,100キロワット
- 読書発電所 - 1923年12月竣工、出力4万700キロワット
- 大井発電所 - 1924年12月竣工、出力4万2,900キロワット
- 落合発電所 - 1926年12月竣工、出力1万4,700キロワット
発電所群以外にも大同電力は、大阪市近郊に変電所を設置して1922年7月より関西地方への送電を開始し、1923年12月には木曽から大阪まで亘長200キロメートルを超える長距離送電線を完成させた[61]。また、1923年10月、大阪電灯が大阪市によって市営化された際には、市営化の対象から外れた残余資産を大阪電灯から買収し、関西方面における地盤を強化[61]。翌1924年2月には、関西地方の大手電力会社である宇治川電気と供給契約を締結し、宇治川電気に15万キロワットに及ぶ大量受電を契約させることに成功した[106]。
これらの木曽川開発について、桃介自身は後年、次のように語っている。
「木曽川は、上流に貯水池が出来る。途中非常な急勾配があって水路式発電所が出来る。一番終ひにはダムが出来る。御料林であるから水源は千古に尽きない。而も大阪名古屋のマーケットに近い。恐らく日本の水力地点として、これに越すものはなからう。これを擇んだのは私の卓見で大成功と言へるが、工事を始めるとなると無鉄砲に早くやって、矢張り株主に迷惑をかけたやうなことで、功罪相償って差引き何も残ってゐはしない。」
1928年(昭和3年)6月、桃介は社長を辞任し、副社長であった増田次郎が後任社長となった[107]。以降大同電力は増田が社長として率いていくが、桃介死後の1938年(昭和13年)に「電力管理法」が成立し、翌年国策会社日本発送電が発足すると、1939年(昭和14年)4月同社に合流して解散した[108]。また、松永安左エ門に譲っていた東邦電力(旧・名古屋電灯)も電力管理法と次いで成立した「配電統制令」により設備を日本発送電や国策配電会社へと出資し、1942年(昭和17年)4月に解散、大同と同じく姿を消した[109]。
人物
人物評
桃介は北海道炭礦鉄道勤めを振り出しに丸三商会の旗揚げ、王子製紙入り、再度の北海道炭礦鉄道勤めを経て、事業界に入っても紡績・肥料・ビール・ガス・鉱山・農場と幅広く事業に手を出し、電気事業に参入してからも複数の企業を渡り歩いた。名古屋電灯を経営している際、同社は十五銀行系列の丁酉銀行から資金を借り入れたが、桃介は同行の経営者で親友の成瀬正恭から融資に対する個人保証を要求されたことがあった。これについて後年この理由を成瀬は次のように回想している。
「福澤ほど事業転換の頻繁な人は珍しい。その福澤を信用して金を貸して置いて、本人が例の通り颯々と尻に帆かけて他の事業に転換されては貸した方が堪まらぬ。即ち珍保証(注:前掲の個人保証を指す)は福澤を名古屋電灯に繋ぎ留めて容易に転換を許さぬ為の要求であった。」—成瀬正恭、『福澤桃介翁伝』145頁
このような評価は他にもあり、丸三商会を旗揚げ(1899年)した際に松永安左エ門を日本銀行から引き抜いた(そもそも日本銀行入社の経緯が桃介の推薦である)が、松永が移籍のために日本銀行を辞職する際、総裁の山本達雄から、一緒に仕事をしようとしている桃介は尻の据わらぬ人だから冷静に考えるように、と引き止められたという[110]。
衆議院議員に当選(1912年)した際、新人議員紹介で新聞に以下のように紹介された。
「日露戦後成金続出の時代にメキメキと名を揚げた成金党の旗頭、と云って他のガリガリ連の様な嫌味のある人物ではさらさらない。風采は瀟洒、眉目は清秀、挙動言語は軽快、明晰腹の底にもさっぱりした所がある。誰にも好かれる人物で故福澤翁に見抜かれたのも無理ではない。福澤翁の金力主義を極端に実地にやってのける主義、拝金主義精力主義奮闘主義の権化と見られ一部の青年間には成功者として羨望せらる。そこで自ら「桃介式」などといふ書物を著はして青年の心を釣って居る。」—「新顔代議士伝 福澤桃介」『読売新聞』1912年5月22日付朝刊
ただし正反対の評価もあり、この頃に博文館という出版社に所属していた岡本学によると、岡本が桃介の本を出版しようと話を上司に持ちかけると、当時桃介の評判は良いものではないので店の沽券に関わる、として問題にされなかったという。その後、他の出版社から『富の成功』(1911年)という著書が出版された[111]。なお後年、大同電力社長在任中にも、評論家の湯本城川に「あんたが今日傍若無人の振舞をしても、誰れも何んとも云はぬのは、あんたが偉いのではない、死んだ諭吉翁が偉いからですぜ、高慢ちきな鼻をあんまり動かすとヘシ折られますぜ」と評されている[112]。
名古屋電灯を経営したものの、本人も自覚するように地元財界と折り合いが悪かった。名古屋財界人との関係については、
「名古屋人は郷土観念が強い(中略)外来の事業家の如き、小癪なる侵入者として白眼をもって見られねばならぬ。現に電気王福澤桃介君、名古屋財界の雄として、天下の誰もが指を第一に屈するはずのところ肝心の名古屋では鼻汁もひっかけられぬ有様、『ああ、あの香具師か』で、極めて簡単に片づけられている」
と評された。一方、大阪財界とは太田光熈や島徳蔵らと大同電力を経営したが、その太田によると、桃介と組んで大阪送電を設立(1919年)した際、自身で経営する京阪電気鉄道以外にも大阪送電に参加する(大阪の)郊外電鉄があった方が有利であろうと考えたので各社の重役に声をかけたが、桃介のような者と一緒に仕事をすると今後どういう結果を招くか測り難いから十分警戒するように、と真面目に忠告してきた人物がいたという[114]。
親類縁者
- 実父母
-
- 父:岩崎紀一
- 母:岩崎サダ
- 岩崎家は伝承によれば清和源氏の末裔で、武田勝頼に仕えていたが甲斐国から移って武蔵国に土着したとされる[2]。生家は末端の分家で、横見郡荒子村(現・埼玉県比企郡吉見町)にわずかな土地のみをもつ水呑百姓であった[2]。父紀一は岩崎家の婿養子で、実家の矢部家は北足立郡原市町(現・上尾市)の名主の家であったが、次男ということで婿に出された[2]。父紀一は1887年(明治20年)11月、母サダは翌年2月、ともに桃介が米国留学中に死去している[115]。
- 兄弟
- 男3人、女3人の6人兄弟で、育太郎・桃介・れん・てる・紀博・すい、という順に生まれている[2]。
- 福澤家関連
-
- 妻:福澤房 - 福澤諭吉次女。
- 義父:福澤諭吉
- 義母:福澤錦
- 1886年(明治19年)12月に福澤諭吉の養子となり、1889年(明治22年)12月に房と結婚の上分家した。
- 子
- 妻房との間に2人の息子をもうけている。
川上貞奴との関係
桃介は後半生、川上音二郎(1911年死去)の未亡人で女優の川上貞奴を伴侶とし、どこへ行くにも貞奴を連れていたという[119]。
読書発電所や大井発電所の建設中、木曽の三留野(現・南木曽町)に山荘を構え、ここから現場を指揮していた[120]。山中の不便な山荘であったが、桃介が訪れるときは必ず貞奴も同伴して滞在した[120]。まだ大井ダムの建設中には、桃介が従業員の指揮を鼓舞するために資材牽引用の空中ケーブルで谷底へ下りるという危険な芸当を行ったことがあったが、この時同伴していた貞奴も一緒に谷底へ下りたというエピソードがある[121]。
これより先、桃介が名古屋電灯社長時代であった頃、桃介は名古屋の東二葉町に和洋折衷の邸宅(通称「二葉御殿」)を建設し、貞奴とともに暮らした[122]。桃介が財界から引退した後も、東京永田町の桃介の別荘「桃水荘」にてともに暮らしている[122]。
主な役職
- 衆議院議員:1912年5月当選(第11回総選挙)、1914年12月解散失職
- 電力会社重役:
- 名古屋電灯常務取締役:1910年5月就任、同年11月退任、1913年1月再就任、1914年12月社長昇格
- 名古屋電灯取締役社長:1914年12月就任、1921年10月退任(関西電気と合併)
- 関西電気取締役社長:1921年10月就任、同年12月退任
- 木曽電気興業取締役社長:1918年9月就任、1921年2月退任(大同電力と合併)
- 大同電力(旧・大阪送電)代表取締役社長:1919年11月就任、1928年6月退任
- 天竜川電力代表取締役社長:1926年3月就任[123]、1928年6月退任
- 木曽川電力(旧・電気製鋼所)取締役社長:1917年9月就任、1928年退任[124]
- 野田電気取締役社長:1911年就任、1916年8月退任
- 浜田電気取締役社長:1911年就任、1916年10月退任
- 四国水力電気取締役社長:1911年3月就任、1917年6月退任
- 九州電気取締役社長:1910年9月就任、1912年6月退任(九州電灯鉄道と合併)
- 佐世保電気取締役社長:1912年就任、1912年11月退任(九州電灯鉄道と合併)
- ガス会社重役
- 電気鉄道会社重役
- その他会社重役
上記以外で取締役や相談役として関与した企業(1914年以降)に、東海電極製造(現・東海カーボン、1918年設立、相談役)、矢作水力(1919年設立、相談役)、白山水力(同、相談役)、濃飛電気(1921年設立、相談役)、尾三電力(同、相談役)、東邦電力(関西電気から改称、旧名古屋電灯・九州電灯鉄道、1921年より相談役)、大同電気製鋼所(現・大同特殊鋼、1922年より相談役)、九州鉄道(1922年設立、取締役後相談役)、昭和電力(1926年設立、相談役)がある[130]。
書籍
著書
- 『富の成功』 - 1911年、東亜堂書房。NDLJP:803463
- 『桃介式』 - 1911年、実業之世界社。NDLJP:758411
- 『無遠慮に申上候』 - 1912年、実業之日本社。NDLJP:946217
- 『欧米株式活歴史』 - 1912年出版。NDLJP:946196
- 『桃介は斯くの如し』 - 1913年、星文館。
- 『予の致富術』 - 1916年、東亜堂書房。NDLJP:955805
- 『貯蓄と投資』 - 岡本学との共著。1917年、尚栄堂。NDLJP:955869
- 『金持になる工夫』 - 1917年、尚栄堂。
- 『狸の腹つゞみ』 - 1917年、昭文堂・文武堂。NDLJP:959095
- 『貧富一新』 - 1919年、ダイヤモンド社。NDLJP:958469
- 『槍ケ岳を中心として』 - 1924年、ダイヤモンド社。NDLJP:983069
- 『財界人物我観』 - 財界人の人物評。1930年、ダイヤモンド社。NDLJP:1268829
- 『桃介夜話』 - 1931年、先進社。NDLJP:1280522
- 『西洋文明の没落 東洋文明の勃興』 - 1932年、ダイヤモンド社。NDLJP:1130737
伝記
- 『福澤桃介翁伝』 - 大西理平編纂。自伝および評伝双方がある伝記。桃介本人にも読ませる予定で編纂が始まったが桃介死後の1939年に出版。
- 『財界の鬼才 福澤桃介の生涯』 - 四季社より1952年出版。著者の宮寺敏雄は元大同電力取締役。
脚注
注釈
- ^ 桃介自身は「電気王」と言っている(『福澤桃介翁伝』逸話篇「桃介翁の失敗談」178頁、など)。「電力王」の表現は死後刊行の伝記『激流の人 電力王福澤桃介の生涯』(矢田弥八著、光風社書店、1968年)、『電力王福沢桃介』(堀和久著、ぱる出版、1984年)や『財界の鬼才』(宮寺敏雄著、四季社、1953年)中の「第四話 事業界に入り電力王となる」など。
出典
- ^ 『福澤桃介翁伝』199-200・253-254頁
- ^ a b c d e f g 『福澤桃介翁伝』16-21頁
- ^ a b 『桃介は斯くの如し』53-56頁
- ^ a b 『福澤桃介翁伝』24-30頁
- ^ a b 『桃介は斯くの如し』61-62頁
- ^ 『桃介は斯くの如し』66-67頁
- ^ 『福澤桃介翁伝』年譜2頁
- ^ a b c d e f g h 『福澤桃介翁伝』57-65頁
- ^ a b 『桃介は斯くの如し』75・81-82頁
- ^ a b c 『福澤桃介翁伝』77-78頁
- ^ 『福澤桃介翁伝』82-85頁
- ^ 『福澤桃介翁伝』99-100頁
- ^ 『福澤桃介翁伝』107頁
- ^ a b c d 『福澤桃介翁伝』110-117頁
- ^ 『桃介は斯くの如し』103-105頁
- ^ a b c 『福澤桃介翁伝』118-120頁
- ^ 「新重役入社後の炭鉱鉄道会社」『読売新聞』1893年6月3日付朝刊
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- ^ a b 『東邦電力史』82-83頁 引用エラー: 無効な
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タグ; name "toho_p82"が異なる内容で複数回定義されています - ^ 『東邦電力史』44頁
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参考文献
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- 岡本学『死獄』日の出書房、1920年。NDLJP:908780
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- 湯本城川『財界の名士とはこんなもの?』 第1巻、事業と人物社、1924年。NDLJP:914370
- 雑誌記事
- 浅野伸一「木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業:木曽電気製鉄から大同電力へ」『経営史学』第47巻第2号、経営史学会、2012年9月、30-48頁。
- 浅野伸一「水力発電の発達と名古屋地域産業の近代化:福沢桃介の電力需要創出事業を中心に」『歴史学研究』第897号、歴史学研究会、2012年10月、18-32頁。
関連項目
- 春の波涛 - NHKの大河ドラマ(1985年)。川上貞奴を中心に福澤桃介、川上音二郎らを描いた群像劇。
- 桃介橋 - 読書発電所建設の際に架橋された木橋。
- 大同大学 - 死去の翌年に大同製鋼(現・大同特殊鋼)が設立した大同工業学校の後身。桃介を「大学の祖」と称する。
外部リンク
- 電力王 福澤桃介 - 関西電力東海支社
- 大学紹介 / 大同大学の祖「福澤桃介」|大同大学
- 福澤桃介の墓