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{{Otheruses|1887年生の英文学者|1929年生の英文学者|斎藤勇 (同志社大学)}} |
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{{出典の明記|date=2013年3月|ソートキー=人1982年没}} |
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[[File:Takeshi Saito Portrait.JPG|thumb|right|250px|1979年1月27日、[[東京都]][[新宿区]]の自宅書斎にて]] |
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[[File:TAKAKURA Tokutarou, UEMURA Masahisa, SAITO Isamu, 1912 or 1913 summer.JPG|thumb|right|250px|後列中央、[[征矢野晃雄]]、前列、[[高倉徳太郎]]、[[植村正久]]、[[金井為一郎]](右から2人目)、斎藤勇、1912年あるいは1913年の夏の山上寮員]] |
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{{Portal|文学}} |
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'''斎藤 勇'''(さいとう たけし、[[1887年]][[2月3日]] - [[1982年]][[7月4日]]<ref>{{Kotobank|斎藤勇}}</ref>)は、日本の[[イギリス文学者|英文学者]]。[[位階]]は[[正三位]]。 |
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[[文化功労者]]、[[日本学士院]]会員。[[日本英文学会]]第3代会長(1938年 - 1941年)。[[東京女子大学]]学長(1948年 - 1954年)。[[東京帝国大学]]名誉教授、[[国際基督教大学]]名誉教授。[[文学博士]]。「斎藤英文法」で知られる<ref>『アインシュタイン・ショック2』金子務、河出書房新社、1991、p115</ref>。孫に惨殺された([[斎藤勇東大名誉教授惨殺事件]])。 |
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'''斎藤 勇'''(さいとう たけし、[[1887年]][[2月3日]] - [[1982年]][[7月4日]])は[[イギリス文学者|英文学者]]。[[文学博士]]。[[日本学士院]]会員。 |
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== 経歴・人物 == |
== 経歴・人物 == |
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[[福島県]][[伊達郡]][[富野村 (福島県)|富野村]](現[[伊達市 (福島県)|伊達市]][[梁川町]])に農家の長男として生まれる<ref>以下、経歴は主として『齋藤勇著作集』別巻所収の「齋藤勇年譜」および『英語青年』第128巻8号(1982年11月号)「齋藤勇氏追悼」の年譜による。</ref>。旧制福島中学校(現[[福島県立福島高等学校]])を経て、1905年、[[旧制第二高等学校]](現[[東北大学]])に入学。1908年、第二高等学校卒業後、[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学(英吉利文学専修)に入学。 |
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[[福島県]]生まれ。<!--[[福島県立福島高等学校|旧制福島中学校]]を経て、(この間の経歴に不明な部分あるため。)-->[[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]][[英文科]]卒業。[[1923年]]から東京帝国大学助教授、1927年文学博士 詩ニ関スル「キーツ」ノ見解 。1931年教授。自らの[[プロテスタント]]信仰を背景にして、日本における英文学研究に学問的基礎を与えた。教え子は[[中野好夫]]、[[平井正穂]]など多数にのぼる。 |
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[[File:TAKAKURA Tokutarou, UEMURA Masahisa, SAITO Isamu, 1912 or 1913 summer.JPG|thumb|left|250px|1912-1913年頃の齋藤勇(前列右端)。[[植村正久]](前列中央)、[[高倉徳太郎]] (前列左から2人目)等と。]]1911年、東京帝国大学卒業、[[恩賜の銀時計]]を受ける。同年、東京帝国大学大学院入学、1913年から1923年まで東京帝国大学文科大学の講師嘱託。1917年、[[東京女子高等師範学校]](現[[お茶の水女子大学]]の構成母体)教授。 |
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1923年から[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]助教授に転任し、同年4月から1925年6月まで英文学研究のため在外研究員として欧米へ出張。[[ロンドン]]、[[オックスフォード]]を中心に滞在して博士論文を執筆する傍ら、フランス、イタリア等、欧州各国及びアメリカを歴訪した。この留学中には、{{仮リンク|ラルフ・ホジソン|en|Ralph Hodgson}}、[[エドマンド・ブランデン]]、{{仮リンク|ジークフリード・サスーン|en|Siegfried Sassoon}}等の詩人、学者との知遇を得て、その後生涯にわたり親交を深めている<ref>『著作集』別巻「英国の学者および詩人」各所</ref>。また、精力的、計画的に、演劇、音楽、美術鑑賞もしている<ref>特に美術鑑賞については、『著作集』別巻所収の「留学中の美術鑑賞」 459-461に詳述されている。</ref>。 |
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[[1947年]]に東京帝大を定年退官し、[[名誉教授]]となる。 |
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[[1948年]]から[[1954年]]まで[[東京女子大学]][[学長]]。この間、[[1949年]]、[[福原麟太郎 |
1927年、論文''Keats’ View of Poetry''により文学博士の学位を得る<ref>この論文は1929年に、当時芸術的な印刷と装丁で著名だったロンドンの[[:en:Cobden-Sanderson]]社から、エドマンド・ブランデンの'English Literature in Japan'と題した序文付きで出版され、英米の定期刊行物の書評で高く評価された。『著作集』第五巻に収録。「解説」参照</ref>。1931年、東京帝国大学教授に昇任。1941年には[[正四位]]に叙せられ、1943年に[[勲二等]][[瑞宝章]]を受章。[[1947年]]に東京帝国大学を定年退官し、[[名誉教授]]となり、[[1948年]]から[[1954年]]まで[[東京女子大学]][[学長]]を務める。この間、[[1949年]]、[[市河三喜]]、[[福原麟太郎]]、 [[大和資雄]]、[[中野好夫]]、[[豊田実 (英語学者)|豊田実]]たちと共に[[財団法人]][[日本英文学会]]を設立<ref name="#1">『日本英文学会五十年小史』「沿革・年譜」</ref>。[[1950年]]から始まった[[チャタレー事件|チャタレイ裁判]]では[[検察]]側証人として出廷<ref>ただし『チャタレイ夫人の恋人』が文学的に優れているとは思えないと証言したのみで、被告[[伊藤整]]は著書『裁判』で、その態度に好感を抱いている。</ref>。 |
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[[1953年]]、[[国際基督教大学]]の開学に参加 |
[[1953年]]、[[国際基督教大学]]の開学に参加し、1954年から1964年まで国際基督教大学教授。1961年、[[日本学士院]]会員、1975年、[[文化功労者]]に選ばれる。 |
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[[1979年]]イギリスの文化と文学を日本へ紹介した功績が評価され、 [[エリザベス2世|エリザベス女王]]より[[駐日英国大使館|英国大使館]]を通じ[[大英帝国勲章|CBE勲章]]<ref>正式には:Honorary Knight Commander of the Order of the British Empire(英国名誉騎士勲章、コマンダー級で通称:CBE)</ref>を受章した。[[1981年]]に[[キリスト教功労者]]を受賞<ref>[https://www.bunka-kyokai.or.jp/kenshoshalist.html 日本キリスト教文化協会 顕彰者一覧]※2022年10月23日閲覧</ref>。95歳という高齢になってもなお研究・著作の意欲は旺盛だったが、[[1982年]]7月、[[新宿区]][[南榎町]]の自宅書斎にて、当時27歳の孫に襲撃され、不慮の死を遂げた。同年、[[正三位]]に叙せられる。墓所は[[多磨霊園]](16-1-3)。{{see also|斎藤勇東大名誉教授惨殺事件}} |
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[[日本]]における[[英語]]・[[英米文学]]研究の生みの親であると同時に、[[植村正久]]に師事した敬虔な[[クリスチャン]]としても知られ、日本の[[キリスト教]]界でも重鎮として信望を集めた。植村正久の死後は[[高倉徳太郎]]の[[信濃町教会]]に所属した。なお[[連合国軍占領下の日本|占領期]]に、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に自宅を接収されかけたが、担当者は膨大な蔵書を見せられて、断念している。 |
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日本における[[英語]]・[[英米文学]]研究の生みの親であると同時に、[[牧師]][[植村正久]]に師事した敬虔な[[クリスチャン]]としても知られ、日本の[[キリスト教]]界でも重鎮として信望を集めた。 |
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[[1975年]]、[[文化功労者]]に選ばれる。永らく日本英文学界の長老として斯界に重きを成していた。 |
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== 家族 == |
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長男はアメリカ文学者[[斎藤光]]、次男は政治学者[[斎藤真]]。娘は[[佐波正一]](国際基督教大学理事長)、[[平井正穂]]に嫁した。 |
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* 父・斎藤勇蔵 - [[福島県]][[伊達郡]]にて農業<ref name=teidai> 『帝国大学出身名鑑』 校友調査会、1934年、斎藤勇</ref> |
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* 妻・富美子(文子) - [[河本重次郎]]の二女<ref name=teidai/> |
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* 長男・[[斎藤光]] - アメリカ文学者、東大名誉教授。岳父に[[高木八尺]] |
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* 長女・千鶴子 - [[平井正穂]]の妻<ref name=teidai/> |
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* 二女・敏子 - [[神戸大学]]名誉教授・[[紅松康夫]]の妻 |
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* 次男・[[斎藤眞]] - 政治学者、東大名誉教授 |
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* 三女・富士子 - [[佐波正一]]の妻 |
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== 日本における英文学研究の創始 == |
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[[1982年]]、[[東京都]][[新宿区]]の自宅書斎にて、当時27歳の孫に襲撃され、不慮の死を遂げた。孫は祖父を殺害後、家族からの通報を受けて駆けつけてきた警視庁機動捜査隊の警部補(当時54歳)を刺殺している。孫は[[慶應義塾大学]][[法学部]]卒業後、[[プリンストン大学]]聴講生を経て慶大大学院に進学するが中退。宗教への関心から[[東京神学大学]]へ入学するがこちらも中退して再びアメリカへ留学するが、極端な[[菜食主義]]思想に傾倒し[[栄養失調]]で[[餓死]]寸前となり、半年ほどで帰国。この頃から[[統合失調症]]の様相を呈し、会話では一切[[英語]]しか使わず、異端の宗派や[[神秘学]]などにも傾倒、支離滅裂な言動を示すようになっていたとされる。 |
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斎藤が東大英文学科に入学した時には、[[夏目漱石]]も[[上田敏]]も既に去り、日本人はひとりも教えていなかった。また、当時の東大英文学科の学風は、一つの主流が際立っていたわけではなかった。斎藤は多様な研究態度があることがむしろ望ましいと考え、夏目、上田両先達の跡を追うことはせず<ref>『著作集』別巻「わが道」437</ref>、独自にイギリスの宗教詩研究の道に向かった。その後、日本の英文学研究の学問的レベルを高めることに努め、1913年からは東大の教壇に立って、日本人の英文学教員として実質的に夏目の後継者となった<ref>夏目漱石について、斎藤は蜂野文藏というペンネームで「夏目漱石氏の事二三」と題した一文を『[[福音新報]]』(1126号、1917年1月25日号)に寄稿している。その本文の翻刻は[http://blog.livedoor.jp/sousekitokomiya/ 夏目漱石と斎藤勇(イギリス文学者)]を参照。</ref>。 |
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碩学、英文学界の泰斗と称された斎藤の学風をドイツ文学者の[[小塩節]]は、「まず第一に原典にあたって正確であること、次いで全体として見通しが大きくあるということ、第三に英文学の本質をキリスト教的愛と見さだめて、そこにまっしぐらにはいっている」<ref>『キリスト教と英文学』175</ref>と評している。これらの特色は主著の多くに一貫して見られるが、とりわけ、広い視野に立って規範的な大作家に取り組み、関係批評書によって作品についての新知識を集積するよりも原典にあたって作品そのものを熟読することを重視していた<ref>『蔵書閑談』p23-24</ref>。このような研究方針のベースには、英米の[[書誌学]]([[:en:bibliography]])・本文研究([[:en:textual studies]])に対する高い見識があり、市河三喜が「英文学関連では東洋一」と称賛した蔵書<ref>『蔵書閑談』p8-11。なおこの著作序文で、終戦後[[連合国軍占領下の日本|占領期]]に、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に自宅を接収されかけたが、担当者は膨大な蔵書を見せられて、断念したらしいと述懐している。</ref>を精選する基準にもそれが反映していた。また、愛書趣味ではなく研究上の必要性から、イギリス留学中も「古本あさり」をして「良書」を蒐集した経験<ref>『蔵書閑談』p11-15。斎藤の歿後、その蔵書は[[明星大学]]図書館に「斎藤勇コレクション」として一括所蔵している。</ref>は、その後も勤務先の大学図書館を整備する上でも活用された。 |
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結局孫は[[精神鑑定]]の結果、責任能力なしと診断されて不起訴処分となり、[[精神科]][[病院]]に収容された。なお当の孫とはほとんど会話がなかったとされる。 |
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『思潮を中心とせる英文学史』は『イギリス文学史』として何度も改訂され、また |
日本の英文学の発展に寄与することを生涯の使命と意識していた斎藤は、旧著が版を重ねる度に労をいとわず誠実に増補・改訂をしている。英文学の全体像を大きく見通す『思潮を中心とせる英文学史』(1927年)は『イギリス文学史』として何度も改訂され、また基本的資料となる『英米文学辞典』(1937年)も改訂を経て今なお使われている<ref>第三版(1985年)は西川正身、平井正穂による増補・改訂。</ref>。 |
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斎藤は生涯にわたる広範且つ緻密な研究により日本における英文学研究の学問的基礎を築いたが、同時に、同学の研究活動の組織化と発展にも多大な貢献をした。1928年、市河三喜、[[土居光知]]らと共に東京帝国大学英文学会を母体として全国の帝大を中心に組織を拡大した日本英文学会を創立し、1938年には市河、土居に次いで第3代会長(1941年まで)を務めた。戦後1949年に同学会を財団法人として設立し、真に全国的組織にしてからは、理事、顧問を務め、永らく日本の英文学界の長老として重きを成していた<ref name="#1"/>。 |
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==著書== |
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*シェイクスピア 彼の生涯及び作物、丁未出版社、1916 |
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*英詩鑑賞 研究社 1924 |
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*栄誉の歌 聖書之研鑽社 1925 |
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*思潮を中心とせる英文学史 研究社 1927 |
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*現代文學の諸傾向詩 岩波書店 1933 |
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*文學としての欽定英譯聖書 新英米文学社 1933 |
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*英詩概論 研究社 1933 |
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*英国国民性 研究社 1936 |
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*サーテイリリックス 山海堂出版 1937 |
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*キーツ 研究社 1937 |
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*キリスト教思潮 研究社出版 1940 |
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*アメリカ文学史 研究社 1941 |
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*アメリカ文学の主潮 研究社、1941 |
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*英国讃美歌 その歴史、抜萃、訳註 教文館 1941 |
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*アメリカの国民性及び文学(米国講座叢書)有斐閣 1942 |
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*独・仏・伊三国に於ける英文学研究 研究社、1942 |
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*杜甫 その人・その詩 研究社 1946 |
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*国際思想と英米文学 山海堂 1946 |
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*シェイクスピア概観 新月社 1946 |
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*ここかしこ 新月社 1948 |
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*ブラウニング研究 洋々書房 1948 |
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*シェイクスピア研究 研究社出版 1949 |
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*学園随想 わかき人々のために 研究社出版 1952 |
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*星を求める蛾のねがい 青年の文学 南雲堂 1956 |
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*イギリス文学史 研究社出版 1957 |
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*文学の世界 研究社出版 1958 |
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*英国宗教詩鑑賞 新教出版社 1958 |
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*思い出の人々 新教出版社 1965 |
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*文学と語学との間 ELEC出版部 1972 |
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*'''斎藤勇著作集'''、全7巻、別巻1、研究社出版、1975-1978 |
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*キリストとその教え 自由学園出版局 1981 |
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*蔵書閑談 研究社出版 1983 |
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== 後進の教育 == |
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==翻訳== |
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「至誠」を終生の座右の銘とした斎藤は、後進の指導、教育にも熱意をもってあたった<ref>『英語青年』「齋藤勇氏追悼」小伝</ref>。彼の教えを直接受けた学生の中からは、次世代の英語英米文学界における学者、作家、文化人が輩出しており、東京帝国大学時代の教え子だけでも [[中野好夫]]、[[西川正身]]、[[中島文雄]]、[[朱牟田夏雄]]、[[小川和夫]]、[[平井正穂]]、[[加納秀夫]]、[[木下順二]]、[[小津次郎]]、[[佐伯彰一]]など多数にのぼる。彼らをはじめ斎藤を知り、敬慕する多くの人がその追悼文で一様に触れているのは、自己と学問に対する厳格、謹厳な態度と、その反面をなす他者に対する温情ある人柄である<ref>『英語青年』「齋藤勇氏追悼」各所</ref>。 |
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*聖パウロ フレデリク・ウイリヤム・ヘンリ・マイアズ 丁未出版社 1915 |
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*サウル [[ロバート・ブラウニング]] 岩波書店 1920 |
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*抒情詩集 山海堂 1931 |
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*[[リア王]] [[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]] 岩波文庫 1948 |
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東京女子大学の学長時代には、大学行政の職務に専念する一方で、英文学関連の授業も担当し、さらには「学報」、講演、式辞等を通じて同大学の建学の精神に基づきながら、全学の学生・教職員に大所高所から戦後日本の大学のあるべき姿、女子教育のあり方などについて語っている<ref>『学園随想―わかき人々のために―』</ref>。 |
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==編纂== |
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*研究社英米文学辞典 研究社 1937 |
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*[[植村正久]]文集 岩波文庫、1939 |
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後年になっても教育の熱意は衰えることはなく、1965年3月78歳で、いくつかの大学で半世紀以上にわたった教授職を国際基督教大学を最後に退くにあたって、同大学での告別講演で、学生に向けて国際人としての感覚とキリスト教精神を理解するよう情熱を込めて助言している<ref>『英語青年』小伝、『著作集』別巻「学芸の道遠く、人の命は短い」</ref>。国際人としての感覚に関して語学修得の重要性を強調しているが、英語学習や英語教育については、『文学と語学との間』(1972年)に「英語教師の一般教養」、「役に立つ英語」等、7編の随筆が収められている。また、英語教員養成の実践的活動として、英語教育協議会([https://www.elec.or.jp/ ELEC])(1956年創立)の構想段階から関わり、1963年にこの組織が財団法人になってからも評議員、理事を務めて、その発展に協力した<ref>『英語展望』No. 78 1982年秋季号 2-3</ref>。 |
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== キリスト教信仰 == |
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中学時代からキリスト教に関心を示していて<ref>斎藤がどのようにしてキリスト教に導かれて行ったかは『著作集』別巻433-458所収の「わが道」に詳しい。</ref>、1903年頃福島を訪れた[[内村鑑三]]の説教を好奇心に駆られて一人で聞きに行き、中学校長に頼んで内村を招いてもらい、学校の講堂でも講演を聞く機会を得た<ref>『著作集』別巻 265、『キリスト教と英文学』 12-13</ref>。第二高等学校入学後1906年に[[日本基督教会]]仙台東二番丁教会にて受洗する。1908年2月、仙台を伝道旅行中の[[植村正久]]を二高生キリスト教青年会の寮に招き、その説教を聞く<ref>説教の前に植村から促されて、学友の間に伝道する方法について質問した斎藤は、「祈ることが第一、学業に励むことが第二」と答を返され、深い感銘を受けた。『著作集』別巻 280</ref>。同年9月、東京帝国大学入学時に植村牧師の[[富士見町教会]]に転会。その後19年間同教会に所属し、植村から薫陶を受ける<ref>斎藤は、植村に巡り会い、彼を牧師として信仰上の訓練を受けたことを「一生の大事件」として感謝している。『著作集』別巻 280</ref>。植村牧師没後の1927年、富士見町教会より[[高倉徳太郎]]牧師の戸山教会(現[[信濃町教会]])に移り、長らく長老を務めた。1982年7月、斎藤の告別式も信濃町教会で行われた。 |
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斎藤の信仰と研究はその初期の頃から密接に相関している。国際基督教大学教授時代の教え子で英文学者の[[斎藤和明]]によれば、「キリスト教教義や倫理観により文学作品の価値評価を下すことを意識して避けつつも」自らの[[プロテスタント]]信仰を背景としていた<ref>『日本キリスト教歴史大事典』 556</ref>。また、日本におけるキリスト教文化を発達させるために、西洋文化を理解するだけではなく、従来の日本文化を研究して、その特質に対処しつつ不断の努力を重ねることが、日本のクリスチャン学者の重大な任務であるとしていた<ref>『著作集』別巻「日本における文化に対するキリスト者の任務」</ref>。教会外における信徒としての諸活動の一つには、1956年から1974年まで毎年[[クリスマス]]と[[復活祭|イースター]]の時期に[[自由学園]]の上級学生にキリストの教えについて通算38回に及ぶ礼拝講話を行ったことが挙げられる<ref>『キリストとその教え』「はしがき」</ref>。 |
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== 著書 == |
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*『シェイクスピア―彼の生涯及び作物―』丁未出版社 1916年 |
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*『英詩鑑賞』上下巻 [[研究社]] 1924年 |
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*『栄誉の歌』聖書之研鑽社 1925年 |
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*『思潮を中心とせる英文学史』研究社 1927年。以下改訂新版 |
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**『思潮中心の英文学史 改訂版』1929年、『英文学史 改訂増補版』1938年、『イギリス文学史』1957年、増訂第5版:1974年 |
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*''Keats' View of Poetry'' Cobden-Sanderson 1929年 |
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*『現代文學の諸傾向―英詩』[[岩波書店]] 1933年 |
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*『文學としての欽定英譯聖書』新英米文学社 1933、 『文学としての聖書』研究社 1944年 |
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*『ミルトン』(研究社英米文学評伝叢書 11) 研究社 1933年 |
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*『英詩概論』研究社 1933年、増訂新版 研究社 1958年 |
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*『コリンズ』(研究社英米文学評伝叢書 27) 研究社 1935年 |
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*『英国国民性』研究社 1936年、『イギリス国民性』研究社 1954年 |
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*『キーツ』(研究社英米文学評伝叢書 45) 研究社 1937年 |
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*『キリスト教思潮』研究社 1940年、改訂版 研究社 1955年 |
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*『アメリカ文学史』研究社 1941年 |
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*『アメリカ文学の主潮』研究社 1941年 |
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*『英語讃美歌 その歴史、抜萃、訳註』[[教文館]] 1941年、『讃美歌研究』研究社 1962年 |
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*『アメリカの国民性及び文学』(米国講座叢書)[[有斐閣]] 1942年 |
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*『杜甫 その人・その詩』研究社 1946年 |
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*『国際思想と英米文学』[[山海堂]] 1946年 |
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*『シェイクスピア概観』[[新月社]] 1946年、増補版 開文社 1954年 |
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*『ここかしこ』新月社 1948年 |
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*『[[ロバート・ブラウニング|ブラウニング]]研究』洋々書房 1948年 |
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*『シェイクスピア研究』研究社 1949年 |
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*『学園随想 わかき人々のために』研究社 1952年 |
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*『星を求める蛾のねがい 青年の文学』[[南雲堂]] 1956年 |
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*『文学の世界』研究社 1958年 |
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*『英国宗教詩鑑賞』[[新教出版社]] 1958年 |
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*『英文学史概説』研究社 1963年 |
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*『思い出の人々』新教出版社 1965年 |
|||
*『文学と語学との間』[[ELEC]]出版部 1972年 |
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*『'''斎藤勇著作集'''』全7巻、別巻1、研究社 1975年-1978年 |
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*『キリストとその教え』[[自由学園]]出版局 1981年 |
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*『蔵書閑談』研究社 1983年 |
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=== 共著 === |
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*[[小塩節]]、[[宮本武之助]]、[[斎藤和明]]共著『キリスト教と英文学』[[日本基督教団]]出版局 1978年 |
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=== 翻訳 === |
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*[[フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤース|フレデリク・ウイリヤム・ヘンリ・マイアズ]]『聖パウロ』丁未出版社 1915年 |
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*[[ロバート・ブラウニング]]『サウル』岩波書店 1920年、岩波文庫、1928年 |
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*『訳注 抒情詩集』(''Thirty Lyrics'')山海堂 1931年、テクスト版 山海堂 1937年、改訂第3版 山海堂 1946年 |
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*[[大和資雄]]共訳『コウルジヂ詩集』[[弘文堂]] 1940年、『コウルリヂ詩選』[[岩波文庫]] 1955年 |
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*[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]『[[リア王]]』岩波文庫 1948年 |
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*『訳注 英米詩抄』開文社 1952年 |
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*対訳・評注 シェイクスピア『リア王』開文社 1955年 |
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=== 編著 === |
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*''English Poetry and Prose'' (英国詩文選) 研究社 1935年、増訂新版 研究社 1972年 |
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*『研究社英米文学辞典』研究社 1937年、増訂新版 研究社 1962年、増訂第3版 研究社 1985年 |
|||
*『[[植村正久]]文集』岩波文庫 1939年 |
|||
*『独・仏・伊三国に於ける英文学研究』研究社 1942年 |
|||
*『研究社世界文学辞典』研究社 1954年 |
|||
== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
*『齋藤勇著作集』第五巻、別巻 研究社 1976年、1978年 |
|||
*『キリスト教と英文学』日本基督教団出版局 1978年 |
|||
*『日本英文学会五十年小史』日本英文学会 1978年 |
|||
*『日本近代文学大事典』第2巻 講談社 1977年 |
|||
*『英語青年』第128巻第8号 1982年11月号(齋藤勇氏追悼号) 研究社 1982年 |
|||
*『英語展望』No. 78 1982年秋季号 ELEC出版部 1982年 |
|||
*『蔵書閑談』研究社 1983年 |
|||
*『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局 1986年 |
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*『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988年 |
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== 関連項目 == |
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*[[エドマンド・ブランデン]] |
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*[[高倉徳太郎]] |
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*[[日本英文学会]] |
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*[[信濃町教会]] |
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*[[斎藤勇東大名誉教授惨殺事件]] |
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== 外部リンク == |
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*[http://www.elsj.org/ 日本英文学会公式サイト] |
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*[http://www.shinanomachi-c.jp/ 信濃町教会ホームページ] |
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*https://www.hiroshiyamashita.com/7_23.htm |
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斎藤 勇(さいとう たけし、1887年2月3日 - 1982年7月4日[1])は、日本の英文学者。位階は正三位。
文化功労者、日本学士院会員。日本英文学会第3代会長(1938年 - 1941年)。東京女子大学学長(1948年 - 1954年)。東京帝国大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授。文学博士。「斎藤英文法」で知られる[2]。孫に惨殺された(斎藤勇東大名誉教授惨殺事件)。
経歴・人物
[編集]福島県伊達郡富野村(現伊達市梁川町)に農家の長男として生まれる[3]。旧制福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、1905年、旧制第二高等学校(現東北大学)に入学。1908年、第二高等学校卒業後、東京帝国大学文科大学(英吉利文学専修)に入学。
1911年、東京帝国大学卒業、恩賜の銀時計を受ける。同年、東京帝国大学大学院入学、1913年から1923年まで東京帝国大学文科大学の講師嘱託。1917年、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学の構成母体)教授。
1923年から東京帝国大学文学部助教授に転任し、同年4月から1925年6月まで英文学研究のため在外研究員として欧米へ出張。ロンドン、オックスフォードを中心に滞在して博士論文を執筆する傍ら、フランス、イタリア等、欧州各国及びアメリカを歴訪した。この留学中には、ラルフ・ホジソン、エドマンド・ブランデン、ジークフリード・サスーン等の詩人、学者との知遇を得て、その後生涯にわたり親交を深めている[4]。また、精力的、計画的に、演劇、音楽、美術鑑賞もしている[5]。
1927年、論文Keats’ View of Poetryにより文学博士の学位を得る[6]。1931年、東京帝国大学教授に昇任。1941年には正四位に叙せられ、1943年に勲二等瑞宝章を受章。1947年に東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、1948年から1954年まで東京女子大学学長を務める。この間、1949年、市河三喜、福原麟太郎、 大和資雄、中野好夫、豊田実たちと共に財団法人日本英文学会を設立[7]。1950年から始まったチャタレイ裁判では検察側証人として出廷[8]。
1953年、国際基督教大学の開学に参加し、1954年から1964年まで国際基督教大学教授。1961年、日本学士院会員、1975年、文化功労者に選ばれる。
1979年イギリスの文化と文学を日本へ紹介した功績が評価され、 エリザベス女王より英国大使館を通じCBE勲章[9]を受章した。1981年にキリスト教功労者を受賞[10]。95歳という高齢になってもなお研究・著作の意欲は旺盛だったが、1982年7月、新宿区南榎町の自宅書斎にて、当時27歳の孫に襲撃され、不慮の死を遂げた。同年、正三位に叙せられる。墓所は多磨霊園(16-1-3)。
日本における英語・英米文学研究の生みの親であると同時に、牧師植村正久に師事した敬虔なクリスチャンとしても知られ、日本のキリスト教界でも重鎮として信望を集めた。
家族
[編集]- 父・斎藤勇蔵 - 福島県伊達郡にて農業[11]
- 妻・富美子(文子) - 河本重次郎の二女[11]
- 長男・斎藤光 - アメリカ文学者、東大名誉教授。岳父に高木八尺
- 長女・千鶴子 - 平井正穂の妻[11]
- 二女・敏子 - 神戸大学名誉教授・紅松康夫の妻
- 次男・斎藤眞 - 政治学者、東大名誉教授
- 三女・富士子 - 佐波正一の妻
日本における英文学研究の創始
[編集]斎藤が東大英文学科に入学した時には、夏目漱石も上田敏も既に去り、日本人はひとりも教えていなかった。また、当時の東大英文学科の学風は、一つの主流が際立っていたわけではなかった。斎藤は多様な研究態度があることがむしろ望ましいと考え、夏目、上田両先達の跡を追うことはせず[12]、独自にイギリスの宗教詩研究の道に向かった。その後、日本の英文学研究の学問的レベルを高めることに努め、1913年からは東大の教壇に立って、日本人の英文学教員として実質的に夏目の後継者となった[13]。
碩学、英文学界の泰斗と称された斎藤の学風をドイツ文学者の小塩節は、「まず第一に原典にあたって正確であること、次いで全体として見通しが大きくあるということ、第三に英文学の本質をキリスト教的愛と見さだめて、そこにまっしぐらにはいっている」[14]と評している。これらの特色は主著の多くに一貫して見られるが、とりわけ、広い視野に立って規範的な大作家に取り組み、関係批評書によって作品についての新知識を集積するよりも原典にあたって作品そのものを熟読することを重視していた[15]。このような研究方針のベースには、英米の書誌学(en:bibliography)・本文研究(en:textual studies)に対する高い見識があり、市河三喜が「英文学関連では東洋一」と称賛した蔵書[16]を精選する基準にもそれが反映していた。また、愛書趣味ではなく研究上の必要性から、イギリス留学中も「古本あさり」をして「良書」を蒐集した経験[17]は、その後も勤務先の大学図書館を整備する上でも活用された。
日本の英文学の発展に寄与することを生涯の使命と意識していた斎藤は、旧著が版を重ねる度に労をいとわず誠実に増補・改訂をしている。英文学の全体像を大きく見通す『思潮を中心とせる英文学史』(1927年)は『イギリス文学史』として何度も改訂され、また基本的資料となる『英米文学辞典』(1937年)も改訂を経て今なお使われている[18]。
斎藤は生涯にわたる広範且つ緻密な研究により日本における英文学研究の学問的基礎を築いたが、同時に、同学の研究活動の組織化と発展にも多大な貢献をした。1928年、市河三喜、土居光知らと共に東京帝国大学英文学会を母体として全国の帝大を中心に組織を拡大した日本英文学会を創立し、1938年には市河、土居に次いで第3代会長(1941年まで)を務めた。戦後1949年に同学会を財団法人として設立し、真に全国的組織にしてからは、理事、顧問を務め、永らく日本の英文学界の長老として重きを成していた[7]。
後進の教育
[編集]「至誠」を終生の座右の銘とした斎藤は、後進の指導、教育にも熱意をもってあたった[19]。彼の教えを直接受けた学生の中からは、次世代の英語英米文学界における学者、作家、文化人が輩出しており、東京帝国大学時代の教え子だけでも 中野好夫、西川正身、中島文雄、朱牟田夏雄、小川和夫、平井正穂、加納秀夫、木下順二、小津次郎、佐伯彰一など多数にのぼる。彼らをはじめ斎藤を知り、敬慕する多くの人がその追悼文で一様に触れているのは、自己と学問に対する厳格、謹厳な態度と、その反面をなす他者に対する温情ある人柄である[20]。
東京女子大学の学長時代には、大学行政の職務に専念する一方で、英文学関連の授業も担当し、さらには「学報」、講演、式辞等を通じて同大学の建学の精神に基づきながら、全学の学生・教職員に大所高所から戦後日本の大学のあるべき姿、女子教育のあり方などについて語っている[21]。
後年になっても教育の熱意は衰えることはなく、1965年3月78歳で、いくつかの大学で半世紀以上にわたった教授職を国際基督教大学を最後に退くにあたって、同大学での告別講演で、学生に向けて国際人としての感覚とキリスト教精神を理解するよう情熱を込めて助言している[22]。国際人としての感覚に関して語学修得の重要性を強調しているが、英語学習や英語教育については、『文学と語学との間』(1972年)に「英語教師の一般教養」、「役に立つ英語」等、7編の随筆が収められている。また、英語教員養成の実践的活動として、英語教育協議会(ELEC)(1956年創立)の構想段階から関わり、1963年にこの組織が財団法人になってからも評議員、理事を務めて、その発展に協力した[23]。
キリスト教信仰
[編集]中学時代からキリスト教に関心を示していて[24]、1903年頃福島を訪れた内村鑑三の説教を好奇心に駆られて一人で聞きに行き、中学校長に頼んで内村を招いてもらい、学校の講堂でも講演を聞く機会を得た[25]。第二高等学校入学後1906年に日本基督教会仙台東二番丁教会にて受洗する。1908年2月、仙台を伝道旅行中の植村正久を二高生キリスト教青年会の寮に招き、その説教を聞く[26]。同年9月、東京帝国大学入学時に植村牧師の富士見町教会に転会。その後19年間同教会に所属し、植村から薫陶を受ける[27]。植村牧師没後の1927年、富士見町教会より高倉徳太郎牧師の戸山教会(現信濃町教会)に移り、長らく長老を務めた。1982年7月、斎藤の告別式も信濃町教会で行われた。
斎藤の信仰と研究はその初期の頃から密接に相関している。国際基督教大学教授時代の教え子で英文学者の斎藤和明によれば、「キリスト教教義や倫理観により文学作品の価値評価を下すことを意識して避けつつも」自らのプロテスタント信仰を背景としていた[28]。また、日本におけるキリスト教文化を発達させるために、西洋文化を理解するだけではなく、従来の日本文化を研究して、その特質に対処しつつ不断の努力を重ねることが、日本のクリスチャン学者の重大な任務であるとしていた[29]。教会外における信徒としての諸活動の一つには、1956年から1974年まで毎年クリスマスとイースターの時期に自由学園の上級学生にキリストの教えについて通算38回に及ぶ礼拝講話を行ったことが挙げられる[30]。
著書
[編集]- 『シェイクスピア―彼の生涯及び作物―』丁未出版社 1916年
- 『英詩鑑賞』上下巻 研究社 1924年
- 『栄誉の歌』聖書之研鑽社 1925年
- 『思潮を中心とせる英文学史』研究社 1927年。以下改訂新版
- 『思潮中心の英文学史 改訂版』1929年、『英文学史 改訂増補版』1938年、『イギリス文学史』1957年、増訂第5版:1974年
- Keats' View of Poetry Cobden-Sanderson 1929年
- 『現代文學の諸傾向―英詩』岩波書店 1933年
- 『文學としての欽定英譯聖書』新英米文学社 1933、 『文学としての聖書』研究社 1944年
- 『ミルトン』(研究社英米文学評伝叢書 11) 研究社 1933年
- 『英詩概論』研究社 1933年、増訂新版 研究社 1958年
- 『コリンズ』(研究社英米文学評伝叢書 27) 研究社 1935年
- 『英国国民性』研究社 1936年、『イギリス国民性』研究社 1954年
- 『キーツ』(研究社英米文学評伝叢書 45) 研究社 1937年
- 『キリスト教思潮』研究社 1940年、改訂版 研究社 1955年
- 『アメリカ文学史』研究社 1941年
- 『アメリカ文学の主潮』研究社 1941年
- 『英語讃美歌 その歴史、抜萃、訳註』教文館 1941年、『讃美歌研究』研究社 1962年
- 『アメリカの国民性及び文学』(米国講座叢書)有斐閣 1942年
- 『杜甫 その人・その詩』研究社 1946年
- 『国際思想と英米文学』山海堂 1946年
- 『シェイクスピア概観』新月社 1946年、増補版 開文社 1954年
- 『ここかしこ』新月社 1948年
- 『ブラウニング研究』洋々書房 1948年
- 『シェイクスピア研究』研究社 1949年
- 『学園随想 わかき人々のために』研究社 1952年
- 『星を求める蛾のねがい 青年の文学』南雲堂 1956年
- 『文学の世界』研究社 1958年
- 『英国宗教詩鑑賞』新教出版社 1958年
- 『英文学史概説』研究社 1963年
- 『思い出の人々』新教出版社 1965年
- 『文学と語学との間』ELEC出版部 1972年
- 『斎藤勇著作集』全7巻、別巻1、研究社 1975年-1978年
- 『キリストとその教え』自由学園出版局 1981年
- 『蔵書閑談』研究社 1983年
共著
[編集]翻訳
[編集]- フレデリク・ウイリヤム・ヘンリ・マイアズ『聖パウロ』丁未出版社 1915年
- ロバート・ブラウニング『サウル』岩波書店 1920年、岩波文庫、1928年
- 『訳注 抒情詩集』(Thirty Lyrics)山海堂 1931年、テクスト版 山海堂 1937年、改訂第3版 山海堂 1946年
- 大和資雄共訳『コウルジヂ詩集』弘文堂 1940年、『コウルリヂ詩選』岩波文庫 1955年
- シェイクスピア『リア王』岩波文庫 1948年
- 『訳注 英米詩抄』開文社 1952年
- 対訳・評注 シェイクスピア『リア王』開文社 1955年
編著
[編集]- English Poetry and Prose (英国詩文選) 研究社 1935年、増訂新版 研究社 1972年
- 『研究社英米文学辞典』研究社 1937年、増訂新版 研究社 1962年、増訂第3版 研究社 1985年
- 『植村正久文集』岩波文庫 1939年
- 『独・仏・伊三国に於ける英文学研究』研究社 1942年
- 『研究社世界文学辞典』研究社 1954年
脚注
[編集]- ^ 『斎藤勇』 - コトバンク
- ^ 『アインシュタイン・ショック2』金子務、河出書房新社、1991、p115
- ^ 以下、経歴は主として『齋藤勇著作集』別巻所収の「齋藤勇年譜」および『英語青年』第128巻8号(1982年11月号)「齋藤勇氏追悼」の年譜による。
- ^ 『著作集』別巻「英国の学者および詩人」各所
- ^ 特に美術鑑賞については、『著作集』別巻所収の「留学中の美術鑑賞」 459-461に詳述されている。
- ^ この論文は1929年に、当時芸術的な印刷と装丁で著名だったロンドンのen:Cobden-Sanderson社から、エドマンド・ブランデンの'English Literature in Japan'と題した序文付きで出版され、英米の定期刊行物の書評で高く評価された。『著作集』第五巻に収録。「解説」参照
- ^ a b 『日本英文学会五十年小史』「沿革・年譜」
- ^ ただし『チャタレイ夫人の恋人』が文学的に優れているとは思えないと証言したのみで、被告伊藤整は著書『裁判』で、その態度に好感を抱いている。
- ^ 正式には:Honorary Knight Commander of the Order of the British Empire(英国名誉騎士勲章、コマンダー級で通称:CBE)
- ^ 日本キリスト教文化協会 顕彰者一覧※2022年10月23日閲覧
- ^ a b c 『帝国大学出身名鑑』 校友調査会、1934年、斎藤勇
- ^ 『著作集』別巻「わが道」437
- ^ 夏目漱石について、斎藤は蜂野文藏というペンネームで「夏目漱石氏の事二三」と題した一文を『福音新報』(1126号、1917年1月25日号)に寄稿している。その本文の翻刻は夏目漱石と斎藤勇(イギリス文学者)を参照。
- ^ 『キリスト教と英文学』175
- ^ 『蔵書閑談』p23-24
- ^ 『蔵書閑談』p8-11。なおこの著作序文で、終戦後占領期に、GHQに自宅を接収されかけたが、担当者は膨大な蔵書を見せられて、断念したらしいと述懐している。
- ^ 『蔵書閑談』p11-15。斎藤の歿後、その蔵書は明星大学図書館に「斎藤勇コレクション」として一括所蔵している。
- ^ 第三版(1985年)は西川正身、平井正穂による増補・改訂。
- ^ 『英語青年』「齋藤勇氏追悼」小伝
- ^ 『英語青年』「齋藤勇氏追悼」各所
- ^ 『学園随想―わかき人々のために―』
- ^ 『英語青年』小伝、『著作集』別巻「学芸の道遠く、人の命は短い」
- ^ 『英語展望』No. 78 1982年秋季号 2-3
- ^ 斎藤がどのようにしてキリスト教に導かれて行ったかは『著作集』別巻433-458所収の「わが道」に詳しい。
- ^ 『著作集』別巻 265、『キリスト教と英文学』 12-13
- ^ 説教の前に植村から促されて、学友の間に伝道する方法について質問した斎藤は、「祈ることが第一、学業に励むことが第二」と答を返され、深い感銘を受けた。『著作集』別巻 280
- ^ 斎藤は、植村に巡り会い、彼を牧師として信仰上の訓練を受けたことを「一生の大事件」として感謝している。『著作集』別巻 280
- ^ 『日本キリスト教歴史大事典』 556
- ^ 『著作集』別巻「日本における文化に対するキリスト者の任務」
- ^ 『キリストとその教え』「はしがき」
参考文献
[編集]- 『齋藤勇著作集』第五巻、別巻 研究社 1976年、1978年
- 『キリスト教と英文学』日本基督教団出版局 1978年
- 『日本英文学会五十年小史』日本英文学会 1978年
- 『日本近代文学大事典』第2巻 講談社 1977年
- 『英語青年』第128巻第8号 1982年11月号(齋藤勇氏追悼号) 研究社 1982年
- 『英語展望』No. 78 1982年秋季号 ELEC出版部 1982年
- 『蔵書閑談』研究社 1983年
- 『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局 1986年
- 『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988年