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「テュルク系民族」の版間の差分

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{{Redirect|テュルク}}
[[de:Turkvölker]] [[en:Turkic people]] [[tr:Türk halkları]]


[[ファイル:Map-TurkicLanguages.png|400px|right|thumb|世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。]]
'''テュルク'''('''Türk''')は、[[中央アジア]]を中心に[[シベリア]]から[[バルカン半島]]にいたる広大な地域に広がって居住する、[[テュルク諸語]]を母語とする人々のことを指す[[民族]]名称である。実際には政治的・文化的に分節された様々なグループあるいは民族の総称であり、'''テュルク系諸民族'''とも言う。
[[ファイル:Verbreitungsgebiet der Turkv lker 1.PNG|thumb|250px|テュルク系民族の分布。]]
'''テュルク系民族'''(テュルクけいみんぞく、 {{Lang-en|Turkic peoples}}または{{En|Turks}}、{{Lang-ru|Тюрки}}、{{Lang-tr|Türk halkları}})とは、[[チュルク語族]]の言語を使用する[[民族集団]]である<ref name="トルコ系諸族">[https://kotobank.jp/word/トルコ系諸族-856663 トルコ系諸族]、[[コトバンク]]。</ref>。[[ユーラシア大陸]]の中央部を斜めに貫く、[[東シベリア]]から[[トルコ共和国]]にまで及ぶ乾燥地域を中心に<ref>[[松原正毅]]「テュルク系諸民族」小松久雄+梅村坦+宇山智彦+帯谷知可+堀川徹編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年4月11日 初版第1刷発行、ISBN 4-582-12636-7、365頁。
</ref>[[シベリア]]、[[中央アジア]]および[[西アジア]]、[[東欧]]などに広く分布する<ref name="トルコ系諸族" />。'''トルコ系諸民族'''、'''テュルク系諸族'''などとも<ref name="トルコ系諸族" />。


== 呼称・表記 ==
[[トルコ語]]の「テュルク」にあたる言葉として、日本語では「'''トルコ'''」という形が[[江戸時代]]以来使われているが、この語はしばしば[[オスマン帝国]]においてトルコ語を母語とした人々を意味し、現在では[[トルコ共和国]]の[[トルコ人]]を限定して指す場合が多い。英語では、この狭義のTürk(テュルク/トルコ)と言うべき一民族を''Turkish'' と呼び、広義のTürk(テュルク/トルコ)であるテュルク系諸民族全体を''Turkic'' と呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。これにならい、日本語でも狭義のTürkに「トルコ」、広義のTürkに「テュルク」をあてて区別する用法があり、本記事もこれにならう。
{{出典の明記|date=2019年9月|section=1}}
英語では、狭義のテュルク / トルコと言うべき一民族を''Turkish''と呼び、広義のテュルク / トルコであるテュルク系諸民族全体を''Turkic''と呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。

これにならい、日本語でも狭義のトルコに「トルコ」、広義のトルコに「テュルク」をあてて区別する用法があり、ここでもこれにならう。

同じく漢字を使用する台湾、中国など中国語圏では、狭義のトルコを「土耳其」(トルコ)、広義のトルコを「[[突厥]]」(とっけつ)と呼んでいる。

歴史学者の[[森安孝夫]]は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」という表記がよく見られるとしながらも「トルコ民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる[[突厥]]、[[鉄勒]]、回紇、葛邏禄、抜悉蜜、[[沙陀族]]などを一括りにした呼称」としている<ref name="森安2007-30">[[森安孝夫]]『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』講談社、2007年2月16日 初版発行、ISBN 978-4-06-280705-0、30頁</ref><!--<ref>森安孝夫『シルクロードと唐帝国〈講談社学術文庫 2351〉』講談社、2016年3月10日 第1刷発行、ISBN 978-4-06-292351-9、31頁。</ref>--->。

[[人種]]的には東部でモンゴロイド、西部でコーカソイドと東西で大きく異なるが<ref name="森安2007-32">[[森安孝夫]]『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』講談社、2007年2月16日 初版発行、ISBN 978-4-06-280705-0、31-32頁</ref>、人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
===起源===
テュルク系民族の原郷についての定説がないが、[[ウラル山脈]]以東の草原地帯に求める説が有力である<ref name="廣瀬2007-5">[[廣瀬哲也]]『テュルク族の世界 シベリアからイスタンブールまで〈ユーラシア・ブックレット No. 114〉』東洋書店、2007年10月20日第1刷発行、ISBN 978-4-88595-726-0、5頁。</ref>。[[モンゴル系民族]]と近接していた。人種的には同じく[[モンゴロイド]]と考えられている({{仮リンク|プロト・テュルク|tr|Ön Türkler}})<ref name="廣瀬2007-5"/><ref>[[坂本勉]]『トルコ民族の世界史』慶應義塾大学出版会、2006年5月8日 初版第1刷発行、ISBN 4-7664-1278-8、18頁。</ref>。[[唐代]]まではほとんどが黒髪・直毛・黒目だった。


唐代の終わり頃[[東ウイグル可汗国]]が崩壊しテュルク系民族が[[モンゴリア]]―[[アルタイ山脈|アルタイ]]地方から移動して[[天山山脈]]から[[タリム盆地]]全体を支配した。その結果、先住の[[コーカソイド]]のインド=ヨーロッパ語族は何世代か後には[[テュルク]]化し、テュルク系言語の話者となった<ref name="森安2007-32"/>。
[[中国]]史料に見られる'''丁零'''が、「テュルク」の語で自称・他称されていたと考えられる民族に関する記録の最古のものであると考えられている。丁零は[[匈奴]]と同時代に[[モンゴル高原]]の北方、[[バイカル湖]]あたりに居住していた[[遊牧民]]で、匈奴衰退後の[[3世紀|3]]~[[4世紀]]ごろ南下して「[[高車|高車丁零]]」を立てたが、[[6世紀]]前半に[[柔然]]に滅ぼされた。同じ頃、中国史料に'''鉄勒'''(てつろく)という当て字で記録される、テュルクの名を持つ人々が現れ、丁零の原住地バイカル湖沿岸から、中央アジアの[[カスピ海]]西岸に至る広大な地域で遊牧していた。また、同じ[[6世紀]]中頃に、やはりテュルクの音写名で記録される[[突厥]](とっけつ、とつくつ)が現れ、柔然を滅ぼし鉄勒諸部族を服属させてモンゴル高原からカスピ海北岸の[[キプチャク草原]]に至り、[[ソグド人]]などの定住民が居住する中央アジアの[[オアシス]]地帯までも支配する大帝国を築き、その支配のもとで中央ユーラシア全域に及ぶテュルク世界の原型が形作られた。


[[ファイル:Turkic origin and expansion.png|右|フレームなし|259x259ピクセル]]
[[8世紀]]に突厥が滅びた後モンゴル高原を支配した[[ウイグル|回鶻]](ウイグル)の遊牧国家が崩壊すると、テュルク人のオアシス地域への南下、定住化が始まり、オアシスの言語・民族のテュルク化がおこって、中央アジアは[[トルキスタン]](「テュルク人の土地」を意味する)になっていった。
ただし、言語上、エスニシティ上の関連性について、確たる証拠となるような記録が十分残されているとは言い難い<ref name="フィンドリー2017-47">カーター・V・フィンドリー著/小松久男監訳/佐々木伸訳『テュルクの歴史 古代から近現代まで』明石書店、2017年8月15日 初版第1刷発行、ISBN 978-4-7503-4469-0、47頁。</ref>。[[言語学]]者の仮説によれば、前3000~前500年ごろには[[テュルク祖語]]が話されていたというが、直接的な証拠は何も残されていない<ref name="フィンドリー2017-47" />。


現代のテュルク族は[[匈奴]]や[[フン族]]が自分たちの先祖だと考えている(ただし学説は確立していない)<ref name="廣瀬2007-6">廣瀬 (2007)、6頁。</ref>。
テュルクの[[イスラム世界]]への進出は、はじめ[[マムルーク]](奴隷軍人)して個人個人が到来することによって始まったが、同時に定住・遊牧のテュルク人に[[イスラム教]]が次第に受け入れられてゆき、やがてイスラム化したテュルク人が遊牧部族の組織力を保ったままイスラム世界に進出するようになった。[[トゥルクマーン]]と呼ばれた彼らのうち一派は、中央アジアから[[シリア地方]]に至る[[セルジューク朝]]を立て、[[アッバース朝]]の[[カリフ]]から[[スルタン]]の称号を与えられて[[スンナ派]]の擁護者としての地位を確立する。また、トゥルクマーンの一部は[[アナトリア半島]]に進出し、[[ルーム・セルジューク朝]]、ついで[[オスマン帝国|オスマン朝]]を立て、その支配下でアナトリアのテュルク化・イスラム化が進んだ。


=== 丁零(ていれい) ===
一方、セルジューク朝解体後の中央アジア方面は、ウイグルの崩壊後分裂していたモンゴル高原を統一して[[モンゴル帝国]]を立てた[[チンギス・ハーン]]によって征服され、テュルク遊牧民たちもその支配下に入った。しかし、帝国の西方に建国された[[チャガタイ・ハン国]]、[[ジョチ・ウルス|キプチャク・ハン国]]、[[イルハン朝|イル・ハン国]]ではいずれも支配者のモンゴル系遊牧民たちが、土着の優勢なテュルク系[[ムスリム]]の遊牧民たちと一体化していき、イスラム化・テュルク化して[[ティムール朝]]などのテュルク=モンゴル系[[イスラム王朝]]を打ち立てた。その後、アゼルバイジャン・イランではテュルク系遊牧民の軍事力を背景に[[サファヴィー朝]]などの諸王朝、キプチャク草原ではキプチャク・ハン国を解体して生まれた諸ハン国が興り、現在のテュルク系諸民族を形成していった。
{{Main|丁零}}
「丁零」或いは「丁令」と記される民族は[[匈奴]]と同時代に[[モンゴル高原]]の北方、[[バイカル湖]]あたりから[[カザフステップ]]に居住していた[[遊牧民]]であり、これも「テュルク」の転写と考えられている<ref name="内田1971-220-252-257">[[内田吟風]]訳注「蠕蠕・芮芮伝 (魏書・宋書・南斉書・梁書)」内田吟風・田村実造他訳注『騎馬民族史 1 正史北狄伝〈東洋文庫 197〉』平凡社、1971年10月25日 初版第1刷発行、220頁 注8、252頁 注3、257頁 注9。</ref><ref>小松久雄編『中央ユーラシア史 新版世界各国史 4』山川出版社、2000年10月30日 1版1刷発行、ISBN 4-634-41340-X、55頁。</ref>。


丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の[[鮮卑]]がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。
その後、キプチャク草原は新興の[[ロシア]]の支配下に入り、中央アジアも[[19世紀]]までにロシアと[[清]]によって分割される。ロシア領内のテュルク人の間では、[[19世紀]]末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す'''汎テュルク主義'''(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、[[ロシア革命]]が旧ロシア帝国に住むテュルク系諸民族を個々の共和国や民族自治区に細分化し、[[トルコ革命]]が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される。


[[五胡十六国時代]]、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して[[翟魏]]を建てた。
[[1991年]]の[[ソビエト連邦]]崩壊後、旧ソ連から5つのテュルク系民族の共和国が独立。これら諸共和国や[[タタール人]]などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で新たな強力関係が構築されつつある。


<ref>『史記』(匈奴列伝)、『三国志』(烏丸鮮卑東夷伝 裴注『魏略』西戎伝)、『晋書』(載記第十三、載記第十四、載記第二十三)、『魏書』(列伝第八十三)、『資治通鑑』(卷第九十四、卷第一百三、卷第一百五、卷第一百六、卷第一百七、卷第一百八)</ref><ref name="小松2005-195">林俊夫「高車」、小松 (2005)、195頁。</ref><ref>小松久雄編著『テュルクを知るための61章』明石書店、2016年8月20日 初版第1刷発行、ISBN 978-4-7503-4396-9、184~188頁。</ref>
=== 歴史的に活動した主なテュルク系民族・国家 ===


=== 高車(こうしゃ) ===
* [[匈奴]]と[[フン]]は、トルコ共和国ではトルコ民族の遊牧国家と見なされている。
{{Main|高車}}
モンゴル高原に進出した丁零人は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]に中国人([[拓跋氏]]政権)から「高車」と呼ばれるようになる。

これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる<ref>『[[魏書]]』列伝第九十一「唯車輪高大,輻數至多。」、『[[北史]]』列伝第八十六「唯車輪高大,輻數至多。」</ref>。初めはモンゴル高原をめぐって[[拓跋部]]の[[代 (五胡十六国)|代国]]や[[北魏]]と争っていたが、次第に台頭してきた[[柔然]]が強大になったため、それに従属するようになった。[[487年]]、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。

阿伏至羅国は柔然や[[エフタル]]と争ったが、[[6世紀]]に柔然に敗れて滅亡した。

<ref>『晋書』(載記第十三、載記第十四、載記第二十三)、『魏書』(列伝第八十三)</ref><ref>小松 (2000)、55頁。</ref><ref name="小松2005-195"/><ref>小松 (2016)、184~188頁。</ref>

=== 突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく) ===
[[ファイル:Asia 600ad 2.jpg|thumb|250px|[[7世紀]]の東西突厥。Western Gokturk Khaganate=[[西突厥]]、Eastern Gokturk Khaganate=[[東突厥]]、Chinese Empire (Sui Dynasty)=[[隋]]、Tuyuhun=[[吐谷渾]]、Persian Empire (Sassanid Dynasty)=[[サーサーン朝]]]]
{{Main|突厥}}
[[中央ユーラシア]]東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった「突厥」によって滅ぼされる([[555年]])。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。

そのため[[東ローマ帝国]]の史料<ref>[[テオフィラクトス・シモカテス|テオフィラクト・シモカッタ]] (Theophylact Simocatta) 『歴史』{{要ページ番号|date=2019年9月}}</ref>にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記されることとなる。

また、突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字([[突厥文字]])で記しているので<ref>[[突厥碑文]]</ref>、[[古テュルク語|古代テュルク語]]がいかなるものであったかを知ることができる。

突厥は[[582年]]に東西に分裂し、[[8世紀]]には両突厥が滅亡した。

<ref name="小松2000-63-70">小松 (2000)、63~70頁。</ref><ref>小松 (2016)、189~198頁。</ref>

{{Main|鉄勒}}
一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は「鉄勒」と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。

やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回紇([[ウイグル]])が台頭し、葛邏禄([[カルルク]])、抜悉蜜([[バシュミル]])といったテュルク系民族とともに[[東突厥]]第二可汗国を滅ぼした。

<ref>内田吟風訳注「匈奴伝 (史記・漢書)」『騎馬民族史 1 正史北狄伝〈東洋文庫 197〉』 (1971)、3頁。</ref><ref name="小松2000-63-70"/><ref>林俊夫「突厥」、小松 (2005)、383~384頁。</ref>

=== 突厥の滅亡後 ===
中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。

モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が[[回鶻]]可汗国を建て、中国の[[唐]]王朝と友好関係となって[[シルクロード]]交易で繁栄したが、内紛が頻発して[[黠戛斯]](キルギス)の侵入を招き、[[840年]]に崩壊した。

その後のウイグルは[[甘州ウイグル王国]]、[[天山ウイグル王国]]を建てて[[西域]]における定住型テュルク人(現代[[ウイグル人]])の祖となり、[[タリム盆地]]のテュルク化を促進した。<ref>森安孝夫『シルクロードと唐帝国〈講談社学術文庫 2351〉』講談社、2016年3月10日 第1刷発行p277-344</ref><ref>小松 (2016)、199~203頁。</ref><ref>小松 (2005年) 71~76頁。</ref>

[[中央アジア]]ではカルルク、[[突騎施]](テュルギシュ)、[[キメク]]、[[オグズ]]といった諸族が割拠していたが、[[10世紀]]に[[サーマーン朝]]の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となる[[カラハン朝]]が誕生する。

[[カスピ海]]以西では[[ブルガール]]、[[ハザール]]、[[ペチェネグ]]が割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。

[[11世紀]]になるとキメクの構成部族であった[[キプチャク]](クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。

<ref>護雅夫・岡田英弘編『中央ユーラシアの世界 民族の世界史4』山川出版社、1990年6月25日 一版一刷発行、ISBN 4-634-44040-7、170~173頁。</ref><ref>小松 (2000)、77~82頁。</ref>

=== テュルクのイスラーム化 ===
テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのは[[カラハン朝]]であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラームに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。

彼らはやがて[[トゥルクマーン]](イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家の[[トゥグリル・ベグ]]によって統率されるようになると、[[1040年]]に[[ガズナ朝]]を潰滅させ、[[ホラーサーン]]の支配権を握る。

[[1055年]]、トゥグリル・ベクは[[バグダード]]に入城し、[[アッバース朝]]の[[カリフ]]から正式に[[スルターン]]の称号を授与されると[[スンナ派]]の擁護者としての地位を確立する。

この[[セルジューク朝]]が中央アジアから[[西アジア]]、[[アナトリア半島]]にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系[[ムスリム]]がこれらの地域に広く分布することとなった。

また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク([[マムルーク]])は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦([[ジハード]])によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝([[ホラズム・シャー朝]]、ガズナ朝、[[マムルーク朝]]、[[奴隷王朝]]など)が各地に建てられることもあった。

こうした中で「テュルク・イスラーム文化」というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置は[[アラビア語]]、[[ペルシア語]]に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。

<ref>小松 (2000)、164~168頁。</ref>

=== 西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化 ===
840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は[[天山山脈]]山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、[[天山ウイグル王国]]を形成した。天山ウイグル王国は[[タリム盆地]]、[[トルファン]]盆地、[[ジュンガル盆地]]の東半分を占領し、[[マニ教]]、[[仏教]]、景教([[ネストリウス派]][[キリスト教]])を信仰した。

一方、東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、[[カシュガル]]を中心に[[ホータン]]や[[クチャ県|クチャ]]もイスラーム圏となる。

これら2国によって西域はテュルク語化が進み、古代から[[インド・ヨーロッパ語族|印欧系の言語]](北東[[イラン語派]]、[[トカラ語]])であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク語化した。

<ref>小松 (2000)、132~142、169頁。</ref>

=== 中央アジア草原地帯、西トルキスタンのテュルク化 ===
[[ファイル:Asia 1200ad.jpg|thumb|250px|13世紀前半の世界。]]
中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった[[西突厥]]系の諸族が割拠しており、オアシス地帯では[[イラン系]]の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。草原地域では、イラン系遊牧民が急速にテュルク語化した。

一方のオアシス地帯では、口語は12世紀頃までに概ねテュルク語化したものの、行政文書や司法文書などには専らアラビア文字による文書(ペルシャ語など)が用いられ、継続性が必要とされる特性上テュルク語への置換はゆっくりとしたものであった。

他言語話者がテュルク語に変更するにはテュルク語でイスラーム教を布教するのが最も効果的なのであるが、[[西トルキスタン]]では定住民がすでにムスリム(イスラーム教徒)であったため、あるいは遊牧民と定住民の住み分けが明確になされていたため、人口が多かったために東トルキスタンほど急速にテュルク化が起きなかった。

西トルキスタンに於ける最終的なテュルク語化は、[[ホラズム・シャー朝]]、[[カラキタイ]]、[[ティムール朝]]、[[シャイバーニー朝]]といった王朝の下でゆっくりと進行した。

<ref>小松 (2000)、170~173頁。</ref><ref>小松 (2016)、207~210頁。</ref>

=== モンゴル帝国の拡大 ===
[[ファイル:Genghis_Khan_empire-en.svg|thumb|250px|チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。]]
古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これは[[ゴビ砂漠|ゴビ]]の南(漠南)を支配した[[遼]]([[契丹]])や[[金 (王朝)|金]]([[女真]])といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。

当時、モンゴル高原には[[ケレイト]]、[[ナイマン]]、[[メルキト]]、[[モンゴル]]、[[タタル部|タタル]]、[[オングト]]、[[コンギラト]]といったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、[[13世紀]]初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、[[チンギス・カン]](在位: [[1206年]] - [[1227年]])として大モンゴル・ウルス([[モンゴル帝国]])を建国した。

チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北の[[バルグト]]、[[オイラト]]、[[堅昆|キルギス]]、西の[[タングート]]([[西夏]])、天山ウイグル王国、カルルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。

チンギス・カンの後を継いだ[[オゴデイ|オゴデイ・カアン]](在位: [[1229年]] - [[1241年]])も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク、[[ヴォルガ・ブルガール]]、ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。

こうしてユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代[[モンケ|モンケ・カアン]](在位: [[1251年]] - [[1259年]])の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまう。

<ref name="小松2000-175-188">小松 (2000)、175~188頁。</ref>

=== モンゴルの支配下 ===
この史上最大の帝国に吸収されたテュルク系諸民族であったが、支配層のモンゴル人に比べてその人口が圧倒的多数であったため、また文化的にテュルク語が普及していたため、テュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。

むしろイスラーム圏に領地を持った[[チャガタイ・ウルス]]、[[フレグ・ウルス]]、[[ジョチ・ウルス]]ではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル人が現れた。

こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設されることとなった。

<ref name="小松2000-175-188"/>

=== チャガタイ領のテュルク ===
チンギス政権以来、天山ウイグル王国はモンゴル帝国の庇護を受け、[[14世紀]]後半にいたるまでその王権が保たれた。

それはウイグル人が高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍したことや、モンゴルに[[ウイグル文字]]を伝えて[[モンゴル文字]]の基礎になったこと、オアシス定住民の統治に長けていたことが挙げられる。

モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権は[[トルファン]]地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在も[[ウイグル人]]として生き続けている。

一方、カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)が形成され、天山ウイグル領で[[仏教]]圏であった東部もその版図となり、イスラーム圏となる。

やがてチャガタイ汗国は[[パミール高原|パミール]]を境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のテュルク化が挙げられる。

マー・ワラー・アンナフル([[トランスオクシアナ]])を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。

彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンは「[[モグーリスタン]]」と呼ばれることとなる。

<ref>小松 (2000)、199~201頁。</ref>

=== ティムール朝 ===
{{Main|ティムール朝}}
西チャガタイ・ハン国から台頭した[[ティムール]]は西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンにテュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。

しかし、文官にいたっては知識人であるイラン系の[[タジク人|ターズィーク人]]が担っていた。

こうしたことでティムール朝の公用語はイラン系である[[ペルシア語]]と、テュルク系である[[チャガタイ語]]が使われ、都市部においては二言語併用が一般化した。

<ref>小松 (2000)、211~228頁。</ref>

=== ジョチ領のテュルク ===
[[キプチャク草原]]を根拠地としたジョチ・ウルスは比較的早い段階でイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。

[[15世紀]]になると、[[カザン・ハン国]]、[[アストラハン・ハン国]]、[[クリミア・ハン国]]、[[シャイバーニー朝]]、[[カザフ・ハン国]]、[[シビル・ハン国]]といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。

<ref>小松 (2016)、240~244頁。</ref>

=== ウズベクとカザフ ===
現在、中央アジアのテュルク系民族で上位を占めるのが[[ウズベク人]]と[[カザフ人]]である。

これらの祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家の[[アブル=ハイル・ハン (シャイバーニー朝)|アブル=ハイル・ハン]](在位:[[1426年]] - [[1468年]])に率いられた集団であった。

彼らは[[ウズベク人|ウズベク]]と呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、[[シルダリヤ川|シル川]]中流域に根拠地を遷したが、[[ジャニベク・ハン]]と[[ケレイ・ハン]]がアブル=ハイル・ハンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離することとなり、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくは[[カザフ人|カザフ]]と呼んで区別するようになった。

アブル=ハイル・ハンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。

やがてウズベクの集団も[[ムハンマド・シャイバーニー・ハン]]のもとで再統合し、マー・ワラー・アンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各地域を占領してシャイバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。

<ref>小松 (2000)、229~239頁。</ref>

=== 3ハン国 ===
[[1599年]]にシャイバーニー朝が滅亡した後、マー・ワラー・アンナフルの政権は[[ジャーン朝]](アストラハン朝)に移行した。

ジャーン朝は[[1756年]]に[[マンギト朝]]によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都が[[ブハラ]]に置かれたため、この3王朝をあわせて[[ブハラ・ハン国]]と呼ぶ(ただしマンギト朝はハン位に就かず、[[アミール]]を称したのでブハラ・アミール国とも呼ばれる)。また、ホラズム地方の[[ウルゲンチ]]を拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は[[17世紀]]末に[[ヒヴァ]]に遷都したため、次の[[イナク朝]]([[1804年]] - [[1920年]])とともに[[ヒヴァ・ハン国]]と呼ばれる。そして、[[18世紀]]にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権は[[コーカンド]]を首都としたため、[[コーカンド・ハン国]]と呼ばれる。

これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3ハン国と称する。

<ref>小松 (2000)、329~333頁。</ref>

=== ロシアの征服 ===
[[13世紀]]に始まる[[モンゴル人]]のルーシ征服はロシア側から「[[タタールのくびき]] (татарское иго)」と呼ばれ、[[ロシア人]]にとっては屈辱的な時代であった。しかし、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]]の[[イヴァン4世]](在位: [[1533年]] - [[1584年]])によって[[カザン・ハン国]]、[[アストラハン・ハン国]]といった[[ジョチ・ウルス]]系の国家が滅ぼされると、「タタールのくびき」は解かれ、ロシアの[[中央ユーラシア]]征服が始まる。

このときロシアに降った[[テュルク]]系[[ムスリム]]はロシア側から「[[タタール人]]」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と[[同化政策]]に苦しめられ、[[カザフ草原]]や[[トルキスタン]]に移住する者が現れた。

[[16世紀]]末になって[[ロシア・ツァーリ国]]は[[シベリア]]の[[シビル・ハン国]]を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。

同じ頃、カザフ草原の[[カザフ・ハン国]]は大ジュズ、中ジュズ、小ジュズと呼ばれる3つの[[部族]]連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系[[遊牧]]集団[[ジュンガル]]の脅威にさらされていた。

[[1730年]]、その脅威を脱するべく小ジュズの[[アブル=ハイル・ハン (小ジュズ)|アブル=ハイル・ハン]](在位: [[1716年]] - [[1748年]])が[[ロシア帝国]]に服属を表明し、中ジュズ、大ジュズもこれにならって服属を表明した。

[[19世紀]]の半ば、[[バルカン半島]]から[[中央アジア]]に及ぶ広大な地域を舞台に、[[イギリス帝国|大英帝国]]([[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]])とロシア帝国との「[[グレート・ゲーム]]」が展開されていた。

ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、[[1867年]]に[[コーカンド・ハン国]]を滅ぼし、[[1868年]]に[[ブハラ・ハン国]]を、[[1873年]]に[[ヒヴァ・ハン国]]を保護下に置き、[[1881年]]に遊牧集団[[トルクメン]]を虐殺して[[西トルキスタン]]を支配下に入れた。

<ref>小松 (2000)、333~341頁。</ref>

=== アナトリア半島のテュルク ===
[[ファイル:Anatolia1300.png|thumb|250px|1300年のアナトリアにおけるテュルク系諸勢力。]]
現在、最も有名なテュルク系国家である[[トルコ共和国]]は[[アナトリア半島]]に存在するが、テュルク人の故地から最も離れた位置にあるにもかかわらず、テュルク系最大の民族である[[トルコ人]]が住んでいる。

これは歴史上、幾波にもわたってテュルク人がこの地に侵入し、移住してきたためである。それまでのアナトリア半島には[[東ローマ帝国]]が存在し、主要言語は[[ギリシア語]]であった。

アナトリアへ最初に侵入してきたのは[[セルジューク朝]]であり、セルジューク朝によって東ローマ帝国が駆逐されると、その地にセルジューク[[王権]]の強化を好まないトゥルクマーンなどが流入してきたため、アナトリアのテュルク化が始まった。

その後はセルジューク朝の後継国家である[[ルーム・セルジューク朝]]がアナトリアに成立し、モンゴルの襲来で多くのトゥルクマーンが中央アジアから逃れてきたので、アナトリアのテュルク化・イスラーム化は一層進んだ。

14世紀には[[オスマン帝国]]がアナトリアを中心に拡大し、最盛期には古代[[ローマ帝国]]を思わせるほどの大帝国へと発展したが、[[18世紀]]以降、オスマン帝国は衰退の一途をたどり、広大な領地は次第に縮小してアナトリア半島のみとなり、[[第一次世界大戦]]後、[[トルコ革命]]によって[[1922年]]に滅亡し、翌[[1923年]]にトルコ共和国が成立する。

<ref>小松 (2016)、150~153頁。</ref>

=== テュルクの独立 ===
ロシア領内のテュルク人の間では、[[19世紀]]末から[[ムスリム]]の民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す[[汎テュルク主義]](汎トルコ主義)が生まれた。

しかし、[[ロシア革命]]が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。<!--その際、各集団が民族集団としてのアイデンディティーに対して自覚的であったかなかったに関わらず、その一部においては人為的に民族集団の区分けが強化される形で行政区分が行われた。

-->一方、[[トルコ革命]]が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。

[[1991年]]の[[ソビエト連邦]]崩壊後、旧ソ連から5つのテュルク系民族の共和国([[アゼルバイジャン共和国]]、[[ウズベキスタン共和国]]、[[カザフスタン共和国]]、[[キルギス]]、[[トルクメニスタン]])が独立。

これら諸共和国や[[タタール人]]などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で、汎テュルク主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつある。

<ref>小松 (2000)、414~437頁。</ref>

== 歴史的なテュルク系民族および政権 ==
* [[丁零]]
* [[高車]]
* [[高車]]
* [[悦般]]
* [[突厥]]
* [[突厥]]
* [[ウイグル]]
** [[東突厥]]
** [[西突厥]]
*** [[沙陀族]]
**** [[後唐]]
**** [[後晋]]
**** [[後漢 (五代)|後漢]]
***** [[北漢]]
* [[鉄勒]]
* [[回鶻]]([[ウイグル]])
** [[天山ウイグル王国]]
** [[甘州ウイグル王国]]
* [[堅昆]](契骨、黠戛斯、キルギス)
* [[オグズ]]
* [[カルルク]]
* [[ブルガール人]]
** [[ヴォルガ・ブルガール]]
* [[ハザール]]
* [[ハザール]]
* [[ブルガール]]
* [[ペチェネグ]]
* [[黒帽子族|チョールヌィ・クロブキ]]
** [[トルク族]]…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
** [[ベレンデイ族]]…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
** [[コヴイ人]]…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
** [[トゥルペイ人]]…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
** ペチェネグ…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
* [[カンクリ]]
* エメク
* [[キプチャク]](ポロヴェツ、クマン)
* [[キプチャク]](ポロヴェツ、クマン)
* [[カラジ (テュルク)]]
* [[アガチェリ]]
<ref name="内田1971-220-252-257"/><ref>レーベヂェフ編、除村吉太郎訳『ユーラシア叢書30 ロシヤ年代記』(原書房、1979年…弘文堂、1946年刊からの復刻)p210-531</ref><ref>護 (1990)、170~173頁。</ref>
=== イスラーム化後のテュルク系国家 ===
* [[カラハン朝]]
* [[カラハン朝]]
* [[ガズナ朝]]
* [[セルジューク朝]]
* [[セルジューク朝]]
* [[ルーム・セルジューク朝]]
** [[ルーム・セルジューク朝]]
* [[ホラズム・シャー朝]]
* [[ホラズム・シャー朝]]
* [[黒羊朝]]
* [[マムルーク朝]]
* [[白羊朝]]
* [[オスマン帝国]]
* [[オスマン帝国]]
* [[奴隷王朝]]
* [[ハルジー朝]]
* [[トゥグルク朝]]
* [[サイイド朝]]
<ref>小松 (2000)、143~173頁。</ref>


=== モンゴル帝国の解体後に生まれた主なテュルク=モンゴル系国家 ===
=== モンゴル帝国の解体後に生まれた主なテュルク=モンゴル系国家 ===
; チャガタイ・ウルス系

* [[モグーリスタン・ハン国]]
* [[モグーリスタン・ハン国]]
* [[西チャガタイ・ハン国]]
* [[ティムール朝]] - ティムール朝滅亡後、残存勢力は[[インド]]に[[ムガール帝国]]を立てる。
* [[シャイバーニー朝]]
* [[ティム朝]]
* [[ムガル帝国]]
; ジョチ・ウルス系
* [[スーフィー朝]]
* [[ブハラ・ハン国]]
* [[ブハラ・ハン国]]
** [[シャイバーニー朝]]
** [[ジャーン朝]](アストラハン朝)
** [[マンギト朝]]
* [[ヒヴァ・ハン国]]
* [[ヒヴァ・ハン国]]
** ウルゲンチのシャイバーニー朝
** [[イナク朝]]
* [[コーカンド・ハン国]]
* [[コーカンド・ハン国]]
* [[シビル・ハン国]]
* [[シビル・ハン国]]
* [[カザン・ハン国]]
* [[カザン・ハン国]]
* [[カザフ・ハン国]]
* [[アストラハン・ハン国]]
* [[アストラハン・ハン国]]
* [[ノガイ・オルダ]]
* [[ノガイ・オルダ]]
* [[クリミア・ハン国]]
* [[クリミア・ハン国]]
; フレグ・ウルス(イルハン朝)系
* [[ジャライル朝]]
* [[黒羊朝]](カラコユンル)
* [[白羊朝]](アクコユンル)
<ref>小松 (2016)、230~240頁。</ref>


== 現代のテュルク系諸民族 ==
== 現代のテュルク系諸民族 ==
<ref>小松 (2016)、106~183頁。</ref>
=== 主権国家 ===
* {{TUR}} → [[トルコ人]](5,549万人〜5,800万人/7,000万人)
* {{AZE}} → [[アゼルバイジャン人]](720.5万人/2,050万人〜3,300万人、[[イラン]]に1,200万人〜2,010万人)
* {{UZB}} → [[ウズベク人]](2,230万人/2,830万人)
* {{TKM}} → [[トルクメン人]](550万人/800万人)
* {{KGZ}} → [[キルギス人]](380.4万人/485.5万人)
* {{KAZ}} → [[カザフ人]](955万人/1,600万人)


=== 連邦構成国・民族自治区 ===
合計で1億3000万人という説がある。そのうち5000万人以上はトルコ共和国の[[トルコ人]]である。
* {{RUS2}}
** [[タタールスタン共和国]] → [[タタール人]](555.4万人/671.2万人)
** [[バシコルトスタン共和国]] → [[バシキール人]](167.3万人/205.9万人)
** [[チュヴァシ共和国]] → [[チュヴァシ人]](163.7万人/180万人)
** [[ハカス共和国]] → [[ハカス人]](8万人)
** [[アルタイ共和国]] → [[アルタイ人]](6.7万人/7万人)
** [[トゥヴァ共和国]] → [[トゥヴァ人]](24.3万人/28万人)
** [[サハ共和国]] → [[ヤクート人]](44.4万人)
* {{UZB}}
** [[カラカルパクスタン共和国]] → [[カラカルパク人]](55万人)
* {{PRC}}
** [[新疆ウイグル自治区]] → [[ウイグル|ウイグル人]](840万人/1,125.7万人)
* {{MDA}}
** [[ガガウズ自治区]] → [[ガガウズ人]](12.6万人/16.2万人)


=== その他の主なテュルク系民族とその居住地 ===
=== 主権国家 ===
* [[ウクライナ]]の[[クリミア自治共和国]]では、[[クリミア・タタール人]]が人口の2割を占める。
* [[リトアニア]]や[[ポーランド]]、[[ロシア]]、[[トルコ共和国]]には、[[ハザール]]を起源とする[[クリミア・カライム人]]や[[クリムチャク人]]が居住する。
* [[ベラルーシ]]、[[リトアニア]]、[[ポーランド]]には、[[タタール]]系([[リプカ・タタール人]]、[[クリミア・タタール人]]、[[ノガイ族]]、[[ヴォルガ・タタール人]])が居住している。
* [[ウクライナ]]、[[トルコ]]には、テュルク系[[キリスト教徒]]の[[ガガウズ人]]が居住している。
* [[キプロス]]の北部では、テュルク系の住民が[[北キプロス・トルコ共和国]]を立て独立を宣言している。
* [[アフガニスタン]]には、[[ウズベク人]]など多くのテュルク系民族が住む。
* [[イラン]]には、北西部に[[アゼルバイジャン]]と連続する同族の[[アゼリー人]]がまとまって居住し、北東部カスピ海東南岸および南部内陸に[[トルクメン人]]が散在し、併せて人口のおよそ3割がテュルク系である。
* [[モンゴル国]]には、[[バヤン・ウルギー県]]を中心として西部にまとまった数の[[カザフ人]]が居住する。また、北部には少数の[[トゥバ人]]が居住する。
* [[パキスタン]]北部には、少数のウイグル人、トルクメン人などのテュルク系民族が居住する。ラホール近郊にも見られる。


==遺伝子==
* [[トルコ|トルコ共和国]]
* [[アゼルバイジャン|アゼルバイジャン共和国]]
* [[ウズベキスタン|ウズベキスタン共和国]]
* [[トルクメニスタン]]
* [[キルギスタン|キルギス共和国]]
* [[カザフスタン|カザフスタン共和国]]


=== 連邦構成国・民族自治区 ===


テュルク系民族には、同じ[[アルタイ語族|アルタイ系]]である[[モンゴル系民族]]や[[ツングース系民族]]に高頻度な[[ハプログループC-M217 (Y染色体)|C2系統]]は、[[カザフ人|カザフ]](66.7%<ref name = Wells>Wells, Spencer et al. 2001, [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC56946/ The Eurasian Heartland: A continental perspective on Y-chromosome diversity]</ref>)を除きそれほど高頻度ではない。広範囲に見られるタイプとしては[[印欧語族|印欧語系]][[インド・イラン語派|インド・イラン人]]や[[スラブ人]]に多い[[ハプログループR1a (Y染色体)|R1a系統]]が[[キルギス人]]に63.5%<ref name = Wells/>、南[[アルタイ人]]に53.1%<ref>Khar'kov, VN; Stepanov, VA; Medvedeva, OF; Spiridonova, MG; Voevoda, MI; Tadinova, VN; Puzyrev, VP (2007). "Gene pool differences between Northern and Southern Altaians inferred from the data on Y-chromosomal haplogroups". Genetika 43 (5): 675–87. {{PMID|17633562}}.</ref>などで観察される。また[[ヤクート人|ヤクート]]は[[ウラル系民族]]に関連する[[ハプログループN (Y染色体)|N系統]]が88%の高頻度で見られる<ref>Tambets, Kristiina et al. 2004, The Western and Eastern Roots of the Saami—the Story of Genetic “Outliers” Told by Mitochondrial DNA and Y Chromosomes</ref>。11世紀にトルコ族が進入した[[アナトリア]]では在来の[[ハプログループJ (Y染色体)|J系統]]等が高頻度である<ref>Rosser, ZH; Zerjal, T; Hurles, ME; Adojaan, M; Alavantic, D; Amorim, A; Amos, W; Armenteros, M et al. (2000). "Y-chromosomal diversity in Europe is clinal and influenced primarily by geography, rather than by language". American Journal of Human Genetics 67 (6): 1526–43. doi:10.1086/316890. PMC 1287948. {{PMID|11078479}}.</ref>。
* ロシア連邦
** [[タタールスタン共和国]]
** [[バシュコルトスタン共和国]]
** [[チュヴァシ共和国]]
** [[ハカス共和国]]
** [[アルタイ共和国]]
** [[トゥヴァ共和国]]
** [[サハ共和国]]
* ウズベキスタン共和国
** [[カラカルパクスタン|カラカルパクスタン共和国]]
* 中華人民共和国
** [[新疆ウイグル自治区]]


テュルク系民族の明確な遺伝子の単一性は認められないことから、テュルク系民族の拡散は[[:en:Demic diffusion|話者移動]]よりも[[言語交替|言語置換]]中心であったことが示唆されている<ref name="Yunusbayev_2015" />。また、調査されたほとんどのテュルク系民族は遺伝的に近隣地域の住民に似ていることから、インド・ヨーロッパ語族のような[[:en:Indo-Aryan migration#Elite dominance|少数上位階級による支配]]が示唆されている<ref name="Yunusbayev_2015" />。しかし、西部のテュルク系民族も、現在の南シベリアとモンゴル地域のテュルク系民族と同一の「非常に長い染色体領域」を共有している<ref name="Yunusbayev_2015">{{Cite journal|last=Yunusbayev|first=Bayazit|last2=Metspalu|first2=Mait|last3=Metspalu|first3=Ene|last4=Valeev|first4=Albert|last5=Litvinov|first5=Sergei|last6=Valiev|first6=Ruslan|last7=Akhmetova|first7=Vita|last8=Balanovska|first8=Elena|last9=Balanovsky|first9=Oleg|date=2015-04-21|title=The Genetic Legacy of the Expansion of Turkic-Speaking Nomads across Eurasia|journal=PLoS Genetics|volume=11|issue=4|pages=e1005068|doi=10.1371/journal.pgen.1005068|issn=1553-7390|pmc=4405460|pmid=25898006}}</ref>。
=== その他の主なテュルク系民族とその居住地 ===


[[キルギス人]]、[[カザフ人]]、[[ウズベク人]]、[[トルクメン人]]、[[アルタイ人]]など中央アジアのテュルク系民族は、[[モンゴロイド]]と[[コーカソイド]]の混合体である<ref name = A>{{Cite journal|last1=Villems|first1=Richard|last2=Khusnutdinova|first2=Elza|last3=Kivisild|first3=Toomas|last4=Yepiskoposyan|first4=Levon|last5=Voevoda|first5=Mikhail|last6=Osipova|first6=Ludmila|last7=Malyarchuk|first7=Boris|last8=Derenko|first8=Miroslava|last9=Damba|first9=Larisa|date=2015-04-21|title=The Genetic Legacy of the Expansion of Turkic-Speaking Nomads across Eurasia|url=https://journals.plos.org/plosgenetics/article?id=10.1371/journal.pgen.1005068|journal=PLOS Genetics|language=en|volume=11|issue=4|pages=e1005068|doi=10.1371/journal.pgen.1005068|issn=1553-7404|pmc=4405460|pmid=25898006}}</ref>。西端のトルコ人のはコーカソイド、東端のヤクートはモンゴロイドとされるが、それぞれモンゴロイドとコーカソイドの遺伝子を僅かに含んでいる<ref name = A/>。
* [[ウクライナ|ウクライナ共和国]]の構成国[[クリミア自治共和国]]では、[[クリミア・タタール人]]が人口の2割を占める。

* [[モルドバ]]には、テュルク系[[キリスト教徒]]の[[ガガウズ人]]が居住している。
== 脚注 ==
* [[キプロス]]の北部では、テュルク系の住民が[[北キプロス・トルコ共和国]]を立てて独立を宣言している。
{{脚注ヘルプ}}
* [[アフガニスタン]]には、[[ウズベク人]]など多くのテュルク系民族が住む。
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* 『[[春秋左氏伝]]』
* 『[[史記]]』
* 『[[漢書]]』
* 『[[後漢書]]』
* 『[[資治通鑑]]』
* 『[[魏書]]』
* 『[[周書]]』
* 『[[隋書]]』
* 『[[旧唐書]]』
* 『[[新唐書]]』
*[[内田吟風]]・[[田村実造]]他訳注『騎馬民族史 1 正史北狄伝〈東洋文庫 197〉』平凡社、1971年10月25日 初版第1刷発行。
*護雅夫・岡田英弘編『中央ユーラシアの世界 民族の世界史 4』山川出版社、1990年6月25日 一版一刷発行、ISBN 4-634-44040-7。
*小松久雄編『中央ユーラシア史 新版世界各国史』山川出版社、2000年10月30日 1版1刷発行、ISBN 4-634-41340-X。
*小松久雄+梅村坦+宇山智彦+帯谷知可+堀川徹編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年4月11日 初版第1刷発行、ISBN 4-582-12636-7。
*小松久雄編著『テュルクを知るための61章』明石書店、2016年8月20日 初版第1刷発行、ISBN 978-4-7503-4396-9。

== 関連項目 ==
* [[アルタイ諸語]]
* [[チュルク語族]]
* [[汎テュルク主義]]
* [[テュルク諸国機構]]
* [[トルコ]]
* [[トルキスタン]]
* [[遊牧民]]
* {{仮リンク|テュルク系民族の移動|en|Turkic migration}}
* [[ヤールギュレシ]]

{{テュルク系民族}}
{{DEFAULTSORT:てゆるくけいみんそく}}
[[Category:テュルク系民族|*]]

2024年12月4日 (水) 10:36時点における最新版

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。
テュルク系民族の分布。

テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurksロシア語: Тюркиトルコ語: Türk halkları)とは、チュルク語族の言語を使用する民族集団である[1]ユーラシア大陸の中央部を斜めに貫く、東シベリアからトルコ共和国にまで及ぶ乾燥地域を中心に[2]シベリア中央アジアおよび西アジア東欧などに広く分布する[1]トルコ系諸民族テュルク系諸族などとも[1]

呼称・表記

[編集]

英語では、狭義のテュルク / トルコと言うべき一民族をTurkishと呼び、広義のテュルク / トルコであるテュルク系諸民族全体をTurkicと呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。

これにならい、日本語でも狭義のトルコに「トルコ」、広義のトルコに「テュルク」をあてて区別する用法があり、ここでもこれにならう。

同じく漢字を使用する台湾、中国など中国語圏では、狭義のトルコを「土耳其」(トルコ)、広義のトルコを「突厥」(とっけつ)と呼んでいる。

歴史学者の森安孝夫は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」という表記がよく見られるとしながらも「トルコ民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥鉄勒、回紇、葛邏禄、抜悉蜜、沙陀族などを一括りにした呼称」としている[3]

人種的には東部でモンゴロイド、西部でコーカソイドと東西で大きく異なるが[4]、人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される。

歴史

[編集]

起源

[編集]

テュルク系民族の原郷についての定説がないが、ウラル山脈以東の草原地帯に求める説が有力である[5]モンゴル系民族と近接していた。人種的には同じくモンゴロイドと考えられている(プロト・テュルクトルコ語版[5][6]唐代まではほとんどが黒髪・直毛・黒目だった。

唐代の終わり頃東ウイグル可汗国が崩壊しテュルク系民族がモンゴリアアルタイ地方から移動して天山山脈からタリム盆地全体を支配した。その結果、先住のコーカソイドのインド=ヨーロッパ語族は何世代か後にはテュルク化し、テュルク系言語の話者となった[4]

ただし、言語上、エスニシティ上の関連性について、確たる証拠となるような記録が十分残されているとは言い難い[7]言語学者の仮説によれば、前3000~前500年ごろにはテュルク祖語が話されていたというが、直接的な証拠は何も残されていない[7]

現代のテュルク族は匈奴フン族が自分たちの先祖だと考えている(ただし学説は確立していない)[8]

丁零(ていれい)

[編集]

「丁零」或いは「丁令」と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている[9][10]

丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。

五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して翟魏を建てた。

[11][12][13]

高車(こうしゃ)

[編集]

モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から「高車」と呼ばれるようになる。

これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる[14]。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部代国北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。

阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。

[15][16][12][17]

突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)

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7世紀の東西突厥。Western Gokturk Khaganate=西突厥、Eastern Gokturk Khaganate=東突厥、Chinese Empire (Sui Dynasty)=、Tuyuhun=吐谷渾、Persian Empire (Sassanid Dynasty)=サーサーン朝

中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった「突厥」によって滅ぼされる(555年)。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。

そのため東ローマ帝国の史料[18]にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記されることとなる。

また、突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記しているので[19]古代テュルク語がいかなるものであったかを知ることができる。

突厥は582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡した。

[20][21]

一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は「鉄勒」と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。

やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回紇(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク)、抜悉蜜(バシュミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。

[22][20][23]

突厥の滅亡後

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中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。

モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。

その後のウイグルは甘州ウイグル王国天山ウイグル王国を建てて西域における定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。[24][25][26]

中央アジアではカルルク、突騎施(テュルギシュ)、キメクオグズといった諸族が割拠していたが、10世紀サーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。

カスピ海以西ではブルガールハザールペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。

11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。

[27][28]

テュルクのイスラーム化

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テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラームに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。

彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年ガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。

1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝カリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。

このセルジューク朝が中央アジアから西アジアアナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。

また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。

こうした中で「テュルク・イスラーム文化」というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語ペルシア語に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。

[29]

西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化

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840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。天山ウイグル王国はタリム盆地トルファン盆地、ジュンガル盆地の東半分を占領し、マニ教仏教、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。

一方、東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンクチャもイスラーム圏となる。

これら2国によって西域はテュルク語化が進み、古代から印欧系の言語(北東イラン語派トカラ語)であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク語化した。

[30]

中央アジア草原地帯、西トルキスタンのテュルク化

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13世紀前半の世界。

中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。草原地域では、イラン系遊牧民が急速にテュルク語化した。

一方のオアシス地帯では、口語は12世紀頃までに概ねテュルク語化したものの、行政文書や司法文書などには専らアラビア文字による文書(ペルシャ語など)が用いられ、継続性が必要とされる特性上テュルク語への置換はゆっくりとしたものであった。

他言語話者がテュルク語に変更するにはテュルク語でイスラーム教を布教するのが最も効果的なのであるが、西トルキスタンでは定住民がすでにムスリム(イスラーム教徒)であったため、あるいは遊牧民と定住民の住み分けが明確になされていたため、人口が多かったために東トルキスタンほど急速にテュルク化が起きなかった。

西トルキスタンに於ける最終的なテュルク語化は、ホラズム・シャー朝カラキタイティムール朝シャイバーニー朝といった王朝の下でゆっくりと進行した。

[31][32]

モンゴル帝国の拡大

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チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。

古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これはゴビの南(漠南)を支配した契丹)や女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。

当時、モンゴル高原にはケレイトナイマンメルキトモンゴルタタルオングトコンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン(在位: 1206年 - 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した。

チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグトオイラトキルギス、西のタングート西夏)、天山ウイグル王国、カルルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。

チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位: 1229年 - 1241年)も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク、ヴォルガ・ブルガール、ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。

こうしてユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代モンケ・カアン(在位: 1251年 - 1259年)の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまう。

[33]

モンゴルの支配下

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この史上最大の帝国に吸収されたテュルク系諸民族であったが、支配層のモンゴル人に比べてその人口が圧倒的多数であったため、また文化的にテュルク語が普及していたため、テュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。

むしろイスラーム圏に領地を持ったチャガタイ・ウルスフレグ・ウルスジョチ・ウルスではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル人が現れた。

こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設されることとなった。

[33]

チャガタイ領のテュルク

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チンギス政権以来、天山ウイグル王国はモンゴル帝国の庇護を受け、14世紀後半にいたるまでその王権が保たれた。

それはウイグル人が高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍したことや、モンゴルにウイグル文字を伝えてモンゴル文字の基礎になったこと、オアシス定住民の統治に長けていたことが挙げられる。

モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権はトルファン地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在もウイグル人として生き続けている。

一方、カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)が形成され、天山ウイグル領で仏教圏であった東部もその版図となり、イスラーム圏となる。

やがてチャガタイ汗国はパミールを境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のテュルク化が挙げられる。

マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。

彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンは「モグーリスタン」と呼ばれることとなる。

[34]

ティムール朝

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西チャガタイ・ハン国から台頭したティムールは西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンにテュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。

しかし、文官にいたっては知識人であるイラン系のターズィーク人が担っていた。

こうしたことでティムール朝の公用語はイラン系であるペルシア語と、テュルク系であるチャガタイ語が使われ、都市部においては二言語併用が一般化した。

[35]

ジョチ領のテュルク

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キプチャク草原を根拠地としたジョチ・ウルスは比較的早い段階でイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。

15世紀になると、カザン・ハン国アストラハン・ハン国クリミア・ハン国シャイバーニー朝カザフ・ハン国シビル・ハン国といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。

[36]

ウズベクとカザフ

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現在、中央アジアのテュルク系民族で上位を占めるのがウズベク人カザフ人である。

これらの祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブル=ハイル・ハン(在位:1426年 - 1468年)に率いられた集団であった。

彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャニベク・ハンケレイ・ハンがアブル=ハイル・ハンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離することとなり、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。

アブル=ハイル・ハンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。

やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・ハンのもとで再統合し、マー・ワラー・アンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各地域を占領してシャイバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。

[37]

3ハン国

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1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マー・ワラー・アンナフルの政権はジャーン朝(アストラハン朝)に移行した。

ジャーン朝は1756年マンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・ハン国と呼ぶ(ただしマンギト朝はハン位に就かず、アミールを称したのでブハラ・アミール国とも呼ばれる)。また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝1804年 - 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。

これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3ハン国と称する。

[38]

ロシアの征服

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13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼ばれ、ロシア人にとっては屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公イヴァン4世(在位: 1533年 - 1584年)によってカザン・ハン国アストラハン・ハン国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、「タタールのくびき」は解かれ、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。

このときロシアに降ったテュルクムスリムはロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原トルキスタンに移住する者が現れた。

16世紀末になってロシア・ツァーリ国シベリアシビル・ハン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。

同じ頃、カザフ草原のカザフ・ハン国は大ジュズ、中ジュズ、小ジュズと呼ばれる3つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団ジュンガルの脅威にさらされていた。

1730年、その脅威を脱するべく小ジュズのアブル=ハイル・ハン(在位: 1716年 - 1748年)がロシア帝国に服属を表明し、中ジュズ、大ジュズもこれにならって服属を表明した。

19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国イギリス)とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。

ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年コーカンド・ハン国を滅ぼし、1868年ブハラ・ハン国を、1873年ヒヴァ・ハン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。

[39]

アナトリア半島のテュルク

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1300年のアナトリアにおけるテュルク系諸勢力。

現在、最も有名なテュルク系国家であるトルコ共和国アナトリア半島に存在するが、テュルク人の故地から最も離れた位置にあるにもかかわらず、テュルク系最大の民族であるトルコ人が住んでいる。

これは歴史上、幾波にもわたってテュルク人がこの地に侵入し、移住してきたためである。それまでのアナトリア半島には東ローマ帝国が存在し、主要言語はギリシア語であった。

アナトリアへ最初に侵入してきたのはセルジューク朝であり、セルジューク朝によって東ローマ帝国が駆逐されると、その地にセルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなどが流入してきたため、アナトリアのテュルク化が始まった。

その後はセルジューク朝の後継国家であるルーム・セルジューク朝がアナトリアに成立し、モンゴルの襲来で多くのトゥルクマーンが中央アジアから逃れてきたので、アナトリアのテュルク化・イスラーム化は一層進んだ。

14世紀にはオスマン帝国がアナトリアを中心に拡大し、最盛期には古代ローマ帝国を思わせるほどの大帝国へと発展したが、18世紀以降、オスマン帝国は衰退の一途をたどり、広大な領地は次第に縮小してアナトリア半島のみとなり、第一次世界大戦後、トルコ革命によって1922年に滅亡し、翌1923年にトルコ共和国が成立する。

[40]

テュルクの独立

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ロシア領内のテュルク人の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す汎テュルク主義(汎トルコ主義)が生まれた。

しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。

1991年ソビエト連邦崩壊後、旧ソ連から5つのテュルク系民族の共和国(アゼルバイジャン共和国ウズベキスタン共和国カザフスタン共和国キルギストルクメニスタン)が独立。

これら諸共和国やタタール人などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で、汎テュルク主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつある。

[41]

歴史的なテュルク系民族および政権

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[9][42][43]

イスラーム化後のテュルク系国家

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[44]

モンゴル帝国の解体後に生まれた主なテュルク=モンゴル系国家

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チャガタイ・ウルス系
ジョチ・ウルス系
フレグ・ウルス(イルハン朝)系

[45]

現代のテュルク系諸民族

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[46]

主権国家

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連邦構成国・民族自治区

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その他の主なテュルク系民族とその居住地

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遺伝子

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テュルク系民族には、同じアルタイ系であるモンゴル系民族ツングース系民族に高頻度なC2系統は、カザフ(66.7%[47])を除きそれほど高頻度ではない。広範囲に見られるタイプとしては印欧語系インド・イラン人スラブ人に多いR1a系統キルギス人に63.5%[47]、南アルタイ人に53.1%[48]などで観察される。またヤクートウラル系民族に関連するN系統が88%の高頻度で見られる[49]。11世紀にトルコ族が進入したアナトリアでは在来のJ系統等が高頻度である[50]

テュルク系民族の明確な遺伝子の単一性は認められないことから、テュルク系民族の拡散は話者移動よりも言語置換中心であったことが示唆されている[51]。また、調査されたほとんどのテュルク系民族は遺伝的に近隣地域の住民に似ていることから、インド・ヨーロッパ語族のような少数上位階級による支配が示唆されている[51]。しかし、西部のテュルク系民族も、現在の南シベリアとモンゴル地域のテュルク系民族と同一の「非常に長い染色体領域」を共有している[51]

キルギス人カザフ人ウズベク人トルクメン人アルタイ人など中央アジアのテュルク系民族は、モンゴロイドコーカソイドの混合体である[52]。西端のトルコ人のはコーカソイド、東端のヤクートはモンゴロイドとされるが、それぞれモンゴロイドとコーカソイドの遺伝子を僅かに含んでいる[52]

脚注

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  1. ^ a b c トルコ系諸族コトバンク
  2. ^ 松原正毅「テュルク系諸民族」小松久雄+梅村坦+宇山智彦+帯谷知可+堀川徹編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年4月11日 初版第1刷発行、ISBN 4-582-12636-7、365頁。
  3. ^ 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』講談社、2007年2月16日 初版発行、ISBN 978-4-06-280705-0、30頁
  4. ^ a b 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』講談社、2007年2月16日 初版発行、ISBN 978-4-06-280705-0、31-32頁
  5. ^ a b 廣瀬哲也『テュルク族の世界 シベリアからイスタンブールまで〈ユーラシア・ブックレット No. 114〉』東洋書店、2007年10月20日第1刷発行、ISBN 978-4-88595-726-0、5頁。
  6. ^ 坂本勉『トルコ民族の世界史』慶應義塾大学出版会、2006年5月8日 初版第1刷発行、ISBN 4-7664-1278-8、18頁。
  7. ^ a b カーター・V・フィンドリー著/小松久男監訳/佐々木伸訳『テュルクの歴史 古代から近現代まで』明石書店、2017年8月15日 初版第1刷発行、ISBN 978-4-7503-4469-0、47頁。
  8. ^ 廣瀬 (2007)、6頁。
  9. ^ a b 内田吟風訳注「蠕蠕・芮芮伝 (魏書・宋書・南斉書・梁書)」内田吟風・田村実造他訳注『騎馬民族史 1 正史北狄伝〈東洋文庫 197〉』平凡社、1971年10月25日 初版第1刷発行、220頁 注8、252頁 注3、257頁 注9。
  10. ^ 小松久雄編『中央ユーラシア史 新版世界各国史 4』山川出版社、2000年10月30日 1版1刷発行、ISBN 4-634-41340-X、55頁。
  11. ^ 『史記』(匈奴列伝)、『三国志』(烏丸鮮卑東夷伝 裴注『魏略』西戎伝)、『晋書』(載記第十三、載記第十四、載記第二十三)、『魏書』(列伝第八十三)、『資治通鑑』(卷第九十四、卷第一百三、卷第一百五、卷第一百六、卷第一百七、卷第一百八)
  12. ^ a b 林俊夫「高車」、小松 (2005)、195頁。
  13. ^ 小松久雄編著『テュルクを知るための61章』明石書店、2016年8月20日 初版第1刷発行、ISBN 978-4-7503-4396-9、184~188頁。
  14. ^ 魏書』列伝第九十一「唯車輪高大,輻數至多。」、『北史』列伝第八十六「唯車輪高大,輻數至多。」
  15. ^ 『晋書』(載記第十三、載記第十四、載記第二十三)、『魏書』(列伝第八十三)
  16. ^ 小松 (2000)、55頁。
  17. ^ 小松 (2016)、184~188頁。
  18. ^ テオフィラクト・シモカッタ (Theophylact Simocatta) 『歴史』[要ページ番号]
  19. ^ 突厥碑文
  20. ^ a b 小松 (2000)、63~70頁。
  21. ^ 小松 (2016)、189~198頁。
  22. ^ 内田吟風訳注「匈奴伝 (史記・漢書)」『騎馬民族史 1 正史北狄伝〈東洋文庫 197〉』 (1971)、3頁。
  23. ^ 林俊夫「突厥」、小松 (2005)、383~384頁。
  24. ^ 森安孝夫『シルクロードと唐帝国〈講談社学術文庫 2351〉』講談社、2016年3月10日 第1刷発行p277-344
  25. ^ 小松 (2016)、199~203頁。
  26. ^ 小松 (2005年) 71~76頁。
  27. ^ 護雅夫・岡田英弘編『中央ユーラシアの世界 民族の世界史4』山川出版社、1990年6月25日 一版一刷発行、ISBN 4-634-44040-7、170~173頁。
  28. ^ 小松 (2000)、77~82頁。
  29. ^ 小松 (2000)、164~168頁。
  30. ^ 小松 (2000)、132~142、169頁。
  31. ^ 小松 (2000)、170~173頁。
  32. ^ 小松 (2016)、207~210頁。
  33. ^ a b 小松 (2000)、175~188頁。
  34. ^ 小松 (2000)、199~201頁。
  35. ^ 小松 (2000)、211~228頁。
  36. ^ 小松 (2016)、240~244頁。
  37. ^ 小松 (2000)、229~239頁。
  38. ^ 小松 (2000)、329~333頁。
  39. ^ 小松 (2000)、333~341頁。
  40. ^ 小松 (2016)、150~153頁。
  41. ^ 小松 (2000)、414~437頁。
  42. ^ レーベヂェフ編、除村吉太郎訳『ユーラシア叢書30 ロシヤ年代記』(原書房、1979年…弘文堂、1946年刊からの復刻)p210-531
  43. ^ 護 (1990)、170~173頁。
  44. ^ 小松 (2000)、143~173頁。
  45. ^ 小松 (2016)、230~240頁。
  46. ^ 小松 (2016)、106~183頁。
  47. ^ a b Wells, Spencer et al. 2001, The Eurasian Heartland: A continental perspective on Y-chromosome diversity
  48. ^ Khar'kov, VN; Stepanov, VA; Medvedeva, OF; Spiridonova, MG; Voevoda, MI; Tadinova, VN; Puzyrev, VP (2007). "Gene pool differences between Northern and Southern Altaians inferred from the data on Y-chromosomal haplogroups". Genetika 43 (5): 675–87. PMID 17633562.
  49. ^ Tambets, Kristiina et al. 2004, The Western and Eastern Roots of the Saami—the Story of Genetic “Outliers” Told by Mitochondrial DNA and Y Chromosomes
  50. ^ Rosser, ZH; Zerjal, T; Hurles, ME; Adojaan, M; Alavantic, D; Amorim, A; Amos, W; Armenteros, M et al. (2000). "Y-chromosomal diversity in Europe is clinal and influenced primarily by geography, rather than by language". American Journal of Human Genetics 67 (6): 1526–43. doi:10.1086/316890. PMC 1287948. PMID 11078479.
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  52. ^ a b Villems, Richard; Khusnutdinova, Elza; Kivisild, Toomas; Yepiskoposyan, Levon; Voevoda, Mikhail; Osipova, Ludmila; Malyarchuk, Boris; Derenko, Miroslava et al. (2015-04-21). “The Genetic Legacy of the Expansion of Turkic-Speaking Nomads across Eurasia” (英語). PLOS Genetics 11 (4): e1005068. doi:10.1371/journal.pgen.1005068. ISSN 1553-7404. PMC 4405460. PMID 25898006. https://journals.plos.org/plosgenetics/article?id=10.1371/journal.pgen.1005068. 

参考文献

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  • 春秋左氏伝
  • 史記
  • 漢書
  • 後漢書
  • 資治通鑑
  • 魏書
  • 周書
  • 隋書
  • 旧唐書
  • 新唐書
  • 内田吟風田村実造他訳注『騎馬民族史 1 正史北狄伝〈東洋文庫 197〉』平凡社、1971年10月25日 初版第1刷発行。
  • 護雅夫・岡田英弘編『中央ユーラシアの世界 民族の世界史 4』山川出版社、1990年6月25日 一版一刷発行、ISBN 4-634-44040-7
  • 小松久雄編『中央ユーラシア史 新版世界各国史』山川出版社、2000年10月30日 1版1刷発行、ISBN 4-634-41340-X
  • 小松久雄+梅村坦+宇山智彦+帯谷知可+堀川徹編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年4月11日 初版第1刷発行、ISBN 4-582-12636-7
  • 小松久雄編著『テュルクを知るための61章』明石書店、2016年8月20日 初版第1刷発行、ISBN 978-4-7503-4396-9

関連項目

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