「トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)」の版間の差分
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{{政治家 |
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[[ファイル:Thomas Howard, third Duke of Norfolk by Hans Holbein the Younger.jpg|200px|thumb|[[ハンス・ホルバイン]]による第3代ノーフォーク公爵トマス・ハワードの肖像]] |
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|人名 = 第3代ノーフォーク公爵<br/>トマス・ハワード |
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'''第3代ノーフォーク公爵トマス・ハワード'''({{lang-en-short|'''Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk'''}}、[[1473年]] - [[1554年]][[8月25日]])は、[[16世紀]]の[[イングランド]]の貴族である。父は第2代ノーフォーク公[[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]、母はエリザベス・チルニー。子にサリー伯[[ヘンリー・ハワード (サリー伯)|ヘンリー・ハワード]]等。孫に第4代ノーフォーク公[[トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]。 |
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|各国語表記 = Thomas Howard<br/>3rd Duke of Norfolk |
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|画像 = Thomas Howard, third Duke of Norfolk by Hans Holbein the Younger.jpg |
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|画像説明 = 第3代ノーフォーク公の肖像画([[ハンス・ホルバイン]]画) |
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|国略称 ={{ENG927}} |
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|生年月日 =[[1473年]] |
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|出身校 = |
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|前職 = |
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|称号・勲章 = 第3代[[ノーフォーク公|ノーフォーク公爵]]、[[ガーター勲章|ガーター勲章士]](KG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC) |
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|親族(政治家) = |
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|サイトタイトル = |
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|就任日2 = [[1524年]] |
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|国旗3 = ENG |
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|退任日3 = [[1554年]] |
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|職名4 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員 |
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|就任日4 = [[1524年]] - [[1547年]]<br/>[[1553年]] |
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|退任日4 = [[1554年]] |
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'''第3代[[ノーフォーク公爵]]、トマス・ハワード'''({{lang-en|'''Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}'''}}、[[1473年]] - [[1554年]][[8月25日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の貴族、政治家。 |
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第2代ノーフォーク公爵[[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]の息子として生まれる。[[1513年]]のスコットランド軍の侵攻を父とともに撃退したことで[[イングランド王]][[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の信任を得、その宮廷で権勢をふるった。[[1524年]]に第3代[[ノーフォーク公爵]]位を継承。姪2人([[アン・ブーリン]]、[[キャサリン・ハワード]])をヘンリー8世の王妃にしたが、この2人の姪はいずれも姦通罪で処刑された。やがて彼自身もヘンリー8世の信任を失い、[[1546年]]に[[ロンドン塔]]に投獄されたが、[[1553年]]に[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー女王]]即位に貢献したとされて釈放と復権が認められた。[[1554年]]に死去。爵位は孫の[[トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公)|トマス]]が継承した。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 公爵位継承まで === |
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[[1485年]]、祖父[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]]が[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]と共に戦死([[ボズワースの戦い]])、父も[[ロンドン塔]]に幽閉され、トマスは人質として宮廷に置かれた。解放された父が[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]に仕えていた[[1495年]]、ヘンリー7世の義妹・[[アン・オブ・ヨーク]]([[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]の王女)と[[ウェストミンスター寺院]]で式を挙げたが、彼女との子供は[[夭折]]、[[1512年]]にアンにも先立たれてしまった(後に[[バッキンガム公]][[エドワード・スタッフォード (第3代バッキンガム公爵)|エドワード・スタフォード]]の娘エリザベスと再婚、ヘンリーが生まれる)。 |
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[[1473年]]に後に第2代[[ノーフォーク公爵]]となる[[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]とその妻{{仮リンク|エリザベス・チルニー (サリー伯爵夫人)|label=エリザベス(旧姓チルニー)|en|Elizabeth Tilney, Countess of Surrey}}の息子として生まれる<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10299.htm#i102981 |title=Thomas Howard, 2nd Duke of Norfolk|accessdate= 2014-11-15 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。 |
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祖父[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]]は[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の即位に貢献し、[[1483年]]に[[ノーフォーク公爵]]位を与えられたが、[[1485年]]8月にはリチャード3世と共に戦死した([[ボズワースの戦い]])<ref name="森(1987)24">[[#森(1987)|森(1987)]] p.24-25</ref>。父トマスもリチャード3世に従って参戦し、捕虜になっていたため、[[イギリス議会|議会]]は10月に父の私権剥奪を決議した。これにより父は[[1489年]]まで監禁生活を送った<ref name="海保(1999)209">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.209</ref>。 |
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[[1513年]]、[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が[[フランス]]遠征に赴いている隙に[[スコットランド]]王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]がイングランドに侵攻、トマスは老齢の父を支えてスコットランド軍を撃破、恩賞として父が[[ノーフォーク公爵]]に叙爵された。[[1524年]]、父の死により51歳でノーフォーク公を継いだ。 |
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1489年に釈放された父は、13人の子女を使って婚姻関係でうまく勢力を伸ばしていった<ref name="森(1987)28">[[#森(1987)|森(1987)]] p.28</ref>。その一環でトマスは[[1495年]]に[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の義妹{{仮リンク|アン・オブ・ヨーク|label=アン王女|en|Anne of York, Lady Howard}}([[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]の娘)と結婚することになった。しかし彼女との子供は[[夭折]]し、また[[1512年]]にはアンに先立たれてしまった(後に[[バッキンガム公]][[エドワード・スタッフォード (第3代バッキンガム公爵)|エドワード・スタフォード]]の娘エリザベスと再婚する)<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10166.htm#i101655 |title=Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk|accessdate= 2014-11-15 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。 |
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ヘンリー8世が最初の王妃・[[キャサリン・オブ・アラゴン]]との結婚無効を考え、侍女[[アン・ブーリン]]との再婚を思いついた時、トマスはアンが姪である為支持に回った。しかし、[[1533年]]にアンは2番目の王妃になったが、生まれたのは[[エリザベス1世|エリザベス]]であり、[[1536年]]にアンが姦通罪で処刑され、トマスの当ては外れた。[[1540年]]に[[トマス・クロムウェル]]を処刑に追い込み、同時にもう1人の姪・[[キャサリン・ハワード]]がヘンリー8世の5番目の王妃になったが、[[1542年]]、やはり姦通罪で処刑された。 |
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[[1513年]]に[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の[[フランス]]遠征の隙をついて[[スコットランド]]王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]が4万のスコットランド軍を率いてイングランド侵攻を開始したが、トマスは老齢の父とともに2万6000のイングランド軍を率いてスコットランド軍を撃破し、ジェームズ4世も敗死させた。この恩賞で父の第2代ノーフォーク公爵への復権が勅許された<ref name="海保(1999)166">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.166</ref>。トマス自身は父の従属爵位サリー伯爵を[[儀礼称号]]として使用することになり、{{仮リンク|海軍卿 (イングランド)|label=海軍卿|en|Lord High Admiral}}や{{仮リンク|大蔵卿 (イングランド)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}等の官職を歴任してヘンリー8世の宮廷に仕えた<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.28-29</ref>。 |
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加えて、[[1546年]]に長男ヘンリーが反逆罪で逮捕されるとトマスもロンドン塔に収監され、翌[[1547年]]1月にヘンリーが処刑、トマスも処刑される筈だったが、直前にヘンリー8世が死去、処刑は中止された。もっとも、[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]の治世中、釈放される事もなかった。 |
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51歳の時の[[1524年]]に父が死去したことで第3代ノーフォーク公爵位を継承した<ref name="森(1987)29">[[#森(1987)|森(1987)]] p.29</ref>。 |
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[[1553年]]にエドワード6世が死ぬと摂政の[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公]][[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)|ジョン・ダドリー]]が姻戚関係に当たる[[ジェーン・グレイ]]を女王に擁立しようとすると、トマスは外の一族と連絡を取り、エドワード6世の異母姉・メアリーを匿った。やがてノーサンバランド公は逮捕され(後に処刑)、女王に即位した[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]によってトマスは釈放された。 |
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=== 二人の姪を王妃に === |
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釈放された翌[[1554年]]に81歳にて死去。ノーフォーク公は孫(ヘンリーの遺児)のトマスが継いだ。 |
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トマスがノーフォーク公を継承した頃、妹エリザベス・ブーリンの娘[[アン・ブーリン]]がフランスの宮廷仕えを終えてイングランドに帰国し、王妃[[キャサリン・オブ・アラゴン|キャサリン]]付きの女官として宮廷仕えするようになった。ヘンリー8世はいつまでも男子を産めない王妃キャサリンに嫌気がさしており、このアン・ブーリンとの再婚を考えるようになり、[[1529年]]頃から彼女と肉体関係を持ち始めたという。ノーフォーク公はそれまで姪アンにさして関心を持っていなかったが、彼女が国王の御手付きになったと知ると二人の結婚を全力で推進した。ヘンリー8世とキャサリンの離婚に反対するローマ教皇に圧力をかけたり、[[大法官]]・[[枢機卿]][[トマス・ウルジー]]を失脚させるなどの工作を行った<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.29-30</ref>。 |
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[[1533年]]にアンを2番目の王妃にすることに成功したが、生まれたのは女子の[[エリザベス1世|エリザベス王女]](後のエリザベス1世)だけあり、また[[1536年]]にアンが姦通罪で処刑されたため、ノーフォーク公の当ては外れた。なおアンに死刑判決を下した特別裁判所の裁判長はノーフォーク公が務めていた。公爵は自分の保身を優先し、姪に温情を示すことはなかったという<ref name="森(1987)30">[[#森(1987)|森(1987)]] p.30</ref>。 |
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[[1540年]]に初代[[エセックス伯爵]][[トマス・クロムウェル]]が実現させたヘンリー8世と[[ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国|ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公女]][[アン・オブ・クレーヴズ|アン]]の結婚は、ヘンリー8世の我がままによりすぐに離婚となった。この離婚準備中にヘンリー8世はノーフォーク公の弟{{仮リンク|エドムンド・ハワード (1539年没)|label=エドムンド・ハワード卿|en|Lord Edmund Howard}}の娘[[キャサリン・ハワード]]に手を付けた。ノーフォーク公はこれを利用し、結婚の失敗についてクロムウェルの責任を厳しく追及し、1540年7月28日には彼を処刑に追いやることに成功した。ついで8月8日にヘンリー8世とキャサリンの結婚を実現させた。しかしこの2年後の[[1542年]]にはキャサリンは姦通罪に問われて処刑されている<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.30-31</ref>。 |
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=== 失脚と復権 === |
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これ以降、ヘンリー8世のノーフォーク公に対する信用は低下していき、初代ハートフォード伯爵[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]](後の初代[[サマセット公爵]])ら政敵に付け入れられるようになった<ref name="森(1987)31">[[#森(1987)|森(1987)]] p.31</ref>。 |
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[[1546年]]12月には長男サリー伯爵[[ヘンリー・ハワード (サリー伯)|ヘンリー・ハワード]]とともに[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]容疑で逮捕され、[[ロンドン塔]]に投獄された。その翌年[[1547年]][[1月19日]]にまずサリー伯爵が処刑され、ついでノーフォーク公も処刑されるはずであったが、直前の1月27日にヘンリー8世が崩御したため、処刑中止となった。もっとも[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]の治世中には釈放されることはなかった<ref name="海保(1999)209">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.209</ref>。 |
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[[1553年]]のエドワード6世の崩御後、摂政である初代[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公爵]][[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)|ジョン・ダドリー]]が[[ジェーン・グレイ]]を女王に擁立した際には、自分と同じカトリックの[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー王女]](メアリー女王)を所領に匿った。その功績でメアリー女王即位後の1553年8月に釈放とノーフォーク公爵位への復権が認められた<ref name="海保(1999)209">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.209</ref><ref name="森(1987)32">[[#森(1987)|森(1987)]] p.32</ref>。 |
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[[1554年]][[8月25日]]に[[サフォーク]]の{{仮リンク|フラムリンガム城|en|Framlingham Castle}}において81歳で死去した<ref name="森(1987)32">[[#森(1987)|森(1987)]] p.32</ref>。ノーフォーク公爵位は孫(処刑された長男サリー伯爵ヘンリーの遺児)の[[トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公)|トマス]]が継いだが、この孫も[[1572年]]に[[エリザベス1世]]への大逆罪で処刑される運命にある<ref name="海保(1999)209">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.209</ref>。 |
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== 栄典 == |
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*[[1524年]][[5月21日]]、第3代[[ノーフォーク公爵]]([[1483年]]創設[[イングランド貴族]]爵位) |
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*1524年5月21日、第2代{{仮リンク|サリー伯爵|en|Earl of Surrey}}(1483年創設イングランド貴族爵位) |
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*[[ガーター勲章]]ナイト(KG) |
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== 家族 == |
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[[1495年]]に{{仮リンク|アン・オブ・ヨーク|label=アン王女|en|Anne of York, Lady Howard}}([[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]の娘)と結婚し、[[1496年]]に彼女との間に長男トマスを儲けたが、この長男は[[1508年]]に夭折した<ref name="thepeerage.com"/>。アン王女も1511年には死去した。 |
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ついで[[1512年]]に[[バッキンガム公爵]][[エドワード・スタッフォード (第3代バッキンガム公爵)|エドワード・スタフォード]]の娘{{仮リンク|エリザベス・ハワード (ノーフォーク公爵夫人)|label=エリザベス|en|Elizabeth Howard, Duchess of Norfolk}}と再婚し、彼女との間に次男[[ヘンリー・ハワード (サリー伯)|ヘンリー]](儀礼称号サリー伯爵。処刑される)、三男{{仮リンク|トマス・ハワード (初代ビンドンのハワード子爵)|label=トマス|en|Thomas Howard, 1st Viscount Howard of Bindon}}(初代ビンドンのハワード子爵に叙される)、長女{{仮リンク|メアリー・フィッツロイ (リッチモンド=サマセット公爵夫人)|label=メアリー|en|Mary FitzRoy, Duchess of Richmond and Somerset}}(初代リッチモンド公爵[[ヘンリー・フィッツロイ (初代リッチモンド公爵)|ヘンリー・フィッツロイ]]と結婚)の2男1女を儲けた<ref name="thepeerage.com"/>。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|1}}</div> |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=[[海保眞夫]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリスの大貴族|series= [[平凡社新書]]020|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582850208|ref=海保(1999)}} |
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*{{Cite book|和書|date=1987年(昭和62年)|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=[[森護]]|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=森(1987)}} |
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{{succession box | title=[[ノーフォーク公]] | before=[[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]] | after=[[トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]] | years=1524年 - 1547年、1553年 - 1554年}} |
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2014年12月13日 (土) 16:11時点における版
第3代ノーフォーク公爵 トマス・ハワード Thomas Howard 3rd Duke of Norfolk | |
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第3代ノーフォーク公の肖像画(ハンス・ホルバイン画) | |
生年月日 | 1473年 |
没年月日 | 1554年8月25日(満81歳没) |
死没地 | イングランド王国 サフォーク・フラムリンガム・フラムリンガム城 |
称号 | 第3代ノーフォーク公爵、ガーター勲章士(KG)、枢密顧問官(PC) |
在任期間 | 1513年 - 1525年 |
在任期間 | 1524年 - 1546年 |
在任期間 |
1524年 - 1547年 1553年 - 1554年 |
貴族院議員 | |
在任期間 |
1524年 - 1547年 1553年 - 1554年 |
第3代ノーフォーク公爵、トマス・ハワード(英語: Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk, KG, PC、1473年 - 1554年8月25日)は、イングランドの貴族、政治家。
第2代ノーフォーク公爵トマス・ハワードの息子として生まれる。1513年のスコットランド軍の侵攻を父とともに撃退したことでイングランド王ヘンリー8世の信任を得、その宮廷で権勢をふるった。1524年に第3代ノーフォーク公爵位を継承。姪2人(アン・ブーリン、キャサリン・ハワード)をヘンリー8世の王妃にしたが、この2人の姪はいずれも姦通罪で処刑された。やがて彼自身もヘンリー8世の信任を失い、1546年にロンドン塔に投獄されたが、1553年にメアリー女王即位に貢献したとされて釈放と復権が認められた。1554年に死去。爵位は孫のトマスが継承した。
生涯
公爵位継承まで
1473年に後に第2代ノーフォーク公爵となるトマス・ハワードとその妻エリザベス(旧姓チルニー)の息子として生まれる[1]。
祖父ジョン・ハワードはリチャード3世の即位に貢献し、1483年にノーフォーク公爵位を与えられたが、1485年8月にはリチャード3世と共に戦死した(ボズワースの戦い)[2]。父トマスもリチャード3世に従って参戦し、捕虜になっていたため、議会は10月に父の私権剥奪を決議した。これにより父は1489年まで監禁生活を送った[3]。
1489年に釈放された父は、13人の子女を使って婚姻関係でうまく勢力を伸ばしていった[4]。その一環でトマスは1495年にヘンリー7世の義妹アン王女(エドワード4世の娘)と結婚することになった。しかし彼女との子供は夭折し、また1512年にはアンに先立たれてしまった(後にバッキンガム公エドワード・スタフォードの娘エリザベスと再婚する)[5]。
1513年にヘンリー8世のフランス遠征の隙をついてスコットランド王ジェームズ4世が4万のスコットランド軍を率いてイングランド侵攻を開始したが、トマスは老齢の父とともに2万6000のイングランド軍を率いてスコットランド軍を撃破し、ジェームズ4世も敗死させた。この恩賞で父の第2代ノーフォーク公爵への復権が勅許された[6]。トマス自身は父の従属爵位サリー伯爵を儀礼称号として使用することになり、海軍卿や大蔵卿等の官職を歴任してヘンリー8世の宮廷に仕えた[7]。
51歳の時の1524年に父が死去したことで第3代ノーフォーク公爵位を継承した[8]。
二人の姪を王妃に
トマスがノーフォーク公を継承した頃、妹エリザベス・ブーリンの娘アン・ブーリンがフランスの宮廷仕えを終えてイングランドに帰国し、王妃キャサリン付きの女官として宮廷仕えするようになった。ヘンリー8世はいつまでも男子を産めない王妃キャサリンに嫌気がさしており、このアン・ブーリンとの再婚を考えるようになり、1529年頃から彼女と肉体関係を持ち始めたという。ノーフォーク公はそれまで姪アンにさして関心を持っていなかったが、彼女が国王の御手付きになったと知ると二人の結婚を全力で推進した。ヘンリー8世とキャサリンの離婚に反対するローマ教皇に圧力をかけたり、大法官・枢機卿トマス・ウルジーを失脚させるなどの工作を行った[9]。
1533年にアンを2番目の王妃にすることに成功したが、生まれたのは女子のエリザベス王女(後のエリザベス1世)だけあり、また1536年にアンが姦通罪で処刑されたため、ノーフォーク公の当ては外れた。なおアンに死刑判決を下した特別裁判所の裁判長はノーフォーク公が務めていた。公爵は自分の保身を優先し、姪に温情を示すことはなかったという[10]。
1540年に初代エセックス伯爵トマス・クロムウェルが実現させたヘンリー8世とユーリヒ=クレーフェ=ベルク公女アンの結婚は、ヘンリー8世の我がままによりすぐに離婚となった。この離婚準備中にヘンリー8世はノーフォーク公の弟エドムンド・ハワード卿の娘キャサリン・ハワードに手を付けた。ノーフォーク公はこれを利用し、結婚の失敗についてクロムウェルの責任を厳しく追及し、1540年7月28日には彼を処刑に追いやることに成功した。ついで8月8日にヘンリー8世とキャサリンの結婚を実現させた。しかしこの2年後の1542年にはキャサリンは姦通罪に問われて処刑されている[11]。
失脚と復権
これ以降、ヘンリー8世のノーフォーク公に対する信用は低下していき、初代ハートフォード伯爵エドワード・シーモア(後の初代サマセット公爵)ら政敵に付け入れられるようになった[12]。
1546年12月には長男サリー伯爵ヘンリー・ハワードとともに大逆罪容疑で逮捕され、ロンドン塔に投獄された。その翌年1547年1月19日にまずサリー伯爵が処刑され、ついでノーフォーク公も処刑されるはずであったが、直前の1月27日にヘンリー8世が崩御したため、処刑中止となった。もっともエドワード6世の治世中には釈放されることはなかった[3]。
1553年のエドワード6世の崩御後、摂政である初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリーがジェーン・グレイを女王に擁立した際には、自分と同じカトリックのメアリー王女(メアリー女王)を所領に匿った。その功績でメアリー女王即位後の1553年8月に釈放とノーフォーク公爵位への復権が認められた[3][13]。
1554年8月25日にサフォークのフラムリンガム城において81歳で死去した[13]。ノーフォーク公爵位は孫(処刑された長男サリー伯爵ヘンリーの遺児)のトマスが継いだが、この孫も1572年にエリザベス1世への大逆罪で処刑される運命にある[3]。
栄典
家族
1495年にアン王女(エドワード4世の娘)と結婚し、1496年に彼女との間に長男トマスを儲けたが、この長男は1508年に夭折した[5]。アン王女も1511年には死去した。
ついで1512年にバッキンガム公爵エドワード・スタフォードの娘エリザベスと再婚し、彼女との間に次男ヘンリー(儀礼称号サリー伯爵。処刑される)、三男トマス(初代ビンドンのハワード子爵に叙される)、長女メアリー(初代リッチモンド公爵ヘンリー・フィッツロイと結婚)の2男1女を儲けた[5]。
脚注
注釈
出典
- ^ Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 2nd Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月15日閲覧。
- ^ 森(1987) p.24-25
- ^ a b c d 海保(1999) p.209
- ^ 森(1987) p.28
- ^ a b c Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月15日閲覧。
- ^ 海保(1999) p.166
- ^ 森(1987) p.28-29
- ^ 森(1987) p.29
- ^ 森(1987) p.29-30
- ^ 森(1987) p.30
- ^ 森(1987) p.30-31
- ^ 森(1987) p.31
- ^ a b 森(1987) p.32
参考文献
- 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社〈平凡社新書020〉、1999年(平成11年)。ISBN 978-4582850208。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年(昭和62年)。ISBN 978-4469240979。
公職 | ||
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先代 エドワード・ハワード |
海軍卿 1513年 - 1525年 |
次代 初代リッチモンド=サマセット公爵 |
先代 第2代ノーフォーク公爵 |
大蔵卿 1524年 - 1546年 |
次代 初代サマセット公爵 |
紋章院総裁 1524年 - 1547年 | ||
先代 初代ノーサンバーランド公爵 |
紋章院総裁 1553年 - 1554年 |
次代 第4代ノーフォーク公 |
イングランドの爵位 | ||
先代 トマス・ハワード |
第3代ノーフォーク公爵 1524年 - 1547年 1553年 - 1554年 |
次代 トマス・ハワード |