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== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[山梨県]][[甲府市]]の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。安中夫妻は[[クリスチャン]]の家庭で、幼少時に[[カナダ・メソジスト教会|カナダ・メソジスト]]派の[[甲府教会]]において[[小林光泰]]牧師より[[幼児洗礼]]を受けている。旧姓名本名は'''安'''(あんか は。後に結婚前のペンネームとして'''安中 花子'''使用)
[[山梨県]][[甲府市]]の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。本名は'''安中 はな'''(あんなか はな)。安中夫妻は[[クリスチャン]]の家庭で、幼少時に[[カナダ・メソジスト教会|カナダ・メソジスト]]派の[[甲府教会]]において[[小林光泰]]牧師より[[幼児洗礼]]を受けている。父の逸平は駿府静岡県の小さな茶商の家に生まれ、茶の行商にカナダ・ソメジスト派協会に出入りするようにり、熱心クリスチャンとって布教の流れで甲府移り住み、そこで出会ったてつと結婚してその実家に住むようになる。教会での交流で新しい文化の影響受けた逸平は、利発な長女のはなに過剰なほどの期待をかけた


常識にとらわれず商売をそっちのけで理想を追い求める逸平は、妻の実家や親戚と揉め事が絶えず、はなが5歳の時にしがらみを断って一家で上京し、南品川で葉茶屋を営むようになる。城南尋常小学校に通うはなは、心象風景を短歌や句作にして詠んでは楽しむ幼少期を過ごした。その頃、社会主義活動に加わった逸平は特に教育の機会均等を訴え、娘の才能を伸ばすべく奔走し、[[1903年]](明治36年)、学校創設者との信仰上の繋がりから、10歳のはなを[[東洋英和女学院中学部・高等部|東洋英和女学校]]に給費生としての編入学を実現させる。一方、家族の生活は困窮しており、8人兄弟のうち高等教育を受けたのは長女のはなのみで、他の兄弟は次女と三女を残して皆養子などに出されている。はなの入学は、兄弟達の犠牲の上に成されたものであった。
その後、上京し[[東京府]][[品川]]に居住し、[[東京]]で育つ。城南小学校を卒業後に、[[1904年]]には[[東洋英和女学院中学部・高等部|東洋英和女学校]]へ編入学。同校で[[カナダ]]人[[宣教師]]から[[英語]]を学ぶ傍ら、同級生[[柳原白蓮]]の紹介で[[佐佐木信綱]]から[[万葉集]]など日本の古典文学を学ぶ。同校高等科在学中から[[アイルランド文学]]の翻訳家[[松村みね子]](歌人としての筆名に[[片山廣子]]。[[芥川龍之介]]の晩年の恋人)の勧めで童話を執筆。

=== 女学校入学 ===
東洋英和女学校で[[カナダ]]人[[宣教師]]から[[英語]]を学ぶ傍ら、同級生[[柳原白蓮]]の紹介で[[佐佐木信綱]]から[[万葉集]]など日本の古典文学を学ぶ。この頃からペンネームとして'''安中 花子'''を名乗るようになる。同校高等科在学中から[[アイルランド文学]]の翻訳家[[松村みね子]](歌人としての筆名に[[片山廣子]]。[[芥川龍之介]]の晩年の恋人)の勧めで童話を執筆。


[[1914年]]に[[東洋英和女学院中学部・高等部|東洋英和女学院高等科]]を卒業すると、英語教師として[[山梨英和中学校・高等学校|山梨英和女学校]]に赴任。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。この時期、キリスト教の夏季講座で[[市川房枝]]と出会う。
[[1914年]]に[[東洋英和女学院中学部・高等部|東洋英和女学院高等科]]を卒業すると、英語教師として[[山梨英和中学校・高等学校|山梨英和女学校]]に赴任。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。この時期、キリスト教の夏季講座で[[市川房枝]]と出会う。

2014年4月2日 (水) 17:48時点における版

村岡花子
誕生 安中はな
1893年6月21日
山梨県甲府市
死没 (1968-10-25) 1968年10月25日(75歳没)
東京都大田区
職業 児童文学者翻訳家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東洋英和女学校高等科
代表作 『赤毛のアン』翻訳
主な受賞歴 藍綬褒章(児童文学への貢献)
配偶者 村岡儆三
子供 道雄(長男・早世)、みどり(養女:妹・梅子の長女)
親族 村岡美枝村岡恵理(孫)
公式サイト 赤毛のアン記念館・村岡花子文庫
ウィキポータル 文学
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村岡 花子(むらおか はなこ、1893年明治26年)6月21日 - 1968年昭和43年)10月25日)は日本の翻訳家児童文学者児童文学の翻訳で知られ、モンゴメリの著作の多くと、エレナ・ポーターオルコットなどの翻訳を手がけた。

経歴

生い立ち

山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。本名は安中 はな(あんなか はな)。安中夫妻はクリスチャンの家庭で、幼少時にカナダ・メソジスト派の甲府教会において小林光泰牧師より幼児洗礼を受けている。父の逸平は駿府(静岡県)の小さな茶商の家に生まれ、茶の行商中にカナダ・ソメジスト派協会に出入りするようになり、熱心なクリスチャンとなって布教の流れで甲府に移り住み、そこで出会ったてつと結婚してその実家に住むようになる。教会での交流で新しい文化の影響を受けた逸平は、利発な長女のはなに過剰なほどの期待をかけた。

常識にとらわれず商売をそっちのけで理想を追い求める逸平は、妻の実家や親戚と揉め事が絶えず、はなが5歳の時にしがらみを断って一家で上京し、南品川で葉茶屋を営むようになる。城南尋常小学校に通うはなは、心象風景を短歌や句作にして詠んでは楽しむ幼少期を過ごした。その頃、社会主義活動に加わった逸平は特に教育の機会均等を訴え、娘の才能を伸ばすべく奔走し、1903年(明治36年)、学校創設者との信仰上の繋がりから、10歳のはなを東洋英和女学校に給費生としての編入学を実現させる。一方、家族の生活は困窮しており、8人兄弟のうち高等教育を受けたのは長女のはなのみで、他の兄弟は次女と三女を残して皆養子などに出されている。はなの入学は、兄弟達の犠牲の上に成されたものであった。

女学校入学

東洋英和女学校でカナダ宣教師から英語を学ぶ傍ら、同級生柳原白蓮の紹介で佐佐木信綱から万葉集など日本の古典文学を学ぶ。この頃からペンネームとして安中 花子を名乗るようになる。同校高等科在学中からアイルランド文学の翻訳家松村みね子(歌人としての筆名に片山廣子芥川龍之介の晩年の恋人)の勧めで童話を執筆。

1914年東洋英和女学院高等科を卒業すると、英語教師として山梨英和女学校に赴任。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。この時期、キリスト教の夏季講座で市川房枝と出会う。

1917年から、東京銀座のキリスト教出版社である教文館に女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務。1919年に福音印刷合資会社の経営者村岡儆三[1]と結婚し、村岡姓となる。1920年に誕生した長男を、1926年に病で失う。このことを機に、英語児童文学の翻訳紹介の道に入る。1927年、片山廣子の勧めにより、マーク・トウェインの"Prince and Pauper"を『王子と乞食』の邦題で翻訳し、平凡社から公刊。

1932年から1942年までJOAKのラジオ番組『コドモの時間』の一コーナー『コドモの新聞』に出演、「ラジオのおばさん」として人気を博した。第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、戦争遂行に協力的な姿勢を取った。また、市川房枝の勧めで婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力(その一方、婚外子への法的差別撤廃には反対した[2])。その他、文部省嘱託や行政監察委員会委員、女流文学者協会理事、公明選挙連盟理事、家庭文庫研究会会長、キリスト教文化協会婦人部委員などを歴任。1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章を受ける。1968年脳血栓で死去。

長男・道雄の病死後、子供に恵まれなかった事から、妹・梅子の長女・みどり(1932年生)を養女とする。そのみどりの娘で花子の孫にあたる村岡恵理赤毛のアン記念館館長を務めている。

クリスチャンとしては日本基督教団大森めぐみ教会の会員として、教会に通った。[3]

モンゴメリと村岡

村岡とモンゴメリとの出会いは、日本を去る宣教師のミス・ショーに手渡された『赤毛のアン』の原書、1908年の冬版であった[4]。この出会いは1939年のことで、村岡は灯火管制のもと翻訳を続けて終戦の頃に訳し終え[5]、1952年に三笠書房から出版された『赤毛のアン』は日本の読者にも広く受け入れられた。村岡はその後、アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン、果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなど、モンゴメリの作品翻訳を次々と手がける。村岡の最後の翻訳作品となった『エミリーの求めるもの』は、彼女の没後、1969年に出版された[6]山本史郎の『東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章』(東京大学出版会)は村岡の訳の中に一部が欠落していることの理由を考えた講義である。

略年表

同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。

  • 1917年から、教文館に女性向け・子供向け雑誌編集者として勤務。
  • 1919年、結婚。
  • 1920年、長男誕生。
  • 1926年、長男を疫痢で喪う。
  • 1927年マーク・トウェインの"Prince and Pauper"を翻訳し邦題『王子と乞食』として公刊。
  • 1932年から1942年までJOAK(NHK東京放送センター)のラジオ番組の『コドモの新聞』コーナーに出演、「ラジオのおばさん」として人気を博す。
  • 1939年、宣教師のミス・ショーからモンゴメリの"Anne of Green Gables" を受け取る。
  • 1952年、モンゴメリの"Anne of Green Gables" を翻訳し邦題『赤毛のアン』として公刊。
  • 1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章受賞。
  • 1963年、夫を喪う。
  • 1967年、カナダを訪問。
  • 1968年脳血栓で死去。

著訳書

訳書

創作

  • 『紅い薔薇』青蘭社 1926年
  • お山の雪 青蘭社書房 1928
  • 強い美しい女王の話・優しい孝行なお嫁の話 昭陽堂書店 1928
  • 子供のための善きひつじかひの歌 教文館出版部 1931
  • 村岡花子童話集 金の星社 1938
  • 青イクツ 新潮社 1940 (学年別新選童話集 1年生)
  • 『たんぽぽの目』鶴書房 1941
  • 『桃色の玉子』弘文社 1948
  • 花になった子供星 美和書房 1948
  • りすのゆめ 二葉書店 1949
  • きんぎょのおともだち 小峰書店 1952
  • おばさんのおはなし 金子書房 1952
  • マリヤさま 聖母ものがたり 日本書房 1958

随筆・評論

  • 母心随想 時代社 1940
  • 静に想ふ 母親教育シリーズ 新生堂 1941
  • 心の饗宴 随筆集 時代社 1941
  • わが少女の日(編)甲鳥書林 1942
  • 母心抄 西村書店 1942
  • 母の愛行 今井福治郎共著 有精堂 1943
  • 新日本の女性に贈る(編)羽田書店 1946
  • 見知らぬ国へ 労働文化社 1947
  • 『雨の中の微笑』新美社 1947
  • 光に向ふ 隆文堂 1947
  • 友情論 湘南書房 1947
  • やさしいおかあさん 寿書房 1948
  • 女学生の生活と友情論 小峰書店 1951
  • 小学生のエチケット あかね書房 1951
  • 生活の流れに棹さして 東洋経済新報社 1953 (家庭文庫)
  • 親と子 要書房 1953
  • 女性の生き甲斐 牧書房新書 1953
  • めざめたる純潔(編)三笠新書 1954
  • ナイチンゲール 赤十字のおかあさん 日本書房 1955
  • ストー夫人 講談社 1955 (世界伝記全集
  • 世界名作とその作家たち 名作を味わうために さ・え・ら書房 1957
  • ヘレン・ケラー 金子書房 1957
  • 若き母に語る 池田書店 1960
  • ママと子ども ママへの注文12章 牧書店 1961
  • 努力の偉人 苦しみをのりこえた人びと あかね書房 1962
  • 『生きるということ-村岡花子遺稿集』あすなろ書房 1969年

伝記ドラマ

関連項目

脚注

  1. ^ 賀川豊彦の妻賀川ハルのいとこで、村岡平吉の子
  2. ^ 1946年8月22日の臨時法制調査会第2回総会における発言
  3. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』1385頁
  4. ^ 村岡みどり 「初めての『赤毛のアン』」 東洋英和女学院機関紙『敬和会』52号、p. 27、1990年3月
  5. ^ アボンリーへの道(4)』 村岡美枝訳 金の星社 ISBN 9784323019734 p. 182
  6. ^ 『エミリーの求めるもの』1969年 新潮社 滑川道夫によるあとがき
  7. ^ 私の大叔母にあたる村岡花子が朝ドラに!”. 村岡希美@jojomizumi. 2014年3月28日閲覧。
  8. ^ 『連続テレビ小説 花子とアン Part1(NHKドラマ・ガイド)』NHK出版2014年ISBN 9784149235677

外部リンク