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'''磯部 検蔵{{Sfn|日本医科大学80周年記念誌出版委員会|1983|p=95}}'''(いそべ けんぞう、[[明治]]5年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]([[1872年]][[11月13日]]) - [[1949年]]([[昭和]]24年)[[8月3日]])は、[[日本]]の[[医師]]、{{要出典範囲|医学者|date=2024年12月}}。[[日本医科大学]]の前身・[[日本医学校]]の創立に幹事として関与し、のちに日本医科大学の維持員となった。かつては日本医科大学の創立者{{Sfn|日本医科大学80周年記念誌出版委員会|1983|p=2}}とも称されたが、現在は誇称とされている'''{{Sfn|唐沢|1995|pp=66-67}}'''。'''検三{{Sfn|唐沢|1995|p=56}}'''とも。 |
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'''磯部 検蔵'''(いそべ けんぞう)は、[[日本]]の[[医師]]、医学者。[[日本医科大学]]の創立者。 |
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[[明治]]5年([[1872年]])10月13日、[[長門国]][[厚狭郡]](現・[[山口県]][[山陽小野田市]][[埴生]])の医師・重枝化甫の三男として生まれ{{Sfn|日本医科大学80周年記念誌出版委員会|1983|p=95}}、磯部禎太郎の養子となった<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=小川功|author-link=小川功 (経営学者)|year=2007|date=2007-9-28|title=“虚業家”による誇大妄想計画の蹉跌―亜細亜炭礦,帝国土地開拓両社にみるハイリスク選好の顛末―|url=https://hdl.handle.net/10441/802|journal=彦根論叢|issue=368|pages=45-64|publisher=滋賀大学経済経営研究所|issn=0387-5989}}</ref>。 |
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[[長門国]](現在の[[山口県]])に生まれる。[[長谷川泰]]の創立した[[済生学舎]]に学び、医術開業試験に合格し[[医師]]となる。1903年、長谷川が済生学舎の大学昇格を[[文部省]]によって拒絶されたことに憤慨し[[済生学舎]]を閉校した際、残された学生・教員と共に翌年、[[日本医学校]]を創立する。校長には[[山根正次]]を就任させ、磯部は学監として日本医学校の基礎を築いた。 |
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日本医学校は、[[専門学校令]]による[[日本医学専門学校]]、1906年、[[大学令]]による[[旧制]]日本医科大学、1949年の[[新制]]日本医科大学となり、[[慶應義塾大学]][[医学部]]、[[東京慈恵会医科大学]]と共に、「'''私立医大御三家'''」と称されるまでになり、'''私立医大の名門'''として日本医学界に学閥を形成している。済生学舎卒業生の[[吉岡弥生]]によって[[東京女子医科大学]]が、日本医学専門学校を退学した学生によって[[東京医科大学]]が、日本医科大学卒業生の[[丸木清美]]によって[[埼玉医科大学]]がそれぞれ創立されていることから、[[北里柴三郎]]が創立に尽力した[[慶應義塾大学]]医学部、[[薩摩]]閥の[[海軍]][[軍医総監]]を歴任した[[高木兼寛]]の[[東京慈恵会医科大学]]と共に[[長谷川泰]]の[[済生学舎]]の流れをくむ[[日本医科大学]]は、私立医科大学の歴史における三大潮流である。 |
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[[長谷川泰]]の創立した[[済生学舎]]に学び{{Sfn|日本医科大学80周年記念誌出版委員会|1983|p=95}}、明治33年([[1900年]])、医師免状を受ける{{Sfn|唐沢|1995|p=57}}。その後[[日本橋浜町]]で開業医となった{{Sfn|日本医科大学80周年記念誌出版委員会|1983|p=95}}。 |
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== 関連項目 == |
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* [[医術開業試験]] |
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* [[済生学舎]] |
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* [[日本医科大学]] |
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* [[東京医科大学]] |
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* [[東京女子医科大学]] |
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* [[埼玉医科大学]] |
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[[山根正次]]とは同郷であり、山根の書生であったほか、山根が警視庁第三部長のころはその秘書となっていた{{Sfn|唐沢|1995|pp=56,61}}。 |
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* [[長谷川泰]] |
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明治37年([[1904年]])4月に山根を校長として日本医学校が創立されると、幹事(定数1名)としてその庶務を取り扱った{{Sfn|唐沢|1995|pp=54-56}}。同年10月に『日本醫学』を発刊し村田犀川とともに主幹となった{{Sfn|日本医科大学80周年記念誌出版委員会|1983|p=278}}。 |
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* [[吉岡弥生]] |
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* [[荻野吟子]] |
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明治43年([[1910年]])に山根校長が[[大韓帝国|韓国]]衛生顧問として[[京城府|京城]]に赴任したため、校長代理として権力を伸ばした{{Sfn|唐沢|1995|p=60}}。 |
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* [[野口英世]] |
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* [[山根正次]] |
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明治45年([[1912年]])の[[財団法人]]・日本医学専門学校設立申請の際は、申請者の筆頭に名を連ねている{{Sfn|唐沢|1995|pp=63-65}}。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書 |title=日本医科大学80周年記念誌 |date=1983-11-12 |year=1983 |publisher=学校法人日本医科大学 |ref=harv |editor=日本医科大学80周年記念誌出版委員会 |doi=10.11501/12116547}}{{要登録}} |
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* {{Cite journal|和書|last=唐沢|first=信安|author=唐沢信安|year=1995|date=1995-3-20|title=済生学舎廃校後の各種講習会及び私立東京医学校・私立日本医学校|journal=日本医史学雑誌|volume=41|issue=1|pages=41-73|publisher=日本医史学会|ref=harv|doi=10.11501/3359346|issn=0549-3323}} |
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磯部 検蔵[1](いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872年11月13日) - 1949年(昭和24年)8月3日)は、日本の医師、医学者[要出典]。日本医科大学の前身・日本医学校の創立に幹事として関与し、のちに日本医科大学の維持員となった。かつては日本医科大学の創立者[2]とも称されたが、現在は誇称とされている[3]。検三[4]とも。
経歴
[編集]明治5年(1872年)10月13日、長門国厚狭郡(現・山口県山陽小野田市埴生)の医師・重枝化甫の三男として生まれ[1]、磯部禎太郎の養子となった[5]。
長谷川泰の創立した済生学舎に学び[1]、明治33年(1900年)、医師免状を受ける[6]。その後日本橋浜町で開業医となった[1]。
山根正次とは同郷であり、山根の書生であったほか、山根が警視庁第三部長のころはその秘書となっていた[7]。
明治37年(1904年)4月に山根を校長として日本医学校が創立されると、幹事(定数1名)としてその庶務を取り扱った[8]。同年10月に『日本醫学』を発刊し村田犀川とともに主幹となった[9]。
明治43年(1910年)に山根校長が韓国衛生顧問として京城に赴任したため、校長代理として権力を伸ばした[10]。
明治45年(1912年)の財団法人・日本医学専門学校設立申請の際は、申請者の筆頭に名を連ねている[11]。
大正5年(1916年)、磯部は専任理事兼学監を務めていたが、医術開業試験の廃止に伴う文部省による医学専門学校指定を受けられなかったために学生400名余りが退学(彼らが学生となって新たに設立されたのが東京医学専門学校である)、大正7年(1918年)に引責辞任することとなった[12][13]。
大正9年(1920年)戸水寛人を創立委員長とする「亜細亜炭礦株式会社」に創立委員として関与、同社は資本金1000万円、買収により一大炭鉱会社となすと称したが内実のない泡沫会社であったために翌年には解散、磯部も東京地裁に喚問された[5]。大正11年(1922年)に満洲に渡り『ハルピン日々新聞』を創刊[14]。
大正6年(1917年)4月から昭和3年(1928年)2月まで4度にわたり衆議院議員総選挙に出馬しているが、いずれも落選している[15]。
昭和9年(1934年)6月2日、磯部は同窓会幹部30名余りを集め、自身が日本医科大学の前身・日本医学校・日本医学専門学校の創立者であるという旨の演説を行い、長沢米蔵・河野勝斎らを味方につけ、当時の学長・塩田広重と争い、上に述べたように財団法人設立筆頭申請者であったこともあり勝利を収めた[16]。磯部は大学の「維持員」となるとともに[17]、昭和15年(1940年)編纂の『日本医科大学十五年記念誌』では「川上元治郎氏は・・・磯部検蔵氏を慫慂して学校の設立を要求し、磯部氏は先輩山根正次氏に諮り遂に私立日本医学校の設立を申請し・・・[18]」と記述され、以降の校史でも磯部を創立者とする記述が踏襲された[10]。
昭和24年(1949年)8月3日、日本医科大学付属病院で死去[1]。葬儀は駒込の吉祥寺で大学葬として営まれた[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, p. 95.
- ^ 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, p. 2.
- ^ 唐沢 1995, pp. 66–67.
- ^ 唐沢 1995, p. 56.
- ^ a b 小川功「“虚業家”による誇大妄想計画の蹉跌―亜細亜炭礦,帝国土地開拓両社にみるハイリスク選好の顛末―」『彦根論叢』第368号、滋賀大学経済経営研究所、2007年9月28日、45-64頁、ISSN 0387-5989。
- ^ 唐沢 1995, p. 57.
- ^ 唐沢 1995, pp. 56, 61.
- ^ 唐沢 1995, pp. 54–56.
- ^ 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, p. 278.
- ^ a b 唐沢 1995, p. 60.
- ^ 唐沢 1995, pp. 63–65.
- ^ 唐沢信安「財団法人日本医学専門学校の学校騒動と私立東京医学専門学校の独立分離(下)」『日本医史学雑誌』第42巻第4号、日本医史学会、1996年12月20日、49-64頁、doi:10.11501/3359353、ISSN 0549-3323。
- ^ 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, pp. 34–37.
- ^ 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, p. 96.
- ^ 唐沢 1995, p. 63.
- ^ 唐沢 1995, pp. 62–65.
- ^ 唐沢 1995, p. 65.
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年12月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 編『日本医科大学80周年記念誌』学校法人日本医科大学、1983年11月12日。doi:10.11501/12116547。(要登録)
- 唐沢, 信安「済生学舎廃校後の各種講習会及び私立東京医学校・私立日本医学校」『日本医史学雑誌』第41巻第1号、日本医史学会、1995年3月20日、41-73頁、doi:10.11501/3359346、ISSN 0549-3323。