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「アポロ7号」の版間の差分

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{{Infobox Space mission |
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'''アポロ7号'''は、[[1968年]]に[[アメリカ合衆国]]によって実行された[[有人宇宙飛行]]計画である。[[アポロ計画]]において、飛行士を[[宇宙]]に送るのはこれが初めてのことであった。また1967年に発生した、三人の[[宇宙飛行士]]の命を奪った[[アポロ1号]]の火災事故の後、アメリカが有人宇宙飛行計画を再開して[[人工衛星の軌道|地球周回低軌道]]上に人間を送るのも、これが初めてであった。アポロ初の有人宇宙飛行はAS-204の計画番号を当てられていたアポロ1号が行うはずだったが、代わりに7号が、1号が行う予定であった任務を引き継ぐこととなった。船長は[[ウォルター・シラー]]、[[アポロ司令・機械船#司令船|司令船]]操縦士は[[ドン・エイゼル]]、[[アポロ月着陸船|月着陸船]]操縦士は[[ウォルター・カニンガム]]であった。
'''アポロ7号'''は、[[アポロ計画]]において初の有人飛行を行った、11日間の地球周回軌道滞在ミッションである。また[[サターンロケット|サターンIB]][[ロケット]]による最初の有人飛行船打上げであり、3人の宇宙飛行士が搭乗した初のアメリカのミッションでもあった。


この計画は「Cタイプミッション」と呼ばれるもので、1号の火災事故ののち大幅に設計を見直された「ブロック2」と呼ばれるアポロ司令・機械船に飛行士を搭乗させ、11日間の地球周回飛行の試験を行うものであった。また[[サターンIB|サターンIB型ロケット]]を使って一度に三人の飛行士を宇宙に送り、さらに宇宙空間からアメリカ全土に[[テレビ中継]]を行うのも、これが初めての試みだった。
== 乗員 ==

7号は1968年[[10月11日]]、フロリダ州の[[ケープカナベラル空軍基地]][[ケープカナベラル空軍基地第34発射施設|第34発射施設]]から打ち上げられた。飛行中、管制官と飛行士の関係は一時険悪な状態に陥ったものの、技術的に見れば計画は完全に成功裏に終了し、[[NASA]]はこの2ヶ月後に行われる予定であった[[月]]を周回する[[アポロ8号]]の計画実行への自信を深めることとなった。しかしながら3人の乗組員たちの宇宙飛行士としてのキャリアは、1968年10月22日に[[大西洋]]上に着水した瞬間に終わりを告げた。またケープカナベラル空軍基地から次に有人[[宇宙船]]が打ち上げられたのは56年後の[[ボーイング有人飛行試験|Boe-CFT]]([[2024年]][[6月5日]]打ち上げ)である。

==搭乗員==
* [[ウォルター・シラー]] ([[マーキュリー・アトラス8号]]、[[ジェミニ6-A号]])、船長
* [[ウォルター・シラー]] ([[マーキュリー・アトラス8号]]、[[ジェミニ6-A号]])、船長
* [[ドン・エイゼル]] (初飛行)、司令船パイロット
* [[ドン・エイゼル]] (初飛行)、司令船パイロット
* [[ウォルター・カニンガム]] (初飛行)、月着陸船パイロット
* [[ウォルター・カニンガム]] (初飛行)、月着陸船パイロット
このチームはもともと、不幸な事故に見舞われた[[アポロ1号]]のバックアップ・クルーだった。
このチームはもともと、[[アポロ1号]]のバックアップ・クルーだった。


=== バックアップ ===
===予備搭乗員===
* [[トーマス・スタッフォード]]、(ジェミニ6-A号, [[ジェミニ9-A号]], [[アポロ10号]], [[アポロ・ソユーズテスト計画]])、船長
* [[トーマス・スタッフォード]]、(ジェミニ6-A号, [[ジェミニ9-A号]], [[アポロ10号]], [[アポロ・ソユーズテスト計画]])、船長
* [[ジョン・ヤング (宇宙飛行士)|ジョン・ヤング]]、([[ジェミニ3号]], [[ジェミニ10号]], アポロ10号, [[アポロ16号]], [[STS-1]], [[STS-9]])、司令船パイロット
* [[ジョン・ヤング (宇宙飛行士)|ジョン・ヤング]]、([[ジェミニ3号]], [[ジェミニ10号]], アポロ10号, [[アポロ16号]], [[STS-1]], [[STS-9]])、司令船パイロット
* [[ユージン・サーナン]]、(ジェミニ9-A号, アポロ10号, [[アポロ17号]])、月着陸船パイロット
* [[ユージン・サーナン]]、(ジェミニ9-A号, アポロ10号, [[アポロ17号]])、月着陸船パイロット


=== サポート ===
===支援飛行士===
* [[ロナルド・エヴァンス]]、(アポロ17号)
* [[ロナルド・エヴァンス]]、(アポロ17号)
* [[エド・ギヴンズ]]、(自動車事故で死亡のため宇宙飛行の実績なし)
* {{仮リンク|エド・ギヴンズ|en|Edward Givens}}、(自動車事故で死亡のため宇宙飛行の実績なし)
* [[ジャック・スワイガート]]、([[アポロ13号]])
* [[ジャック・スワイガート]]、([[アポロ13号]])
* [[ビル・ポーグ]]、(スカイラブ4 ([[:en::en:Skylab 4|:en:Skylab 4]]))
* [[ウイリアム・ポーグ]]、([[スカイラブ4]])

==主要な任務==

===発射以前===
[[File:Apollo 7 Launch - GPN-2000-001171.jpg|thumb|アポロ7号の発射]]
7号は試験飛行であり、アポロ計画遂行への自信を構築するためのものであった。1967年の火災事故の後、司令船は大幅に設計を見直された。新型宇宙船の、いわば慣らし運転とも言えるこの地球周回飛行の指揮をとったのは、[[マーキュリー計画|マーキュリー]]、[[ジェミニ計画|ジェミニ]]、アポロの三つの有人宇宙飛行計画すべてに搭乗した経験を持つ唯一の飛行士である、ウォルター・シラーであった<ref name="Schirra's Obituary">{{cite news |last=Watkins |first=Thomas |date=2007-05-03 |title=Astronaut Walter Schirra dies at 84 |url=http://www.valleymorningstar.com/news/latest_news/article_b5ab61b9-cbe9-5db5-b76f-8cfd89096919.html |newspaper=[[Valley Morning Star]] |agency=[[Associated Press]] |location=Harlingen, Texas |accessdate=2013-10-04}}</ref>。

搭乗員たちは生命維持装置・推進システム・誘導および制御システムの試験を、この「オープンミッション」と呼ばれる期間中に行うことになっていた。オープンミッションとは、各試験は合格と判定された後もさらに延長して行われることがあり、最大11日まで軌道上にとどまるというものであった<ref>{{cite news |last=Karrens |first=Ed (Announcer) |year=1968 |title=1968 Year in Review: 1968 in Space |url=http://www.upi.com/Archives/Audio/Events-of-1968/1968-in-Space |work=UPI.com |type=Radio transcript |publisher=[[E. W. Scripps]] |agency=[[United Press International]] |accessdate=2013-07-06}}</ref>。7号は地球周回低軌道を飛行し、月着陸船を使用しないものであったため、発射用のロケットにはより大型で強力な[[サターンV|サターン5型ロケット]]ではなく、サターンIBが使用された<ref name="Saturn IB history">{{cite journal |last=Portree |first=David S. F. |date=2013-09-16 |title=A Forgotten Rocket: The Saturn IB |url=http://www.wired.com/wiredscience/2013/09/a-forgotten-rocket-the-saturn-ib/ |journal=[[Wired (magazine)|Wired]] |location=New York |publisher=[[Condé Nast]] |accessdate=2013-10-04}}</ref>。

マーキュリー計画とジェミニ計画で宇宙船発射チームの責任者を務めたのは、[[マクドネル・エアクラフト]]社の技術者[[ギュンター・ウェント]] (Guenter Wendt) で、発射の際の宇宙船の状態に関するすべての責任を負っていた。彼はシラーたち宇宙飛行士の尊敬と信頼を勝ち得ていた<ref name="Guenter Wendt Obit">{{cite website |url=http://www.collectspace.com/news/news-050310a.html |title=Guenter Wendt, 86, 'Pad Leader' for NASA's moon missions, dies |last=Pearlman |first=Robert Z. |authorlink=Robert Pearlman |date=2010-05-03 |website=[[collectSPACE]] |publisher=Robert Pearlman |accessdate=2014-06-12}}</ref> が、宇宙船製作の契約企業がマクドネル社から[[ロックウェル・インターナショナル]]社に変更されたことにより、アポロ1号においてはウェントは責任者ではなくなっていた<ref name="FirstOnTheMoon">Farmer & Hamblin 1970, pp. 51–54</ref>。だがシラーはウェントをアポロ計画の発射チームの責任者に復活させることを断固として望んでいたため、上司の[[ドナルド・スレイトン]]に対し、マクドネル社からウェントを引き抜くようロックウェル社を説得してほしいとかけあった。一方でウェントもロ社に対して密かにロビー活動をして、自分の勤務を夜勤から日勤に変更してもらったりしていた。このような背景もあり、アポロ計画ではウェントが発射チームの責任者に復活することとなった<ref name="FirstOnTheMoon" />。発射の際、飛行士たちが宇宙船のハッチが閉まる直前に見るのはウェントの顔だった。またエイゼルは7号の発射直後に、無線を通して「ギュンター・ウェントはどこにいるんだ? (I vonder vere Guenter Vendt? = I wonder where Gunter Vendt?)」と、[[ドイツ]]訛りの英語で冗談を言ったりしていた<ref name="FirstOnTheMoon" />。

===軌道上での作業===
[[File:Apollo 7 Rondevouz.jpg|thumb|[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]実験の際に撮影された、第二段ロケット[[S-IVB]]。右上の保護パネルが、他のものと同じ角度に開いていないことに注目。]]
宇宙船が軌道に投入され、第二段ロケット[[S-IVB]]から分離された後、飛行士たちは姿勢制御用ロケットを噴射して宇宙船の向きを180度反転させ、S-IVBを目標にして[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]と[[宇宙機のドッキングおよび係留|ドッキング]]のシミュレーションを行った。月飛行の際には、このときに着陸船とのドッキングが行われる。ところがこのとき、保護パネルの一つが正規の45度の位置まで開ききっていなかった。管制官のトム・スタッフォード (Tom Stafford) はこのとき、ジェミニ9号で発生した似たような事態を思い出していた。ドッキング訓練のために打ち上げられていた無人のアジェナ衛星のフェアリングが完全に開ききっていなかったため、ドッキングが実施できなかったのである。実際の月飛行のときにこのような事態が発生したら、着陸船を格納庫から抽出するのが困難になるのは明白だった (着陸船はこの保護パネルの中に格納される)。このため8号からは、パネルは完全に分離して投棄されるように仕様が変更された<ref name="astronautix.com">{{cite web |url=http://www.astronautix.com/flights/apollo7.htm |title=Apollo 7 |last=Wade |first=Mark |website=[[Encyclopedia Astronautica]] |accessdate=2008-10-24}}</ref>。

宇宙船の機器類およびすべての作業は何の問題もなく進行した。またアポロ宇宙船を月軌道に投入したり、あるいは月軌道から地球に帰還する際に重要な役割を果たす機械船の主エンジン (Service Propulsion System, SPS。機械船推進システム) は合計8回の燃焼試験を行い、推力の誤差は1パーセント以内に収まった。

サターンIBロケットは非常にスムーズに発射されたのに対し、SPSは最初に噴射した瞬間に激しい揺れを発生した。心の準備ができていなかったシラー船長は「ヤバダバドゥー! (Yabbadabbadoo!)」と、[[原始家族フリントストーン]]を真似して奇声を発した。エイゼル飛行士はこのときの様子を、「本当に後ろから蹴とばされたようだった」と述べた<ref>{{cite web |url= https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19760072144_1976072144.pdf |title= Apollo 7 Mission Report |date= 1968-12-01 | publisher=NASA |pages=5–158 |format=PDF|accessdate=2014-07-11}}</ref>。

アポロ宇宙船は、それ以前のマーキュリー宇宙船やジェミニ宇宙船に比べるとかなり大型のもので、飛行士たちは船内をある程度移動することができた (マーキュリーとジェミニでは、飛行士は座席に縛りつけられてほとんど身動きできなかった)。そのため当初は、飛行士が動くと宇宙船の姿勢を安定させるのが困難になるのではないかと懸念されていたが、それは杞憂に過ぎなかった。飛行士たちは、無重力の環境で体を動かすのは「信じられないほど簡単だ」と報告した。また胎児のように丸まった姿勢で睡眠をとるのは窮屈で苦痛を強いるものであるため、Exer-Genieというストレッチ器具が用意されていた<ref name="astronautix.com" />。

さらに彼らにはもう一つ、宇宙船内から初めて全米にテレビ中継をするという任務があった。1963年に[[ゴードン・クーパー]]飛行士がマーキュリー9号でスロースキャンカメラを使って映像を送ったことはあったが、テレビで放映されることはなかった<ref name="Apollo video camera">Steven-Boniecki 2010, pp. 55–58</ref>。中継は飛行二日目の正午に予定されていたが、シラーはこれがランデブー実験を阻害するのではないかと懸念していた<ref name="Schirra Cancels TV">{{cite news |title=Schirra rules no telecast |url=https://news.google.com/newspapers?id=UjQ_AAAAIBAJ&sjid=cVEMAAAAIBAJ&dq=apollo%207%20television%20broadcast&pg=1799%2C3226547 |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |newspaper=[[Windsor Star|The Windsor Star]] |date=1968-10-12 |agency=United Press International |location=Windsor, Ontario |page=1 |accessdate=2013-10-06}}</ref>。

===宇宙での「反乱」===
アポロ宇宙船の比較的広い船内はジェミニに比べるとより快適なものではあったが、11日間の飛行は搭乗員たちにとって決して有益なものではなく、結果的に彼らの飛行士としての経歴に終止符を打たせるものとなった。

シラーとの確執は、飛行主任が発射を決定したときから始まっていた。管制官はロケットが上昇していく初期の段階で、万が一問題が発生して飛行を中止するには決して理想的な状態ではなかったにもかかわらず発射を決断したのである。

軌道に到達すると、広い船室は飛行士たちに[[宇宙酔い]]をもたらした。これは宇宙開発の初期のころの狭い宇宙船では問題とはならなかったものだった。また彼らは食事のメニュー、特に高エネルギー補給のデザートに不満を持っていた。さらにゴミ収集システムは扱いづらく (使用するのに30分かかった)、悪臭を発した。しかしながら最も大きな問題は、シラーがひどい鼻風邪をひいたことであった。そのため彼は管制センターからの要求にイライラするようになり、他の飛行士たちも管制官に「口答え」をし始めた。以下は管制センターが船内のテレビカメラのスイッチを入れるように要求した際に交わされた会話である。
[[Image:Walter Schirra on Apollo 7.jpg|thumb|飛行9日目、シラーが船長席の前にあるランデブー用窓から外を眺める様子。]]
<blockquote>
'''シラー''':君はこの飛行計画に余計なことを二つ付け加えた。小便を船外に排出することもそうだ。そして我々が今ここに持っているのは新型の乗物だ。そして私が現時点で確実に言えるのは、テレビ (中継) が何ら議論を進めることもなく[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]の後にまでずれ込むだろうということだ。<br />
'''管制官 ([[ジャック・スワイガート]]) ''' : もう一度言ってくれ。<br />
'''シラー''':了解。<br />
'''管制官1 ([[ドナルド・スレイトン]]) ''':アポロ7号、こちらは管制官1だ。<br />
'''シラー''':了解。<br />
'''管制官1''':この件で我々のすべてが合意したのは、スイッチをつける事だ。<br />
'''シラー''':(……) 7号の二人の司令官とだな。<br />
'''管制官1''':この特別な行為について我々が合意したのは、スイッチをオンにすることだ。他の行為はテレビ撮影には伴わない。我々はまだこれ (テレビ撮影) をする義務があると思うんだ。<br />
'''シラー''':我々はまだ機器を取り出していないし、セッティングをする機会もなかった。現時点で我々はまだ食事を取っていないし、おまけに俺は風邪をひいているんだ。こんなやり方でスケジュールを台無しにするのは拒否する<ref>{{cite web |url=http://www.jsc.nasa.gov/history/mission_trans/AS07_TEC.PDF |title=Apollo 7 Air-to-Ground Voice Transcriptions |publisher=NASA |pages=117–118 |format=PDF |accessdate=2008-10-24}}</ref>。
</blockquote>

管制センターと飛行士たちの関係を悪化させることになったさらなる原因は、シラーがくり返し「[[大気圏再突入]]はヘルメットをかぶらないで行うべきだ」との見解を表明したことだった (マーキュリー計画やジェミニ計画では、飛行士は最後までヘルメットを着用していた)。彼らは風邪で[[副鼻腔]]の圧力が高まっていることにより、[[鼓膜]]が破れるかもしれないという危険性を認識していた。そのため再突入の最中に[[耳#中耳|鼓室]]の圧力が高まってきたら、鼻をつまんで息を抜き、圧力を均等化できるようにすることを望んでいたのである。アポロで使用されるヘルメットはそれ以前のものとは違い、可動型のバイザーがついていない「金魚鉢」のような構造であったため、ヘルメットをかぶっていてはこの行為をすることは不可能であった。しかしながらシラーは、飛行中はヘルメットは安全上の理由から着用しておくようにとくり返し指示されていた。この件に関して管制センターと交わされた最後の会話では、シラーが命令を馬鹿にして無視したような態度をとったことに対して明確な説明をするよう、管制官が求めていた。
<blockquote>
'''管制官1 (スレイトン)''':よろしい。私が思うに、君は我々がヘルメットを着用しないで再突入するということに全く経験がないということを、はっきりと理解すべきだ。<br />
'''シラー''':それを言うなら、ヘルメットを着用して帰還した経験だってないだろう。<br />
'''管制官''':それについては、我々はすでに十分な経験を積んでいるんだ。そうだろう。<br />
'''シラー''':もしオープン型のバイザーをしていれば、俺もそれに従っていただろうさ。<br />
'''管制官''':オーケー。なぜオープン型のヘルメットを載せていなかったかについては、着陸するまでにゆっくり議論する準備をしていればいい。いずれにしても今からメットを着用しないで再突入を試みるのは遅すぎる。<br />
'''シラー''':それは承服しかねる。そこにいる連中は我々が今かぶっているメットを自分で着けてみたことなんてないだろう。<br />
'''管制官''':そうだな。<br />
'''シラー''':俺たちは今朝つけたんだ。<br />
'''管制官''':それは分かっている。我々が唯一懸念しているのは、着陸のことだ。確かに我々は再突入に関して十分に考えていなかった。だが、今はそれがネックなんだ。そして我々は君にルールを破ってほしくないんだ。<br />
'''シラー''':そうかい、ありがとよ。<br />
'''管制官''':以上だ<ref>{{cite web |url=http://www.jsc.nasa.gov/history/mission_trans/AS07_TEC.PDF |title=Apollo 7 Air-to-Ground Voice Transcriptions |publisher=NASA |page=1170 |format=PDF |accessdate=2008-10-24}}</ref>。
</blockquote>


このような会話は、エイゼルとカニンガムを将来的な飛行計画からはじき出す結果となった (シラーはすでにNASAから引退することを表明していた)<ref name="astronautix.com" />。
== 集計 ==
* 重量: 14,781 kg


===大気圏再突入およびその後の評価===
=== 軌道諸元 ===
着水点は{{coord|27|32|N|64|04|W}}、[[バミューダ諸島]]の南南西{{convert|200|nmi|km}}、回収船[[エセックス (空母)|エセックス]]の北方{{convert|7|nmi|km|abbr=on}}であった<ref name="astronautix.com" />。
* [[近地点]]: 231 km
* [[遠地点]]: 297 km
* [[軌道傾斜角]]: 31.63°
* [[公転周期|周期]]: 89.78 分


乗組員と管制官の間に問題は発生したものの、新型司令・機械船の飛行試験をするという計画自体は成功裏に終了し、このわずか2ヶ月後に予定されていた8号の月周回飛行を押し進めることとなった<ref name="Apollo Crew Honored 2008">{{cite web |url=http://www.collectspace.com/news/news-102008a.html |title=First Apollo flight crew last to be honored |last=Pearlman |first=Robert Z. |date=2008-10-20 |website=collectSPACE |publisher=Robert Pearlman |accessdate=2014-06-12}}</ref>。7号はアポロ計画において、ケープケネディ空軍基地の34番発射複合施設から打ち上げられた唯一の事例であった<ref group="注">空軍基地は当初はケープ・カナベラルと命名されていたが、1963年11月の[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ大統領]]の暗殺直後に[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン大統領]]によってケープ・ケネディと改名された。「カナヴェラル (Canaveral) の名称は1973年に元に戻された</ref>。その後のアポロ計画と[[スカイラブ計画]]および[[アポロ・ソユーズテスト計画]]は、すべて[[ケネディ宇宙センター]]の近くにある[[ケネディ宇宙センター第39複合発射施設|39番発射複合施設]]から打ち上げられた<ref name="Saturn IB history" />。34番施設は1969年に余分なものであるとして取り壊されることが決定し、7号は[[20世紀]]においてケープ・カナヴェラルから打ち上げられた最後の有人飛行となった<ref name="Saturn IB history" />。2014年現在において、当時の乗組員で存命しているのはカニンガムだけである。エイゼルは1987年、シラーは2007年に死去している<ref name="Schirra's Obituary" /><ref name="Apollo Crew Honored 2008" />。
=== S-IVBロケット(サターンIBロケット第2ステージ)とのランデヴー ===
* [[1968年]][[10月12日]]、20:58:28 UTC より25分間
<!--
Stationkeeping with spent S-IVB rocket stage was performed for 25 minutes.
-->


==7号が残したもの==
== ミッションのハイライト ==
===後の評価===
[[Image:As7-3-1545.jpg|thumb|right|300px|アポロ7号から見たS-IVBロケット (NASA)]]
2008年10月、NASAのマイケル・グリフィン (Michael D. Griffin) 長官はアポロ7号の乗組員たちに対し、アポロ計画に多大な貢献をしたとしてNASA功労賞 (NASA's Distinguished Service Medal) を授与した。彼らはアポロ計画とスカイラブ計画において、同賞を授かっていない唯一の飛行士たちであった。カニンガムはすでに逝去している他の飛行士および[[ニール・アームストロング]] (Neil Armstrong)、[[ウィリアム・アンダース]] (Bill Anders)、[[アラン・ビーン]] (Alan Bean) などのアポロ計画の他の飛行士たちを代表して受賞した。管制センターの前飛行指揮官クリストファー・クラフト (Christopher C. Kraft, Jr.) は、かつては計画において飛行士たちと対立したが、祝福のビデオメッセージを送って以下のように述べた。
アポロ7号は、使用機材の信頼性の確立を目的としていた。[[1967年]]の[[アポロ1号]]炎上事件の後、アポロ司令船は大幅に改設計された。マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画のすべてに搭乗した唯一の宇宙飛行士であるシラーには、司令機械船の地球周回軌道における慣熟飛行を託されていた。この飛行には月着陸船を伴わなかったので、より大型で強力な[[サターンVロケット|サターンV]]ではなく、サターンIBロケットで打上げることができた。


「我々はかつてあなたに辛い時を与えたが、あなたはそれを見事に切り抜け、それ以来実にすばらしく過ごして来られた…。私は素直に、誇りを込めてあなたを友人と呼ばせていただきたい<ref name="Apollo Crew Honored 2008" />。」
アポロ宇宙船のハードウェアとミッション上の諸操作はさしたる問題もなく完了し、月軌道への投入と離脱に用いられる補助推進システム(SPS: Service Propulsion System)およびすべての重要なエンジンは8回の噴射で完全な作動を示した。アポロ宇宙船の船室はジェミニのそれよりも大きく快適であったが、それでも11日間の軌道滞在は宇宙飛行士にとって辛いものだった。食事はひどく、
3人の乗員は風邪をひいてしまった。その結果、船長のシラーはミッション・コントロールからの指令に対して過敏に反応するようになり、通信主任に対して、3人は口々にこれ以上のミッション続行は出来ないと返答するようになった。しかし、このミッションによって、基本的なアポロ宇宙船が耐航宙性を備えていることが成功裡に証明されたのである。


===宇宙船の現在===
このミッションの目標には、アメリカの宇宙船から初のテレビ生中継による放送を行うこと([[1963年]]、マーキュリー9号の[[ゴードン・クーパー]]飛行士が生中継放送を行っているが、このとき使われたのは通常のテレビではなく低速スキャン・テレビ ([[:en:slow-scan television|en:slow-scan television]]) であった)、および、月着陸船とのドッキング運動のテストが含まれていた。
[[File:Appolo7-07a.jpg|thumb|200px|航空開拓者博物館 (The Frontiers of Flight Museum) に展示されている7号の司令船]]
1969年1月、7号の司令船は[[リチャード・ニクソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]就任式のパレードで、NASAの出し物として展示された。この司令船は30年近くもの間、[[カナダ]]の[[オンタリオ州]][[オタワ]]にあるカナダ科学技術博物館に、シラーが着た宇宙服とともに2年ごとの契約更新で賃貸されていた。2003年11月、[[ワシントンD.C.]]の[[スミソニアン博物館]]はスティーブン・アドヴァー・ヘイジーセンター (Steven F. Udvar-Hazy Center) に新規に建てられた別館に展示するため、司令船を返却してもらった。現在は[[テキサス州]][[ダラス]]の[[ダラス・ラブフィールド空港]]に隣接する航空開拓者博物館に展示されている。


===計画の記章===
== 展示 ==
7号の記章は、SPSエンジンを噴射している司令船と機械船を描いている。その噴射の軌跡は地球を巡っており、地球を周回飛行する計画の目的を象徴している。南太平洋上には[[ローマ数字]]で「VII」と描かれ、さらに下部の黒いふち取りの中には飛行士の名前が記されている。デザインをしたのは、ロックウェル・インターナショナル社のアレン・スティーブンス (Allen Stevens) であった<ref>{{cite web |url=http://www.collectspace.com/news/news-052008a.html |title=The man behind the Moon mission patches |last=Hengeveld |first=Ed |date=2008-05-20 |website=collectSPACE |publisher=Robert Pearlman |accessdate=2013-07-06}} "A version of this article was published concurrently in the [[British Interplanetary Society]]'s ''[[Spaceflight (magazine)|Spaceflight]]'' magazine." (June 2008; pp. 220–225).</ref>。
[[Image:Apollo_7_Phoenix_Frontiers_of_Flight_Museum.JPG|thumb|right|300px|Frontiers of Flight Museumに展示されているアポロ7号司令船]]
アポロ7号司令船は、[[オタワ]]([[カナダ]])の[[カナダ科学技術博物館]]に、シラーの着用していた宇宙服とともに(2年ごとの契約更新で)30年近くにわたって貸与されていた。[[2003年]][[11月]]、[[スミソニアン博物館|スミソニアン協会]]は、協会の新たな博物館([[:en:Steven F. Udvar-Hazy Center|en:Steven F. Udvar-Hazy Center]])での展示のために、返還を要請した。


===ドラマ化===
アポロ7号は現在のところ、[[テキサス州]][[ダラス]]市ラヴフィールドにあるFrontiers of Flight Museumで、スミソニアン協会から貸与されて展示されている。
7号の計画の一部は1998年に、「地球から宇宙へ (From the Earth to the Moon)」というテレビのシリーズの中で、「発射台を離れた (We Have Cleared the Tower.)」というタイトルでドラマ化された。「アポロ7号の記録 (The Log of Apollo 7)」という[[16ミリフィルム]]で撮影されたドキュメンタリー映画はデジタル復元され、[[YouTube]]で閲覧することが可能である<ref name="logofapollo7">{{YouTube|id=3HrLdLgdhpI|title=''The Log of Apollo 7''|link=no}}</ref>。


==脚注==
アポロ7号は、アポロ宇宙船の有人飛行では唯一、ケープ・カナヴェラル空軍基地の第34発射台から発射された。この後に続くすべてのアポロ計画(アポロ・ソユーズ計画やスカイラブを含む)は、[[ケネディ宇宙センター]]の第39発射台から打上げられている。
===注釈===
{{Reflist|group="注"}}
===出典===
{{Reflist}}


==画像==
== ミッションバッジ ==
<center><gallery widths="180" heights="160">
アポロ7号のミッションバッジは、主エンジンを噴射する司令機械船の飛行を表現している。エンジンから伸びた噴射炎は地球を一周し、バッジの縁を出て広がっている。シラーはこのバッジに月を入れなかった理由を「月に行く奴らのためにとっておこう」と語っている。ローマ数字の7(VII)が南太平洋に書き込まれ、クルーの名前が外周に沿って記されている。
File:Apollo 7 crew during water egress training.jpg|水上での脱出訓練をする飛行士たち
Image:AS07-3-1545.jpg|軌道上を漂う7号の第2段ロケット (S-IVB)
File:Saturn IB Second Stage with open LM adapter.jpg|遠距離から撮影したS-IVB
Image:Apollo_7_Florida.jpg|7号が撮影したフロリダ半島
File:Apollo 7 recovery with SH-3 Sea King 1968.jpg|帰還後、ヘリコプターにホイスト (釣り上げ) される飛行士たち
Image:The Apollo 7 crew is welcomed aboard the USS Essex.jpg|空母エセックスで歓迎を受ける飛行士たち
Image:Załoga Apollo 7 68PC-0211-m.jpg|帰還後、エセックス上で記念撮影をする飛行士たち
</gallery></center>


== 参 ==
== 参考文献 ==
* [http://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/sc-query.html NASA NSSDC Master Catalog]
* [http://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/sc-query.html NASA NSSDC Master Catalog]
* [http://history.nasa.gov/SP-4029/Apollo_00a_Cover.htm APOLLO BY THE NUMBERS: A Statistical Reference by Richard W. Orloff (NASA)]
* [http://history.nasa.gov/SP-4029/Apollo_00a_Cover.htm APOLLO BY THE NUMBERS: A Statistical Reference by Richard W. Orloff (NASA)]
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19760072144_1976072144.pdf NASA Apollo 7 Mission Report - Dec. 1, 1968 (PDF format)]
* [https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19760072144_1976072144.pdf NASA Apollo 7 Mission Report - Dec. 1, 1968 (PDF format)]
* [http://www.astronautix.com/flights/apollo7.htm Apollo 7 entry in Encyclopedia Astronautica]
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* [http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4009/cover.htm The Apollo Spacecraft: A Chronology]
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* [http://history.nasa.gov/apsr/apsr.htm Apollo Program Summary Report]
* [http://history.nasa.gov/apsr/apsr.htm Apollo Program Summary Report]
* [http://apollomaniacs.web.infoseek.co.jp/apollo/index.htm Apollo Maniacs(アポロ・マニアックス)]
* [http://www.apollomaniacs.com/apollo/ Apollo Maniacs(アポロ・マニアックス)]


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2024年6月6日 (木) 00:30時点における最新版

Apollo 7
7号の司令船内からテレビの中継映像を送る飛行士たち
徽章
ミッションの情報
ミッション名 Apollo 7
司令船 CM-101
機械船 SM-101
質量 司令機械船 14,781 kg
乗員数 3 名
コールサイン 司令船:
Apollo 7
打上げ機 サターンIB SA-205
発射台 フロリダ州ケープカナベラル空軍基地
LC-34発射台
打上げ日時 1968年10月11日
15:02:45 UTC
着陸または着水日時 1968年10月22日
11:11:48 UTC
27° 38' N - 64° 09' W
ミッション期間 10日20時間9分3秒
周回数 163周
遠地点 297 km
近地点 231 km
公転周期 89.78 分
軌道傾斜角 31.63
乗員写真
左から:アイズル、シラー、カニンガム

アポロ7号は、1968年アメリカ合衆国によって実行された有人宇宙飛行計画である。アポロ計画において、飛行士を宇宙に送るのはこれが初めてのことであった。また1967年に発生した、三人の宇宙飛行士の命を奪ったアポロ1号の火災事故の後、アメリカが有人宇宙飛行計画を再開して地球周回低軌道上に人間を送るのも、これが初めてであった。アポロ初の有人宇宙飛行はAS-204の計画番号を当てられていたアポロ1号が行うはずだったが、代わりに7号が、1号が行う予定であった任務を引き継ぐこととなった。船長はウォルター・シラー司令船操縦士はドン・エイゼル月着陸船操縦士はウォルター・カニンガムであった。

この計画は「Cタイプミッション」と呼ばれるもので、1号の火災事故ののち大幅に設計を見直された「ブロック2」と呼ばれるアポロ司令・機械船に飛行士を搭乗させ、11日間の地球周回飛行の試験を行うものであった。またサターンIB型ロケットを使って一度に三人の飛行士を宇宙に送り、さらに宇宙空間からアメリカ全土にテレビ中継を行うのも、これが初めての試みだった。

7号は1968年10月11日、フロリダ州のケープカナベラル空軍基地第34発射施設から打ち上げられた。飛行中、管制官と飛行士の関係は一時険悪な状態に陥ったものの、技術的に見れば計画は完全に成功裏に終了し、NASAはこの2ヶ月後に行われる予定であったを周回するアポロ8号の計画実行への自信を深めることとなった。しかしながら3人の乗組員たちの宇宙飛行士としてのキャリアは、1968年10月22日に大西洋上に着水した瞬間に終わりを告げた。またケープカナベラル空軍基地から次に有人宇宙船が打ち上げられたのは56年後のBoe-CFT2024年6月5日打ち上げ)である。

搭乗員

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このチームはもともと、アポロ1号のバックアップ・クルーだった。

予備搭乗員

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支援飛行士

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主要な任務

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発射以前

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アポロ7号の発射

7号は試験飛行であり、アポロ計画遂行への自信を構築するためのものであった。1967年の火災事故の後、司令船は大幅に設計を見直された。新型宇宙船の、いわば慣らし運転とも言えるこの地球周回飛行の指揮をとったのは、マーキュリージェミニ、アポロの三つの有人宇宙飛行計画すべてに搭乗した経験を持つ唯一の飛行士である、ウォルター・シラーであった[1]

搭乗員たちは生命維持装置・推進システム・誘導および制御システムの試験を、この「オープンミッション」と呼ばれる期間中に行うことになっていた。オープンミッションとは、各試験は合格と判定された後もさらに延長して行われることがあり、最大11日まで軌道上にとどまるというものであった[2]。7号は地球周回低軌道を飛行し、月着陸船を使用しないものであったため、発射用のロケットにはより大型で強力なサターン5型ロケットではなく、サターンIBが使用された[3]

マーキュリー計画とジェミニ計画で宇宙船発射チームの責任者を務めたのは、マクドネル・エアクラフト社の技術者ギュンター・ウェント (Guenter Wendt) で、発射の際の宇宙船の状態に関するすべての責任を負っていた。彼はシラーたち宇宙飛行士の尊敬と信頼を勝ち得ていた[4] が、宇宙船製作の契約企業がマクドネル社からロックウェル・インターナショナル社に変更されたことにより、アポロ1号においてはウェントは責任者ではなくなっていた[5]。だがシラーはウェントをアポロ計画の発射チームの責任者に復活させることを断固として望んでいたため、上司のドナルド・スレイトンに対し、マクドネル社からウェントを引き抜くようロックウェル社を説得してほしいとかけあった。一方でウェントもロ社に対して密かにロビー活動をして、自分の勤務を夜勤から日勤に変更してもらったりしていた。このような背景もあり、アポロ計画ではウェントが発射チームの責任者に復活することとなった[5]。発射の際、飛行士たちが宇宙船のハッチが閉まる直前に見るのはウェントの顔だった。またエイゼルは7号の発射直後に、無線を通して「ギュンター・ウェントはどこにいるんだ? (I vonder vere Guenter Vendt? = I wonder where Gunter Vendt?)」と、ドイツ訛りの英語で冗談を言ったりしていた[5]

軌道上での作業

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ランデブー実験の際に撮影された、第二段ロケットS-IVB。右上の保護パネルが、他のものと同じ角度に開いていないことに注目。

宇宙船が軌道に投入され、第二段ロケットS-IVBから分離された後、飛行士たちは姿勢制御用ロケットを噴射して宇宙船の向きを180度反転させ、S-IVBを目標にしてランデブードッキングのシミュレーションを行った。月飛行の際には、このときに着陸船とのドッキングが行われる。ところがこのとき、保護パネルの一つが正規の45度の位置まで開ききっていなかった。管制官のトム・スタッフォード (Tom Stafford) はこのとき、ジェミニ9号で発生した似たような事態を思い出していた。ドッキング訓練のために打ち上げられていた無人のアジェナ衛星のフェアリングが完全に開ききっていなかったため、ドッキングが実施できなかったのである。実際の月飛行のときにこのような事態が発生したら、着陸船を格納庫から抽出するのが困難になるのは明白だった (着陸船はこの保護パネルの中に格納される)。このため8号からは、パネルは完全に分離して投棄されるように仕様が変更された[6]

宇宙船の機器類およびすべての作業は何の問題もなく進行した。またアポロ宇宙船を月軌道に投入したり、あるいは月軌道から地球に帰還する際に重要な役割を果たす機械船の主エンジン (Service Propulsion System, SPS。機械船推進システム) は合計8回の燃焼試験を行い、推力の誤差は1パーセント以内に収まった。

サターンIBロケットは非常にスムーズに発射されたのに対し、SPSは最初に噴射した瞬間に激しい揺れを発生した。心の準備ができていなかったシラー船長は「ヤバダバドゥー! (Yabbadabbadoo!)」と、原始家族フリントストーンを真似して奇声を発した。エイゼル飛行士はこのときの様子を、「本当に後ろから蹴とばされたようだった」と述べた[7]

アポロ宇宙船は、それ以前のマーキュリー宇宙船やジェミニ宇宙船に比べるとかなり大型のもので、飛行士たちは船内をある程度移動することができた (マーキュリーとジェミニでは、飛行士は座席に縛りつけられてほとんど身動きできなかった)。そのため当初は、飛行士が動くと宇宙船の姿勢を安定させるのが困難になるのではないかと懸念されていたが、それは杞憂に過ぎなかった。飛行士たちは、無重力の環境で体を動かすのは「信じられないほど簡単だ」と報告した。また胎児のように丸まった姿勢で睡眠をとるのは窮屈で苦痛を強いるものであるため、Exer-Genieというストレッチ器具が用意されていた[6]

さらに彼らにはもう一つ、宇宙船内から初めて全米にテレビ中継をするという任務があった。1963年にゴードン・クーパー飛行士がマーキュリー9号でスロースキャンカメラを使って映像を送ったことはあったが、テレビで放映されることはなかった[8]。中継は飛行二日目の正午に予定されていたが、シラーはこれがランデブー実験を阻害するのではないかと懸念していた[9]

宇宙での「反乱」

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アポロ宇宙船の比較的広い船内はジェミニに比べるとより快適なものではあったが、11日間の飛行は搭乗員たちにとって決して有益なものではなく、結果的に彼らの飛行士としての経歴に終止符を打たせるものとなった。

シラーとの確執は、飛行主任が発射を決定したときから始まっていた。管制官はロケットが上昇していく初期の段階で、万が一問題が発生して飛行を中止するには決して理想的な状態ではなかったにもかかわらず発射を決断したのである。

軌道に到達すると、広い船室は飛行士たちに宇宙酔いをもたらした。これは宇宙開発の初期のころの狭い宇宙船では問題とはならなかったものだった。また彼らは食事のメニュー、特に高エネルギー補給のデザートに不満を持っていた。さらにゴミ収集システムは扱いづらく (使用するのに30分かかった)、悪臭を発した。しかしながら最も大きな問題は、シラーがひどい鼻風邪をひいたことであった。そのため彼は管制センターからの要求にイライラするようになり、他の飛行士たちも管制官に「口答え」をし始めた。以下は管制センターが船内のテレビカメラのスイッチを入れるように要求した際に交わされた会話である。

飛行9日目、シラーが船長席の前にあるランデブー用窓から外を眺める様子。

シラー:君はこの飛行計画に余計なことを二つ付け加えた。小便を船外に排出することもそうだ。そして我々が今ここに持っているのは新型の乗物だ。そして私が現時点で確実に言えるのは、テレビ (中継) が何ら議論を進めることもなくランデブーの後にまでずれ込むだろうということだ。
管制官 (ジャック・スワイガート)  : もう一度言ってくれ。
シラー:了解。
管制官1 (ドナルド・スレイトン) :アポロ7号、こちらは管制官1だ。
シラー:了解。
管制官1:この件で我々のすべてが合意したのは、スイッチをつける事だ。
シラー:(……) 7号の二人の司令官とだな。
管制官1:この特別な行為について我々が合意したのは、スイッチをオンにすることだ。他の行為はテレビ撮影には伴わない。我々はまだこれ (テレビ撮影) をする義務があると思うんだ。
シラー:我々はまだ機器を取り出していないし、セッティングをする機会もなかった。現時点で我々はまだ食事を取っていないし、おまけに俺は風邪をひいているんだ。こんなやり方でスケジュールを台無しにするのは拒否する[10]

管制センターと飛行士たちの関係を悪化させることになったさらなる原因は、シラーがくり返し「大気圏再突入はヘルメットをかぶらないで行うべきだ」との見解を表明したことだった (マーキュリー計画やジェミニ計画では、飛行士は最後までヘルメットを着用していた)。彼らは風邪で副鼻腔の圧力が高まっていることにより、鼓膜が破れるかもしれないという危険性を認識していた。そのため再突入の最中に鼓室の圧力が高まってきたら、鼻をつまんで息を抜き、圧力を均等化できるようにすることを望んでいたのである。アポロで使用されるヘルメットはそれ以前のものとは違い、可動型のバイザーがついていない「金魚鉢」のような構造であったため、ヘルメットをかぶっていてはこの行為をすることは不可能であった。しかしながらシラーは、飛行中はヘルメットは安全上の理由から着用しておくようにとくり返し指示されていた。この件に関して管制センターと交わされた最後の会話では、シラーが命令を馬鹿にして無視したような態度をとったことに対して明確な説明をするよう、管制官が求めていた。

管制官1 (スレイトン):よろしい。私が思うに、君は我々がヘルメットを着用しないで再突入するということに全く経験がないということを、はっきりと理解すべきだ。
シラー:それを言うなら、ヘルメットを着用して帰還した経験だってないだろう。
管制官:それについては、我々はすでに十分な経験を積んでいるんだ。そうだろう。
シラー:もしオープン型のバイザーをしていれば、俺もそれに従っていただろうさ。
管制官:オーケー。なぜオープン型のヘルメットを載せていなかったかについては、着陸するまでにゆっくり議論する準備をしていればいい。いずれにしても今からメットを着用しないで再突入を試みるのは遅すぎる。
シラー:それは承服しかねる。そこにいる連中は我々が今かぶっているメットを自分で着けてみたことなんてないだろう。
管制官:そうだな。
シラー:俺たちは今朝つけたんだ。
管制官:それは分かっている。我々が唯一懸念しているのは、着陸のことだ。確かに我々は再突入に関して十分に考えていなかった。だが、今はそれがネックなんだ。そして我々は君にルールを破ってほしくないんだ。
シラー:そうかい、ありがとよ。
管制官:以上だ[11]

このような会話は、エイゼルとカニンガムを将来的な飛行計画からはじき出す結果となった (シラーはすでにNASAから引退することを表明していた)[6]

大気圏再突入およびその後の評価

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着水点は北緯27度32分 西経64度04分 / 北緯27.533度 西経64.067度 / 27.533; -64.067バミューダ諸島の南南西200海里 (370 km)、回収船エセックスの北方7 nmi (13 km)であった[6]

乗組員と管制官の間に問題は発生したものの、新型司令・機械船の飛行試験をするという計画自体は成功裏に終了し、このわずか2ヶ月後に予定されていた8号の月周回飛行を押し進めることとなった[12]。7号はアポロ計画において、ケープケネディ空軍基地の34番発射複合施設から打ち上げられた唯一の事例であった[注 1]。その後のアポロ計画とスカイラブ計画およびアポロ・ソユーズテスト計画は、すべてケネディ宇宙センターの近くにある39番発射複合施設から打ち上げられた[3]。34番施設は1969年に余分なものであるとして取り壊されることが決定し、7号は20世紀においてケープ・カナヴェラルから打ち上げられた最後の有人飛行となった[3]。2014年現在において、当時の乗組員で存命しているのはカニンガムだけである。エイゼルは1987年、シラーは2007年に死去している[1][12]

7号が残したもの

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後の評価

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2008年10月、NASAのマイケル・グリフィン (Michael D. Griffin) 長官はアポロ7号の乗組員たちに対し、アポロ計画に多大な貢献をしたとしてNASA功労賞 (NASA's Distinguished Service Medal) を授与した。彼らはアポロ計画とスカイラブ計画において、同賞を授かっていない唯一の飛行士たちであった。カニンガムはすでに逝去している他の飛行士およびニール・アームストロング (Neil Armstrong)、ウィリアム・アンダース (Bill Anders)、アラン・ビーン (Alan Bean) などのアポロ計画の他の飛行士たちを代表して受賞した。管制センターの前飛行指揮官クリストファー・クラフト (Christopher C. Kraft, Jr.) は、かつては計画において飛行士たちと対立したが、祝福のビデオメッセージを送って以下のように述べた。

「我々はかつてあなたに辛い時を与えたが、あなたはそれを見事に切り抜け、それ以来実にすばらしく過ごして来られた…。私は素直に、誇りを込めてあなたを友人と呼ばせていただきたい[12]。」

宇宙船の現在

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航空開拓者博物館 (The Frontiers of Flight Museum) に展示されている7号の司令船

1969年1月、7号の司令船はリチャード・ニクソン大統領就任式のパレードで、NASAの出し物として展示された。この司令船は30年近くもの間、カナダオンタリオ州オタワにあるカナダ科学技術博物館に、シラーが着た宇宙服とともに2年ごとの契約更新で賃貸されていた。2003年11月、ワシントンD.C.スミソニアン博物館はスティーブン・アドヴァー・ヘイジーセンター (Steven F. Udvar-Hazy Center) に新規に建てられた別館に展示するため、司令船を返却してもらった。現在はテキサス州ダラスダラス・ラブフィールド空港に隣接する航空開拓者博物館に展示されている。

計画の記章

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7号の記章は、SPSエンジンを噴射している司令船と機械船を描いている。その噴射の軌跡は地球を巡っており、地球を周回飛行する計画の目的を象徴している。南太平洋上にはローマ数字で「VII」と描かれ、さらに下部の黒いふち取りの中には飛行士の名前が記されている。デザインをしたのは、ロックウェル・インターナショナル社のアレン・スティーブンス (Allen Stevens) であった[13]

ドラマ化

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7号の計画の一部は1998年に、「地球から宇宙へ (From the Earth to the Moon)」というテレビのシリーズの中で、「発射台を離れた (We Have Cleared the Tower.)」というタイトルでドラマ化された。「アポロ7号の記録 (The Log of Apollo 7)」という16ミリフィルムで撮影されたドキュメンタリー映画はデジタル復元され、YouTubeで閲覧することが可能である[14]

脚注

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注釈

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  1. ^ 空軍基地は当初はケープ・カナベラルと命名されていたが、1963年11月のケネディ大統領の暗殺直後にジョンソン大統領によってケープ・ケネディと改名された。「カナヴェラル (Canaveral) の名称は1973年に元に戻された

出典

[編集]
  1. ^ a b Watkins, Thomas (2007年5月3日). “Astronaut Walter Schirra dies at 84”. Valley Morning Star. Associated Press (Harlingen, Texas). http://www.valleymorningstar.com/news/latest_news/article_b5ab61b9-cbe9-5db5-b76f-8cfd89096919.html 2013年10月4日閲覧。 
  2. ^ Karrens, Ed (Announcer) (1968年). “1968 Year in Review: 1968 in Space”. UPI.com. United Press International (E. W. Scripps). http://www.upi.com/Archives/Audio/Events-of-1968/1968-in-Space 2013年7月6日閲覧。 
  3. ^ a b c Portree, David S. F. (2013-09-16). “A Forgotten Rocket: The Saturn IB”. Wired (New York: Condé Nast). http://www.wired.com/wiredscience/2013/09/a-forgotten-rocket-the-saturn-ib/ 2013年10月4日閲覧。. 
  4. ^ Pearlman, Robert Z. (2010年5月3日). “Guenter Wendt, 86, 'Pad Leader' for NASA's moon missions, dies”. collectSPACE. Robert Pearlman. 2014年6月12日閲覧。
  5. ^ a b c Farmer & Hamblin 1970, pp. 51–54
  6. ^ a b c d Wade, Mark. “Apollo 7”. Encyclopedia Astronautica. 2008年10月24日閲覧。
  7. ^ Apollo 7 Mission Report” (PDF). NASA. pp. 5–158 (1968年12月1日). 2014年7月11日閲覧。
  8. ^ Steven-Boniecki 2010, pp. 55–58
  9. ^ “Schirra rules no telecast”. The Windsor Star. United Press International (Windsor, Ontario): p. 1. (1968年10月12日). https://news.google.com/newspapers?id=UjQ_AAAAIBAJ&sjid=cVEMAAAAIBAJ&dq=apollo%207%20television%20broadcast&pg=1799%2C3226547 2013年10月6日閲覧。 
  10. ^ Apollo 7 Air-to-Ground Voice Transcriptions” (PDF). NASA. pp. 117–118. 2008年10月24日閲覧。
  11. ^ Apollo 7 Air-to-Ground Voice Transcriptions” (PDF). NASA. p. 1170. 2008年10月24日閲覧。
  12. ^ a b c Pearlman, Robert Z. (2008年10月20日). “First Apollo flight crew last to be honored”. collectSPACE. Robert Pearlman. 2014年6月12日閲覧。
  13. ^ Hengeveld, Ed (2008年5月20日). “The man behind the Moon mission patches”. collectSPACE. Robert Pearlman. 2013年7月6日閲覧。 "A version of this article was published concurrently in the British Interplanetary Society's Spaceflight magazine." (June 2008; pp. 220–225).
  14. ^ The Log of Apollo 7 - YouTube

画像

[編集]

参考文献

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外部リンク

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