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『'''陰翳礼讃'''』(いんえいらいさん)は、[[谷崎潤一郎]]の[[随筆]]。「[[経済往来]]」昭和8年12月号・9年1月号に掲載。 |
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|title = 陰翳礼讃 |
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『'''陰翳礼讃'''』(いんえいらいさん)は、[[谷崎潤一郎]]の[[随筆]]。まだ[[電灯]]がなかった時代の今日と違った[[日本]]の[[美]]の[[感覚]]、生活と自然とが一体化し、真に風[[雅]]の骨髄を知っていた[[日本人]]の[[芸術]]的な[[感性]]について論じたもの。谷崎の代表的評論作品で、[[関西]]に移住した谷崎が日本の[[古典]]回帰に目覚めた時期の随筆である<ref name="album4">「古典回帰の時代」({{Harvnb|アルバム谷崎|1985|pp=65-77}})</ref><ref name="henyo">「比類なき『大谷崎』――震災と変容」({{Harvnb|太陽|2016|pp=75-87}})</ref>。 |
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[[西洋]]の文化では可能な限り部屋の隅々まで明るくし、[[影|陰翳]]を消す事に執着したが、いにしえの日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ生える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の[[美意識]]・[[美学]]の特徴だと主張する。こうした主張のもと、[[建築]]、[[照明]]、[[紙]]、[[食器]]、[[料理|食べ物]]、[[化粧]]、[[能]]や[[歌舞伎]]の衣装の[[色彩]]など、多岐にわたって陰翳の考察がなされている。この随筆は、日本的な[[デザイン]]を考える上で注目され<ref>{{Harvnb|意匠性|1993}}</ref>、国内だけでなく、戦後翻訳されて以降、海外の[[知識人]]や[[映画]]人にも影響を与えている<ref name="kenkyu">[[西野厚志]]「谷崎潤一郎研究史」({{Harvnb|夢ムック|2015|pp=228-244}})</ref><ref name="yomo">[[四方田犬彦]]「モダニスト潤一郎――谷崎潤一郎の映画体験」({{Harvnb|夢ムック|2015|pp=215-227}})</ref>。 |
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雑誌『[[経済往来]]』の[[1933年]](昭和8年)12月号と[[1934年]](昭和9年)1月号に連載された<ref name="nenpu">「谷崎潤一郎年譜」({{Harvnb|夢ムック|2015|pp=262-271}})</ref>。単行本は1939年(昭和14年)6月に[[創元社]]より刊行された<ref name="mokuroku">「主要著作目録」({{Harvnb|アルバム谷崎|1985|p=111}})</ref>。 |
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こうした主張のもと、[[建築]]、[[照明]]、[[紙]]、[[食器]]、食べ物、[[化粧]]、[[能]]や[[歌舞伎]]の衣装など、多岐にわたって陰翳の考察がなされている。 |
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== あらまし == |
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日本的な[[デザイン]]を考える上でも注目されている。 |
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谷崎潤一郎は、[[1933年]](昭和8年)当時の[[西洋]]近代化に邁進していた日本の生活形態の変化の中で失われていく日本人の[[美意識]]や[[趣味]]生活について以下のように語りながら、最後には[[文学]]論にも繋がる心情を綴っている。 |
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しかしながら谷崎は洋風建築の照明の明るい家で椅子の暮らしをしており、この随筆で絶賛する日本の伝統とはかけ離れた生活を送っていた。 |
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今日([[明治]]の[[近代]]化以降)の日本では、純日本風の家屋を建てて住む場合、近代生活に必要な設備を斥けるわけにはいかず、[[座敷]]には不似合いな[[電線]]コードやスイッチを隠すのに苦慮し、[[扇風機]]の音響や[[電気ストーブ]]を置くのにも調和を壊してしまう。そのため「私」(谷崎)は、高い費用をかけて、大きな[[囲炉裏]]を作り電気[[炭]]を仕込み、[[和風]]の調和を保つことに骨を折った。 |
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== 文献 == |
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{{Cite book|和書 |
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[[トイレ]]や[[浴室]]に関しても、元々の日本の木造の風呂場や[[厠]]では、けばけばしい真っ白な[[タイル]]は合う筈もない。今も残る[[京都]]や[[奈良]]の[[寺院]]では、[[母屋]]から離れた植え込みの蔭に、掃除が行き届いた厠があり、[[自然]]の風光と一体化した[[風情]]の中で[[四季]]折々の[[もののあはれ|もののあわれ]]を感じ入りながら、朝の[[便通]]ができる。[[夏目漱石|漱石]]先生もそうした厠で毎朝[[瞑想]]に耽ながら用を足すのを楽しみにしていた。 |
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|author=谷崎 |
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|edition=1995改版版 |
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我々日本人の[[祖先]]は、すべてのものを[[詩]]化し、不潔である場所をも却って[[風流]]で雅致のある場所に変貌させ、[[花鳥風月]]の懐かしみの連想へ誘い込むようにしていた。[[西洋人]]がそれを頭から[[不浄]]扱いに決めつけ、公衆の前で口にするのも忌むのに比べ、日本人は真に風雅の骨髄を知っていた。近代的な[[ホテル]]の西洋便所など実に嫌なものである。 |
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|title=陰翳礼讃 |
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|publisher=中央公論社 |
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照明や暖房器具、[[便器]]にしろ、近代文明の利器を取り入れるのにはむろん異論はないが、何故それをもう少し日本人の習慣や趣味生活に合致するように改良しないのか疑問である。[[行燈]]式の照明器具が流行るのは、我々日本人が忘れていた「[[紙]]」の温かみが再発見されたものである。もし[[東洋]]に独自の別個の[[科学]][[文明]]や[[技術]]が発達していたならば、もっと我々の[[国民性]]に合致した物が生れ、今日の有様とは違っていたかもしれない。 |
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|isbn=9784122024137 |
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仮に[[万年筆]]というものを、日本人や[[支那人]]が考案すれば、穂先は必ず「[[毛筆]]」にしたであろう。そして[[インク]]も[[墨汁]]に近い液体で、それが軸から毛の方に滲むように工夫したことだろう。紙もけばけばしい真っ白な[[西洋紙]]ではなく、その[[筆ペン]]の書き具合に合った肌理を持つ[[和紙]]に似たものが要求されたであろう。そして[[漢字]]や[[仮名文字]]に対する愛着も強まったであろう。 |
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西洋では[[食器]]でも[[宝石]]でもピカピカに研いたものが好まれ、支那人が「玉」([[翡翠]])という鈍い光の石に魅力を感じたり、日本人が[[水晶]]の中の曇りを喜んだりするのとは対照的である。東洋人は、[[銀器]]が時代を経て黒く[[錆び]]馴染む趣を好み、自然に手の[[油]]で器に味わいが出るのを「手沢」「なれ」と呼んで、その自然を美化して風流とするが、西洋人は[[手垢]]を汚いものとして根こそぎ発き立て取り除こうとする。 |
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人間は本来、東洋人が愛でたような自然の手垢や時代の風合いのある建物や器に癒され、[[神経]]が安まるものである。[[病院]]なども、日本人を相手にする以上、真っ白な壁や治療服をやめて、もっと温かみのある暗みや柔らかみを付けたらどうか。最新式の設備のアメリカ帰りの[[歯医者]]に行って怖気を感じた「私」は、昔風の時代遅れのような日本家屋の歯医者の方に好んで通った。 |
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日本の[[漆器]]や[[金]][[蒔絵]]の道具も、日本の「陰翳」のある家屋の中で映え、より一層の美しさを増す。我々の[[祖先]]が作った生活道具の[[装飾]]などは、そうした日本の自然の中で培ってきた美意識で成り立っており、実に精緻な考えに基づいている。日本人は陰翳の濃淡を利用し、その美を考慮に入れ建築設計していた。[[美]]は[[物体]]にあるのではなくて、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある。 |
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日本が西洋文化の行く手に沿って歩み出した以上、日本人の趣味生活や美意識が軽んじられ薄れてゆくのは仕方がないことであるが、我々日本人に課せられた「損」は永久に背負って行くものと覚悟しなければならない。「私」は、日本人が既に失いつつある「陰翳の世界」を[[文学]]の領域に少しでも呼び返してみたい。[[壁]]を暗くし、見え過ぎるものを[[闇]]に押しこめ、無用の室内装飾を剥ぎ取り、試しに[[電灯]]を消したそんな家(文学)が一軒くらいあってもよかろうと「私」は思う。 |
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== 作品背景 == |
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[[関東大震災]]をきっかけに、[[東京]]から[[関西]]に移住した谷崎潤一郎は、それ以降もずっとその地方で暮すことになったが、それは震災後の東京から昔の[[江戸]]情緒が失われたことへの不満も大きかった<ref name="tutui">[[筒井康隆]]「解説」({{Harvnb|陰翳・文庫|2016|pp=332-339}})</ref>。 |
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震災直後に住んでいた借家は洋風建築の家であったが、[[1928年]](昭和3年)頃は、[[兵庫県]][[武庫郡]]岡本梅ノ谷(現・[[神戸市]][[東灘区]][[岡本 (神戸市)|岡本]])に和洋中が混ざった新居(「鎖瀾閣」)を建築していた<ref name="henyo"/>。そこでは谷崎の和洋中に引き裂かれている美意識が垣間見られ、その家で執筆された『[[蓼喰ふ虫]]』では、洋から和へ移行していく谷崎の意識の変化が読み取れる<ref name="henyo"/><ref name="album4"/>。その後にこの評論『陰翳礼讃』や傑作の『[[春琴抄]]』が書かれ、その2年後から『[[源氏物語]]』の現代語訳『[[潤一郎訳源氏物語]]』の執筆を始めている<ref name="henyo"/><ref name="album4"/>。 |
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== 評価 == |
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『陰翳礼讃』は、日本国内だけではなく、戦後[[1955年]](昭和30年)に[[アメリカ]]で一般読者向けに翻訳され、谷崎潤一郎の名が英語圏で広く知られることになり<ref>{{Harvnb|グレゴリー|2015}}</ref>、その後[[フランス]]でも翻訳され、フランス[[知識人]]に大きな影響を与えた<ref name="kenkyu"/>。 |
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[[ミシェル・フーコー]]は、『陰翳礼讃』を友人のジャン・ダニエルから送られて読み、その陰翳の[[美学]]と[[光学]]に影響を受けて、自身の[[思想]]への示唆を感知している<ref name="kenkyu"/>。 |
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{{Quotation|ジャン、谷崎の本を送ってくれてありがとう。ほんとうにすばらしいテキストです。[[美]]について語っているテキストがそれ自身美しいことはほんとうにまれです。美こそまさにこのテキストが語っていることです。しかも、このテキストには美のかたちそのものがあります。濁り水にさした[[光]]のような美が。|[[ミシェル・フーコー]]「真理の歴史」(訳・[[桜井直史]])<ref name="kenkyu"/>}} |
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[[清水良典]]は、谷崎に及ぼした[[アンリ・ベルクソン]]の影響を指摘しながら、谷崎の作品に散見される[[プラトニズム]]を考察し、谷崎の『陰翳礼讃』でも語られる[[幽玄]]の美の「イマージュ」や「空想の世界」が、「ベルクソンが[[物質]]と[[知覚]]のあいだに見出した、持続された[[記憶]]としての〈イマージュ〉に近いもの」だとして、谷崎の思考には、のちの[[ジル・ドゥルーズ]]のベルクソン理解に通じるものがあると解説している<ref>[[清水良典]]「谷崎は偉大な愚者なのか?――谷崎文学の『思想』についての覚書」({{Harvnb|夢ムック|2015|pp=77-84}})</ref>。 |
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[[四方田犬彦]]は、谷崎の映画体験(『[[カビリア]]』『[[クォ・ヴァディス (映画)|クオ・ヴァディス]]』『[[カリガリ博士]]』)や、[[大正活映]]の『[[アマチュア倶楽部]]』など初期の[[日本映画]]の現場で[[脚本家]]・[[劇作家]]として活躍していたことなどを鑑みながら、谷崎が日本的な陰翳への探求を深めていった動機を考察している<ref name="yomo"/>。そして、映画の演出法を説いたものとしても読める『陰翳礼讃』の「洞察の鋭さ」や「[[叡智]]」を指摘し、「谷崎はそれとは知らずに、[[モノクローム]]時代の映画理論家として、世界でもっとも美しい書物を書いていたかもしれない」と高評している<ref name="yomo"/>。 |
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[[筒井康隆]]は、谷崎の他の随筆でも見られる[[筆]]や[[紙]]へのこだわりに触れ、昭和8年当時に、今の「[[筆ペン]]」を「造りまで正確に」[[予言]]していたことに驚いている<ref name="tutui"/>。また最後の文学論ともいえる味のある名文の一節を、ぜひ[[朗読|音読]]するように勧めている<ref name="tutui"/>。 |
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== おもな刊行本 == |
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*『陰翳禮讃』([[創元社]]、1939年12月。[[創元文庫]]、1952年3月) |
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*『陰翳礼讃』([[角川文庫]]、1955年7月) |
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**収録作品:「恋愛及び色情」「陰翳礼讃」「現代口語文の欠点について」「懶惰の説」「半袖ものがたり」「厠のいろいろ」「旅のいろいろ」 |
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*『陰翳礼讃』([[中公文庫]]、1975年10月。改版1995年9月) |
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**収録作品:「陰翳礼讃」「懶惰の説」「恋愛及び色情」「客ぎらい」「旅のいろいろ」「厠のいろいろ」 |
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*『谷崎潤一郎随筆集』([[岩波文庫]]、1985年8月) |
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**「『[[門 (小説)|門]]』を評す」「懶惰の説」「恋愛及び色情」「『[[つゆのあとさき]]』を読む」「私の見た大阪及び大阪人」「陰翳礼讃」「いわゆる痴呆の芸術について」「ふるさと」「文壇昔ばなし」「幼少時代の食べ物の思い出」「『[[越前竹人形]]』を読む」 |
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**『陰翳礼讃・文章読本』([[新潮文庫]]、2016年8月1日) |
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**解説:[[筒井康隆]] |
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**収録作品:「陰翳礼讃」「厠のいろいろ」「文房具漫談」「岡本にて」「文章読本」 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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*{{Citation|和書|author=[[谷崎潤一郎]]|date=1995-09|title=陰翳礼讃|edition=改|publisher=[[中公文庫]]|isbn=978-4-12-202413-7|ref={{Harvid|陰翳・中公文庫|1995}}}} 初版1975年10月 |
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*{{Citation|和書|author=谷崎潤一郎|date=2016-08|title=陰翳礼讃・[[文章読本]]|publisher=[[新潮文庫]]|isbn=978-4-10-100516-4|ref={{Harvid|陰翳・文庫|2016}}}} |
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*{{Citation|和書|editor=[[笠原伸夫]]|date=1985-01|title=新潮日本文学アルバム7 谷崎潤一郎|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4-10-620607-8|ref={{Harvid|アルバム谷崎|1985}}}} |
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*{{Citation|和書|date=2015-02|title=[[文藝]]別冊 谷崎潤一郎――没後五十年、文学の奇蹟|series=KAWADE夢ムック|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309978550|ref={{Harvid|夢ムック|2015}}}} |
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*{{Citation|和書|author=[[千葉俊二]]監修|date=2016-01|title=別冊太陽 日本のこころ236 谷崎潤一郎――私はきつと、えらい芸術を作つてみせる|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4-582-92236-3|ref={{Harvid|太陽|2016}}}} |
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*{{Citation|和書|author1=[[川崎雅史]]|author2=[[堀秀行]]|author3=[[佐佐木綱]] |date=1993|title=日本の伝統的空間に現われる陰影の意匠性に関する研究|journal=土木学会論文集 |issue=458|volume=|pages=121-127|publisher=|naid=130003981765|ref={{Harvid|意匠性|1993}}}} |
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*{{Citation|和書|author=[[ケズナジャット・グレゴリー]]|date=2015-03|title=アメリカにおける『陰翳禮讃』と『蓼喰ふ蟲』の紹介:谷崎潤一郎の英訳と「日本文学」の評価基準|journal=同志社国文学|issue=82|volume=|pages=104-116|publisher=[[同志社大学]]国文学会|naid=120005723650|ref={{Harvid|グレゴリー|2015}}}} |
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== 関連項目 == |
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*[[倚松庵]] |
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*[[筆ペン]] |
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*[[幽玄]] |
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== 外部リンク == |
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*{{青空文庫|001383|56642|新字新仮名|陰翳礼讃}} |
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{{谷崎潤一郎}} |
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[[Category:1930年代の書籍]] |
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[[Category:昭和時代戦前の文学]] |
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[[Category:谷崎潤一郎]] |
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[[Category:日本の |
[[Category:日本の評論作品]] |
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[[Category:芸術を題材とした作品]] |
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{{lit-stub}} |
2016年10月26日 (水) 00:28時点における版
陰翳礼讃 In Praise of Shadows | ||
---|---|---|
著者 | 谷崎潤一郎 | |
発行日 | 1939年6月 | |
発行元 | 創元社 | |
ジャンル | 随筆・評論 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 上製本 | |
公式サイト | [1]、[2] | |
コード | NCID BN05349833 | |
ウィキポータル 文学 | ||
|
『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)は、谷崎潤一郎の随筆。まだ電灯がなかった時代の今日と違った日本の美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風雅の骨髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたもの。谷崎の代表的評論作品で、関西に移住した谷崎が日本の古典回帰に目覚めた時期の随筆である[1][2]。
西洋の文化では可能な限り部屋の隅々まで明るくし、陰翳を消す事に執着したが、いにしえの日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ生える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の美意識・美学の特徴だと主張する。こうした主張のもと、建築、照明、紙、食器、食べ物、化粧、能や歌舞伎の衣装の色彩など、多岐にわたって陰翳の考察がなされている。この随筆は、日本的なデザインを考える上で注目され[3]、国内だけでなく、戦後翻訳されて以降、海外の知識人や映画人にも影響を与えている[4][5]。
雑誌『経済往来』の1933年(昭和8年)12月号と1934年(昭和9年)1月号に連載された[6]。単行本は1939年(昭和14年)6月に創元社より刊行された[7]。
あらまし
谷崎潤一郎は、1933年(昭和8年)当時の西洋近代化に邁進していた日本の生活形態の変化の中で失われていく日本人の美意識や趣味生活について以下のように語りながら、最後には文学論にも繋がる心情を綴っている。
今日(明治の近代化以降)の日本では、純日本風の家屋を建てて住む場合、近代生活に必要な設備を斥けるわけにはいかず、座敷には不似合いな電線コードやスイッチを隠すのに苦慮し、扇風機の音響や電気ストーブを置くのにも調和を壊してしまう。そのため「私」(谷崎)は、高い費用をかけて、大きな囲炉裏を作り電気炭を仕込み、和風の調和を保つことに骨を折った。
トイレや浴室に関しても、元々の日本の木造の風呂場や厠では、けばけばしい真っ白なタイルは合う筈もない。今も残る京都や奈良の寺院では、母屋から離れた植え込みの蔭に、掃除が行き届いた厠があり、自然の風光と一体化した風情の中で四季折々のもののあわれを感じ入りながら、朝の便通ができる。漱石先生もそうした厠で毎朝瞑想に耽ながら用を足すのを楽しみにしていた。
我々日本人の祖先は、すべてのものを詩化し、不潔である場所をも却って風流で雅致のある場所に変貌させ、花鳥風月の懐かしみの連想へ誘い込むようにしていた。西洋人がそれを頭から不浄扱いに決めつけ、公衆の前で口にするのも忌むのに比べ、日本人は真に風雅の骨髄を知っていた。近代的なホテルの西洋便所など実に嫌なものである。
照明や暖房器具、便器にしろ、近代文明の利器を取り入れるのにはむろん異論はないが、何故それをもう少し日本人の習慣や趣味生活に合致するように改良しないのか疑問である。行燈式の照明器具が流行るのは、我々日本人が忘れていた「紙」の温かみが再発見されたものである。もし東洋に独自の別個の科学文明や技術が発達していたならば、もっと我々の国民性に合致した物が生れ、今日の有様とは違っていたかもしれない。
仮に万年筆というものを、日本人や支那人が考案すれば、穂先は必ず「毛筆」にしたであろう。そしてインクも墨汁に近い液体で、それが軸から毛の方に滲むように工夫したことだろう。紙もけばけばしい真っ白な西洋紙ではなく、その筆ペンの書き具合に合った肌理を持つ和紙に似たものが要求されたであろう。そして漢字や仮名文字に対する愛着も強まったであろう。
西洋では食器でも宝石でもピカピカに研いたものが好まれ、支那人が「玉」(翡翠)という鈍い光の石に魅力を感じたり、日本人が水晶の中の曇りを喜んだりするのとは対照的である。東洋人は、銀器が時代を経て黒く錆び馴染む趣を好み、自然に手の油で器に味わいが出るのを「手沢」「なれ」と呼んで、その自然を美化して風流とするが、西洋人は手垢を汚いものとして根こそぎ発き立て取り除こうとする。
人間は本来、東洋人が愛でたような自然の手垢や時代の風合いのある建物や器に癒され、神経が安まるものである。病院なども、日本人を相手にする以上、真っ白な壁や治療服をやめて、もっと温かみのある暗みや柔らかみを付けたらどうか。最新式の設備のアメリカ帰りの歯医者に行って怖気を感じた「私」は、昔風の時代遅れのような日本家屋の歯医者の方に好んで通った。
日本の漆器や金蒔絵の道具も、日本の「陰翳」のある家屋の中で映え、より一層の美しさを増す。我々の祖先が作った生活道具の装飾などは、そうした日本の自然の中で培ってきた美意識で成り立っており、実に精緻な考えに基づいている。日本人は陰翳の濃淡を利用し、その美を考慮に入れ建築設計していた。美は物体にあるのではなくて、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある。
日本が西洋文化の行く手に沿って歩み出した以上、日本人の趣味生活や美意識が軽んじられ薄れてゆくのは仕方がないことであるが、我々日本人に課せられた「損」は永久に背負って行くものと覚悟しなければならない。「私」は、日本人が既に失いつつある「陰翳の世界」を文学の領域に少しでも呼び返してみたい。壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押しこめ、無用の室内装飾を剥ぎ取り、試しに電灯を消したそんな家(文学)が一軒くらいあってもよかろうと「私」は思う。
作品背景
関東大震災をきっかけに、東京から関西に移住した谷崎潤一郎は、それ以降もずっとその地方で暮すことになったが、それは震災後の東京から昔の江戸情緒が失われたことへの不満も大きかった[8]。
震災直後に住んでいた借家は洋風建築の家であったが、1928年(昭和3年)頃は、兵庫県武庫郡岡本梅ノ谷(現・神戸市東灘区岡本)に和洋中が混ざった新居(「鎖瀾閣」)を建築していた[2]。そこでは谷崎の和洋中に引き裂かれている美意識が垣間見られ、その家で執筆された『蓼喰ふ虫』では、洋から和へ移行していく谷崎の意識の変化が読み取れる[2][1]。その後にこの評論『陰翳礼讃』や傑作の『春琴抄』が書かれ、その2年後から『源氏物語』の現代語訳『潤一郎訳源氏物語』の執筆を始めている[2][1]。
評価
『陰翳礼讃』は、日本国内だけではなく、戦後1955年(昭和30年)にアメリカで一般読者向けに翻訳され、谷崎潤一郎の名が英語圏で広く知られることになり[9]、その後フランスでも翻訳され、フランス知識人に大きな影響を与えた[4]。
ミシェル・フーコーは、『陰翳礼讃』を友人のジャン・ダニエルから送られて読み、その陰翳の美学と光学に影響を受けて、自身の思想への示唆を感知している[4]。
清水良典は、谷崎に及ぼしたアンリ・ベルクソンの影響を指摘しながら、谷崎の作品に散見されるプラトニズムを考察し、谷崎の『陰翳礼讃』でも語られる幽玄の美の「イマージュ」や「空想の世界」が、「ベルクソンが物質と知覚のあいだに見出した、持続された記憶としての〈イマージュ〉に近いもの」だとして、谷崎の思考には、のちのジル・ドゥルーズのベルクソン理解に通じるものがあると解説している[10]。
四方田犬彦は、谷崎の映画体験(『カビリア』『クオ・ヴァディス』『カリガリ博士』)や、大正活映の『アマチュア倶楽部』など初期の日本映画の現場で脚本家・劇作家として活躍していたことなどを鑑みながら、谷崎が日本的な陰翳への探求を深めていった動機を考察している[5]。そして、映画の演出法を説いたものとしても読める『陰翳礼讃』の「洞察の鋭さ」や「叡智」を指摘し、「谷崎はそれとは知らずに、モノクローム時代の映画理論家として、世界でもっとも美しい書物を書いていたかもしれない」と高評している[5]。
筒井康隆は、谷崎の他の随筆でも見られる筆や紙へのこだわりに触れ、昭和8年当時に、今の「筆ペン」を「造りまで正確に」予言していたことに驚いている[8]。また最後の文学論ともいえる味のある名文の一節を、ぜひ音読するように勧めている[8]。
おもな刊行本
- 『陰翳禮讃』(創元社、1939年12月。創元文庫、1952年3月)
- 『陰翳礼讃』(角川文庫、1955年7月)
- 収録作品:「恋愛及び色情」「陰翳礼讃」「現代口語文の欠点について」「懶惰の説」「半袖ものがたり」「厠のいろいろ」「旅のいろいろ」
- 『陰翳礼讃』(中公文庫、1975年10月。改版1995年9月)
- 収録作品:「陰翳礼讃」「懶惰の説」「恋愛及び色情」「客ぎらい」「旅のいろいろ」「厠のいろいろ」
- 『谷崎潤一郎随筆集』(岩波文庫、1985年8月)
脚注
- ^ a b c 「古典回帰の時代」(アルバム谷崎 1985, pp. 65–77)
- ^ a b c d 「比類なき『大谷崎』――震災と変容」(太陽 2016, pp. 75–87)
- ^ 意匠性 1993
- ^ a b c d 西野厚志「谷崎潤一郎研究史」(夢ムック 2015, pp. 228–244)
- ^ a b c 四方田犬彦「モダニスト潤一郎――谷崎潤一郎の映画体験」(夢ムック 2015, pp. 215–227)
- ^ 「谷崎潤一郎年譜」(夢ムック 2015, pp. 262–271)
- ^ 「主要著作目録」(アルバム谷崎 1985, p. 111)
- ^ a b c 筒井康隆「解説」(陰翳・文庫 2016, pp. 332–339)
- ^ グレゴリー 2015
- ^ 清水良典「谷崎は偉大な愚者なのか?――谷崎文学の『思想』についての覚書」(夢ムック 2015, pp. 77–84)
参考文献
- 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(改)中公文庫、1995年9月。ISBN 978-4-12-202413-7。 初版1975年10月
- 谷崎潤一郎『陰翳礼讃・文章読本』新潮文庫、2016年8月。ISBN 978-4-10-100516-4。
- 笠原伸夫 編『新潮日本文学アルバム7 谷崎潤一郎』新潮社、1985年1月。ISBN 978-4-10-620607-8。
- 『文藝別冊 谷崎潤一郎――没後五十年、文学の奇蹟』河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2015年2月。ISBN 978-4309978550。
- 千葉俊二監修『別冊太陽 日本のこころ236 谷崎潤一郎――私はきつと、えらい芸術を作つてみせる』平凡社、2016年1月。ISBN 978-4-582-92236-3。
- 川崎雅史; 堀秀行; 佐佐木綱「日本の伝統的空間に現われる陰影の意匠性に関する研究」『土木学会論文集』第458号、121-127頁、1993年。 NAID 130003981765。
- ケズナジャット・グレゴリー「アメリカにおける『陰翳禮讃』と『蓼喰ふ蟲』の紹介:谷崎潤一郎の英訳と「日本文学」の評価基準」『同志社国文学』第82号、同志社大学国文学会、104-116頁、2015年3月。 NAID 120005723650。