「ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)」の版間の差分
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{{政治家 |
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{{翻訳中途|1=[http://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=William_Cecil,_1st_Baron_Burghley&action=history 2008年8月24日 (日) 14:06の版]|date=2008年8月}} |
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|人名 = 初代バーリー男爵<br/>ウィリアム・セシル |
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|各国語表記 = {{lang|en|William Cecil<br/>1st Earl of Salisbury}} |
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'''ウィリアム・セシル'''(William Cecil, [[1520年]][[9月13日]] - [[1598年]][[8月4日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]女王[[エリザベス1世]]の宰相、初代バーリー男爵(1st Baron of Burghley)。 |
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|画像 = William Cecil, 1st Baron Burghley from NPG (2).jpg |
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|画像説明 = [[ガーター騎士団]]のローブをまとうバーリー卿<br/>({{仮リンク|マークス・ヘラート|en|Marcus Gheeraerts the Younger}}画) |
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|国略称 ={{ENG927}} |
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|生年月日 =[[1520年]][[9月13日]] |
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|出生地 ={{ENG927}}・[[リンカンシャー]]・{{仮リンク|バーン (リンカンシャー)|label=バーン|en|Bourne, Lincolnshire}} |
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|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1520|9|13|1598|8|4}} |
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|死没地 = {{ENG927}}、[[ロンドン]] |
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|出身校 = [[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|セント・ジョン・カレッジ (ケンブリッジ大学)|label=セント・ジョン・カレッジ|en|St John's College, Cambridge}} |
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|前職 = |
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|所属政党 = |
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|称号・勲章 = 初代{{仮リンク|バーリー男爵|en|Baron Burghley}}、[[ガーター勲章|ガーター勲章勲章士]](KG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC) |
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|親族(政治家) = {{仮リンク|リチャード・セシル (廷臣)|label=リチャード・セシル|en|Richard Cecil (courtier)}}(父)<br/>{{仮リンク|トマス・セシル (初代エクセター伯爵)|label=初代エクセター伯爵|en|Thomas Cecil, 1st Earl of Exeter}}(長男)<br/>[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|初代ソールズベリー伯爵]](次男)<br/>[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|第3代ソールズベリー侯爵]](子孫) |
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|配偶者 = |
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|サイン = |
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|ウェブサイト = |
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|サイトタイトル = |
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|国旗 = ENG |
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|職名 = {{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}} |
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|就任日 = [[1550年]][[9月5日]] - [[1553年]][[7月19日]]<br/>[[1558年]][[11月22日]] |
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|退任日 = [[1572年]][[7月13日]] |
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|元首職 = 国王<br/>女王 |
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|元首 = [[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]<br/>[[エリザベス1世]] |
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|国旗2 = ENG |
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|職名2 = {{仮リンク|大蔵卿 (イギリス)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}} |
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|就任日2 = [[1572年]]7月 |
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|退任日2 = [[1598年]][[8月4日]] |
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|元首職2 = 女王<br/> |
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|元首2 = [[エリザベス1世]] |
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|国旗3 = ENG |
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|選挙区3 = {{仮リンク|スタンフォード選挙区|en|Stamford (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|リンカンシャー選挙区|en|Lincolnshire (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ノーザンプトンシャー選挙区|en|Northamptonshire (UK Parliament constituency)}} |
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|職名3 = [[庶民院]]議員 |
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|就任日3 = [[1547年]] - [[1552年]]<br/>[[1555年]]、[[1559年]]、[[1562年]]<br/>[[1562年]] |
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|退任日3 = [[1567年]] |
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'''初代バーリー男爵、ウィリアム・セシル'''({{lang-en-short|'''William Cecil, 1st Baron of Burghley'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1520年]][[9月13日]] - [[1598年]][[8月4日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の[[政治家]]、[[貴族]]。 |
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[[テューダー朝]]最後の女王[[エリザベス1世]]の即位から晩年に至るまでの重臣。40年にもわたって彼女を補佐し、[[エリザベス朝]]のイングランドの国政を主導した。{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}(在職[[1550年]]-[[1553年]]、[[1558年]]-[[1572年]]){{#tag:ref|国王秘書長官はヘンリー8世以前には国王の手紙の下書きや代筆が主な任務だったが、ヘンリー8世の国王秘書長官[[トマス・クロムウェル]]が絶大な権力を握ったことで重職となる<ref name="石井(2009)220">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.220</ref>。エリザベス朝のイングランドの官職の中では秘書長官が最も重要な役職だった。その影響力は内政・外交のあらゆる分野に及び、中央行政を主導する地位であった<ref name="今井(1990)73">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.73</ref>。|group=注釈}}や{{仮リンク|大蔵卿 (イギリス)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}(在職[[1572年]]-[[1598年]])などを歴任。 |
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== 出自 == |
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歴史家によって、セシルの出身を下級貴族とするか裕福な商人とするかは分かれるが、いずれにしても名門貴族ではない。この当時、[[枢機卿]]などの聖職者以外では、名門貴族の出身ではない人物が重要な職務に就くことはなかったようである。 |
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エリザベス朝後期から[[ステュアート朝]]初期に重臣として国政を主導した初代ソールズベリー伯爵[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]]は次男である。また[[19世紀]]後半に三度にわたって[[イギリスの首相|イギリス首相]]を務めて国政を主導した第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]は子孫である。 |
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あまり出身階級が高くない人物がエリザベス1世の側近に多いが、セシルもまたその一人であり、[[ケンブリッジ大学]]出身の[[プロテスタント]]で、弁護士でもあった。エリザベスが即位する前、10年近くにわたって彼女の財産管理を任されていた。その際の手腕によって信頼を得たともいわれる。 |
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== 生涯 == |
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Alison Weirの ''"Children of Henry VIII"'' によると |
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=== 生い立ち === |
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* [[1548年]]頃、Parliament(現[[イギリスの議会|英国議会]])の一員となり、また当時の摂政サマセット公の秘書をしていた。この当時の表記はMr Cecil。 |
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[[1520年]][[9月18日]]、{{仮リンク|リチャード・セシル (宮内官)|label=リチャード・セシル|en|Richard Cecil (courtier)}}とその妻ジェーン(旧姓ヘッキントン)の長男として[[リンカンシャー]]・{{仮リンク|バーン (リンカンシャー)|label=バーン|en|Bourne, Lincolnshire}}にある母方の実家で生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p205.htm#i2050 |title= William Cecil, 1st Baron of Burghley |accessdate= 2014-4-3 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="石井(2009)218">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.218</ref><ref name="世界(1980,5)425">[[#世界(1980,5)|世界伝記大事典 世界編5巻(1980)]] p.425</ref>。父リチャードは富裕な[[ジェントリ]]であり<ref name="世界(1980,5)425"/>、また王室に衣装担当の宮内官として仕える人物だった<ref name="石井(2009)218"/>。 |
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* [[1553年]]の[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]の死に際しては、[[ジェーン・グレイ]]擁立派には加わらず([[枢密院 (イギリス)|枢密院]]の一員だったが、ジェーン擁立の署名はしていない)、[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]の擁立に関わるが、プロテスタントだったため、熱烈なカトリックであるメアリーの統治下では公の場に出ることを許されなかった(枢密院は貴族によって構成されるため、当時は貴族であったと思われる)。 |
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[[スタンフォード]]で育ち、地元の学校で学んだ後、14歳の時の[[1535年]]に[[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|セント・ジョン・カレッジ (ケンブリッジ大学)|label=セント・ジョン・カレッジ|en|St John's College, Cambridge}}に入学した<ref name="石井(2009)218"/><ref name="世界(1980,5)425"/>。ケンブリッジ在学中にメアリー・チークと結婚したが、彼女は長男{{仮リンク|トマス・セシル (初代エクセター伯爵)|label=トマス|en|Thomas Cecil, 1st Earl of Exeter}}を産んだ二年後に死去している<ref name="石井(2009)218"/>。 |
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== 経歴 == |
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1520年、リチャード・セシル{{enlink|Richard Cecil (courtier)|a=on}}とその妻ジェーンの唯一の男子として生まれる。[[ケンブリッジ大学]]の[[セント・ジョンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|セント・ジョンズ・カレッジ]]に入学し、教官だった[[ロジャー・アスカム]](エリザベスの恩師でもある)や[[ジョン・チーク]]の元で、[[ギリシア語]]の教養を磨いた。6年間の在学期間を経て卒業する。ジョン・チークの妹メアリーと反対を押し切って結婚し、[[1542年]]に長男トーマスを儲けるが、翌[[1543年]]にメアリーと死別する。3年後の[[1546年]]にアントニー・クック卿の娘ミルドレッドと再婚した。このミルドレッドは[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]の伯母で(妹アンがベーコンの母)、アスカムをして女王[[ジェーン・グレイ]]と並び英国で最も教養ある女性と評せしむほどの賢婦人であった。 |
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[[1541年]]に学位を得ないままケンブリッジ大学を退学し、ロンドンの{{仮リンク|グレイズ・イン|en|Gray's Inn}}法学院に入学した<ref name="世界(1980,5)425"/><ref name="石井(2009)218"/>。[[1546年]]には[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード王子]]の家庭教師{{仮リンク|アンソニー・クック|label=サー・アンソニー・クック|en|Anthony Cooke}}の娘{{仮リンク|ミルドレッド・クック|label=ミルドレッド|en|Mildred Cooke}}と再婚し、彼女との間に次男[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート]]と娘二人を儲けた<ref name="石井(2009)218"/><ref name="thepeerage.com"/>。 |
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セシルは当初サマセット公[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]の元で働いた。サマセット公は[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]の叔父で、[[護国卿]]の地位にあった。彼が起こした[[1547年]]のスコットランド侵攻([[ピンキー・クルーの戦い]])に際しては軍法会議の判事を務めている。この時同僚だった[[ウィリアム・パッテン]]がその際の記録を ''"Expedition into Scotland"'' として出版するに当たっては、自身の資料を提供してこれを助けている。 |
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=== 政界入り === |
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セシル自身の回想によれば、[[1543年]]に初めてイングランド議会にその議席を得たという。現存する不完全な記録ではそのことを確認できないが、1547年にはスタンフォードの選挙区から選ばれたことがわかっている。 |
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[[1547年]]に{{仮リンク|スタンフォード選挙区|en|Stamford (UK Parliament constituency)}}から[[庶民院]]議員選挙に出馬して当選し、政界入りを果たした<ref name="世界(1980,5)425"/><ref name="石井(2009)218"/>([[1552年]]までこの選挙区の[[庶民院]]議員を務めた後、[[1555年]]、[[1559年]]、[[1562年]]には{{仮リンク|リンカンシャー選挙区|en|Lincolnshire (UK Parliament constituency)}}から選出され、さらに[[1562年]]には[[1567年]]にかけては{{仮リンク|ノーザンプトンシャー選挙区|en|Northamptonshire (UK Parliament constituency)}}から選出されている<ref name="thepeerage.com"/><ref name="venn">{{venn|id=CCL535W|name=Cecil, William (Lord Burghley)}}</ref>)。 |
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宮廷内においても[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]](在位[[1509年]]-[[1547年]])の時代に{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}[[トマス・クロムウェル]]の目にとまって秘書官に抜擢された<ref name="石井(2009)218"/>。続く幼王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]](在位1547年-[[1553年]])の時代にも摂政[[サマセット公]][[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]に目をかけられ、秘書官を務めるが、[[1549年]]のサマセット公の失脚に巻き込まれて一時[[ロンドン塔]]に幽閉された<ref name="石井(2009)218"/><ref name="世界(1980,5)425"/>。 |
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[[1548年]]、セシルは「護国卿の請願審議官([[:en:Maître des requêtes|Master of Requests]])」と言われる立場で、サマセット公が設けた貧民救済のための私的法廷に奉職していた。またサマセット公の個人秘書的な仕事もしていたことから、[[1549年]]のサマセット公の失脚は彼にとって文字通りの危機であった。 |
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しかしサマセット公に代わって権力を握ったノーサンバランド公[[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)|ジョン・ダドリー]]からも実務能力を高く評価されていたため、[[1550年]]1月に釈放され、再び秘書官となった<ref name="石井(2009)218"/><ref name="世界(1980,5)425"/>。[[1550年]]9月には{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}に任命された<ref name="石井(2009)218"/><ref name="thepeerage.com"/>。同時に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)にも列する。[[1551年]]10月には[[ナイト]]に叙せられた<ref name="世界(1980,5)425"/><ref name="thepeerage.com"/>。また1550年からエリザベス王女(後の女王[[エリザベス1世]])の領地調査管理官となり、これがきっかけでエリザベスからも実務能力を高く評価されるようになった<ref name="石井(2009)219">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.219</ref>。 |
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これに対してウィリアムはサマセット公の政敵[[ウォリック伯]][[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)|ジョン・ダドリー]]に近付き、その信任を得てエドワード6世の秘書官に就任する。一方サマセット公は、一度は政界に復帰するものの、間もなく[[1551年]]10月、[[ノーサンバランド公]]となったダドリーの手で再び逮捕される(翌年処刑)。セシルが[[ナイト]]の地位を得たのはまさにその直前のことで、道連れを免れての彼の出世は周囲の賞賛を浴びた。さらに翌4月には[[ガーター勲章]]を受けるが、先の経験から権勢家に盲従する危険には十分に気を払っていた。 |
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[[1553年]]のエドワード6世の[[崩御]]後、ノーサンバランド公が[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー王女]](後のメアリー1世)を無視して[[ジェーン・グレイ]]を女王に擁立しようとした。セシルは不本意ながらノーサンバランド公の計画に同意した。しかしメアリー王女の蜂起を知るとノーサンバランド公を見捨てメアリーのもとにはせ参じている<ref name="世界(1980,5)425"/>。メアリー女王の即位後、セシルは国王秘書長官を辞することになったが<ref name="世界(1980,5)425"/>、メアリー女王自身はセシルの能力を高く買っており、彼に官職を与えたがっていたが、セシル自身が宗教の違い(メアリー女王は強硬な[[カトリック]])を理由に拝辞したという。しかし[[ブリュッセル]]で[[枢機卿]][[レジナルド・ポール]]を出迎える外交任務は引き受けている<ref name="石井(2009)219"/>。また[[1555年]]には[[リンカンシャー]]の[[治安判事]]にも就任している<ref name="世界(1980,5)425"/>。 |
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[[1553年]]、エドワード6世が死の床につくと、ノーサンバランド公は息子と結婚したジェーン・グレイを女王にしようと策動した。これにセシルは最後まで反対し、最後まで必要な書類に署名することを拒んだ。この抵抗は文字通り命を賭してのもので、彼は死を覚悟して妻に別れの手紙を書いている。だが結局、最後には署名を余儀なくされた。 |
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=== エリザベス女王の秘書長官に就任 === |
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[[1558年]]、[[エリザベス1世]]の即位に伴い、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]議員および第一秘書(Chief Secretary)に任命される。この職が事実上の一番の相談役である<ref>小西章子『華麗なる2人の女王の闘い』</ref>ことから、首相に任命されたとも記される<ref>石井美樹子監修『女王エリザベス』では首相と呼んでいる。</ref>。この時点ではSir Williamであって、高位の貴族ではない。 |
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[[File:Queen Elizabeth I; Sir Francis Walsingham; William Cecil, 1st Baron Burghley by William Faithorne (2).jpg|180px|thumb|左からセシル、[[エリザベス1世|エリザベス女王]]、[[フランシス・ウォルシンガム|ウォルシンガム]]({{仮リンク|ウィリアム・フェイソーン|en|William Faithorne}}画)]] |
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[[1558年]]11月にメアリー女王が崩御し、エリザベス1世が即位した。即位後、エリザベス女王は直ちにセシルを国王秘書長官に任じた。この際にエリザベスはセシルに以下のような勅語を与えたという<ref name="世界(1980,5)425"/><ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.219-220</ref>。 |
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{{Quotation|私は貴下を枢密顧問官及び国王秘書長官に任命する。私と王国のために全力を尽くすようこの勅語を与える。貴下は収賄・汚職にまみれることなく、国家に対して忠実であり、私の意思に反してでも最善と思う助言を与えてくれるであろう。私が内密に知るべきことがあれば、貴下は私だけに知らせるであろうし、私もそれをわが胸に秘めるであろう。|エリザベス女王が{{仮リンク|ハットフィールド・ハウス|en|Hatfield House}}の大広間でセシルにかけた言葉}} |
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[[1571年]]、バーリー男爵に叙される。 |
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=== 国教会関連法案の議会通過をめぐって === |
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1598年に没する。次の宰相で[[ソールズベリー侯|ソールズベリー伯]]に叙された[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]]は息子である。 |
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[[1559年]]1月にエリザベス女王即位後の最初の議会が招集され、エリザベスとセシルは[[イングランド国教会]]の[[プロテスタント]]化を推進する「{{仮リンク|1558年国王至上法|label=国王至上法|en|Act of Supremacy 1558}}」と「{{仮リンク|1558年礼拝統一法|label=礼拝統一法|en|Act of Uniformity 1558}}」を議会に提出した。 |
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同法案は[[庶民院]]を通過したものの、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]でカトリック聖職者の反発を受けて否決された。女王とセシルは法案を軟化させる修正を行い、1559年の[[復活祭]]後に召集された議会に法案を再提出した。「国王至上法」ではヘンリー8世時代の「国王至上法」の「首長」という表現を「統治者」に代えることで君主が教会について万能ではないことを暗示し、カトリック聖職者に受け入れやすくしていた。また「礼拝統一法」では使用を義務付ける国教会共通祈祷書についてプロテスタント的な1552年版の物をより曖昧にして、広範な信徒に受け入れやすくしていた。こうした処置により「国王至上法」は大きな反発なく可決され、「礼拝統一法」もわずか3票差ながら、なんとか貴族院を通過させることができた(ただこの際に二人のカトリック司教を逮捕して投票に参加させないという強引な手段も使っている)<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.242-251</ref><ref name="今井(1990)70">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.70</ref>。 |
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== エリザベス1世の宰相として == |
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歴史上完璧な宰相というものがいるとしたら、ウィリアム・セシルであるとまで評価する歴史家もいるようである。エリザベス1世に死ぬまで忠実な臣下として仕え、主君の不興を買ってでも諌言をする、信用に足る人物と書かれている歴史書も複数ある。エリザベス1世には「私の精霊」(My Spirit)とまで呼ばれていた<ref>ヒバート『女王エリザベス』</ref>。ただし、女王に結婚するよう勧めていた点に関しては、セシルの頭の固さ、能力の限界と指摘されていることもある。 |
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=== スコットランド出兵 === |
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その老練さ故か、エリザベス1世を主人公にした小説、漫画、映画などでは父親ほどの年齢に描かれることも多いが、実際は13歳年上で、それほど高齢ではない。 |
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セシルは[[1559年]]よりスコットランド情勢に注目しており、スコットランド摂政[[メアリ・オブ・ギーズ]]に対するスコットランド国民の反乱を煽る工作活動に努めてきた<ref name="石井(2009)280">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.280</ref>。 |
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セシルの強い進言を受けたエリザベスは1559年末から[[1560年]]にかけてスコットランドの反乱を支援する出兵を行った。途中撤兵を考えたエリザベスをセシルは辞職をちらつかせてでも翻意させて出兵を強行させた。その結果、[[エディンバラ]]・{{仮リンク|リース (エディンバラ)|label=リース|en|Leith}}要塞のフランス軍を大敗させることに成功した。[[1560年]]6月にはセシル自らエディンバラへ向かい、和平交渉に当たり、{{仮リンク|エディンバラ条約|en|Treaty of Edinburgh}}を締結した。これによりフランス軍のスコットランドからの撤兵、リース要塞の解放、スコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]がイングランド女王を名乗らないことなどが取り決められた。さらに8月にはスコットランド議会が国教をカトリックからプロテスタントに変える決議を出した<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.281-282</ref>。 |
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エリザベス1世の「愛人」ロバート(ロビン)・ダドリーの妻の殺害、[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]に対する工作など、エリザベスがしたかもしれない汚い仕事に関しては、女王の意を汲み「宰相が勝手にやった」ことにして手を下したのではないかと書く歴史家も多い。 |
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[[File:Cecil Court of Wards.jpg|180px|thumb|{{仮リンク|後見裁判所|en|Court of Wards and Liveries}}を描いた絵画。中央が長官ウィリアム・セシル。]] |
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[[1561年]]には{{仮リンク|後見裁判所|en|Court of Wards and Liveries}}長官を兼務し、死去まで同職に在職し続けた。これは人事権を掌握する重要なポストであり、当時の最高ポストであった{{仮リンク|大蔵卿 (イギリス)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}の前階梯の地位と看做されていた<ref name="世界(1980,5)425"/>。 |
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女王の寵臣[[ロバート・ダドリー (初代レスター伯)|ロバート・ダドリー]](1564年にレスター伯爵に叙される)の推進で[[1562年]]からその翌年にかけて実施された[[ユグノー]]援助のフランス出兵には強く反対した。結局この出兵は失敗したため、セシルのレスター伯爵に対する優位が確立された<ref name="世界(1980,5)425"/>。しかしレスター伯爵はその後も女王の寵愛を受け続けたため、宮廷内でセシルと権勢を二分する派閥の領袖であり続けた<ref name="青木(2000)81">[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.81</ref>。 |
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晩年、高齢のために体が弱ってからも、職を辞すことを許されず、代わりに女王の前で椅子に座ったまま職務を遂行することを許された。没年が女王と5年しか変わらないため、エリザベス1世の治世のほとんどに携わった。 |
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=== 北部諸侯の乱をめぐって === |
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== 子供 == |
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[[1568年]]12月、[[ネーデルラント17州|ネーデルラント]]で反乱鎮圧に当たる[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公]]への軍資金を乗せたスペイン船が悪天候とユグノー派海賊の追跡から逃れるためにイングランド南岸に寄港する事件があったが、これを知ったセシルは女王に進言してこの船に積んである軍資金を全て没収させた。これに対抗してアルバ公がネーデルラントにいるイングランド人を逮捕してその財産を没収すると、エリザベスもこれに対抗して[[スペイン人]]と[[フランドル]]人の財産を没収した。この一連の騒ぎでイングランドとスペインの関係は決定的に悪化したため、イングランド国内でもセシル批判が高まった<ref>[[#世界(1980,5)|世界伝記大事典 世界編5巻(1980)]] p.425-426</ref>。 |
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最初の結婚で産まれた長男トーマスに期待したが、2度目の結婚で産まれた次男[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート]]が父を助け、父の死後は宮廷内での役割を継いだようである。トーマスは2代目バーリー男爵、初代エクセター伯となり、ロバートは初代ソールズベリー伯となった。そのほか、長女アンはオックスフォード伯[[エドワード・ド・ヴィアー (第17代オックスフォード伯)|エドワード・ド・ヴィアー]]と結婚した。 |
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反セシルの機運が高まる中、[[1569年]]にはセシル排除の計画が、イングランド亡命中のスコットランド前女王メアリー{{#tag:ref|スコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]は[[1567年]]に夫[[ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)|ダーンリー卿]]を殺害した容疑でプロテスタント貴族たちによってスコットランド王位を追われた。[[1568年]]にイングランドへ亡命し、スコットランド王位を取り戻すための助力をエリザベスに要請したが、拒否されてイングランド国内で緩やかな軟禁状態に置かれていた<ref>[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.91-94</ref>。|group=注釈}}と[[ノーフォーク公]][[トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]の結婚計画と合わせて盛り上がりを見せていた。ノーザンバーランド伯爵{{仮リンク|トマス・パーシー (第7代ノーザンバーランド伯)|label=トマス・パーシー|en|Thomas Percy, 7th Earl of Northumberland}}やウェストモアランド伯爵{{仮リンク|チャールズ・ネヴィル (第6代ウェストモアランド伯爵)|label=チャールズ・ネヴィル|en|Charles Neville, 6th Earl of Westmorland}}らカトリック北部諸侯と駐英スペイン大使がこの計画の中心であり、メアリーも前向きだった。宮廷内のセシルのライバルであるレスター伯爵も一時この計画に協力していた。しかし反セシルだけではなく、反エリザベス色も強い計画だったため、後にレスター伯爵は計画から手を引いた。ノーフォーク公も手を引こうとしたが、ノーフォーク公は[[1569年]]10月にロンドン塔に幽閉された。カトリック北部諸侯は11月に反乱を起こしたが、スペインが援軍を送らなかったため、失敗に終わった。この「{{仮リンク|北部諸侯の乱|en|Rising of the North}}」によってセシルの権勢はむしろ強化された<ref name="世界(1980,5)426">[[#世界(1980,5)|世界伝記大事典 世界編5巻(1980)]] p.426</ref><ref>[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.98-99</ref>。 |
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== フィクションでのイメージ == |
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エリザベス1世を主人公にした小説でも、即位前の危ない時期に「今宮廷に来ると危ない」と警告したり(『我が名はエリザベス』)、現在の政治情勢についての情報をまめに届ける(''"Beware, Princess Elizabeth"'' )などの役割で登場することが多い。その有能さのために、サマセット公を葬り去ったノーサンバランド公が、政敵は処刑しながら、その首席秘書だったセシルは自分の側近につけたというエピソードもある(歴史書では未確認、エドワード6世の時代)。 |
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=== リドルフィ陰謀事件の摘発 === |
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次男のロバート・セシルとウィリアム本人をあわせた「セシルズ」が、エリザベスの「愛人」がとかく大きな勢力となる宮廷で、それに対抗して宮廷を二分する勢力であったとする小説(''"Queen of this realm"'' )もある。 |
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[[1570年]]2月に教皇[[ピウス5世]]がエリザベスを破門したため、以降[[イエズス会]]士などカトリック宣教師がイングランドに潜入してきて反エリザベス謀議を行うようになった<ref>[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.100-102</ref>。 |
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セシルはすでに[[フランシス・ウォルシンガム]]のもとに[[秘密警察]]的な情報組織を完成させており、女王暗殺謀議は即時に取り締まった。[[1571年]]には{{仮リンク|リドルフィ陰謀事件|en|Ridolfi plot}}を摘発した。これは教皇に忠実な[[フィレンツェ]]の銀行家{{仮リンク|ロベルト・ディ・リドルフィ|en|Roberto di Ridolfi}}が中心になって立案した計画で、ネーデルラントのスペイン軍をイングランド南岸に上陸させ、それに乗じてノーフォーク公とメアリーが反乱を起こし、二人がイングランドとスコットランドの王位についてカトリック信仰を復活させるという計画だった。セシルとウォルシンガムは、陰謀の中心人物としてノーフォーク公を逮捕させ、裁判にかけて死刑に処し(リドルフィにはイングランド外に逃げられた)、駐英スペイン大使にもイングランド退去を命じた<ref>[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.102-104</ref><ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.360-371</ref>。 |
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エリザベスの生涯変わらぬ恋人だったとする小説(『王女リーズ』)もあるが、これは英語圏ではまず出てこない発想のようである。なお、この小説ではあとがきで、エリザベスの恋人であるというのは全くの創作であると断っている。 |
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=== バーリー男爵に叙せられる === |
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== 小説 == |
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[[1571年]][[2月25日]]に{{仮リンク|バーリー男爵|en|Baron Burghley}}に叙され、貴族となった<ref name="世界(1980,5)426"/>。これまでセシルは議会の[[庶民院]]においても庶民院運営を巧みにリードする存在であったが、貴族に叙せられたことで[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に転じることになった。以降の庶民院運営の主導権はウォルシンガムらに移ったが、彼らはセシルほど円滑にやれず、特許権などをめぐって政府と議会の対立が激化していった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.106-107</ref>。 |
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スペインとの緊張が高まっていく中、宮廷内ではレスター伯爵やウォルシンガムが対スペイン主戦論を唱えたが、セシルは開戦に慎重でエリザベスもセシルの助言に従って[[1585年]]まではスペインとの戦争を避けた<ref name="今井(1990)72">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.72</ref>。ちなみにセシルとレスター伯爵は敵対関係だったが、セシルとウォルシンガムは戦争についての意見が食い違いながらも敵対的な関係ではなく、むしろウォルシンガムは最重臣セシルの補完者のような存在であり続けた<ref name="トレ(1974)83">[[#トレ(1974)|トレヴェリアン(1974)]] p.83</ref>。 |
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=== 大蔵卿として === |
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1572年4月に重病にかかったため、秘書長官職を辞した(1573年からウォルシンガムが就任)。代わって同年7月に{{仮リンク|大蔵卿 (イングランド)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}に任じられた<ref name="世界(1980,5)426"/>。 |
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大蔵卿として王庫を預かるようになったバーリー卿は、王庫の貯蓄に励んだ。倹約の努力を重ねてスペインとの開戦が不可避となった[[1584年]]までに王庫は30万ポンドの貯蓄を持つようになった。だが[[英西戦争 (1585年)|スペインとの戦争]]により[[1590年]]までにはこの貯蓄は消えて無くなった。その後バーリー卿は再び倹約の努力をして[[1590年代]]半ばまでに13万ポンドを貯蓄したが、凶作で[[1596年]]以降に再び減少し、いよいよ王領地を売却していくことを余儀なくされた<ref>[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.213-214</ref>。 |
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エリザベスとバーリー卿は倹約一辺倒で現在の収入源の増収を図ることや関税以外の恒常的税収を議会に認めさせる努力を怠った<ref name="今井(1990)73">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.73</ref><ref name="青木(2000)213">[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.213</ref>。議会の議決による臨時収入はそれまでは戦時限定だったが、エリザベスとバーリー卿は平時でもそれに期待せざるを得ない困窮状態に置かれていた<ref name="青木(2000)213"/>。 |
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抜本的財政改革をしようとせず、小手先の倹約だけでしのごうとするエリザベスとバーリー卿は結局、後世に大きなツケを残すことになった。それに最初に苦しんだのはバーリー卿の息子[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート]]であり、彼は[[1610年]]に議会で「[[大契約]]」を提案して財政改革を行おうとするも議会から否決されるという憂き目にあっている<ref name="今井(1990)74">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.74</ref>。 |
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=== 晩年 === |
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[[File:William-und-Robert-Cecil.jpg|250px|thumb|バーリー卿と息子[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]]を描いた絵画。]] |
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[[1590年]]に国王秘書長官を務めていたウォルシンガムが死去した。バーリー卿は息子の[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート]]を後任に据えようとしたが、エリザベスが若年すぎると難色を示しため、国王秘書長官職はしばらく空位のままでバーリー卿が国王秘書長官代理を務めることになった。しかしバーリー卿とロバートは常に一緒に仕事をしていたので、[[1591年]]秋頃には「国務の全てはセシル親子が牛耳っている」とまで評されるようになったという<ref name="石井(2009)487">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.487</ref>。 |
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この頃から女王の寵臣であるエセックス伯爵[[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]とセシル親子の対立が深まった<ref name="石井(2009)488">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.488</ref>。エセックス伯爵はエリザベスと血縁関係があり、また野心的な美男子だったため、女王や国民からの人気が高かった。特に都市とその選挙区における彼の人気は絶大であり、セシル親子の権勢さえも脅かすものがあった<ref>[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.231/234</ref>。 |
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[[1593年]]の{{仮リンク|イングランド・ウェールズ法務総裁|label=法務総裁|en|Attorney General for England and Wales}}の人事問題{{#tag:ref|1593年に{{仮リンク|イングランド・ウェールズ法務総裁|label=法務総裁|en|Attorney General for England and Wales}}{{仮リンク|トマス・エガートン (初代ブラックリー子爵)|label=トマス・エガートン|en|Thomas Egerton, 1st Viscount Brackley}}が国璽尚書兼[[大法官]]に昇進したのに伴って法務総裁ポストが空席となったが、その後任人事をめぐって、エセックス伯爵が庶民院議員[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]を推したのに対してセシル親子は法務次官[[エドワード・コーク]]を推した。フランシス・ベーコンの母はセシルの妻ミルドレッドの妹だったので、セシルにとってベーコンは義理の甥にあたるが、セシルはベーコンの優秀さを息子ロバートの出世の危険になると判断し、取り立てようとはしなかった。その不満からベーコンはエセックス伯爵のもとに走っていたのであった。しかしエリザベス女王は1594年にセシルの助言通りコークを法務総裁に任じている<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.488-491</ref>。|group=注釈}}や[[1594年]]の女王侍医{{仮リンク|ロドリゴ・ロペス (医師)|label=ロドリゴ・ロペス|en|Rodrigo López (physician)}}の事件{{#tag:ref|エセックス伯爵は、女王暗殺を企んだとしてポルトガル・[[ユダヤ人]]の女王侍医[[ロデリゴ・ロペス]]を逮捕したが、セシル親子は長く女王に仕えてきたロペスが今更そんなことをするはずがないと考え、ロペスを擁護した。女王もはじめ冤罪と考え、エセックス伯爵を叱責したが、まもなくエセックス伯爵の説得で翻意し、ロペスの取り調べを許した。エセックス伯爵は世論の[[反ユダヤ主義]]が高まったのを好機として、ロペスを是が非でも犯人に仕立て上げようとし、拷問の末に「自白」を引き出して裁判にかけて死刑に追い込んだ<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.493-496</ref>。|group=注釈}}をめぐって両者は鋭く対立した<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.490-496</ref>。またスペインとの戦争をめぐってはエセックス伯爵が主戦派だったのに対して、セシル親子は和平派だった<ref name="石井(2009)509">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.509</ref>。 |
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[[1596年]]7月には息子ロバートが国王秘書長官に任命された<ref name="石井(2009)505">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.505</ref>。 |
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[[1598年]][[8月4日]]午前5時に78歳で死去した。エリザベス女王即位から40年にわたって女王を支え続けた人生だった<ref name="石井(2009)516">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.516</ref>。 |
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{{-}} |
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== 人物 == |
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[[File:William Cecil, 1st Baron Burghley from NPG (4).jpg|180px|thumb|バーリー男爵ウィリアム・セシルの肖像画]] |
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博覧強記の人物で、しかも長時間に及んで仕事のできる忍耐力を持った人物だった。彼のもとには一日に百通近い嘆願書が届いたが、夜のうちに目を通し、朝までにすべてに返事を書いたという。メモ魔でもあり、膨大な量の備忘録を残した。その備忘録は[[ソールズベリー侯爵]]家の{{仮リンク|ハットフィールド・ハウス|en|Hatfield House}}に保存されており、当時を知る重要な記録となっている<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.220-221</ref>。 |
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彼は他の多くのケンブリッジ大学卒業生と同様に確信的[[プロテスタント]]であったが、熱狂的カトリックの[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー女王]]のもとではカトリックを遵奉するなど日和見的なところがあった<ref name="ニー(1975,1)51">[[#ニー(1975,1)|ニール(1975) 1巻]] p.51</ref>。[[カトリック]]とプロテスタントの対立が激しい時代にあって、そうした宗教的柔軟性を持っている点が[[エリザベス1世|エリザベス女王]]との共通点であった<ref name="石井(2009)219">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.219</ref>。 |
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セシルは[[1595年]][[3月13日]]付けの息子[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート]]への手紙の中で「女王に助言することが許される場合は、反対されても自分の意見を変える必要はない。それは神を冒涜することになるからだ。私はまず第一に神に至誠を尽くさねばならない。しかし臣下として私は女王の命令に従う必要がある。女王の命令に逆らうのは賢明ではない。女王が神の代理人であることを考えれば、女王の命令に従うことは神のご意志であると思うからだ。」と女王に仕える心構えを説いている<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.221-222</ref>。 |
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一方エリザベス女王の方は「セシルほどの名宰相を持つ君主は私以外にはいないだろう」と自慢していた<ref name="石井(2009)222">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.222</ref>。またエリザベスから「私の精霊」(My Spirit)と呼ばれていた<ref>ヒバート『女王エリザベス』</ref>。 |
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{{-}} |
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== 栄典 == |
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=== 爵位 === |
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*[[1571年]][[2月25日]]、初代{{仮リンク|バーリー男爵|en|Baron Burghley}}([[イングランド貴族]]爵位)<ref name="thepeerage.com"/><ref name="venn"/> |
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=== 勲章・その他 === |
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*[[1550年]][[9月5日]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="thepeerage.com"/> |
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*[[1551年]]10月11日、[[ナイト]]<ref name="thepeerage.com"/><ref name="venn"/> |
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*[[1572年]][[4月23日]]、[[ガーター勲章|ガーター勲章勲章士]](KG)<ref name="thepeerage.com"/><ref name="venn"/> |
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== 家族 == |
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[[1541年]]にピーター・チークの娘メアリーと結婚し、彼女との間に以下の1子を儲ける<ref name="thepeerage.com"/>。 |
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*第1子(長男)初代エクセター伯爵{{仮リンク|トマス・セシル (初代エクセター伯爵)|label=トマス・セシル|en|Thomas Cecil, 1st Earl of Exeter}}(1542-1623):{{仮リンク|エクセター侯爵|en|Marquess of Exeter}}家の祖。 |
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メアリーとの死別後、[[1546年]]に{{仮リンク|アンソニー・クック|label=サー・アンソニー・クック|en|Anthony Cooke}}の娘{{仮リンク|ミルドレッド・クック|en|Mildred Cooke}}と再婚し、彼女との間に以下の3子を儲ける<ref name="thepeerage.com"/>。 |
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*第2子(長女)エリザベス・セシル:サー・ウィリアム・ウェントワースと結婚。 |
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*第3子(次女){{仮リンク|アン・セシル (オックスフォード伯爵夫人)|label=アン・セシル|en|Anne Cecil, Countess of Oxford}}(1556-1589):第17代オックスフォード伯爵[[エドワード・ド・ヴィアー (第17代オックスフォード伯)|エドワード・ド・ヴィアー]]と結婚。 |
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*第4子(次男)初代ソールズベリー伯爵[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]](1563-1612):国王秘書長官、大蔵卿。[[ソールズベリー侯爵]]家の祖。 |
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== フィクション == |
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=== 小説 === |
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* 榛名しおり『王女リーズ』 |
* 榛名しおり『王女リーズ』 |
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* Carolyn Meyer ''"Beware,Princess Elizabeth"'' |
* Carolyn Meyer ''"Beware,Princess Elizabeth"'' |
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* ロザリンド・マイルズ『我が名はエリザベス』(上下巻)近代文芸 |
* ロザリンド・マイルズ『我が名はエリザベス』(上下巻)近代文芸 |
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== 映画 == |
=== 映画・ドラマ === |
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1998年のイギリス映画『[[エリザベス (映画)|エリザベス]]』では[[リチャード・アッテンボロー]]が |
*1998年のイギリス映画『[[エリザベス (映画)|エリザベス]]』では[[リチャード・アッテンボロー]]が演じた<ref>{{Cite web |url=http://www.imdb.com/title/tt0127536/ |title= Elizabeth (1998)|accessdate= 2014-4-4|author= [[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]] |work= [http://www.imdb.com/?ref_=nv_home IMDb] |language= 英語 }}</ref>。 |
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*2005年のイギリス・ドラマ『[[エリザベス1世 〜愛と陰謀の王宮〜]]』では[[イアン・マクダーミド]]が演じた<ref>{{Cite web |url=http://www.imdb.com/title/tt0465326/?ref_=fn_al_tt_1 |title= Elizabeth I (2005)|accessdate= 2014-4-4|author= [[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]] |work= [http://www.imdb.com/?ref_=nv_home IMDb] |language= 英語 }}</ref>。 |
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=== フィクションでのイメージ === |
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エリザベス1世を主人公にした小説でも、即位前の危ない時期に「今宮廷に来ると危ない」と警告したり(『我が名はエリザベス』)、現在の政治情勢についての情報をまめに届ける(''"Beware, Princess Elizabeth"'' )などの役割で登場することが多い。 |
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次男のロバート・セシルとウィリアム本人をあわせた「セシルズ」が、エリザベスの「愛人」がとかく大きな勢力となる宮廷で、それに対抗して宮廷を二分する勢力であったとする小説(''"Queen of this realm"'' )もある。 |
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エリザベスの生涯変わらぬ恋人だったとする小説(『王女リーズ』)もあるが、この小説はあとがきで、エリザベスの恋人であるというのは全くの創作であると断っている。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<references /> |
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=== 注釈 === |
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{{reflist|group=注釈|1}} |
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=== 出典 === |
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<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|1}}</div> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=[[青木道彦]]|date=2000年(平成12年)|title=エリザベス一世 大英帝国の幕開け|series=講談社現代新書1486|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4120040290|ref=青木(2000)}} |
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* 石井美樹子監修『エリザベス女王』小学館 |
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*{{Cite book|和書|author=[[石井美樹子]]|date=2009年(平成21年)|title=エリザベス 華麗なる孤独|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120040290|ref=石井(2009)}} |
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* 小西章子『華麗なる二人の女王の闘い』朝日新聞社 |
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*{{Cite book|和書|editor=[[今井宏]]編|date=1990年(平成2年)|title=イギリス史〈2〉近世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460201|ref=今井(1990)}} |
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* 小林章夫『イギリス名宰相物語』講談社現代新書 |
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*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=G.M.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}|translator=[[大野真弓]]|date=1974年(昭和49年)|title=イギリス史 2|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020363|ref=トレ(1974)}} |
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* Jane Dunn ''"Elizabeth & Mary"'' Vintage Books |
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*{{Cite book|和書|author=J.E.ニール|translator=大野真弓、[[大野美樹]]|date=1975年(昭和50年)|title=エリザベス女王 1|publisher=みすず書房|asin=B000J9D53Q|ref=ニー(1975,1)}} |
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*{{Cite book|和書|date=1980年(昭和55年)|title=世界伝記大事典〈世界編 5〉シキーソ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7XCO0|ref=世界(1980,5)}} |
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* クリストファー・ヒバート『女王エリザベス』(上下巻)原書房 |
* クリストファー・ヒバート『女王エリザベス』(上下巻)原書房 |
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* Alison Weir ''"Children of Henry VIII"''(''"Children of England"''の改題) |
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== 外部リンク == |
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{{DEFAULTSORT:せしる ういりあむ}} |
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{{Commons category|William Cecil, 1st Baron Burghley}} |
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{{Wikisource1911Enc|Burghley, William Cecil, Baron}} |
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* {{NRA|P5251}} |
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{{S-start}} |
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{{s-off}} |
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{{s-bef|before={{仮リンク|ニコラス・ウォットン|en|Nicholas Wotton}}}} |
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{{s-ttl|title={{flagicon|ENG}} {{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}<br><small>{{仮リンク|ウィリアム・ピーター|label=サー・ウィリアム・ピーター|en|William Petre}}とともに</small>|years=[[1550年]] - [[1553年]]}} |
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{{s-aft|after={{仮リンク|ジョン・ボーン|label=サー・ジョン・ボーン|en|John Bourne (Secretary of State)}}}} |
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{{s-bef|before={{仮リンク|ジョン・ボックスオール|en|John Boxall}}}} |
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{{s-ttl|title={{flagicon|ENG}} 国王秘書長官|years=[[1558年]] - [[1572年]]}} |
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{{s-ttl|title={{flagicon|ENG}} [[王璽尚書]]|years=[[1571年]] - [[1572年]]}} |
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{{s-aft|after={{仮リンク|ウィリアム・ハワード (初代ハワード・オブ・エフィングハム男爵)|label=初代ハワード・オブ・エフィングハム男爵|en|William Howard, 1st Baron Howard of Effingham}}}} |
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{{s-ttl|title={{flagicon|ENG}} {{仮リンク|大蔵卿 (イングランド)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}|years=[[1572年]] - [[1598年]]}} |
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| years = [[1547年]] - [[1552年]]<br/><small>同一選挙区同時当選者<br/>[[ジョン・アレン (庶民院議員)|ジョン・アレン]]</small> |
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| title = {{仮リンク|リンカンシャー選挙区|en|Lincolnshire (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 |
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| years = [[1555年]]<br/><small>同一選挙区同時当選者<br/>{{仮リンク|ジョージ・セント・ポール|en|George St Poll}}</small> |
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| after = [[エドワード・ディモク|サー・エドワード・ディモク]]<br/>{{仮リンク|ロバート・ティリット (庶民院議員)|label=サー・ロバート・ティリット|en|Robert Tyrwhitt (MP died 1581)}}}} |
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| before = [[エドワード・ディモク|サー・エドワード・ディモク]]<br/>{{仮リンク|ロバート・ティリット (庶民院議員)|label=サー・ロバート・ティリット|en|Robert Tyrwhitt (MP died 1581)}} |
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}} |
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2014年4月22日 (火) 07:07時点における版
初代バーリー男爵 ウィリアム・セシル William Cecil 1st Earl of Salisbury | |
---|---|
生年月日 | 1520年9月13日 |
出生地 | イングランド王国・リンカンシャー・バーン |
没年月日 | 1598年8月4日(77歳没) |
死没地 | イングランド王国、ロンドン |
出身校 | ケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジ |
称号 | 初代バーリー男爵、ガーター勲章勲章士(KG)、枢密顧問官(PC) |
親族 |
リチャード・セシル(父) 初代エクセター伯爵(長男) 初代ソールズベリー伯爵(次男) 第3代ソールズベリー侯爵(子孫) |
在任期間 |
1550年9月5日 - 1553年7月19日 1558年11月22日 - 1572年7月13日 |
国王 女王 |
エドワード6世 エリザベス1世 |
在任期間 | 1572年7月 - 1598年8月4日 |
女王 | エリザベス1世 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
スタンフォード選挙区 リンカンシャー選挙区 ノーザンプトンシャー選挙区 |
在任期間 |
1547年 - 1552年 1555年、1559年、1562年 1562年 - 1567年 |
初代バーリー男爵、ウィリアム・セシル(英: William Cecil, 1st Baron of Burghley, KG, PC、1520年9月13日 - 1598年8月4日)は、イングランドの政治家、貴族。
テューダー朝最後の女王エリザベス1世の即位から晩年に至るまでの重臣。40年にもわたって彼女を補佐し、エリザベス朝のイングランドの国政を主導した。国王秘書長官(在職1550年-1553年、1558年-1572年)[注釈 1]や大蔵卿(在職1572年-1598年)などを歴任。
エリザベス朝後期からステュアート朝初期に重臣として国政を主導した初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシルは次男である。また19世紀後半に三度にわたってイギリス首相を務めて国政を主導した第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは子孫である。
生涯
生い立ち
1520年9月18日、リチャード・セシルとその妻ジェーン(旧姓ヘッキントン)の長男としてリンカンシャー・バーンにある母方の実家で生まれる[3][4][5]。父リチャードは富裕なジェントリであり[5]、また王室に衣装担当の宮内官として仕える人物だった[4]。
スタンフォードで育ち、地元の学校で学んだ後、14歳の時の1535年にケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジに入学した[4][5]。ケンブリッジ在学中にメアリー・チークと結婚したが、彼女は長男トマスを産んだ二年後に死去している[4]。
1541年に学位を得ないままケンブリッジ大学を退学し、ロンドンのグレイズ・イン法学院に入学した[5][4]。1546年にはエドワード王子の家庭教師サー・アンソニー・クックの娘ミルドレッドと再婚し、彼女との間に次男ロバートと娘二人を儲けた[4][3]。
政界入り
1547年にスタンフォード選挙区から庶民院議員選挙に出馬して当選し、政界入りを果たした[5][4](1552年までこの選挙区の庶民院議員を務めた後、1555年、1559年、1562年にはリンカンシャー選挙区から選出され、さらに1562年には1567年にかけてはノーザンプトンシャー選挙区から選出されている[3][6])。
宮廷内においてもヘンリー8世(在位1509年-1547年)の時代に国王秘書長官トマス・クロムウェルの目にとまって秘書官に抜擢された[4]。続く幼王エドワード6世(在位1547年-1553年)の時代にも摂政サマセット公エドワード・シーモアに目をかけられ、秘書官を務めるが、1549年のサマセット公の失脚に巻き込まれて一時ロンドン塔に幽閉された[4][5]。
しかしサマセット公に代わって権力を握ったノーサンバランド公ジョン・ダドリーからも実務能力を高く評価されていたため、1550年1月に釈放され、再び秘書官となった[4][5]。1550年9月には国王秘書長官に任命された[4][3]。同時に枢密顧問官(PC)にも列する。1551年10月にはナイトに叙せられた[5][3]。また1550年からエリザベス王女(後の女王エリザベス1世)の領地調査管理官となり、これがきっかけでエリザベスからも実務能力を高く評価されるようになった[7]。
1553年のエドワード6世の崩御後、ノーサンバランド公がメアリー王女(後のメアリー1世)を無視してジェーン・グレイを女王に擁立しようとした。セシルは不本意ながらノーサンバランド公の計画に同意した。しかしメアリー王女の蜂起を知るとノーサンバランド公を見捨てメアリーのもとにはせ参じている[5]。メアリー女王の即位後、セシルは国王秘書長官を辞することになったが[5]、メアリー女王自身はセシルの能力を高く買っており、彼に官職を与えたがっていたが、セシル自身が宗教の違い(メアリー女王は強硬なカトリック)を理由に拝辞したという。しかしブリュッセルで枢機卿レジナルド・ポールを出迎える外交任務は引き受けている[7]。また1555年にはリンカンシャーの治安判事にも就任している[5]。
エリザベス女王の秘書長官に就任
1558年11月にメアリー女王が崩御し、エリザベス1世が即位した。即位後、エリザベス女王は直ちにセシルを国王秘書長官に任じた。この際にエリザベスはセシルに以下のような勅語を与えたという[5][8]。
私は貴下を枢密顧問官及び国王秘書長官に任命する。私と王国のために全力を尽くすようこの勅語を与える。貴下は収賄・汚職にまみれることなく、国家に対して忠実であり、私の意思に反してでも最善と思う助言を与えてくれるであろう。私が内密に知るべきことがあれば、貴下は私だけに知らせるであろうし、私もそれをわが胸に秘めるであろう。 — エリザベス女王がハットフィールド・ハウスの大広間でセシルにかけた言葉
国教会関連法案の議会通過をめぐって
1559年1月にエリザベス女王即位後の最初の議会が招集され、エリザベスとセシルはイングランド国教会のプロテスタント化を推進する「国王至上法」と「礼拝統一法」を議会に提出した。
同法案は庶民院を通過したものの、貴族院でカトリック聖職者の反発を受けて否決された。女王とセシルは法案を軟化させる修正を行い、1559年の復活祭後に召集された議会に法案を再提出した。「国王至上法」ではヘンリー8世時代の「国王至上法」の「首長」という表現を「統治者」に代えることで君主が教会について万能ではないことを暗示し、カトリック聖職者に受け入れやすくしていた。また「礼拝統一法」では使用を義務付ける国教会共通祈祷書についてプロテスタント的な1552年版の物をより曖昧にして、広範な信徒に受け入れやすくしていた。こうした処置により「国王至上法」は大きな反発なく可決され、「礼拝統一法」もわずか3票差ながら、なんとか貴族院を通過させることができた(ただこの際に二人のカトリック司教を逮捕して投票に参加させないという強引な手段も使っている)[9][10]。
スコットランド出兵
セシルは1559年よりスコットランド情勢に注目しており、スコットランド摂政メアリ・オブ・ギーズに対するスコットランド国民の反乱を煽る工作活動に努めてきた[11]。
セシルの強い進言を受けたエリザベスは1559年末から1560年にかけてスコットランドの反乱を支援する出兵を行った。途中撤兵を考えたエリザベスをセシルは辞職をちらつかせてでも翻意させて出兵を強行させた。その結果、エディンバラ・リース要塞のフランス軍を大敗させることに成功した。1560年6月にはセシル自らエディンバラへ向かい、和平交渉に当たり、エディンバラ条約を締結した。これによりフランス軍のスコットランドからの撤兵、リース要塞の解放、スコットランド女王メアリーがイングランド女王を名乗らないことなどが取り決められた。さらに8月にはスコットランド議会が国教をカトリックからプロテスタントに変える決議を出した[12]。
1561年には後見裁判所長官を兼務し、死去まで同職に在職し続けた。これは人事権を掌握する重要なポストであり、当時の最高ポストであった大蔵卿の前階梯の地位と看做されていた[5]。
女王の寵臣ロバート・ダドリー(1564年にレスター伯爵に叙される)の推進で1562年からその翌年にかけて実施されたユグノー援助のフランス出兵には強く反対した。結局この出兵は失敗したため、セシルのレスター伯爵に対する優位が確立された[5]。しかしレスター伯爵はその後も女王の寵愛を受け続けたため、宮廷内でセシルと権勢を二分する派閥の領袖であり続けた[13]。
北部諸侯の乱をめぐって
1568年12月、ネーデルラントで反乱鎮圧に当たるアルバ公への軍資金を乗せたスペイン船が悪天候とユグノー派海賊の追跡から逃れるためにイングランド南岸に寄港する事件があったが、これを知ったセシルは女王に進言してこの船に積んである軍資金を全て没収させた。これに対抗してアルバ公がネーデルラントにいるイングランド人を逮捕してその財産を没収すると、エリザベスもこれに対抗してスペイン人とフランドル人の財産を没収した。この一連の騒ぎでイングランドとスペインの関係は決定的に悪化したため、イングランド国内でもセシル批判が高まった[14]。
反セシルの機運が高まる中、1569年にはセシル排除の計画が、イングランド亡命中のスコットランド前女王メアリー[注釈 2]とノーフォーク公トマス・ハワードの結婚計画と合わせて盛り上がりを見せていた。ノーザンバーランド伯爵トマス・パーシーやウェストモアランド伯爵チャールズ・ネヴィルらカトリック北部諸侯と駐英スペイン大使がこの計画の中心であり、メアリーも前向きだった。宮廷内のセシルのライバルであるレスター伯爵も一時この計画に協力していた。しかし反セシルだけではなく、反エリザベス色も強い計画だったため、後にレスター伯爵は計画から手を引いた。ノーフォーク公も手を引こうとしたが、ノーフォーク公は1569年10月にロンドン塔に幽閉された。カトリック北部諸侯は11月に反乱を起こしたが、スペインが援軍を送らなかったため、失敗に終わった。この「北部諸侯の乱」によってセシルの権勢はむしろ強化された[16][17]。
リドルフィ陰謀事件の摘発
1570年2月に教皇ピウス5世がエリザベスを破門したため、以降イエズス会士などカトリック宣教師がイングランドに潜入してきて反エリザベス謀議を行うようになった[18]。
セシルはすでにフランシス・ウォルシンガムのもとに秘密警察的な情報組織を完成させており、女王暗殺謀議は即時に取り締まった。1571年にはリドルフィ陰謀事件を摘発した。これは教皇に忠実なフィレンツェの銀行家ロベルト・ディ・リドルフィが中心になって立案した計画で、ネーデルラントのスペイン軍をイングランド南岸に上陸させ、それに乗じてノーフォーク公とメアリーが反乱を起こし、二人がイングランドとスコットランドの王位についてカトリック信仰を復活させるという計画だった。セシルとウォルシンガムは、陰謀の中心人物としてノーフォーク公を逮捕させ、裁判にかけて死刑に処し(リドルフィにはイングランド外に逃げられた)、駐英スペイン大使にもイングランド退去を命じた[19][20]。
バーリー男爵に叙せられる
1571年2月25日にバーリー男爵に叙され、貴族となった[16]。これまでセシルは議会の庶民院においても庶民院運営を巧みにリードする存在であったが、貴族に叙せられたことで貴族院議員に転じることになった。以降の庶民院運営の主導権はウォルシンガムらに移ったが、彼らはセシルほど円滑にやれず、特許権などをめぐって政府と議会の対立が激化していった[21]。
スペインとの緊張が高まっていく中、宮廷内ではレスター伯爵やウォルシンガムが対スペイン主戦論を唱えたが、セシルは開戦に慎重でエリザベスもセシルの助言に従って1585年まではスペインとの戦争を避けた[22]。ちなみにセシルとレスター伯爵は敵対関係だったが、セシルとウォルシンガムは戦争についての意見が食い違いながらも敵対的な関係ではなく、むしろウォルシンガムは最重臣セシルの補完者のような存在であり続けた[23]。
大蔵卿として
1572年4月に重病にかかったため、秘書長官職を辞した(1573年からウォルシンガムが就任)。代わって同年7月に大蔵卿に任じられた[16]。
大蔵卿として王庫を預かるようになったバーリー卿は、王庫の貯蓄に励んだ。倹約の努力を重ねてスペインとの開戦が不可避となった1584年までに王庫は30万ポンドの貯蓄を持つようになった。だがスペインとの戦争により1590年までにはこの貯蓄は消えて無くなった。その後バーリー卿は再び倹約の努力をして1590年代半ばまでに13万ポンドを貯蓄したが、凶作で1596年以降に再び減少し、いよいよ王領地を売却していくことを余儀なくされた[24]。
エリザベスとバーリー卿は倹約一辺倒で現在の収入源の増収を図ることや関税以外の恒常的税収を議会に認めさせる努力を怠った[2][25]。議会の議決による臨時収入はそれまでは戦時限定だったが、エリザベスとバーリー卿は平時でもそれに期待せざるを得ない困窮状態に置かれていた[25]。
抜本的財政改革をしようとせず、小手先の倹約だけでしのごうとするエリザベスとバーリー卿は結局、後世に大きなツケを残すことになった。それに最初に苦しんだのはバーリー卿の息子ロバートであり、彼は1610年に議会で「大契約」を提案して財政改革を行おうとするも議会から否決されるという憂き目にあっている[26]。
晩年
1590年に国王秘書長官を務めていたウォルシンガムが死去した。バーリー卿は息子のロバートを後任に据えようとしたが、エリザベスが若年すぎると難色を示しため、国王秘書長官職はしばらく空位のままでバーリー卿が国王秘書長官代理を務めることになった。しかしバーリー卿とロバートは常に一緒に仕事をしていたので、1591年秋頃には「国務の全てはセシル親子が牛耳っている」とまで評されるようになったという[27]。
この頃から女王の寵臣であるエセックス伯爵ロバート・デヴァルーとセシル親子の対立が深まった[28]。エセックス伯爵はエリザベスと血縁関係があり、また野心的な美男子だったため、女王や国民からの人気が高かった。特に都市とその選挙区における彼の人気は絶大であり、セシル親子の権勢さえも脅かすものがあった[29]。
1593年の法務総裁の人事問題[注釈 3]や1594年の女王侍医ロドリゴ・ロペスの事件[注釈 4]をめぐって両者は鋭く対立した[32]。またスペインとの戦争をめぐってはエセックス伯爵が主戦派だったのに対して、セシル親子は和平派だった[33]。
1596年7月には息子ロバートが国王秘書長官に任命された[34]。
1598年8月4日午前5時に78歳で死去した。エリザベス女王即位から40年にわたって女王を支え続けた人生だった[35]。
人物
博覧強記の人物で、しかも長時間に及んで仕事のできる忍耐力を持った人物だった。彼のもとには一日に百通近い嘆願書が届いたが、夜のうちに目を通し、朝までにすべてに返事を書いたという。メモ魔でもあり、膨大な量の備忘録を残した。その備忘録はソールズベリー侯爵家のハットフィールド・ハウスに保存されており、当時を知る重要な記録となっている[36]。
彼は他の多くのケンブリッジ大学卒業生と同様に確信的プロテスタントであったが、熱狂的カトリックのメアリー女王のもとではカトリックを遵奉するなど日和見的なところがあった[37]。カトリックとプロテスタントの対立が激しい時代にあって、そうした宗教的柔軟性を持っている点がエリザベス女王との共通点であった[7]。
セシルは1595年3月13日付けの息子ロバートへの手紙の中で「女王に助言することが許される場合は、反対されても自分の意見を変える必要はない。それは神を冒涜することになるからだ。私はまず第一に神に至誠を尽くさねばならない。しかし臣下として私は女王の命令に従う必要がある。女王の命令に逆らうのは賢明ではない。女王が神の代理人であることを考えれば、女王の命令に従うことは神のご意志であると思うからだ。」と女王に仕える心構えを説いている[38]。
一方エリザベス女王の方は「セシルほどの名宰相を持つ君主は私以外にはいないだろう」と自慢していた[39]。またエリザベスから「私の精霊」(My Spirit)と呼ばれていた[40]。
栄典
爵位
勲章・その他
家族
1541年にピーター・チークの娘メアリーと結婚し、彼女との間に以下の1子を儲ける[3]。
メアリーとの死別後、1546年にサー・アンソニー・クックの娘ミルドレッド・クックと再婚し、彼女との間に以下の3子を儲ける[3]。
- 第2子(長女)エリザベス・セシル:サー・ウィリアム・ウェントワースと結婚。
- 第3子(次女)アン・セシル(1556-1589):第17代オックスフォード伯爵エドワード・ド・ヴィアーと結婚。
- 第4子(次男)初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル(1563-1612):国王秘書長官、大蔵卿。ソールズベリー侯爵家の祖。
フィクション
小説
- 榛名しおり『王女リーズ』
- Carolyn Meyer "Beware,Princess Elizabeth"
- Jean Plaidy "Queen of this realm"
- ロザリンド・マイルズ『我が名はエリザベス』(上下巻)近代文芸
映画・ドラマ
- 1998年のイギリス映画『エリザベス』ではリチャード・アッテンボローが演じた[41]。
- 2005年のイギリス・ドラマ『エリザベス1世 〜愛と陰謀の王宮〜』ではイアン・マクダーミドが演じた[42]。
フィクションでのイメージ
エリザベス1世を主人公にした小説でも、即位前の危ない時期に「今宮廷に来ると危ない」と警告したり(『我が名はエリザベス』)、現在の政治情勢についての情報をまめに届ける("Beware, Princess Elizabeth" )などの役割で登場することが多い。
次男のロバート・セシルとウィリアム本人をあわせた「セシルズ」が、エリザベスの「愛人」がとかく大きな勢力となる宮廷で、それに対抗して宮廷を二分する勢力であったとする小説("Queen of this realm" )もある。
エリザベスの生涯変わらぬ恋人だったとする小説(『王女リーズ』)もあるが、この小説はあとがきで、エリザベスの恋人であるというのは全くの創作であると断っている。
脚注
注釈
- ^ 国王秘書長官はヘンリー8世以前には国王の手紙の下書きや代筆が主な任務だったが、ヘンリー8世の国王秘書長官トマス・クロムウェルが絶大な権力を握ったことで重職となる[1]。エリザベス朝のイングランドの官職の中では秘書長官が最も重要な役職だった。その影響力は内政・外交のあらゆる分野に及び、中央行政を主導する地位であった[2]。
- ^ スコットランド女王メアリーは1567年に夫ダーンリー卿を殺害した容疑でプロテスタント貴族たちによってスコットランド王位を追われた。1568年にイングランドへ亡命し、スコットランド王位を取り戻すための助力をエリザベスに要請したが、拒否されてイングランド国内で緩やかな軟禁状態に置かれていた[15]。
- ^ 1593年に法務総裁トマス・エガートンが国璽尚書兼大法官に昇進したのに伴って法務総裁ポストが空席となったが、その後任人事をめぐって、エセックス伯爵が庶民院議員フランシス・ベーコンを推したのに対してセシル親子は法務次官エドワード・コークを推した。フランシス・ベーコンの母はセシルの妻ミルドレッドの妹だったので、セシルにとってベーコンは義理の甥にあたるが、セシルはベーコンの優秀さを息子ロバートの出世の危険になると判断し、取り立てようとはしなかった。その不満からベーコンはエセックス伯爵のもとに走っていたのであった。しかしエリザベス女王は1594年にセシルの助言通りコークを法務総裁に任じている[30]。
- ^ エセックス伯爵は、女王暗殺を企んだとしてポルトガル・ユダヤ人の女王侍医ロデリゴ・ロペスを逮捕したが、セシル親子は長く女王に仕えてきたロペスが今更そんなことをするはずがないと考え、ロペスを擁護した。女王もはじめ冤罪と考え、エセックス伯爵を叱責したが、まもなくエセックス伯爵の説得で翻意し、ロペスの取り調べを許した。エセックス伯爵は世論の反ユダヤ主義が高まったのを好機として、ロペスを是が非でも犯人に仕立て上げようとし、拷問の末に「自白」を引き出して裁判にかけて死刑に追い込んだ[31]。
出典
- ^ 石井(2009) p.220
- ^ a b 今井(1990) p.73
- ^ a b c d e f g h i j k Lundy, Darryl. “William Cecil, 1st Baron of Burghley” (英語). thepeerage.com. 2014年4月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 石井(2009) p.218
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 世界伝記大事典 世界編5巻(1980) p.425
- ^ a b c d "Cecil, William (Lord Burghley) (CCL535W)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b c 石井(2009) p.219
- ^ 石井(2009) p.219-220
- ^ 石井(2009) p.242-251
- ^ 今井(1990) p.70
- ^ 石井(2009) p.280
- ^ 石井(2009) p.281-282
- ^ 青木(2000) p.81
- ^ 世界伝記大事典 世界編5巻(1980) p.425-426
- ^ 青木(2000) p.91-94
- ^ a b c 世界伝記大事典 世界編5巻(1980) p.426
- ^ 青木(2000) p.98-99
- ^ 青木(2000) p.100-102
- ^ 青木(2000) p.102-104
- ^ 石井(2009) p.360-371
- ^ 今井(1990) p.106-107
- ^ 今井(1990) p.72
- ^ トレヴェリアン(1974) p.83
- ^ 青木(2000) p.213-214
- ^ a b 青木(2000) p.213
- ^ 今井(1990) p.74
- ^ 石井(2009) p.487
- ^ 石井(2009) p.488
- ^ 青木(2000) p.231/234
- ^ 石井(2009) p.488-491
- ^ 石井(2009) p.493-496
- ^ 石井(2009) p.490-496
- ^ 石井(2009) p.509
- ^ 石井(2009) p.505
- ^ 石井(2009) p.516
- ^ 石井(2009) p.220-221
- ^ ニール(1975) 1巻 p.51
- ^ 石井(2009) p.221-222
- ^ 石井(2009) p.222
- ^ ヒバート『女王エリザベス』
- ^ IMDb. “Elizabeth (1998)” (英語). IMDb. 2014年4月4日閲覧。
- ^ IMDb. “Elizabeth I (2005)” (英語). IMDb. 2014年4月4日閲覧。
参考文献
- 青木道彦『エリザベス一世 大英帝国の幕開け』講談社〈講談社現代新書1486〉、2000年(平成12年)。ISBN 978-4120040290。
- 石井美樹子『エリザベス 華麗なる孤独』中央公論新社、2009年(平成21年)。ISBN 978-4120040290。
- 今井宏編 編『イギリス史〈2〉近世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4634460201。
- G.M.トレヴェリアン 著、大野真弓 訳『イギリス史 2』みすず書房、1974年(昭和49年)。ISBN 978-4622020363。
- J.E.ニール 著、大野真弓、大野美樹 訳『エリザベス女王 1』みすず書房、1975年(昭和50年)。ASIN B000J9D53Q。
- 『世界伝記大事典〈世界編 5〉シキーソ』ほるぷ出版、1980年(昭和55年)。ASIN B000J7XCO0。
- クリストファー・ヒバート『女王エリザベス』(上下巻)原書房
外部リンク
- "ウィリアム・セシルの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
公職 | ||
---|---|---|
先代 ニコラス・ウォットン |
国王秘書長官 サー・ウィリアム・ピーターとともに 1550年 - 1553年 |
次代 サー・ジョン・ボーン |
先代 ジョン・ボックスオール |
国王秘書長官 1558年 - 1572年 |
次代 サー・トマス・スミス |
先代 ニコラス・ベーコン |
王璽尚書 1571年 - 1572年 |
次代 初代ハワード・オブ・エフィングハム男爵 |
先代 初代ウィンチェスター侯爵 |
大蔵卿 1572年 - 1598年 |
次代 初代ドーセット伯爵 |
先代 サー・フランシス・ウィルシンガム |
王璽尚書 1590年 - 1598年 |
次代 サー・ロバート・セシル |
議会 | ||
先代 ヘンリー・レイシー レナード・イルビー |
スタンフォード選挙区選出庶民院議員 1547年 - 1552年 同一選挙区同時当選者 ジョン・アレン |
次代 リチャード・クック ロバート・レイシー |
先代 サー・ジョン・コプレディケ フィリップ・ティリット |
リンカンシャー選挙区選出庶民院議員 1555年 同一選挙区同時当選者 ジョージ・セント・ポール |
次代 サー・エドワード・ディモク サー・ロバート・ティリット |
先代 サー・エドワード・ディモク サー・ロバート・ティリット |
リンカンシャー選挙区選出庶民院議員 1559年、 1562年 - 1563年 同一選挙区同時当選者 サー・リチャード・ティムブレビー(1559) リチャード・バーティ(1562-1563) |
次代 トマス・ヘニッジ |
先代 ウォルター・マイルドメイ ラルフ・シェルドン |
ノーザンプトンシャー選挙区選出庶民院議員 1563年 - 1567年 同一選挙区同時当選者 ウォルター・マイルドメイ |
次代 ウォルター・マイルドメイ ロバート・レーン |
学職 | ||
先代 レジナルド・ポール |
ファイル:University of Cambridge coat of arms official.svg ケンブリッジ大学学長 1559年 - 1598年 |
次代 第2代エセックス伯爵 |
先代 新設 |
ダブリン・トリニティ・カレッジ学長 1592年 - 1598年 | |
イングランドの爵位 | ||
新設 | 初代バーリー男爵 1571年 - 1598年 |
次代 トマス・セシル |