「賈似道」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
(他の1人の利用者による、間の6版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
'''賈 似道'''(か じどう、[[ピン音|拼音]]:Jia Sidao, [[1213年]][[8月8日]]([[嘉定 (南宋)|嘉定]]6年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]) - [[1275年]][[9月]]([[徳佑]]元年)[[8月 (旧暦)|8月]])は、[[中国]]の[[南宋]]末期の軍人、政治家。[[字]]は師憲。[[賈渉]]の嫡子で、母は胡氏 |
'''賈 似道'''(か じどう、[[ピン音|拼音]]:Jia Sidao, [[1213年]][[8月8日]]([[嘉定 (南宋)|嘉定]]6年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]])<ref name="miyazaki67">宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、67頁</ref> - [[1275年]][[9月]]([[徳佑]]元年)[[8月 (旧暦)|8月]])は、[[中国]]の[[南宋]]末期の軍人、政治家。[[字]]は師憲。宋に仕えた政治家・[[賈渉]]の嫡子で、母は胡氏。半閑老人、悦生、秋壑と号する。 |
||
== |
== 生涯 == |
||
=== 前半生 === |
|||
台州([[浙江省]][[台州市]][[臨海市]])の人。姉が南宋の皇帝・[[理宗]]の寵妃で、その間に周漢国公主(周館長公主)を産んだため、その縁から取り立てられることとなる。賈似道は異常なほどの美術や名画収集家であり、その方面に走って遊興に耽ることもあったが、頭脳も切れる人物であったために皇帝に重用され、[[1246年]]([[淳祐 (南宋)|淳祐]]6年)に、国境守備隊長に任命されている。 |
|||
台州([[浙江省]][[台州市]][[臨海市]])の人。母の胡氏は賈渉の妾であり、賈似道を生んで間も無く家を追い出される<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、65頁</ref>。後に出世した賈似道は貧窮する母を迎え入れ、胡氏は斉国夫人に封じられた<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、66頁</ref>。 |
|||
[[1219年]]に賈渉が淮東制置使に任じられると、おそらく賈似道も父に従って[[淮安区|楚州]]に移住し、賈似道が11歳のときに賈渉は没する<ref name="miyazaki67"/>。賈似道は成人後、賈渉の生前の功績によって籍田令の官職、[[嘉興市|嘉興]]の司倉を受領する<ref name="miyazaki67"/>。南宋の皇帝・[[理宗]]の寵妃であり、周漢国公主(周館長公主)を産んだ姉の働きかけにより、[[1238年]]に[[科挙]]の予備試験を免除された賈似道は[[殿試]]に及第し、[[進士]]に及第する<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、67-68頁</ref>。 |
|||
[[1258年]]([[宝祐]]6年)、かつての名将であった故・[[孟キョウ|孟珙]]の後任として、[[両淮]]宣撫大使に任じられて、軍事権を握り対[[モンゴル帝国]]戦に備えた。 |
|||
[[1246年]]に国境地帯で対[[モンゴル帝国]]戦を監督していた[[孟キョウ|孟珙]]の後任として京湖制置使に任命され、[[湖北省|湖北]]に赴任する。湖北に赴任した賈似道は築城によって国境の防備を固め、[[1258年]]に両淮宣撫大使に任じられる。賈似道は前線に身を置きながらも中央政府の宰相と同様の待遇を受け、人事の進退においては朝廷の大臣であっても賈似道の意向を無視することはできなかった<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、70頁</ref>。 |
|||
[[1259年]]([[開慶]]元年)には南宋に侵攻してきた[[クビライ]]の軍勢を鄂州(武昌)で撃破した功績により、[[宰相]]にまで出世した。ただし、このとき賈似道が大勝することができたのは、モンゴル側で皇帝の[[モンケ]]が死去したため退却せざるを得なくなったことによるとも言われている。また、この戦いでは賈似道とクビライとの間に密約があったと後にささやかれることになる。 |
|||
1258年、モンゴル帝国の皇帝([[ハーン]])[[モンケ]]は自身が四川に進攻し、弟の[[クビライ]]をして鄂州(武昌)、将軍[[ウリヤンカダイ]]を広西から湖南に進め、三方から南宋を攻撃した。賈似道は鄂州の軍事を取り仕切ってクビライの攻撃を防ぎ、[[1259年]]には四川の[[呂文徳]]と共に、南宋に侵攻して鄂州を包囲したウリヤンカダイを攻撃する。四川でモンケが病没した後、彼の後継者の地位を窺うクビライは北方に帰還し、ウリヤンカダイはクビライが残した兵士を集めて[[長江]]を渡り、退却した。1260年3月、賈似道は長江の通過を試みたウリヤンカダイ軍の最後列を攻撃し、モンゴル側からは約170人の死者が出た。賈似道が領地の割譲と貢納を約束して密約を結んだためにモンゴル軍が撤退したとする説が存在するが、密約の存在は疑問視されている<ref name="horupu">外山「賈似道」『世界伝記大事典』日本・朝鮮・中国編1巻、443-444頁</ref><ref name="miyazaki92">宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、92頁</ref>。賈似道はモンゴル側の意向を探るために和睦を提案したものの、クビライはこれを受け入れず、結局両者の間に和約は成立しなかったといわれている<ref name="miyazaki92"/>。湖南、江西に侵入したモンゴル軍に対して宋軍は奮戦し、彼らの功績は南宋のほぼ全域の軍事権を掌握する賈似道の元に帰した<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、76-77頁</ref>。戦後賈似道は国内の情報統制、外部への内情の漏洩を防ぐため、クビライの元から派遣された使者の[[カク経|郝経]]を投獄する<ref name="miyazaki92"/>。使者の投獄に対してモンゴルの大臣たちはクビライに南宋の攻撃を進言したが、クビライは弟[[アリクブケ]]との抗争のためにやむなく中国遠征を延期した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、46-47頁</ref>。 |
|||
⚫ | |||
賈似道は宰相となった上、[[1264年]]([[景定]]5年)には理宗が崩御して暗愚の皇帝・[[度宗]]が即位した。このために南宋の実権は完全に賈似道のものとなり、賈似道は宰相から太師にまでなって独裁政治を始めることとなる。 |
|||
=== 丞相就任後 === |
|||
まず、賈似道は自らの独裁権強化のため、自身に反対する一派を徹底して排除した。さらにモンゴルの侵攻が強まったため、この頃の南宋においては[[呂文煥]]ら軍人の勢力が大きくなっていたが、賈似道は自身の独裁権を強化するためにこれら軍人を中央から遠ざけ、モンゴル軍が侵攻してきたときも十分な援軍を送らなかったとも言われる。また、[[状元]]([[科挙]]の首席及第者)でありかつ強靭な愛国心と精神力を持った[[文天祥]]を、自分に迎合しないという理由で要職に就けなかった。 |
|||
1259年10月に賈似道は陣中で[[丞相|右丞相]]に任じられ、1260年に臨安に凱旋した賈似道は丞相として中央政界に参画する<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、82頁</ref>。戦後、賈似道は功績のあった人物の顕彰と並行して、戦利品の横領や戦費の着服を行う将軍の処罰による、軍紀の引き締めを行った。規律の引き締めの中で向士壁、曹世雄ら大きな武功を立てた人間も免職・流刑の対象とされ、賈似道の論功行賞の公正性を疑う、あるいは苛烈さを咎める声も出た<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、83頁</ref>。一方文官に対しては過去の過失を問わない柔和な態度で接し、彼らに将来の協力を約束させた<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、83-84頁</ref>。政府に対して強硬な抗議も辞さない臨安の学生に対しては学費の援助、試験の易化という手段を用いて、彼らを懐柔する事に成功する<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、85頁</ref>。賈似道の下では[[宦官]]と外戚の勢力は抑制され、前から横行していた[[猟官運動]]が厳しく取り締まられた<ref name="horupu"/>。猟官運動を禁じた一方で隠逸的な学者に出仕を乞い、「猟官運動のためには山に入って座禅をしなければならないのか」とまで言われた<ref name="miyazaki84">宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、84頁</ref>。[[馬廷鸞]]、[[江万里]]らの著名な学者文人が起用されたが彼らは実務能力に欠け、廷臣たちは賈似道の留任を懇願した<ref name="miyazaki84"/>。 |
|||
[[1264年]]には理宗が崩御して[[度宗]]が即位した。[[1265年]]に太師を加増され、魏国公に封じられる。賈似道は[[西湖 (杭州市)|西湖]]を俯瞰する葛嶺に集芳と呼ぶ園を置き、園内に建てた半閑亭と称する屋敷で政務を執った。南宋末期の朝廷では賈似道が私邸で書類に決裁を下し、賈似道の館客である廖瑩中が大小の政務を取り仕切り、宮廷の大臣や執政は届けられた書類の内容を検討することなく署名し、判を押す体制ができていた<ref name="horupu"/>。 |
|||
ただし、財政再建のための検地・通貨改革・さらには公田法の採用、また戦利品を自分の物にしたり戦費をごまかしたりする将軍の処罰等による南宋国軍の軍紀引き締め、学生の重用により南宋の文化的発展を図ったことなど、一部においては評価できる政治を行なっていることも確かである。 |
|||
[[1268年]]10月から南宋と[[元 (王朝)|元]]の最前線であった[[襄陽市|襄陽]]が元軍の包囲を受けるが([[襄陽・樊城の戦い]])、賈似道は度宗に襄陽が包囲を受けていることをひた隠しにしていた<ref name="CMD51">ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、51頁</ref>。賈似道は度宗から襄陽の状況の下問を受けて[[范文虎]]を救援に派遣し、度宗に襄陽の戦況を密告した人物を殺害したと言われている<ref name="CMD51"/>。襄陽と接続されていた樊城が陥落した時、賈似道は自らが救援に向かう事を申し出たが受理されず、代わりに高達が率いる部隊を向かわせた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、55頁</ref>。[[1273年]]3月に襄陽の守将・[[呂文煥]]は元に降伏し、呂文煥と縁戚関係にあった廷臣の多くが辞職を願い出たが、賈似道は彼らの申出を却下する<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、56頁</ref>。1275年3月、賈似道は蕪湖に艦隊を停泊させ、元軍の司令官[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]に和睦を提案するが、バヤンは元軍が長江を渡る前に和平を提案するべきであったこと、使者ではなく賈似道自身が交渉の場に赴くべきだと提案を一蹴する<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、51頁、65頁</ref>。賈似道は[[夏貴]]、孫虎臣に艦隊を与えて元軍を攻撃するが、蕪湖近辺の{{仮リンク|丁家洲の戦い|zh|丁家洲之战}}で南宋軍は大敗する。敗れた賈似道は淮東の李庭芝の元に逃亡し、[[恭帝 (宋)|恭帝]]の避難を進言する手紙を朝廷に送った<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、96頁</ref>。臨安の留守を預かっていた賈似道の腹心[[陳宜中]]は賈似道の党派と見なされることを恐れて恭帝の退避に反対し、恭帝の退避を主張する殿帥の韓震を暗殺する<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、96-97頁</ref>。 |
|||
⚫ | |||
[[1273年]]([[咸淳]]9年)、南宋と[[元 (王朝)|元]]の最前線であった[[襄陽市|襄陽]]の守将・呂文煥が[[襄陽・樊城の戦い]]で遂に降伏した。これは自身の独裁権強化を図った賈似道が十分な援軍を送らなかったためであるが、このために南宋は一気に苦境に立たされることとなる。賈似道の責任問題も浮上し、1275年(徳佑元年)、賈似道は周囲からその責任を取れと言われんばかりに、娘婿の[[范文虎]]と[[夏貴]]ら諸将を引き連れて元討伐に出陣させられることとなる([[:zh:丁家洲之战|丁家洲の戦い]])。だが、元軍の前に[[蕪湖の戦い]]で大敗してしまい、范文虎と夏貴らは元に降伏してしまった。 |
|||
敗戦の報告を受けた朝廷では、賈似道を弾劾する廷臣たちが彼を極刑に処すように主張したが、太皇太后[[謝道清|謝氏]]の取り成しによって[[ショウ州市|漳州]]に流罪となった<ref name="miyazaki98">宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、98頁</ref>。漳州の木綿庵において、賈似道は[[会稽]]県尉の鄭虎臣に殺害される。鄭虎臣の私怨、あるいはかつての腹心だった陳宜中の指示などが、殺害の動機として挙げられている<ref name="miyazaki98"/>。 |
|||
この敗戦の咎により、同年9月に賈似道は全ての職を失って失脚となった上、[[福建]]に流罪となった。だが、流される途上の福建[[ショウ州市|漳州]]の木綿庵という場所で、かつて亡父が賈似道によって左遷させられ、恨みを抱く[[会稽]]県尉の[[鄭虎臣]]という者に殺害された。享年63。 |
|||
== 評価 == |
|||
賈似道は16年間にわたり政権を握ったが、専横を極め、自身の独裁のために粛清を行なったことから、宋の四悪人の一人にまで数えられるほど評判が悪い。『[[宋史]]』でも「奸臣伝」に入れられている。ただし、進士ではなく姉が皇帝の寵姫であることから出世したことや、国家財政を再建するために豪族たちの権力を抑えようとしたことが恨みを買った面がある。政治的には優れた一面もあったのは確かで、現実的な政治家であった。賈似道がいたからこそ南宋が延命できたともいえる。 |
|||
賈似道は武官たちから怨まれていたが、クビライが元に降伏した将軍たちに、なぜ容易く降伏したのかを尋ねたことがあった。将軍たちは口々に「賈似道が我々武官を軽んじたからだ」と恨み言を述べた。それを聞いたクビライは「お前たちを軽んじたのは賈似道であって、宋の皇帝ではない。それなのにお前たちは宋の皇帝に忠節を尽くそうとしなかった。賈似道がお前たちを軽んじたのも当然であろう」と応じたと言う。 |
賈似道は武官たちから怨まれていたが、クビライが元に降伏した将軍たちに、なぜ容易く降伏したのかを尋ねたことがあった。将軍たちは口々に「賈似道が我々武官を軽んじたからだ」と恨み言を述べた。それを聞いたクビライは「お前たちを軽んじたのは賈似道であって、宋の皇帝ではない。それなのにお前たちは宋の皇帝に忠節を尽くそうとしなかった。賈似道がお前たちを軽んじたのも当然であろう」と応じたと言う。 |
||
⚫ | |||
==コオロギ相撲== |
|||
南宋では兵糧の購入に[[不換紙幣]]である[[会子]]が使用されていたが、宰相となった賈似道は紙幣の増刷がもたらす[[インフレーション]]を抑え、紙幣の印刷に必要な費用を削減するため、劉良貴らの進言を容れて公田の買収を実施する<ref name="miyazaki86">宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、86頁</ref>。政府は200畝以上の田を所有する大地主から所有する田のうち3分の1を強制的に買い上げて小作人に貸与し、貸した田から上がる祖米を兵糧に充てた<ref name="miyazaki86"/>。公田の買い上げは浙西から始められ、当初は土豪に租米の徴収が委任されていたが、やがて官吏が直接公田を管理するようになる<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、86-87頁</ref>。政策の実施に際して賈似道は自身が所有する10,000畝の田を国に寄付し、吝嗇な性格で有名な栄王にも土地を供出させた<ref name="miyazaki87">宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、87頁</ref>。田の買上げは事実上の土地の没収であり、租米の量が見積りよりも少ないと土地の元の所有者が不足分を負担しなければならなかった。また、国が直接土地を管理することで公田法実施前の納税の不正が露見することもあり得たため、地主たちは不安を覚えた<ref name="miyazaki87"/>。地主の反対によって浙西の3,500,000畝の田を買い上げた時点で公田法は打ち切られたが、公田法実施前に浙西・浙東の二地域から買い上げた兵糧と同量の租米が浙西から収穫された<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、87-88頁</ref>。 |
|||
賈似道は[[闘蟋]]([[コオロギ相撲]])のマニアであり、[[コオロギ]]の飼育方法などをまとめた本を著している。世界初の昆虫飼育の指南書といわれる。 |
|||
公田法以外のインフレーションへの対策として、当時流通していた会子のうち第十七界の会子を廃止し、新たに銅銭の[[兌換紙幣|兌換券]]である見銭関子を発行した<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、88-89頁</ref>。金塊・銀塊の兌換券も発行されたが、賈似道によって実施された不換紙幣の削減と兌換紙幣の発行の成果を史料から判断することは難しい<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、89頁</ref>。 |
|||
また、賈似道は田籍と徴税額のための[[検地]](経界推排法)を実施したが、政界と地主層の両方から非難を受けた<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、88頁</ref>。 |
|||
== 人物像 == |
|||
賈似道は骨董の収集家としても知られ、所蔵品の数は南宋の朝廷以上だといわれている<ref name="horupu"/>。廖瑩中を通して入手した古銅器、法書、名画、金玉、珍品は、集芳園内の多宝閣で保管された<ref>外山『中国の書と人』、142頁</ref>。賈似道の収蔵品には[[金 (王朝)|金]]の[[章宗 (金)|章宗]]の鑑蔵印が押されているものが多いが、これらの品はかつて宋から金に渡った書画を取り戻したものだと推測される<ref>外山『中国の書と人』、144-146頁</ref>。猟官運動に対して厳しい態度で臨んだ賈似道も骨董品を持ち込まれると態度を軟化させて人事に融通を利かせ、骨董の収集のためには一般から忌避される古墓の発掘も厭わなかった<ref>宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、91頁</ref>。『画鑒』の著者である元の湯垕は賈似道が収集した書の中に少なからず贋作が混じっていることを挙げて、彼の鑑定眼に疑問を呈した<ref>外山『中国の書と人』、143頁</ref>。 |
|||
また、骨董品の収集以外に[[蘭亭序|定武蘭亭序]]の翻刻、それの縮小版である玉板蘭亭を制作させた。 |
|||
賈似道は[[闘蟋]](コオロギ相撲)の愛好家としても知られている。[[唐]]代以来の闘蟋に関する知識と自身の研究をまとめた『促織経』は、世界で初めてのコオロギの百科事典とされている<ref name="segawa">瀬川千秋『闘蟋』(あじあブックス, 大修館書店, 2002年10月)、70頁</ref>。『促織経』では飼育法、交配からコオロギにまつわる古い詩歌などの大項目がより細かい項目に分けられて解説されている<ref name="segawa"/>。『促織経』の原著は散逸し、[[明]]代に増補改訂された二巻が現存する<ref name="segawa"/>。 |
|||
⚫ | |||
{{Reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* 外山軍治『中国の書と人』(創元社, 1971年2月) |
|||
* 外山軍治「賈似道」『世界伝記大事典』日本・朝鮮・中国編1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ, 1978年7月) |
|||
* 宮崎市定「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』収録(礪波護編, 中公文庫, 中央公論新社, 2011年11月) |
|||
* C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1971年6月) |
|||
== |
== 外部リンク == |
||
* [https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7474 宋史 巻474] |
|||
*[[秦檜]] |
|||
*[[陳宜中]] |
|||
*[[漢奸]] |
|||
*[[江万里]] |
|||
{{People-stub}} |
|||
{{Chinese-history-stub}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:かしとう}} |
{{DEFAULTSORT:かしとう}} |
||
[[Category:宋代の人物]] |
[[Category:宋代の人物]] |
2015年2月21日 (土) 08:26時点における版
賈 似道(か じどう、拼音:Jia Sidao, 1213年8月8日(嘉定6年6月28日)[1] - 1275年9月(徳佑元年)8月)は、中国の南宋末期の軍人、政治家。字は師憲。宋に仕えた政治家・賈渉の嫡子で、母は胡氏。半閑老人、悦生、秋壑と号する。
生涯
前半生
台州(浙江省台州市臨海市)の人。母の胡氏は賈渉の妾であり、賈似道を生んで間も無く家を追い出される[2]。後に出世した賈似道は貧窮する母を迎え入れ、胡氏は斉国夫人に封じられた[3]。
1219年に賈渉が淮東制置使に任じられると、おそらく賈似道も父に従って楚州に移住し、賈似道が11歳のときに賈渉は没する[1]。賈似道は成人後、賈渉の生前の功績によって籍田令の官職、嘉興の司倉を受領する[1]。南宋の皇帝・理宗の寵妃であり、周漢国公主(周館長公主)を産んだ姉の働きかけにより、1238年に科挙の予備試験を免除された賈似道は殿試に及第し、進士に及第する[4]。
1246年に国境地帯で対モンゴル帝国戦を監督していた孟珙の後任として京湖制置使に任命され、湖北に赴任する。湖北に赴任した賈似道は築城によって国境の防備を固め、1258年に両淮宣撫大使に任じられる。賈似道は前線に身を置きながらも中央政府の宰相と同様の待遇を受け、人事の進退においては朝廷の大臣であっても賈似道の意向を無視することはできなかった[5]。
1258年、モンゴル帝国の皇帝(ハーン)モンケは自身が四川に進攻し、弟のクビライをして鄂州(武昌)、将軍ウリヤンカダイを広西から湖南に進め、三方から南宋を攻撃した。賈似道は鄂州の軍事を取り仕切ってクビライの攻撃を防ぎ、1259年には四川の呂文徳と共に、南宋に侵攻して鄂州を包囲したウリヤンカダイを攻撃する。四川でモンケが病没した後、彼の後継者の地位を窺うクビライは北方に帰還し、ウリヤンカダイはクビライが残した兵士を集めて長江を渡り、退却した。1260年3月、賈似道は長江の通過を試みたウリヤンカダイ軍の最後列を攻撃し、モンゴル側からは約170人の死者が出た。賈似道が領地の割譲と貢納を約束して密約を結んだためにモンゴル軍が撤退したとする説が存在するが、密約の存在は疑問視されている[6][7]。賈似道はモンゴル側の意向を探るために和睦を提案したものの、クビライはこれを受け入れず、結局両者の間に和約は成立しなかったといわれている[7]。湖南、江西に侵入したモンゴル軍に対して宋軍は奮戦し、彼らの功績は南宋のほぼ全域の軍事権を掌握する賈似道の元に帰した[8]。戦後賈似道は国内の情報統制、外部への内情の漏洩を防ぐため、クビライの元から派遣された使者の郝経を投獄する[7]。使者の投獄に対してモンゴルの大臣たちはクビライに南宋の攻撃を進言したが、クビライは弟アリクブケとの抗争のためにやむなく中国遠征を延期した[9]。
丞相就任後
1259年10月に賈似道は陣中で右丞相に任じられ、1260年に臨安に凱旋した賈似道は丞相として中央政界に参画する[10]。戦後、賈似道は功績のあった人物の顕彰と並行して、戦利品の横領や戦費の着服を行う将軍の処罰による、軍紀の引き締めを行った。規律の引き締めの中で向士壁、曹世雄ら大きな武功を立てた人間も免職・流刑の対象とされ、賈似道の論功行賞の公正性を疑う、あるいは苛烈さを咎める声も出た[11]。一方文官に対しては過去の過失を問わない柔和な態度で接し、彼らに将来の協力を約束させた[12]。政府に対して強硬な抗議も辞さない臨安の学生に対しては学費の援助、試験の易化という手段を用いて、彼らを懐柔する事に成功する[13]。賈似道の下では宦官と外戚の勢力は抑制され、前から横行していた猟官運動が厳しく取り締まられた[6]。猟官運動を禁じた一方で隠逸的な学者に出仕を乞い、「猟官運動のためには山に入って座禅をしなければならないのか」とまで言われた[14]。馬廷鸞、江万里らの著名な学者文人が起用されたが彼らは実務能力に欠け、廷臣たちは賈似道の留任を懇願した[14]。
1264年には理宗が崩御して度宗が即位した。1265年に太師を加増され、魏国公に封じられる。賈似道は西湖を俯瞰する葛嶺に集芳と呼ぶ園を置き、園内に建てた半閑亭と称する屋敷で政務を執った。南宋末期の朝廷では賈似道が私邸で書類に決裁を下し、賈似道の館客である廖瑩中が大小の政務を取り仕切り、宮廷の大臣や執政は届けられた書類の内容を検討することなく署名し、判を押す体制ができていた[6]。
1268年10月から南宋と元の最前線であった襄陽が元軍の包囲を受けるが(襄陽・樊城の戦い)、賈似道は度宗に襄陽が包囲を受けていることをひた隠しにしていた[15]。賈似道は度宗から襄陽の状況の下問を受けて范文虎を救援に派遣し、度宗に襄陽の戦況を密告した人物を殺害したと言われている[15]。襄陽と接続されていた樊城が陥落した時、賈似道は自らが救援に向かう事を申し出たが受理されず、代わりに高達が率いる部隊を向かわせた[16]。1273年3月に襄陽の守将・呂文煥は元に降伏し、呂文煥と縁戚関係にあった廷臣の多くが辞職を願い出たが、賈似道は彼らの申出を却下する[17]。1275年3月、賈似道は蕪湖に艦隊を停泊させ、元軍の司令官バヤンに和睦を提案するが、バヤンは元軍が長江を渡る前に和平を提案するべきであったこと、使者ではなく賈似道自身が交渉の場に赴くべきだと提案を一蹴する[18]。賈似道は夏貴、孫虎臣に艦隊を与えて元軍を攻撃するが、蕪湖近辺の丁家洲の戦いで南宋軍は大敗する。敗れた賈似道は淮東の李庭芝の元に逃亡し、恭帝の避難を進言する手紙を朝廷に送った[19]。臨安の留守を預かっていた賈似道の腹心陳宜中は賈似道の党派と見なされることを恐れて恭帝の退避に反対し、恭帝の退避を主張する殿帥の韓震を暗殺する[20]。
敗戦の報告を受けた朝廷では、賈似道を弾劾する廷臣たちが彼を極刑に処すように主張したが、太皇太后謝氏の取り成しによって漳州に流罪となった[21]。漳州の木綿庵において、賈似道は会稽県尉の鄭虎臣に殺害される。鄭虎臣の私怨、あるいはかつての腹心だった陳宜中の指示などが、殺害の動機として挙げられている[21]。
賈似道は武官たちから怨まれていたが、クビライが元に降伏した将軍たちに、なぜ容易く降伏したのかを尋ねたことがあった。将軍たちは口々に「賈似道が我々武官を軽んじたからだ」と恨み言を述べた。それを聞いたクビライは「お前たちを軽んじたのは賈似道であって、宋の皇帝ではない。それなのにお前たちは宋の皇帝に忠節を尽くそうとしなかった。賈似道がお前たちを軽んじたのも当然であろう」と応じたと言う。
政策
南宋では兵糧の購入に不換紙幣である会子が使用されていたが、宰相となった賈似道は紙幣の増刷がもたらすインフレーションを抑え、紙幣の印刷に必要な費用を削減するため、劉良貴らの進言を容れて公田の買収を実施する[22]。政府は200畝以上の田を所有する大地主から所有する田のうち3分の1を強制的に買い上げて小作人に貸与し、貸した田から上がる祖米を兵糧に充てた[22]。公田の買い上げは浙西から始められ、当初は土豪に租米の徴収が委任されていたが、やがて官吏が直接公田を管理するようになる[23]。政策の実施に際して賈似道は自身が所有する10,000畝の田を国に寄付し、吝嗇な性格で有名な栄王にも土地を供出させた[24]。田の買上げは事実上の土地の没収であり、租米の量が見積りよりも少ないと土地の元の所有者が不足分を負担しなければならなかった。また、国が直接土地を管理することで公田法実施前の納税の不正が露見することもあり得たため、地主たちは不安を覚えた[24]。地主の反対によって浙西の3,500,000畝の田を買い上げた時点で公田法は打ち切られたが、公田法実施前に浙西・浙東の二地域から買い上げた兵糧と同量の租米が浙西から収穫された[25]。
公田法以外のインフレーションへの対策として、当時流通していた会子のうち第十七界の会子を廃止し、新たに銅銭の兌換券である見銭関子を発行した[26]。金塊・銀塊の兌換券も発行されたが、賈似道によって実施された不換紙幣の削減と兌換紙幣の発行の成果を史料から判断することは難しい[27]。
また、賈似道は田籍と徴税額のための検地(経界推排法)を実施したが、政界と地主層の両方から非難を受けた[28]。
人物像
賈似道は骨董の収集家としても知られ、所蔵品の数は南宋の朝廷以上だといわれている[6]。廖瑩中を通して入手した古銅器、法書、名画、金玉、珍品は、集芳園内の多宝閣で保管された[29]。賈似道の収蔵品には金の章宗の鑑蔵印が押されているものが多いが、これらの品はかつて宋から金に渡った書画を取り戻したものだと推測される[30]。猟官運動に対して厳しい態度で臨んだ賈似道も骨董品を持ち込まれると態度を軟化させて人事に融通を利かせ、骨董の収集のためには一般から忌避される古墓の発掘も厭わなかった[31]。『画鑒』の著者である元の湯垕は賈似道が収集した書の中に少なからず贋作が混じっていることを挙げて、彼の鑑定眼に疑問を呈した[32]。
また、骨董品の収集以外に定武蘭亭序の翻刻、それの縮小版である玉板蘭亭を制作させた。
賈似道は闘蟋(コオロギ相撲)の愛好家としても知られている。唐代以来の闘蟋に関する知識と自身の研究をまとめた『促織経』は、世界で初めてのコオロギの百科事典とされている[33]。『促織経』では飼育法、交配からコオロギにまつわる古い詩歌などの大項目がより細かい項目に分けられて解説されている[33]。『促織経』の原著は散逸し、明代に増補改訂された二巻が現存する[33]。
脚注
- ^ a b c 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、67頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、65頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、66頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、67-68頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、70頁
- ^ a b c d 外山「賈似道」『世界伝記大事典』日本・朝鮮・中国編1巻、443-444頁
- ^ a b c 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、92頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、76-77頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、46-47頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、82頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、83頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、83-84頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、85頁
- ^ a b 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、84頁
- ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、51頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、55頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、56頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、51頁、65頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、96頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、96-97頁
- ^ a b 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、98頁
- ^ a b 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、86頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、86-87頁
- ^ a b 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、87頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、87-88頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、88-89頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、89頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、88頁
- ^ 外山『中国の書と人』、142頁
- ^ 外山『中国の書と人』、144-146頁
- ^ 宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、91頁
- ^ 外山『中国の書と人』、143頁
- ^ a b c 瀬川千秋『闘蟋』(あじあブックス, 大修館書店, 2002年10月)、70頁
参考文献
- 外山軍治『中国の書と人』(創元社, 1971年2月)
- 外山軍治「賈似道」『世界伝記大事典』日本・朝鮮・中国編1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ, 1978年7月)
- 宮崎市定「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』収録(礪波護編, 中公文庫, 中央公論新社, 2011年11月)
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1971年6月)