「スバス・チャンドラ・ボース」の版間の差分
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|思想=民族主義 |
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|活動=インドの独立運動家 |
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'''スバス・チャンドラ・ボース'''(Subhas Chandra Bose、[[ベンガル文字]]:{{lang|bn|'''সুভাষচন্দ্র বসু'''}} 、[[1897年]][[1月23日]] - [[1945年]][[8月18日]])は、[[インド]]の独立運動家、[[インド国民会議派]]議長、[[自由インド仮政府]]国家主席兼[[インド国民軍]]最高司令官。民族的出自は[[ベンガル人]]。'''ネータージー'''(指導者、{{lang|hi|नेताजी}}, Netāji。'''ネタージ'''、'''ネタジ''' とも)の敬称で呼ばれる。なお、スバスの部分は、'''シュバス'''(Shubhas)とも発音される。 |
'''スバス・チャンドラ・ボース'''(Subhas Chandra Bose、[[ベンガル文字]]:{{lang|bn|'''সুভাষচন্দ্র বসু'''}} 、[[1897年]][[1月23日]] - [[1945年]][[8月18日]])は、[[インド]]の独立運動家、[[インド国民会議派]]議長(1938 ~1939年)、[[自由インド仮政府]]国家主席兼[[インド国民軍]]最高司令官。民族的出自は[[ベンガル人]]。'''ネータージー'''(指導者、{{lang|hi|नेताजी}}, Netāji。'''ネタージ'''、'''ネタジ''' とも)の敬称で呼ばれる。なお、スバスの部分は、'''シュバス'''(Shubhas)とも発音される。 |
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== プロフィール == |
== プロフィール == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[1897年]]にインド(当時は[[イギリス領インド帝国]])の[[ベンガル州]][[カタク]](現在の[[オリッサ州]])に生まれ、カルカッタ(現在の[[コルカタ]])の大学を |
[[1897年]]にインド(当時は[[イギリス領インド帝国]])の[[ベンガル州]][[カタク]](現在の[[オリッサ州]])に生まれた。父親は弁護士で、インド人の人権を教護することもしばしばであった。ボースはこの父親から大きな影響を受けたと後に語っている{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=58}}。カルカッタ(現在の[[コルカタ]])の大学に進んだ。大学ではイギリス人教師の人種差別的な態度がインド人学生の反感を買い、学生ストライキが勃発した。ボースは首謀者と見られ、停学処分を受けた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=58}}。[[1919年]]、両親の希望で[[イギリス]]の[[ケンブリッジ大学]]に留学した。大学では近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究し、[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]の妥協無き理想主義に感銘を受けたと回想している{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=58}}。 |
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=== 独立運動家 === |
=== 独立運動家 === |
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[[ファイル:Bose Gandhi 1938.jpg|200px|left|thumb|マハトマ・ガンディー(左)とボース(右)]] |
[[ファイル:Bose Gandhi 1938.jpg|200px|left|thumb|マハトマ・ガンディー(左)とボース(右)]] |
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1920年には{{仮リンク|インド高等文官|en|Civil Services of India}}試験を受験した。ボース自身の回想では試験には合格したものの、このままではイギリス植民地支配の傀儡となるだけだと判断して資格を返上した{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=58}}。ただし、二次試験の乗馬試験で不合格となったという異説も存在する{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=58}}。いずれにせよこの頃からボースはインド独立運動に参加するようになっていった。 |
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しかし[[1921年]]に[[マハトマ・ガンディー]]指導の反英非協力運動に身を投じ、[[1924年]]にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄され[[ビルマ]]の[[マンダレー]]に流される。 |
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釈放後の[[1930年]]にはカルカッタ市長に選出されたが、チャンドラ・ボースの独立志向とその影響力を危惧したイギリスの[[植民地]]政府の手により免職された。 |
[[1921年]]に[[マハトマ・ガンディー]]指導の反英非協力運動に身を投じた。ボース自身は「ガンディーの[[市民的不服従|武力によらぬ反英不服従運動]]は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=58}}、ガンディーの[[非暴力主義]]には強く反対していた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=58}}。[[1924年]]にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄され[[ビルマ]]の[[マンダレー]]に流される。釈放後の[[1930年]]にはカルカッタ市長に選出されたが、チャンドラ・ボースの独立志向とその影響力を危惧したイギリスの[[植民地]]政府の手により免職された。 |
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その後も即時独立を求める[[インド国民会議派]]の左派、急進派として活躍し、勢力を伸ばした。ガンディーは組織の分裂を心配し、[[1938年]]度の国民会議派議長に推薦した{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=59}}。ボースはインド独自の[[社会主義]]「[[サーミヤワダ]]」を提唱し、若年層・農民・貧困層の支持を集めた。この成果に自信を持ったボースは翌年の国民会議派議長に立候補した。議長はガンディーの指名によって決定されることが慣例になっていたが、ボースはガンディーの推薦する{{仮リンク|ボガラージュ・パタビ・シタラマヤ|en|Bhogaraju Pattabhi Sitaramayya}}に大差をつけて勝利した。しかしこの行為はガンディーの支持を失わせることになり、ガンディーを支持する国民会議派の多数派からの支持も失わせることになった{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=59}}。ボースはやがて議長辞任を余儀なくされ、さらに三年間役職に就けない処分を受けた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=59}}。議長退任後には[[全インド前進同盟|前進同盟]]を結成し、独自の活動も開始した。 |
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その後も即時独立を求める[[インド国民会議派]]の左派、急進派として活躍し、[[1937年]]と[[1939年]]には国民会議派議長を務めた。この間、国民会議派内に[[全インド前進同盟|前進同盟]]を結成した。その後、ガンディーら穏健派と対立し国民会議派を除名される。 |
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=== 亡命 === |
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1939年9月の[[第二次世界大戦]]開戦、つまりイギリスと[[ナチス・ドイツ]]の開戦を知ったボースは、「待望のイギリスの難局がついに訪れた。これはインド独立の絶好の機会である」と述べ{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=59}}、独立のための武装闘争の準備を開始した。ボースは被搾取民族にとって独立達成こそが先決であり、反英諸国の[[イデオロギー]]について論争する「贅沢な余裕はない」という見解を持っていた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=60}}。1940年6月、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス降伏]]と[[バトル・オブ・ブリテン|ドイツ軍によるイギリス上陸が迫った]]ことを知ったボースはガンディーの元を訪れ、広範なレジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うように求めた。しかしガンディーは闘争のための準備ができておらず、現在の蜂起は犠牲が大きいとして要請を拒否した{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=60}}。7月には大衆デモの煽動と治安妨害の容疑で逮捕され、戦後まで収監される予定となった。ボースは反英諸国の支援を受けて国外でインド人部隊を結成し、インドに侵攻して民衆蜂起とともにインド独立を達成する計画を立て、脱獄の機会を待った。獄中で[[ハンガーストライキ]]を行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出、陸路[[アフガニスタン]]を経て、[[ソビエト連邦]]に亡命しようとした。 |
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[[第二次世界大戦]]勃発後、[[1941年]]に密かにインドを脱出して陸路[[アフガニスタン]]を経て、[[ソビエト連邦|ソ連]]で[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]に協力を要請するが、断られたため、ソ連経由で[[ナチス]]政権下の[[ドイツ]]に[[亡命]]した。 |
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当時ボースはインドを解放できる国はソ連だけだと考えており、社会主義的思想の点からも親近感を持っていた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=70}}。ボースは[[カブール]]駐在のソ連大使と交渉し、[[モスクワ]]行きの許可を得ようとしたが、大使はボースの入国を認めなかった{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=60}}。ボースはイタリア大使アルベルト・カローニの協力を得て、イタリア外交官に偽装してドイツに向かった。[[1941年]]4月2日、ボースはドイツのベルリンに到着した。 |
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[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]や[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]にも協力を要請するが、ヒトラーには「インドの独立にはあと150年はかかる」と言われ協力を拒否された。ヒトラーがボースを冷遇したのは彼がインド人の中でもナチスがドイツ人と同じくアーリア人に属する兄弟民族とみなしていたヒンドゥスタニ人ではなく、非アーリア系に属するベンガル人であったためとされる。 |
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=== ドイツでの活動 === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-064-03A, Subhas Chandra Bose bei Heinrich Himmler.jpg|250px|right|thumb|[[ハインリヒ・ヒムラー]]と談笑するボース。1942年夏]] |
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カブールでボースの世話をしていた元国民会議派のウッタム・チャンドの回想では、ボースはドイツを「イギリスと同じぐらい」嫌っており、ドイツにいてもソ連に向かうための交渉を行っていたと見ている{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=60}}。それでも4月9日にはドイツ外務省に対し、枢軸国軍によるインド攻撃を含む、インド独立のための構想の覚書を提出している。この覚書に直接の回答は無かったが、4月29日には[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]外相と会見する機会を得た。しかし「インドでの蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃という計画をドイツが受け入れるには2年間は待つ必要がある」という冷淡な回答があるのみであった{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=61}}。 |
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[[アドルフ・ヒトラー]]はインド独立運動家を「ヨーロッパをうろつき回るアジアの大ぼら吹き」と呼び、「インドは他の国に支配されるよりは、イギリスに支配されるほうが望ましい」と『[[我が闘争]]』に記していた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=61}}。[[ヒトラーのテーブル・トーク|1941年9月の食卓談話]]でも「イギリスがインドから追い出されるなら、インドは崩壊するであろう」述べるなど、イギリスによるインド支配が継続されるべきであると考えていた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=61}}。このためドイツはボースにベルリン中央部の広大な邸宅をあたえ、自動車や生活資金も供与した{{sfn|児島襄|1974|pp=154}}ものの、独立運動への直接的な協力には極めて冷淡であった。 |
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ドイツでは主に[[北アフリカ戦線]]で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成し、イギリスと戦火を交えるドイツに協力していた。チャンドラ・ボースの[[ベルリン]]からの反英[[ラジオ]]放送は有名である。 |
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6月には[[ローマ]]を訪れ、[[イタリア王国]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]を通じてドイツに影響を与えようとしたが、外相[[ガレアッツォ・チャーノ]]と面会できたのみであり、ムッソリーニとは会うことすらできなかった{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=61-62}}。ローマ滞在中には[[バルバロッサ作戦|ドイツがソ連に侵攻し]]、[[独ソ戦]]が開始された。ボースはこれに憤慨し、「インドの民衆はドイツが侵略者であり、インドにとってもう一つの危険な[[帝国主義]]国であると理解するであろう。ソビエトとの戦争は悲惨な失敗に終わるであろう。」という抗議をリッベントロップ外相に送っている{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=62}}。 |
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それでもボースはあきらめることなく、ドイツ外務省との交渉を行った。これをうけて外務省情報局内には特別インド班が設置され、インド問題の専門家とともに活動できるようになった。11月には外務省によって「自由インドセンター」が設立され、在外公館として認可された。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、[[北アフリカ戦線]]で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成した(後の{{仮リンク|第950連隊 (ドイツ)|en|Indische Legion|label=第950連隊}})。ボース自身も積極的に反英プロパガンダ放送に参加した。しかし対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立に対する支持を明確化することは、和平交渉において不利になると考えていた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=62}}。ボースがドイツ政府とヒトラーに求めていた『我が闘争』のインド蔑視部分の説明と、インド独立に対する支持の公式な表明は両方とも拒絶された{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=62}}。 |
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=== 日本への移動 === |
=== 日本への移動 === |
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[[File:19430428 japanese submarine crew i-29.png|thumb|[[伊号第二九潜水艦]]乗員と[[スバス・チャンドラ・ボース]](1943年4月28日、伊号第二九潜水艦艦橋にて)]] |
[[File:19430428 japanese submarine crew i-29.png|thumb|[[伊号第二九潜水艦]]乗員と[[スバス・チャンドラ・ボース]](1943年4月28日、伊号第二九潜水艦艦橋にて)]] |
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1941年12月、日本がアメリカ・イギリスと交戦状態に入った([[太平洋戦争]])。ボースは[[マレー作戦]]での日本軍の進撃を知ると、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」として、日本行きを希望して大使館と接触するようになた。しかし日本大使館は「考慮中」という対応しか示さなかった{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=65}}。[[参謀本部 (日本)|日本陸軍参謀本部]]はインド情勢に対する分析が不充分であり、ボースの利用価値についてほとんど認識していなかった{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=65}}。 |
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日本の[[マレー作戦|対英開戦]]の知らせを聞いたチャンドラ・ボースは、日本に協力を願い出ることを望むが、すでに[[独ソ戦]]が始まっており、往路と同じルートを取りインドへ戻ることは不可能だった。 |
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マレー作戦の後、日本はインド方面への侵攻を本格化させ、1942年4月には[[セイロン沖海戦]]で連合国海軍を破った。おりしも[[北アフリカ戦線]]で枢軸軍が[[スエズ運河]]に迫っており、ドイツ側も日本に対して対インド方面作戦の強化を働きかけていた。しかし[[ガダルカナル島]]にアメリカ軍が上陸すると、インド方面の戦力は減少することとなった{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=64}}。 |
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6月15日に日本が占領下に置いた元イギリス領の[[シンガポール]]を拠点として、[[ラース・ビハーリー・ボース]]を指導者とする{{仮リンク|インド独立連盟|en|Indian Independence League}}が設立された。連盟の指揮下には[[イギリス領マラヤ]]やシンガポール、[[香港]]などで捕虜になった[[英印軍]]のインド兵を中心に結成されていた[[インド国民軍]]が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官{{仮リンク|モハン・シン|en|Mohan Singh (general)}}と、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=65}}。11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者をもとめるようになった。 |
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日本か |
国内外に知られた独立運動家であったボースはまさにうってつけの人物であり、またボース自身も[[大島浩]]駐独大使に強く日本行きを働きかけた。またインド独立連盟幹部の[[A.M.ナイル]]もボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路・海路ともに戦争状態にあったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。その結果、空路よりは[[潜水艦]]のほうが安全であると結論が出、[[1943年]][[2月8日]]、ボースと側近{{仮リンク|アディド・ハサン|en|Abid Hasan}}の乗り込んだ[[ドイツ海軍]]の[[Uボート|Uボート U180]]は[[フランス]][[大西洋]]岸の[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]を出航した。4月26日、[[インド洋]][[マダガスカル島]]東南沖{{sfn|米田文孝・秋山暁勲|2002|pp=13}}でUボートと[[日本海軍]]の[[伊一五型潜水艦|巡潜乙型]][[伊号第二九潜水艦]]が出会い、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ{{sfn|児島襄|1974|pp=156}}。[[5月6日]]、潜水艦は[[スマトラ島]]に到着した。現地で飛行機便を待ち、5月16日に[[東京]]に到着した{{sfn|児島襄|1974|pp=156}}。 |
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=== 自由インド仮政府 === |
=== 自由インド仮政府 === |
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東京で、ビハーリー・ボースやA・M・ナーイルらと合流した後、ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任し、その後日本の支援により同年10月21日にシンガポールで[[自由インド仮政府]]首班に就任。同年に行われた[[大東亜会議]]に[[オブザーバー]]として参加する。 |
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その後チャンドラ・ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による開放を目指して[[ビルマ]]の[[ラングーン]]に本拠地を移動させ、さらに[[1944年]]に日本軍とともに[[インパール作戦]]に参加したことを皮切りに、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]と主に[[ビルマの戦い|ビルマで戦った]]。 |
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東京に到着したボースはビハーリー・ボースやナイルらと合流した後、ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任た。当初日本の[[東條英機]][[内閣総理大臣|首相]]はボースを評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=66}}。しかしボース来日から一ヶ月後に実現した会見で、東條首相はボースの人柄に魅せられ、一ヶ月後の再会談を申し入れた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=66}}。再会談でボースと東條は日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、東條はその後食事会にボースを招待している{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=66}}。 |
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東條はボースの影響でインドに対する考え方を新たにし{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=66}}、またボースの東亜解放思想を自らが提唱する[[大東亜共栄圏]]成立に無くてはならないものだと考えていた。ボースは10月21日にシンガポールで[[自由インド仮政府]]首班に就任し、11月の[[大東亜会議]]には[[オブザーバー]]として参加する。ボースはそのカリスマ的魅力で、国民軍の募兵を積極的に行った{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=67}}。 |
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その後ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による開放を目指して、[[1944年]]1月7日、[[ビルマ]]の[[ラングーン]]に本拠地を移動させた。ボースは同地においてビルマ方面軍司令官[[河辺正三]]中将と出会った。河辺中将は歓迎の宴席で示されたボースのインド独立にかける意志と、その後の態度を見てボースに惚れ込み、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と極めて高く評価するようになった{{sfn|児島襄|1974|pp=164-165}}。 |
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河辺中将は日本軍によるインド侵攻のための[[インパール作戦]]の作戦の指揮を執ることになるが、「チャンドラ・ボースの壮図を見殺しにできぬ苦慮が、正純な戦略的判断を混濁させたのである」と、作戦実行の背景にボースに対する日本軍側の「情」があったとしている{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=67}}。ボースは国民軍をインパール作戦に参加させるようたびたび要求し、日本側を困惑させた{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=68}}。6月にはすでに作戦の失敗は明かであったが、河辺中将は「この作戦には、日印両国の運命がかかっている。一兵一馬でも注ぎ込んで、[[牟田口廉也|牟田口(牟田口廉也第15軍司令官)]]を押してやろう。そして、チャンドラ・ボースと心中するのだ。」と考えていた{{sfn|児島襄|1974|pp=169}}。インパール侵攻の失敗により、インド国民軍はその後主に[[ビルマの戦い|ビルマで]][[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]と戦った。 |
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[[ファイル:Subhas Chandra Bose (tokyo).JPG|thumb|200px|ボースの碑(杉並区 蓮光寺)]] |
[[ファイル:Subhas Chandra Bose (tokyo).JPG|thumb|200px|ボースの碑(杉並区 蓮光寺)]] |
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日本の敗戦により、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ること |
日本の敗戦により、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となった。ボースはソ連に協力を求めるために、日本軍関係者の協力を受けて[[満州]]へ向かおうとした。ボースは満州でソ連軍に投降し、それから交渉を行うつもりであった{{sfn|児島襄|1974|pp=169}}。1945年8月18日午後2時、ボースは[[台湾]]の[[台北松山空港|松山飛行場]]から[[大連]]へ向かう予定であった[[九七式重爆撃機]]に乗り込んだ{{sfn|児島襄|1974|pp=170}}。乗り込む直前には一人のインド人に「東南アジア在住300万のインド人からの贈り物」である宝石・貴金属の入った二つのスーツケースを受け取った{{sfn|児島襄|1974|pp=170}}。しかし離陸直前に左側プロペラが外れ、機体はバウンドして土堤に衝突、炎上した{{sfn|児島襄|1974|pp=170}}。 |
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操縦士の滝沢少佐、同乗していた[[四手井綱正]]中将と士官一名は即死し{{sfn|児島襄|1974|pp=170}}、ボースは大やけどを負った。ボースは台湾陸軍病院の南院に運ばれ、手当を受けた。死を悟ったボースは同乗していたが軽傷であったハブビル・ラーマン大佐に「インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、インドの独立は目捷の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ。」{{sfn|米田文孝・秋山暁勲|2002|pp=46}}「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と告げた<ref>萬晩報「スバス・チャンドラ・ボース氏の最後の一日」- ハビブル・ラーマン大佐の回想 </ref>。夜、当番兵がボースに何か食べたいものがあるかと聞くと、「[[カレー]]」と答えたようにに聞こえた{{sfn|児島襄|1974|pp=170}}。当番兵が[[カレーライス]]を作り、スプーンで食べさせると、ボースは「グッド」と答えた。しかし2口3口食べると、ボースはそれきり動かなくなった。午後11時41分のことであった{{sfn|児島襄|1974|pp=170}}。 |
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[[大本営]]はボースの遺体を東京に送るように命じたが、夏期と火傷による損傷が激しく、現地で火葬することになった{{sfn|米田文孝・秋山暁勲|2002|pp=46}}8月20日、台北市営火葬場で荼毘に付され、台北市内の[[本願寺台湾別院|西本願寺]]で法要が営まれた。8月23日にボースの死が公表され、世界に伝えられた。 |
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⚫ | これらの疑問に対し、インド政府は過去3度にわたって調査委員会を組織し、[[1956年]]、[[1970年]]、[[2006年]]にそれぞれ報告書を作成している。最初の2回(実施時の政権与党はいずれもインド国民会議派)は「飛行機事故で死亡し生存の可能性がない」と結論づけた。しかし、[[インド人民党]]が与党であった[[1999年]]に組織した3度目の調査委員会は「飛行機事故は連合軍によるボースの追跡をかわすために日本軍が作り上げた」とし、蓮光寺の遺骨はボースのものではなく、 |
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⚫ | 9月5日、ボースの遺骨は日本に運ばれ、9月7日には参謀本部の元に届けられた{{sfn|米田文孝・秋山暁勲|2002|pp=46}}。その後紆余曲折があったものの、[[東京都]][[杉並区]]の[[日蓮宗]][[蓮光寺 (杉並区)|蓮光寺]]に納められた。密かに行われたボースの葬儀の際はビハーリー・ボースのそれとして行われ、ビハーリー・ボースが寄居していた[[中村屋]]の[[菓子]]が供えられたという。なお、ボースの遺骨が安置されている蓮光寺は、ビハーリー・ボースの側近が住んでいた家の近くにある。その後蓮光寺には、インドの[[ラージェーンドラ・プラサード|プラサード]][[インドの大統領|大統領]]、[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]][[インドの首相|首相]]、[[インディラー・ガーンディー|インディラー・ガンジー]]首相などが訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。また、多くの[[在日インド人]]も訪れている。 |
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== 死に対する議論 == |
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ボースの死の知らせを受けた[[インドの総督|インド総督]]{{仮リンク|アーチボルト・ウェーベル|en|Archibald Wavell, 1st Earl Wavell}}や連合国東南アジア方面軍司令官[[ルイス・マウントバッテン]]は日本の発表を信じず、ボースが逃亡したと考えていたように、公式情報を信じない向きはその当時から存在した{{sfn|米田文孝・秋山暁勲|2002|pp=46}}。また戦後からしばらくの間、世界各地でボースの目撃情報が相次いで伝えられている{{sfn|米田文孝・秋山暁勲|2002|pp=46}}。 |
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⚫ | またボースと近い立場にあったA.M.ナイルは自書内で、今や敗戦国となった日本を経由して日本の旧敵国のソ連へ向かおうとする事が不可能であったことや、ボースの敵であるイギリスと同じ連合国の1国であるソ連と協力を行おうとすることの不可解さ、さらに事故の際に「死んだ」とされる日本人の複数の同乗者がその後も生存していたことや、ボースとS.A.アイエルが持ち出した、宝飾品などを中心とした仮政府の資産が行方不明になっているとして、ボースの「飛行機事故死」に疑問を投げかけている。特にインドにおいてボースの事故死を信じない者を中心として、生存説を支持する論説もたびたび出されている<ref>[http://www.hindustantimes.com/news/specials/Netaji/htarchive_51.htm hindustantimes.com] -リンク切れ</ref>。 |
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インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にはガンディー、左には[[ジャワハルラール・ネルー]]の肖像画が掲げられている。また現在も[[ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港|コルカタの国際空港]]がチャンドラ・ボースの名前を冠しているほか、コルカタにはチャンドラ・ボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅('''[[ネタージ・バワン]]''')もあり、記念館となっている([[2007年]]に[[安倍晋三]]首相が訪問した)。[[2005年]]には[[インド映画]]『[[:en:Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero|Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero]]』が公開された。インドでは現在も人気の高い政治家である。 |
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⚫ | これらの疑問に対し、インド政府は過去3度にわたって調査委員会を組織し、[[1956年]]、[[1970年]]、[[2006年]]にそれぞれ報告書を作成している。最初の2回(実施時の政権与党はいずれもインド国民会議派)は「飛行機事故で死亡し生存の可能性がない」と結論づけた。しかし、[[インド人民党]]が与党であった[[1999年]]に組織した3度目の調査委員会は「飛行機事故は連合軍によるボースの追跡をかわすために日本軍が作り上げた」とし、蓮光寺の遺骨はボースのものではなく、ボースがすでに死亡していることは間違いないものの死因については「説得力のある証拠がない」として具体的に言及しなかった<ref>調査委員会の委員長によると、蓮光寺の遺骨の[[DNA型鑑定]]も検討したが、技術的に困難といわれたため断念した(朝日新聞2006年5月10日夕刊)。</ref>。この報告書が発表された2006年には政権与党は再びインド国民会議派などによる連立政権に移っており、発表時のインド政府は「調査結果に同意しない」と表明した。 |
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== 顕彰 == |
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[[File:Netaji Subhas Chandra Bose near Vidhan Soudha 5-31-2008 4-50-54 PM.JPG|right|thumb|250px|[[バンガロール]]にある州議会堂付近にあるチャンドラ・ボースの銅像]] |
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1945年9月にインド国民軍指導者を裁いたイギリス軍の裁判がインド人の反乱を巻き起こしたため裁判は中止され、全将兵が釈放された{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=68}}ことからも見られるように、インド独立運動において国民軍とボースの行動強くは否定されていない。ただし、多くの犠牲を出したという点から否定的な見方も存在する{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=68}}。 |
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インドの{{仮リンク|国会議事堂 (インド)|en|Sansad Bhavan|label=国会議事堂}}の中央大ホールにはガンディー、[[ジャワハルラール・ネルー]]らの肖像画が掲げられているが、[[1978年]]にはそれに並んでボースの肖像画も掲げられるようになった{{sfn|米田文孝・秋山暁勲|2002|pp=47}}。 |
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[[デリー]]の[[赤い城]](ラール・キラー)には、かつてイギリス王にしてインド皇帝であった[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の銅像が存在したが、現在その台座にはインド国民軍とそれを率いるボースの銅像が建っている{{sfn|米田文孝・秋山暁勲|2002|pp=47}}。また1998年には{{仮リンク|ネータージー・スバース工科大学|en|Netaji Subhash Engineering College}}が設立されている。 |
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ボースの出身地であるベンガルの中心地コルカタにはボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅([[ネタージ・バワン]])もあり、記念館となっている([[2007年]]に[[安倍晋三]]首相が訪問した)。またコルカタには彼の名を冠した[[ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港]]、{{仮リンク|アチャーヤ・ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース植物園|en|Acharya Jagadish Chandra Bose Indian Botanic Garden}}が存在する。 |
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[[2005年]]には[[インド映画]]『[[:en:Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero|Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero]]』が公開された。インドでは現在も人気の高い政治家である。 |
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== 人物評 == |
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[[File:19430610 meeting bose tojo.png|thumb|right|250px|1943年6月10日、ボースと東條英機]] |
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独立運動家のA・M・ナイルはボースの人柄について自己顕示欲が旺盛で自信過剰、そして非妥協的な闘争性を持っていたと指摘している{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=59}}。このため、ボースの態度が横柄であると感じる者も多かった。来日直後にボースと面会した日本政府関係者も「やけに尊大ぶる男」であると報告し{{sfn|児島襄|1974|pp=160}}、またイタリア外相のチャーノも「横柄な人物」と評している{{sfn|森瀬晃吉|1999|pp=61}}。 |
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一方でそのインド独立に対する情熱や人柄によって東條英機や河辺正三を魅了した。ボースとの会見後、東条英機は「ありゃあ、人物だあ」ともらしている{{sfn|児島襄|1974|pp=161}}。しかしこれらの人間関係が、日本の戦略に大きな影響を与えたという指摘も存在する。 |
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== 家族 == |
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[[File:Subhas Bose with his wife.png|thumb|right|250px|エミーリエ夫人とボース。撮影年月日不明]] |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
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==参考文献== |
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* {{Cite book|和書|author=[[児島襄]] |title=指揮官(下) |date=1974|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-14-714102-7|ref=harv}} |
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* {{Cite journal|和書|author=森瀬晃吉 |title=第二次世界大戦とスバス・チャンドラ・ボース |date=1999 |publisher=大垣女子短期大学 |journal=大垣女子短期大学研究紀要|volume= 40|naid=110000486536|pages=57-70|ref=harv}} |
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*[http://www.yorozubp.com/netaji/academy/190lastday-j.htm 9 スバス・チャンドラ・ボース氏の最後の一日 ]-萬晩報 |
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* {{Cite journal|和書|author=米田文孝・秋山暁勲 |title=伊号第29潜水艦とスバス・チャンドラ・ボース |date=2002 |publisher=関西大学博物館 |journal=関西大学博物館紀要 |volume= 8|url=http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/2967|pages=1-57|ref=harv}} |
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== 関連 == |
== 関連 == |
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* [[Portal:大東亜共栄圏]] |
* [[Portal:大東亜共栄圏]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.missionnetaji.org MISSION NETAJI] |
* [http://www.missionnetaji.org MISSION NETAJI] |
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* [http://indiansforaction.com INdians for Action] |
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* [http://www.yorozubp.com/netaji/academy-j.htm スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー](リンク切れ) |
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* [http://www.kamat.com/kalranga/itihas/bose.htm Netaji Subhas Chandra Bose] |
* [http://www.kamat.com/kalranga/itihas/bose.htm Netaji Subhas Chandra Bose] |
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* [http://netmuseum.co.jp/ippin/ippno40.html 東京の片隅で、インドと日本の友好をさけぶ(チャンドラ・ボース慰霊塔)(リンク切れ)] |
<!--* [http://netmuseum.co.jp/ippin/ippno40.html 東京の片隅で、インドと日本の友好をさけぶ(チャンドラ・ボース慰霊塔)(リンク切れ)]--> |
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* [http://www.yorozubp.com/9808/980814.htm 杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨] |
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2013年8月3日 (土) 03:04時点における版
スバス・チャンドラ・ボース | |
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ファイル:Subhas Bose.jpg সুভাষচন্দ্র বসু | |
通称 | ネータージー |
生年 | 1897年1月23日 |
生地 | イギリス領インド帝国 |
没年 | 1945年8月18日(48歳没) |
没地 | 台湾 |
思想 |
民族主義 社会主義 |
活動 | インドの独立運動家 |
所属 |
インド国民会議派 自由インド仮政府 インド国民軍 |
投獄 | 1924年 |
スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、ベンガル文字:সুভাষচন্দ্র বসু 、1897年1月23日 - 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 ~1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人。ネータージー(指導者、नेताजी, Netāji。ネタージ、ネタジ とも)の敬称で呼ばれる。なお、スバスの部分は、シュバス(Shubhas)とも発音される。
プロフィール
生い立ち
1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタク(現在のオリッサ州)に生まれた。父親は弁護士で、インド人の人権を教護することもしばしばであった。ボースはこの父親から大きな影響を受けたと後に語っている[1]。カルカッタ(現在のコルカタ)の大学に進んだ。大学ではイギリス人教師の人種差別的な態度がインド人学生の反感を買い、学生ストライキが勃発した。ボースは首謀者と見られ、停学処分を受けた[1]。1919年、両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学に留学した。大学では近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究し、クレメンス・フォン・メッテルニヒの妥協無き理想主義に感銘を受けたと回想している[1]。
独立運動家
1920年にはインド高等文官試験を受験した。ボース自身の回想では試験には合格したものの、このままではイギリス植民地支配の傀儡となるだけだと判断して資格を返上した[1]。ただし、二次試験の乗馬試験で不合格となったという異説も存在する[1]。いずれにせよこの頃からボースはインド独立運動に参加するようになっていった。
1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。ボース自身は「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており[1]、ガンディーの非暴力主義には強く反対していた[1]。1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたが、チャンドラ・ボースの独立志向とその影響力を危惧したイギリスの植民地政府の手により免職された。
その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、勢力を伸ばした。ガンディーは組織の分裂を心配し、1938年度の国民会議派議長に推薦した[2]。ボースはインド独自の社会主義「サーミヤワダ」を提唱し、若年層・農民・貧困層の支持を集めた。この成果に自信を持ったボースは翌年の国民会議派議長に立候補した。議長はガンディーの指名によって決定されることが慣例になっていたが、ボースはガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤに大差をつけて勝利した。しかしこの行為はガンディーの支持を失わせることになり、ガンディーを支持する国民会議派の多数派からの支持も失わせることになった[2]。ボースはやがて議長辞任を余儀なくされ、さらに三年間役職に就けない処分を受けた[2]。議長退任後には前進同盟を結成し、独自の活動も開始した。
亡命
1939年9月の第二次世界大戦開戦、つまりイギリスとナチス・ドイツの開戦を知ったボースは、「待望のイギリスの難局がついに訪れた。これはインド独立の絶好の機会である」と述べ[2]、独立のための武装闘争の準備を開始した。ボースは被搾取民族にとって独立達成こそが先決であり、反英諸国のイデオロギーについて論争する「贅沢な余裕はない」という見解を持っていた[3]。1940年6月、フランス降伏とドイツ軍によるイギリス上陸が迫ったことを知ったボースはガンディーの元を訪れ、広範なレジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うように求めた。しかしガンディーは闘争のための準備ができておらず、現在の蜂起は犠牲が大きいとして要請を拒否した[3]。7月には大衆デモの煽動と治安妨害の容疑で逮捕され、戦後まで収監される予定となった。ボースは反英諸国の支援を受けて国外でインド人部隊を結成し、インドに侵攻して民衆蜂起とともにインド独立を達成する計画を立て、脱獄の機会を待った。獄中でハンガーストライキを行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出、陸路アフガニスタンを経て、ソビエト連邦に亡命しようとした。
当時ボースはインドを解放できる国はソ連だけだと考えており、社会主義的思想の点からも親近感を持っていた[4]。ボースはカブール駐在のソ連大使と交渉し、モスクワ行きの許可を得ようとしたが、大使はボースの入国を認めなかった[3]。ボースはイタリア大使アルベルト・カローニの協力を得て、イタリア外交官に偽装してドイツに向かった。1941年4月2日、ボースはドイツのベルリンに到着した。
ドイツでの活動
カブールでボースの世話をしていた元国民会議派のウッタム・チャンドの回想では、ボースはドイツを「イギリスと同じぐらい」嫌っており、ドイツにいてもソ連に向かうための交渉を行っていたと見ている[3]。それでも4月9日にはドイツ外務省に対し、枢軸国軍によるインド攻撃を含む、インド独立のための構想の覚書を提出している。この覚書に直接の回答は無かったが、4月29日にはヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と会見する機会を得た。しかし「インドでの蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃という計画をドイツが受け入れるには2年間は待つ必要がある」という冷淡な回答があるのみであった[5]。
アドルフ・ヒトラーはインド独立運動家を「ヨーロッパをうろつき回るアジアの大ぼら吹き」と呼び、「インドは他の国に支配されるよりは、イギリスに支配されるほうが望ましい」と『我が闘争』に記していた[5]。1941年9月の食卓談話でも「イギリスがインドから追い出されるなら、インドは崩壊するであろう」述べるなど、イギリスによるインド支配が継続されるべきであると考えていた[5]。このためドイツはボースにベルリン中央部の広大な邸宅をあたえ、自動車や生活資金も供与した[6]ものの、独立運動への直接的な協力には極めて冷淡であった。
6月にはローマを訪れ、イタリア王国のムッソリーニを通じてドイツに影響を与えようとしたが、外相ガレアッツォ・チャーノと面会できたのみであり、ムッソリーニとは会うことすらできなかった[7]。ローマ滞在中にはドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が開始された。ボースはこれに憤慨し、「インドの民衆はドイツが侵略者であり、インドにとってもう一つの危険な帝国主義国であると理解するであろう。ソビエトとの戦争は悲惨な失敗に終わるであろう。」という抗議をリッベントロップ外相に送っている[8]。
それでもボースはあきらめることなく、ドイツ外務省との交渉を行った。これをうけて外務省情報局内には特別インド班が設置され、インド問題の専門家とともに活動できるようになった。11月には外務省によって「自由インドセンター」が設立され、在外公館として認可された。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成した(後の第950連隊)。ボース自身も積極的に反英プロパガンダ放送に参加した。しかし対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立に対する支持を明確化することは、和平交渉において不利になると考えていた[8]。ボースがドイツ政府とヒトラーに求めていた『我が闘争』のインド蔑視部分の説明と、インド独立に対する支持の公式な表明は両方とも拒絶された[8]。
日本への移動
1941年12月、日本がアメリカ・イギリスと交戦状態に入った(太平洋戦争)。ボースはマレー作戦での日本軍の進撃を知ると、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」として、日本行きを希望して大使館と接触するようになた。しかし日本大使館は「考慮中」という対応しか示さなかった[9]。日本陸軍参謀本部はインド情勢に対する分析が不充分であり、ボースの利用価値についてほとんど認識していなかった[9]。
マレー作戦の後、日本はインド方面への侵攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破った。おりしも北アフリカ戦線で枢軸軍がスエズ運河に迫っており、ドイツ側も日本に対して対インド方面作戦の強化を働きかけていた。しかしガダルカナル島にアメリカ軍が上陸すると、インド方面の戦力は減少することとなった[10]。
6月15日に日本が占領下に置いた元イギリス領のシンガポールを拠点として、ラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟が設立された。連盟の指揮下にはイギリス領マラヤやシンガポール、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シンと、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた[9]。11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者をもとめるようになった。
国内外に知られた独立運動家であったボースはまさにうってつけの人物であり、またボース自身も大島浩駐独大使に強く日本行きを働きかけた。またインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路・海路ともに戦争状態にあったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。その結果、空路よりは潜水艦のほうが安全であると結論が出、1943年2月8日、ボースと側近アディド・ハサンの乗り込んだドイツ海軍のUボート U180はフランス大西洋岸のブレストを出航した。4月26日、インド洋マダガスカル島東南沖[11]でUボートと日本海軍の巡潜乙型伊号第二九潜水艦が出会い、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ[12]。5月6日、潜水艦はスマトラ島に到着した。現地で飛行機便を待ち、5月16日に東京に到着した[12]。
自由インド仮政府
東京に到着したボースはビハーリー・ボースやナイルらと合流した後、ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任た。当初日本の東條英機首相はボースを評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していた[13]。しかしボース来日から一ヶ月後に実現した会見で、東條首相はボースの人柄に魅せられ、一ヶ月後の再会談を申し入れた[13]。再会談でボースと東條は日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、東條はその後食事会にボースを招待している[13]。
東條はボースの影響でインドに対する考え方を新たにし[13]、またボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えていた。ボースは10月21日にシンガポールで自由インド仮政府首班に就任し、11月の大東亜会議にはオブザーバーとして参加する。ボースはそのカリスマ的魅力で、国民軍の募兵を積極的に行った[14]。
その後ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による開放を目指して、1944年1月7日、ビルマのラングーンに本拠地を移動させた。ボースは同地においてビルマ方面軍司令官河辺正三中将と出会った。河辺中将は歓迎の宴席で示されたボースのインド独立にかける意志と、その後の態度を見てボースに惚れ込み、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と極めて高く評価するようになった[15]。
河辺中将は日本軍によるインド侵攻のためのインパール作戦の作戦の指揮を執ることになるが、「チャンドラ・ボースの壮図を見殺しにできぬ苦慮が、正純な戦略的判断を混濁させたのである」と、作戦実行の背景にボースに対する日本軍側の「情」があったとしている[14]。ボースは国民軍をインパール作戦に参加させるようたびたび要求し、日本側を困惑させた[16]。6月にはすでに作戦の失敗は明かであったが、河辺中将は「この作戦には、日印両国の運命がかかっている。一兵一馬でも注ぎ込んで、牟田口(牟田口廉也第15軍司令官)を押してやろう。そして、チャンドラ・ボースと心中するのだ。」と考えていた[17]。インパール侵攻の失敗により、インド国民軍はその後主にビルマで連合軍と戦った。
事故死
日本の敗戦により、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となった。ボースはソ連に協力を求めるために、日本軍関係者の協力を受けて満州へ向かおうとした。ボースは満州でソ連軍に投降し、それから交渉を行うつもりであった[17]。1945年8月18日午後2時、ボースは台湾の松山飛行場から大連へ向かう予定であった九七式重爆撃機に乗り込んだ[18]。乗り込む直前には一人のインド人に「東南アジア在住300万のインド人からの贈り物」である宝石・貴金属の入った二つのスーツケースを受け取った[18]。しかし離陸直前に左側プロペラが外れ、機体はバウンドして土堤に衝突、炎上した[18]。
操縦士の滝沢少佐、同乗していた四手井綱正中将と士官一名は即死し[18]、ボースは大やけどを負った。ボースは台湾陸軍病院の南院に運ばれ、手当を受けた。死を悟ったボースは同乗していたが軽傷であったハブビル・ラーマン大佐に「インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、インドの独立は目捷の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ。」[19]「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と告げた[20]。夜、当番兵がボースに何か食べたいものがあるかと聞くと、「カレー」と答えたようにに聞こえた[18]。当番兵がカレーライスを作り、スプーンで食べさせると、ボースは「グッド」と答えた。しかし2口3口食べると、ボースはそれきり動かなくなった。午後11時41分のことであった[18]。
大本営はボースの遺体を東京に送るように命じたが、夏期と火傷による損傷が激しく、現地で火葬することになった[19]8月20日、台北市営火葬場で荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が営まれた。8月23日にボースの死が公表され、世界に伝えられた。
葬儀
9月5日、ボースの遺骨は日本に運ばれ、9月7日には参謀本部の元に届けられた[19]。その後紆余曲折があったものの、東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺に納められた。密かに行われたボースの葬儀の際はビハーリー・ボースのそれとして行われ、ビハーリー・ボースが寄居していた中村屋の菓子が供えられたという。なお、ボースの遺骨が安置されている蓮光寺は、ビハーリー・ボースの側近が住んでいた家の近くにある。その後蓮光寺には、インドのプラサード大統領、ネルー首相、インディラー・ガンジー首相などが訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。また、多くの在日インド人も訪れている。
死に対する議論
ボースの死の知らせを受けたインド総督アーチボルト・ウェーベルや連合国東南アジア方面軍司令官ルイス・マウントバッテンは日本の発表を信じず、ボースが逃亡したと考えていたように、公式情報を信じない向きはその当時から存在した[19]。また戦後からしばらくの間、世界各地でボースの目撃情報が相次いで伝えられている[19]。
またボースと近い立場にあったA.M.ナイルは自書内で、今や敗戦国となった日本を経由して日本の旧敵国のソ連へ向かおうとする事が不可能であったことや、ボースの敵であるイギリスと同じ連合国の1国であるソ連と協力を行おうとすることの不可解さ、さらに事故の際に「死んだ」とされる日本人の複数の同乗者がその後も生存していたことや、ボースとS.A.アイエルが持ち出した、宝飾品などを中心とした仮政府の資産が行方不明になっているとして、ボースの「飛行機事故死」に疑問を投げかけている。特にインドにおいてボースの事故死を信じない者を中心として、生存説を支持する論説もたびたび出されている[21]。
これらの疑問に対し、インド政府は過去3度にわたって調査委員会を組織し、1956年、1970年、2006年にそれぞれ報告書を作成している。最初の2回(実施時の政権与党はいずれもインド国民会議派)は「飛行機事故で死亡し生存の可能性がない」と結論づけた。しかし、インド人民党が与党であった1999年に組織した3度目の調査委員会は「飛行機事故は連合軍によるボースの追跡をかわすために日本軍が作り上げた」とし、蓮光寺の遺骨はボースのものではなく、ボースがすでに死亡していることは間違いないものの死因については「説得力のある証拠がない」として具体的に言及しなかった[22]。この報告書が発表された2006年には政権与党は再びインド国民会議派などによる連立政権に移っており、発表時のインド政府は「調査結果に同意しない」と表明した。
また、ボースの甥の妻は「政府の考えに賛成だ。墜落死には多くの証拠があり、遺骨はチャンドラ・ボースものだ」とコメントした[23]。
顕彰
1945年9月にインド国民軍指導者を裁いたイギリス軍の裁判がインド人の反乱を巻き起こしたため裁判は中止され、全将兵が釈放された[16]ことからも見られるように、インド独立運動において国民軍とボースの行動強くは否定されていない。ただし、多くの犠牲を出したという点から否定的な見方も存在する[16]。
インドの国会議事堂の中央大ホールにはガンディー、ジャワハルラール・ネルーらの肖像画が掲げられているが、1978年にはそれに並んでボースの肖像画も掲げられるようになった[24]。
デリーの赤い城(ラール・キラー)には、かつてイギリス王にしてインド皇帝であったジョージ5世の銅像が存在したが、現在その台座にはインド国民軍とそれを率いるボースの銅像が建っている[24]。また1998年にはネータージー・スバース工科大学が設立されている。
ボースの出身地であるベンガルの中心地コルカタにはボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅(ネタージ・バワン)もあり、記念館となっている(2007年に安倍晋三首相が訪問した)。またコルカタには彼の名を冠したネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港、アチャーヤ・ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース植物園が存在する。
2005年にはインド映画『Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero』が公開された。インドでは現在も人気の高い政治家である。
前進同盟は戦後に政党全インド前進同盟として再結成され、ボース流の民族主義的な社会主義を唱えて活動しており(現在はインド共産党マルクス主義派などとともに左翼戦線を構成)、ボースの出自にあたる西ベンガル州を中心に根強く支持されている。ほかマレーシア・インド人会議も党の行事でボースの活動を顕彰している。
人物評
独立運動家のA・M・ナイルはボースの人柄について自己顕示欲が旺盛で自信過剰、そして非妥協的な闘争性を持っていたと指摘している[2]。このため、ボースの態度が横柄であると感じる者も多かった。来日直後にボースと面会した日本政府関係者も「やけに尊大ぶる男」であると報告し[25]、またイタリア外相のチャーノも「横柄な人物」と評している[5]。
一方でそのインド独立に対する情熱や人柄によって東條英機や河辺正三を魅了した。ボースとの会見後、東条英機は「ありゃあ、人物だあ」ともらしている[26]。しかしこれらの人間関係が、日本の戦略に大きな影響を与えたという指摘も存在する。
家族
1937年、もしくは1942年、秘書のオーストリア人女性[27]エミーリエ・シェンクルとオーストリアのザルツブルク州バート・ガシュタインで結婚。結婚生活では一女・アニタ・ボース・プファフをもうけるが、政治的な問題で結婚は公表していない。
脚注
- ^ a b c d e f g 森瀬晃吉 1999, pp. 58.
- ^ a b c d e 森瀬晃吉 1999, pp. 59.
- ^ a b c d 森瀬晃吉 1999, pp. 60.
- ^ 森瀬晃吉 1999, pp. 70.
- ^ a b c d 森瀬晃吉 1999, pp. 61.
- ^ 児島襄 1974, pp. 154.
- ^ 森瀬晃吉 1999, pp. 61–62.
- ^ a b c 森瀬晃吉 1999, pp. 62.
- ^ a b c 森瀬晃吉 1999, pp. 65.
- ^ 森瀬晃吉 1999, pp. 64.
- ^ 米田文孝・秋山暁勲 2002, pp. 13.
- ^ a b 児島襄 1974, pp. 156.
- ^ a b c d 森瀬晃吉 1999, pp. 66.
- ^ a b 森瀬晃吉 1999, pp. 67.
- ^ 児島襄 1974, pp. 164–165.
- ^ a b c 森瀬晃吉 1999, pp. 68.
- ^ a b 児島襄 1974, pp. 169.
- ^ a b c d e f 児島襄 1974, pp. 170.
- ^ a b c d e 米田文孝・秋山暁勲 2002, pp. 46.
- ^ 萬晩報「スバス・チャンドラ・ボース氏の最後の一日」- ハビブル・ラーマン大佐の回想
- ^ hindustantimes.com -リンク切れ
- ^ 調査委員会の委員長によると、蓮光寺の遺骨のDNA型鑑定も検討したが、技術的に困難といわれたため断念した(朝日新聞2006年5月10日夕刊)。
- ^ 朝日新聞2006年5月22日夕刊
- ^ a b 米田文孝・秋山暁勲 2002, pp. 47.
- ^ 児島襄 1974, pp. 160.
- ^ 児島襄 1974, pp. 161.
- ^ 当時のオーストリアがドイツに併合されていたこともあり、歴史書の中でしばしばドイツ人と間違われている。
参考文献
- 児島襄『指揮官(下)』文藝春秋、1974年。ISBN 4-14-714102-7{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 森瀬晃吉「第二次世界大戦とスバス・チャンドラ・ボース」『大垣女子短期大学研究紀要』第40巻、大垣女子短期大学、1999年、57-70頁、NAID 110000486536。
- 9 スバス・チャンドラ・ボース氏の最後の一日 -萬晩報
- 米田文孝・秋山暁勲「伊号第29潜水艦とスバス・チャンドラ・ボース」『関西大学博物館紀要 』第8巻、関西大学博物館、2002年、1-57頁。
関連
外部リンク
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