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2013年5月31日 (金) 02:49時点における版

片岡 篤史
画像募集中
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府久世郡久御山町
生年月日 (1969-06-27) 1969年6月27日(55歳)
身長
体重
188 cm
99 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 三塁手一塁手
プロ入り 1991年 ドラフト2位
初出場 1992年4月4日
最終出場 2006年10月12日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • 阪神タイガース (2010 - 2012)

片岡 篤史(かたおか あつし、1969年6月27日 - )は、京都府久世郡久御山町出身のタレント大学教授。元プロ野球選手内野手)・コーチ

経歴

プロ入り前

PL学園高校時代、4番打者として1987年甲子園で春・夏連覇を果たす。同期に立浪和義橋本清野村弘ら、1学年下には宮本慎也、2学年上には清原和博桑田真澄がいた。

卒業後は同志社大学に進学。関西学生野球リーグ1989年春季に首位打者になる。リーグ戦通算91試合出場、311打数100安打、打率.322、10本塁打、48打点。ベストナイン4度受賞。

日本ハム時代

1991年のドラフト2位で日本ハムファイターズに入団。入団の際に大学の卒業単位が不足していたが、1年留年し、1年目のシーズンオフに残存単位を取得し卒業した。1年目からレギュラーポジションを奪取し、独特の打法から繰り出されるヒットや、走り打ちと呼ばれる外角球の捌きで「ビッグバン打線」の不動の3番打者として活躍。本塁打数は21本が自己最多であるものの、東京ドームの2階席まで飛ばすほどの飛距離を秘めた長打もあり、最多四球を2回記録する(そのうち1回はパ・リーグ最高数)など選球眼の良さは抜群で、更に最高出塁率のタイトルも獲得するなど、チームの柱となる存在であった。

日本ハム時代は、選手会長としてチームを引っ張る立場だった。岩本勉はテレビ番組で「マウンド上でくじけそうになったときも、片岡さんが後ろから励ましてくれて有り難かった」と話している。また、小笠原道大がまだ新人だった頃、その才能を見抜いて熱心に指導を行い、小笠原本人も「いつも片岡さんの背中を追いかけていた」と語っている。後に小笠原がFA宣言し、日本ハムに残留するか読売ジャイアンツに移籍するか迷った時に、最初に相談した相手は片岡であった。

1999年4月7日の対西武ライオンズ戦で、プロ初先発の松坂大輔が投げた155km/hの速球に、片岡は豪快な空振りをした。その映像は松坂のデビュー戦のハイライトとしてよく使用されている。試合前には「データでは松坂は変化球投手だ」と分析しており、前日に食事をした金村義明にもそう語っていた[1]。後に片岡は「松坂は僕の空振りを見て自分のボールに自信がついたんだろう」と冗談交じりに語った。しかし、それ以後片岡は松坂を得意としており、2000年6月30日の対西武戦で、9回裏に松坂のノーヒットノーランを阻止するヒットを打っている。打ったボールは前年空振りを喫した高めの直球であった。

阪神時代

2001年オフにFA宣言し、阪神タイガースに入団。このオフに結婚。夫人は当時大学4年だった。その後、2児をもうける。

2002年セ・リーグのバッテリーの配球に苦しみ不振に陥ったが、翌2003年には規定打席には到達しなかったものの勝負強い打撃で復活し、阪神のリーグ優勝に貢献した。チームが優勝を決めた9月15日の対広島東洋カープ戦では、途中出場の8回裏に同点ソロ本塁打を放ち、9回裏にも1死一塁からライトへのヒットで一・三塁として赤星憲広によるサヨナラ勝ちを引き出した。

2004年以降は相次ぐ故障で代打での出場が多くなったものの、2005年には代打で6打席連続ヒットを記録するなど、ここぞという時の切り札として活躍し、この年のリーグ優勝に貢献した。

2006年関本健太郎らにポジションを奪われ、更に相次ぐ故障から本塁打がわずか1本にとどまるなど打撃不振に陥り、体力的な限界からこの年をもって現役を引退した。引退試合となった10月12日の対中日ドラゴンズ戦では6番サードでスタメン出場し、盟友の立浪が守るレフトを越える二塁打を放つなど2安打で有終の美を飾った。胴上げには阪神選手のほか、中日から立浪、谷繁元信井上一樹、PL学園の後輩である福留孝介、日本ハム時代のチームメイトである奈良原浩上田佳範も加わった[2]。引退セレモニーでは立浪が花束を贈呈し、片岡と熱く抱擁を交わした[3]

現役引退後

2007年関西テレビ放送フジテレビスポーツニッポンのプロ野球解説者に就任。関西テレビの『ぶったま!』では、阪神の一軍打撃コーチに就任した広澤克実に代わりレギュラーコメンテーターを番組終了時まで務めていた。

また日本ハムOBということで、『STVアタックナイター・ファイターズスタジアム』(STVラジオ)解説者として北海道のラジオでも解説を担当している。2007年9月29日の千葉マリンスタジアムでのロッテ対日本ハム戦は、日本ハムのリーグ優勝がかかっていたためSTVラジオ制作として片岡の解説で千葉から放送を行い、NRN系列で全国放送された。

2008年2月4日より広瀬哲朗の後任として、『スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜』(北海道文化放送)の解説者となる。これは片岡の北海道で初のレギュラー番組である。

2010年シーズンから阪神の一軍打撃コーチに就任することが発表された。[4] コーチ1年目はチーム打率.289の球団記録を残すなど、シーズンを通して打線が好調だった。

2011年12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される[5]

2012年はチーム打率はリーグ4位、チーム本塁打はリーグ最下位と低迷し責任を取って辞任した[6]

2013年からは、フジテレビ・関西テレビ・北海道文化放送の野球解説者に復帰。また、芦屋学園スポーツモダニズムプロジェクトの一環として、芦屋大学の客員教授を務める[7]

応援歌

日本ハム時代の応援歌は、古屋英夫のテーマ曲を流用。ファンファーレから始まる曲であった。阪神ファンの応援団は、片岡の応援歌を作る際に、このファンファーレを継承。さらに「右投げ左打ち、実家は檜風呂 リフォーム リフォーム 片岡篤史」という歌詞を付け加えた[8]

もっとも、片岡本人は「実家にあるのは、檜風呂ではなく檜製のサウナである」と主張。この応援歌が気になって打席に集中できなかったことから、2003年末の契約更改の席上で「『実家は檜風呂』というファンファーレをやめてほしい」と訴えた。そのため、応援団は2004年から片岡のファンファーレを自粛するようになった。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1992 日本ハム 125 486 431 44 125 17 3 10 178 53 5 3 18 2 33 3 2 93 3 .290 .342 .413 .755
1993 124 503 425 55 122 29 2 8 179 39 4 6 11 2 63 3 2 102 7 .287 .380 .421 .801
1994 99 382 334 38 73 11 0 11 117 41 3 3 0 2 45 0 1 90 5 .219 .312 .350 .662
1995 106 421 357 40 80 12 2 6 114 39 1 2 6 1 55 2 2 83 3 .224 .330 .319 .649
1996 115 489 416 60 131 20 3 15 202 51 3 3 6 1 65 2 1 70 7 .315 .408 .486 .893
1997 135 600 514 67 147 28 2 17 230 67 3 3 0 3 81 2 2 77 9 .286 .383 .447 .831
1998 133 584 466 89 140 26 1 17 219 83 2 0 0 4 113 1 1 93 8 .300 .435 .470 .905
1999 115 489 423 59 116 19 4 15 188 63 1 1 0 4 61 1 1 90 8 .274 .364 .444 .808
2000 135 621 510 92 148 32 2 21 247 97 9 3 0 7 101 2 3 80 14 .290 .406 .484 .890
2001 106 463 401 57 102 18 1 16 170 62 1 2 0 4 57 2 1 62 8 .254 .346 .424 .770
2002 阪神 120 489 425 45 97 17 0 11 147 46 2 0 3 4 53 0 4 110 7 .228 .317 .346 .663
2003 110 373 334 48 99 31 0 12 166 55 1 1 1 1 35 1 2 86 3 .296 .366 .497 .863
2004 46 106 88 8 18 5 0 3 32 7 0 0 0 0 16 0 2 24 0 .205 .340 .364 .704
2005 50 73 57 8 12 1 0 1 16 7 0 0 0 1 15 0 0 17 0 .211 .370 .281 .651
2006 50 101 91 4 15 3 0 1 21 7 0 0 1 1 7 1 1 22 1 .165 .230 .231 .461
通算:15年 1569 6180 5272 714 1425 269 20 164 2226 717 35 27 46 37 800 20 25 1099 83 .270 .367 .422 .789
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

年度 三塁 一塁 二塁
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1992 125 100 257 14 17 .962 - 3 2 4 0 1 1.000
1993 124 97 224 10 13 .970 - -
1994 99 63 176 6 13 .976 - -
1995 - 97 823 57 6 79 .993 -
1996 18 4 14 1 0 .947 110 924 66 2 78 .998 -
1997 133 114 293 5 30 .988 7 29 3 0 0 1.000 -
1998 132 118 280 12 27 .971 2 1 0 0 0 1.000 -
1999 95 83 180 5 17 .981 - -
2000 135 129 237 12 26 .968 - -
2001 102 84 184 9 13 .968 - -
2002 114 64 217 7 13 .976 16 73 2 0 5 1.000 -
2003 99 60 131 3 10 .985 11 37 3 0 0 1.000 -
2004 28 8 36 2 2 .957 - -
2005 2 1 1 0 0 1.000 10 53 4 0 4 1.000 -
2006 32 9 41 4 2 .926 3 6 0 0 1 1.000 -
通算 1238 934 2271 90 183 .973 256 1946 135 8 167 .996 3 2 4 0 1 1.000

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:2000年4月2日、対西武ライオンズ2回戦(西武ドーム)、7回表に土肥義弘から右越ソロ ※史上208人目
  • 1000試合出場:2000年5月31日、対福岡ダイエーホークス11回戦(東京ドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上360人目
  • 1000本安打:2000年6月13日、対大阪近鉄バファローズ12回戦(大阪ドーム)、9回表にユウキから遊撃内野安打 ※史上201人目
  • 150本塁打:2003年4月29日、対読売ジャイアンツ4回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に桑田真澄から右中間へソロ ※史上124人目
  • 1500試合出場:2005年8月13日、対読売ジャイアンツ14回戦(東京ドーム)、5回表に杉山直久の代打で出場 ※史上145人目
その他の記録
  • 最多四球:2回 (1998年、2000年) ※1998年に記録した113四球はパリーグ史上最高数
  • オールスターゲーム出場:6回 (1993年、1997年 - 2000年、2002年)

背番号

  • 38 (1992年)
  • 8 (1993年 - 2006年)
  • 88 (2010年 - 2012年)

関連情報

いずれも野球解説者として出演

出演番組

現在

過去

書籍

脚注

関連項目