「リパブリック讃歌」の版間の差分
→歌詞: 楽譜の音声の追加 |
m →日本 |
||
(2人の利用者による、間の7版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox anthem |
|||
{{Listen |
|||
|title=リパブリック讃歌 |
|title = リパブリック讃歌<br />The Battle Hymn of the Republic |
||
|alt_title = |
|||
|filename=Battle Hymn of the Republic, Frank C. Stanley, Elise Stevenson.ogg |
|||
|image = The Battle Hymn of the Republic - Project Gutenberg eText 21566.png |
|||
|description=1908年に発表されたフランク・C・スタンレー、エリース・スティーブンソンらのバージョン |
|||
|image_size = |
|||
|alt = Cover of the 1862 sheet music for "The Battle Hymn of the Republic" |
|||
|border = Yes |
|||
|caption = 1862年に発表されたリパブリック讃歌の表紙 |
|||
|prefix = [[Hymn]] |
|||
|country = |
|||
|composer = {{仮リンク|ウィリアム・ステッフ|en|William Steffe}}(1856)、'''編曲''' {{仮リンク|ジェームズ・グリーンリーフ|en|James Greenleaf}}、 C.ホール、C.マーシュ |
|||
|music_date = 1861 |
|||
|author = [[ジュリア・ウォード・ハウ]] |
|||
|lyrics_date = 1861 |
|||
|adopted = |
|||
|sound = Battle Hymn of the Republic, Frank C. Stanley, Elise Stevenson.ogg |
|||
|sound_title =1908年に発表されたフランク・C・スタンレー、エリース・スティーブンソンらのバージョン |
|||
}} |
}} |
||
'''リパブリック讃歌'''(リパブリックさんか、原題: {{en|The Battle Hymn of the Republic}})は、[[アメリカ合衆国]]の[[民謡]]・[[愛国歌]]・[[賛歌]]であり、[[南北戦争]]での北軍の行軍曲である。 |
'''リパブリック讃歌'''(リパブリックさんか、原題: {{en|The Battle Hymn of the Republic}})は、[[アメリカ合衆国]]の[[民謡]]・[[愛国歌]]・[[賛歌]]であり、[[南北戦争]]での[[北軍]]の行軍曲である。作詞者は詩人の[[ジュリア・ウォード・ハウ]]であるが軍歌の作詞を女性が務めた珍しい事例でもある<ref name="辻田88-89">{{Cite book|和書| author = [[辻田真佐憲]]| title = 世界軍歌全集--歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代 | year = 2011| publisher = [[社会評論社]] | isbn=978-4784509683 |page=88-89}}</ref>。原題を日本語で直訳すると「共和国の戦闘讃歌」となる<ref name="辻田88-89"/>。 |
||
== 経緯 == |
== 経緯 == |
||
=== おお兄弟達よ、我らに会わないか === |
|||
[[File:JuliaWardHowe.jpg|thumb|180px|ジュリア・ウォード・ハウ]] |
|||
元々のメロディは{{仮リンク|ウィリアム・ステッフ|en|William Steffe}}によって[[1856年]]に作曲された賛美歌「おお兄弟達よ、我らに会わないか({{lang-en|Say, brothers, will you meet us}})」だったと言われている<ref name="辻田88-89"/>。ただし、この曲とステッフとの関連性については自身が生前に作曲者として名乗り出なかった点、他の音楽制作に関わらなかった点、ステッフ本人の書き残した手紙以外に物的証拠が存在しない点などから関与を疑問視されている<ref name="櫻井11">[[#櫻井 2006|櫻井 2006]]、11頁</ref>。 |
|||
ステッフによる作曲という説は[[1880年代]]に登場したものであり<ref name="櫻井10">[[#櫻井 2006|櫻井 2006]]、10頁</ref>、英文学者の{{仮リンク|ブランダー・マシューズ|en|Brander Matthews}}が[[1887年]]に『{{仮リンク|センチュリー・マガジン|en|The Century Magazine}}』誌で紹介したことを契機に広まった<ref name="櫻井10"/>。マシューズによると1856年に[[サウスカロライナ州]]チャールトンにある[[消防団]]から「困ったことがあれば、我らに会わないか({{lang-en|Say, bummers, will you meet us}})」という歌詞に合う曲作りを依頼され、その曲に新たに歌詞が付け加えられるなどして後に讃美歌「おお兄弟達よ、我らに会わないか」へと変化したとしている<ref name="櫻井10"/>。一方、ジャーナリストのボイド・スタドラーの調査では、[[1855年]]または1856年頃に[[フィラデルフィア]]のグッドウィル消防隊から[[バルティモア]]のリバティ消防隊を歓迎するための歌の作成を依頼され「困ったことがあれば、我らに会わないか」に曲をつけた、とステッフ自身が発言したという<ref name="櫻井11"/>。 |
|||
=== {{en|Say, brothers, will you meet us}} === |
|||
元々のメロディは[[ウィリアム・ステッフ]] ({{interlang|en|William Steffe}}) によって[[1856年]]に作曲された[[スピリチュアル|黒人霊歌]]「Say, brothers, will you meet us」だった。 |
|||
{| class="wikitable" border="1" |
|||
=== {{en|John Brown's Body}} === |
|||
! style="width:54%" |原詩!!日本語訳 |
|||
{{en|Say, brothers, will you meet us}} のメロディは、狂信的な奴隷制度廃止論者の[[ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)|ジョン・ブラウン]]の功績を称える唄「ジョン・ブラウンの屍」({{interlang|En|John Brown's Body}}) に引用された<ref name="長田">長田 254–255頁</ref>。 |
|||
|- style="vertical-align:top" |
|||
| |
|||
:Say, brothers, will you meet us (×3) |
|||
:On Canaan's happy shore. |
|||
:('''Chorus''') |
|||
:Glory, glory, hallelujah (×3) |
|||
:For ever, evermore! |
|||
| |
|||
:おお兄弟達よ、我らに会わないか(×3) |
|||
:カナンの幸福の岸辺で |
|||
:(コーラス) |
|||
:栄光あれ、神に栄光あれ(×3) |
|||
:永遠に、永久に! |
|||
|} |
|||
一部の研究者はステッフが作曲する以前に[[黒人]]の伝統音楽にルーツを持つとする説を支持している<ref>C. A. Browne, ''The Story of Our National Ballads'' (New York: Thomas Y. Crowell, 1960), p. 174</ref> 。このほか[[ジョージア州]]に住む[[アフリカ系アメリカ人]]の婚礼の際に歌われていたとする説<ref>''Music of the Civil War Era'' 2004, by Steven Cornelius, Greenwood Publishing Group, ISBN 0-313-32081-0 ,p. 26</ref>、または[[スウェーデン]]の酒宴の歌として生まれたものが[[イギリス]]に伝播し船乗りの労働歌として定着したとする説がある<ref>Boyd Stutler, "John Brown's Body", ''Civil War History'' 4 (1958): p. 260</ref>。ルーツを特定することは困難であるが様々な文化と民族から影響がもたらされたことは確かで、当時の音楽制作における復興運動の影響もあり自由な作曲が成された<ref>Annie J. Randall, "A Censorship of Forgetting: Origins and Origin Myths of 'Battle Hymn of the Republic'", in ''Music, Power, and Politics'', edited by Annie J. Randall (Routledge, 2004) 16. ([http://books.google.com/books?id=fafKzST-pZwC&pg=RA1-PA7&lpg=RA1-PA7&dq=annie+j+randall+%22a+censorship+of+forgetting+origins+and+origin+myths+of+battle+hymn+of+the+republic%22+in+music+power+and+politics&source=web&ots=_tfXBcFjf9&sig=c7BKH5o9cDIIR1b1tG0YZEZCunY&hl=en#PRA4-PA7,M1 Google books])</ref> 。 |
|||
歌詞については[[1858年]]に出版された『ユニオン・ハープとリヴァイヴァル聖歌隊員』という讃美歌集が内容を確認することが可能な初出文献とされる<ref>[[#櫻井 2006|櫻井 2006]]、9頁</ref>。 |
|||
ブラウンは、奴隷所有者に対し武力攻撃を仕掛ける過激な人物で、[[1859年]]に[[バージニア州]]の連邦武器庫の襲撃に失敗し捕えられ、同年[[12月2日]]に絞首刑に処せられた。この後、ブラウンの信奉者たちによって歌が作られ、[[1861年]][[4月]]の南北戦争開戦以来、北軍の非公式な行軍曲として兵士によって盛んに唄われた<ref name="長田" /><ref name="渡辺">渡辺 326頁</ref>。 |
|||
=== ジョン・ブラウンの屍 === |
|||
=== {{en|The Battle Hymn of the Republic}} === |
|||
「おお兄弟達よ、我らに会わないか」のメロディは、狂信的な奴隷制度廃止論者の[[ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)|ジョン・ブラウン]]の功績を称える唄「{{仮リンク|ジョン・ブラウンの屍|en|John Brown's Body}}」に引用された<ref name="辻田88-89"/><ref name="長田">{{Cite book|和書| author = [[長田暁二]]| title = 世界の愛唱歌 ― 1000字でわかる名曲ものがたり | year = 2004| publisher = [[ヤマハミュージックメディア]] | isbn=978-4636206661 |page=254–255}}</ref>。ブラウンは、奴隷所有者に対し武力攻撃を仕掛ける過激な人物で、[[1859年]]に[[バージニア州]]の連邦武器庫の襲撃に失敗し捕えられ、同年[[12月2日]]に絞首刑に処せられた。この後、ブラウンの信奉者たちによって歌が作られ、[[1861年]][[4月]]の南北戦争開戦以来、北軍の非公式な行軍曲として兵士によって盛んに唄われた<ref name="長田" /><ref name="渡辺">{{Cite book|和書| author = [[渡辺利雄]]| title = 講義 アメリカ文学史 第 II 巻 ― 東京大学文学部英文科講義録 | year = 2007| publisher = [[研究社]] | isbn=978-4327472146 |page=326}}</ref>。 |
|||
1861年[[11月18日]]、詩人の[[ジュリア・ウォード・ハウ]]は、医療活動での功績が認められ[[エイブラハム・リンカーン]]大統領から[[ワシントンD.C.]]の[[ポトマック川]]周辺に駐留していた北軍の演習に招待された。この際、屋外で北軍兵士が歌う「ジョン・ブラウンの屍」を聴いて感銘を受けた<ref name="長田" />。 |
|||
{| class="wikitable" border="1" |
|||
! style="width:54%" |原詩!!日本語訳 |
|||
|- style="vertical-align:top" |
|||
| |
|||
:John Brown's body lies a-mouldering in the grave; (×3) |
|||
:His soul's marching on! |
|||
:('''Chorus''') |
|||
:Glory, glory, hallelujah! (×3) |
|||
:His soul's marching on! |
|||
| |
|||
:ジョン・ブラウンの屍は墓の中で朽ちた(×3) |
|||
:彼の魂は進撃する! |
|||
:(コーラス) |
|||
:栄光あれ、神に栄光あれ(×3) |
|||
:彼の魂は進撃する! |
|||
|} |
|||
==== キンボールによる証言 ==== |
|||
ハウは、帰路の馬車の中で同席した牧師のジェームズ・クラークにより行軍曲として相応しい詩の作詞を提案された。彼女は宿泊先の[[ウィラード・インターコンチネンタル・ワシントン|ウィラード・ホテル]]に戻ると、旅の疲れから深い眠りについたが、夜中にふと目覚めると詩のアイデアを紙に書きとめ北軍兵士を讃える歌を作詞した。この詩は『リパブリック讃歌』と命名され[[1862年]][[2月]]に[[アトランティック・マンスリー]] ({{interlang|en|The Atlantic|the Atlantic Monthly}}) 誌に匿名で発表<ref name="長田" />されると直ちに北軍兵士の間で最も人気の高い歌の1つとなり、現在でもアメリカ合衆国の愛唱歌として広く唄い継がれている<ref name="長田" />。 |
|||
[[1890年]]、南北戦争の際に[[ボストン]]の第2歩兵大隊(通称、タイガース大隊)に所属していたジョージ・キンボールは「ジョン・ブラウンの屍」の成立の経緯について雑誌『{{仮リンク|ニューイングランド・マガジン|en|The New England Magazine}}』に次の様に記した<ref name="Kimball">{{Citation | first = George | last = Kimball | title = Origin of the John Brown Song | journal = New England Magazine | series = new | volume = 1 | year = 1890 | url = http://cdl.library.cornell.edu/cgi-bin/moa/pageviewer?root=%2Fmoa%2Fnewe%2Fnewe0007%2F&tif=00379.TIF&cite=http%3A%2F%2Fcdl.library.cornell.edu%2Fcgi-bin%2Fmoa%2Fmoa-cgi%3Fnotisid%3DAFJ3026-0007-61&coll=moa&frames=1&view=50 | publisher = Cornell University}}</ref>。 |
|||
{{Quotation|我々の大隊には一人の陽気な[[スコットランド人]]がおり、名前はジョン・ブラウンといった。彼は古き英雄と同姓同名であったことから親しい同僚たちから頻繁にからかわれていた。もし彼が集合に遅れたり作業に手間取った場合には仲間から「早く来いよ年老いた同士。奴隷を自由にするための手助けをする気があるなら速やかに作業に取り組まなければな」や「彼はジョン・ブラウンにはなれない。なぜならジョン・ブラウンは亡くなったのだから」といった表現で迎えられることが恒例となっていた。そして何人かのお調子者はジョン・ブラウンが亡くなったことを強調するように厳粛かつゆっくりとした口調で「その通りさ、哀れなジョン・ブラウンは墓の中で朽ち果てたのさ」などの台詞で応じた<ref name="Kimball"/>。}} |
|||
キンボールによると、これらの言葉が兵士の間の決まり文句となり上記した「おお兄弟達よ、我らに会わないか」のメロディに合わせて歌われるようになり、いくつかの変遷を経て「ジョン・ブラウンの屍」が完成した<ref name="櫻井12">[[#櫻井 2006|櫻井 2006]]、12頁</ref>。1861年[[5月12日]]に大隊本部のある{{仮リンク|ウォーレン砦|en|Fort Warren (Massachusetts)}}で新兵訓練のための国旗掲揚式を行った際に公式の場において初の演奏がなされ、同年5月または6月から7月にかけて楽譜が出版されたことを契機に流行歌となった<ref name="櫻井12"/>。なお、この歌で取り上げられた第2歩兵大隊のジョン・ブラウン軍曹は[[1862年]][[6月6日]]に[[バージニア州]]にある{{仮リンク|ラパハノック川|en|Rappahannock River}}を行軍中に水死した<ref name="櫻井13">[[#櫻井 2006|櫻井 2006]]、13頁</ref>。 |
|||
== |
==== 発展 ==== |
||
「ジョン・ブラウンの屍」はやがてボストン第2歩兵大隊のジョン・ブラウン軍曹ではなく、奴隷廃止論者のジョン・ブラウンとの結びつきを強めると新たなバージョンの歌詞が作られるようになった<ref name="櫻井13"/>。その中で最も精巧な歌詞は{{仮リンク|ウィリアム・ウェストン・パットン|en|William Weston Patton}}によって作詞され1861年[[10月]]に『[[シカゴ・トリビューン]]』紙に発表された<ref name="JBBS">{{cite web |url=http://www.trans-video.net/~rwillisa/JBBSong.htm|title=Various Versions of the John Brown Song Spanning More Than a Century |publisher=John Brown's Ghost Haunts the Internet!!! |accessdate=2013年9月8日}}</ref>。パットンは南北戦争当時は牧師を務めていたが、後に[[ワシントンD.C.]]の[[ハワード大学]]の学長となった人物である<ref name="JBBS"/>。 |
|||
[[File:The Battle Hymn of the Republic - Project Gutenberg eText 21566.png|thumb|250px|1862年に発表されたリパブリック讃歌の表紙]] |
|||
[[File:7 Battle Hymn of the Republic.png|right|thumb|250px|リパブリック讃歌の楽譜 {{Audio|The battle hymn of the republic.mid|The battle hymn of the republic.mid}}]] |
|||
{| class="wikitable" border="1" |
|||
! style="width:54%" |原詩!!日本語訳 |
|||
|- style="vertical-align:top" |
|||
| |
|||
:Old John Brown’s body lies moldering in the grave, |
|||
:While weep the sons of bondage whom he ventured all to save; |
|||
:But tho he lost his life while struggling for the slave, |
|||
:His soul is marching on. |
|||
:('''Chorus''') |
|||
:Glory, glory, hallelujah! (×3) |
|||
:His soul's marching on! |
|||
| |
|||
:いにしえのジョン・ブラウンの屍は墓の中で朽ちた |
|||
:彼を埋葬した息子達が嘆き悲しむ間に |
|||
:しかし、彼は奴隷のために戦い命を失ったが |
|||
:彼の魂は進撃する |
|||
:(コーラス) |
|||
:栄光あれ、神に栄光あれ(×3) |
|||
:彼の魂は進撃する! |
|||
|} |
|||
=== リパブリック讃歌の誕生 === |
|||
1861年[[11月18日]]、詩人の[[ジュリア・ウォード・ハウ]]は軍事衛生委員を務めていた夫の{{仮リンク|サミュエル・グリドリー・ハウ|en|Samuel Gridley Howe}}と共に[[エイブラハム・リンカーン]]大統領から[[ワシントンD.C.]]の[[ポトマック川]]周辺に駐留していた北軍の演習に招待された<ref name="櫻井14">[[#櫻井 2006|櫻井 2006]]、14頁</ref><ref name="Civil War Trust">{{cite web |url=http://www.civilwar.org/education/history/on-the-homefront/culture/music/the-battle-hymn-of-the-republic/the-battle-hymn-of-the.html|title=Civil War Music: The Battle Hymn of the Republic |publisher=Civil War Trust |accessdate=2013年9月8日}}</ref>。この演習の最中に近隣で[[アメリカ連合国|南軍]]との戦闘が発生したためハウ夫妻は馬車で帰路に着いたが戦場へと向かう兵士の一群と鉢合わせとなり道は渋滞した<ref name="櫻井14"/>。その間に馬車に同乗していた皆で「ジョン・ブラウンの屍」を歌っていたが牧師の{{仮リンク|ジェームズ・フリーマン・クラーク|en|James Freeman Clarke}}から行軍曲として相応しい詩の作詞を提案された<ref name="櫻井14"/><ref name="Civil War Trust"/>。彼女は宿泊先の[[ウィラード・インターコンチネンタル・ワシントン|ウィラード・ホテル]]に戻ると、旅の疲れから深い眠りについたが夜中にふと目覚めると詩のアイデアを紙に書きとめ北軍兵士を讃える歌を作詞した<ref name="Civil War Trust"/>。 |
|||
{{Quotation|その夜、私はいつもの習慣通りに眠りにつき熟睡しました。私は夜明け前の薄明かりの中で目を覚ますと、すぐに夜明けを迎えることを期待して横になりながら、依頼を受けた望ましい詩の長い一節を心の中で書き留め始めました。すると夜明けを待つ間に全ての詩が思い浮かんだので、私は自分自身に言い聞かせました。「再び寝入ってしまい詩を忘れてしまわないように私は目を覚まさなければならない。そして、これらの詩句を書き留めなければならない」と。私はベッドから飛び起きて薄明かりの中で前日に使ったことを忘れずにいた古いペンを見つけ、紙を見ることなく殆どの詩句を走り書きしたのです。|ジュリア・ウォード・ハウ<ref>Howe, Julia Ward. ''Reminiscences: 1819-1899.''Houghton, Mifflin: New York, 1899. p. 275.</ref>}} |
|||
ハウが[[11月19日]]に書き記した歌詞は草案の状態であり<ref name="櫻井14"/>、さらに修正を加えた歌詞を『{{仮リンク|アトランティック・マンスリー|en|The Atlantic}}』へ送った<ref name="櫻井14"/>。同誌の編集者である{{仮リンク|ジェームズ・トーマス・フィールズ|en|James Thomas Fields}}によって「リパブリック讃歌」と命名され<ref name="Civil War Trust"/>[[1862年]][[2月]]号において匿名で発表された<ref name="櫻井14"/><ref name="Civil War Trust"/>。フィールズから作詞者のハウに支払われた報酬は5ドルだったという<ref name="Civil War Trust"/>。『アトランティック・マンスリー』1862年2月号に掲載された歌詞は1番から5番まででコーラス部分を含んでいなかったが<ref name="櫻井14"/>、同年4月に作詞者と作詞の付いた楽譜がオリヴァー・ディットソン社から出版された際に1番から5番までの歌詞にコーラス部分が加えられた<ref name="櫻井14"/>。なお、ハウが11月19日に書き記した草案は1番から6番までの歌詞が含まれていたが、多くの楽譜では6番の歌詞は採用されていない<ref name="櫻井14"/>。 |
|||
「リパブリック讃歌」は発表されると直ちに北軍兵士の間で最も人気の高い歌の1つとなり戦後もアメリカ合衆国の[[愛国歌]]として広く唄い継がれている<ref name="長田" /><ref name="Civil War Trust"/>。この歌は音楽教科書や讃美歌集に取り上げられただけでなく、選挙運動の応援歌や労働歌といった内容のものから[[パロディ]]のものまで様々な[[替え歌]]の原曲としても親しまれている<ref name="櫻井14"/>。 |
|||
== 歌詞 == |
|||
歌詞には[[新約聖書]]の『[[ヨハネの黙示録]]』の影響があり<ref name="渡辺" />、[[神]]の正義を期待する感情と、「Glory, glory, hallelujah!」という神の最終的な勝利を讃える表現が記されている<ref name="渡辺" />。 |
歌詞には[[新約聖書]]の『[[ヨハネの黙示録]]』の影響があり<ref name="渡辺" />、[[神]]の正義を期待する感情と、「Glory, glory, hallelujah!」という神の最終的な勝利を讃える表現が記されている<ref name="渡辺" />。 |
||
{| class="wikitable" border="1" |
|||
{{Quotation| |
|||
! style="width:54%" |原詩!!日本語訳 |
|||
|- style="vertical-align:top" |
|||
| |
|||
:Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord: |
:Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord: |
||
:He is trampling out the vintage where the grapes of wrath are stored; |
:He is trampling out the vintage where the grapes of wrath are stored; |
||
56行目: | 136行目: | ||
:He is sifting out the hearts of men before His judgment-seat: |
:He is sifting out the hearts of men before His judgment-seat: |
||
:Oh, be swift, my soul, to answer Him! Be jubilant, my feet! |
:Oh, be swift, my soul, to answer Him! Be jubilant, my feet! |
||
:Our God is marching on. |
:Our God is marching on. |
||
::('''Chorus''') |
::('''Chorus''') |
||
70行目: | 150行目: | ||
:Our God is marching on.'' |
:Our God is marching on.'' |
||
::('''Chorus''') |
::('''Chorus''') |
||
| |
|||
}} |
|||
:私の眼は神の降臨と栄光を見た |
|||
:彼は怒りの葡萄が蓄えられた貯蔵庫を踏みつけ |
|||
:恐るべき神速の剣を振るい、宿命の稲妻を落としたのだ |
|||
:彼の真実は進撃する |
|||
::(コーラス) |
|||
::栄光あれ、神に栄光あれ! |
|||
::栄光あれ、神に栄光あれ! |
|||
::栄光あれ、神に栄光あれ! |
|||
::彼の真実は進撃する |
|||
:私は野営地に広がる無数のかがり火の中に主の姿を見た |
|||
:彼らは夜露で濡れながら主のための祭壇を建てたのだ |
|||
:私はランプの灯す微かな光によって神の正しき文章を読む |
|||
:彼の時は進撃する |
|||
::(コーラス) |
|||
:私は磨かれた砲列の中に刻まれた勇ましい福音を読む |
|||
:「我に仇なす者に立ち向かう限り、我が恵みを与えよう |
|||
:女性から生まれた英雄の、踵で悪は滅ぼされるだろう |
|||
:そして神は進撃する」 |
|||
::(コーラス) |
|||
:彼は進軍ラッパを響かせ不退転の意思を伝える |
|||
:彼は審判の席で人々の心を選別する |
|||
:おお我が魂よ、迅速に応えよ!、我が脚よ歓喜せよ! |
|||
:我らの神は進撃する |
|||
::(コーラス) |
|||
:海の彼方、美しいユリの中でキリストは生まれた |
|||
:胸に秘めた栄光と共に、我らを尊いものに変貌させた |
|||
:彼が人々を聖なるものとするため死したように、我らも人々の自由のために死のう |
|||
:神の進撃と共に |
|||
::(コーラス) |
|||
:彼は日の出のように波と共に現れる |
|||
:彼は強大な賢者であり、尊い勇者である |
|||
:世界は彼の足元に平伏し、その悪しき魂は彼の奴隷となるだろう |
|||
:我らの神は進撃する |
|||
::(コーラス) |
|||
|} |
|||
== 影響 == |
== 影響 == |
||
=== |
=== アメリカ合衆国 === |
||
[[File:7 Battle Hymn of the Republic.png|right|thumb|250px|リパブリック讃歌の楽譜 {{Audio|The battle hymn of the republic.mid|The battle hymn of the republic.mid}}]] |
|||
リパブリック讃歌は様々な[[替え歌]]の原曲としても親しまれている。アメリカでは、子ども向けの「{{interlang|en|John Brown's Baby}}」(ジョン・ブラウンの赤ちゃん)という替え歌があり、[[第二次世界大戦]]時にはこのメロディに歌詞をのせた[[軍歌]]「{{interlang|en|Blood on the Risers}}」も作られた。 |
|||
「リパブリック讃歌」や「ジョン・ブラウンの屍」は様々な[[替え歌]]の原曲としても親しまれている。アメリカ合衆国では著名なものでは子供向けのレクリエーション・ソング「ジョン・ブラウンの赤ちゃん({{lang-en|John Brown's Baby}})」<ref>{{cite web |url=http://www.worldfolksong.com/closeup/battlehymn/episode/baby.htm |title=ジョン・ブラウンの赤ちゃん「BODY」から「BABY」へ |publisher=ドナドナ研究室 |accessdate=2013年9月7日}}</ref>、苛烈な学校生活を揶揄した「{{仮リンク|激しい学校|en|The Burning of the School}}({{lang-en|The Burning of the School}})」<ref name="櫻井14"/>、[[第二次世界大戦]]の際には[[エアボーン|空挺部隊]]の新兵が降下に失敗し凄惨な死を迎えた状況を歌った[[軍歌]]「{{仮リンク|空挺部隊の歌|en|Blood on the Risers}}」<ref name="空挺部隊の歌">{{cite web |url=http://gunka.sakura.ne.jp/mil/risers.htm |title=空挺部隊の歌 |publisher=西洋軍歌蒐集館 |accessdate=2013年9月7日}}</ref>、[[労働組合]]のための行進曲「{{仮リンク|団結よ永遠なれ|en|Solidarity Forever}}」が作られた<ref name="辻田88-89"/>。 |
|||
作家の[[ジョン・スタインベック]]は[[1939年]]に小作農民の苦難を描いた『[[怒りの葡萄]]』 |
作家の[[ジョン・スタインベック]]は[[1939年]]に小作農民の苦難を描いた『[[怒りの葡萄]]』を発表したが、この題名はリパブリック讃歌の一節「彼は怒りの葡萄が蓄えられた貯蔵庫を踏みつけ…」に由来している<ref name="渡辺" /><ref>{{cite web |url=http://www.geocities.jp/tsuruhomejp/page026.html |title=リパブリック讃歌(Battle Hymn of the Republic) |publisher=世界のうた|accessdate=2013年9月8日}}</ref>。 |
||
[[エルヴィス・プレスリー]]、[[ジョーン・バエズ]]を始めとして多くのミュージシャンにより[[カバー]]曲として使用されている。[[1960年]]に[[モルモンタバナクル合唱団]]が[[グラミー賞]]において「コーラス・グループ」部門と「ヴォーカル・グループ」部門のベスト・パフォーマンス賞を受賞した。 |
[[エルヴィス・プレスリー]]、[[ジョーン・バエズ]]を始めとして多くのミュージシャンにより[[カバー]]曲として使用されている。[[1960年]]に[[モルモンタバナクル合唱団]]が[[グラミー賞]]において「コーラス・グループ」部門と「ヴォーカル・グループ」部門のベスト・パフォーマンス賞を受賞した。 |
||
[[1959年]]に公開された |
[[1959年]]に公開された{{仮リンク|レッド・ニコルズ|en|Red Nichols}} の自伝的映画『[[5つの銅貨]]』では挿入歌として使用されているが<ref name="櫻井8">[[#櫻井 2006|櫻井 2006]]、8頁</ref>、[[ルイ・アームストロング]]の演奏中にニコルズが飛び入り参加し[[コルネット]]で「リパブリック讃歌」をソロ演奏するシーンがある。 |
||
歌詞の最初のライン |
歌詞の最初のライン「私の眼は神の降臨と栄光を見た」は、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]牧師が暗殺の前夜(1968年4月3日)に行なった演説「{{仮リンク|私は山頂に達した|en|I've Been to the Mountaintop}}({{lang-en|I've Been to the Mountaintop}})」の最後の一節として引用された<ref>{{cite web |url=http://www.filmscoremonthly.com/cds/detail.cfm/cdID/325/|title=Martin Luther King Jr. (1929-1968) "I've Been to the Mountaintop" |publisher=American RadioWorks|accessdate=2013年9月7日}}</ref>。 |
||
[[1970年]]に公開された[[第二次世界大戦]]中のヨーロッパ戦線を舞台としたコメディ戦争映画『[[戦略大作戦]]』の中でBGMとして用いられた<ref>{{cite web |url=http://americanradioworks.publicradio.org/features/sayitplain/mlking.html|title= Kelly's Heroes (1970) |publisher=Film Score |accessdate=2013年9月8日}}</ref>。 |
|||
=== {{JPN}} === |
|||
[[日本]]では、[[明治|明治期]]の[[1900年]]に[[クリスマス]]の[[子供]][[賛美歌|讃美歌集]]『童蒙讃美歌』([[奥野昌綱]]、[[戸川安宅]]による作詞)の「第十三うたへいはえ」として初めて紹介された<ref name="石原" />。2年後の[[1902年]]には初の楽譜付き軍歌集『日本軍歌』に「すすめすすめ」(戸川安宅による作詞)として収録された<ref name="石原">石原 7–18頁</ref>。また[[早稲田大学]]の野球応援歌としても親しまれ、[[1907年]]に出版された『早稲田歌集』に収録された<ref name="石原" />。 |
|||
=== 日本 === |
|||
[[大正]]期には神長瞭月作詞の「薔薇の唄」が、演歌師に歌われ女学生の間で流行した<ref name="石原" />。 |
|||
[[日本]]では、[[明治|明治期]]の[[1890年]]に[[クリスマス]]の[[子供]][[賛美歌|讃美歌集]]『童蒙讃美歌』([[奥野昌綱]]、[[戸川安宅]]による作詞)の「うたへいはえ」として初めて紹介された<ref name="石原10">[[#石原 1988|石原 1988]]、10頁</ref>。2年後の[[1902年]]には初の楽譜付き軍歌集『日本軍歌』に「すすめすすめ」(戸川安宅による作詞)として収録された<ref name="石原10" />。一般向けの讃美歌としては「あくまとたゝかへ」が初めて採用され[[1898年]]に[[三谷種吉]]によって編纂された『基督教福音唱歌』に収録された<ref>{{Cite book|和書|author=手代木俊一|chapter =南北戦争の歌《リパブリック讃歌》と讃美歌| title = お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて | year = 2006| publisher = キングレコード|page = 24-29}}{{ASIN|B000FUTZCO}}</ref>。 |
|||
また替え歌としても[[1905年]]に[[早稲田大学]]に初の[[早稲田大学応援部|応援組織]]が結成された際に野球応援歌が作られ<ref>{{Cite book|和書|author=八巻明彦|chapter =早稲田の「野球応援歌」| title = お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて | year = 2006| publisher = [[キングレコード]]|page = 32-33}}{{ASIN|B000FUTZCO}}</ref>[[1907年]]に出版された『早稲田歌集』に収録された<ref>[[#石原 1988|石原 1988]]、14頁</ref>。[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]では堅苦しい教科を揶揄した「学科嫌い」という歌が作られ10期生([[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#25期|陸士25期生]])が自費出版した歌集『百日祭』に収録された<ref name="八巻">{{Cite book|和書|author=八巻明彦|chapter =「学科嫌い」について| title = お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて | year = 2006| publisher = [[キングレコード]]|page = 32-33}}{{ASIN|B000FUTZCO}}</ref>。この歌集は、すぐに没収・焼却処分されたが口伝えで[[太平洋戦争]]終結時まで歌い継がれた<ref name="八巻"/>。 |
|||
[[昭和]]期に、は[[阪田寛夫]]作詞の「ともだち讃歌」、永田哲夫・[[東辰三]]作詞の「お玉じゃくしは蛙の子」、「{{en|John Brown's Baby}}」を訳した「権兵衛さんの赤ちゃん」あるいは「太郎さんの赤ちゃん」、「おはぎがお嫁に」、「嫌な○○はやめちまえ」などの替え歌でも親しまれている<ref name="長田" />。 |
|||
[[大正]]期には神長瞭月作詞の「薔薇の唄」が演歌師に歌われ女学生の間で流行した<ref name="石原15" >[[#石原 1988|石原 1988]]、15頁</ref>。また[[浅草オペラ]]の興隆と共に[[オペラ]]ソングのメロディとして歌われた<ref name="石原15" />。 |
|||
[[CMソング]]に使用されることもあり、[[ヨドバシカメラ]]のCMソングのメロディとしても知られる<ref name="長田" />ほか、東海地方では『メガネプラザ』、関西地方では『やまじょうのさくら漬け』や『X'cit』([[上新電機]]とヨドバシカメラの合弁店舗・現在は閉店)のCM、果ては[[電気通信大学]]の「校歌」にも替え歌が使われている。 |
|||
[[昭和]]期には[[1932年]]にアメリカ合衆国出身の[[バートン・クレーン]]が「誰方がやるじゃろ」として発表したが、脈略のない歌詞が特徴となっている<ref name="曲目解説">{{Cite book|和書|chapter =曲目解説| title = お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて | year = 2006| publisher = キングレコード |page = 36-40}}{{ASIN|B000FUTZCO}}</ref>。[[1940年]]には永田哲夫・[[東辰三]]作詞、[[灰田有紀彦]]編曲による「お玉じゃくしは蛙の子」が作られ[[灰田勝彦]]の発表したレコード「こりゃさの音頭」のB面に収められヒットした<ref name="白石">{{Cite book|和書|author=白石信|chapter =リパブリック讃歌 in Hawaii| title = お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて | year = 2006| publisher = [[キングレコード]]|page = 35}}{{ASIN|B000FUTZCO}}</ref>。「お玉じゃくしは蛙の子」の元々のメロディは灰田兄弟の出身地である[[ハワイ州|ハワイ]]の民謡「ナ・モク・エハー」をモチーフとしたものだったが間奏に「リパブリック讃歌」のメロディを用いたことから、やがて「リパブリック讃歌」の替え歌として認知されるようになった<ref name="片岡">{{Cite book|和書|author=片岡輝|chapter =異文化受容として見る「リパブリック讃歌」| title = お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて | year = 2006| publisher = [[キングレコード]]|page = 16-23}}{{ASIN|B000FUTZCO}}</ref>。 |
|||
[[1994 FIFAワールドカップ]]・アジア地区予選において、[[サッカー日本代表|日本代表]]サポーターにより『リパブリック讃歌』のメロディに乗せた[[チャント]]が唄われた<ref name="大住">大住 168-171頁</ref>。歌詞の内容は「アメリカへ行こう。皆で行こう」とシンプルなものだった<ref name="大住" />が、[[1993年]][[4月8日]]に[[神戸市|神戸]]で行われた1次予選の[[サッカータイ代表|タイ]]戦から同年[[10月28日]]に[[カタール]]の[[ドーハ]]で行われた最終予選の[[サッカーイラク代表|イラク]]戦([[ドーハの悲劇]])に至るまで、ゴール裏に陣取る日本代表サポーターに広く親しまれた<ref name="大住" />。 |
|||
<!-- |
|||
[[ホセ・フェルナンデス]]選手が[[2003年]]に[[千葉ロッテマリーンズ]]に在籍していた時の[[応援歌]]の原曲でもある。フェルナンデスはこの年限りで千葉ロッテを退団したが、[[ホセ・オーティズ]]選手が[[2007年]]から[[2008年]]に千葉ロッテマリーンズに在籍していた時にも、同じ「ホセ」であるためにそのままオーティズ選手の応援歌として使われた。[[韓国]]プロ野球の[[ロッテジャイアンツ]]でもチームの応援歌として歌われている。--> |
|||
初出の時期は定かではないが<ref name="石原16" />「ジョン・ブラウンの赤ちゃん」を訳した「権兵衛さんの赤ちゃん」や「太郎さんの赤ちゃん」、主題を[[ぼたもち|おはぎ]]に置き換えた「おはぎがお嫁に」などの替え歌が作られ、動作をつけたり歌詞の一部を抜いたりして歌う「遊び歌」として親しまれた<ref name="石原16">[[#石原 1988|石原 1988]]、16頁</ref>。「権兵衛さんの赤ちゃん」「太郎さんの赤ちゃん」は戦後すぐに松田稔が編纂した歌集『楽しい歌』に収録され[[キャンプ]]ソングとして<ref name="吉田" >{{Cite book|和書|author=吉田恵子|chapter =リパブリック讃歌の今とこれから| title = お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて | year = 2006| publisher = キングレコード|page =35 }}{{ASIN|B000FUTZCO}}</ref>、また[[就学前教育|幼児教育]]の現場において必修曲として用いられ誰にでも気軽に親しめる歌として定着している<ref name="吉田" />。 |
|||
=== {{NIR}} === |
|||
{{wikisource|en:Belfast Brigade|Belfast Brigade|歌詞}} |
|||
[[アイルランド共和軍]] (IRA) の歌「{{interlang|En|Belfast Brigade}}(ベルファスト旅団)」 のメロディに使われた。[[アイルランド独立戦争]]中の第一ベルファスト大隊または西ベルファスト大隊の活躍が歌われている。 |
|||
[[1965年]]には詩人の[[阪田寛夫]]が[[日本放送協会]] (NHK) の音楽番組『歌のメリーゴーランド』から「リパブリック讃歌」に合う日本語による歌の作詞を依頼され「ともだち讃歌」が作られた<ref name="石原17">[[#石原 1988|石原 1988]]、17頁</ref>。この歌は[[1971年]]に[[東京書籍]]の教科書『新しい音楽4』に採用されると、その後も音楽教科書に使用されている<ref name="曲目解説"/><ref name="石原17"/>。 |
|||
=== {{ENG}} === |
|||
替え歌として親しまれているのはイングランドも例外ではなく、サッカーの名門[[マンチェスター・ユナイテッド]]では応援歌として用いられている。 |
|||
[[CMソング]]に使用されることもあり[[ヨドバシカメラ]]のCMソング「ヨドバシカメラの歌」のメロディとして知られる<ref name="長田" /><ref name="曲目解説"/>。このCMソングは同社社長の藤沢昭和の作詞によるもので[[1975年]]の新宿西口本店の開店に合わせてテレビCMや店内放送として流されると広く親しまれるようになった<ref name="曲目解説"/>。その後、時代の流れに合わせたマイナーチェンジや各店舗ごとにアレンジした歌が作られるなどの変遷を経て2000年代に至っている<ref name="曲目解説"/>。このほか、東海地方では『メガネプラザ』、関西地方では『やまじょうのさくら漬け』や『X'cit』([[上新電機]]とヨドバシカメラの合弁店舗・2013年の時点では閉店)のCM<!--、果ては[[電気通信大学]]の「校歌」-->にも替え歌が使われている。 |
|||
{{clear}} |
|||
[[1994 FIFAワールドカップ]]・アジア地区予選において、[[サッカー日本代表|日本代表]]サポーターにより「リパブリック讃歌」のメロディに乗せた[[チャント]]が歌われた<ref name="大住">{{Cite book|和書| author = [[大住良之]]| title = アジア最終予選 ― サッカー日本代表 2006ワールドカップへの戦い | year = 2005| publisher = [[双葉社]] | isbn=978-4575297805 |page=171}}</ref>。歌詞の内容は「アメリカへ行こう。皆で行こう」とシンプルなものだったが、[[1993年]][[4月8日]]に[[神戸市|神戸]]で行われた1次予選の[[サッカータイ代表|タイ]]戦から同年[[10月28日]]に[[カタール]]の[[ドーハ]]で行われた最終予選の[[サッカーイラク代表|イラク]]戦([[ドーハの悲劇]])に至るまで歌われた<ref name="大住" />。また、サッカークラブの[[横浜F・マリノス]]<ref name="片岡" />や[[コンサドーレ札幌]]<ref>{{cite web |url=http://www.consadole.net/tnfaki/article/2654|title=勝利後の楽曲 <すすきのへ行こう> &U-18 |publisher=[[コンサドーレ札幌]]オフィシャルブログ |date=2012年5月12日 |accessdate=2013年9月21日}}</ref>のサポーターが歌うチャントのメロディとして用いられている。<!--[[ホセ・フェルナンデス]]選手が[[2003年]]に[[千葉ロッテマリーンズ]]に在籍していた時の[[応援歌]]の原曲でもある。フェルナンデスはこの年限りで千葉ロッテを退団したが、[[ホセ・オーティズ]]選手が[[2007年]]から[[2008年]]に千葉ロッテマリーンズに在籍していた時にも、同じ「ホセ」であるためにそのままオーティズ選手の応援歌として使われた。[[韓国]]プロ野球の[[ロッテジャイアンツ]]でもチームの応援歌として歌われている。--> |
|||
=== 北アイルランド === |
|||
{{wikisourcelang|en|Belfast Brigade|Belfast Brigade|歌詞}} |
|||
[[アイルランド共和軍]] (IRA) の歌「{{仮リンク|ベルファスト旅団|en|Belfast Brigade}}」 のメロディに使われた。[[アイルランド独立戦争]]中の第一ベルファスト大隊または西ベルファスト大隊の活躍が歌われている。[[サッカー北アイルランド代表]]サポーターの歌うチャント「俺達は[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]じゃない、俺達は北アイルランドだ({{lang-en|We're not Brazil, we're Northern Ireland}})」のメロディとして用いられている<ref>{{cite web |url=http://www.channel4.com/news/articles/sports/political%2Bfootball%2Bneil%2Blennon/882547.html |title=Political Football: Neil Lennon|publisher=Channel 4 News |date=2007年10月5日|accessdate=2013年9月21日}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.newsletter.co.uk/news/regional/football-family-bids-farewell-to-big-mac-1-4003189 |title=Football family bids farewell to‘Big Mac’|publisher=Belfast Newsletter |date=2012年6月29日|accessdate=2013年9月21日}}</ref>。 |
|||
=== イングランド === |
|||
イギリスの政治家で第二次世界大戦の際に首相を務めた[[ウィンストン・チャーチル]]のお気に入りの曲でもあった<ref name="Library of Congress">{{cite web |url=http://www.loc.gov/exhibits/churchill/wc-coldwar.html|title=His Truth Is Marching On - Churchill and the Great Republic |publisher=Library of Congress |accessdate=2013年9月8日}}</ref>。[[1965年]]に行われた国葬の際には家族からの要望もあり彼が生前に愛聴していた2、3の賛美歌と共に「リパブリック讃歌」が演奏された<ref name="Library of Congress" />。 |
|||
「リパブリック讃歌」のメロディはイングランドでは[[サッカー]]の試合においてサポーターの歌うチャント「{{仮リンク|グローリー・グローリー (チャント)|label=グローリー・グローリー|en|Glory Glory (football chant)}}」として[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]<ref>{{cite web |url=http://www.discogs.com/artist/Frank+Renshaw |title="Frank Renshaw Discography |publisher=Discogs|accessdate=2013年9月7日}}</ref>、[[トッテナム・ホットスパーFC]]<ref>{{Cite book|和書|author=デズモンド・モリス著、白井尚之訳|year=1983|title=サッカー人間学--マンウォッチング 2|publisher=[[小学館]] |isbn=978-4096930090 |page=306}}</ref>、[[リーズ・ユナイテッドFC]]<ref>{{cite web |url=http://www.45cat.com/record/db8506 Record details: |title="Glory, Glory, Leeds United" |publisher=Trad. Arr. Ronnie Hilton|accessdate=2013年9月7日}}</ref>などのサッカークラブで用いられている。 |
|||
=== ロシア === |
|||
[[ロシア帝国]]末期から[[ソビエト連邦]]初期の作曲家の[[アレクサンドル・グラズノフ]]は[[1893年]]に[[クリストファー・コロンブス]]のアメリカ大陸発見400年を記念して[[シカゴ]]で催された[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|万国博覧会]]のために「リパブリック讃歌」をモチーフとした管弦楽曲「勝利の行進曲 作品40」を作曲した<ref name="曲目解説"/>。 |
|||
=== ケニア === |
|||
[[東アフリカ]]の[[ケニア]]では[[1963年]]の独立の際に大統領の[[ジョモ・ケニヤッタ]]が先頭に立ち民衆に団結を呼びかける「ハランベー」という言葉がスローガンとなったが、それに伴い「リパブリック讃歌」のメロディに乗せた「ハランベー・ソング」という歌が唄われた<ref name="曲目解説"/>。「ハランベー」とは[[スワヒリ語]]で農村共同体が力を合わせて共同作業に務めることを意味する<ref name="曲目解説"/>。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{ |
{{Reflist|2}} |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
* 石原恵子 |
* {{Cite book|和書| author =石原恵子 | chapter =日本における讃美歌の果した役―「リパブリック讃歌」の変遷を追って | title = 創立二十周年記念論文集| year = 1988| publisher = [[国立音楽大学]] |ref=石原 1988}} |
||
* {{Cite book|和書|author=櫻井雅人|chapter =「リパブリック讃歌」の誕生と普及| title = お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて | year = 2006| publisher = [[キングレコード]]|ref = 櫻井 2006}}{{ASIN|B000FUTZCO}} |
|||
* [[長田暁二]]『世界の愛唱歌 ― 1000字でわかる名曲ものがたり』([[ヤマハミュージックメディア]]、2005年) |
|||
* [[大住良之]]『アジア最終予選 ― サッカー日本代表 2006ワールドカップへの戦い』([[双葉社]]、2005年) |
|||
* [[渡辺利雄]]『講義 アメリカ文学史 [全3巻] 東京大学文学部英文学科講義録 第II巻』([[研究社]]、2007年) |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* [[南北戦争の原因]] |
* [[南北戦争の原因]] |
||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{wikisourcelang|en|Battle Hymn of the Republic}} |
|||
{{commons category|Battle Hymn of the Republic}} |
|||
* [http://www.cyberhymnal.org/htm/b/h/bhymnotr.htm 歌詞と MIDI(The CyberHymnal)] |
* [http://www.cyberhymnal.org/htm/b/h/bhymnotr.htm 歌詞と MIDI(The CyberHymnal)] |
||
* [http://www.worldfolksong.com/closeup/battlehymn/episode/intro.htm リパブリック讃歌(友だち讃歌)誕生編] - ドナドナ研究室 |
* [http://www.worldfolksong.com/closeup/battlehymn/episode/intro.htm リパブリック讃歌(友だち讃歌)誕生編] - ドナドナ研究室 |
2013年9月22日 (日) 00:27時点における版
リパブリック讃歌 The Battle Hymn of the Republic | |
---|---|
1862年に発表されたリパブリック讃歌の表紙 | |
作詞 | ジュリア・ウォード・ハウ(1861) |
作曲 | ウィリアム・ステッフ(1856)、編曲 ジェームズ・グリーンリーフ、 C.ホール、C.マーシュ(1861) |
試聴 | |
リパブリック讃歌(リパブリックさんか、原題: The Battle Hymn of the Republic)は、アメリカ合衆国の民謡・愛国歌・賛歌であり、南北戦争での北軍の行軍曲である。作詞者は詩人のジュリア・ウォード・ハウであるが軍歌の作詞を女性が務めた珍しい事例でもある[1]。原題を日本語で直訳すると「共和国の戦闘讃歌」となる[1]。
経緯
おお兄弟達よ、我らに会わないか
元々のメロディはウィリアム・ステッフによって1856年に作曲された賛美歌「おお兄弟達よ、我らに会わないか(英語: Say, brothers, will you meet us)」だったと言われている[1]。ただし、この曲とステッフとの関連性については自身が生前に作曲者として名乗り出なかった点、他の音楽制作に関わらなかった点、ステッフ本人の書き残した手紙以外に物的証拠が存在しない点などから関与を疑問視されている[2]。
ステッフによる作曲という説は1880年代に登場したものであり[3]、英文学者のブランダー・マシューズが1887年に『センチュリー・マガジン』誌で紹介したことを契機に広まった[3]。マシューズによると1856年にサウスカロライナ州チャールトンにある消防団から「困ったことがあれば、我らに会わないか(英語: Say, bummers, will you meet us)」という歌詞に合う曲作りを依頼され、その曲に新たに歌詞が付け加えられるなどして後に讃美歌「おお兄弟達よ、我らに会わないか」へと変化したとしている[3]。一方、ジャーナリストのボイド・スタドラーの調査では、1855年または1856年頃にフィラデルフィアのグッドウィル消防隊からバルティモアのリバティ消防隊を歓迎するための歌の作成を依頼され「困ったことがあれば、我らに会わないか」に曲をつけた、とステッフ自身が発言したという[2]。
原詩 | 日本語訳 |
---|---|
|
|
一部の研究者はステッフが作曲する以前に黒人の伝統音楽にルーツを持つとする説を支持している[4] 。このほかジョージア州に住むアフリカ系アメリカ人の婚礼の際に歌われていたとする説[5]、またはスウェーデンの酒宴の歌として生まれたものがイギリスに伝播し船乗りの労働歌として定着したとする説がある[6]。ルーツを特定することは困難であるが様々な文化と民族から影響がもたらされたことは確かで、当時の音楽制作における復興運動の影響もあり自由な作曲が成された[7] 。
歌詞については1858年に出版された『ユニオン・ハープとリヴァイヴァル聖歌隊員』という讃美歌集が内容を確認することが可能な初出文献とされる[8]。
ジョン・ブラウンの屍
「おお兄弟達よ、我らに会わないか」のメロディは、狂信的な奴隷制度廃止論者のジョン・ブラウンの功績を称える唄「ジョン・ブラウンの屍」に引用された[1][9]。ブラウンは、奴隷所有者に対し武力攻撃を仕掛ける過激な人物で、1859年にバージニア州の連邦武器庫の襲撃に失敗し捕えられ、同年12月2日に絞首刑に処せられた。この後、ブラウンの信奉者たちによって歌が作られ、1861年4月の南北戦争開戦以来、北軍の非公式な行軍曲として兵士によって盛んに唄われた[9][10]。
原詩 | 日本語訳 |
---|---|
|
|
キンボールによる証言
1890年、南北戦争の際にボストンの第2歩兵大隊(通称、タイガース大隊)に所属していたジョージ・キンボールは「ジョン・ブラウンの屍」の成立の経緯について雑誌『ニューイングランド・マガジン』に次の様に記した[11]。
我々の大隊には一人の陽気なスコットランド人がおり、名前はジョン・ブラウンといった。彼は古き英雄と同姓同名であったことから親しい同僚たちから頻繁にからかわれていた。もし彼が集合に遅れたり作業に手間取った場合には仲間から「早く来いよ年老いた同士。奴隷を自由にするための手助けをする気があるなら速やかに作業に取り組まなければな」や「彼はジョン・ブラウンにはなれない。なぜならジョン・ブラウンは亡くなったのだから」といった表現で迎えられることが恒例となっていた。そして何人かのお調子者はジョン・ブラウンが亡くなったことを強調するように厳粛かつゆっくりとした口調で「その通りさ、哀れなジョン・ブラウンは墓の中で朽ち果てたのさ」などの台詞で応じた[11]。
キンボールによると、これらの言葉が兵士の間の決まり文句となり上記した「おお兄弟達よ、我らに会わないか」のメロディに合わせて歌われるようになり、いくつかの変遷を経て「ジョン・ブラウンの屍」が完成した[12]。1861年5月12日に大隊本部のあるウォーレン砦で新兵訓練のための国旗掲揚式を行った際に公式の場において初の演奏がなされ、同年5月または6月から7月にかけて楽譜が出版されたことを契機に流行歌となった[12]。なお、この歌で取り上げられた第2歩兵大隊のジョン・ブラウン軍曹は1862年6月6日にバージニア州にあるラパハノック川を行軍中に水死した[13]。
発展
「ジョン・ブラウンの屍」はやがてボストン第2歩兵大隊のジョン・ブラウン軍曹ではなく、奴隷廃止論者のジョン・ブラウンとの結びつきを強めると新たなバージョンの歌詞が作られるようになった[13]。その中で最も精巧な歌詞はウィリアム・ウェストン・パットンによって作詞され1861年10月に『シカゴ・トリビューン』紙に発表された[14]。パットンは南北戦争当時は牧師を務めていたが、後にワシントンD.C.のハワード大学の学長となった人物である[14]。
原詩 | 日本語訳 |
---|---|
|
|
リパブリック讃歌の誕生
1861年11月18日、詩人のジュリア・ウォード・ハウは軍事衛生委員を務めていた夫のサミュエル・グリドリー・ハウと共にエイブラハム・リンカーン大統領からワシントンD.C.のポトマック川周辺に駐留していた北軍の演習に招待された[15][16]。この演習の最中に近隣で南軍との戦闘が発生したためハウ夫妻は馬車で帰路に着いたが戦場へと向かう兵士の一群と鉢合わせとなり道は渋滞した[15]。その間に馬車に同乗していた皆で「ジョン・ブラウンの屍」を歌っていたが牧師のジェームズ・フリーマン・クラークから行軍曲として相応しい詩の作詞を提案された[15][16]。彼女は宿泊先のウィラード・ホテルに戻ると、旅の疲れから深い眠りについたが夜中にふと目覚めると詩のアイデアを紙に書きとめ北軍兵士を讃える歌を作詞した[16]。
その夜、私はいつもの習慣通りに眠りにつき熟睡しました。私は夜明け前の薄明かりの中で目を覚ますと、すぐに夜明けを迎えることを期待して横になりながら、依頼を受けた望ましい詩の長い一節を心の中で書き留め始めました。すると夜明けを待つ間に全ての詩が思い浮かんだので、私は自分自身に言い聞かせました。「再び寝入ってしまい詩を忘れてしまわないように私は目を覚まさなければならない。そして、これらの詩句を書き留めなければならない」と。私はベッドから飛び起きて薄明かりの中で前日に使ったことを忘れずにいた古いペンを見つけ、紙を見ることなく殆どの詩句を走り書きしたのです。 — ジュリア・ウォード・ハウ[17]
ハウが11月19日に書き記した歌詞は草案の状態であり[15]、さらに修正を加えた歌詞を『アトランティック・マンスリー』へ送った[15]。同誌の編集者であるジェームズ・トーマス・フィールズによって「リパブリック讃歌」と命名され[16]1862年2月号において匿名で発表された[15][16]。フィールズから作詞者のハウに支払われた報酬は5ドルだったという[16]。『アトランティック・マンスリー』1862年2月号に掲載された歌詞は1番から5番まででコーラス部分を含んでいなかったが[15]、同年4月に作詞者と作詞の付いた楽譜がオリヴァー・ディットソン社から出版された際に1番から5番までの歌詞にコーラス部分が加えられた[15]。なお、ハウが11月19日に書き記した草案は1番から6番までの歌詞が含まれていたが、多くの楽譜では6番の歌詞は採用されていない[15]。
「リパブリック讃歌」は発表されると直ちに北軍兵士の間で最も人気の高い歌の1つとなり戦後もアメリカ合衆国の愛国歌として広く唄い継がれている[9][16]。この歌は音楽教科書や讃美歌集に取り上げられただけでなく、選挙運動の応援歌や労働歌といった内容のものからパロディのものまで様々な替え歌の原曲としても親しまれている[15]。
歌詞
歌詞には新約聖書の『ヨハネの黙示録』の影響があり[10]、神の正義を期待する感情と、「Glory, glory, hallelujah!」という神の最終的な勝利を讃える表現が記されている[10]。
原詩 | 日本語訳 |
---|---|
|
|
影響
アメリカ合衆国
「リパブリック讃歌」や「ジョン・ブラウンの屍」は様々な替え歌の原曲としても親しまれている。アメリカ合衆国では著名なものでは子供向けのレクリエーション・ソング「ジョン・ブラウンの赤ちゃん(英語: John Brown's Baby)」[18]、苛烈な学校生活を揶揄した「激しい学校(英語: The Burning of the School)」[15]、第二次世界大戦の際には空挺部隊の新兵が降下に失敗し凄惨な死を迎えた状況を歌った軍歌「空挺部隊の歌」[19]、労働組合のための行進曲「団結よ永遠なれ」が作られた[1]。
作家のジョン・スタインベックは1939年に小作農民の苦難を描いた『怒りの葡萄』を発表したが、この題名はリパブリック讃歌の一節「彼は怒りの葡萄が蓄えられた貯蔵庫を踏みつけ…」に由来している[10][20]。
エルヴィス・プレスリー、ジョーン・バエズを始めとして多くのミュージシャンによりカバー曲として使用されている。1960年にモルモンタバナクル合唱団がグラミー賞において「コーラス・グループ」部門と「ヴォーカル・グループ」部門のベスト・パフォーマンス賞を受賞した。
1959年に公開されたレッド・ニコルズ の自伝的映画『5つの銅貨』では挿入歌として使用されているが[21]、ルイ・アームストロングの演奏中にニコルズが飛び入り参加しコルネットで「リパブリック讃歌」をソロ演奏するシーンがある。
歌詞の最初のライン「私の眼は神の降臨と栄光を見た」は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が暗殺の前夜(1968年4月3日)に行なった演説「私は山頂に達した(英語: I've Been to the Mountaintop)」の最後の一節として引用された[22]。
1970年に公開された第二次世界大戦中のヨーロッパ戦線を舞台としたコメディ戦争映画『戦略大作戦』の中でBGMとして用いられた[23]。
日本
日本では、明治期の1890年にクリスマスの子供讃美歌集『童蒙讃美歌』(奥野昌綱、戸川安宅による作詞)の「うたへいはえ」として初めて紹介された[24]。2年後の1902年には初の楽譜付き軍歌集『日本軍歌』に「すすめすすめ」(戸川安宅による作詞)として収録された[24]。一般向けの讃美歌としては「あくまとたゝかへ」が初めて採用され1898年に三谷種吉によって編纂された『基督教福音唱歌』に収録された[25]。
また替え歌としても1905年に早稲田大学に初の応援組織が結成された際に野球応援歌が作られ[26]1907年に出版された『早稲田歌集』に収録された[27]。陸軍中央幼年学校では堅苦しい教科を揶揄した「学科嫌い」という歌が作られ10期生(陸士25期生)が自費出版した歌集『百日祭』に収録された[28]。この歌集は、すぐに没収・焼却処分されたが口伝えで太平洋戦争終結時まで歌い継がれた[28]。
大正期には神長瞭月作詞の「薔薇の唄」が演歌師に歌われ女学生の間で流行した[29]。また浅草オペラの興隆と共にオペラソングのメロディとして歌われた[29]。
昭和期には1932年にアメリカ合衆国出身のバートン・クレーンが「誰方がやるじゃろ」として発表したが、脈略のない歌詞が特徴となっている[30]。1940年には永田哲夫・東辰三作詞、灰田有紀彦編曲による「お玉じゃくしは蛙の子」が作られ灰田勝彦の発表したレコード「こりゃさの音頭」のB面に収められヒットした[31]。「お玉じゃくしは蛙の子」の元々のメロディは灰田兄弟の出身地であるハワイの民謡「ナ・モク・エハー」をモチーフとしたものだったが間奏に「リパブリック讃歌」のメロディを用いたことから、やがて「リパブリック讃歌」の替え歌として認知されるようになった[32]。
初出の時期は定かではないが[33]「ジョン・ブラウンの赤ちゃん」を訳した「権兵衛さんの赤ちゃん」や「太郎さんの赤ちゃん」、主題をおはぎに置き換えた「おはぎがお嫁に」などの替え歌が作られ、動作をつけたり歌詞の一部を抜いたりして歌う「遊び歌」として親しまれた[33]。「権兵衛さんの赤ちゃん」「太郎さんの赤ちゃん」は戦後すぐに松田稔が編纂した歌集『楽しい歌』に収録されキャンプソングとして[34]、また幼児教育の現場において必修曲として用いられ誰にでも気軽に親しめる歌として定着している[34]。
1965年には詩人の阪田寛夫が日本放送協会 (NHK) の音楽番組『歌のメリーゴーランド』から「リパブリック讃歌」に合う日本語による歌の作詞を依頼され「ともだち讃歌」が作られた[35]。この歌は1971年に東京書籍の教科書『新しい音楽4』に採用されると、その後も音楽教科書に使用されている[30][35]。
CMソングに使用されることもありヨドバシカメラのCMソング「ヨドバシカメラの歌」のメロディとして知られる[9][30]。このCMソングは同社社長の藤沢昭和の作詞によるもので1975年の新宿西口本店の開店に合わせてテレビCMや店内放送として流されると広く親しまれるようになった[30]。その後、時代の流れに合わせたマイナーチェンジや各店舗ごとにアレンジした歌が作られるなどの変遷を経て2000年代に至っている[30]。このほか、東海地方では『メガネプラザ』、関西地方では『やまじょうのさくら漬け』や『X'cit』(上新電機とヨドバシカメラの合弁店舗・2013年の時点では閉店)のCMにも替え歌が使われている。
1994 FIFAワールドカップ・アジア地区予選において、日本代表サポーターにより「リパブリック讃歌」のメロディに乗せたチャントが歌われた[36]。歌詞の内容は「アメリカへ行こう。皆で行こう」とシンプルなものだったが、1993年4月8日に神戸で行われた1次予選のタイ戦から同年10月28日にカタールのドーハで行われた最終予選のイラク戦(ドーハの悲劇)に至るまで歌われた[36]。また、サッカークラブの横浜F・マリノス[32]やコンサドーレ札幌[37]のサポーターが歌うチャントのメロディとして用いられている。
北アイルランド
アイルランド共和軍 (IRA) の歌「ベルファスト旅団」 のメロディに使われた。アイルランド独立戦争中の第一ベルファスト大隊または西ベルファスト大隊の活躍が歌われている。サッカー北アイルランド代表サポーターの歌うチャント「俺達はブラジルじゃない、俺達は北アイルランドだ(英語: We're not Brazil, we're Northern Ireland)」のメロディとして用いられている[38][39]。
イングランド
イギリスの政治家で第二次世界大戦の際に首相を務めたウィンストン・チャーチルのお気に入りの曲でもあった[40]。1965年に行われた国葬の際には家族からの要望もあり彼が生前に愛聴していた2、3の賛美歌と共に「リパブリック讃歌」が演奏された[40]。
「リパブリック讃歌」のメロディはイングランドではサッカーの試合においてサポーターの歌うチャント「グローリー・グローリー」としてマンチェスター・ユナイテッドFC[41]、トッテナム・ホットスパーFC[42]、リーズ・ユナイテッドFC[43]などのサッカークラブで用いられている。
ロシア
ロシア帝国末期からソビエト連邦初期の作曲家のアレクサンドル・グラズノフは1893年にクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念してシカゴで催された万国博覧会のために「リパブリック讃歌」をモチーフとした管弦楽曲「勝利の行進曲 作品40」を作曲した[30]。
ケニア
東アフリカのケニアでは1963年の独立の際に大統領のジョモ・ケニヤッタが先頭に立ち民衆に団結を呼びかける「ハランベー」という言葉がスローガンとなったが、それに伴い「リパブリック讃歌」のメロディに乗せた「ハランベー・ソング」という歌が唄われた[30]。「ハランベー」とはスワヒリ語で農村共同体が力を合わせて共同作業に務めることを意味する[30]。
脚注
- ^ a b c d e 辻田真佐憲『世界軍歌全集--歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代』社会評論社、2011年、88-89頁。ISBN 978-4784509683。
- ^ a b 櫻井 2006、11頁
- ^ a b c 櫻井 2006、10頁
- ^ C. A. Browne, The Story of Our National Ballads (New York: Thomas Y. Crowell, 1960), p. 174
- ^ Music of the Civil War Era 2004, by Steven Cornelius, Greenwood Publishing Group, ISBN 0-313-32081-0 ,p. 26
- ^ Boyd Stutler, "John Brown's Body", Civil War History 4 (1958): p. 260
- ^ Annie J. Randall, "A Censorship of Forgetting: Origins and Origin Myths of 'Battle Hymn of the Republic'", in Music, Power, and Politics, edited by Annie J. Randall (Routledge, 2004) 16. (Google books)
- ^ 櫻井 2006、9頁
- ^ a b c d 長田暁二『世界の愛唱歌 ― 1000字でわかる名曲ものがたり』ヤマハミュージックメディア、2004年、254–255頁。ISBN 978-4636206661。
- ^ a b c d 渡辺利雄『講義 アメリカ文学史 第 II 巻 ― 東京大学文学部英文科講義録』研究社、2007年、326頁。ISBN 978-4327472146。
- ^ a b Kimball, George (1890), “Origin of the John Brown Song”, New England Magazine, new (Cornell University) 1
- ^ a b 櫻井 2006、12頁
- ^ a b 櫻井 2006、13頁
- ^ a b “Various Versions of the John Brown Song Spanning More Than a Century”. John Brown's Ghost Haunts the Internet!!!. 2013年9月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 櫻井 2006、14頁
- ^ a b c d e f g “Civil War Music: The Battle Hymn of the Republic”. Civil War Trust. 2013年9月8日閲覧。
- ^ Howe, Julia Ward. Reminiscences: 1819-1899.Houghton, Mifflin: New York, 1899. p. 275.
- ^ “ジョン・ブラウンの赤ちゃん「BODY」から「BABY」へ”. ドナドナ研究室. 2013年9月7日閲覧。
- ^ “空挺部隊の歌”. 西洋軍歌蒐集館. 2013年9月7日閲覧。
- ^ “リパブリック讃歌(Battle Hymn of the Republic)”. 世界のうた. 2013年9月8日閲覧。
- ^ 櫻井 2006、8頁
- ^ “Martin Luther King Jr. (1929-1968) "I've Been to the Mountaintop"”. American RadioWorks. 2013年9月7日閲覧。
- ^ “Kelly's Heroes (1970)”. Film Score. 2013年9月8日閲覧。
- ^ a b 石原 1988、10頁
- ^ 手代木俊一「南北戦争の歌《リパブリック讃歌》と讃美歌」『お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて』キングレコード、2006年、24-29頁。ASIN B000FUTZCO
- ^ 八巻明彦「早稲田の「野球応援歌」」『お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて』キングレコード、2006年、32-33頁。ASIN B000FUTZCO
- ^ 石原 1988、14頁
- ^ a b 八巻明彦「「学科嫌い」について」『お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて』キングレコード、2006年、32-33頁。ASIN B000FUTZCO
- ^ a b 石原 1988、15頁
- ^ a b c d e f g h 「曲目解説」『お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて』キングレコード、2006年、36-40頁。ASIN B000FUTZCO
- ^ 白石信「リパブリック讃歌 in Hawaii」『お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて』キングレコード、2006年、35頁。ASIN B000FUTZCO
- ^ a b 片岡輝「異文化受容として見る「リパブリック讃歌」」『お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて』キングレコード、2006年、16-23頁。ASIN B000FUTZCO
- ^ a b 石原 1988、16頁
- ^ a b 吉田恵子「リパブリック讃歌の今とこれから」『お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて』キングレコード、2006年、35頁。ASIN B000FUTZCO
- ^ a b 石原 1988、17頁
- ^ a b 大住良之『アジア最終予選 ― サッカー日本代表 2006ワールドカップへの戦い』双葉社、2005年、171頁。ISBN 978-4575297805。
- ^ “勝利後の楽曲 <すすきのへ行こう> &U-18”. コンサドーレ札幌オフィシャルブログ (2012年5月12日). 2013年9月21日閲覧。
- ^ “Political Football: Neil Lennon”. Channel 4 News (2007年10月5日). 2013年9月21日閲覧。
- ^ “Football family bids farewell to‘Big Mac’”. Belfast Newsletter (2012年6月29日). 2013年9月21日閲覧。
- ^ a b “His Truth Is Marching On - Churchill and the Great Republic”. Library of Congress. 2013年9月8日閲覧。
- ^ “"Frank Renshaw Discography”. Discogs. 2013年9月7日閲覧。
- ^ デズモンド・モリス著、白井尚之訳『サッカー人間学--マンウォッチング 2』小学館、1983年、306頁。ISBN 978-4096930090。
- ^ “Record details: "Glory, Glory, Leeds United"”. Trad. Arr. Ronnie Hilton. 2013年9月7日閲覧。
参考文献
- 石原恵子「日本における讃美歌の果した役―「リパブリック讃歌」の変遷を追って」『創立二十周年記念論文集』国立音楽大学、1988年。
- 櫻井雅人「「リパブリック讃歌」の誕生と普及」『お玉じゃくしと権兵衛さんのすべて』キングレコード、2006年。ASIN B000FUTZCO
関連項目
外部リンク
- 歌詞と MIDI(The CyberHymnal)
- リパブリック讃歌(友だち讃歌)誕生編 - ドナドナ研究室
- リパブリック讃歌(友だち讃歌)歴史編 - ドナドナ研究室