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「FCディナモ・ブカレスト」の版間の差分

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|原語表記=FC Dinamo Bucureşti
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|創設=1948
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|代表= Ionuț Negoiță<ref>[http://www.ziarulring.ro/stiri/sport/208133/EXCLUSIV-E-OFICIAL-Ionut-Negoita-este-noul-ACTIONAR-MAJORITAR-de-la-DINAMO-?utm_source=gsp.ro&utm_campaign=gsp-rss&utm_medium=web Ionuţ Negoiţă este noul ACŢIONAR MAJORITAR de la DINAMO!]</ref>
|代表={{flagicon|ROM}} ニコラエ・バデア
|監督={{flagicon|ROM}} [[コルネル・ツァルナル]]
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'''FCディナモ・ブカレスト'''({{IPA-ro|diˈnamo bukuˈreʃtʲ}}, Fotbal Club Dinamo București)は、[[ルーマニア]]・[[ブカレスト]]を本拠地とする[[サッカー]]クラブチーム。[[リーガ1]]で18回、[[クパ・ロムニエイ]]で13回、[[スーペルクパ・ロムニエイ]]で2回優勝しており、[[FCステアウア・ブカレスト]]と並んでルーマニアでもっとも成功を収めた2クラブのひとつである。


1948年に設立され、それ以来すべてのシーズンをリーガ1で過ごしている。伝統的にホームユニフォームは全身赤色であり、現在のエンブレムは1998年に修正された版である。1951年から、ブカレスト市内中心部にある[[ディナモ・スタジアム (ブカレスト)|スタディオヌル・ディナモ]]をホームスタジアムとしている。1983-84シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]ではベスト4となり、同大会で準決勝に進出したルーマニア初のクラブとなった。最大のライバルはステアウアであり、両クラブの対戦は[[エテルヌル・デルビー]](エターナル・ダービー、永遠のダービー)と呼ばれる。
'''FCディナモ・ブカレスト'''('''F.C. Dinamo Bucureşti''')は、[[ルーマニア]]・[[ブカレスト]]を本拠地とする[[サッカー]]クラブチーム。


== 概要 ==
== 歴史 ==
=== 黎明期 ===
首都ブカレストにあるクラブであり、人気も高く、同じ街を本拠とする[[ステアウア・ブカレスト]]や[[ラピド・ブカレスト]]とはライバル関係にある。また、[[ルーマニア共産党|共産党]]政権時代に[[セクリタテア|国家秘密警察]]がスポンサーだった事から、{{要出典範囲|他チームのサポーターからは蛇蠍の如く嫌われており|date=2010年9月}}、各々ホームにディナモを迎えての試合になると、ダービーマッチの様な盛り上がりを見せる。ルーマニアサッカー界の[[悪役]]的存在であり、ブカレスト以外の地域でもファンが多数存在する。
1948年5月14日、ウニレア・トリコロールMAIがチオカヌル・ブカレストと合併し、ディナモ・ブカレストという名称の総合スポーツクラブが創設された。ウニレア・トリコロールMAIは1948年1月に設立されていた、[[ルーマニア共産党|共産主義政権]]の庇護の下にあったクラブである。ディナモ・ブカレストもルーマニア共産党を象徴するスポーツクラブとなり、体制側のクラブという側面が常に付きまとった <ref>{{cite web |url=http://www.fcdinamo.ro/istoric.php?id=6 |title=O POVESTE MEREU FRUMOASA |author=Dinamo |year=2009 |publisher=fcdinamo.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。1947-48シーズンのリーグ戦が終わるまでは、チオカヌルがディナモA、ウニレア・トリコロールがディナモBという扱いだったが、ウニレア・トリコロールはシーズン終了後にディヴィジアB(2部)降格となった。両チームはディナモのAチーム、Bチームとして共存していたが、1950年シーズン開幕時にはディナモAがディナモBから分割され、ディナモBはまず[[ブラショフ]]に、次に[[クルジュ=ナポカ]]に、結局は1958年に[[バカウ]]に移転し、[[FCMバカウ]]となった<ref>{{cite web |url=http://www.fcmbacau.ro/index.php?option=displaypage&Itemid=47&op=page&SubMenu= |title=Istoria FCM Bacău |author=FCM Bacău |year=2009 |publisher=fcmbacau.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。

1948年7月14日、Zidnice(チェコスロバキア)と初の国際試合を戦い、4-1で勝利した。1948-49シーズンには(ディナモAが)ディナモという名称で初めて[[リーガ1]](1部)に参戦。コロマン・ブラウン=ボグダン監督がチームを率い、ティトゥス・オゾン<ref group="注釈">1952年シーズンと1953年シーズンにリーグ得点王となった。</ref>などの選手たちがプレーした。1948-49シーズン終了後には[[アンジェロ・ニクレスク]]が現役引退。指導者に転身し、後にディナモやルーマニア代表の監督を務めている。1950年にはドゥミトル・ニコラが加入。1951年10月14日には現在のディナモ・スタジアムがオープンし、ディナモ=ロコモティーヴァ・ティミショアラとの間で行なわれた落成記念試合に1-0で勝利した<ref>{{cite web |url=http://www.liga1.ro/html/stadion/Stadion_Dinamo,_capacitate_15.300_locuri,_instalatie_de_nocturna_(1.700_lucsi)-3.html |title=Stadionul Dinamo - Stefan cel Mare |author=Liga1 |year=2009 |publisher=liga1.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。1951年シーズンから1953年シーズン<ref group="注釈">秋春制で行なわれた1948-49シーズン以前や1957-58シーズン以降とは異なり、1950年シーズンから1956年シーズンまでは春秋制で行なわれた。</ref>までの3シーズンは、いずれも[[ステアウア・ブカレスト|CCAブカレスト]](現在のステアウア)に次ぐ2位でシーズンを終えた。1953年の[[クパ・ロムニエイ]]では決勝に進出したが、[[メタルル・レシツァ]]に0-2で敗れた。ニクレスク監督が率いた1955年シーズンには、アレグザンドレ・エネ<ref group="注釈">1954年シーズンに得点王となった。1960年代に在籍したストライカーのゲオルゲ・エネと区別するために、アレグザンドレはエネⅠ、ゲオルゲはエネⅡと呼ばれる</ref>などの攻撃陣による攻撃サッカーで強い印象を与え、リーガ1初優勝を飾った。守備陣にはバクト、スゾコ、カリノユなどがおり、リーグ最少の19失点に抑えた<ref>{{cite web |url=http://fanclubdinamo.freeservers.com/History/sezon1955.htm |title=Campionat 1955 |author=Fun Club Dinamo |year=2009 |publisher=fanclubdinamo.freeservers.com |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。1956-57シーズンには初めて[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]に出場。ルーマニアで初めて国際大会に出場したクラブとなった。予選では[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライSK]](トルコ)と対戦。32,000人の観客が詰めかけたホームでのファーストレグには3-1で勝利し、イスタンブルでのセカンドレグには1-2で敗れたものの、2試合合計4-3で勝ち上がりを決めた。1回戦では[[PFC CSKAソフィア|CDNAソフィア]](ブルガリア)と対戦し、2試合合計4-10で敗れて敗退した。

=== 1960年代と1970年代 ===
1961-62シーズンのチームにはイリエ・ダトク、ステファン、ウングロユなどが在籍しており、ニクショル・ドゥミトル・ネデレスク監督の下で 2回目のリーグ優勝を飾った。1962-63シーズンにはリーグ戦2連覇を果たした。1963-64シーズンにはクパ・ロムニエイで決勝に進出し、ライバルの[[ステアウア・ブカレスト]]を5-3で下して2回目の優勝を飾った。UEFAチャンピオンズカップでは[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]擁する[[レアル・マドリード]](スペイン)と対戦。ブカレストの[[スタディオヌル・ナツィオナル|スタディオヌル・リア・マノリウ]]で行なわれた試合にはスタジアム記録となる100,000人もの観客を集めた<ref>{{cite web |url=http://www.sportm.ro/Fotbal-intern/3690.html |title=Istorie stadion Național |author=Lucian Ionescu |year=2007 |publisher=sportm.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。1964-65シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは「グランデ・インテル」と呼ばれた[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]](イタリア)と対戦し、[[ルイス・スアレス・ミラモンテス|ルイス・スアレス]]、[[ジャチント・ファッケッティ]]、[[サンドロ・マッツォーラ]]などと対面したが、2試合合計0-7で完敗した。同シーズンのリーグ戦では4連覇を果たした。1965年には[[ミルチェア・ルチェスク]]などを獲得し、UEFAチャンピオンズカップでは2シーズン連続でインテルと顔を合わせたが、ホームゲームでは2-1で勝利するなど善戦した。

1970-71シーズンには6回目のリーグ優勝を飾った。UEFAチャンピオンズカップでは1回戦で[[FCスパルタク・トルナヴァ]](スロベニア)を下したが、2回戦で[[フェイエノールト]](オランダ)に敗れた。1972-73シーズンには[[ウニヴェルシタテア・クライオヴァ|FCウニヴェルシタテア・クライオヴァ]]などを突き放し、7回目のリーグ優勝を果たした<ref>{{cite web |url=http://www2.gds.ro/Sport/2008-02-22/CFR+Cluj+a+schimbat+macazul+titlului+din+1973 |title=CFR Cluj a schimbat macazul titlului din 1973 |author=Ion JIANU |year=2008 |publisher=gds.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。1973-74シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、1回戦で[[クルセイダーズFC]](北アイルランド)を2試合合計12-0で破った。ホームで行なわれたセカンドレグでは11点差(11-0)の勝利を記録し、同大会におけるクラブ史上最大得点差記録として現在も残っている。2回戦では[[ハビエル・イルレタ]]などを擁する[[アトレティコ・マドリード]](スペイン)と対戦し、2試合合計2-4で敗れた。1974-75シーズンは[[UEFAカップ]]に出場し、1回戦で[[ボルスポル]](トルコ)を退けたが、2回戦で[[1.FCケルン]](西ドイツ)に2試合合計3-4で敗れた。1974-75シーズンには8回目のリーグ優勝を果たし、32得点を挙げた[[ドゥドゥ・ゲオルゲスク]]が[[ヨーロッパ・ゴールデンシュー]](ヨーロッパ全体の得点王)に輝いた。1976-77シーズンのUEFAカップでは1回戦で[[ファビオ・カペッロ]]などが在籍していた[[ACミラン]](イタリア)と対戦し、2試合合計1-2と健闘した。1976-77シーズンには9回目のリーグ優勝を果たし、47得点を挙げたゲオルゲスクが2度目のヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた<ref>{{cite web |url=http://www.gsp.ro/gsp-special/ideile-gazetei/dudu-georgescu-gheata-de-aur-a-ciinilor-86023.html |title=Dudu Georgescu, gheata de aur a "cîinilor" |author=Andrei Crăițoiu |year=2008 |publisher=Gazeta Sporturilor |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。1977-78シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でアトレティコ・マドリードと対戦し、ホームで行なわれたファーストレグには2-1で勝利したが、アウェーでは0-2で敗れ、2試合合計2-3で敗退となった。1979-80シーズンのUEFAカップ1回戦では[[アルキ・ラルナカFC]](キプロス)を2試合合計12-0で下し、2回戦では[[ブルーノ・ペッツァイ]]などが牽引した[[アイントラハト・フランクフルト]](西ドイツ)と対戦。ファーストレグに2-0で勝利したが、セカンドレグに0-3で敗れて敗退した<ref>{{cite web |url=http://www.sport365.ro/Focus365___N_avem_trofee__dar___i____firimiturile____sunt_pu__ine-n103687.html |title=N-avem trofee |author=Razvan Toma |year=2009 |publisher=sport365.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。

=== 1980年代 ===
1981-82シーズンのUEFAカップ・1回戦では[[PFCレフスキ・ソフィア]](ブルガリア)と対戦し、2試合合計4-2で勝利した。2回戦では17年ぶりにインテルと対戦し、クラブ史に残る勝利を挙げた。インテルには[[アレッサンドロ・アルトベッリ]]、[[ジュゼッペ・バレージ]]、[[ガブリオレ・オリアリ]]、[[ヘルベルト・プロハスカ]]などの名選手が在籍していたが、ミラノでのファーストレグは1-1の引き分けに持ち込み、ブカレストでのセカンドレグはロスタイムの得点により3-2で勝利。2試合合計4-3とし、西欧の強豪を破って3回戦進出を決めた<ref>{{cite web |url=http://www.dinamomania.net/articol.php?aid=8158 |title=Dinamo - Inter Milano 3 - 2 |author=discobolus |year=2007 |publisher=dinamomania.net |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。3回戦では[[IFKヨーテボリ]](スウェーデン)と対戦し、後に優勝するクラブ相手に敗れた。同シーズンには10回目のリーグ優勝を飾った。1982-83シーズンには5シーズンぶりにUEFAチャンピオンズカップに出場し、予選と1回戦で[[ヴァレレンガIF]](ノルウェー)と[[ドゥクラ・プラハ]](オーストリア)を破ったが、2回戦で[[アストン・ヴィラFC]](イングランド)に敗れた。国内リーグでは2連覇を達成した。1983年には国内リーグと国内カップでそれぞれ6回の優勝を果たした[[コルネル・ディヌ]]が引退。ディヌはルーマニア代表として75試合に出場し、ディナモでは通算454試合に出場した。1983-84シーズンには国内リーグ3連覇を果たし、欧州の舞台でも躍進を遂げた。UEFAチャンピオンズカップでは1回戦で[[FCラハティ|FCクーシシ・ラハティ]](フィンランド)を破り、2回戦で[[ハンブルガーSV]](西ドイツ)と対戦。ハンブルガーSVは前回大会王者であり、[[ヴィリ・シュルツ]]や[[フェリックス・マガト]]などを擁していた。ブカレストでのファーストレグには3-0で勝利し<ref>{{cite web |url=http://www.fcdinamo.ro/noutati.php?stire=5615 |title=VIDEO / Dinamo - Hamburg 3 - 0 |author=fcdinamo.ro |year=2008 |publisher=fcdinamo.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref><ref>{{cite web |url=http://dinamovisti.mysport.ro/stiri/3251/remember--dinamo-hamburg-mai-buni-decit-cei-mai-buni.htm |title=Mai buni decît cei mai buni! |author=mysport.ro |year=2008 |publisher=dinamovisti.mysport.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>、セカンドレグは2-3で敗れたが、2試合合計5-3で準々決勝に進出。準決勝では[[FCディナモ・ミンスク]](ソビエト連邦)を2試合合計2-1で破り、ルーマニアのクラブとして初めて同大会の準決勝進出を決めた<ref>{{cite web |url=http://www.fcdinamo.ro/istoric.php?id=3 |title=Prima echipă românească în semifinalele CCE |author=fcdinamo.ro |year=2008 |publisher=fcdinamo.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。準決勝では[[イアン・ラッシュ]]擁する[[リヴァプールFC]](イングランド)と対戦し、2試合合計1-3で敗れて敗退した。1984-85シーズンの同大会では1回戦で[[オモニア・ニコシア]](キプロス)に勝利したが、[[ジャン・ティガナ]]や[[ベルナール・ラコンブ]]が在籍していた[[FCジロンダン・ボルドー]](フランス)に敗れた。1985-86シーズンのクパ・ロムニエイでは決勝でステアウアを1-0で破って優勝した。1985-86シーズンには18年ぶりに[[UEFAカップウィナーズカップ]]に出場。1986-87シーズンにはリーグ戦で44得点を挙げた[[ロディオン・カマタル]]がヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた。1987-88シーズンのクパ・ロムニエイ決勝ではステアウアと対戦したが、ステアウアの選手たちが判定への抗議の意味で試合途中にピッチを去ったため、ディナモにトロフィーが与えられた。しかし、後にルーマニアサッカー連盟はステアウアが2-1で勝利したという裁定を下している。1989年12月の[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]後、ステアウアはディナモにトロフィーを返還する提案を行なったが、ディナモは受け取ることを拒否した。1988-89シーズンのUEFAカップウィナーズカップではラハティと[[ダンディー・ユナイテッドFC]](スコットランド)を下したが、[[UCサンプドリア]](イタリア)にアウェーゴール差で敗れた。

=== 1990年代 ===
1960年代から1970年代にディナモでプレーしたルチェスク監督が指揮を執った1989-90シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは、1回戦で[[ディナモ・ティラナ]](アルバニア)に2試合合計2-1で勝利し、2回戦で[[パナシナイコスFC]](ギリシャ)に2試合合計8-1で勝利し、準々決勝ではミヤトヴィッチ擁する[[FKパルチザン・ベオグラード]](ユーゴスラビア)に2試合合計4-1で勝利したが、準決勝で[[RSCアンデルレヒト]](ベルギー)に2試合合計0-2で敗れた。同シーズンには13回目のリーグ優勝を果たし、クパ・ロムニエイでは決勝でステアウアを6-4で破って優勝。国内2冠を達成した。1990-91シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦で[[セント・パトリック・アスレティックFC]](アイルランド)に勝利したが、2回戦で[[FCポルト]](ポルトガル)に敗れた。1991-92シーズンのUEFAカップ1回戦では[[ルイス・フィーゴ]]擁する[[スポルティング・リスボン|スポルティングCP]]に勝利したが、2回戦で[[ジェノアCFC]](イタリア)に敗れた。同シーズンのリーグ戦では34試合21勝13分で無敗優勝を達成した。

1990年代中盤には国内でも国外でも低迷した。3シーズン連続でUEFAカップに出場したが、1993-94シーズンは[[カリアリ・カルチョ]](イタリア)に、1994-95シーズンは[[トラブゾンスポル]](トルコ)に、1995-96シーズンは[[レフスキ・ソフィア]](ブルガリア)に、いずれも予選1回戦で敗れた。この時期には[[カタリン・ヒルダン]]、[[フローレンティン・ペトレ]]、[[コスミン・コントラ]]などが加入し、[[アドリアン・ミハルチェア]]や[[ジアニ・キリツァ]]などがいたルーマニア代表組からは[[フロリン・プルネア]]が離脱した。1998-99シーズンにはリーグ最高のプレーを見せるクラブと称賛されたが、タイトル争いでは[[ラピド・ブカレスト]]に敗れた。1990年代終盤には再び優勝争いに顔を見せるようになり、暗黒期を脱した。

=== 2000年代 ===
[[File:20aug0034.jpg|thumb|right|300px|ポリテフニカ・ラシ戦でのディナモサポーター]]

1999-00シーズンのUEFAカップ・1回戦では[[SLベンフィカ]](ポルトガル)と対戦し、[[エスタディオ・ダ・ルス]]でのファーストレグには1-0で勝利を収めたが、ブカレストのセカンドレグには0-2で敗れて敗退した。1999年夏には主力選手の多くを売却し、1999-2000シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ]]では予選2回戦で[[ポロニア・ワルシャワ]](ポーランド)に敗れた。しかし、リーグ戦では(前半戦のみ)[[アドリアン・ムトゥ]]を擁して8シーズンぶりの優勝を果たした。2000-01シーズンのリーグ戦ではステアウアに優勝をさらわれたが、2001-02シーズンにはタイトルを奪還した。同シーズンのUEFAカップでは予選で[[ディナモ・ティラナ]](アルバニア)を破ったが、本選1回戦で[[グラスホッパー・チューリッヒ]](スイス)に敗れた。2002年には再び多くの選手の売却を余儀なくされ、2002-03シーズンの成績に大きく影響した。中盤戦までは2位や3位につけていたが、7連敗を喫して9位まで落ち込んだこともあり、最終的には6位に終わった。UEFAチャンピオンズリーグでは予選2回戦で[[クラブ・ブルッヘ]](ベルギー)に敗れた。クパ・ロムニエイでは準決勝で[[FCアストラ・プロイェシュティ]]を、決勝で[[AFCプログレスル・ブカレスト|ナツィオナル・ブカレスト]]を破り、2シーズンぶり10回目の優勝を飾った。2003-04シーズンのUEFAカップ1回戦では[[FCシャフタール・ドネツク]](ウクライナ)に勝利したが、2回戦で[[FCスパルタク・モスクワ]]に敗れた。リーグ戦ではステアウアと熾烈な優勝争いを演じ、僅差で優勝を決めた。クパ・ロムニエイでは決勝で[[オツェルル・ガラツィ]]を下して2連覇を果たした。

2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦では[[マンチェスター・ユナイテッドFC]](イングランド)と対戦し、2試合合計1-5で敗れた<ref>{{cite web |url=http://www.curierulnational.ro/Specializat/2004-08-13/Minunea+a+durat+doar+jumatate+de+ora |title=Minunea a durat doar jumatate de ora |author=Gheorghe Cioranu |year=2004 |publisher=Curierul Național |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。2005-06シーズンのUEFAカップ1回戦では[[エヴァートンFC]](イングランド)を2試合合計5-2で下した<ref>{{cite web |url=http://www.jurnalul.ro/stire-sport/dinamo-everton-5-1-victime-sigure-in-calea-cainilor-37067.html |title=Victime sigure în calea "câinilor" |author=Vicentiu Neagoe |year=2005 |publisher=Jurnalul Naţional |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。グループリーグでは[[オリンピック・マルセイユ]](フランス)、[[PFCレフスキ・ソフィア]](ブルガリア)、[[SCヘーレンフェーン]](オランダ)、[[PFC CSKAモスクワ]](ロシア)と同組となり、前回大会王者のCSKAモスクワに勝利したが、1勝1分2敗のグループ最下位で敗退した。[[スタッド・ヴェロドローム]]で行なわれたマルセイユ戦(1-2)ではロスタイムにオクタヴィアン・チハジャがゴールネットを揺らしたが、すでに試合終了の笛が鳴っていたとしてゴールは認められなかった<ref>{{cite web |url=http://www.9am.ro/stiri-revista-presei/2005-12-15/marseille-dinamo-2-1-dau-vina-pe-arbitru.html |title=Dau vina pe arbitru |author=Vicentiu Neagoe |year=2005 |publisher=9am.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。

2006-07シーズンのUEFAカップ・グループリーグでは[[トッテナム・ホットスパーFC]](イングランド)、[[バイヤー・レバークーゼン]](ドイツ)、[[ベシクタシュJK]](トルコ)、クラブ・ブルッヘと同組となり、2勝1分け1敗の勝ち点4でグループ2位となって決勝トーナメント進出を果たした。久々に欧州カップ戦での年越しを果たしたが、決勝トーナメント1回戦でベンフィカに敗れた。国内の舞台では前半戦を首位で終えると、その後も順調に勝ち点を伸ばし、4試合を残して18回目のリーグ優勝を果たした。最終的には2位に勝ち点13差を付けた<ref>{{cite web |url=http://www.realitatea.net/dinamo-la-al-18-lea-titlu-de-campioana_59773.html |title=Dinamo la al 18-lea titlu de campioană |author=Realitatea TV |year=2007 |publisher=realitatea.net |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでマンチェスター・Uか[[チェルシーFC]](イングランド)が優勝していたら、ディナモに同大会の本選グループリーグ出場権が与えられたが、ミランが優勝したため、ディナモは予選を戦うはめになった<ref>{{cite web |url=http://www.cotidianul.ro/ac_milan_a_retrogradat_o_pe_dinamo_din_liga_campionilor-25511.html |title=AC Milan a retrogradat-o pe Dinamo din Liga Campionilor |author=Daniel Spataru |year=2007 |publisher=Cotidianul |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。予選3回戦では[[SSラツィオ]](イタリア)に敗れ、本選出場権を逃した<ref>{{cite web |url=http://www.hotnews.ro/stiri-arhiva-1035070-dinamo-lazio-1-3-dinamo-rateaza-calificarea-grupele-ligii-campionilor.htm |title=Dinamo ratează calificarea în grupele Ligii Campionilor |author=V.O. |year=2007 |publisher=Hotnews |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。2007-08シーズンは3回も監督が交代する激動のシーズンとなり、4位に終わった。

2008年夏、[[ミルチェア・レドニク]]が監督に復帰。2008-09シーズンはリーグ優勝とUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得が目標であり、シーズン前半戦を首位で終えたが、最終的には3位に終わった。2009-10シーズンの[[UEFAヨーロッパリーグ]]では、プレーオフで[[FCスロヴァン・リベレツ]](チェコ)と対戦した。ホームで行なわれたファーストレグでは、スロヴァンが2-0とリードした88分にディナモのサポーターがピッチ内に乱入したために試合が中断された<ref>{{cite web |url=http://www.mediafax.ro/sport/dinamo-slovan-liberec-intrerupt-in-minutul-88-din-cauza-incidentelor-galerie-foto-4788614 |title=Dinamo - Slovan Liberec, întrerupt în minutul 88 |author= Mediafax |year=2009 |publisher= mediafax.ro |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。試合後、[[欧州サッカー連盟]](UEFA)の管理規律委員会はスロヴァンの3-0勝利という裁定を下した<ref>{{cite web |url=http://www.gsp.ro/international/europa-league/verdictul-uefa-pentru-dinamo-meci-pierdut-cu-slovan-3-0-3-etape-cu-portile-inchise-si-50-000-de-euro-amenda-152625.html |title=Verdictul UEFA pentru Dinamo |author=Gazeta Sporturilor |year=2009 |publisher=gsp.ro|language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。1週間後にリベレツで行なわれたセカンドレグでは、アウェーのディナモが3-0で勝利し、延長戦でも決着がつかなかった。試合の行方はPK戦に持ち込まれたが、10人ずつが蹴ったPK戦に9-8で勝利したディナモが劇的な勝ち上がりを決めた<ref>{{cite web |url=http://www.sport365.ro/Cornel_Dinu___Vom_ramane_in_istorie_-n105171.html |title=Vom ramane in istorie |author=Dan Alexandru |year=2009 |publisher=sport365.ro|language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。同シーズンのリーグ戦では6位という結果に終わった。

2010-11シーズンのリーグ戦は6位に終わった。同シーズンのクパ・ロムニエイでは決勝に進出したが、ステアウアとの決勝ではオウンゴールが決勝点となって敗れた。2011夏にはかつてディナモでプレーした[[リヴィウ・チョボタリウ]]監督が就任し、[[ガブリエル・トルジェ]]が[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[ウディネーゼ・カルチョ]]に移籍した。UEFAヨーロッパリーグプレーオフでは[[FCヴォルスクラ・ポルタヴァ]]に敗れたが、10節終了後には最多得点・最少失点で首位に位置した。年明けの時点でも[[CFRクルジュ]]に勝ち点1差で首位に立っており、3月3日、ディナモのホームゲームとしては初めて[[スタディオヌル・ナツィオナル]]で行なわれた[[ガスメタン・メディアシュ]]戦には2-0で勝利した。しかし、ディナモは春に大きく調子を落とし、34試合で勝ち点62の5位に終わった。クパ・ロムニエイでは決勝でラピドを破り、7年ぶりの優勝を飾った。2012年夏には[[スーペルクパ・ロムニエイ]]でCFRクルジュと対戦し、7年ぶり2度目の優勝を飾った。

== 文化 ==
=== スタジアム ===
[[File:Dinamo stadium.JPG|thumb|right|300px|ディナモ・スタジアムのメインゲート]]

特別に重要試合は[[スタディオヌル・ナツィオナル|アレーナ・ナツィオナラ]](かつては[[スタディオヌル・ナツィオナル|スタディオヌル・リア・マノリウ]])で行なっているが、ホームスタジアムは[[ディナモ・スタジアム (ブカレスト)|スタディオヌル・ディナモ]]である。1951年に建設され、[[ロコモティーヴァ・ティミショアラ]]戦が初試合となった。完成当初は16,000人収容だったが、立見区域への座席の設置などで15,032人まで収容人数が減少した。このスタジアムは大型複合施設の一部であり、ディナモIIと呼ばれるBチームが使用するスタディオヌル・フロレア・ドゥミトラチェ、体育館、プールなども内部に存在する。

一般のスタジアムのように地上にスタンドを組み上げるのではなく、地面を掘り起こしてスタンドを設置する方法で建設されたため、スタジアムはグロアパ(穴ぐら)というニックネームで呼ばれている。ペルーサ・カタリン・ヒルダン(略称:PCH)<ref group="注釈">「カタリン・ヒルダン兵団」という意味であり、北スタンドの名称やサポーター全体の呼称として使用される。[[カタリン・ヒルダン]]は24歳で死去したディナモの元選手。</ref>と呼ばれるサポーターグループは北スタンドに陣取る。

=== サポーター ===
ルーマニアでもっとも人気のあるサッカークラブは[[FCステアウア・ブカレスト]]である。ディナモはサッカーファン全体の16.3%が応援しており、[[FCウニベルシタテア・クライオヴァ]]と並んでルーマニアで2番目に人気があるサッカークラブである<ref>{{cite web |url=http://www.onlinesport.ro/stiri/fotbal/fotbal-intern/liga-1/54697/studiu-44-din-microbisti-sunt-stelisti.htm |title=Studiu: 44% din microbisti sunt stelisti |author=OnlineSport |year=2009 |publisher=onlinesport.ro|language=Romanian|accessdate=2013-05-11}}</ref>。ディナモのファンはブカレストの北東部に多いが、ブカレスト以外のルーマニア国内や国外にも多くのファンが存在する。

ディナモのウルトラスの起源は、1995年にドラクーラ(Dracula、吸血鬼)やラムス・パンテリモン(Rams Pantelimon)などのグループが北側スタンドに現れたことによる。1996年、忠誠心の高い若者によってNuova Guardia(ヌオヴァ・グァルディア、新卒衛兵)というグループが組織され、ディナモのみならずルーマニアサッカー界全体でもっとも大きなウルトラスとなった<ref>{{cite web |url=http://agmdinamo48.blogspot.com/2008/08/la-multi-aninuova-guardia.html |title=La multi ani Nuova Guardia |author=A.G.M.Dinamo |year=2009 |publisher=agmdinamo48.blogspot.com |language=Romanian|accessdate=2013-05-11}}</ref>。2000年に[[カタリン・ヒルダン]]が死去すると、サポーターは北側スタンドをペルーサ・カタリン・ヒルダン(カタリン・ヒルダン兵団)と呼ぶようになった。サポーターの大部分は北側スタンドに陣取るが、南側スタンドに移転した派閥もある。

クラブ創設以来、ディナモのクラブカラーは赤色と白色である。現在のエンブレムには、ヌンヴェイラー兄弟<ref group="注釈">ヌンヴェイラー家はルーマニアで有名なスポーツ一家であり、三男のイオン、四男のリカ、六男のラドゥがディナモとルーマニア代表それぞれでプレーしている。</ref>と呼ばれる2匹の赤い犬が刻み込まれている。

=== ライバル ===
[[File:Dinamo-steauaPicture109.jpg|thumb|right|300px|ホームでのステアウア戦]]

ディナモの最大のライバルは[[FCステアウア・ブカレスト]]であり、両クラブはルーマニアでもっとも大きな成功を収めている。両クラブの対戦は[[エテルヌル・デルビー]](エターナル・ダービー、永遠のダービー<ref group="注釈">エターナル・ダービーと呼ばれるダービーは多くの国に存在する。ブルガリア([[レフスキ・ソフィア]]対[[CSKAソフィア]])、クロアチア([[ディナモ・ザグレブ]]対[[ハイデュク・スプリト]])、ギリシャ([[オリンピアコスFC]]対[[パナシナイコスFC]])、マケドニア共和国([[ヴァルダル・スコピエ]]対[[ペリステル・ビトラ]])、セルビア([[レッドスター・ベオグラード]]対[[パルチザン・ベオグラード]])、スロベニア([[オリンピア・リュブリャナ]]対[[NKマリボル]])などである。</ref>)と呼ばれ、ルーマニア最大のダービーマッチである。ダービーの際には両クラブのサポーターがスタジアム内外で衝突する。1997年に[[スタディオヌル・ゲンチェア]]で行なわれたダービーでは、アウェーのディナモサポーターがスタジアムの一区画に放火した事件が起こった<ref>{{cite web |url=http://www.ziare.com/sport/fotbal-intern/05-10-2009/dinamovistii-sarbatoresc-12-ani-de-la-incendierea-peluzei-din-ghencea-746504 |title=Dinamovistii sarbatoresc 12 ani de la incendierea peluzei din Ghencea |author=Ziare.com |year=2009 |publisher=ziare.com |language=Romanian|accessdate=2013-05-11}}</ref>。

ステアウアの他には、[[ウニヴェルシタテア・クライオヴァ|FCウニヴェルシタテア・クライオヴァ]]、[[FCラピド・ブカレスト]]にもライバル意識を抱いている。[[FCペトロルゥル・プロイェシュティ]]、[[FCファルル・コンスタンツァ]]、[[FCアルジェ・ピテシュティ]]、[[FCUポリテフニカ・ティミショアラ]]のファンはディナモをライバルとみなしているが、ディナモのファンは彼らに特別な感情を抱いていない。ディナモはかつてルーマニア共産党を象徴するクラブだったことから、ルーマニアサッカー界の悪役的存在であり、ブカレスト以外の地域にもファンが多数存在する。

=== 下部組織 ===
下部組織は年齢別に9のカテゴリーに分けられており、9歳から18歳までの選手約180人が所属している。すべてのカテゴリーはブカレストサッカー協会またはルーマニアサッカー連盟が管轄する大会に参加している。拠点組織としてディナモ・スポーツセンターがあり、センターの敷地内にはいくつものグラウンドがある<ref>{{cite web |url=http://www.fcdinamo.ro/web/guest/stire/-/journal_content/56_INSTANCE_A2uS/10128/1446583 |title=CENTRUL DE COPII SI JUNIORI. Viitorul fotbalului dinamovist |author=fcdinamo.ro |publisher=FCディナモ・ブカレスト公式サイト |language=Romanian |accessdate=2013-04-29}}</ref>。

=== 欠番 ===
* <big>'''11'''</big> {{flagicon|ROM}} [[カタリン・ヒルダン]]
: 1994年にディナモからデビューしたミッドフィールダー。2000年10月5日に行なわれた[[FCオルテニツァ]]との試合中に心停止を起こして倒れ、そのまま死去した。ディナモ・スタジアムの北スタンドは「カタリン・ヒルダン・スタンド」と命名されている。ディナモのファンには「最高のキャプテン」(The Only Captain)と称され、すべての試合でヒルダンを称えるチャントが歌われる。


== タイトル ==
== タイトル ==
30行目: 87行目:
:1955, 1961-62, 1962-63, 1963-64, 1964-65, 1970-71, 1972-73, 1974-75, 1976-77, 1981-82, 1982-83, 1983-84, 1989-90, 1991-92, 1999-00, 2001-02, 2003-04, 2006-07
:1955, 1961-62, 1962-63, 1963-64, 1964-65, 1970-71, 1972-73, 1974-75, 1976-77, 1981-82, 1982-83, 1983-84, 1989-90, 1991-92, 1999-00, 2001-02, 2003-04, 2006-07


* '''[[クパ・ロムニエイ|カップ]]:13回'''
* '''[[クパ・ロムニエイ]]:13回'''
: 1958-59, 1963-64, 1967-68, 1981-82, 1983-84, 1985-86, 1989-90, 1999-00, 2000-01, 2002-03, 2003-04, 2004-05, 2011-12
: 1958-59, 1963-64, 1967-68, 1981-82, 1983-84, 1985-86, 1989-90, 1999-00, 2000-01, 2002-03, 2003-04, 2004-05, 2011-12


* '''[[スーペルクパ・ロムニエイ|スーパーカップ]]:2回'''
* '''[[スーペルクパ・ロムニエイ]]:2回'''
: 2004-05, 2011-12
: 2004-05, 2011-12


=== 国際タイトル ===
=== 国際タイトル ===
* '''[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]:0回'''
なし
: 最高位ベスト4 : 1983-84

* '''[[UEFAカップウィナーズカップ]]:0回'''
: 最高位ベスト4 : 1989-90

== 近年の成績 ==
{|class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller"
|-
!rowspan=2|シーズン
!colspan=9|国内リーグ
!rowspan=2|国内カップ
!rowspan=2|欧州カップ
!rowspan=2|備考
|-
!ディビジョン
!試合数
!勝利
!引分
!敗北
!得点
!失点
!勝ち点
!順位
|-
!2001-02
|[[リーガ1|ディヴィジアA]]
|30
|17
|9
|4
|63
|33
|'''60'''
| bgcolor=gold|優勝
|準優勝
|align="left"|[[UEFAカップ]]1回戦敗退
| bgcolor=silver| [[スーペルクパ・ロムニエイ|スーペルクパ]]準優勝
|-
!2002-03
|[[リーガ1|ディヴィジアA]]
|30
|13
|5
|12
|49
|46
|'''44'''
|6位
| bgcolor=gold|優勝
|align="left"|[[UEFAチャンピオンズリーグ|CL]]予選2回戦敗退
| bgcolor=silver| [[スーペルクパ・ロムニエイ|スーペルクパ]]準優勝
|-
!2003-04
|[[リーガ1|ディヴィジアA]]
|30
|22
|4
|4
|71
|30
|'''70'''
| bgcolor=gold|優勝
| bgcolor=gold|優勝
|align="left"|[[UEFAカップ]]2回戦敗退
| bgcolor=silver| [[スーペルクパ・ロムニエイ|スーペルクパ]]準優勝
|-
!2004-05
|[[リーガ1|ディヴィジアA]]
|30
|20
|2
|8
|60
|30
|'''62'''
| bgcolor=silver| 2位
| bgcolor=gold|優勝
|align="left"|[[UEFAチャンピオンズリーグ|CL]]予選3回戦敗退<br />[[UEFAカップ]]1回戦敗退
| bgcolor=gold| [[スーペルクパ・ロムニエイ|スーペルクパ]]優勝
|-
!2005-06
|[[リーガ1|ディヴィジアA]]
|30
|17
|5
|8
|56
|32
|'''56'''
| bgcolor="#ac6b25"|3位
|ベスト16
|align="left"|[[UEFAカップ]]グループリーグ敗退
|
|-
!2006-07
|[[リーガ1]]
|34
|23
|8
|3
|63
|24
|'''77'''
| bgcolor=gold|優勝
|ベスト16
|align="left"|[[UEFAカップ]]決勝トーナメント1回戦敗退
|
|-
!2007-08
|[[リーガ1]]
|34
|17
|10
|7
|55
|36
|'''61'''
|4位
|ベスト8
|align="left"|[[UEFAチャンピオンズリーグ|CL]]予選3回戦敗退<br />[[UEFAカップ]]1回戦敗退
| bgcolor=silver| [[スーペルクパ・ロムニエイ|スーペルクパ]]準優勝
|-
!2008-09
|[[リーガ1]]
|34
|20
|5
|9
|56
|30
|'''65'''
| bgcolor="#ac6b25"|3位
| bgcolor="#ac6b25"|ベスト4
|align="left"|[[UEFAカップ]]1回戦敗退
|
|-
!2009-10
|[[リーガ1]]
|34
|13
|14
|7
|48
|37
|'''53'''
|6位
| bgcolor="#ac6b25"|ベスト4
|align="left"|[[UEFAヨーロッパリーグ|EL]]グループリーグ敗退
|
|-
!2010-11
|[[リーガ1]]
|34
|16
|8
|10
|68
|52
|'''56'''
|6位
| bgcolor=silver|準優勝
|align="left"|[[UEFAヨーロッパリーグ|EL]]予選3回戦敗退
|
|-
!2011-12
|[[リーガ1]]
|34
|18
|8
|8
|57
|32
|'''62'''
|5位
| bgcolor=gold|優勝
|align="left"|[[UEFAヨーロッパリーグ|EL]]プレーオフ敗退
|
|}

== 記録 ==
=== 国内リーグ ===
* '''最長連勝記録'''
: 17試合(1988年6月12日-1988年11月27日)
* '''最長不敗記録'''
: 47試合(1991年5月26日-1992年9月20日)
* '''最多出場者'''
: {{flagicon|ROM}} [[コルネル・ディヌ]] (454試合)
* '''最多得点者'''
: {{flagicon|ROM}} [[ドゥドゥ・ゲオルゲスク]] (207試合)

=== 欧州カップ ===
* '''ホームでの最大得点差勝利'''
: 11-0(1973-74シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]、{{flagicon|Northern Ireland}} [[クルセイダーズFC]]戦)<ref group="注釈">大会記録でもある。</ref>
* '''アウェーでの最大得点差勝利'''
: 9-0(1979-80シーズンの[[UEFAカップ]]、{{flagicon|CYP}} [[アルキ・ラルナカ]]戦)
* '''ホームでの最大得点差敗北'''
: 0-3(1971-72シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]、{{flagicon|NED}} [[フェイエノールト]]戦)(2009-10シーズンの[[UEFAヨーロッパリーグ]]、{{flagicon|TUR}} [[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライSK]]戦)
* '''アウェーでの最大得点差敗北'''
: 1-8(1956-57シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]、{{flagicon|BUL}} [[PFC CSKAソフィア]]戦)


== 過去成績 ==
==== 欧州カップ戦で記録 ====
{| class="wikitable"
* 2001-2002 [[リーガ1]] '''優勝'''
|-
* 2002-2003 リーガ1 6位
!大会!!シーズン!!試合数!!勝利!!引分!!敗北!!得点!!失点!!点差
* 2003-2004 リーガ1 '''優勝'''
|-
* 2004-2005 リーガ1 2位
| [[UEFAチャンピオンズリーグ]]<br />([[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]])
* 2005-2006 リーガ1 3位
|18||66||24||10||32||96||106||– 10
* 2006-2007 リーガ1 '''優勝'''
|-
* 2007-2008 リーガ1 4位
| [[UEFAカップウィナーズカップ]]
* 2008-2009 リーガ1 3位
|5||20||8||4||8||25||18||+ 7
* 2009-2010 リーガ1 6位
|-
* 2010-2011 リーガ1 6位
| [[UEFAヨーロッパリーグ]]<br />([[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]])
* 2011-2012 リーガ1 5位
|22||88||37||13||38||146||123||+ 23
|-
| [[UEFAインタートトカップ]]
|1||4||1||0||3||4||6||– 2
|-
|-class="sortbottom"
! 通算 || 46 || 178 || 70 || 27 || 81 || 271 || 253 || + 18
|}


== 現所属メンバー ==
== 現所属メンバー ==
85行目: 349行目:


== 歴代監督 ==
== 歴代監督 ==
ディナモでもっとも有名な監督はアンジェロ・ニクレスクである。ニクレスク監督は1955年の国内リーグ初優勝時の監督であり、1964-65シーズンにもリーグ戦を制した。ニコラエ・ニクソル・ドゥミトル監督は、1961-62シーズン、1963-64シーズン、1970-71シーズン、1974-75シーズン、1982-83シーズン、1983-84シーズンの計6回の優勝を監督として経験しており、1983-84シーズンの[[UEFAチャンピオンズカップ]]では準決勝に到達した。イオン・ヌンヴェイラー監督は1972-73シーズンと1976-77シーズンのリーグ優勝時の監督である。

[[ミルチェア・ルチェスク]]監督は5年間の在任期間中にクパ・ロムニエイで2回、国内リーグで1回優勝。1988-89シーズンの[[UEFAカップウィナーズカップ]]では準々決勝に進出し、1989-90シーズンの同大会では準決勝に進出した。選手としてディナモのレジェンドの地位にあるコルネル・ディヌは1996年と1998年に監督に就任し、1999-2000シーズンに国内リーグを、2000-01シーズンにクパ・ロムニエイを制した。

{{表2列|
* {{flagicon|ROM}} [[ミルチェア・ルチェスク]] 1985-90
* {{flagicon|ROM}} [[ミルチェア・ルチェスク]] 1985-90
* {{flagicon|ROM}} [[イオン・モルドヴァン]] 1994
* {{flagicon|ROM}} [[イオン・モルドヴァン]] 1994
* {{flagicon|ROM}} [[コルネル・ディヌ]] 1996
* {{flagicon|ROM}} [[コルネル・ディヌ]] 1996
* {{flagicon|ROM}} [[コルネル・ツァルナル]] 1996-97
* {{flagicon|ROM}} [[コルネル・ツァルナル]] 1996-97
* {{flagicon|ROM}} コルネル・ディヌ 1998-2001
* {{flagicon|ROM}} コルネル・ディヌ 1998-2001
* {{flagicon|ROM}} [[マリン・イオン]] 2001-2002
* {{flagicon|ROM}} [[マリン・イオン]] 2001-2002
* {{flagicon|ROM}} イオン・モルドヴァン 2002
* {{flagicon|ROM}} イオン・モルドヴァン 2002
97行目: 366行目:
* {{flagicon|ROM}} [[ミルチェア・レドニク]] 2006-2007
* {{flagicon|ROM}} [[ミルチェア・レドニク]] 2006-2007
* {{flagicon|ITA}} [[ワルテル・ゼンガ]] 2007
* {{flagicon|ITA}} [[ワルテル・ゼンガ]] 2007
|
* {{flagicon|ROM}} コルネル・ツァルナル 2007
* {{flagicon|ROM}} コルネル・ツァルナル 2007
* {{flagicon|ROM}} [[ゲオルゲ・ムルツェスク]] 2008
* {{flagicon|ROM}} [[ゲオルゲ・ムルツェスク]] 2008
* {{flagicon|ROM}} ミルチェア・レドニク 2008-2009
* {{flagicon|ROM}} ミルチェア・レドニク 2008-2009
* {{flagicon|ITA}} [[ダリオ・ボネッティ]] 2009.6-10 ,2012.4-11
* {{flagicon|ITA}} [[ダリオ・ボネッティ]] 2009.6-10
* {{flagicon|ROM}} マリン・イオン 2009
* {{flagicon|ROM}} マリン・イオン 2009
* {{flagicon|ROM}} コルネル・ツァルナル 2009.10-2010.5 ,2012.12-
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== 歴代所属選手 ==
== 歴代所属選手 ==
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=== FW ===
=== FW ===
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 脚注 ===
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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*[http://www.istoriafotbalului.go.ro/istoria-echipei-dinamo-bucuresti.html The history of Dinamo Bucharest] {{ro icon}}
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2013年5月13日 (月) 10:40時点における版

FCディナモ・ブカレスト
原語表記 FC Dinamo Bucureşti
愛称 Câinii roșii(赤い犬)
Alb-roșii(白と赤)
FCDB
クラブカラー
創設年 1948年
所属リーグ ルーマニア・サッカーリーグ
所属ディビジョン リーガ1
ホームタウン ブカレスト
ホームスタジアム スタディオヌル・ディナモ
収容人数 15,032
代表者 Ionuț Negoiță[1]
監督 ルーマニアの旗 コルネル・ツァルナル
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

FCディナモ・ブカレストルーマニア語発音: [diˈnamo bukuˈreʃtʲ], Fotbal Club Dinamo București)は、ルーマニアブカレストを本拠地とするサッカークラブチーム。リーガ1で18回、クパ・ロムニエイで13回、スーペルクパ・ロムニエイで2回優勝しており、FCステアウア・ブカレストと並んでルーマニアでもっとも成功を収めた2クラブのひとつである。

1948年に設立され、それ以来すべてのシーズンをリーガ1で過ごしている。伝統的にホームユニフォームは全身赤色であり、現在のエンブレムは1998年に修正された版である。1951年から、ブカレスト市内中心部にあるスタディオヌル・ディナモをホームスタジアムとしている。1983-84シーズンのUEFAチャンピオンズカップではベスト4となり、同大会で準決勝に進出したルーマニア初のクラブとなった。最大のライバルはステアウアであり、両クラブの対戦はエテルヌル・デルビー(エターナル・ダービー、永遠のダービー)と呼ばれる。

歴史

黎明期

1948年5月14日、ウニレア・トリコロールMAIがチオカヌル・ブカレストと合併し、ディナモ・ブカレストという名称の総合スポーツクラブが創設された。ウニレア・トリコロールMAIは1948年1月に設立されていた、共産主義政権の庇護の下にあったクラブである。ディナモ・ブカレストもルーマニア共産党を象徴するスポーツクラブとなり、体制側のクラブという側面が常に付きまとった [2]。1947-48シーズンのリーグ戦が終わるまでは、チオカヌルがディナモA、ウニレア・トリコロールがディナモBという扱いだったが、ウニレア・トリコロールはシーズン終了後にディヴィジアB(2部)降格となった。両チームはディナモのAチーム、Bチームとして共存していたが、1950年シーズン開幕時にはディナモAがディナモBから分割され、ディナモBはまずブラショフに、次にクルジュ=ナポカに、結局は1958年にバカウに移転し、FCMバカウとなった[3]

1948年7月14日、Zidnice(チェコスロバキア)と初の国際試合を戦い、4-1で勝利した。1948-49シーズンには(ディナモAが)ディナモという名称で初めてリーガ1(1部)に参戦。コロマン・ブラウン=ボグダン監督がチームを率い、ティトゥス・オゾン[注釈 1]などの選手たちがプレーした。1948-49シーズン終了後にはアンジェロ・ニクレスクが現役引退。指導者に転身し、後にディナモやルーマニア代表の監督を務めている。1950年にはドゥミトル・ニコラが加入。1951年10月14日には現在のディナモ・スタジアムがオープンし、ディナモ=ロコモティーヴァ・ティミショアラとの間で行なわれた落成記念試合に1-0で勝利した[4]。1951年シーズンから1953年シーズン[注釈 2]までの3シーズンは、いずれもCCAブカレスト(現在のステアウア)に次ぐ2位でシーズンを終えた。1953年のクパ・ロムニエイでは決勝に進出したが、メタルル・レシツァに0-2で敗れた。ニクレスク監督が率いた1955年シーズンには、アレグザンドレ・エネ[注釈 3]などの攻撃陣による攻撃サッカーで強い印象を与え、リーガ1初優勝を飾った。守備陣にはバクト、スゾコ、カリノユなどがおり、リーグ最少の19失点に抑えた[5]。1956-57シーズンには初めてUEFAチャンピオンズカップに出場。ルーマニアで初めて国際大会に出場したクラブとなった。予選ではガラタサライSK(トルコ)と対戦。32,000人の観客が詰めかけたホームでのファーストレグには3-1で勝利し、イスタンブルでのセカンドレグには1-2で敗れたものの、2試合合計4-3で勝ち上がりを決めた。1回戦ではCDNAソフィア(ブルガリア)と対戦し、2試合合計4-10で敗れて敗退した。

1960年代と1970年代

1961-62シーズンのチームにはイリエ・ダトク、ステファン、ウングロユなどが在籍しており、ニクショル・ドゥミトル・ネデレスク監督の下で 2回目のリーグ優勝を飾った。1962-63シーズンにはリーグ戦2連覇を果たした。1963-64シーズンにはクパ・ロムニエイで決勝に進出し、ライバルのステアウア・ブカレストを5-3で下して2回目の優勝を飾った。UEFAチャンピオンズカップではアルフレッド・ディ・ステファノ擁するレアル・マドリード(スペイン)と対戦。ブカレストのスタディオヌル・リア・マノリウで行なわれた試合にはスタジアム記録となる100,000人もの観客を集めた[6]。1964-65シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは「グランデ・インテル」と呼ばれたインテル(イタリア)と対戦し、ルイス・スアレスジャチント・ファッケッティサンドロ・マッツォーラなどと対面したが、2試合合計0-7で完敗した。同シーズンのリーグ戦では4連覇を果たした。1965年にはミルチェア・ルチェスクなどを獲得し、UEFAチャンピオンズカップでは2シーズン連続でインテルと顔を合わせたが、ホームゲームでは2-1で勝利するなど善戦した。

1970-71シーズンには6回目のリーグ優勝を飾った。UEFAチャンピオンズカップでは1回戦でFCスパルタク・トルナヴァ(スロベニア)を下したが、2回戦でフェイエノールト(オランダ)に敗れた。1972-73シーズンにはFCウニヴェルシタテア・クライオヴァなどを突き放し、7回目のリーグ優勝を果たした[7]。1973-74シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、1回戦でクルセイダーズFC(北アイルランド)を2試合合計12-0で破った。ホームで行なわれたセカンドレグでは11点差(11-0)の勝利を記録し、同大会におけるクラブ史上最大得点差記録として現在も残っている。2回戦ではハビエル・イルレタなどを擁するアトレティコ・マドリード(スペイン)と対戦し、2試合合計2-4で敗れた。1974-75シーズンはUEFAカップに出場し、1回戦でボルスポル(トルコ)を退けたが、2回戦で1.FCケルン(西ドイツ)に2試合合計3-4で敗れた。1974-75シーズンには8回目のリーグ優勝を果たし、32得点を挙げたドゥドゥ・ゲオルゲスクヨーロッパ・ゴールデンシュー(ヨーロッパ全体の得点王)に輝いた。1976-77シーズンのUEFAカップでは1回戦でファビオ・カペッロなどが在籍していたACミラン(イタリア)と対戦し、2試合合計1-2と健闘した。1976-77シーズンには9回目のリーグ優勝を果たし、47得点を挙げたゲオルゲスクが2度目のヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた[8]。1977-78シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でアトレティコ・マドリードと対戦し、ホームで行なわれたファーストレグには2-1で勝利したが、アウェーでは0-2で敗れ、2試合合計2-3で敗退となった。1979-80シーズンのUEFAカップ1回戦ではアルキ・ラルナカFC(キプロス)を2試合合計12-0で下し、2回戦ではブルーノ・ペッツァイなどが牽引したアイントラハト・フランクフルト(西ドイツ)と対戦。ファーストレグに2-0で勝利したが、セカンドレグに0-3で敗れて敗退した[9]

1980年代

1981-82シーズンのUEFAカップ・1回戦ではPFCレフスキ・ソフィア(ブルガリア)と対戦し、2試合合計4-2で勝利した。2回戦では17年ぶりにインテルと対戦し、クラブ史に残る勝利を挙げた。インテルにはアレッサンドロ・アルトベッリジュゼッペ・バレージガブリオレ・オリアリヘルベルト・プロハスカなどの名選手が在籍していたが、ミラノでのファーストレグは1-1の引き分けに持ち込み、ブカレストでのセカンドレグはロスタイムの得点により3-2で勝利。2試合合計4-3とし、西欧の強豪を破って3回戦進出を決めた[10]。3回戦ではIFKヨーテボリ(スウェーデン)と対戦し、後に優勝するクラブ相手に敗れた。同シーズンには10回目のリーグ優勝を飾った。1982-83シーズンには5シーズンぶりにUEFAチャンピオンズカップに出場し、予選と1回戦でヴァレレンガIF(ノルウェー)とドゥクラ・プラハ(オーストリア)を破ったが、2回戦でアストン・ヴィラFC(イングランド)に敗れた。国内リーグでは2連覇を達成した。1983年には国内リーグと国内カップでそれぞれ6回の優勝を果たしたコルネル・ディヌが引退。ディヌはルーマニア代表として75試合に出場し、ディナモでは通算454試合に出場した。1983-84シーズンには国内リーグ3連覇を果たし、欧州の舞台でも躍進を遂げた。UEFAチャンピオンズカップでは1回戦でFCクーシシ・ラハティ(フィンランド)を破り、2回戦でハンブルガーSV(西ドイツ)と対戦。ハンブルガーSVは前回大会王者であり、ヴィリ・シュルツフェリックス・マガトなどを擁していた。ブカレストでのファーストレグには3-0で勝利し[11][12]、セカンドレグは2-3で敗れたが、2試合合計5-3で準々決勝に進出。準決勝ではFCディナモ・ミンスク(ソビエト連邦)を2試合合計2-1で破り、ルーマニアのクラブとして初めて同大会の準決勝進出を決めた[13]。準決勝ではイアン・ラッシュ擁するリヴァプールFC(イングランド)と対戦し、2試合合計1-3で敗れて敗退した。1984-85シーズンの同大会では1回戦でオモニア・ニコシア(キプロス)に勝利したが、ジャン・ティガナベルナール・ラコンブが在籍していたFCジロンダン・ボルドー(フランス)に敗れた。1985-86シーズンのクパ・ロムニエイでは決勝でステアウアを1-0で破って優勝した。1985-86シーズンには18年ぶりにUEFAカップウィナーズカップに出場。1986-87シーズンにはリーグ戦で44得点を挙げたロディオン・カマタルがヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた。1987-88シーズンのクパ・ロムニエイ決勝ではステアウアと対戦したが、ステアウアの選手たちが判定への抗議の意味で試合途中にピッチを去ったため、ディナモにトロフィーが与えられた。しかし、後にルーマニアサッカー連盟はステアウアが2-1で勝利したという裁定を下している。1989年12月のルーマニア革命後、ステアウアはディナモにトロフィーを返還する提案を行なったが、ディナモは受け取ることを拒否した。1988-89シーズンのUEFAカップウィナーズカップではラハティとダンディー・ユナイテッドFC(スコットランド)を下したが、UCサンプドリア(イタリア)にアウェーゴール差で敗れた。

1990年代

1960年代から1970年代にディナモでプレーしたルチェスク監督が指揮を執った1989-90シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは、1回戦でディナモ・ティラナ(アルバニア)に2試合合計2-1で勝利し、2回戦でパナシナイコスFC(ギリシャ)に2試合合計8-1で勝利し、準々決勝ではミヤトヴィッチ擁するFKパルチザン・ベオグラード(ユーゴスラビア)に2試合合計4-1で勝利したが、準決勝でRSCアンデルレヒト(ベルギー)に2試合合計0-2で敗れた。同シーズンには13回目のリーグ優勝を果たし、クパ・ロムニエイでは決勝でステアウアを6-4で破って優勝。国内2冠を達成した。1990-91シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でセント・パトリック・アスレティックFC(アイルランド)に勝利したが、2回戦でFCポルト(ポルトガル)に敗れた。1991-92シーズンのUEFAカップ1回戦ではルイス・フィーゴ擁するスポルティングCPに勝利したが、2回戦でジェノアCFC(イタリア)に敗れた。同シーズンのリーグ戦では34試合21勝13分で無敗優勝を達成した。

1990年代中盤には国内でも国外でも低迷した。3シーズン連続でUEFAカップに出場したが、1993-94シーズンはカリアリ・カルチョ(イタリア)に、1994-95シーズンはトラブゾンスポル(トルコ)に、1995-96シーズンはレフスキ・ソフィア(ブルガリア)に、いずれも予選1回戦で敗れた。この時期にはカタリン・ヒルダンフローレンティン・ペトレコスミン・コントラなどが加入し、アドリアン・ミハルチェアジアニ・キリツァなどがいたルーマニア代表組からはフロリン・プルネアが離脱した。1998-99シーズンにはリーグ最高のプレーを見せるクラブと称賛されたが、タイトル争いではラピド・ブカレストに敗れた。1990年代終盤には再び優勝争いに顔を見せるようになり、暗黒期を脱した。

2000年代

ポリテフニカ・ラシ戦でのディナモサポーター

1999-00シーズンのUEFAカップ・1回戦ではSLベンフィカ(ポルトガル)と対戦し、エスタディオ・ダ・ルスでのファーストレグには1-0で勝利を収めたが、ブカレストのセカンドレグには0-2で敗れて敗退した。1999年夏には主力選手の多くを売却し、1999-2000シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは予選2回戦でポロニア・ワルシャワ(ポーランド)に敗れた。しかし、リーグ戦では(前半戦のみ)アドリアン・ムトゥを擁して8シーズンぶりの優勝を果たした。2000-01シーズンのリーグ戦ではステアウアに優勝をさらわれたが、2001-02シーズンにはタイトルを奪還した。同シーズンのUEFAカップでは予選でディナモ・ティラナ(アルバニア)を破ったが、本選1回戦でグラスホッパー・チューリッヒ(スイス)に敗れた。2002年には再び多くの選手の売却を余儀なくされ、2002-03シーズンの成績に大きく影響した。中盤戦までは2位や3位につけていたが、7連敗を喫して9位まで落ち込んだこともあり、最終的には6位に終わった。UEFAチャンピオンズリーグでは予選2回戦でクラブ・ブルッヘ(ベルギー)に敗れた。クパ・ロムニエイでは準決勝でFCアストラ・プロイェシュティを、決勝でナツィオナル・ブカレストを破り、2シーズンぶり10回目の優勝を飾った。2003-04シーズンのUEFAカップ1回戦ではFCシャフタール・ドネツク(ウクライナ)に勝利したが、2回戦でFCスパルタク・モスクワに敗れた。リーグ戦ではステアウアと熾烈な優勝争いを演じ、僅差で優勝を決めた。クパ・ロムニエイでは決勝でオツェルル・ガラツィを下して2連覇を果たした。

2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦ではマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)と対戦し、2試合合計1-5で敗れた[14]。2005-06シーズンのUEFAカップ1回戦ではエヴァートンFC(イングランド)を2試合合計5-2で下した[15]。グループリーグではオリンピック・マルセイユ(フランス)、PFCレフスキ・ソフィア(ブルガリア)、SCヘーレンフェーン(オランダ)、PFC CSKAモスクワ(ロシア)と同組となり、前回大会王者のCSKAモスクワに勝利したが、1勝1分2敗のグループ最下位で敗退した。スタッド・ヴェロドロームで行なわれたマルセイユ戦(1-2)ではロスタイムにオクタヴィアン・チハジャがゴールネットを揺らしたが、すでに試合終了の笛が鳴っていたとしてゴールは認められなかった[16]

2006-07シーズンのUEFAカップ・グループリーグではトッテナム・ホットスパーFC(イングランド)、バイヤー・レバークーゼン(ドイツ)、ベシクタシュJK(トルコ)、クラブ・ブルッヘと同組となり、2勝1分け1敗の勝ち点4でグループ2位となって決勝トーナメント進出を果たした。久々に欧州カップ戦での年越しを果たしたが、決勝トーナメント1回戦でベンフィカに敗れた。国内の舞台では前半戦を首位で終えると、その後も順調に勝ち点を伸ばし、4試合を残して18回目のリーグ優勝を果たした。最終的には2位に勝ち点13差を付けた[17]。2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでマンチェスター・UかチェルシーFC(イングランド)が優勝していたら、ディナモに同大会の本選グループリーグ出場権が与えられたが、ミランが優勝したため、ディナモは予選を戦うはめになった[18]。予選3回戦ではSSラツィオ(イタリア)に敗れ、本選出場権を逃した[19]。2007-08シーズンは3回も監督が交代する激動のシーズンとなり、4位に終わった。

2008年夏、ミルチェア・レドニクが監督に復帰。2008-09シーズンはリーグ優勝とUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得が目標であり、シーズン前半戦を首位で終えたが、最終的には3位に終わった。2009-10シーズンのUEFAヨーロッパリーグでは、プレーオフでFCスロヴァン・リベレツ(チェコ)と対戦した。ホームで行なわれたファーストレグでは、スロヴァンが2-0とリードした88分にディナモのサポーターがピッチ内に乱入したために試合が中断された[20]。試合後、欧州サッカー連盟(UEFA)の管理規律委員会はスロヴァンの3-0勝利という裁定を下した[21]。1週間後にリベレツで行なわれたセカンドレグでは、アウェーのディナモが3-0で勝利し、延長戦でも決着がつかなかった。試合の行方はPK戦に持ち込まれたが、10人ずつが蹴ったPK戦に9-8で勝利したディナモが劇的な勝ち上がりを決めた[22]。同シーズンのリーグ戦では6位という結果に終わった。

2010-11シーズンのリーグ戦は6位に終わった。同シーズンのクパ・ロムニエイでは決勝に進出したが、ステアウアとの決勝ではオウンゴールが決勝点となって敗れた。2011夏にはかつてディナモでプレーしたリヴィウ・チョボタリウ監督が就任し、ガブリエル・トルジェセリエAウディネーゼ・カルチョに移籍した。UEFAヨーロッパリーグプレーオフではFCヴォルスクラ・ポルタヴァに敗れたが、10節終了後には最多得点・最少失点で首位に位置した。年明けの時点でもCFRクルジュに勝ち点1差で首位に立っており、3月3日、ディナモのホームゲームとしては初めてスタディオヌル・ナツィオナルで行なわれたガスメタン・メディアシュ戦には2-0で勝利した。しかし、ディナモは春に大きく調子を落とし、34試合で勝ち点62の5位に終わった。クパ・ロムニエイでは決勝でラピドを破り、7年ぶりの優勝を飾った。2012年夏にはスーペルクパ・ロムニエイでCFRクルジュと対戦し、7年ぶり2度目の優勝を飾った。

文化

スタジアム

ディナモ・スタジアムのメインゲート

特別に重要試合はアレーナ・ナツィオナラ(かつてはスタディオヌル・リア・マノリウ)で行なっているが、ホームスタジアムはスタディオヌル・ディナモである。1951年に建設され、ロコモティーヴァ・ティミショアラ戦が初試合となった。完成当初は16,000人収容だったが、立見区域への座席の設置などで15,032人まで収容人数が減少した。このスタジアムは大型複合施設の一部であり、ディナモIIと呼ばれるBチームが使用するスタディオヌル・フロレア・ドゥミトラチェ、体育館、プールなども内部に存在する。

一般のスタジアムのように地上にスタンドを組み上げるのではなく、地面を掘り起こしてスタンドを設置する方法で建設されたため、スタジアムはグロアパ(穴ぐら)というニックネームで呼ばれている。ペルーサ・カタリン・ヒルダン(略称:PCH)[注釈 4]と呼ばれるサポーターグループは北スタンドに陣取る。

サポーター

ルーマニアでもっとも人気のあるサッカークラブはFCステアウア・ブカレストである。ディナモはサッカーファン全体の16.3%が応援しており、FCウニベルシタテア・クライオヴァと並んでルーマニアで2番目に人気があるサッカークラブである[23]。ディナモのファンはブカレストの北東部に多いが、ブカレスト以外のルーマニア国内や国外にも多くのファンが存在する。

ディナモのウルトラスの起源は、1995年にドラクーラ(Dracula、吸血鬼)やラムス・パンテリモン(Rams Pantelimon)などのグループが北側スタンドに現れたことによる。1996年、忠誠心の高い若者によってNuova Guardia(ヌオヴァ・グァルディア、新卒衛兵)というグループが組織され、ディナモのみならずルーマニアサッカー界全体でもっとも大きなウルトラスとなった[24]。2000年にカタリン・ヒルダンが死去すると、サポーターは北側スタンドをペルーサ・カタリン・ヒルダン(カタリン・ヒルダン兵団)と呼ぶようになった。サポーターの大部分は北側スタンドに陣取るが、南側スタンドに移転した派閥もある。

クラブ創設以来、ディナモのクラブカラーは赤色と白色である。現在のエンブレムには、ヌンヴェイラー兄弟[注釈 5]と呼ばれる2匹の赤い犬が刻み込まれている。

ライバル

ホームでのステアウア戦

ディナモの最大のライバルはFCステアウア・ブカレストであり、両クラブはルーマニアでもっとも大きな成功を収めている。両クラブの対戦はエテルヌル・デルビー(エターナル・ダービー、永遠のダービー[注釈 6])と呼ばれ、ルーマニア最大のダービーマッチである。ダービーの際には両クラブのサポーターがスタジアム内外で衝突する。1997年にスタディオヌル・ゲンチェアで行なわれたダービーでは、アウェーのディナモサポーターがスタジアムの一区画に放火した事件が起こった[25]

ステアウアの他には、FCウニヴェルシタテア・クライオヴァFCラピド・ブカレストにもライバル意識を抱いている。FCペトロルゥル・プロイェシュティFCファルル・コンスタンツァFCアルジェ・ピテシュティFCUポリテフニカ・ティミショアラのファンはディナモをライバルとみなしているが、ディナモのファンは彼らに特別な感情を抱いていない。ディナモはかつてルーマニア共産党を象徴するクラブだったことから、ルーマニアサッカー界の悪役的存在であり、ブカレスト以外の地域にもファンが多数存在する。

下部組織

下部組織は年齢別に9のカテゴリーに分けられており、9歳から18歳までの選手約180人が所属している。すべてのカテゴリーはブカレストサッカー協会またはルーマニアサッカー連盟が管轄する大会に参加している。拠点組織としてディナモ・スポーツセンターがあり、センターの敷地内にはいくつものグラウンドがある[26]

欠番

1994年にディナモからデビューしたミッドフィールダー。2000年10月5日に行なわれたFCオルテニツァとの試合中に心停止を起こして倒れ、そのまま死去した。ディナモ・スタジアムの北スタンドは「カタリン・ヒルダン・スタンド」と命名されている。ディナモのファンには「最高のキャプテン」(The Only Captain)と称され、すべての試合でヒルダンを称えるチャントが歌われる。

タイトル

国内タイトル

1955, 1961-62, 1962-63, 1963-64, 1964-65, 1970-71, 1972-73, 1974-75, 1976-77, 1981-82, 1982-83, 1983-84, 1989-90, 1991-92, 1999-00, 2001-02, 2003-04, 2006-07
1958-59, 1963-64, 1967-68, 1981-82, 1983-84, 1985-86, 1989-90, 1999-00, 2000-01, 2002-03, 2003-04, 2004-05, 2011-12
2004-05, 2011-12

国際タイトル

最高位ベスト4 : 1983-84
最高位ベスト4 : 1989-90

近年の成績

シーズン 国内リーグ 国内カップ 欧州カップ 備考
ディビジョン 試合数 勝利 引分 敗北 得点 失点 勝ち点 順位
2001-02 ディヴィジアA 30 17 9 4 63 33 60 優勝 準優勝 UEFAカップ1回戦敗退 スーペルクパ準優勝
2002-03 ディヴィジアA 30 13 5 12 49 46 44 6位 優勝 CL予選2回戦敗退 スーペルクパ準優勝
2003-04 ディヴィジアA 30 22 4 4 71 30 70 優勝 優勝 UEFAカップ2回戦敗退 スーペルクパ準優勝
2004-05 ディヴィジアA 30 20 2 8 60 30 62 2位 優勝 CL予選3回戦敗退
UEFAカップ1回戦敗退
スーペルクパ優勝
2005-06 ディヴィジアA 30 17 5 8 56 32 56 3位 ベスト16 UEFAカップグループリーグ敗退
2006-07 リーガ1 34 23 8 3 63 24 77 優勝 ベスト16 UEFAカップ決勝トーナメント1回戦敗退
2007-08 リーガ1 34 17 10 7 55 36 61 4位 ベスト8 CL予選3回戦敗退
UEFAカップ1回戦敗退
スーペルクパ準優勝
2008-09 リーガ1 34 20 5 9 56 30 65 3位 ベスト4 UEFAカップ1回戦敗退
2009-10 リーガ1 34 13 14 7 48 37 53 6位 ベスト4 ELグループリーグ敗退
2010-11 リーガ1 34 16 8 10 68 52 56 6位 準優勝 EL予選3回戦敗退
2011-12 リーガ1 34 18 8 8 57 32 62 5位 優勝 ELプレーオフ敗退

記録

国内リーグ

  • 最長連勝記録
17試合(1988年6月12日-1988年11月27日)
  • 最長不敗記録
47試合(1991年5月26日-1992年9月20日)
  • 最多出場者
ルーマニアの旗 コルネル・ディヌ (454試合)
  • 最多得点者
ルーマニアの旗 ドゥドゥ・ゲオルゲスク (207試合)

欧州カップ

  • ホームでの最大得点差勝利
11-0(1973-74シーズンのUEFAチャンピオンズカップ北アイルランドの旗 クルセイダーズFC戦)[注釈 7]
  • アウェーでの最大得点差勝利
9-0(1979-80シーズンのUEFAカップキプロスの旗 アルキ・ラルナカ戦)
  • ホームでの最大得点差敗北
0-3(1971-72シーズンのUEFAチャンピオンズカップオランダの旗 フェイエノールト戦)(2009-10シーズンのUEFAヨーロッパリーグトルコの旗 ガラタサライSK戦)
  • アウェーでの最大得点差敗北
1-8(1956-57シーズンのUEFAチャンピオンズカップブルガリアの旗 PFC CSKAソフィア戦)

欧州カップ戦での記録

大会 シーズン 試合数 勝利 引分 敗北 得点 失点 点差
UEFAチャンピオンズリーグ
UEFAチャンピオンズカップ
18 66 24 10 32 96 106 – 10
UEFAカップウィナーズカップ 5 20 8 4 8 25 18 + 7
UEFAヨーロッパリーグ
UEFAカップ
22 88 37 13 38 146 123 + 23
UEFAインタートトカップ 1 4 1 0 3 4 6 – 2
通算 46 178 70 27 81 271 253 + 18

現所属メンバー

2012年8月1日現在

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
2 DF ルーマニア コンスタンティン・ニカ
3 DF ルーマニア クリスティアン・プルハク
4 MF ルーマニア コスミン・マテイ
6 DF ルーマニア クリスティアン・スクタル
7 MF ルーマニア カタリン・ムンテアヌ (主将)
8 MF ブルガリア ボリス・ガルチェフ
10 FW ルーマニア マリウス・アレクセ
12 GK ルーマニア アンドレイ・マニュル
14 MF ルーマニア アリン・ドブロサヴリェヴィチ
15 FW ルーマニア ミルチェア・アクセンテ
17 FW ルーマニア アンドレイ・クリステア
18 MF セネガル イッサ・バ
19 DF セネガル ブバカル・マンサリー
No. Pos. 選手名
20 MF ルーマニア アレクサンドル・クルテアン
21 DF ルーマニア ドラゴシュ・グリゴレ
22 MF ルーマニア ソリン・ストラティラ
23 GK 北マケドニア クリスティジャン・ナウモフスキ
24 DF ルーマニア スルジャン・ルチン
25 FW ルーマニア イオネル・ダンチウレスク
26 MF ルーマニア ラウレンツィウ・ルス
27 MF ホンジュラス エドガル・アルバレス
29 FW ルーマニア ゲオルゲ・ツクデアン
30 DF ブルキナファソ パウル・クリバリ
32 DF ルーマニア ヨヌツ・ブルネア
33 MF ルーマニア ステリアノ・フィリプ
34 GK ルーマニア クリスティアン・バルグラデアン

歴代監督

ディナモでもっとも有名な監督はアンジェロ・ニクレスクである。ニクレスク監督は1955年の国内リーグ初優勝時の監督であり、1964-65シーズンにもリーグ戦を制した。ニコラエ・ニクソル・ドゥミトル監督は、1961-62シーズン、1963-64シーズン、1970-71シーズン、1974-75シーズン、1982-83シーズン、1983-84シーズンの計6回の優勝を監督として経験しており、1983-84シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準決勝に到達した。イオン・ヌンヴェイラー監督は1972-73シーズンと1976-77シーズンのリーグ優勝時の監督である。

ミルチェア・ルチェスク監督は5年間の在任期間中にクパ・ロムニエイで2回、国内リーグで1回優勝。1988-89シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは準々決勝に進出し、1989-90シーズンの同大会では準決勝に進出した。選手としてディナモのレジェンドの地位にあるコルネル・ディヌは1996年と1998年に監督に就任し、1999-2000シーズンに国内リーグを、2000-01シーズンにクパ・ロムニエイを制した。


歴代所属選手

GK

DF

MF

FW


脚注

注釈

  1. ^ 1952年シーズンと1953年シーズンにリーグ得点王となった。
  2. ^ 秋春制で行なわれた1948-49シーズン以前や1957-58シーズン以降とは異なり、1950年シーズンから1956年シーズンまでは春秋制で行なわれた。
  3. ^ 1954年シーズンに得点王となった。1960年代に在籍したストライカーのゲオルゲ・エネと区別するために、アレグザンドレはエネⅠ、ゲオルゲはエネⅡと呼ばれる
  4. ^ 「カタリン・ヒルダン兵団」という意味であり、北スタンドの名称やサポーター全体の呼称として使用される。カタリン・ヒルダンは24歳で死去したディナモの元選手。
  5. ^ ヌンヴェイラー家はルーマニアで有名なスポーツ一家であり、三男のイオン、四男のリカ、六男のラドゥがディナモとルーマニア代表それぞれでプレーしている。
  6. ^ エターナル・ダービーと呼ばれるダービーは多くの国に存在する。ブルガリア(レフスキ・ソフィアCSKAソフィア)、クロアチア(ディナモ・ザグレブハイデュク・スプリト)、ギリシャ(オリンピアコスFCパナシナイコスFC)、マケドニア共和国(ヴァルダル・スコピエペリステル・ビトラ)、セルビア(レッドスター・ベオグラードパルチザン・ベオグラード)、スロベニア(オリンピア・リュブリャナNKマリボル)などである。
  7. ^ 大会記録でもある。

脚注

  1. ^ Ionuţ Negoiţă este noul ACŢIONAR MAJORITAR de la DINAMO!
  2. ^ Dinamo (2009年). “O POVESTE MEREU FRUMOASA” (Romanian). fcdinamo.ro. 2013年4月29日閲覧。
  3. ^ FCM Bacău (2009年). “Istoria FCM Bacău” (Romanian). fcmbacau.ro. 2013年4月29日閲覧。
  4. ^ Liga1 (2009年). “Stadionul Dinamo - Stefan cel Mare” (Romanian). liga1.ro. 2013年4月29日閲覧。
  5. ^ Fun Club Dinamo (2009年). “Campionat 1955” (Romanian). fanclubdinamo.freeservers.com. 2013年4月29日閲覧。
  6. ^ Lucian Ionescu (2007年). “Istorie stadion Național” (Romanian). sportm.ro. 2013年4月29日閲覧。
  7. ^ Ion JIANU (2008年). “CFR Cluj a schimbat macazul titlului din 1973” (Romanian). gds.ro. 2013年4月29日閲覧。
  8. ^ Andrei Crăițoiu (2008年). “Dudu Georgescu, gheata de aur a "cîinilor"” (Romanian). Gazeta Sporturilor. 2013年4月29日閲覧。
  9. ^ Razvan Toma (2009年). “N-avem trofee” (Romanian). sport365.ro. 2013年4月29日閲覧。
  10. ^ discobolus (2007年). “Dinamo - Inter Milano 3 - 2” (Romanian). dinamomania.net. 2013年4月29日閲覧。
  11. ^ fcdinamo.ro (2008年). “VIDEO / Dinamo - Hamburg 3 - 0” (Romanian). fcdinamo.ro. 2013年4月29日閲覧。
  12. ^ mysport.ro (2008年). “Mai buni decît cei mai buni!” (Romanian). dinamovisti.mysport.ro. 2013年4月29日閲覧。
  13. ^ fcdinamo.ro (2008年). “Prima echipă românească în semifinalele CCE” (Romanian). fcdinamo.ro. 2013年4月29日閲覧。
  14. ^ Gheorghe Cioranu (2004年). “Minunea a durat doar jumatate de ora” (Romanian). Curierul Național. 2013年4月29日閲覧。
  15. ^ Vicentiu Neagoe (2005年). “Victime sigure în calea "câinilor"” (Romanian). Jurnalul Naţional. 2013年4月29日閲覧。
  16. ^ Vicentiu Neagoe (2005年). “Dau vina pe arbitru” (Romanian). 9am.ro. 2013年4月29日閲覧。
  17. ^ Realitatea TV (2007年). “Dinamo la al 18-lea titlu de campioană” (Romanian). realitatea.net. 2013年4月29日閲覧。
  18. ^ Daniel Spataru (2007年). “AC Milan a retrogradat-o pe Dinamo din Liga Campionilor” (Romanian). Cotidianul. 2013年4月29日閲覧。
  19. ^ V.O. (2007年). “Dinamo ratează calificarea în grupele Ligii Campionilor” (Romanian). Hotnews. 2013年4月29日閲覧。
  20. ^ Mediafax (2009年). “Dinamo - Slovan Liberec, întrerupt în minutul 88” (Romanian). mediafax.ro. 2013年4月29日閲覧。
  21. ^ Gazeta Sporturilor (2009年). “Verdictul UEFA pentru Dinamo” (Romanian). gsp.ro. 2013年4月29日閲覧。
  22. ^ Dan Alexandru (2009年). “Vom ramane in istorie” (Romanian). sport365.ro. 2013年4月29日閲覧。
  23. ^ OnlineSport (2009年). “Studiu: 44% din microbisti sunt stelisti” (Romanian). onlinesport.ro. 2013年5月11日閲覧。
  24. ^ A.G.M.Dinamo (2009年). “La multi ani Nuova Guardia” (Romanian). agmdinamo48.blogspot.com. 2013年5月11日閲覧。
  25. ^ Ziare.com (2009年). “Dinamovistii sarbatoresc 12 ani de la incendierea peluzei din Ghencea” (Romanian). ziare.com. 2013年5月11日閲覧。
  26. ^ fcdinamo.ro. “CENTRUL DE COPII SI JUNIORI. Viitorul fotbalului dinamovist” (Romanian). FCディナモ・ブカレスト公式サイト. 2013年4月29日閲覧。

外部リンク