「ラースロー2世 (ハンガリー王)」の版間の差分
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{{基礎情報 君主 |
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[[image:Chronicon Pictum P121 A korona elrablása.JPG|right|thumb|250px|王冠を手にして去るラースロー2世]] |
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| 人名 = ラースロー2世 |
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'''ラースロー2世''' ('''II. László'''、[[1131年]] - [[1163年]][[1月14日]])は、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]]及び[[クロアチア王国|クロアチア]]王。兄[[ゲーザ2世]]の死後に甥[[イシュトヴァーン3世]]が即位したにもかかわらず、ハンガリー貴族の大多数が男系年長者相続制を支持したことから即位した。しかし、[[カトリック教会]]はラースローの正当性を認めなかった。 |
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| 各国語表記 = II. László |
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| 君主号 = [[ハンガリー君主一覧|ハンガリー国王]]<br>(対立王) |
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| 画像 = Chronicon Pictum P121 A korona elrablása.JPG |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = [[聖イシュトヴァーンの王冠]]を盗み出すラースロー2世 |
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| 在位 = [[1162年]] - [[1163年]] |
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| 戴冠日 = 1162年6月 |
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| 別号 = |
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| 全名 = |
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| 出生日 = [[1131年]] |
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| 生地 = |
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| 死亡日 = [[1163年]][[1月14日]] |
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| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = {{HUN1000}}、[[セーケシュフェヘールヴァール]]教会 |
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| 配偶者1 = |
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| 配偶者2 = |
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| 子女 = |
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| 王家 = [[アールパード家]] |
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| 王朝 = [[アールパード朝]] |
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| 王室歌 = |
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| 父親 = [[ベーラ2世 (ハンガリー王)|ベーラ2世]] |
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| 母親 = ヘレナ(イロナ) |
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| 宗教 = [[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]] |
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}} |
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'''ラースロー2世'''({{lang-hu|II. László}}、{{lang-hr|Ladislav II}}、{{lang-sk|Ladislav II}}、[[1131年]] - [[1163年]][[1月14日]])は、[[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]、および[[クロアチア王国 (1102年-1526年)|クロアチア]]の対立王(在位:[[1162年]] - [[1163年]])。 |
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6歳の時にラースローは父の[[ベーラ2世 (ハンガリー王)|ベーラ2世]]からボスニア公の爵位を与えられたが、実際にラースローがボスニアを統治することはなかった。[[1160年]]頃にラースローは弟の[[イシュトヴァーン4世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン]]に続いて[[コンスタンティノープル]]に亡命するが、兄の[[ゲーザ2世 (ハンガリー王)|ゲーザ2世]]が没すると二人はハンガリーに帰国した。彼らの帰国にあたっては[[東ローマ帝国の皇帝一覧|ビザンツ(東ローマ)皇帝]][[マヌエル1世コムネノス]]の援助があり、マヌエル1世はラースローたちをハンガリーへの支配力を拡大する手段として利用した。当初マヌエル1世はラースローの弟イシュトヴァーンの王位の簒奪の支援を計画していたが、ハンガリーの貴族はラースローの方を選び、ゲーザ2世の跡を継いでハンガリー王に即位したラースローの甥[[イシュトヴァーン3世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン3世]]の対立王として擁立した。 |
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最後は毒殺されたと言われる。対立王として長く王に列することはなかったが、13世紀に[[ラースロー3世]]が彼を王とした。 |
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イシュトヴァーン3世の忠実な支持者である[[エステルゴム大司教]]ルカーチはラースローへの戴冠を拒否し、彼を[[破門]]した。1162年7月にラースローは[[カロチャ大司教]]ミコーから戴冠されるが、戴冠式から6か月以内に没する。 |
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== 生涯 == |
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=== ボスニア公時代 === |
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[[File:Chronicon Pictum P113 Az aradi véres gyűlés.JPG|thumb|left|190px|1131年にアラドで行われた貴族たちへの報復([[彩飾年代記]]より)]] |
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1131年に{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=197}}ラースローはベーラ盲目王と妻のヘレナの次男として生まれる{{sfn|Makk|1994|p=396}}。ラースローが誕生してから数か月後、ヘレナは彼とラースローの兄ゲーザを連れて[[アラド (ルーマニア)|アラド]]に行き、ベーラの失明に関与した疑いのある貴族たちの殺害を命令した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=197}}。 |
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[[1136年]]にベーラ2世の軍隊は[[ボスニア]]に侵入し{{sfn|Curta|2006|p=329}}、ボスニアでの軍事行動を記念して[[ネレトヴァ川]]の支流である小川にちなんだ「ラマの王」の称号を使用した{{sfn|Engel|2001|p=50}}{{sfn|Makk|1989|p=33}}。翌[[1137年]]にベーラ2世は[[エステルゴム]]で行われた貴族、聖職者の集会でラースローをボスニアの公に任命した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=197}}{{sfn|Makk|1989|p=33}}。しかし、ラースローが私的にボスニアを統治することはなく、実際の領地の統治は任命・選出された公認の[[バン (称号)|バン]](総督)によって監督されていた{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=197}}{{sfn|Makk|1989|p=33}}。 |
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[[1141年]]2月13日にベーラ2世は没し{{sfn|Bartl|Čičaj|Kohútova|Letz|2002|p=28}}、ラースローの兄であるゲーザがハンガリー王位を継承する{{sfn|Bartl|Čičaj|Kohútova|Letz|2002|pp=28-29}}。『{{仮リンク|彩飾年代記|en|Chronicon Pictum}}』では、ゲーザが「弟たちに公領の収入を与えた」<ref>''The Hungarian Illuminated Chronicle'' (ch. 167.121), p. 139.</ref>ことが記されているが、ラースローとイシュトヴァーンが収入を与えられた時期は明らかにされていない{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=197}}。歴史学者のFerenc MakkとGyula Kristóは、ゲーザが自分の息子である[[イシュトヴァーン3世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン]]を後継者に指名した[[1152年]]頃に起きた出来事だと主張している{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=197}}{{sfn|Makk|1989|pp=56, 145}}。[[1156年]]/[[1157年|57年]]にラースローの弟イシュトヴァーンはゲーザに対する陰謀を企てるが、失敗に終わる{{sfn|Makk|1989|pp=68-69}}{{sfn|Engel|2001|p=51}}。イシュトヴァーンは最初[[神聖ローマ帝国]]に保護を求めたが、その後ビザンツ帝国に亡命した{{sfn|Engel|2001|p=51}}。ラースローもイシュトヴァーンに続き、[[1160年]]頃にコンスタンティノープルに亡命する{{sfn|Makk|1989|p=76}}。 |
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=== 亡命生活 === |
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ラースローがコンスタンティノープルに出奔した原因について、同時代の史料に記された内容は一致していない{{sfn|Makk|1994|p=76}}。ビザンツの歴史家[[ヨハネス・キンナモス]]は、イシュトヴァーンとラースローはゲーザと口論をした後、彼から「非常に憎まれるようになった」<ref>''Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos'' (5.1), pp. 154-155.</ref>ために亡命したと記している{{sfn|Makk|1994|p=76}}。一方、[[ニケタス・コニアテス]]は、ゲーザはラースローを愛しているというよりもむしろ嫌悪しており、またラースローはイシュトヴァーンの計画を恐れていたものの、それ以上に先に亡命したイシュトヴァーンがビザンツから厚遇を受けていることに魅力を感じたためだと述べている{{sfn|Makk|1994|p=76}}。 |
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1162年5月31日にゲーザ2世は没し{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=191}}、15歳の王子イシュトヴァーン3世が王位を継いだ{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=191}}。ハンガリー国王の地位を重要視するビザンツ皇帝マヌエル1世はラースロー兄弟のためにハンガリーの王位継承に介入することを決定し{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=198}}キンナモスはマヌエル1世が「ハンガリーの法律では王冠は常に生存している(前国王の)兄弟に渡る」<ref>''Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos'' (5.1), p. 154.</ref>と述べたことを記した。最初マヌエルは兄弟のうち年少のイシュトヴァーンの王位請求の支援を計画していた{{sfn|Stephenson|2000|p=249}}。マヌエル1世の使者によって買収されたハンガリーの貴族の多くはイシュトヴァーン3世を進んで退位させようとしたが、マヌエル1世の傀儡とも思えるイシュトヴァーンの代わりにラースローを対立王に選出した{{sfn|Stephenson|2000|p=249}}{{sfn|Makk|1994|p=82}}。イシュトヴァーン3世の戴冠式から6週間後、イシュトヴァーン3世の支持者は{{仮リンク|カプヴァール|en|Kapuvár}}の戦闘で大敗し、イシュトヴァーン3世はハンガリーから脱出して[[オーストリア公国|オーストリア]]に保護を求めなければならなくなる{{sfn|Makk|1989|p=82}}。 |
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=== 治世 === |
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1162年6月にラースローはハンガリー国王として戴冠される{{sfn|Bartl|Čičaj|Kohútova|Letz|2002|p=29}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=198}}。戴冠式は[[カロチャ大司教]]ミコーによって執り行われ、イシュトヴァーン3世に忠誠を誓う[[エステルゴム大司教]]ルカーチはラースローを簒奪者と見なしていた{{sfn|Bartl|Čičaj|Kohútova|Letz|2002|p=29}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=198}}{{sfn|Makk|1989|p=82}}。ルカーチはラースローを[[破門]]するが、ラースローはルカーチへの報復として彼を逮捕、投獄する{{sfn|Makk|1989|p=83}}。 |
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『彩飾年代記』ではラースローの在位期間について「半年の間王位を奪った」<ref>''The Hungarian Illuminated Chronicle'' (ch. 169.121), p. 139.</ref>と表現されている{{sfn|Makk|1989|pp=82, 156}}。ミューゲルンのハインリヒの年代記にはラースローがハンガリー王国の3分の1と公の称号を弟のイシュトヴァーンに与えていたことが記され{{sfn|Makk|1989|p=82}}、さらにキンナモスの記録では「ハンガリー人の間で王権の継承者を意味する」<ref>''Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos'' (5.1), p. 155.</ref>urumの称号がイシュトヴァーンに与えられたという{{sfn|Makk|1989|p=87}}。ラースローは敵対者との和解を試み、[[ローマ教皇]][[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]の求めに応じてクリスマスの日に大司教ルカーチを釈放する{{sfn|Makk|1989|pp=83, 157}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|pp=198-199}}。しかし、ルカーチはラースローに屈服せず、オーストリアから帰国してプレスブルク(現在の[[スロバキア]]の[[ブラチスラヴァ]])を占領したイシュトヴァーン3世を支持する姿勢を崩さなかった{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=199}}{{sfn|Makk|1989|pp=82-83}}。ラースローはプレスブルクのイシュトヴァーン3世を攻撃せず、再びルカーチを投獄した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=199}}。 |
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1163年1月14日にラースローは没し{{sfn|Bartl|Čičaj|Kohútova|Letz|2002|p=29}}{{sfn|Stephenson|2000|p=249}}、遺体は{{仮リンク|聖イシュトヴァーン大聖堂 (セーケシュフェヘールヴァール)|en|Székesfehérvár Basilica|label=セーケシュフェヘールヴァールのバシリカ}}に埋葬された{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=199}}。 |
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== 家族 == |
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1160年頃にコンスタンティノープルに到着したとき、ラースローはすでに妻に先立たれていたと考えられているが、妻の名前と出自については明らかになっていない{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=198}}。コニアテスにはコンスタンティノープルのラースローが「高貴な血が流れる女性と結婚したと思われる」<ref name=Choniates_4.126/>と記しているが{{sfn|Makk|1994|p=76}}、「母国に帰ることを忘れず、妻の魅力によって国内の政治を破滅させることがないよう、結婚を控えていた」<ref name=Choniates_4.126>''O City of Byzantium, Annals of Niketas Choniates'' (4.126) , p. 72.</ref>と続けている{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=198}} 。 |
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ラースローの娘は[[ヴェネツィア共和国]]の[[ドージェ]]・[[ヴィターレ・ミキエル2世]]の息子ニコラス・ミキエルと結婚した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=198}}。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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=== 主要文献 === |
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*''Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos'' (Translated by Charles M. Brand) (1976). Columbia University Press. ISBN 0-231-04080-6. |
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*''O City of Byzantium, Annals of Niketas Choniatēs'' (Translated by Harry J. Magoulias) (1984). Wayne State University Press. ISBN 978-0-8143-1764-8. |
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*''The Hungarian Illuminated Chronicle:'' Chronica de Gestis Hungarorum (Edited by Dezső Dercsényi) (1970). Corvina, Taplinger Publishing. ISBN 0-8008-4015-1. |
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=== 副次文献 === |
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*{{cite book |last1=Bartl |first1=Július |last2=Čičaj |first2=Viliam |last3=Kohútova |first3=Mária |last4=Letz |first4=Róbert |last5=Segeš |first5=Vladimír |last6=Škvarna |first6=Dušan |year=2002|title=Slovak History: Chronology & Lexicon |publisher= Bolchazy-Carducci Publishers, Slovenské Pedegogické Nakladatel'stvo |isbn=0-86516-444-4|ref=harv}} |
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*{{cite book |last=Curta |first=Florin |year=2006 |title=Southeastern Europe in the Middle Ages, 500–1250 |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-89452-4|ref=harv}} |
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*{{cite book |last=Engel |first=Pál |year=2001 |title=The Realm of St Stephen: A History of Medieval Hungary, 895–1526 |publisher= I.B. Tauris Publishers |isbn=1-86064-061-3|ref=harv}} |
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*{{Cite book |last1=Kristó |first1=Gyula |last2=Makk |first2=Ferenc |year=1996 |title=Az Árpád-ház uralkodói ''[Rulers of the House of Árpád]''|publisher=I.P.C. Könyvek | isbn=963-7930-97-3|ref=harv|language=hu}} |
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*{{cite book |last=Makk |first=Ferenc |year=1989 |title=The Árpáds and the Comneni: Political Relations between Hungary and Byzantium in the 12th century (Translated by György Novák)|publisher=Akadémiai Kiadó |isbn=963-05-5268-X|ref=harv}} |
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*{{cite book |last=Makk |first=Ferenc |editor1-last=Kristó |editor1-first=Gyula |editor2-last=Engel |editor2-first=Pál |editor3-last=Makk |editor3-first=Ferenc | title=Korai magyar történeti lexikon (9–14. század) ''[Encyclopedia of the Early Hungarian History (9th–14th centuries)]'' |publisher=Akadémiai Kiadó |year=1994 |page=396 |chapter=II. László |isbn=963-05-6722-9|ref=harv|language=hu}} |
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*{{Cite book |last=Stephenson |first=Paul |year=2000 |title=Byzantium's Balkan Frontier: A Political Study of the Northern Balkans, 900–1204 |publisher=Cambridge University Press |isbn= 978-0-521-02756-4|ref=harv}} |
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{{commons category|Ladislaus II of Hungary}} |
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[[Category:カトリック教会に破門された人物]] |
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[[Category:1131年生]] |
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[[Category:1163年没]] |
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2024年4月18日 (木) 12:49時点における最新版
ラースロー2世 II. László | |
---|---|
ハンガリー国王 (対立王) | |
聖イシュトヴァーンの王冠を盗み出すラースロー2世 | |
在位 | 1162年 - 1163年 |
戴冠式 | 1162年6月 |
出生 |
1131年 |
死去 |
1163年1月14日 |
埋葬 | ハンガリー王国、セーケシュフェヘールヴァール教会 |
家名 | アールパード家 |
王朝 | アールパード朝 |
父親 | ベーラ2世 |
母親 | ヘレナ(イロナ) |
宗教 | ローマ・カトリック教会 |
ラースロー2世(ハンガリー語: II. László、クロアチア語: Ladislav II、スロバキア語: Ladislav II、1131年 - 1163年1月14日)は、ハンガリー王国アールパード朝、およびクロアチアの対立王(在位:1162年 - 1163年)。
6歳の時にラースローは父のベーラ2世からボスニア公の爵位を与えられたが、実際にラースローがボスニアを統治することはなかった。1160年頃にラースローは弟のイシュトヴァーンに続いてコンスタンティノープルに亡命するが、兄のゲーザ2世が没すると二人はハンガリーに帰国した。彼らの帰国にあたってはビザンツ(東ローマ)皇帝マヌエル1世コムネノスの援助があり、マヌエル1世はラースローたちをハンガリーへの支配力を拡大する手段として利用した。当初マヌエル1世はラースローの弟イシュトヴァーンの王位の簒奪の支援を計画していたが、ハンガリーの貴族はラースローの方を選び、ゲーザ2世の跡を継いでハンガリー王に即位したラースローの甥イシュトヴァーン3世の対立王として擁立した。
イシュトヴァーン3世の忠実な支持者であるエステルゴム大司教ルカーチはラースローへの戴冠を拒否し、彼を破門した。1162年7月にラースローはカロチャ大司教ミコーから戴冠されるが、戴冠式から6か月以内に没する。
生涯
[編集]ボスニア公時代
[編集]1131年に[1]ラースローはベーラ盲目王と妻のヘレナの次男として生まれる[2]。ラースローが誕生してから数か月後、ヘレナは彼とラースローの兄ゲーザを連れてアラドに行き、ベーラの失明に関与した疑いのある貴族たちの殺害を命令した[1]。
1136年にベーラ2世の軍隊はボスニアに侵入し[3]、ボスニアでの軍事行動を記念してネレトヴァ川の支流である小川にちなんだ「ラマの王」の称号を使用した[4][5]。翌1137年にベーラ2世はエステルゴムで行われた貴族、聖職者の集会でラースローをボスニアの公に任命した[1][5]。しかし、ラースローが私的にボスニアを統治することはなく、実際の領地の統治は任命・選出された公認のバン(総督)によって監督されていた[1][5]。
1141年2月13日にベーラ2世は没し[6]、ラースローの兄であるゲーザがハンガリー王位を継承する[7]。『彩飾年代記』では、ゲーザが「弟たちに公領の収入を与えた」[8]ことが記されているが、ラースローとイシュトヴァーンが収入を与えられた時期は明らかにされていない[1]。歴史学者のFerenc MakkとGyula Kristóは、ゲーザが自分の息子であるイシュトヴァーンを後継者に指名した1152年頃に起きた出来事だと主張している[1][9]。1156年/57年にラースローの弟イシュトヴァーンはゲーザに対する陰謀を企てるが、失敗に終わる[10][11]。イシュトヴァーンは最初神聖ローマ帝国に保護を求めたが、その後ビザンツ帝国に亡命した[11]。ラースローもイシュトヴァーンに続き、1160年頃にコンスタンティノープルに亡命する[12]。
亡命生活
[編集]ラースローがコンスタンティノープルに出奔した原因について、同時代の史料に記された内容は一致していない[13]。ビザンツの歴史家ヨハネス・キンナモスは、イシュトヴァーンとラースローはゲーザと口論をした後、彼から「非常に憎まれるようになった」[14]ために亡命したと記している[13]。一方、ニケタス・コニアテスは、ゲーザはラースローを愛しているというよりもむしろ嫌悪しており、またラースローはイシュトヴァーンの計画を恐れていたものの、それ以上に先に亡命したイシュトヴァーンがビザンツから厚遇を受けていることに魅力を感じたためだと述べている[13]。
1162年5月31日にゲーザ2世は没し[15]、15歳の王子イシュトヴァーン3世が王位を継いだ[15]。ハンガリー国王の地位を重要視するビザンツ皇帝マヌエル1世はラースロー兄弟のためにハンガリーの王位継承に介入することを決定し[16]キンナモスはマヌエル1世が「ハンガリーの法律では王冠は常に生存している(前国王の)兄弟に渡る」[17]と述べたことを記した。最初マヌエルは兄弟のうち年少のイシュトヴァーンの王位請求の支援を計画していた[18]。マヌエル1世の使者によって買収されたハンガリーの貴族の多くはイシュトヴァーン3世を進んで退位させようとしたが、マヌエル1世の傀儡とも思えるイシュトヴァーンの代わりにラースローを対立王に選出した[18][19]。イシュトヴァーン3世の戴冠式から6週間後、イシュトヴァーン3世の支持者はカプヴァールの戦闘で大敗し、イシュトヴァーン3世はハンガリーから脱出してオーストリアに保護を求めなければならなくなる[20]。
治世
[編集]1162年6月にラースローはハンガリー国王として戴冠される[21][16]。戴冠式はカロチャ大司教ミコーによって執り行われ、イシュトヴァーン3世に忠誠を誓うエステルゴム大司教ルカーチはラースローを簒奪者と見なしていた[21][16][20]。ルカーチはラースローを破門するが、ラースローはルカーチへの報復として彼を逮捕、投獄する[22]。
『彩飾年代記』ではラースローの在位期間について「半年の間王位を奪った」[23]と表現されている[24]。ミューゲルンのハインリヒの年代記にはラースローがハンガリー王国の3分の1と公の称号を弟のイシュトヴァーンに与えていたことが記され[20]、さらにキンナモスの記録では「ハンガリー人の間で王権の継承者を意味する」[25]urumの称号がイシュトヴァーンに与えられたという[26]。ラースローは敵対者との和解を試み、ローマ教皇アレクサンデル3世の求めに応じてクリスマスの日に大司教ルカーチを釈放する[27][28]。しかし、ルカーチはラースローに屈服せず、オーストリアから帰国してプレスブルク(現在のスロバキアのブラチスラヴァ)を占領したイシュトヴァーン3世を支持する姿勢を崩さなかった[29][30]。ラースローはプレスブルクのイシュトヴァーン3世を攻撃せず、再びルカーチを投獄した[29]。
1163年1月14日にラースローは没し[21][18]、遺体はセーケシュフェヘールヴァールのバシリカに埋葬された[29]。
家族
[編集]1160年頃にコンスタンティノープルに到着したとき、ラースローはすでに妻に先立たれていたと考えられているが、妻の名前と出自については明らかになっていない[16]。コニアテスにはコンスタンティノープルのラースローが「高貴な血が流れる女性と結婚したと思われる」[31]と記しているが[13]、「母国に帰ることを忘れず、妻の魅力によって国内の政治を破滅させることがないよう、結婚を控えていた」[31]と続けている[16] 。
ラースローの娘はヴェネツィア共和国のドージェ・ヴィターレ・ミキエル2世の息子ニコラス・ミキエルと結婚した[16]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f Kristó & Makk 1996, p. 197.
- ^ Makk 1994, p. 396.
- ^ Curta 2006, p. 329.
- ^ Engel 2001, p. 50.
- ^ a b c Makk 1989, p. 33.
- ^ Bartl et al. 2002, p. 28.
- ^ Bartl et al. 2002, pp. 28–29.
- ^ The Hungarian Illuminated Chronicle (ch. 167.121), p. 139.
- ^ Makk 1989, pp. 56, 145.
- ^ Makk 1989, pp. 68–69.
- ^ a b Engel 2001, p. 51.
- ^ Makk 1989, p. 76.
- ^ a b c d Makk 1994, p. 76.
- ^ Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos (5.1), pp. 154-155.
- ^ a b Kristó & Makk 1996, p. 191.
- ^ a b c d e f Kristó & Makk 1996, p. 198.
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- ^ a b c Bartl et al. 2002, p. 29.
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- ^ Makk 1989, pp. 82, 156.
- ^ Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos (5.1), p. 155.
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- ^ Kristó & Makk 1996, pp. 198–199.
- ^ a b c Kristó & Makk 1996, p. 199.
- ^ Makk 1989, pp. 82–83.
- ^ a b O City of Byzantium, Annals of Niketas Choniates (4.126) , p. 72.
参考文献
[編集]主要文献
[編集]- Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos (Translated by Charles M. Brand) (1976). Columbia University Press. ISBN 0-231-04080-6.
- O City of Byzantium, Annals of Niketas Choniatēs (Translated by Harry J. Magoulias) (1984). Wayne State University Press. ISBN 978-0-8143-1764-8.
- The Hungarian Illuminated Chronicle: Chronica de Gestis Hungarorum (Edited by Dezső Dercsényi) (1970). Corvina, Taplinger Publishing. ISBN 0-8008-4015-1.
副次文献
[編集]- Bartl, Július; Čičaj, Viliam; Kohútova, Mária; Letz, Róbert; Segeš, Vladimír; Škvarna, Dušan (2002). Slovak History: Chronology & Lexicon. Bolchazy-Carducci Publishers, Slovenské Pedegogické Nakladatel'stvo. ISBN 0-86516-444-4
- Curta, Florin (2006). Southeastern Europe in the Middle Ages, 500–1250. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-89452-4
- Engel, Pál (2001). The Realm of St Stephen: A History of Medieval Hungary, 895–1526. I.B. Tauris Publishers. ISBN 1-86064-061-3
- Kristó, Gyula; Makk, Ferenc (1996) (ハンガリー語). Az Árpád-ház uralkodói [Rulers of the House of Árpád]. I.P.C. Könyvek. ISBN 963-7930-97-3
- Makk, Ferenc (1989). The Árpáds and the Comneni: Political Relations between Hungary and Byzantium in the 12th century (Translated by György Novák). Akadémiai Kiadó. ISBN 963-05-5268-X
- Makk, Ferenc (1994). “II. László”. In Kristó, Gyula; Engel, Pál; Makk, Ferenc (ハンガリー語). Korai magyar történeti lexikon (9–14. század) [Encyclopedia of the Early Hungarian History (9th–14th centuries)]. Akadémiai Kiadó. p. 396. ISBN 963-05-6722-9
- Stephenson, Paul (2000). Byzantium's Balkan Frontier: A Political Study of the Northern Balkans, 900–1204. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-02756-4
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