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「フニャディ・ヤーノシュ」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[Image:Iancu Hunedoara.jpg|right|180px]]
| 人名 = フニャディ・ヤーノシュ
'''フニャディ・ヤーノシュ'''('''Hunyadi János''', [[1409年]]? - [[1456年]][[8月11日]])は、[[15世紀]]の[[ハンガリー王国]]の政治家。[[トランシルヴァニア]]総督。[[オスマン帝国]]の侵攻に対して、[[ポーランド王国|ポーランド]]や[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と同盟して抵抗し、ハンガリー最盛期の基礎を作った。ハンガリーでは祖国の[[英雄]]として知られる。[[フニャディ・ラースロー]]、[[マーチャーシュ1世|マーチャーシュ]]王(マティアス・コルヴィヌス, Matthias Corvinus)の父。
| 各国語表記 = Hunyadi János
| 君主号 = トランシルヴァニア公
| 画像 = Iancu Hunedoara.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 =
| 在位 = [[1441年]] - [[1456年]]
| 戴冠日 =
| 別号 = ハンガリー王国摂政
| 全名 =
| 出生日 = [[1386年]]/[[1407年]]/[[1409年|09年]]
| 生地 =
| 死亡日 = [[1456年]][[8月11日]]
| 没地 = [[ゼムン]]<ref name="kra121">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、121頁</ref>。
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = シラージ・エルジェーベト([[:en:Erzsébet Szilágyi (noblewoman)|en]])
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 配偶者4 =
| 配偶者5 =
| 子女 = [[フニャディ・ラースロー|ラースロー]]<br/>[[マーチャーシュ1世|マーチャーシュ]]
| 王家 = [[フニャディ家]]
| 王朝 =
| 父親 = ヴォイク(Voyk<ref name=Realm>{{cite book|last=Engel|first=Pál |coauthors=Andrew Ayton, Tamás Pálosfalvi|title=The realm of St. Stephen: a history of medieval Hungary, 895–1526|editor=Andrew Ayton|publisher=I.B.Tauris|year=2005|page=283}}</ref>、Voicu、Vajk<ref>{{cite book|last=Gwatkin|first=Henry Melvill|title=The Cambridge medieval history, Volume 8|publisher=Macmillan|pages=608|coauthors=John Bagnell Bury, James Pounder Whitney, Zachary Nugent Brooke}}</ref>)
| 母親 = エルジェーベト(Elizabeth Morsina<ref>[http://books.google.ro/books?id=h-BnAAAAMAAJ&q=%22His+wife+was+Elizabeth+Morsina,+a+Romanian%22&dq=%22His+wife+was+Elizabeth+Morsina,+a+Romanian%22&hl=ro&sa=X&ei=SZlSUemIMYjssgbSz4CABQ&redir_esc=y]</ref>もしくはElizabeth Morzsinay<ref>[http://books.google.hu/books?id=ygckAQAAIAAJ&q=Elizabeth+Morzsinay&dq=Elizabeth+Morzsinay&hl=en&sa=X&ei=2GFTUeLhM8W54ASUuoGIAQ&redir_esc=y]</ref>)
| 宗教 =
| サイン = Signature of János Hunyadi.jpg
}}


'''フニャディ・ヤーノシュ'''({{lang-hu|Hunyadi János}}、{{lang-ro|Iancu/Ioan de Hunedoara}}、{{lang-la|Ioannes Corvinus or de Hunyad}}、 [[1386年]]<ref>ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)、54頁</ref>/[[1407年]]<ref name="zusetsu">南塚『図説ハンガリーの歴史』、23-24頁</ref>/[[1409年|09年]]<ref name="zusetsu"/> - [[1456年]][[8月11日]])は、[[ルーマニア]]出身の[[ハンガリー]]の[[貴族]]。
フニャディ姓は、父ヴァイクが[[ヴァイダフニャド]](現在のルーマニア・[[フネドアラ]])のフニャド城を領したことから名乗ることになったと見られる。ヴァイクより前の事跡は定かでなく、[[ワラキア]]の[[豪族]]がトランシルヴァニアに逃れてきたものかと推測されている。


同時代の史料には、ルーマニア南部の[[ワラキア]]の貴族の家系の出身と記される。[[オスマン帝国]]の侵入に晒されるハンガリー南部の国境地帯に身を置き、軍事技術を習得した。[[1441年]]に[[トランシルヴァニア]]の公([[ヴォイヴォダ]])といくつかの地区の知事に任ぜられ、国境の防衛を一手に引き受けた。
ヤーノシュは、ハンガリー王であった[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]に見出され、[[傭兵]]隊長として[[イタリア]]などで戦闘に従事した。ハンガリーに戻ると、[[トランシルヴァニア公]]に抜擢される。

*1442年、トランシルヴァニアに侵攻した[[オスマン帝国]]軍を撃退。
[[ボヘミア]]の[[フス派]]の傭兵がフニャディの戦力の中心であり、親族、信奉者、家臣を軍に加え、一般の民衆も軍隊に編入する<ref name="el132">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、132頁</ref>。そして、戦闘に大型の四輪荷車を連結するフス派の戦法([[:en:Laager|en]])を導入した<ref name="ote">オツェテァ『ルーマニア史』1巻、203-204頁</ref>。一連の軍事技術の革新によって、1440年代初頭にハンガリー南部に侵入したオスマン軍に勝利することができた。[[1444年]]の[[ヴァルナの戦い]]、[[1448年]]の[[コソヴォの戦い (1448年)|コソヴォの戦い]]での敗北にもかかわらず、[[1443年]]から1444年にかけての[[バルカン山脈]]を越えての「大遠征」と1456年の[[ベオグラード]]でのオスマン皇帝[[メフメト2世]]に対する勝利によって、偉大なる指揮官としての名声を確立した。キリスト教世界のために戦う兵士を激励するため、[[教皇|ローマ教皇]]は週に一度教会の鐘を鳴らすよう命じていたが、1456年のベオグラード防衛の後、[[カトリック教会|カトリック]]の教会と古い[[プロテスタント]]の教会はフニャディの勝利を記念して毎日の正午に鐘を鳴らすようになった。
*1443年、ハンガリー[[十字軍]]を組織してオスマン帝国を破り、[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]を回復。

*1444年、[[ヴァルナの戦い]]でオスマン帝国に大敗、ポーランド王でハンガリー王を兼ねた[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]](ウラースロー1世)が戦死する。フニャディは、敗戦の責任を追及され、[[死刑]]の判決まで受けるが、それまでの功績が認められ、司令官の職を解かれて領地に逼塞させられる。このとき、フニャディを追及したのが[[ヴラド2世ドラクル]]([[ヴラド・ツェペシュ]]の父)だったといわれる。
フニャディは、政治家としても優れた人物だった<ref name="horupu">ピーターズ「フニャディ」『世界伝記大事典 世界編』8巻、473-474頁</ref>。1440年代初頭に[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]](後のウラースロー1世)と[[ラディスラウス・ポストゥムス]](後のラースロー5世)がハンガリー王位を巡って争った時、フニャディは前者を積極的に支持する。フニャディは議会の中小貴族から支持を集め、[[1445年]]にウラースロー1世の死後にハンガリー王に選出されたラースロー5世が成年に達するまでの間、ハンガリーの国政を担当する7人の「[[レルム]]の指導者」のうちの1人に選出された。続く国会で、フニャディは唯一の摂政に選出される。[[1452年]]に摂政の地位を辞任した後、ラースロー5世はフニャディを総司令官に命じ、多くの爵位を与えた。かくしてフニャディはハンガリーの有力な大貴族の1人になり、没時まで議会における影響力を維持した。
*1446年、無政府状態に陥ったハンガリー国内の混乱を収拾するため、中小貴族たちの支持によってフニャディが復権、[[摂政]]に就く(王位は[[ラディスラウス・ポストゥムス]]が継いでいたが、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]に捕えられていた)。

*1447年、ヴラド・ドラクルが[[暗殺]]される。暗殺したのはフニャディだともいわれる。
教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]はフニャディを「Athleta Christi」(キリスト教の守護者)と讃えたが、フニャディはベオグラードの勝利の3週間後に軍内で流行していた疫病に罹って没する。フニャディの勝利によって、ハンガリー王国は長らくオスマン帝国の侵入から守られる<ref>鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)、104頁</ref>。
*1448年、ハンガリー[[十字軍]]を組織するが、[[セルビア]]でオスマン軍に敗れる。

*1456年、[[ベオグラード]]を包囲したオスマン軍を破る。この勝利を記念して、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]は正午に鐘を鳴らす習慣を始めたといわれる。しかし、フニャディは戦地で流行した[[ペスト]]に罹って没した。
== 出自 ==
*1458年、ヤーノシュの子、フニャディ・マーチャーシュがハンガリー王に即位(在位:1458年 - [[1490年]])。
[[File:Budapest Heroes square Hunyadi János.jpg|thumb|150px|left|[[ブダペスト]]の[[英雄広場]]に置かれているフニャディ像]]
[[File:Fff437kicsi.jpg|250px|right|thumb|ジグモンドの発した特許状(1409年8月18日付)<ref>[http://books.google.ro/books?id=C2ksAQAAIAAJ&q=18+octombrie+1409&dq=18+octombrie+1409&hl=ro&sa=X&ei=0SjcUqKSOcnxygOw_4CYCw&ved=0CDgQ6AEwAQ]</ref>]]
フニャディ家はルーマニアの[[ワラキア]]出身のハンガリー貴族であり<ref name="zusetsu"/>、ルーマニア人を祖に持つと<ref name="Lendvai">{{cite book|last=Lendvai |first=Paul|title=The Hungarians: a thousand years of victory in defeat|publisher=C. Hurst & Co. Publishers|year=2003|pages=62|isbn=978-1-85065-682-1|quote=[[マーチャーシュ1世|フニャディ・マーチャーシュ]](フニャディの次男) (中略) は父からルーマニア人の血を受け継いだ}}</ref><ref>{{cite book | author = Stoianovich, Traian | authorlink = | editor = | others = | title = The Balkans Since 1453 | edition = | publisher = C Hurst & Co Publishers Ltd | location = | year = 2000 | page =53 | isbn = 1-85065-551-0 | oclc = | doi = | url =http://books.google.ro/books?id=xcp7OXQE0FMC&pg=PA53&lpg=PA53&dq=%22white+knight+of+wallachia%22#v=snippet&q=%22john%20hunyadi%20was%20a%20rumanian%22&f=false | quote=フニャディ・ヤーノシュはハンガリーの宮廷に出仕したルーマニア人であり、オスマン帝国との戦争で勝利を収めてハンガリーの国民的英雄となった。|accessdate = 2014年1月}}</ref><ref>''Catholic Encyclopedia''[http://www.newadvent.org/cathen/07564b.htm] "フニャディ家はルーマニア人に起源を持つと考えられている。"</ref>多くの資料に記されている。フニャディ存命時の文献の中には、彼を指してValachusやBalachusといった、「ワラキア人」の意味を持つ言葉を使っているものもある<ref name=Hebron>{{cite book|last= Hebron |first=Malcolm|title=The Medieval Siege, Theme and Image in Middle English Romance|publisher=Oxford University Press|year=1997|page=86|isbn=978-0-19-818620-5}}</ref>。{{仮リンク|グラッツ・ フェレンツ|en|Ferenc Glatz}}などの一部の歴史家は、フニャディを[[キプチャク|クマン人]]の末裔と考えている<ref name="katolikus-lex">[http://lexikon.katolikus.hu/H/Hunyadi.html Hungarian Catholic Lexicon]</ref><ref name="Magyarok Krónikája, 171. old">A magyarok krónikája, pp. 156., 171.</ref>。また、{{仮リンク|ハツェグ|en|Hațeg}}出身のルーマニア人小貴族の出とする説もある<ref name="Pop">Ioan Aurel Pop, Thomas Nägler, Mihai Bărbulescu, [http://books.google.com/books?id=96IsAQAAIAAJ&q=Romanian+military+commander+John+Hunyadi+(1407-1456).+He+came+from+a+modest+family+of+Romanian+ennobled+knezes+from+Hajeg-Hunedoara;+his+great-grandfather+was+probably+called+Costea,+his+grandfather+named+%C2%A7erbu,+the+father+Voicu&dq=Romanian+military+commander+John+Hunyadi+(1407-1456).+He+came+from+a+modest+family+of+Romanian+ennobled+knezes+from+Hajeg-Hunedoara;+his+great-grandfather+was+probably+called+Costea,+his+grandfather+named+%C2%A7erbu,+the+father+Voicu&hl=en&ei=bnKMTZ75Bc24hAf4ndGnCw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCcQ6AEwAA The History of Transylvania: Until 1541], Romanian Cultural Institute, 2005 p. 294</ref>。

[[File:Varkapu.jpg|200px|thumb|right|フニャド城]]
フニャディの名前が最初に現れるのは[[1409年]]に[[ハンガリー王]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジグモンド]]([[神聖ローマ皇帝]]ジギスムント)が発した書状である。ハンガリーの宮廷に仕えていたフニャディの父ヴォイクは、この年にジグモンドから{{仮リンク|フニャド城|en|Corvin Castle}}(現在のルーマニアの[[フネドアラ県]]に位置する)と領地、貴族としての地位を与えられた<ref name="car">カーロイ『トランシルヴァニア』、74-77頁</ref>。

フニャディの祖父は、集落の指導者だと考えられている<ref name="car"/>。中世の年代記作家は父のヴォイクを[[ヴラフ人]]の家系の生まれと記し<ref name="Fejer">{{cite book|title=III. Genus et incunabula Joannis, regni Hungariae Gubernatoris|chapter=E scriptorum ac literarum solennium testimoniis deducta.|year=1844|publisher=Magyar Orszagos Leveltar, Buda|url=http://www.arcanum.hu/mol/lpext.dll/fejer/33f4/3598/35fb?fn=document-frame.htm&f=templates&2.0|author=Fejer, Georgius|accessdate=9 February 2011|page=m|language=Latin|quote=Herois nostratis pater fuit Voik, Valachus,}}</ref><ref>"ex Valachis natus erat" (Aeneas Sylvius) http://mek.oszk.hu/05700/05736/html/01.htm</ref>、後世の歴史学者も年代記作家の見解に同意している.<ref name=Babinger>{{cite book|last= Babinger|first= Franz|title=Mehmed the Conqueror and His Time|publisher= Princeton University Press|page=20}}</ref><ref>[http://books.google.ro/books?id=SKwmGQCT0MAC&printsec=frontcover&dq=A+History+of+Hungary++De+Peter+F.+Sugar,P%C3%A9ter+Han%C3%A1k,Tibor+Frank&cd=1#v=onepage&q=&f=false] ''A History of Hungary'' Peter F. Sugar, Péter Hanák, Tibor Frank – History – 1994</ref><ref>Engel, Pal. ''Realm of St. Stephen : A History of Medieval Hungary, 895–1526''. London,, GBR: I. B. Tauris & Company, Limited, 2001. p xii.</ref><ref>''Encyclopædia Britannica'' |[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/277182/Janos-Hunyadi "Janos Hunyadi"]</ref><ref>''Encyclopedia of the Middle Ages'', Vol 1, De André Vauchez,Richard Barrie Dobson,Michael Lapidge p. 705 |http://books.google.com/books?id=qtgotOF0MKQC&pg=PR11&dq=Encyclopedia+of+the+Middle+Ages,+Volumul+1++De+Andr%C3%A9+Vauchez,Richard+Barrie+Dobson,Michael+Lapidge&lr=&hl=ro&cd=1#v=onepage&q=&f=false</ref>。ヴォイクはハンガリーの貴族([[クニャージ]])であるが、ヴォイクの名前の語源が[[タタール]]・クマン人の人名と関連性を示すことに着目する見解もある<ref>[http://books.google.co.uk/books?ei=V-l5TannFomFhQe2p53pBg&ct=result&id=kNkTAQAAMAAJ&dq=Cuman+origin+Hunyady&q=Tatar-Cuman#search_anchor Acta orientalia Academiae Scientiarum Hungaricae, Volume 36], Magyar Tudományos Akadémia, 1982 p. 425-427, Cited:'Recalling what has been said above concerning the Turkic name Bayq, we may rightly come to the conclusion that the name of Janos Hunyadi's father, Vayk was of Tatar-Cuman origin.', 'Vayk's family, which was of Tatar-Cuman origin', 'The Damga (Turkic/Raven) must have been the mark of Vayk's clan'</ref>。

フニャディの母親のエルジェーベト({{lang-hu|Morzsinay Erzsébet}}、{{lang-ro|Elisabeta Morşina or Elisabeta de Margina}}<ref>Ioan-Aurel Pop, Thomas Nagler (coordonatora), [http://www.bjmures.ro/bdPublicatii/CarteStudenti/P/AurelPop-Istoria_Transilvaniei.pdf ''Istoria Transilvaniei, vol. I (până la 1541)'']</ref>)は、[[カランセベシュ]]出身<ref>László Kővári, [http://books.google.co.uk/books?id=lisuAAAAYAAJ&pg=PA122&dq=Hunyadi+Vojk&hl=en&ei=Fq1nTa2-HYPAhAeDw8zyDg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCcQ6AEwADge#v=onepage&q=Hunyadi%20Vojk&f=false Erdély nevezetesebb családai (more famous families of Transylvania)], Barráné és Stein Bizománya, 1854, p. 122</ref>のハンガリー人零細貴族と考えられている。Gáspár Heltaiは、エルジェーベトをフニャド(フネドアラ)出身の身分のルーマニア人小貴族と記した<ref>{{lang|la|"Opulenti Boyeronis (i. e. Valachi nobilis) filiam – ex genere Morsinai – Transalpinus quidam Boyero, nomine Woyk, qui ob simultates valachicas huc (in Transilvaniam) se patriis, ex oris receperat, venustate Morsinaianae captus, duxit. – Elisabetham, vocatam ferunt;"}} available from: http://www.arcanum.hu/mol/lpext.dll/fejer/33f4/3598/35fb?fn=document-frame.htm&f=templates&2.0</ref>。

フニャディの息子である[[マーチャーシュ1世]]に仕えた歴史家の{{仮リンク|アントニオ・ボンフィーニ|it|Antonio Bonfini}}は、フニャディ家の祖先を[[古代ローマ]]時代の氏族であるCorvinaないしはValerianaに比定し、「ルーマニア人の父親と[[ギリシャ人]]の母親から生まれた」主君の血筋を称えた。ボンフィーニと同時代のハンガリーの歴史家Johannes de Thuroczも著書『ハンガリー年代記』で同じようにマーチャーシュ1世の血統を称え、フニャディ家を[[フン族]]の末裔とし、マーチャーシュ1世を「第二の[[アッティラ]]」と呼んだ<ref name="rubicon">TEKE ZSUZSA: HUNYADI JÁNOS • 1407 k.–1456, 10. évfolyam (1999) 9–10. szám (93–94.) (Rubicon History Magazine, Hungarian)</ref>。ボンフィーニは、伝記の中でマーチャーシュ1世をコルヴィヌス(Corvinus、「[[カラス]]」の意)の渾名で呼び、マーチャーシュ1世の父親であるフニャディもしばしばコルヴィヌスの渾名で呼ばれる<ref name="Corvinus">[http://www.tankonyvtar.hu/hu/tartalom/historia/93-01/ch08.html Péter Kulcsár: ''A Corvinus-legenda'']. ''História'' (vol. 1993-01).</ref>。[[16世紀]]の[[サクソン人|ザクセン]]の歴史家であるGáspár Heltaiは、フニャディはジグモンドと貴族の娘エルジェーベトの間に生まれた[[落胤]]だと記している<ref>[http://www.hik.hu/tankonyvtar/site/books/b152/ch12s01s01.html Heltai Gáspár: Krónika az magyaroknak dolgairól](ハンガリー語)</ref><ref name=Endrey>Anthony Endrey, Hungarian History: From 1301 to 1686, Hungarian Institute, 1980 Citation from the book: "a Hungarian noblewoman, Elizabeth Morzsinai" [http://books.google.co.uk/books?ei=VGggTZCCJImFhQfE1vW5Dg&ct=result&id=J785AAAAMAAJ&dq=Anthony+Endrey%2C+Hungarian+History%3A+From+1301+to+1686%2C+Hungarian+Institute%2C&q=Elizabeth+Morzsinai#search_anchor]</ref>。

== 生涯 ==
=== 若年時 ===
[[File:Hunyadi janos pecsetje es cimere.gif|thumb|150px|フニャディが用いていた紋章]]
若年時のフニャディはハンガリー王国の宮廷に出仕していた<ref name="horupu"/>。ジグモンドはフニャディの才能を評価して従者とし、時には金を貸し与えた。[[1434年]]付けの文書には、フニャディ(Johannes dictus Olah)が1,200フロリンの金の融資を受けた旨が記載されている<ref>http://books.google.com/books?id=hgs9AAAAIAAJ&pg=PA73&lpg=PA73&dq=johannes+dictus+olah&source=bl&ots=8l2u7KcPT0&sig=LsIxjcRJWS2P7zffI2K5Ex3JiQI&hl=en&sa=X&ei=7I8-UPSLJ8isqwHO0IF4&ved=0CD0Q6AEwAg#v=onepage&q=johannes%20dictus%20olah&f=false</ref><ref>Molnar, Miklos : A Concise History of Hungary. p. 61</ref>。 [[1410年]]にジグモンドが神聖ローマ皇帝を求めて[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]に遠征した時に、幼いフニャディも行軍に伴われた。

成長したフニャディは、ジグモンドに従って[[イタリア半島|イタリア]]、[[ボヘミア]]での戦役に従軍した<ref name="zusetsu"/>。[[1420年]]に[[ボヘミア]]の[[フス派]]との戦闘に参加し、[[1437年]]にはオスマン軍に包囲された[[スメデレヴォ]]への援軍として、フニャディはハンガリー南部に派遣される。遠征において、若いフニャディはジグモンド、セルビア公{{仮リンク|ステファン・ラザレヴィチ|en|Stefan Lazarević}}、イタリアの傭兵隊長{{仮リンク|ピッポ・スパーノ|en|Pipo of Ozora|label=フィリッポ・スコラーリ}}らヨーロッパの有力な指導者や指揮官の下で働いた。[[1431年]]から[[1433年]]の間に、[[ミラノ]]に滞在したフニャディはこの地の僭主{{仮リンク|フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ|en|Filippo Maria Visconti}}の下で傭兵隊長を務める[[フランチェスコ・スフォルツァ]]の知己となった<ref>Florio Banfi: Filippo Scolari es Hunyadi. (1930) page: 272.</ref>。

やがてフニャディはハンガリー王から多くの土地を授与され、議会での地位を高めていく。フニャディの人気は急速に高まり、[[1438年]]に[[ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン|セヴェリン]]の侯の地位を与えられ<ref name="ote"/>、ハンガリー南部の防衛を委任される。[[カルパチア山脈]]、[[ドラーヴァ川]]、[[サヴァ川]]、[[ドナウ川]]が含まれるハンガリー南部地域は、常にオスマン帝国の侵入の脅威に晒されていた。

[[1439年]]にハンガリー王[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルベルト]]が没した後、[[1440年]]に[[ハプスブルク家]]の[[ラディスラウス・ポストゥムス]](ラースロー5世)を支持する大貴族と、ポーランド王[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]](ウラースロー1世)をハンガリー王に招こうとする中小貴族が争った<ref name="car"/><ref name="el130">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、130頁</ref>。フニャディはウラースロー1世を支持し、王位を巡る内戦はウラースロー1世の勝利に終わる<ref name="car"/>。だが、ウラースロー1世の即位後に、[[スラヴォニア]]と[[クロアチア]]はラースロー5世の母方の親族である大貴族ツィレイ家、ハンガリー北部は傭兵隊長の{{仮リンク|ヤン・イスクラ|en|John Jiskra of Brandýs}}が支配し、中央から独立した勢力を形成していた<ref name="el130"/>。

[[1441年]]にフニャディはトランシルヴァニアの公([[ヴォイヴォダ]])、テメシュ([[ティミショアラ]])知事に任じられる<ref name="ote"/>。ウラースロー1世はフニャディを対オスマン戦の要と考えて彼を重職に任命し<ref name="el130"/>、フニャディの軍功を評価してハンガリー東部の恩貸地を与えた。軍功を重ねて国王から多くの恩貸地を与えられたフニャディ家は、ハンガリー最大の貴族に成長する<ref name="jiten">南塚「フニャディ」『東欧を知る事典』、427頁</ref><ref name="suzuki">鈴木「繁栄と危機」『ドナウ・ヨーロッパ史』、80-81頁</ref>。最盛期のフニャディは23,000ヘクタールの土地、28の城砦、57の町、およそ1000の村を所有していた<ref name="Lendvai"/>。同時代の多くの大貴族と異なり、フニャディは個人的な利益のために自らの領地から上がる収入、保有する軍事力、政治的地位を濫用しなかった。そして、国王から援助を受けずに自らの領地からの収入で軍隊を組織し、オスマン帝国と戦った<ref name="el132"/>。

=== オスマン帝国との戦闘 ===
フニャディの領地はオスマン軍迎撃の主戦場となった。

[[1441年]]にフニャディはスメデレヴォでオスマン軍を迎撃し、激戦の末に{{仮リンク|イスハク・ベイ|en|Ishak Bey}}を破る。[[1442年]]にメジト・ベイの率いる[[アクンジュ]](オスマン軍の非正規騎兵隊)がトランシルヴァニアに侵入し、ヘルマンシュタット([[シビウ]])が包囲を受ける。フニャディはオスマン軍を撃退し、メジト・ベイをはじめとする20,000のオスマン軍の将兵を敗死させる<ref name="aku63">アクシト『トルコ』2、63頁</ref>。同年9月にオスマン皇帝[[ムラト2世]]は報復としてハドゥム・シャハベッディン・パシャが率いる約80,000<ref name="aku63"/>-100,000<ref name="el132"/>の兵士をトランシルヴァニアに派遣し、フニャディは[[マジャル人]]と[[セーケイ人]]の非正規兵からなる15,000の兵士を率いて、オスマン軍の迎撃にあたる。フニャディは[[カルパティア山脈]]を越えての奇襲を行ってオスマン軍を打ち破った<ref name="el132"/>。オスマン軍迎撃の緒戦においては、馬車を軍の側面においてバリケードの代わりとし、銃砲を装備した馬車を攻撃に使用するフス派の戦法が用いられた<ref name="el132"/>。

キリスト教国にとって最大の脅威であるオスマン帝国から勝利を収めたことで、キリスト教世界でのフニャディの名声は高まった。フニャディはオスマン帝国に対して攻勢に出ようと試み、ウラースロー1世に親征の実施を訴える<ref name="el132"/>。この「大遠征」には、ハンガリー・ポーランドの兵士だけでなく、ワラキア、[[ブルガリア]]、[[ボスニア]]、[[アルバニア]]の兵士も加わるものとなり、さらにハンガリーは[[アナトリア半島]]でオスマン帝国と敵対する{{仮リンク|カラマン侯国|en|Karamanids}}とも同盟した<ref name="aku63"/>。フニャディが率いる部隊はウラースロー1世と別に行軍し、{{仮リンク|トラヤヌス門|en|Gate of Trajan}}を通過して[[バルカン山脈]]を踏破した。フニャディの別動隊はセルビアの[[ニシュ]]近郊でカスム・パシャ率いるオスマン軍に勝利し、ニシュを奪回する。ブルガリアの[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]に入城を果たした後、フニャディはウラースロー1世の本隊と合流し、ハンガリー軍はイズラディ峠でムラト2世に勝利を収めた<ref name="aku64">アクシト『トルコ』2、64頁</ref>。ハンガリー軍はオスマン帝国の首都[[エディルネ]]に進軍するが、山岳地帯に潜んでいたオスマン軍によって峠を封鎖され、加えて厳冬がハンガリー軍を襲う<ref name="el132"/>。ハンガリー軍は撤退せざるを得なくなり、遠征で重ねた勝利にもかかわらずボスニア、[[ヘルツェゴヴィナ]]、セルビア、ブルガリア、アルバニアでのオスマン帝国の影響力を完全に取り除くことはできなかった。

ハンガリーへの帰路についていたフニャディは、道中で教皇[[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]が派遣した枢機卿{{仮リンク|ジュリアン・チェザリーニ|en|Julian Cesarini}}の訪問を受ける。チェザリーニ、ジュラジ・ブランコヴィチとアルバニア公[[スカンデルベグ]]らは、フニャディに戦争の再開とオスマン帝国のヨーロッパからの放逐を説いた。そして、ムラト2世はアナトリア半島方面を脅かすカラマン侯国に対処するため、ハンガリーに和平を提案した<ref name="suzuki"/><ref name="aku64"/>。ハンガリーの使節団はエディルネを訪れ、10年間の休戦、セルビアとワラキアへの圧力の軽減を条件とする和平が成立した<ref name="aku64"/>。続いてムラト2世が派遣した使者が[[セゲド]]のハンガリー軍を訪れ、ジュラジ・ブランコヴィチとチェザリーニの仲介によって<ref name="horupu"/>ハンガリーに有利な条件で10年間の休戦協定が締結された。条約に調印したウラスロー1世は聖書に手を置いて協定の遵守を宣言したが<ref name="aku64"/>、この時にすでに和約の破棄の準備が進められていた。

=== ヴァルナの戦い ===
[[File:Varna 1444 Polski Kronika from 1564.jpg|thumb|250px|ヴァルナの戦い([[1564年]]にMartin Bielskiによって編纂された『ポーランド年代記』の挿絵より)]]
{{See also|ヴァルナの戦い}}
1442年2月初めにハンガリー軍はブダに帰還した<ref>尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)、868頁</ref>。

和約の締結後にムラト2世は退位を宣言し、帝位を息子の[[メフメト2世|メフメト]]に譲ってアナトリアの[[マニサ]]に隠棲する<ref name="aku64"/>。和約の締結から2日後、チェザリーニは[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の[[ガレー船|ガレー]]艦隊がアナトリアに移ったムラト2世のヨーロッパ帰国を阻止するために[[ボスポラス海峡]]を封鎖した知らせを受けて、ウラースロー1世に西欧の強国が海上でオスマン帝国を攻撃した時にはハンガリー軍は連携して陸地から攻撃をかけるという宣誓を思い出させた。[[1444年]]7月にハンガリー軍は国境地帯に引き返し、ヴェネツィア艦隊に護衛された[[コンスタンティノープル]]に向かうため、[[黒海]]沿岸部に進軍する。一方、和約の破棄に直面したオスマン帝国では、[[大宰相]]チャンダルル・ハリル・パシャの要請により、隠棲したムラト2世が皇帝に復位した<ref>鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)、59頁</ref>。

しかし、ブランコヴィチはオスマン帝国の報復を恐れて密かにキリスト教国の動向をムラト2世に知らせ、チェザリーニの参加を妨害した。[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]に到着したハンガリー軍は、ヴェネツィア艦隊がムラト2世の移動の妨害に失敗したことを知る。ムラト2世は輸送する兵士1人につき1ドゥカート(約3.73g<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、377頁</ref>)の金を支払う条件で[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]から船舶を買収し、ヨーロッパに帰国していた<ref name="aku64"/><ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、20頁</ref>。

1444年9月10日、フニャディはヴァルナで自軍の倍以上の兵数のオスマン軍と対峙する([[ヴァルナの戦い]])。フニャディはムラト2世の両翼を固める部隊を敗走させ、この時点ではハンガリー軍が勝利する可能性は残されていた。しかし、フニャディに軍の指揮を委任して後方に陣取っていたウラースロー1世が、護衛達にムラト2世が率いる本隊への総攻撃を命じた。ムラト2世を護衛する[[イェニチェリ]]はウラースロー1世の部隊を容易に破り、ウラースロー1世を馬から引きずりおろして殺害した<ref name="aku65">アクシト『トルコ』2、65頁</ref>。王の死によって混乱したハンガリー軍はオスマン軍の攻撃によって壊滅し、フニャディは「我々は王のために戦っているのではなく、キリスト教のために戦っているのだ」と軍を鼓舞したが、効果は無かった<ref name="aku65"/>。フニャディは辛うじて戦場から脱出するが、逃走中にワラキア公{{仮リンク|ヴラド2世|en|Vlad II Dracul}}によって投獄される。ワラキアと事実上の反オスマン同盟を結び、フニャディは解放される<ref>{{cite web|title=National Geographic Magyarország: A várnai csata|language=Hungarian|url=http://www.geographic.hu/index.php?act=napi&rov=5&id=742|accessdate=2008-06-02}}</ref>。ウラースロー1世の首は蜂蜜に漬けられて[[バスラ]]に送られ、槍の先に掲げられて晒し物にされた<ref>ウルリッヒ・クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』(戸叶勝也訳, アリアドネ企画, 1998年6月)、94頁</ref>。

翌[[1445年]]に開催されたハンガリー議会において、5人の代表からなる[[臨時政府]]が樹立され、フニャディはトランシルヴァニア公の地位と[[ティサ川]]沿岸部の4つの県を保有した<ref>Hunyadi article, Encyclopedia Britannica 1911</ref>。

=== 摂政就任後 ===
王を失ったハンガリーは無政府状態に陥り<ref name="jiten"/>、ラースロー5世が新たなハンガリー王に選出されたが、神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]はラースロー5世のハンガリー行を許さなかった<ref name="suzuki"/>。[[1446年]]6月5日、ラースロー5世の名の下にフニャディはハンガリー王国の[[摂政]](Regni Gubernator)に選出され、権限を授与される。摂政就任にあたってはヴァーラド司教{{仮リンク|ヴィテーズ・ヤーノシュ|en|János Vitéz (bishop)}}の宣伝工作が功を奏し、中小貴族がフニャディの支持基盤を構成していた<ref name="el133">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、133頁</ref>。ラースロー5世の解放を拒んだフリードリヒ3世への対応が、摂政となったフニャディの最初の仕事となる。ハプスブルク家の支配下にある{{仮リンク|シュタイアーマルク公国|en|Duchy of Styria|label=スティリア}}、[[ケルンテン公国|ケルンテン]]、[[カルニオラ]]を破壊し、[[ウィーン]]を脅かした後、フリードリヒ3世と2年間の休戦協定を締結した。

摂政となったフニャディは中央権力と国防の強化に努め、反大貴族・反ハプスブルク家の方針を採った<ref name="jiten"/>。フニャディの指導下では中小貴族に有利な法令が施行され、宮廷の要職に彼らが登用された<ref name="el133"/>。しかし、摂政であるフニャディは王権の全てを有しておらず、中小貴族たちもフニャディへの全権の付与をためらっていたため、中央権力の強化は進展しなかった<ref name="el133"/>。

[[1448年]]にフニャディは{{仮リンク|ペトル3世 (モルドヴァ公)|en|Petru III of Moldavia|label=ペトル3世}}の[[モルドヴァ]]公即位を助け、見返りとして対オスマンの防備の拠点である{{仮リンク|キリヤ (ウクライナ)|en|Kiliya, Ukraine|label=キリア}}を割譲される<ref name="ote"/>。この年にフニャディは教皇[[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]]から金の鎖と公の称号を授与され、直後にオスマン帝国との戦争を再開する。しかし、大貴族のツィレイ家とセルビアはフニャディを裏切り、フニャディの同盟者であるスカンデルベグの到着は遅れていた<ref name="el133"/>。1448年10月に[[コソヴォ]]でハンガリー軍とオスマン軍は激突し、3日にわたる戦闘の末にハンガリー軍はオスマン軍の包囲攻撃を受けて敗北する({{仮リンク|コソヴォの戦い (1448年)|en|Battle of Kosovo (1448)|label=コソヴォの戦い}})<ref name="aku65"/>。フニャディは逃走中にブランコヴィチに捕らえられ、セルビア、ツィレイ家と協定を結んだ後に解放された<ref name="el133"/>。コソヴォでの敗戦の後、ハンガリー内部の抗争によってオスマン帝国に対する軍事作戦は中断される<ref name="ote"/>。国内での立場が弱まったフニャディは、ハプスブルク派の貴族に接近して地位の回復を図ることになる<ref name="suzuki"/>。

[[1450年]]にフニャディはポジョニ([[ブラチスラヴァ]])に赴き、フリードリヒ3世とラースロー5世の解放について協議するが、合意には至らなかった。この年にフニャディ家・ツィレイ家・セルビアの同盟に大貴族のガライ家とウイラキ家が加わり、フニャディの長子[[フニャディ・ラースロー|ラースロー]]はガライ家、次子の[[マーチャーシュ1世|マーチャーシュ]]はツィレイ家の娘と結婚する<ref name="el133"/>。同盟を結成した大貴族たちは協力してハンガリーに国王を迎え入れようとし、オーストリア・ボヘミアの支持を得て、フリードリヒ3世にラースロー5世のハンガリー行を決定させた<ref>エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、133-134頁</ref>。翌[[1451年]]、フニャディは軍備を整えるために再びオスマン帝国と休戦協定を締結する<ref name="ote"/>。

大貴族[[ウルリク2世 (ツェリェ伯)|ツィレイ・ウルリク]]らのフニャディの政敵たちは、彼が国王を打倒する陰謀を企てていると非難した。より混迷する国内情勢を安定させるため、フニャディは摂政の地位と権限を返上しなければならなくなる。[[1452年]]にフニャディはウィーンに赴き、成年に達したラースロー5世に国王権力を返還した<ref name="suzuki"/>。

1453年初頭にフニャディはハンガリーに帰国し、ラースロー5世はフニャディを総司令官兼大蔵卿に任命した。また、フニャディには多くの称号と恩貸地が授与され、[[ビストリツァ]]、[[トランシルヴァニア・ザクセン人]]の居住区がフニャディの領地に加わる<ref>[http://books.google.ro/books?id=vEJNBqanT_8C&pg=PA293&dq=%22Ladislaus+granted+him+the+district+of+Bistri%7Ba,+belonging+to+the+Saxons+of+Transylvania,+together+with+the+hereditary+title+of+'perpetual+count'+(perpetuus+comes+Bistriciensis).%22&hl=ro&sa=X&ei=XhvsUObkKM3ptQbP5oGwAQ&ved=0CDIQ6AEwAA#v=onepage&q=%22Ladislaus%20granted%20him%20the%20district%20of%20Bistri%7Ba%2C%20belonging%20to%20the%20Saxons%20of%20Transylvania%2C%20together%20with%20the%20hereditary%20title%20of%20'perpetual%20count'%20(perpetuus%20comes%20Bistriciensis).%22&f=false Pál Engel, ''Realm of St. Stephen: A History of Medieval Hungary'' ]</ref>。ツィレイ・ウルリクはフニャディの地位を妬み、ガライ家、ウイラキ家と同盟してフニャディに敵対した<ref name="el134">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、134頁</ref>。

=== ベオグラードの勝利と死 ===
[[File:Fresco siege of Belgrade 1456 in Olomouc.jpg|thumb|180px|right|1468年に[[オロモウツ]]のChurch of Immaculate Conception of Virgin Maryに描かれた、ベオグラード包囲戦の[[フレスコ画]]]]
[[File:Alba Iulia 2011 - Roman Catholic Cathedral - Tomb of John Hunyadi-1.jpg|thumb|180px|right|[[アルバ・ユリア]]の聖堂内のフニャディの墓]]
[[1453年]]にオスマン帝国のコンスタンティノープル包囲が進められる中、ビザンツ皇帝[[コンスタンティノス11世]]はハンガリーに援助を求めたが、フニャディは国内の事情と休戦協定を理由に明確な返答を避けた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、37頁</ref>。同年にコンスタンティノープルが陥落し([[コンスタンティノープルの陥落]])、オスマン帝国は再びハンガリーを攻撃の目標とする<ref name="horupu"/>。オスマン帝国の皇帝[[メフメト2世]]は、南ハンガリーへの入り口であるナーンドルフェヘールヴァール(現在の[[ベオグラード]])を攻略の対象とし、ベオグラードの陥落はオスマン軍の中央ヨーロッパへの進路が開かれることを意味していた。オスマン軍の攻勢に対してラースロー5世は国外に逃亡し、大貴族たちは腰を上げようとしなかった<ref name="el134"/>。

フニャディは政敵との不和を解消した後、[[1455年]]末に包囲を受けていたベオグラードに到着する。ベオグラードに自身が調達した武器と食料を補給し、指揮官として義弟の{{仮リンク|シラージ・ミハーイ|en|Michael Szilágyi}}と長子ラースローを要塞に残していったん離脱した。フニャディは兵士を集め、ドナウ河畔の町や村からかき集めた200隻の小舟で即席の艦隊を作り上げる<ref name="kra118">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、118頁</ref>。教皇の元から派遣された[[フランシスコ会]]の修道士{{仮リンク|カピストラーノのジョン|en|John of Capistrano|label=ジョヴァンニ・デ・カピストラヌス}}がフニャディの有力な協力者となり、軍事経験の無い貧民から構成される十字軍を情熱的な演説で奮い立たせていた<ref name="kra118"/>。カピストラヌスの率いる兵士のほとんどは鎌や熊手といった農具で武装しており、彼らはフニャディが率いる少数精鋭の傭兵隊の下に集まった。

1456年7月にメフメト2世の率いる軍隊がベオグラードの前に現れ、町に砲撃を加えた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、117頁</ref>。カピストラヌスが率いる寄せ集めの兵士と即席の艦隊がオスマン軍に攻撃を行っている間にフニャディは包囲を受けているベオグラードに突入し、城内の守備隊と合流した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、118-119頁</ref>。オスマン軍が城壁に開けられた裂け目から市内に突入すると、フニャディは城内に配置した伏兵で奇襲をかけて勝利を収め、オスマン軍の将軍、イェニチェリの多くが戦死した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、120頁</ref>。

フニャディの勝利により、ハンガリー南東部ではおよそ70年の間平穏な状態が保たれる。しかし、包囲が解除された3週間後にハンガリー軍内で疫病が流行し、1456年8月11日にフニャディは病に罹って没した。死因は[[ペスト]]と考えられている<ref name="kra121"/><ref name="zusetsu"/><ref name="ote"/><ref name="horupu"/><ref name="suzuki"/>。最期にフニャディは「私は友人を、キリスト教を、ハンガリーを全ての敵から守りぬいた。キリスト教の信徒同士で争ってはならない。仲間同士の争いで無駄な力を使うことがあれば、運命は閉ざされ、我々の国の墓が建つだろう」と言い遺した<ref>{{cite book|last=Sisa|first=Stephen |title=The spirit of Hungary: a panorama of Hungarian history and culture|publisher=Vista Books (original from [[University of Michigan]])|year=1990|pages=56|edition=2}}</ref>。

== 評価 ==
フニャディは息子の[[マーチャーシュ1世]]とともにハンガリーの国民的英雄とみなされ、オスマン帝国の脅威からの守護者として称賛されている<ref>{{cite book|title=Volume 7 of World and Its Peoples: Europe|publisher=[[Marshall Cavendish]]|year=2009|pages=891|isbn=978-0-7614-7883-6|quote=In the war, Janos Hunyadi (1387–1456), subsequently a Hungarian national hero, emerged to lead Hungary's political life.}}</ref><ref>{{cite book|last=Shaw|first=Stanford Jay|title=History of the Ottoman Empire and modern Turkey, Volume 1|publisher=[[Cambridge University Press]]|year=1976|pages=51|isbn=978-0-521-29163-7|quote=Hunyadi had suddenly risen as the great Hungarian national hero as a result of his victories over the Turks in 1442.}}</ref><ref>{{cite book|last=Dupuy|first=Richard Ernest |title=The encyclopedia of military history from 3500 B.C. to the present|publisher=[[Harper & Row]], original from University of Michigan|year=1986|pages=435|isbn=978-0-06-181235-4|quote= John Hunyadi, the national hero of
Hungary, and his son Mathias Corvinus, who reigned as King of Hungary}}</ref><ref>{{cite book|last=Matthews|first=John P. C.|title=Explosion: the Hungarian Revolution of 1956|year= 2007|publisher=Hippocrene Books|isbn=978-0-7818-1174-3|quote=One of the most powerful personalities in Hungarian history, Hunyadi established a national unity and order which transcended privileges and special interests and succeeded in raising Hungary to the status of a great power.|pages=73–74}}</ref>。非ハンガリー民族の出身であるフニャディはハンガリー的な精神とハンガリー貴族の思考を受容することに努めたが、自身の出自を忘れ去ることは無かった<ref name="car"/>。ハンガリーの大貴族たちから敵視され、時にはハンガリー王から恐れられた<ref name="car"/>。しかし、配下の兵士とハンガリーの中小貴族、そして民衆からは敬愛され、[[オスマン帝国]]の[[皇帝]]([[スルターン]])はフニャディに対してハンガリー王以上に敬意を払っていた<ref name="car"/>。ハンガリーが外圧と内訌に苦しみ、国王が名目だけの存在となる中でフニャディは苦難に立ち向かい、死後も民族的英雄として称賛される<ref name="horupu"/>。「ハンガリー第二の国歌」といわれるSzózat([[:en:Szózat|en]])の歌詞には、フニャディの名前が現れる。

ルーマニア史においても、フニャディは重要な役割を果たした<ref>[[Lucian Boia]], [http://books.google.ro/books?id=RM6MRPWXxQYC&pg=PA135&dq=%22by+Romanian+and+Hungarian+historiography%22&hl=ro&sa=X&ei=7A9NUqboKoKytAb1m4GQAw&ved=0CDAQ6AEwAA#v=onepage&q=%22by%20Romanian%20and%20Hungarian%20historiography%22&f=false ''History and Myth in Romanian Consciousness''], Central European University Press, Budapest, 2001. ISBN 963-9116-96-3</ref>。1442年以降、フニャディは[[ワラキア|ワラキア公国]]と[[モルダヴィア|モルドヴァ公国]]に大きな影響力を持つようになった<ref name="ote"/>。ルーマニア人に属する血統とトランシルヴァニア公([[ルーマニア]]の一地域である[[トランシルヴァニア]]は、フニャディの存命中はハンガリー王国に属していた)の地位により、ルーマニアの国民的英雄として記憶されている。

15世紀当時のセルビア・クロアチアにおいてはフニャディはハンガリー人としてみなされて「Ugrin Janko」「Janko the Hungarian」と呼ばれていたが<ref>Domokos Varga, [http://books.google.co.uk/books?id=JHu2AAAAIAAJ&q=Serbian+Ugrin+Janko&dq=Serbian+Ugrin+Janko&hl=en&ei=TgNuTaqoE4SYhQfVnYWcDg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CEAQ6AEwBQ Hungary in greatness and decline: the 14th and 15th centuries], Hungarian Cultural Foundation, 1982, p. 66</ref><ref name="Chadwick 1986 317"/>後世にはフニャディをセルビアの生まれとする叙情詩([[:en:Bugarštica|en]])が成立した<ref name="Chadwick 1986 317">{{cite book|last=Chadwick|first=H. Munro|coauthors=Nora Kershaw Chadwick|url=http://books.google.co.uk/books?id=Ds2oBKF_FrUC&pg=PA317&dq=Ugrin+Janko#v=onepage&q=recognised%20as%20being&f=false|title=The Growth of Literature, Volume 2|publisher=[[Cambridge University Press]]|year=1986|pages=316–317|isbn=978-0-521-31018-5}}</ref>。ブルガリアの民間伝承では、フニャディの活躍は叙情詩の英雄であるYankul(a) Voivodaに投影され、Yankul(a) Voivodaはフニャディの甥Thomas Székelyをモデルにしたと思われる架空の英雄Sekula Detentseと行動を共にしている<ref name="Балкански 1996 102–103">{{cite book|last=Балкански|first=Тодор |title=Трансилванските (седмиградските) българи. Етнос. Език. Етнонимия. Ономастика. Просопографии|publisher=ИК Знак 94 Велико Търново|year=1996|pages=102–103|edition=1}}</ref>。

フランスの著述家・外交官のPhilippe de Comminesはフニャディについて、長い間ハンガリー王国を支え、オスマン帝国に対してたびたび勝利を収めた、勇敢かつ慎重な「ワラキアの白い騎士」と記した<ref name=Commynes>{{cite book|last=Scoble|first=Andrew Richard|title=The Memoirs of Philippe De Commynes, Lord of Argenton (Volume 2); Containing the Histories of Louis Xi and Charles Viii, Kings of France|page=87|isbn=978-1-150-90258-1}}</ref>。

教皇[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]はフニャディを「過去3世紀に生まれた中でもっとも偉大な男」と賛美した<ref name="kra121"/>。そして、毎日の正午に鐘を鳴らして信徒を集めてベオグラードで勝利を収めた「キリスト教世界の守護者」フニャディに祈りを奉げるよう、ヨーロッパの全ての教会に命じた<ref>{{cite book|title=The history of modern Europe: From the fall of Constantinople|author=Thomas Henry Dyer|page=85|url=http://books.google.com/books?id=jBAMAAAAYAAJ&pg=PA85&dq=Noon+bell+belgrade&cd=5#v=onepage&q=Noon%20bell%20belgrade&f=false | year=1861 | publisher=J. Murray}}</ref><ref>[http://www.mek.oszk.hu/02000/02085/02085.htm István Lázár: Hungary: A Brief History] (see in Chapter 6)</ref>。正午に鐘を鳴らす後世の教会の習慣は、ベオグラードの勝利を記念したカリストゥス3世の命令に始まると考えられている<ref>{{cite book | author = Kerny, Terézia | authorlink = | editor = | others = | title =The Hungarian Quarterly|chapter=The Renaissance – Four Times Over. Exhibitions Commemorating Matthias’s Accession to the Throne | issue=190/2008|edition = | publisher = Society of the Hungarian Quarterly | location =[[Budapest]], [[Hungary]] | year = 2008 | pages =79–90 | isbn = | oclc = | doi = | url =http://www.ceeol.com/aspx/issuedetails.aspx?issueid=36917033-77c7-4622-8f76-dae90f531363&articleId=ca7d4a8b-cee0-4d8b-beab-fb1536ba3597 | accessdate = }}</ref><ref>http://www.hungarianhistory.com/lib/hunyadi/hu01.htm</ref><ref>http://nq.oxfordjournals.org/cgi/reprint/CLXVII/sep08/171-d</ref>。

== 家族 ==
[[1432年]]にフニャディはハンガリー人貴族の娘{{仮リンク|シラージ・エルジェーベト|en|Erzsébet Szilágyi (noblewoman)}}と結婚した。フニャディは[[フニャディ・ラースロー|ラースロー]]と[[マーチャーシュ1世|マーチャーシュ]]の2人の息子をもうける<ref name="el133"/>。ラースロー5世が没した後、1458年1月20日にマーチャーシュが新たなハンガリー王に選出された。

また、[[エステルゴム大司教]]{{仮リンク|ニコラウス・オラフス|en|Nicolaus Olahus}}(オラー・ミクローシュ)は、フニャディの甥にあたる
<ref>http://books.google.com/books?id=Y4EsAQAAIAAJ&q=iancu+de&dq=iancu+de&hl=en&ei=CWt7TYS2M8ey8QO4xfC6Cw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5&ved=0CDcQ6AEwBDgy</ref>。

== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* 鈴木広和「繁栄と危機」『ドナウ・ヨーロッパ史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1999年3月)
* 南塚信吾「フニャディ」『東欧を知る事典』新訂増補収録(平凡社, 2001年3月)
* 南塚信吾『図説ハンガリーの歴史』(ふくろうの本、河出書房新社、2012年3月)
* N.アクシト『トルコ』2(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)
* コーシュ・カーロイ『トランシルヴァニア』(奥山裕之、山本明代訳, 恒文社, 1991年9月)
* パムレーニ・エルヴィン編『ハンガリー史 1』増補版(田代文雄、鹿島正裕訳、恒文社、1990年2月)
* アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)
* アンドレイ・オツェテァ『ルーマニア史』1巻(鈴木四郎、鈴木学共訳, 恒文社, 1977年5月)
* エドワード.M.ピーターズ「フニャディ」『世界伝記大事典 世界編』8巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1981年6月)


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2014年2月4日 (火) 11:54時点における版

フニャディ・ヤーノシュ
Hunyadi János
トランシルヴァニア公
在位 1441年 - 1456年
別号 ハンガリー王国摂政

出生 1386年/1407年/09年
死去 1456年8月11日
ゼムン[1]
配偶者 シラージ・エルジェーベト(en
子女 ラースロー
マーチャーシュ
家名 フニャディ家
父親 ヴォイク(Voyk[2]、Voicu、Vajk[3]
母親 エルジェーベト(Elizabeth Morsina[4]もしくはElizabeth Morzsinay[5]
サイン
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フニャディ・ヤーノシュハンガリー語: Hunyadi Jánosルーマニア語: Iancu/Ioan de Hunedoaraラテン語: Ioannes Corvinus or de Hunyad1386年[6]/1407年[7]/09年[7] - 1456年8月11日)は、ルーマニア出身のハンガリー貴族

同時代の史料には、ルーマニア南部のワラキアの貴族の家系の出身と記される。オスマン帝国の侵入に晒されるハンガリー南部の国境地帯に身を置き、軍事技術を習得した。1441年トランシルヴァニアの公(ヴォイヴォダ)といくつかの地区の知事に任ぜられ、国境の防衛を一手に引き受けた。

ボヘミアフス派の傭兵がフニャディの戦力の中心であり、親族、信奉者、家臣を軍に加え、一般の民衆も軍隊に編入する[8]。そして、戦闘に大型の四輪荷車を連結するフス派の戦法(en)を導入した[9]。一連の軍事技術の革新によって、1440年代初頭にハンガリー南部に侵入したオスマン軍に勝利することができた。1444年ヴァルナの戦い1448年コソヴォの戦いでの敗北にもかかわらず、1443年から1444年にかけてのバルカン山脈を越えての「大遠征」と1456年のベオグラードでのオスマン皇帝メフメト2世に対する勝利によって、偉大なる指揮官としての名声を確立した。キリスト教世界のために戦う兵士を激励するため、ローマ教皇は週に一度教会の鐘を鳴らすよう命じていたが、1456年のベオグラード防衛の後、カトリックの教会と古いプロテスタントの教会はフニャディの勝利を記念して毎日の正午に鐘を鳴らすようになった。

フニャディは、政治家としても優れた人物だった[10]。1440年代初頭にヴワディスワフ3世(後のウラースロー1世)とラディスラウス・ポストゥムス(後のラースロー5世)がハンガリー王位を巡って争った時、フニャディは前者を積極的に支持する。フニャディは議会の中小貴族から支持を集め、1445年にウラースロー1世の死後にハンガリー王に選出されたラースロー5世が成年に達するまでの間、ハンガリーの国政を担当する7人の「レルムの指導者」のうちの1人に選出された。続く国会で、フニャディは唯一の摂政に選出される。1452年に摂政の地位を辞任した後、ラースロー5世はフニャディを総司令官に命じ、多くの爵位を与えた。かくしてフニャディはハンガリーの有力な大貴族の1人になり、没時まで議会における影響力を維持した。

教皇ピウス2世はフニャディを「Athleta Christi」(キリスト教の守護者)と讃えたが、フニャディはベオグラードの勝利の3週間後に軍内で流行していた疫病に罹って没する。フニャディの勝利によって、ハンガリー王国は長らくオスマン帝国の侵入から守られる[11]

出自

ブダペスト英雄広場に置かれているフニャディ像
ジグモンドの発した特許状(1409年8月18日付)[12]

フニャディ家はルーマニアのワラキア出身のハンガリー貴族であり[7]、ルーマニア人を祖に持つと[13][14][15]多くの資料に記されている。フニャディ存命時の文献の中には、彼を指してValachusやBalachusといった、「ワラキア人」の意味を持つ言葉を使っているものもある[16]グラッツ・ フェレンツ英語版などの一部の歴史家は、フニャディをクマン人の末裔と考えている[17][18]。また、ハツェグ英語版出身のルーマニア人小貴族の出とする説もある[19]

フニャド城

フニャディの名前が最初に現れるのは1409年ハンガリー王ジグモンド神聖ローマ皇帝ジギスムント)が発した書状である。ハンガリーの宮廷に仕えていたフニャディの父ヴォイクは、この年にジグモンドからフニャド城英語版(現在のルーマニアのフネドアラ県に位置する)と領地、貴族としての地位を与えられた[20]

フニャディの祖父は、集落の指導者だと考えられている[20]。中世の年代記作家は父のヴォイクをヴラフ人の家系の生まれと記し[21][22]、後世の歴史学者も年代記作家の見解に同意している.[23][24][25][26][27]。ヴォイクはハンガリーの貴族(クニャージ)であるが、ヴォイクの名前の語源がタタール・クマン人の人名と関連性を示すことに着目する見解もある[28]

フニャディの母親のエルジェーベト(ハンガリー語: Morzsinay Erzsébetルーマニア語: Elisabeta Morşina or Elisabeta de Margina[29])は、カランセベシュ出身[30]のハンガリー人零細貴族と考えられている。Gáspár Heltaiは、エルジェーベトをフニャド(フネドアラ)出身の身分のルーマニア人小貴族と記した[31]

フニャディの息子であるマーチャーシュ1世に仕えた歴史家のアントニオ・ボンフィーニイタリア語版は、フニャディ家の祖先を古代ローマ時代の氏族であるCorvinaないしはValerianaに比定し、「ルーマニア人の父親とギリシャ人の母親から生まれた」主君の血筋を称えた。ボンフィーニと同時代のハンガリーの歴史家Johannes de Thuroczも著書『ハンガリー年代記』で同じようにマーチャーシュ1世の血統を称え、フニャディ家をフン族の末裔とし、マーチャーシュ1世を「第二のアッティラ」と呼んだ[32]。ボンフィーニは、伝記の中でマーチャーシュ1世をコルヴィヌス(Corvinus、「カラス」の意)の渾名で呼び、マーチャーシュ1世の父親であるフニャディもしばしばコルヴィヌスの渾名で呼ばれる[33]16世紀ザクセンの歴史家であるGáspár Heltaiは、フニャディはジグモンドと貴族の娘エルジェーベトの間に生まれた落胤だと記している[34][35]

生涯

若年時

ファイル:Hunyadi janos pecsetje es cimere.gif
フニャディが用いていた紋章

若年時のフニャディはハンガリー王国の宮廷に出仕していた[10]。ジグモンドはフニャディの才能を評価して従者とし、時には金を貸し与えた。1434年付けの文書には、フニャディ(Johannes dictus Olah)が1,200フロリンの金の融資を受けた旨が記載されている[36][37]1410年にジグモンドが神聖ローマ皇帝を求めてフランクフルトに遠征した時に、幼いフニャディも行軍に伴われた。

成長したフニャディは、ジグモンドに従ってイタリアボヘミアでの戦役に従軍した[7]1420年ボヘミアフス派との戦闘に参加し、1437年にはオスマン軍に包囲されたスメデレヴォへの援軍として、フニャディはハンガリー南部に派遣される。遠征において、若いフニャディはジグモンド、セルビア公ステファン・ラザレヴィチ英語版、イタリアの傭兵隊長フィリッポ・スコラーリ英語版らヨーロッパの有力な指導者や指揮官の下で働いた。1431年から1433年の間に、ミラノに滞在したフニャディはこの地の僭主フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの下で傭兵隊長を務めるフランチェスコ・スフォルツァの知己となった[38]

やがてフニャディはハンガリー王から多くの土地を授与され、議会での地位を高めていく。フニャディの人気は急速に高まり、1438年セヴェリンの侯の地位を与えられ[9]、ハンガリー南部の防衛を委任される。カルパチア山脈ドラーヴァ川サヴァ川ドナウ川が含まれるハンガリー南部地域は、常にオスマン帝国の侵入の脅威に晒されていた。

1439年にハンガリー王アルベルトが没した後、1440年ハプスブルク家ラディスラウス・ポストゥムス(ラースロー5世)を支持する大貴族と、ポーランド王ヴワディスワフ3世(ウラースロー1世)をハンガリー王に招こうとする中小貴族が争った[20][39]。フニャディはウラースロー1世を支持し、王位を巡る内戦はウラースロー1世の勝利に終わる[20]。だが、ウラースロー1世の即位後に、スラヴォニアクロアチアはラースロー5世の母方の親族である大貴族ツィレイ家、ハンガリー北部は傭兵隊長のヤン・イスクラが支配し、中央から独立した勢力を形成していた[39]

1441年にフニャディはトランシルヴァニアの公(ヴォイヴォダ)、テメシュ(ティミショアラ)知事に任じられる[9]。ウラースロー1世はフニャディを対オスマン戦の要と考えて彼を重職に任命し[39]、フニャディの軍功を評価してハンガリー東部の恩貸地を与えた。軍功を重ねて国王から多くの恩貸地を与えられたフニャディ家は、ハンガリー最大の貴族に成長する[40][41]。最盛期のフニャディは23,000ヘクタールの土地、28の城砦、57の町、およそ1000の村を所有していた[13]。同時代の多くの大貴族と異なり、フニャディは個人的な利益のために自らの領地から上がる収入、保有する軍事力、政治的地位を濫用しなかった。そして、国王から援助を受けずに自らの領地からの収入で軍隊を組織し、オスマン帝国と戦った[8]

オスマン帝国との戦闘

フニャディの領地はオスマン軍迎撃の主戦場となった。

1441年にフニャディはスメデレヴォでオスマン軍を迎撃し、激戦の末にイスハク・ベイ英語版を破る。1442年にメジト・ベイの率いるアクンジュ(オスマン軍の非正規騎兵隊)がトランシルヴァニアに侵入し、ヘルマンシュタット(シビウ)が包囲を受ける。フニャディはオスマン軍を撃退し、メジト・ベイをはじめとする20,000のオスマン軍の将兵を敗死させる[42]。同年9月にオスマン皇帝ムラト2世は報復としてハドゥム・シャハベッディン・パシャが率いる約80,000[42]-100,000[8]の兵士をトランシルヴァニアに派遣し、フニャディはマジャル人セーケイ人の非正規兵からなる15,000の兵士を率いて、オスマン軍の迎撃にあたる。フニャディはカルパティア山脈を越えての奇襲を行ってオスマン軍を打ち破った[8]。オスマン軍迎撃の緒戦においては、馬車を軍の側面においてバリケードの代わりとし、銃砲を装備した馬車を攻撃に使用するフス派の戦法が用いられた[8]

キリスト教国にとって最大の脅威であるオスマン帝国から勝利を収めたことで、キリスト教世界でのフニャディの名声は高まった。フニャディはオスマン帝国に対して攻勢に出ようと試み、ウラースロー1世に親征の実施を訴える[8]。この「大遠征」には、ハンガリー・ポーランドの兵士だけでなく、ワラキア、ブルガリアボスニアアルバニアの兵士も加わるものとなり、さらにハンガリーはアナトリア半島でオスマン帝国と敵対するカラマン侯国英語版とも同盟した[42]。フニャディが率いる部隊はウラースロー1世と別に行軍し、トラヤヌス門英語版を通過してバルカン山脈を踏破した。フニャディの別動隊はセルビアのニシュ近郊でカスム・パシャ率いるオスマン軍に勝利し、ニシュを奪回する。ブルガリアのソフィアに入城を果たした後、フニャディはウラースロー1世の本隊と合流し、ハンガリー軍はイズラディ峠でムラト2世に勝利を収めた[43]。ハンガリー軍はオスマン帝国の首都エディルネに進軍するが、山岳地帯に潜んでいたオスマン軍によって峠を封鎖され、加えて厳冬がハンガリー軍を襲う[8]。ハンガリー軍は撤退せざるを得なくなり、遠征で重ねた勝利にもかかわらずボスニア、ヘルツェゴヴィナ、セルビア、ブルガリア、アルバニアでのオスマン帝国の影響力を完全に取り除くことはできなかった。

ハンガリーへの帰路についていたフニャディは、道中で教皇エウゲニウス4世が派遣した枢機卿ジュリアン・チェザリーニ英語版の訪問を受ける。チェザリーニ、ジュラジ・ブランコヴィチとアルバニア公スカンデルベグらは、フニャディに戦争の再開とオスマン帝国のヨーロッパからの放逐を説いた。そして、ムラト2世はアナトリア半島方面を脅かすカラマン侯国に対処するため、ハンガリーに和平を提案した[41][43]。ハンガリーの使節団はエディルネを訪れ、10年間の休戦、セルビアとワラキアへの圧力の軽減を条件とする和平が成立した[43]。続いてムラト2世が派遣した使者がセゲドのハンガリー軍を訪れ、ジュラジ・ブランコヴィチとチェザリーニの仲介によって[10]ハンガリーに有利な条件で10年間の休戦協定が締結された。条約に調印したウラスロー1世は聖書に手を置いて協定の遵守を宣言したが[43]、この時にすでに和約の破棄の準備が進められていた。

ヴァルナの戦い

ヴァルナの戦い(1564年にMartin Bielskiによって編纂された『ポーランド年代記』の挿絵より)

1442年2月初めにハンガリー軍はブダに帰還した[44]

和約の締結後にムラト2世は退位を宣言し、帝位を息子のメフメトに譲ってアナトリアのマニサに隠棲する[43]。和約の締結から2日後、チェザリーニはヴェネツィアガレー艦隊がアナトリアに移ったムラト2世のヨーロッパ帰国を阻止するためにボスポラス海峡を封鎖した知らせを受けて、ウラースロー1世に西欧の強国が海上でオスマン帝国を攻撃した時にはハンガリー軍は連携して陸地から攻撃をかけるという宣誓を思い出させた。1444年7月にハンガリー軍は国境地帯に引き返し、ヴェネツィア艦隊に護衛されたコンスタンティノープルに向かうため、黒海沿岸部に進軍する。一方、和約の破棄に直面したオスマン帝国では、大宰相チャンダルル・ハリル・パシャの要請により、隠棲したムラト2世が皇帝に復位した[45]

しかし、ブランコヴィチはオスマン帝国の報復を恐れて密かにキリスト教国の動向をムラト2世に知らせ、チェザリーニの参加を妨害した。ヴァルナに到着したハンガリー軍は、ヴェネツィア艦隊がムラト2世の移動の妨害に失敗したことを知る。ムラト2世は輸送する兵士1人につき1ドゥカート(約3.73g[46])の金を支払う条件でジェノヴァから船舶を買収し、ヨーロッパに帰国していた[43][47]

1444年9月10日、フニャディはヴァルナで自軍の倍以上の兵数のオスマン軍と対峙する(ヴァルナの戦い)。フニャディはムラト2世の両翼を固める部隊を敗走させ、この時点ではハンガリー軍が勝利する可能性は残されていた。しかし、フニャディに軍の指揮を委任して後方に陣取っていたウラースロー1世が、護衛達にムラト2世が率いる本隊への総攻撃を命じた。ムラト2世を護衛するイェニチェリはウラースロー1世の部隊を容易に破り、ウラースロー1世を馬から引きずりおろして殺害した[48]。王の死によって混乱したハンガリー軍はオスマン軍の攻撃によって壊滅し、フニャディは「我々は王のために戦っているのではなく、キリスト教のために戦っているのだ」と軍を鼓舞したが、効果は無かった[48]。フニャディは辛うじて戦場から脱出するが、逃走中にワラキア公ヴラド2世によって投獄される。ワラキアと事実上の反オスマン同盟を結び、フニャディは解放される[49]。ウラースロー1世の首は蜂蜜に漬けられてバスラに送られ、槍の先に掲げられて晒し物にされた[50]

1445年に開催されたハンガリー議会において、5人の代表からなる臨時政府が樹立され、フニャディはトランシルヴァニア公の地位とティサ川沿岸部の4つの県を保有した[51]

摂政就任後

王を失ったハンガリーは無政府状態に陥り[40]、ラースロー5世が新たなハンガリー王に選出されたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世はラースロー5世のハンガリー行を許さなかった[41]1446年6月5日、ラースロー5世の名の下にフニャディはハンガリー王国の摂政(Regni Gubernator)に選出され、権限を授与される。摂政就任にあたってはヴァーラド司教ヴィテーズ・ヤーノシュ英語版の宣伝工作が功を奏し、中小貴族がフニャディの支持基盤を構成していた[52]。ラースロー5世の解放を拒んだフリードリヒ3世への対応が、摂政となったフニャディの最初の仕事となる。ハプスブルク家の支配下にあるスティリアケルンテンカルニオラを破壊し、ウィーンを脅かした後、フリードリヒ3世と2年間の休戦協定を締結した。

摂政となったフニャディは中央権力と国防の強化に努め、反大貴族・反ハプスブルク家の方針を採った[40]。フニャディの指導下では中小貴族に有利な法令が施行され、宮廷の要職に彼らが登用された[52]。しかし、摂政であるフニャディは王権の全てを有しておらず、中小貴族たちもフニャディへの全権の付与をためらっていたため、中央権力の強化は進展しなかった[52]

1448年にフニャディはペトル3世英語版モルドヴァ公即位を助け、見返りとして対オスマンの防備の拠点であるキリア英語版を割譲される[9]。この年にフニャディは教皇ニコラウス5世から金の鎖と公の称号を授与され、直後にオスマン帝国との戦争を再開する。しかし、大貴族のツィレイ家とセルビアはフニャディを裏切り、フニャディの同盟者であるスカンデルベグの到着は遅れていた[52]。1448年10月にコソヴォでハンガリー軍とオスマン軍は激突し、3日にわたる戦闘の末にハンガリー軍はオスマン軍の包囲攻撃を受けて敗北する(コソヴォの戦い英語版[48]。フニャディは逃走中にブランコヴィチに捕らえられ、セルビア、ツィレイ家と協定を結んだ後に解放された[52]。コソヴォでの敗戦の後、ハンガリー内部の抗争によってオスマン帝国に対する軍事作戦は中断される[9]。国内での立場が弱まったフニャディは、ハプスブルク派の貴族に接近して地位の回復を図ることになる[41]

1450年にフニャディはポジョニ(ブラチスラヴァ)に赴き、フリードリヒ3世とラースロー5世の解放について協議するが、合意には至らなかった。この年にフニャディ家・ツィレイ家・セルビアの同盟に大貴族のガライ家とウイラキ家が加わり、フニャディの長子ラースローはガライ家、次子のマーチャーシュはツィレイ家の娘と結婚する[52]。同盟を結成した大貴族たちは協力してハンガリーに国王を迎え入れようとし、オーストリア・ボヘミアの支持を得て、フリードリヒ3世にラースロー5世のハンガリー行を決定させた[53]。翌1451年、フニャディは軍備を整えるために再びオスマン帝国と休戦協定を締結する[9]

大貴族ツィレイ・ウルリクらのフニャディの政敵たちは、彼が国王を打倒する陰謀を企てていると非難した。より混迷する国内情勢を安定させるため、フニャディは摂政の地位と権限を返上しなければならなくなる。1452年にフニャディはウィーンに赴き、成年に達したラースロー5世に国王権力を返還した[41]

1453年初頭にフニャディはハンガリーに帰国し、ラースロー5世はフニャディを総司令官兼大蔵卿に任命した。また、フニャディには多くの称号と恩貸地が授与され、ビストリツァトランシルヴァニア・ザクセン人の居住区がフニャディの領地に加わる[54]。ツィレイ・ウルリクはフニャディの地位を妬み、ガライ家、ウイラキ家と同盟してフニャディに敵対した[55]

ベオグラードの勝利と死

1468年にオロモウツのChurch of Immaculate Conception of Virgin Maryに描かれた、ベオグラード包囲戦のフレスコ画
アルバ・ユリアの聖堂内のフニャディの墓

1453年にオスマン帝国のコンスタンティノープル包囲が進められる中、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世はハンガリーに援助を求めたが、フニャディは国内の事情と休戦協定を理由に明確な返答を避けた[56]。同年にコンスタンティノープルが陥落し(コンスタンティノープルの陥落)、オスマン帝国は再びハンガリーを攻撃の目標とする[10]。オスマン帝国の皇帝メフメト2世は、南ハンガリーへの入り口であるナーンドルフェヘールヴァール(現在のベオグラード)を攻略の対象とし、ベオグラードの陥落はオスマン軍の中央ヨーロッパへの進路が開かれることを意味していた。オスマン軍の攻勢に対してラースロー5世は国外に逃亡し、大貴族たちは腰を上げようとしなかった[55]

フニャディは政敵との不和を解消した後、1455年末に包囲を受けていたベオグラードに到着する。ベオグラードに自身が調達した武器と食料を補給し、指揮官として義弟のシラージ・ミハーイ英語版と長子ラースローを要塞に残していったん離脱した。フニャディは兵士を集め、ドナウ河畔の町や村からかき集めた200隻の小舟で即席の艦隊を作り上げる[57]。教皇の元から派遣されたフランシスコ会の修道士ジョヴァンニ・デ・カピストラヌス英語版がフニャディの有力な協力者となり、軍事経験の無い貧民から構成される十字軍を情熱的な演説で奮い立たせていた[57]。カピストラヌスの率いる兵士のほとんどは鎌や熊手といった農具で武装しており、彼らはフニャディが率いる少数精鋭の傭兵隊の下に集まった。

1456年7月にメフメト2世の率いる軍隊がベオグラードの前に現れ、町に砲撃を加えた[58]。カピストラヌスが率いる寄せ集めの兵士と即席の艦隊がオスマン軍に攻撃を行っている間にフニャディは包囲を受けているベオグラードに突入し、城内の守備隊と合流した[59]。オスマン軍が城壁に開けられた裂け目から市内に突入すると、フニャディは城内に配置した伏兵で奇襲をかけて勝利を収め、オスマン軍の将軍、イェニチェリの多くが戦死した[60]

フニャディの勝利により、ハンガリー南東部ではおよそ70年の間平穏な状態が保たれる。しかし、包囲が解除された3週間後にハンガリー軍内で疫病が流行し、1456年8月11日にフニャディは病に罹って没した。死因はペストと考えられている[1][7][9][10][41]。最期にフニャディは「私は友人を、キリスト教を、ハンガリーを全ての敵から守りぬいた。キリスト教の信徒同士で争ってはならない。仲間同士の争いで無駄な力を使うことがあれば、運命は閉ざされ、我々の国の墓が建つだろう」と言い遺した[61]

評価

フニャディは息子のマーチャーシュ1世とともにハンガリーの国民的英雄とみなされ、オスマン帝国の脅威からの守護者として称賛されている[62][63][64][65]。非ハンガリー民族の出身であるフニャディはハンガリー的な精神とハンガリー貴族の思考を受容することに努めたが、自身の出自を忘れ去ることは無かった[20]。ハンガリーの大貴族たちから敵視され、時にはハンガリー王から恐れられた[20]。しかし、配下の兵士とハンガリーの中小貴族、そして民衆からは敬愛され、オスマン帝国皇帝スルターン)はフニャディに対してハンガリー王以上に敬意を払っていた[20]。ハンガリーが外圧と内訌に苦しみ、国王が名目だけの存在となる中でフニャディは苦難に立ち向かい、死後も民族的英雄として称賛される[10]。「ハンガリー第二の国歌」といわれるSzózat(en)の歌詞には、フニャディの名前が現れる。

ルーマニア史においても、フニャディは重要な役割を果たした[66]。1442年以降、フニャディはワラキア公国モルドヴァ公国に大きな影響力を持つようになった[9]。ルーマニア人に属する血統とトランシルヴァニア公(ルーマニアの一地域であるトランシルヴァニアは、フニャディの存命中はハンガリー王国に属していた)の地位により、ルーマニアの国民的英雄として記憶されている。

15世紀当時のセルビア・クロアチアにおいてはフニャディはハンガリー人としてみなされて「Ugrin Janko」「Janko the Hungarian」と呼ばれていたが[67][68]後世にはフニャディをセルビアの生まれとする叙情詩(en)が成立した[68]。ブルガリアの民間伝承では、フニャディの活躍は叙情詩の英雄であるYankul(a) Voivodaに投影され、Yankul(a) Voivodaはフニャディの甥Thomas Székelyをモデルにしたと思われる架空の英雄Sekula Detentseと行動を共にしている[69]

フランスの著述家・外交官のPhilippe de Comminesはフニャディについて、長い間ハンガリー王国を支え、オスマン帝国に対してたびたび勝利を収めた、勇敢かつ慎重な「ワラキアの白い騎士」と記した[70]

教皇カリストゥス3世はフニャディを「過去3世紀に生まれた中でもっとも偉大な男」と賛美した[1]。そして、毎日の正午に鐘を鳴らして信徒を集めてベオグラードで勝利を収めた「キリスト教世界の守護者」フニャディに祈りを奉げるよう、ヨーロッパの全ての教会に命じた[71][72]。正午に鐘を鳴らす後世の教会の習慣は、ベオグラードの勝利を記念したカリストゥス3世の命令に始まると考えられている[73][74][75]

家族

1432年にフニャディはハンガリー人貴族の娘シラージ・エルジェーベト英語版と結婚した。フニャディはラースローマーチャーシュの2人の息子をもうける[52]。ラースロー5世が没した後、1458年1月20日にマーチャーシュが新たなハンガリー王に選出された。

また、エステルゴム大司教ニコラウス・オラフス英語版(オラー・ミクローシュ)は、フニャディの甥にあたる [76]

脚注

  1. ^ a b c クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、121頁
  2. ^ Engel, Pál; Andrew Ayton, Tamás Pálosfalvi (2005). Andrew Ayton. ed. The realm of St. Stephen: a history of medieval Hungary, 895–1526. I.B.Tauris. p. 283 
  3. ^ Gwatkin, Henry Melvill; John Bagnell Bury, James Pounder Whitney, Zachary Nugent Brooke. The Cambridge medieval history, Volume 8. Macmillan. pp. 608 
  4. ^ [1]
  5. ^ [2]
  6. ^ ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)、54頁
  7. ^ a b c d e 南塚『図説ハンガリーの歴史』、23-24頁
  8. ^ a b c d e f g エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、132頁
  9. ^ a b c d e f g h オツェテァ『ルーマニア史』1巻、203-204頁
  10. ^ a b c d e f ピーターズ「フニャディ」『世界伝記大事典 世界編』8巻、473-474頁
  11. ^ 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)、104頁
  12. ^ [3]
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  • 南塚信吾『図説ハンガリーの歴史』(ふくろうの本、河出書房新社、2012年3月)
  • N.アクシト『トルコ』2(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)
  • コーシュ・カーロイ『トランシルヴァニア』(奥山裕之、山本明代訳, 恒文社, 1991年9月)
  • パムレーニ・エルヴィン編『ハンガリー史 1』増補版(田代文雄、鹿島正裕訳、恒文社、1990年2月)
  • アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)
  • アンドレイ・オツェテァ『ルーマニア史』1巻(鈴木四郎、鈴木学共訳, 恒文社, 1977年5月)
  • エドワード.M.ピーターズ「フニャディ」『世界伝記大事典 世界編』8巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1981年6月)

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