「関税及び貿易に関する一般協定」の版間の差分
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{{条約 |
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'''関税および貿易に関する一般協定'''(かんぜいおよびぼうえきにかんするいっぱんきょうてい、'''General Agreement on Tariffs and Trade''')は、[[ブレトン・ウッズ協定]]により[[自由貿易]]の促進を目的とした国際協定である。通常、'''GATT'''(ガット)の略称で呼ばれる。 |
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|題名 = 関税及び貿易に関する一般協定 |
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|画像 = Cwr lake facade2.jpg |
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|画像キャプション = [[スイス]]の[[ジュネーヴ]]にある旧ガット本部。現在はWTO本部。 |
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|通称 = GATT(ガット)、1947年のGATT(改正前)、1994年のGATT(改正後)<ref name="筒井52-53">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、52-53頁。</ref> |
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|起草 = |
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|署名 = 1947年10月30日([[ジュネーヴ]])<ref name="筒井52-53"/> |
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|効力発生 = 正式には発効せず1948年1月1日より暫定適用<ref name="筒井52-53"/> |
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|寄託者 = [[国際連合事務総長|国連事務総長]](第26条第3項) |
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|番号 = |
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|言語 = 英語、フランス語(第26条第3項) |
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|内容 = 関税その他の貿易障害の軽減</br>国際通商における差別待遇の廃止<br/>(前文より) |
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|関連 = [[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定|WTO協定]] |
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|ウィキソース = |
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|リンク = [http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/wto_agreements/custom_duty/ 日本語訳]([[経済産業省]])<br/>[http://www.wto.org/english/docs_e/legal_e/gatt47_01_e.htm 英語正文]([[世界貿易機関|WTO]])<br/>[http://www.wto.org/french/docs_f/legal_f/gatt47_01_f.htm 仏語正文](WTO) |
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'''関税及び貿易に関する一般協定'''(かんぜいおよびぼうえきにかんするいっぱんきょうてい、[[英語]]:General Agreement on Tariffs and Trade、[[フランス語]]:Accord Général sur les Tarifs Douaniers et le Commerce)は、1947年10月30日に[[ジュネーヴ]]において署名開放された[[条約]]、またはこれに基づいて設立された[[国際組織]]を指す<ref name="筒井52-53"/>。'''GATT'''(ガット)の略称で呼ばれる<ref name="筒井52-53"/>。1995年にガットの規定を事実上吸収した[[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定|WTO協定]]が発効するまで128カ国が署名したが<ref name="GATT members">{{cite web|title=GATT members|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/gattmem_e.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-10-14}}</ref>、正式には発効せず暫定適用議定書に基づいて適用され続けた<ref name="筒井52-53"/>。この1947年に署名開放されたGATTを[[条約の改正|改正]]した[[1994年の関税及び貿易に関する一般協定]]はWTO協定と不可分の一部とされているが(WTO協定第2条第2項)、この1947年のGATTとWTO協定や1994年のGATTは別個の条約である(WTO協定第2条第4項)<ref name="筒井52-53"/>。改正前のGATTのことを'''1947年のGATT'''、改正後のGATTのことを'''1994年のGATT'''といい区別される<ref name="筒井52-53"/>。 |
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== 沿革 == |
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現在は[[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定]](WTO協定)の「附属書1A(A)」として、WTO協定の一部を構成している。 |
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=== 経緯 === |
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|title=ガット署名国数の推移<ref name="GATT members"/><ref name="Members and Observers">{{cite web|title=Members and Observers|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/whatis_e/tif_e/org6_e.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-10-20}}</ref> |
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|left1=年代 |
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|right1=署名国数 |
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|bars= |
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{{bar pixel|1948-1949|blue|19||19}} |
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{{bar pixel|1950-1959|blue|36||36}} |
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{{bar pixel|1960-1969|blue|75||75}} |
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{{bar pixel|1970-1979|blue|84||84}} |
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{{bar pixel|1980-1989|blue|95||95}} |
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{{bar pixel|1990-1994|blue|128||128}} |
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{{bar pixel|WTO加盟国(2013年現在)|blue|159||159}} |
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|caption= |
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今日の[[世界貿易機関|WTO]]体制は、[[アメリカ合衆国]]が1934年に制定した{{仮リンク|互恵通商協定法|en|Reciprocal Tariff Act}}に基づき、諸外国と二国間通商協定を締結していったことに歴史的起源をもつ<ref name="小寺384-385">[[#小寺(2006)|小寺(2006)]]、385-386頁。</ref>。アメリカは協定の締結に基づき交渉によって相手国と互いに[[関税]]を引き下げ合い、協定の無条件最恵国条項によって通商の自由化を推し進めたのである<ref name="小寺384-385"/>。[[第二次世界大戦]]後の1948年3月24日、[[1930年代]]の[[世界恐慌]]や[[ブロック経済]]が諸国の経済的対立を激化させこれが第二次世界大戦発生の一因にもなったとの反省から、1944年の[[ブレトン・ウッズ会議]]で設立された[[国際通貨基金]] (IMF) や[[国際復興開発銀行]] (IBRD、世界銀行) と並ぶ戦後の国際経済組織の支柱として、[[国際貿易機関]](ITO)を設立するための[[国際貿易機関憲章]](通称ハバナ憲章)が採択され、53カ国が署名した<ref name="荒木24">[[#荒木(2011)|荒木(2011)]]、24頁。</ref><ref name="筒井120-121">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、120-121頁。</ref>。本来ガットはハバナ憲章に従属するものとして作成されたものであり、1947年10月30日に[[ジュネーヴ]]にて採択された<ref name="筒井52-53"/>。ハバナ憲章の一部は後にガットに取り入れられ実施されていくことになった<ref name="筒井120-121"/>。しかしガットは効力発生の要件としてガットを批准した国の貿易額がガット加盟国の貿易額の85パーセントを超えることを正式な発効要件としていたため{{#tag:ref|この85パーセントの要件が満たされたのは1994年のことであった<ref name="若杉220">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、220頁。</ref>。|group="注"}}、当時はこの効力発生要件を満たす見込みがなかった<ref name="若杉220"/>。またアメリカの互恵通商協定法が1948年に失効するなどといった事情からアメリカを含む多くの国々がハバナ憲章の批准を見送ったためガットだけを先に成立させる必要が生じた<ref name="筒井52-53"/>。そのため、特にアメリカ議会の審議を受けることを避ける目的で「暫定適用議定書」を作成し、ガットを正式には発効させないまま1948年1月1日から「暫定適用議定書」に基づくガットの暫定適用が始まった<ref name="筒井52-53"/>。「暫定適用議定書」もまたガットとは別個の法的拘束力を有する[[条約]]であり、ガットは同議定書を通じて実質的に各国に対する拘束力をもつものとなったが、この議定書には「現行の法令に反しない最大限度において」のみガットが適用される旨を定めた条項(通称「祖父条項」)が含まれていたほか<ref name="筒井226">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、226頁。</ref>、このようにして成立したガット体制においては各国は[[関税譲許率]]のみを約束するのみとされ<ref name="奥脇71">[[#奥脇(2006)|奥脇(2006)]]、71頁。</ref>、またガット第25条第5項にはアメリカの農産物13品目を貿易自由化の義務対象外とする、いわゆる[[ウェーバー条項]]と呼ばれる条項がおかれた<ref name="奥脇71"/><ref name="古内28">[[#古内(2011)|古内(2011)]]、28頁。</ref>。これらに加えて各国のガット規定上の義務違反も頻発し、大きな制約を受けることになったガットの規律は極めて弱いものとならざるを得なかった<ref name="筒井52-53"/><ref name="奥脇71"/>。このようにして適用が開始されたガットは、[[雇用問題]]、[[労働基準]]、[[開発]]、[[国際投資]]ルール、[[国際カルテル]]や[[制限的商慣行]]といった[[競争法]]上の幅広い分野について規定していたハバナ憲章から、貿易関連規定だけを抜き出したものとなった<ref name="荒木24"/>。ハバナ憲章の一部を暫定的に適用する形で開始された戦後のガットは、その後約50年間にわたり世界の多角的貿易体制を支えていくことになる<ref name="荒木24"/>。 |
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=== 多角的貿易交渉 === |
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GATTは、 |
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ガットは、国内の産業保護の手段として[[関税]]のみを認めていたが、ガット締約国はその関税引き下げのためには二国間で交渉するよりも多数国間で交渉するほうが効率的であるとして、[[多角的貿易交渉]]を行い関税水準を引き下げてきた<ref name="筒井231-232">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、231-232頁。</ref>。これは1947年のガットを一部改正した[[1994年の関税及び貿易に関する一般協定|1994年のガット]]を含む[[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定|WTO協定]]が発効した後も継続されている<ref name="筒井231-232"/>。第1回から[[ディロン・ラウンド]]までの計五回にわたる交渉では関税の引き下げについて交渉が行われたが、[[ケネディ・ラウンド]]では関税引き下げのみではなく[[非関税障壁]]である[[アンチダンピング]]問題についても検討された<ref name="浦田39">[[#浦田(2001)|浦田(2001)]]、39頁。</ref>。[[東京ラウンド]]では[[ダンピング防止]]や[[政府調達]]のような非関税障壁の問題に加えて発展途上国が関心を持っていた熱帯産品に関する交渉が開始された<ref name="浦田39"/>。1986年から1994年に行われた、[[ウルグアイ・ラウンド]]では[[世界貿易機関]]を発足が決定され、本来[[国際貿易機関]]発足までの暫定的な体制あったはずのガットが実質的に[[国際組織]]として活動している異例的な状況を解消した<ref name="筒井210-211">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、210-211頁。</ref>。ガット体制下で行われた8回の多角的貿易交渉を通じて、先進諸国の平均関税率はガット以前の10分の1以下の4パーセントにまで低下した<ref name="浦田39"/>。 |
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*'''自由'''(GATT11条:貿易制限措置の関税化及び関税率の削減) |
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*'''無差別'''(同1条:[[最恵国待遇]]、[[内国民待遇]]) |
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*'''多角'''(=[[ラウンド]]、交渉) |
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の三原則により自由貿易をめざしている。 |
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==== 第1-4回 ==== |
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{| class="wikitable" style="float:right; width:30%; text-align:center" |
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[[1930年代]]の[[世界恐慌]]と、それに伴う[[保護貿易]]主義の台頭が[[第二次世界大戦]]の一因となったとの反省をふまえ、円滑な国際貿易を実現するために、1944年の[[ブレトン・ウッズ協定|ブレトン・ウッズ体制]]の枠組みとして、[[国際通貨基金]] (IMF) や[[国際復興開発銀行]] (IBRD、世界銀行) と共に'''[[国際貿易機関]]'''(ITO)の設立が準備されていた。しかしITOの設立は主唱した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]の反対に遭い、他にも設立条約である「国際貿易憲章」(ハバナ憲章)を承認しなかった国が多数あった(ハバナ憲章を承認した国は2カ国に留まった)ため頓挫。<!--wikipedia英語版より-->それに代わる暫定措置として、多国間協定締結という形をとり、[[1947年]]10月調印、翌[[1948年]]に発足した。1947年のGATTは[[世界貿易機関]] (WTO) の発足まで、貿易を扱う事実上の国際機関の役目を果たしており、一般にGATTという場合は1947年のGATTを指していた。 |
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|+ これまでの多角的貿易交渉<ref name="ドーハ・ラウンドとは"/><ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh">{{cite web|title=The GATT years: from Havana to Marrakesh|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/whatis_e/tif_e/fact4_e.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-10-14}}</ref><ref name="The Doha agenda">{{cite web|title=The Doha agenda|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/whatis_e/tif_e/doha1_e.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-10-14}}</ref><ref name="若杉221">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、221頁。</ref><ref name="Kehoe">{{Cite journal|author=Kehoe, William J.|year=2004|title=International agencies (Services)|url=http://www.freepatentsonline.com/article/Journal-International-Business-Research/166850551.html|journal=Journal of International Business Research|volume=3|number=1|publisher=The DreamCatchers Group, LLC|issn=1544-0222}}</ref> |
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! !! 期間 !! 参加国数 !! 関税引き下げ対象品目数 |
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| 第1回([[ジュネーヴ]]) || 1947 || 23 || 45,000 |
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| 第2回([[アヌシー]]) || 1949 || 13 || 5,000 |
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| 第3回([[トーキー (イングランド)|トーキー]]) || 1950-1951 || 38 || 8,700 |
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|- |
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| 第4回(ジュネーヴ) || 1956 || 26 || 3,000 |
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|- |
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| [[ディロン・ラウンド]] || 1960-1961 || 26 || 4,400 |
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| [[ケネディ・ラウンド]] || 1964-1967 || 62 || 30,300 |
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| [[東京ラウンド]] || 1973-1979 || 102 || 33,000 |
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|- |
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| [[ウルグアイ・ラウンド]] || 1986-1994 || 123 || 305,000 |
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| colspan="4" | '''WTO発足(1995年)''' |
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| [[ドーハ開発ラウンド]] ||2001- || 149 || 鉱工業品の関税について |
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|} |
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最初の多角的貿易交渉は1947年の4月から10月、1948年の2月から3月、同年8月から9月の3回にわけて、[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]にて行われた<ref name="Kehoe"/>。23カ国が交渉に参加し1947年10月30日にはガットの署名がなされ<ref name="筒井52-53"/>、またこのときには[[国際貿易機関]]設立に向けた交渉がなされたほか<ref name="Kehoe"/>、45,000品目の関税引き下げについて合意に至った<ref name="若杉221"/>。こうして行われた関税引き下げによって100億ドルの貿易に影響を及ぼしたといわれる<ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/><ref name="Kehoe"/>。1947年11月21日、国際貿易機関を設立するための本格的な交渉が[[キューバ]]の[[ハバナ]]で開始され、1948年3月には[[国際貿易機関憲章]](ハバナ憲章)の採択に至ったが前記のとおり([[#経緯]]参照)国際貿易機関が設立されることはなかった<ref name="筒井52-53"/>。そのかわりに1948年1月1日には、後にハバナ憲章の一部として採択される予定であったガットの適用を暫定的に開始することを定めた「暫定適用議定書」の適用が23カ国の間で開始され、これにより様々な制約つきではあったがガットの適用が開始されることとなった<ref name="筒井52-53"/><ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/>。 |
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2回目の多角的貿易交渉は1949年4月から8月にかけて[[フランス]]の[[アヌシー]]で行われた<ref name="Kehoe"/>。13カ国が参加した<ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/>。主な議題は関税の引き下げであり、5,000品目の関税引き下げについて合意されたほか<ref name="若杉221"/>、さらに10カ国のガットへの参加が決定した<ref name="Kehoe"/>。しかしこの会期中にアメリカがハバナ憲章を批准しないことを宣言し、そのためこのとき国際貿易機関の設立が不可能であることが決定的となった<ref name="Kehoe"/>。 |
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*[[1948年]] [[ジュネーヴ]]で23ヶ国により貿易交渉協議を行ったのを始まりとしている。 |
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*[[1955年]] 日本が加盟。 |
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*[[1964年]] ケネディ・ラウンド始まる。 |
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*[[1973年]] [[東京ラウンド]]始まる。 |
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*[[1986年]]から[[1994年]]にかけて交渉が行われた[[ウルグアイ・ラウンド]]の結果、GATTを拡大発展させる形で新たな貿易ルール「WTO協定」が作られる。GATTの条文が、その後のGATTにかかわる諸決定ともにWTO協定の付属書1Aに含まれることとされ、「1994年の関税及び貿易に関する一般協定」(通称「1994年のGATT」)となった。従来のものは法的には別の存在とされ、1947年のGATTと称することとされた。 |
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*[[1995年]]1月に国際機関としてWTOが正式に発足。1947年のGATTは、移行措置として暫定的にWTO協定と並存することとされた。 |
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*[[1995年]]12月末で1947年のGATTが終了。 |
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3回目の多角的貿易交渉は1950年9月から翌年4月まで[[イギリス]]の[[トーキー (イングランド)|トーキー]]で、38カ国の参加によって行われた<ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/><ref name="Kehoe"/>。このときには8,700品目が関税引き下げの対象となった<ref name="若杉221"/>。 |
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== 貿易交渉 == |
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*[[1948年]] [[ジュネーヴ]]・ラウンド - 23ヶ国 |
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** [[オーストラリア]]、[[ベルギー]]、[[ブラジル]]、[[ビルマ]]、[[カナダ]]、[[スリランカ]]、[[チリ]]、[[中華民国]]、[[キューバ]]、[[チェコスロヴァキア]]、[[フランス]]、[[インド]]、[[レバノン]]、[[ルクセンブルク]]、[[オランダ]]、[[ニュージーランド]]、[[ノルウェー]]、[[パキスタン]]、[[南ローデシア]]、[[シリア]]、[[南アフリカ]]、[[イギリス|英国]]、[[アメリカ合衆国|米国]] |
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*[[1949年]] [[アヌシー]]・ラウンド - 13ヶ国 |
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*[[1951年]] [[トーキー (デヴォン)|トーキー]]・ラウンド - 38カ国 |
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*[[1956年]] ジュネーヴ・ラウンド - 26カ国 |
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*[[1962年]] [[ディロン・ラウンド]] - 26カ国 |
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*[[1964年]]-[[1967年]] [[ケネディ・ラウンド]] - 62カ国 |
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*[[1973年]]-[[1979年]] [[東京ラウンド]] - 102カ国 |
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*[[1986年]]-[[1995年]] [[ウルグアイ・ラウンド]] - 125カ国 |
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4回目の多角的貿易交渉は第1回と同じジュネーヴで1956年1月から5月にかけて行われ、26カ国が交渉に参加した<ref name="Kehoe"/>。3,000品目の関税引き下げが決定された<ref name="若杉221"/>。 |
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==著名なGATT法学者== |
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* [[清水章雄]] |
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既に述べたようにガットはITOの設立を予定したものであったため組織に関する規定が不足しており、これを解消するため1955年に[[貿易協力機構]]を設立してガットに組織的な基盤を設けようとしたが、やはりこれもアメリカが加盟しなかったために成立することはなかった<ref name="筒井52-53"/>。ガットに唯一規定されていた組織はガット全加盟国からなる「締約国団」のみであり、次第にこの「締約国団」が通常の国際組織で言うところの[[総会]]としての役割を事実上果たしていくことになる<ref name="筒井52-53"/>。1960年には「締約国団」が理事会の設置を決議し、また本来ITOを設立するための準備的機関であったITO中間委員会が事実上の[[事務局]]としての役割を担いはじめた<ref name="筒井52-53"/>。こうして本来ハバナ憲章の一部にしか過ぎなかったガットは総会、理事会、事務局という[[国際組織]]に特徴的な三部構造を備えることになり、ガットは実質的に国際組織としての機能を果たしていくことになる<ref name="筒井52-53"/>。 |
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* [[高橋岩和]] |
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* [[松下満雄]] |
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==== ディロン・ラウンド ==== |
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{{see also|ディロン・ラウンド}} |
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1958年、[[アメリカ合衆国国務次官(経済・実業・農業担当)|アメリカ経済担当国務次官]][[C・ダグラス・ディロン|ダグラス・ディロン]]が5度目の多角的貿易交渉の開催を提唱した<ref name="益田(2008)53-54">[[#益田(2008)|益田(2008)]]、53-54頁。</ref><ref name="益田(2010)70-71">[[#益田(2010)|益田(2010)]]、70-71頁。</ref>。これは1958年1月1日に[[欧州経済共同体]](EEC)が発足し<ref name="筒井25-30">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、25-30頁。</ref>、EEC内で10パーセントの関税引き下げと20パーセントの数量制限緩和が行われることが決定され、このときEEC内の一部に当時EEC非加盟国であった[[イギリス]]など[[欧州経済協力機構]](OEEC)にまで貿易自由化を拡大すべきとする考え方があったのに対して、そのような対米貿易格差は許容できず貿易自由化はガットの枠内で進められるべきと主張し[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が反発する立場をとったためである<ref name="益田(2010)70-71"/>。このような背景から1960年9月1日から[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]で開催された多角的貿易交渉は、ダグラス・ディロンの名を冠して[[ディロン・ラウンド]]と呼ばれる<ref name="slide7">{{Cite web|title=Slideshow Slide 7 The Dillon Round, Geneva, 1960-61|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/minist_e/min98_e/slide_e/slide008.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-12-3}}</ref>。このディロン・ラウンド以降、多角的貿易交渉は交渉の開催を提唱した人や提唱された地名にちなんで「XXXXラウンド」と呼ばれるようになる<ref name="筒井231-232"/><ref name="ドーハ・ラウンドとは">{{cite web|title=ドーハ・ラウンドとは|url=http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/wto/negotiation/doha/doha-round.index.html|publisher=[[経済産業省]]|accessdate=2013-10-14}}</ref>{{#tag:ref|英語では"Geneva Round"、"Annecy Round"、"Torquay Round"と、第1回交渉から"Round"を付して呼ばれることがある<ref name="Kehoe"/>。|group="注"}}。ディロン・ラウンドでは、特にEEC加盟諸国が個別に定めていた関税率をEEC加盟国で共通域外関税に移行するかどうか、EEC加盟国間で[[共通農業政策]]を導入するか、などが主な議題として取り上げられた<ref name="益田(2008)53-54"/>。 |
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==== ケネディ・ラウンド ==== |
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{{see also|ケネディ・ラウンド}} |
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1962年10月、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で既存の関税を50パーセント削減するための交渉権限と、アメリカと[[欧州経済共同体]](EEC)が世界全体の80パーセント以上を占める品目の関税を削減または廃止するための交渉権限を、[[アメリカ合衆国議会|議会]]から[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に授権することを定めた{{仮リンク|アメリカ合衆国通商拡大法|en|Trade Expansion Act|label=通商拡大法}}が制定された<ref name="富田102-104">[[#富田(2010)|富田(2010)]]、102-104頁。</ref>。このときアメリカ大統領であった[[ジョン・F・ケネディ]]にちなみ、1964年5月4日から[[ジュネーヴ]]で開催された多角的貿易交渉は[[ケネディ・ラウンド]]と呼ばれる<ref name="slide8">{{Cite web|title=Slideshow Slide 8 The Kennedy Round, Geneva, 1964-1967|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/minist_e/min98_e/slide_e/slide009.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-12-3}}</ref>。このケネディ・ラウンドでは、二国間交渉の成果を[[最恵国待遇]]原則に基づきガット全加盟国に適用するというそれまでの交渉方式を改め、ガット全加盟国が関税譲許表を示しそれらを一括で検討するという一括交渉方式が採用された<ref name="島野42">[[#島野(1969)|島野(1969)]]、42頁。</ref><ref name="山本1-2">[[#山本(2003)|山本(2003)]]、1-2頁。</ref>。それまでの二国間方式では各国が自国への不利益を避けるために効果を縮小化しようとする傾向があり、これを避けるためこのような交渉方式の変更がなされた<ref name="島野42"/>。このようにして行われた関税引き下げ交渉では、工業製品に付加される関税を平均で35パーセント以上引き下げることに成功した<ref name="富田102-104"/>。これはディロン・ラウンドの約8倍にも相当する成果であった<ref name="富田102-104"/>。 |
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==== 東京ラウンド ==== |
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{{see also|東京ラウンド}} |
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1973年9月にガット閣僚会議が東京が行われ、このとき採択された「東京宣言」に従い7回目の多角的貿易交渉決定され<ref name="財金月報1">[[#「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」|「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」]]、1頁。</ref>、1973年9月から1979年11月までジュネーヴで[[東京ラウンド]]が開催された<ref name="Kehoe"/><ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/>。交渉参加国が増加したことから合意を早めるためにアメリカ、EC、日本、カナダが合意した内容をガット全締約国がコンセンサスにより承認する方式が慣行的に取り入れられるようになった<ref name="中川19-20"/>。東京ラウンドでは、[[補助金]]、製品の[[規格]]などといった貿易の技術的障害、輸入許可手続きといった関税以外の貿易障壁について規律する協定が締結された<ref name="中川19-20">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、19-20頁。</ref>。また東京ラウンドでもケネディ・ラウンドと同じように関税引き下げ交渉は一括交渉方式がとられたが、[[欧州共同体|EC]]が既存の関税率が高い国と低い国に同率の関税引き下げを求めるべきではないと主張したため、以下のように交渉開始前の関税率を国ごとに反映した関税引き下げが行われた<ref name="中川19-20"/><ref name="財金月報2">[[#「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」|「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」]]、2頁。</ref>。 |
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<math>z=\frac{ax}{a+x}</math> z:引き下げ後の関税率、x:既存税率、a:国別定数(例:ECは16、アメリカ・日本は14) |
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ケネディ・ラウンドと同様に東京ラウンドでも工業製品の関税引き下げについては大きな成果を上げたが、農産品貿易の自由化交渉については成果を上げることができなかった<ref name="中川20-21">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、20-21頁。</ref>。 |
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==== ウルグアイ・ラウンド ==== |
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{{see also|ウルグアイ・ラウンド}} |
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[[File:Marrakesh Agreement April 1994 (9308758258).jpg|300px|thumb|1994年のWTO協定署名の様子。[[マラケシュ]]にて。]] |
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1986年9月15日から20日にかけて[[ウルグアイ]]の[[プンタ・デル・エステ]]で行われたガット閣僚会談において、増加する[[サービス]]の貿易や[[知的所有権]]の国際移転に対応するため次の多角的貿易交渉開催が採択された<ref name="奥573-574">[[#奥(1995)|奥(1995)]]、573-574頁。</ref>。そのためそれまでの7回の多角的貿易交渉では関税引き下げのための一括交渉が主なテーマであったが、ウルグアイ・ラウンドではサービスや知的所有権などそれまでの多角的貿易交渉では議題とならなかった交渉項目が追加され、また[[非関税障壁]]についても交渉されるなど[[市場開放]]のあり方についてより広く交渉が行われた<ref name="奥575">[[#奥(1995)|奥(1995)]]、575頁。</ref>。その結果ウルグアイラウンドでは広範にわたるテーマが交渉されることになり、交渉妥結までそれまでの多角的貿易交渉よりもはるかに長い8年もの歳月を要することとなった<ref name="中川25-26">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、25-26頁。</ref>。また、このようにガット加盟国間同士の多角的貿易交渉が積極的に進められていく傍らで、このころ先進工業国間では二国間の[[貿易摩擦]]問題が多発していた<ref name="若杉221-223"/>。これをきっかけにしてガット規定の適用を受けない二国間の貿易取り決めが数多く締結されていくこととなり、ガットは次第に形骸化・後退していくことになる<ref name="若杉221-223"/>。例えばアメリカは1984年に[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の[[ファスト・トラック権限]]をガットの多国間交渉から二国間[[自由貿易協定]]交渉まで広げる通商関税法を制定し<ref name="荒木25">[[#荒木(2011)|荒木(2011)]]、25頁。</ref><ref name="滝井30-31">[[#滝井(2007)|滝井(2007)]]、30-31頁。</ref>、これに基づきアメリカ・イスラエル間の自由貿易協定が締結された<ref name="荒木25"/>。これはアメリカが多角的貿易交渉から離れていく象徴的な出来事であったと言える<ref name="荒木25"/>。こうした二国間貿易取り決めが広まっていったことに加えて、1980年代には[[第二次オイルショック]]の影響から世界景気の後退により先進諸国が農業補助金や輸出自主規制等といった形で保護主義的政策を強めていったことや<ref name="浦田39"/><ref name="荒木25"/><ref name="若杉223-225">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、223-225頁。</ref>、ガットが規律対象としていたモノ([[財]])貿易には該当しない[[サービス]]や[[直接投資]]の国際経済活動の活発化といった状況にさらされ<ref name="浦田39"/>、それまで国際貿易システムを支えてきたガットシステムの維持が次第に困難なものとなっていったのである<ref name="若杉223-225"/>。こうした流れは暫定的なガット体制を解消して新たな国際組織を設立することにつながっていく<ref name="荒木25"/>。またこれは、他国の貿易政策を「不正的貿易慣行」と一方的に認定し、他国に貿易制裁を科すアメリカの{{仮リンク|1974年アメリカ合衆国通商法|en|Trade Act of 1974|label=1974年米国通商法}}第301条の濫用を防ぎたいとする各国の思惑とも一致するものであった<ref name="荒木25"/>。全ての交渉テーマについてようやく合意がまとまったのは1993年12月であり、その後1994年4月15日にモロッコのマラケシュにてウルグアイ・ラウンド最終合意文書の調印式が行われた<ref name="中川26-28">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、26-28頁。</ref>。ガットは一部改正され[[1994年の関税及び貿易に関する一般協定|1994年のガット]]として[[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定|WTO協定]]の附属書1Aに組み込まれた<ref name="小寺386-387">[[#小寺(2006)|小寺(2006)]]、386-387頁。</ref>。WTO協定には祖父条項もなく、結局正式には発効することがなかった1947年のガットと違い正規の条約で、各国の法的関係もより明確なものとなった<ref name="筒井52-53"/>。そしてウルグアイ・ラウンドの終結とともに、もともと[[国際貿易機関]]が設立されるまでの暫定的な組織であったガットを引き継ぐ国際組織として[[世界貿易機関]]が設立されたのである<ref name="中川30">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、30頁。</ref>。 |
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== 基本的原則 == |
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=== 無差別 === |
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「無差別」はガットの基本的原則とされ、これには[[最恵国待遇]]という側面と、[[内国民待遇]]という側面とがある<ref name="筒井52-53"/>。ガット上の最恵国待遇は他国や他国の物品を無差別に待遇することを意味する(第1条第1項)<ref name="筒井162">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、162頁。</ref>。[[地域経済統合]]はこの最恵国待遇に対する例外として規定される(第24条)<ref name="筒井162"/>。内国民待遇とは他国や他国産品を自国や自国産品と差別することなく待遇することをいい、ガットでは[[輸入品]]に対する[[税金]]や国内法令について規定した(第3条)<ref name="筒井260">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、260頁。</ref>。 |
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=== 数量制限禁止 === |
|||
数量制限禁止もガットの基本的原則のひとつである<ref name="筒井52-53"/>。国内産業を保護するための手段としては[[関税]]以外は認めず、この関税についても多角的貿易交渉により引き下げを目指した([[#多角的貿易交渉]]を参照)<ref name="筒井52-53"/>。WTOが発足するまでこの他確定貿易交渉は8度開催され、そのたびに関税引き下げを実現してきた<ref name="ドーハ・ラウンドとは"/>。また公正な競争を原則とし、その実現のために[[補助金]]付き輸出に対する[[相殺関税]]や[[アンチダンピング]]について恣意的な措置を取らないよう規定された<ref name="筒井52-53"/><ref name="若杉221-223">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、221-223頁。</ref>。 |
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== セーフガード == |
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[[緊急輸入制限|セーフガード]]とは、特定の品目輸入が急増することによって国内産業が打撃を受けることを予防するため、関税賦課や輸入数量制限といった形で行われる措置であり<ref name="貿易救済措置">{{Cite web|title=貿易救済措置|url=http://www.meti.go.jp/policy/external_economy/trade_control/boekikanri/trade-remedy/sg.html|publisher=経済産業省|accessdate=2013-11-17}}</ref>、ガット第19条に規定された<ref name="浦田9-10">[[#浦田(2010)|浦田(2010)]]、9-10頁。</ref>。これは特定の国からの輸入が一時的に急増することで国内産業に被害が発生した場合に、セーフガードとして緊急避難的に一時的な輸入制限措置を発動することを認めたものである<ref name="若杉144-146">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、144-146頁。</ref>。しかしセーフガードを発動するために国内産業が被害を受けたことを立証することは容易なことではなく<ref name="若杉144-146"/>、また無差別原則にのとった多角的セーフガードの発動はできても<ref name="浦田9-10"/>、特定の国の輸入に対してだけセーフガードを発動することは認められず<ref name="若杉144-146"/>。セーフガードとして関税を引き上げる場合には他の品目で同等程度の関税引き下げを行わなければならないなど一定の制約があり、ガットの規定上認められた権利であったにもかかわらず実際にセーフガードが発動された件数はそれほど多くはなかった<ref name="若杉144-146"/>。セーフガード発動の権利を行使するためには輸入国側が自らに[[貿易摩擦]]の原因があることを認めなければならないため、[[自由貿易]]を標榜する先進国としてはセーフガードの権利を行使することがためらわれたのである<ref name="若杉144-146"/>。こうした理由から、ガットの規定上は必ずしも明確に定められていない[[輸出自主規制]]のような、[[保護主義]]的な政策が横行していくことになる<ref name="若杉144-146"/><ref name="荒木25"/>。これはガット体制見直しの大きな一因となった([[#ウルグアイ・ラウンド]]参照)<ref name="荒木25"/>。 |
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== 紛争解決 == |
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ガットは締約国間の紛争解決に関して、締約国は他の締約国に対して紛争に関する協議を要請でいることとし(第22条)、また締約国がガット上の利益を無効にされた場合、または侵害された場合の救済について定めた(第23条)<ref name="杉原283">[[#杉原(2008)|杉原(2008)]]、283頁。</ref>。これらの規定に基づき紛争当事国間で解決できなかったガット上の利益に関する[[国際紛争]]の処理は、ガット締約国団の検討に付される<ref name="杉原283"/>。第23条によれば、相手国がガット協定に違反した場合に締約国団に申し立てることができる(違反申立て)だけでなく、相手国の協定に違反しない措置により本来であれば協定上保障されていたはずの利益が無効になっている場合にも申し立てをすることができる(無違反申立て)とされた<ref name="小寺394-396">[[#小寺(2006)|小寺(2006)]]、394-396頁。</ref>。この無違反申立ての制度はWTOのもとに設置された{{仮リンク|世界貿易機関紛争解決機関|en|Dispute Settlement Body|label=WTO紛争解決機関}}にも引き継がれていく<ref name="小寺394-396"/>。ガットの初期においては作業部会によって紛争についての検討がなされ解決案が紛争当事国に提示されたが、後に締約国団はパネルを設置し、このパネルが理事会に紛争解決に関する報告書を提出するようになった<ref name="杉原283"/>。こうしたガットにおける紛争解決に関する決定を得るためには、締約国団の[[コンセンサス]]を得なければならないとされていた<ref name="杉原283"/>。つまり自国にとってパネルの紛争解決が不利なものであれば、その締約国はパネルの決定に反対しパネルによる紛争解決を妨げることが可能となっていたのである<ref name="杉原283"/><ref name="荒木26">[[#荒木(2011)|荒木(2011)]]、26頁。</ref>。WTO紛争解決機関はこのガット紛争解決手続きの不備を改善し、全ての締約国が一致して紛争解決に反対しない限り紛争解決手続きを進行させることができると定められた(逆コンセンサス方式)<ref name="小寺394-396"/>。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group=注}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite journal|和書|author=荒木一郎|date=2011-5|title=多角的貿易体制は維持できるか WTOの現状と課題|url=http://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2010/2011-05_004.pdf?noprint|format=PDF|journal=国際問題|number=601|pages=23-33|publisher=日本国際問題研究所|oclc=271534299|ref=荒木(2011)}} |
|||
*{{Cite journal|和書|author=浦田秀次郎|year=2001|title=グローバル化に伴う社会保障問題とWTO|url=http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/15147805.pdf|format=PDF|journal=海外社会保障研究|number=134|pages=37-50|publisher=国立社会保障人口問題硏究所|oclc=43925478|ref=浦田(2001)}} |
|||
*{{Cite journal|和書|author=浦田秀次郎、安藤光代|date=2010-12|title=自由貿易協定(FTA)の経済的効果に関する研究|url=http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/10120006.html|format=PDF|journal=ポリシー・ディスカッション・ペーパー|number=10-P-022|publisher=経済産業研究所|ref=浦田(2010)}} |
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*{{Cite journal|和書|author=奥和義|date=1995-5|title=ウルグアイ・ラウンドをめぐる各国の戦略と日本|url=http://www.lib.yamaguchi-u.ac.jp/yunoca/handle/C050043000504|format=PDF|journal=山口經濟學雜誌|volume=43|number=5|pages=571-601|publisher=山口大學經濟學會|oclc=835558263|ref=奥(1995)}} |
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*{{Cite book|和書|author=奥脇直也、小寺彰|title=国際法キーワード|year=2006|edition=第2版|publisher=有斐閣|isbn=4-641-05884-9|ref=奥脇(2006)}} |
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*{{Cite book|和書|author=小寺彰、岩沢雄司、森田章夫|title=講義国際法|year=2006|publisher=有斐閣|isbn=4-641-04620-4|ref=小寺(2006)}} |
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*{{Cite journal|和書|author=島野卓爾|date=1969-12|title=西欧を中心とした国際関係論序説 : 1960年代の回顧|url=http://hdl.handle.net/10959/739|format=PDF|journal=學習院大學經濟論集|volume=6|number=2|pages=41-72|publisher=学習院大学経済経学会|oclc=42911198|ref=島野(1969)}} |
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*{{Cite book|和書|author=杉原高嶺、水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映|title=現代国際法講義|year=2008|publisher=有斐閣|isbn=978-4-641-04640-5|ref=杉原(2008)}} |
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*{{Cite journal|和書|author=滝井光夫|year=2007|title=大統領の通商交渉権限と連邦議会|url=http://www.iti.or.jp/kikan69/69takii.pdf|format=PDF|journal=ITI季刊|number=69|pages=28-41|publisher=国際貿易投資研究所|oclc=852436260|ref=滝井(2007)}} |
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*{{Cite book|和書|author=筒井若水|year=2002|title=国際法辞典|publisher=有斐閣|isbn=4-641-00012-3|ref=筒井(2002)}} |
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*{{Cite journal|和書|author=冨田晃正|date=2010-3|title=経済グローバル化によるアメリカ労働組合AFL-CIOへの影響 : 通商選好「内容」変容の観点からの考察|url=http://hdl.handle.net/2261/35488|format=PDF|journal=アメリカ太平洋研究|volume=10|pages=96-115|publisher=東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター|oclc=62122797|ref=富田(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|author=中川淳司|year=2013|title=WTO――貿易自由化を超えて|publisher=岩波新書|isbn=978-4004314165|ref=中川(2013)}} |
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*{{Cite journal|和書|author=古内博行|date=2011-12|title=CAPの発足とその基本的特質|url=http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00099348|format=PDF|journal=千葉大学経済研究|volume=26|number=3|pages=21-67|publisher=千葉大学経済学会|oclc=20811222|ref=古内(2011)}} |
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*{{Cite journal|和書|author=益田実、小川浩之|date=2008-05|title=政権交代期の対外政策転換プロセスへの政治的リーダーシップの影響の比較分析|url=http://hdl.handle.net/10076/9263 |format=PDF|journal=平成17〜平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書|oclc=700075767|ref=益田(2008)}} |
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*{{Cite journal|和書|author=益田実|date=2010-10|title=OEEC 再編過程をめぐる英米関係,1959 年―1961 年|url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.23-2/04Masuda.pdf|format=PDF|journal=立命館国際研究|volume=23|number=2|pages=67-87|publisher=立命館大学国際関係学会|oclc=458294357|ref=益田(2010)}} |
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*{{Cite journal|和書|author=山本佳世|date=2003-10|title=交渉決裂で期限内妥結が遠のく新ラウンドの動向|url=http://www.bk.mufg.jp/report/ecorev2003/review20031028.pdf|format=PDF|journal=東京三菱レビュー|number=14|pages=1-8|publisher=東京三菱銀行|ref=山本(2003)}} |
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*{{Cite book|和書|author=若杉隆平|year=2009|title=国際経済学|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-026699-4|ref=若杉(2009)}} |
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*{{Cite journal|和書|date=1980-9|title=東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況|url=https://www.mof.go.jp/pri/publication/zaikin_geppo/hyou/g341/341_c.pdf|format=PDF|journal=財政金融統計月報|number=341|publisher=財務総合政策研究所|oclc=502169442|ref=「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」}} |
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==関連項目== |
==関連項目== |
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*[[世界貿易機関]](WTO) |
*[[世界貿易機関]](WTO) |
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*[[国際貿易機関]](ITO) |
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*[[国際経済学]] |
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*[[国際経済法]] |
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{{世界貿易機関}} |
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[[Category:国際経済法]] |
2014年1月1日 (水) 06:08時点における版
関税及び貿易に関する一般協定 | |
---|---|
通称・略称 | GATT(ガット)、1947年のGATT(改正前)、1994年のGATT(改正後)[1] |
署名 | 1947年10月30日(ジュネーヴ)[1] |
発効 | 正式には発効せず1948年1月1日より暫定適用[1] |
寄託者 | 国連事務総長(第26条第3項) |
言語 | 英語、フランス語(第26条第3項) |
主な内容 |
関税その他の貿易障害の軽減 国際通商における差別待遇の廃止 (前文より) |
関連条約 | WTO協定 |
条文リンク |
日本語訳(経済産業省) 英語正文(WTO) 仏語正文(WTO) |
関税及び貿易に関する一般協定(かんぜいおよびぼうえきにかんするいっぱんきょうてい、英語:General Agreement on Tariffs and Trade、フランス語:Accord Général sur les Tarifs Douaniers et le Commerce)は、1947年10月30日にジュネーヴにおいて署名開放された条約、またはこれに基づいて設立された国際組織を指す[1]。GATT(ガット)の略称で呼ばれる[1]。1995年にガットの規定を事実上吸収したWTO協定が発効するまで128カ国が署名したが[2]、正式には発効せず暫定適用議定書に基づいて適用され続けた[1]。この1947年に署名開放されたGATTを改正した1994年の関税及び貿易に関する一般協定はWTO協定と不可分の一部とされているが(WTO協定第2条第2項)、この1947年のGATTとWTO協定や1994年のGATTは別個の条約である(WTO協定第2条第4項)[1]。改正前のGATTのことを1947年のGATT、改正後のGATTのことを1994年のGATTといい区別される[1]。
沿革
経緯
今日のWTO体制は、アメリカ合衆国が1934年に制定した互恵通商協定法に基づき、諸外国と二国間通商協定を締結していったことに歴史的起源をもつ[4]。アメリカは協定の締結に基づき交渉によって相手国と互いに関税を引き下げ合い、協定の無条件最恵国条項によって通商の自由化を推し進めたのである[4]。第二次世界大戦後の1948年3月24日、1930年代の世界恐慌やブロック経済が諸国の経済的対立を激化させこれが第二次世界大戦発生の一因にもなったとの反省から、1944年のブレトン・ウッズ会議で設立された国際通貨基金 (IMF) や国際復興開発銀行 (IBRD、世界銀行) と並ぶ戦後の国際経済組織の支柱として、国際貿易機関(ITO)を設立するための国際貿易機関憲章(通称ハバナ憲章)が採択され、53カ国が署名した[5][6]。本来ガットはハバナ憲章に従属するものとして作成されたものであり、1947年10月30日にジュネーヴにて採択された[1]。ハバナ憲章の一部は後にガットに取り入れられ実施されていくことになった[6]。しかしガットは効力発生の要件としてガットを批准した国の貿易額がガット加盟国の貿易額の85パーセントを超えることを正式な発効要件としていたため[注 1]、当時はこの効力発生要件を満たす見込みがなかった[7]。またアメリカの互恵通商協定法が1948年に失効するなどといった事情からアメリカを含む多くの国々がハバナ憲章の批准を見送ったためガットだけを先に成立させる必要が生じた[1]。そのため、特にアメリカ議会の審議を受けることを避ける目的で「暫定適用議定書」を作成し、ガットを正式には発効させないまま1948年1月1日から「暫定適用議定書」に基づくガットの暫定適用が始まった[1]。「暫定適用議定書」もまたガットとは別個の法的拘束力を有する条約であり、ガットは同議定書を通じて実質的に各国に対する拘束力をもつものとなったが、この議定書には「現行の法令に反しない最大限度において」のみガットが適用される旨を定めた条項(通称「祖父条項」)が含まれていたほか[8]、このようにして成立したガット体制においては各国は関税譲許率のみを約束するのみとされ[9]、またガット第25条第5項にはアメリカの農産物13品目を貿易自由化の義務対象外とする、いわゆるウェーバー条項と呼ばれる条項がおかれた[9][10]。これらに加えて各国のガット規定上の義務違反も頻発し、大きな制約を受けることになったガットの規律は極めて弱いものとならざるを得なかった[1][9]。このようにして適用が開始されたガットは、雇用問題、労働基準、開発、国際投資ルール、国際カルテルや制限的商慣行といった競争法上の幅広い分野について規定していたハバナ憲章から、貿易関連規定だけを抜き出したものとなった[5]。ハバナ憲章の一部を暫定的に適用する形で開始された戦後のガットは、その後約50年間にわたり世界の多角的貿易体制を支えていくことになる[5]。
多角的貿易交渉
ガットは、国内の産業保護の手段として関税のみを認めていたが、ガット締約国はその関税引き下げのためには二国間で交渉するよりも多数国間で交渉するほうが効率的であるとして、多角的貿易交渉を行い関税水準を引き下げてきた[11]。これは1947年のガットを一部改正した1994年のガットを含むWTO協定が発効した後も継続されている[11]。第1回からディロン・ラウンドまでの計五回にわたる交渉では関税の引き下げについて交渉が行われたが、ケネディ・ラウンドでは関税引き下げのみではなく非関税障壁であるアンチダンピング問題についても検討された[12]。東京ラウンドではダンピング防止や政府調達のような非関税障壁の問題に加えて発展途上国が関心を持っていた熱帯産品に関する交渉が開始された[12]。1986年から1994年に行われた、ウルグアイ・ラウンドでは世界貿易機関を発足が決定され、本来国際貿易機関発足までの暫定的な体制あったはずのガットが実質的に国際組織として活動している異例的な状況を解消した[13]。ガット体制下で行われた8回の多角的貿易交渉を通じて、先進諸国の平均関税率はガット以前の10分の1以下の4パーセントにまで低下した[12]。
第1-4回
期間 | 参加国数 | 関税引き下げ対象品目数 | |
---|---|---|---|
第1回(ジュネーヴ) | 1947 | 23 | 45,000 |
第2回(アヌシー) | 1949 | 13 | 5,000 |
第3回(トーキー) | 1950-1951 | 38 | 8,700 |
第4回(ジュネーヴ) | 1956 | 26 | 3,000 |
ディロン・ラウンド | 1960-1961 | 26 | 4,400 |
ケネディ・ラウンド | 1964-1967 | 62 | 30,300 |
東京ラウンド | 1973-1979 | 102 | 33,000 |
ウルグアイ・ラウンド | 1986-1994 | 123 | 305,000 |
WTO発足(1995年) | |||
ドーハ開発ラウンド | 2001- | 149 | 鉱工業品の関税について |
最初の多角的貿易交渉は1947年の4月から10月、1948年の2月から3月、同年8月から9月の3回にわけて、スイスのジュネーヴにて行われた[18]。23カ国が交渉に参加し1947年10月30日にはガットの署名がなされ[1]、またこのときには国際貿易機関設立に向けた交渉がなされたほか[18]、45,000品目の関税引き下げについて合意に至った[17]。こうして行われた関税引き下げによって100億ドルの貿易に影響を及ぼしたといわれる[15][18]。1947年11月21日、国際貿易機関を設立するための本格的な交渉がキューバのハバナで開始され、1948年3月には国際貿易機関憲章(ハバナ憲章)の採択に至ったが前記のとおり(#経緯参照)国際貿易機関が設立されることはなかった[1]。そのかわりに1948年1月1日には、後にハバナ憲章の一部として採択される予定であったガットの適用を暫定的に開始することを定めた「暫定適用議定書」の適用が23カ国の間で開始され、これにより様々な制約つきではあったがガットの適用が開始されることとなった[1][15]。
2回目の多角的貿易交渉は1949年4月から8月にかけてフランスのアヌシーで行われた[18]。13カ国が参加した[15]。主な議題は関税の引き下げであり、5,000品目の関税引き下げについて合意されたほか[17]、さらに10カ国のガットへの参加が決定した[18]。しかしこの会期中にアメリカがハバナ憲章を批准しないことを宣言し、そのためこのとき国際貿易機関の設立が不可能であることが決定的となった[18]。
3回目の多角的貿易交渉は1950年9月から翌年4月までイギリスのトーキーで、38カ国の参加によって行われた[15][18]。このときには8,700品目が関税引き下げの対象となった[17]。
4回目の多角的貿易交渉は第1回と同じジュネーヴで1956年1月から5月にかけて行われ、26カ国が交渉に参加した[18]。3,000品目の関税引き下げが決定された[17]。
既に述べたようにガットはITOの設立を予定したものであったため組織に関する規定が不足しており、これを解消するため1955年に貿易協力機構を設立してガットに組織的な基盤を設けようとしたが、やはりこれもアメリカが加盟しなかったために成立することはなかった[1]。ガットに唯一規定されていた組織はガット全加盟国からなる「締約国団」のみであり、次第にこの「締約国団」が通常の国際組織で言うところの総会としての役割を事実上果たしていくことになる[1]。1960年には「締約国団」が理事会の設置を決議し、また本来ITOを設立するための準備的機関であったITO中間委員会が事実上の事務局としての役割を担いはじめた[1]。こうして本来ハバナ憲章の一部にしか過ぎなかったガットは総会、理事会、事務局という国際組織に特徴的な三部構造を備えることになり、ガットは実質的に国際組織としての機能を果たしていくことになる[1]。
ディロン・ラウンド
1958年、アメリカ経済担当国務次官ダグラス・ディロンが5度目の多角的貿易交渉の開催を提唱した[19][20]。これは1958年1月1日に欧州経済共同体(EEC)が発足し[21]、EEC内で10パーセントの関税引き下げと20パーセントの数量制限緩和が行われることが決定され、このときEEC内の一部に当時EEC非加盟国であったイギリスなど欧州経済協力機構(OEEC)にまで貿易自由化を拡大すべきとする考え方があったのに対して、そのような対米貿易格差は許容できず貿易自由化はガットの枠内で進められるべきと主張しアメリカが反発する立場をとったためである[20]。このような背景から1960年9月1日からスイスのジュネーヴで開催された多角的貿易交渉は、ダグラス・ディロンの名を冠してディロン・ラウンドと呼ばれる[22]。このディロン・ラウンド以降、多角的貿易交渉は交渉の開催を提唱した人や提唱された地名にちなんで「XXXXラウンド」と呼ばれるようになる[11][14][注 2]。ディロン・ラウンドでは、特にEEC加盟諸国が個別に定めていた関税率をEEC加盟国で共通域外関税に移行するかどうか、EEC加盟国間で共通農業政策を導入するか、などが主な議題として取り上げられた[19]。
ケネディ・ラウンド
1962年10月、アメリカで既存の関税を50パーセント削減するための交渉権限と、アメリカと欧州経済共同体(EEC)が世界全体の80パーセント以上を占める品目の関税を削減または廃止するための交渉権限を、議会から大統領に授権することを定めた通商拡大法が制定された[23]。このときアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディにちなみ、1964年5月4日からジュネーヴで開催された多角的貿易交渉はケネディ・ラウンドと呼ばれる[24]。このケネディ・ラウンドでは、二国間交渉の成果を最恵国待遇原則に基づきガット全加盟国に適用するというそれまでの交渉方式を改め、ガット全加盟国が関税譲許表を示しそれらを一括で検討するという一括交渉方式が採用された[25][26]。それまでの二国間方式では各国が自国への不利益を避けるために効果を縮小化しようとする傾向があり、これを避けるためこのような交渉方式の変更がなされた[25]。このようにして行われた関税引き下げ交渉では、工業製品に付加される関税を平均で35パーセント以上引き下げることに成功した[23]。これはディロン・ラウンドの約8倍にも相当する成果であった[23]。
東京ラウンド
1973年9月にガット閣僚会議が東京が行われ、このとき採択された「東京宣言」に従い7回目の多角的貿易交渉決定され[27]、1973年9月から1979年11月までジュネーヴで東京ラウンドが開催された[18][15]。交渉参加国が増加したことから合意を早めるためにアメリカ、EC、日本、カナダが合意した内容をガット全締約国がコンセンサスにより承認する方式が慣行的に取り入れられるようになった[28]。東京ラウンドでは、補助金、製品の規格などといった貿易の技術的障害、輸入許可手続きといった関税以外の貿易障壁について規律する協定が締結された[28]。また東京ラウンドでもケネディ・ラウンドと同じように関税引き下げ交渉は一括交渉方式がとられたが、ECが既存の関税率が高い国と低い国に同率の関税引き下げを求めるべきではないと主張したため、以下のように交渉開始前の関税率を国ごとに反映した関税引き下げが行われた[28][29]。
z:引き下げ後の関税率、x:既存税率、a:国別定数(例:ECは16、アメリカ・日本は14)
ケネディ・ラウンドと同様に東京ラウンドでも工業製品の関税引き下げについては大きな成果を上げたが、農産品貿易の自由化交渉については成果を上げることができなかった[30]。
ウルグアイ・ラウンド
1986年9月15日から20日にかけてウルグアイのプンタ・デル・エステで行われたガット閣僚会談において、増加するサービスの貿易や知的所有権の国際移転に対応するため次の多角的貿易交渉開催が採択された[31]。そのためそれまでの7回の多角的貿易交渉では関税引き下げのための一括交渉が主なテーマであったが、ウルグアイ・ラウンドではサービスや知的所有権などそれまでの多角的貿易交渉では議題とならなかった交渉項目が追加され、また非関税障壁についても交渉されるなど市場開放のあり方についてより広く交渉が行われた[32]。その結果ウルグアイラウンドでは広範にわたるテーマが交渉されることになり、交渉妥結までそれまでの多角的貿易交渉よりもはるかに長い8年もの歳月を要することとなった[33]。また、このようにガット加盟国間同士の多角的貿易交渉が積極的に進められていく傍らで、このころ先進工業国間では二国間の貿易摩擦問題が多発していた[34]。これをきっかけにしてガット規定の適用を受けない二国間の貿易取り決めが数多く締結されていくこととなり、ガットは次第に形骸化・後退していくことになる[34]。例えばアメリカは1984年に大統領のファスト・トラック権限をガットの多国間交渉から二国間自由貿易協定交渉まで広げる通商関税法を制定し[35][36]、これに基づきアメリカ・イスラエル間の自由貿易協定が締結された[35]。これはアメリカが多角的貿易交渉から離れていく象徴的な出来事であったと言える[35]。こうした二国間貿易取り決めが広まっていったことに加えて、1980年代には第二次オイルショックの影響から世界景気の後退により先進諸国が農業補助金や輸出自主規制等といった形で保護主義的政策を強めていったことや[12][35][37]、ガットが規律対象としていたモノ(財)貿易には該当しないサービスや直接投資の国際経済活動の活発化といった状況にさらされ[12]、それまで国際貿易システムを支えてきたガットシステムの維持が次第に困難なものとなっていったのである[37]。こうした流れは暫定的なガット体制を解消して新たな国際組織を設立することにつながっていく[35]。またこれは、他国の貿易政策を「不正的貿易慣行」と一方的に認定し、他国に貿易制裁を科すアメリカの1974年米国通商法第301条の濫用を防ぎたいとする各国の思惑とも一致するものであった[35]。全ての交渉テーマについてようやく合意がまとまったのは1993年12月であり、その後1994年4月15日にモロッコのマラケシュにてウルグアイ・ラウンド最終合意文書の調印式が行われた[38]。ガットは一部改正され1994年のガットとしてWTO協定の附属書1Aに組み込まれた[39]。WTO協定には祖父条項もなく、結局正式には発効することがなかった1947年のガットと違い正規の条約で、各国の法的関係もより明確なものとなった[1]。そしてウルグアイ・ラウンドの終結とともに、もともと国際貿易機関が設立されるまでの暫定的な組織であったガットを引き継ぐ国際組織として世界貿易機関が設立されたのである[40]。
基本的原則
無差別
「無差別」はガットの基本的原則とされ、これには最恵国待遇という側面と、内国民待遇という側面とがある[1]。ガット上の最恵国待遇は他国や他国の物品を無差別に待遇することを意味する(第1条第1項)[41]。地域経済統合はこの最恵国待遇に対する例外として規定される(第24条)[41]。内国民待遇とは他国や他国産品を自国や自国産品と差別することなく待遇することをいい、ガットでは輸入品に対する税金や国内法令について規定した(第3条)[42]。
数量制限禁止
数量制限禁止もガットの基本的原則のひとつである[1]。国内産業を保護するための手段としては関税以外は認めず、この関税についても多角的貿易交渉により引き下げを目指した(#多角的貿易交渉を参照)[1]。WTOが発足するまでこの他確定貿易交渉は8度開催され、そのたびに関税引き下げを実現してきた[14]。また公正な競争を原則とし、その実現のために補助金付き輸出に対する相殺関税やアンチダンピングについて恣意的な措置を取らないよう規定された[1][34]。
セーフガード
セーフガードとは、特定の品目輸入が急増することによって国内産業が打撃を受けることを予防するため、関税賦課や輸入数量制限といった形で行われる措置であり[43]、ガット第19条に規定された[44]。これは特定の国からの輸入が一時的に急増することで国内産業に被害が発生した場合に、セーフガードとして緊急避難的に一時的な輸入制限措置を発動することを認めたものである[45]。しかしセーフガードを発動するために国内産業が被害を受けたことを立証することは容易なことではなく[45]、また無差別原則にのとった多角的セーフガードの発動はできても[44]、特定の国の輸入に対してだけセーフガードを発動することは認められず[45]。セーフガードとして関税を引き上げる場合には他の品目で同等程度の関税引き下げを行わなければならないなど一定の制約があり、ガットの規定上認められた権利であったにもかかわらず実際にセーフガードが発動された件数はそれほど多くはなかった[45]。セーフガード発動の権利を行使するためには輸入国側が自らに貿易摩擦の原因があることを認めなければならないため、自由貿易を標榜する先進国としてはセーフガードの権利を行使することがためらわれたのである[45]。こうした理由から、ガットの規定上は必ずしも明確に定められていない輸出自主規制のような、保護主義的な政策が横行していくことになる[45][35]。これはガット体制見直しの大きな一因となった(#ウルグアイ・ラウンド参照)[35]。
紛争解決
ガットは締約国間の紛争解決に関して、締約国は他の締約国に対して紛争に関する協議を要請でいることとし(第22条)、また締約国がガット上の利益を無効にされた場合、または侵害された場合の救済について定めた(第23条)[46]。これらの規定に基づき紛争当事国間で解決できなかったガット上の利益に関する国際紛争の処理は、ガット締約国団の検討に付される[46]。第23条によれば、相手国がガット協定に違反した場合に締約国団に申し立てることができる(違反申立て)だけでなく、相手国の協定に違反しない措置により本来であれば協定上保障されていたはずの利益が無効になっている場合にも申し立てをすることができる(無違反申立て)とされた[47]。この無違反申立ての制度はWTOのもとに設置されたWTO紛争解決機関にも引き継がれていく[47]。ガットの初期においては作業部会によって紛争についての検討がなされ解決案が紛争当事国に提示されたが、後に締約国団はパネルを設置し、このパネルが理事会に紛争解決に関する報告書を提出するようになった[46]。こうしたガットにおける紛争解決に関する決定を得るためには、締約国団のコンセンサスを得なければならないとされていた[46]。つまり自国にとってパネルの紛争解決が不利なものであれば、その締約国はパネルの決定に反対しパネルによる紛争解決を妨げることが可能となっていたのである[46][48]。WTO紛争解決機関はこのガット紛争解決手続きの不備を改善し、全ての締約国が一致して紛争解決に反対しない限り紛争解決手続きを進行させることができると定められた(逆コンセンサス方式)[47]。
脚注
注釈
出典
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