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'''第五青函丸'''(だいごせいかんまる)は、[[ |
'''第五青函丸'''(だいごせいかんまる)は、[[運輸通信省]][[青函連絡船|青函航路]]の[[鉄道連絡船]]。[[鉄道連絡船#車両航送|車両渡船]]であった。 |
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[[第三青函丸|第四青函丸]]を原型とした[[戦時標準船#日本の戦時標準船|W型戦時標準船]](第五青函丸型)で |
[[第三青函丸|第四青函丸]]を原型として簡易化した[[戦時標準船#日本の戦時標準船|W型戦時標準船]](第五青函丸型)で、第五~第十二青函丸の8隻があった。 |
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ここでは第五青函丸型について記述する。 |
ここでは第五青函丸型について記述する。 |
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== W型戦時標準船 == |
== W型戦時標準船建造までの経緯 == |
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[[1937年]](昭和12年)の[[日中戦争]]勃発による船腹不足は、海運貨物の鉄道への転移を促し、青函間の貨物輸送量は、[[1936年]] (昭和11年)の110万トンから[[1940年]](昭和15年)の213万トンへと倍増した<ref name="renrakusenshi237">青函連絡船史p237 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。しかし、この間の車両渡船の増強は、[[1939年]](昭和14年)11月就航の[[第三青函丸]]1隻にすぎず、[[1941年]](昭和16年)12月の[[太平洋戦争]]開戦により、輸送需要は一層増加し、そのうえ、[[1941年]](昭和16年)11月20には、浮遊機雷の津軽海峡への流入があり、以後半年間は12往復中、夜間便5往復の休航を余儀なくされ、滞貨の山ができてしまった<ref name="hokkaido100y205">北海道鉄道百年史(中巻)p205~207 国鉄北海道総局1980</ref>。 |
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1937年(昭和12年)の[[日中戦争]]勃発により招来された船腹不足による海運貨物の鉄道への転移は、1941年(昭和16年)12月の[[太平洋戦争]]開戦後更に顕著となった。とりわけ、北海道炭の[[京浜工業地帯]]への輸送は、[[室蘭本線]]、[[函館本線]]、[[東北本線]]と繋がる輸送ルートの一部としての[[青函航路]]に重くのしかかった。当時これらの鉄道は大部分が単線で、線路容量増大のため、多くの[[信号場]]が急造され、一部複線化された箇所もあった。[[青函航路]]においても、有川第3第4岸壁(1944年1月と11月開設)、青森第3岸壁(1944年5月開設)が建設され、鉄道ルートが飽和するまで[[車両渡船]]を建造することを目指し、1943年(昭和18年)6月から、すざましい勢いで[[車両渡船]]の建造が始まった。 |
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このため、貨物船として、元[[関釜連絡船]][[新羅丸]]の助勤、転属を受けたり、[[1942年]](昭和17年)2月15日からは、機帆船による貨物輸送を行って滞貨解消に努めた<ref name="renrakusenshi237"/>。しかし、戦時下、北海道炭の[[京浜工業地帯]]への主要輸送ルートとなる[[室蘭本線]]・[[函館本線]]と[[東北本線]]・[[常磐線]]とを繋ぐ[[青函航路]]が、このような姑息的手段で、その使命を全うできるはずはなく、これを早急に解決するため、[[鉄道省]]は[[1942年]](昭和17年)春には、車両渡船4隻の早期建造を海軍[[艦政本部]]に要請した。 |
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鉄道も、当時このルートの大部分は単線で、線路容量増大のため、多くの[[信号場]]が建設中で、複線化工事を急いでいた箇所もあった。青函航路においても、函館港では[[1941年]](昭和16年)4月から、青森港では [[1940年]](昭和15年)11月から、車両渡船用岸壁増設工事が進められており、函館港有川埠頭の函館第3第4岸壁<ref>開設当時の呼称は有川第1第2岸壁:古川達郎 鉄道連絡船細見p67 JTBパブリッシング2008</ref>が、[[1944年]](昭和19年)1月3日と11月17日から使用開始され、青森第3岸壁は[[1944年]](昭和19年)5月1日から昼間のみ使用開始(7月20日より昼夜使用))された<ref name="renrakusen50y230">青函連絡船50年史p230 国鉄青函船舶鉄道管理局1957</ref>。 |
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* 艦艇建造で繁忙化した造船所における商船建造の調整を図る目的で、[[1942年]](昭和17年)2月より、[[海軍艦政本部]]が当初は50m以上の鋼船、やがて全船舶の建造修繕監督権を掌握した。[[1942年]](昭和17年)4月には商船の大量建造のため[[艦政本部]]が選定した10種類の[[戦時標準船]]以外は建造許可されないこととなった。この頃、鉄道省から出された青函航路向け車両渡船大量建造の要請に対し、艦政本部はD型[[戦時標準船]]と呼ばれる1900総トンの一般型貨物船の導入を要求した<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p106 成山堂書店1988</ref>。これに対し、[[鉄道省]]は海峡を渡る[[鉄道連絡船]]における貨車航送の優位性を示して[[艦政本部]]を説得し、[[1942年]](昭和17年)12月、当時建造中であった[[第三青函丸|第四青函丸]]の建造続行と、この[[第三青函丸|第四青函丸]]を徹底的に簡易化した[[車両渡船]]1隻(第五青函丸)の追加建造を了承させた。これが[[戦時標準船#日本の戦時標準船|W型戦時標準船]]の始まりであった。「W」は'''WAGON'''、貨車の意味であった。 |
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艦艇建造で繁忙化した民間造船所における、商船建造の調整を図る目的で、海軍[[艦政本部]]は[[1942年]](昭和17年)2月から、海軍管理工場<ref>[[国家総動員法]]に基づいて海軍が管理した工場。当時多くの造船所が指定された:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00205544&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1</ref>で施工する、長さ50m以上の鋼船の建造修繕監督権を、[[1942年]](昭和17年)7月からは、全船舶の建造修繕監督権を掌握した<ref>昭和17年7月28日勅令第619号 官報(昭和17年7月29日)1942</ref>。また、[[1942年]](昭和17年)4月からは、商船の大量建造のため、艦政本部が選定した10種類の[[戦時標準船]]以外の建造は、許可されないことになった。 |
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*[[1943年]](昭和18年)[[戦時標準船#日本の戦時標準船|W型戦時標準船]]2隻の建造決定 |
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*[[1944年]](昭和19年)[[戦時標準船#日本の戦時標準船|W型戦時標準船]]8隻の建造決定 |
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このため、 [[鉄道省]]から、この時期に出された、上記の青函航路向け車両渡船4隻の建造要請に対しても、艦政本部はこれを却下し、D型戦時標準船と呼ばれる1900総トンの一般型貨物船の建造を主張した<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p106 成山堂書店1988</ref>。これに対し、[[鉄道省]]は、片道数時間以内の[[鉄道連絡船]]航路における、車両渡船の圧倒的な荷役時間の短さと、それによる、船と岸壁の稼働率の高さを示して、貨車航送の優位性を艦政本部に訴えたが、受け入れられず、しばし膠着状態となった。 |
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*[[戦時標準船#日本の戦時標準船|W型戦時標準船]]の第1船の第五青函丸は[[浦賀船渠]]が建造を担当した(第六~第十二の建造も浦賀船渠)。 |
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*# 使用する鉄板の厚さの削減。 |
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しかし、[[1942年]](昭和17年)6月の[[ミッドウェイ海戦]]敗北後は、アメリカ軍潜水艦による攻撃で、商船の喪失は急増し、海運輸送力は更にひっ迫、従来からその多くを海運に頼っていた国内炭輸送は危機的状況に陥った。ここに至って、ようやく[[鉄道省]]の説得工作が功を奏したのか、政府は、[[1942年]](昭和17年)10月の閣議で、“石炭など重要物資の海上輸送を陸上輸送に転移させる。北海道炭輸送については、青函間貨車航送力を最大限度に活用するほか、現に建造計画中の貨車航送船4隻を急速に竣工させる。”と決定した<ref>http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00419.php戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件 昭和17年10月6日閣議決定1942</ref>。 |
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*# 曲線部分の直線化。 |
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この4隻には、当時建造中の[[第三青函丸|第四青函丸]]も含まれ、[[1942年]](昭和17年)12月に、ようやくこの[[第三青函丸|第四青函丸]]の建造続行と、第四青函丸を徹底的に簡易化した車両渡船1隻(第五青函丸)の追加建造が正式に承認された。これが[[戦時標準船#日本の戦時標準船|W型戦時標準船]]の始まりであった。「W」は'''WAGON'''、[[貨車]]の意味であった。しかし、残り2隻の建造承認は翌年3月まで持ち越された。 |
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*[[1943年]](昭和18年)W型戦時標準船2隻の建造決定 |
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*[[1944年]](昭和19年)W型戦時標準船8隻の建造決定 |
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== W型戦時標準船の概要 == |
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=== 建造から終戦まで=== |
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*W型戦時標準船は、原型となった[[第三青函丸|第四青函丸]] が建造された[[浦賀船渠]]で、全船が建造された。 |
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*# 使用する鋼板の厚さの削減。 |
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*# 船型の曲線部分の直線化。 |
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*# 二重底の廃止。床材は一部木材を使用。 |
*# 二重底の廃止。床材は一部木材を使用。 |
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*# 甲板工作物の |
*# 甲板工作物、諸設備の簡易化。 |
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*# 居住区を大部屋とする。 |
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*# 船橋上両舷に25mm単機銃を2丁、後部甲板上両舷に13mm連装機銃2基設置。 |
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* まず、第1船の第五青函丸では、上記の方針に従い、海軍監督官の意向を受けた造船所側が、鋼材節約のため、二重底廃止や第二甲板の一部廃止だけでなく、船楼甲板の一部除去などで720トンもの軽量化を断行した。しかし完成間際になって、船が浮き上がり過ぎて、車両積み込み時の横傾斜(当時建設中の函館有川第3、4岸壁、青森第3岸壁の新型可動橋では4度まで許容、当時稼働中の在来型は1度50分程度まで許容)<ref>青函連絡船50年史p35 国鉄青函船舶鉄道管理局1957</ref>が、ヒーリング装置で補正しても8度にも達し、[[可動橋]]のねじれが過大となり、2軸貨車が3点支持となって脱線することが判明した。これでは車両渡船として使用できないため、第三船艙を深水タンクに改造し600トンの海水を入れ、車軸室船底に150トンの砂利を積み込むことで重量を確保し、どうにか使える形で完成させた<ref>吉澤幸雄 戦時下“第五青函丸”建造秘話 船の科学43巻1号p100 1990</ref>。第2船の第六青函丸以降はこれに懲りて、このような過剰な軽量化は行われなかった。 |
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* 機関部では、従来6缶あったボイラーを4缶に減らしたうえ、第五青函丸では陸軍特務船用の3000軸馬力の[[日立製作所]]製衝動[[蒸気タービン|タービン]]を流用したが、本船には過大であったため、2250軸馬力に落として使用し、効率の悪い運転となった。また第六青函丸と第七青函丸では、第四青函丸と同等の浦賀船渠製衝動タービンが採用されたが、今度はボイラーの [[過熱蒸気発生装置|過熱器]]が省略されてしまい、4時間30分運航はいよいよ困難となった。第八青函丸以降は2T戦時標準型タンカー用の甲25型衝動タービンを使用したが、右回り回転のものしかなく、左右両軸とも右回転での運航となった。またこのタービンの2段減速歯車は構造的に無理があり、故障が頻発した<ref>山本煕 車両航送p248 巻末表36 日本鉄道技術協会1960</ref>。なおボイラーが4缶に減ったため煙突も4本から2本に減った。 |
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* この設計で製造された第五青函丸は750tの資材の節約となったが、過剰な軽量化のため、車両積み込み時に大きく傾斜し、最悪の場合には転覆することが判明したため、船底に大量の砂利を積み込むことで重量を確保し完成した。なお、この欠陥は第六青函丸以降は解消されている。また、各船で外観、内部構造も異なった。 |
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* 主機は様々となっている。主なものとして、[[日立製作所]]大型インパルスタービン(第五青函丸)、2T戦時標準型タンカー用甲25型タービン(第八青函丸以降)があった。性能的には大幅に低下していた。ボイラーは4缶に減らされ、煙突も2本に減った。 |
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*[[戦時標準船#日本の戦時標準船|W型戦時標準船]]を実際に運航してみると、ボイラー4缶では定時運航困難なことがわかり、第十一青函丸以降は5缶に増やされた。 |
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*1000総トン以上の船には、所定の武装兵器と警戒隊員の配置が定められていたが、[[1944年]](昭和19年)になって、青函連絡船用として、12cm砲1門と25mm機銃2基、爆雷16個と明示された。 |
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*第2船の第六青函丸就航後の[[1944年]](昭和19年)4月1日から、従来の14往復から18往復に増便され、[[1944年]](昭和19年)5月1日には、青森第3岸壁開設で、両港とも3岸壁使用となり<ref name="renrakusen50y230"/>、休航なしの全船フル稼働19往復となった。更に第3船の第七青函丸就航した[[1944年]](昭和19年)7月20日には、21往復運航に増便された。しかし、[[1944年]](昭和19年)11月22日には、第4船の第八青函丸が就航したが、既にこの頃には、全船フル稼働の過酷な運航体制は破綻しており、これ以上の増便はできなかった。[[1945年]](昭和20年)2月と3月には、事故で2隻を失い、[[1945年]](昭和20年)6月1日には第6船の第十青函丸が就航したが、船舶、施設とも疲弊し、13往復を目標とするに留まった<ref name="rennrakusenshi199">青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref><ref name="hokkaido100y205"/>。 |
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* 結果的に戦後まで生き残ったのが、第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸の3隻。建造中に終戦を迎え、その後も工事が続けられた所謂“続行船”が、第十一青函丸、第十二青函丸の2隻であった。1945年7月14日の空襲で車載客船、翔鳳丸型全4隻を失った青函航路の旅客輸送力を補うべく、第六、第七、第八、第十一青函丸の4隻では就航後に、第十二青函丸では建造中に、船楼甲板の本来の甲板室の前後に定員300名~400名の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して客載車両渡船とし、“デッキハウス船”と通称された。しかし1946年6月17日には、就航中および以後竣工予定の全デッキハウス船が進駐軍専用とされ、旅客輸送力増強の目論見は頓挫した<ref>この直後に建造許可された洞爺丸型車載客船4隻は日本人用となった:山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960</ref>。翌1947年7月21日になり、第六、第七、第八青函丸の3隻のみ解除された。 |
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*W型戦時標準船を実際に運航してみると、ボイラー4缶では定時運航困難なことが実証され、[[1945年]](昭和20年)2月3日起工の第7船、第十一青函丸以降は5缶に増やされた<ref name="sharyokousop252">山本煕 車両航送p252 日本鉄道技術協会1960</ref>。 |
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=== 戦後の客載車両渡船化=== |
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* 結果的に戦後まで生き残ったのが、第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸の3隻。建造中に終戦を迎え、その後も工事が続けられた所謂“続行船”が、第十一青函丸、第十二青函丸の2隻であった(そのほかにH型の[[石狩丸 (初代)|石狩丸]]も建造中であった)。[[1945年]](昭和20年)7月14日の空襲で車載客船、[[翔鳳丸]]型全4隻を失った青函航路の旅客輸送力を補うため、第六、第七、第八、第十一青函丸の4隻では就航後に、第十二青函丸とH型の[[石狩丸 (初代)|石狩丸]]では建造中に、船楼甲板の本来の甲板室の前後に定員300名~400名の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して客載車両渡船とし、“デッキハウス船”と通称された。しかし[[1946年]](昭和21年)年6月17日には、就航中および以後竣工予定の全デッキハウス船が[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]専用とされ、旅客輸送力増強の目論見は頓挫した<ref>この直後に建造許可された洞爺丸型車載客船4隻は日本人用となった:山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960</ref>。翌[[1947年]](昭和22年)7月21日になり、第六、第七、第八青函丸の3隻は解除された。 |
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*第六、第七、第八青函丸では戦後、ボイラーの4缶から5缶への増強工事(第十一、第十二青函丸は新造時よりボイラーは5缶)、第六、第七、第八、第十一、第十二青函丸の主機換装、二重底化工事などが進められた。 |
*第六、第七、第八青函丸では戦後、ボイラーの4缶から5缶への増強工事(第十一、第十二青函丸は新造時よりボイラーは5缶)、第六、第七、第八、第十一、第十二青函丸の主機換装、二重底化工事などが進められた。 |
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===洞爺丸事件とその後の対応=== |
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*[[1954年]](昭和29年)[[9月26日]]の[[洞爺丸台風]]では、5隻のW型戦時標準船のうち、二重底化工事完成直後の第十一青函丸が沈没した。この沈没については、船体が三つに破断されており、他船とは異なった要因の関与も疑われたが、確証は得られず、原因不明とされた<ref name="toyamarukainan">洞爺丸海難誌p279 p282 国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref>。 |
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*[[洞爺丸事故|洞爺丸事件]]後の、[[洞爺丸]]ほか4隻の沈没原因の研究によると、当夜の函館湾の波は周期9秒、波長約120mで、当時の青函連絡船の水線長115.5mより僅かに長く、このような条件下では、ピッチングにより船尾が勢いよく波の中に突っ込んだとき、その勢いで、波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが判明した。その量は、車両甲板全幅が車両格納所となっている車両渡船では、貨車満載状態で、停泊中であれば、波高6mのとき900トンを越え、この大量の流動水は車両甲板上を傾いた側へすばやく流れるため、これだけで転覆してしまう量であったが、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減少することも判明した<ref>山本煕 車両航送p302p307 日本鉄道技術協会1960</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p317 成山堂書店1988</ref>。更に、石炭焚き蒸気船では、車両甲板から機関室への開口部が多数あり、これら開口部の閉鎖が不完全な場合は、滞留海水が機関室へ流入することで機関停止に至り、操船不能となって沈没に至る。車両格納所の狭い洞爺丸では、これが沈没の大きな要因とされた<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p319 成山堂書店1988</ref>。 |
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*1954年9月26日の洞爺丸台風では、二重底化工事完了直後の第十一青函丸が沈没した。第十一青函丸の沈没要因については原因不明とされており諸説あるが、他船と異なる要因で船体破断に至ったとする説が有力とされている。 |
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*事故後の対策としては、車両甲板から機関室への開口部を水密化したうえ、車両甲板船尾側面に多数の放水口を設置し、車両甲板上に流入した海水を船外へ流出させる方式を、1955年建造の[[檜山丸 (初代)|檜山丸(初代)]]で採用した。しかし、この方式は、旅客設備のない車両渡船では、その安全性が模型実験などで確認されたが、船楼甲板に客室を持つデッキハウス船では、安全性が十分確保できないことも判明した<ref>古川達郎 連絡船ドックp69 船舶技術協会1966</ref>。 |
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*洞爺丸事故後の、[[洞爺丸]]ほか4隻の沈没原因の研究によると、当時の函館湾は波周期9秒、波長約120mで、当時の青函連絡船の水線長115.5mより僅かに長く、このような条件下では、ピッチングにより船尾が波の中に突っ込んたとき、船尾エプロンがすくい上げた海水が車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水が船首方向へ流れ込んで、やがて車両甲板上に海水が滞留し、車両甲板全幅が車両格納所となっている車両渡船では、その量は900トン以上に達し、これだけで転覆してしまうことが判明した<ref>古川達郎 連絡船ドックp63 船舶技術協会1966</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p317 成山堂書店1988</ref>。さらに、石炭焚き蒸気船では車両甲板から機関室への開口部が多数あったため、これら開口部の閉鎖が不完全な場合に滞留海水が機関室へ浸入することで機関停止に至り、これが車両格納所の狭い[[洞爺丸]]の沈没の大きな要因となったとされている。 |
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*このため、第十二青函丸では[[1957年]](昭和32年)6月、二重底化とともに、デッキハウスを撤去し、車両甲板船尾側面に放水口を設置し、車両渡船とした。 |
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*事故後の対策としては、車両甲板から機関室への開口部を水密化したうえ、車両甲板船尾側面に多数の放水口を設置し、車両甲板上に流入した海水を船外へ流出させる方式を1955年建造の[[檜山丸 (初代)|檜山丸(初代)]]で採用した。しかし、この方式は、旅客設備のない車両渡船では、その安全性が模型実験などで確認されたが、船楼甲板に客室を持つデッキハウス船では、安全性が十分確保できないことが判明した<ref>古川達郎 連絡船ドックp69 船舶技術協会1966</ref>。 |
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*また第六、第七、第八青函丸では、デッキハウスを残すため、船体外殻と同等の強度を有する船尾水密扉を設置した。これは、[[1957年]](昭和32年)建造の[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]で実用化した単線幅の船尾水密扉を、横方向に3倍近く大型化して、船尾全幅3線分をカバーできるようにしたもので、その基本構造は、[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]のものと同じであった。この扉は、船尾開口部上縁にヒンジで取り付けられた鋼製の上下2枚折戸式船尾扉で、中央部のヒンジで“く”の字に屈曲し、この屈曲部分を後方へ突出させつつ、船尾扉下縁両端を船尾開口部両縁のガイドウェイに沿わせて上方へ開き、全開位置では折り畳まれた状態で、開口部直上に垂直に立てられてロックされる構造であった。動力は電動ウィンチで、ワイヤーと滑車を用いて動かされた。また船内軌道が船尾扉の敷居を越える部分には、水密性確保のため電動油圧式の跳上げレールが設置された。なお、扉の大型化により、扉閉鎖の最終段階で、船尾扉を内側から引き寄せて、船体側に付けたゴムパッキンに船尾扉を密着させて水密性を確保する油圧式“締付け装置”が、[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]の4個から6個に増やされた<ref>泉益生 連絡船のメモ(中巻)p144 船舶技術協会1975</ref>。 |
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*このため、第十二青函丸では1957年6月、二重底化とともに、デッキハウスを撤去し、車両甲板船尾側面に放水口設置し、車両渡船とした。 |
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*[[1958年]](昭和33年)7月に第六青函丸に、[[1958年]](昭和33年)10月に第七青函丸に、[[1959年]](昭和34年)5月には第八青函丸にそれぞれ船尾扉が装備された<ref name="dock68">古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966</ref>。これにより車両格納所容積も総トン数に加算され約5,800総トンとなり、車載客船なみに塗り分け線を下げ、外舷上部も白く塗装された。 |
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*また第六、第七、第八青函丸では、デッキハウスを残すため、船尾水密扉を設置した。1957年建造の[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]で単線幅の小型船尾扉で実用化した船尾扉の大型版で、船尾全幅3線分をカバーした。これは、上下2枚の鋼鉄製扉を中央部でヒンジでつなぎ、ヒンジ部分が外側に突出しつつ折れ曲がり、上方へ開いてゆく構造で、動力は電動ウインチであった。 |
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*1958年7月に第六青函丸に、1958年10月に第七青函丸に、1959年5月には第八青函丸にそれぞれ船尾扉が装備された<ref>古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966</ref>。これにより車両格納所容積も総トン数に加算され約5,800総トンとなった。さらに車載客船なみに塗り分け線を下げ、外舷上部も白く塗装さた。 |
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*洞爺丸事故から約4年を経て、ようやくフルサイズの船尾水密扉が完成、これが後の[[津軽丸 (2代)|津軽丸]]型の油圧トルクヒンジ式の船尾扉へと発展してゆくことになる。 |
*洞爺丸事故から約4年を経て、ようやくフルサイズの船尾水密扉が完成、これが後の[[津軽丸 (2代)|津軽丸]]型の油圧トルクヒンジ式の船尾扉へと発展してゆくことになる。 |
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*なおこれらW型戦時標準船4隻は、 |
*なおこれらW型戦時標準船4隻は、津軽丸型各船の就航とともに順次引退していった。 |
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= 各船の概要と沿革 = |
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== 第五青函丸 == |
== 第五青函丸 == |
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第1船。鋼材節約のための過剰な軽量化で船体が計画より浮き上がってしまい、車両積み込み時に船体の横傾斜が過大となり、車両の積み込みができないことが竣工間際に判明、第三船艙を深水タンクに改造して海水を入れ、車軸室に川砂利を積載して計画喫水を確保した。また主機には陸軍特務船用の3000軸馬力の[[日立製作所]]製衝動タービンを流用したが、このタービンは22kg/cm²、330℃という高圧高温の蒸気用で、これを16kg/cm²、280℃の蒸気で、2250軸馬力に落として使用したため、効率の悪い運転となった<ref>山本煕 車両航送p248 日本鉄道技術協会1960</ref>。 |
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第1船。最も性能が悪かったという。船長と機関長以外の船員は大部屋で雑魚寝となった(第六青函丸以降は大部屋寝台に改善)。 |
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更に、海軍監督官の意向で、船員の居住区画も徹底的に簡易化された。鋼材節約のため、車両甲板下の第二甲板の大部分が廃止されたため、[[第三青函丸|第四青函丸]]まで、ここにあった船員居室と、部分甲板の船員居室が廃止され、普通船員全員が船楼甲板の畳敷き大広間に集約され、雑魚寝となった。 1層上の遊歩甲板には、畳敷きの6畳間が造られ、高級船員が雑魚寝となり、同じ遊歩甲板の“機密室” という名の一室を、船長と機関長が共用した<ref>山本煕 車両航送 巻末表36 日本鉄道技術協会1960</ref>。 |
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=== 沿革 === |
=== 沿革 === |
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* [[1943年]](昭和18年)6月29日 : 起工 |
* [[1943年]](昭和18年)6月29日 : 起工 |
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**12月29日 : 竣工 |
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* [[1944年]](昭和19年)1月14日 : 就航 |
* [[1944年]](昭和19年)1月14日 : 就航 |
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* [[1945年]](昭和20年)3月6日 : 吹雪 |
* [[1945年]](昭和20年)3月6日 : 20時頃吹雪の[[青森港]]第3岸壁へ着岸するため、20時12分船首索をとり、補助汽船2隻で押したが、17mの西風で着岸できず、やり直そうと出港したが、強風で圧流され、20時27分北防波堤西端に衝突し、右舷側喫水線付近の外板破損して浸水。21時頃沈没。86名中82名死亡<ref>青函連絡船50年史p171 国鉄青函船舶鉄道管理局1957</ref>。 |
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=== プロフィール === |
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* 総トン数 : 2,792.4t |
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* 積載貨車数 : 44両 |
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* 全長 : 118.0m |
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* 幅(型) : 15.85m |
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* 出力 : 4,575馬力 |
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* 最高速力 : 17.0kt |
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== 第六青函丸 == |
== 第六青函丸 == |
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第2船。船長は遊歩甲板に、機関長は船楼甲板にそれぞれ個室を持った。それ以外の高級船員は遊歩甲板の大部屋の2段寝台を使用した。操舵手、その他の甲板部員、機関部員、事務部員は、それぞれの大部屋を船楼甲板に持ち、2段寝台を使用した。更に、船楼甲板には2段寝台の海軍警戒隊員室を設けた。この船員室のスタイルは第十一青函丸まで踏襲された。本船以降はボイラーの [[過熱蒸気発生装置|過熱器]]が省略され、[[水蒸気#飽和蒸気と過熱蒸気|飽和蒸気]]使用のため4時間30分運航は困難となった。 |
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第2船。第五青函丸の致命的欠陥を改善した船舶。 |
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終戦時、大破、座礁していたが、修復され[[1947年]](昭和22年)2月、デッキハウス船として復帰した。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 |
終戦時、大破、座礁していたが、修復され[[1947年]](昭和22年)2月、デッキハウス船として復帰した。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 |
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=== 沿革 === |
=== 沿革 === |
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* 1943年(昭和18年)11月13日 : 起工。 |
* [[1943年]](昭和18年)11月13日 : 起工。 |
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* 1944年(昭和19年)3月7日 : 竣工。 |
* [[1944年]](昭和19年)3月7日 : 竣工。 |
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** 3月19日 : 就航。 |
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**4月1日:第五青函丸と本船の就航で、14往復から18往復に増便<ref name="rennrakusenshi199"/>。 |
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* 1945年(昭和20年)7月14日 : 函館港から青森港へ航行中、5時10分に[[アメリカ軍]]機の攻撃を受けるが、被害を受けずに青森港外に到着。同日午後、退避のため全速航行中、アメリカ軍機の攻撃を受ける。沈没を防ぐため青森野内[[婆子岬]]沖の岩礁に座礁する。その後の攻撃で炎上。35名が戦死。 |
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**5月1日:青森第3岸壁開設<ref name="renrakusen50y230"/>により、全船フル稼働19往復<ref name="rennrakusenshi199"/> |
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* [[1946年]](昭和21年)5月15日 :離洲浮揚 |
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* [[1945年]](昭和20年)7月14日 : 函館港から青森港へ航行中、5時10分に[[アメリカ軍]]機の攻撃を受けるが、被害を受けずに青森港外に到着。同日13時頃、退避のため青森港東方の野内沖に達したところで、アメリカ軍機の攻撃を受けた。沈没回避のため、バッコノ崎沖の岩礁に座礁したが、その後の爆撃で炎上。乗組員76名中35名が戦死<ref>青函連絡船栄光の航跡p314 北海道旅客鉄道株式会社1988</ref>。 |
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* [[1946年]](昭和21年)6月 : 青函連絡船の船数不足を補うため、修理復帰が決定。 |
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* [[1946年]](昭和21年)5月15日 : 離洲浮揚 |
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* [[1947年]](昭和22年)1月 : 甲板に客室(定員394名)を造設し、客載車両渡船となる。ボイラーを5缶に増設(浦賀船渠)、3193総トンとなる<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p111 成山堂書店1988</ref>。 |
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**6月 : 青函連絡船の船数不足を補うため、修復工事決定。 |
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* [[1947年]](昭和22年)2月2日 : 修理完了。 |
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**6月18日〜28日 : 修復工事のため浦賀へ曳航<ref name="50nen231">青函連絡船50年史p231 国鉄青函船舶鉄道管理局1957</ref>。 |
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* [[1951年]](昭和26年)4月 : 主機換装、二重底化(浦賀船渠)<ref>古川達郎 連絡船ドックp126 船舶技術協会1966</ref> |
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* [[1947年]](昭和22年)1月 : 甲板に客室(定員394名)を造設し、客載車両渡船となる。ボイラーを5缶に増設([[浦賀船渠]])、3193総トンとなる<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p111 成山堂書店1988</ref>。 |
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**2月2日 : 修理完了 |
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* [[1958年]](昭和33年)7月 : 船尾水密扉設置(新三菱神戸)5,751.48総トン<ref>古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966</ref> |
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* [[1951年]](昭和26年)4月 : 主機換装(日立2段減速歯車付衝動タービン2250軸馬力2台)、二重底化(浦賀船渠)<ref name="dock126">古川達郎 連絡船ドックp126 船舶技術協会1966</ref><ref name="renrakusenshi157">青函連絡船史p157国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref> |
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*[[1954年]](昭和29年)9月26日:12時38分函館有川第4岸壁を青森に向け出港し、12時47分港口を通過したが、台風接近により前途運航困難と考え、防波堤内へ戻り錨泊、19時20分頃左舷中央部に大雪丸右舷錨が接触したが、損傷軽微で、そのまま錨泊を続け沈没を免れた<ref>洞爺丸台風海難誌p62国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref><ref name="taifu18">台風との斗いp5 p18 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011</ref>。 |
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*[[1956年]](昭和31年)6月 : ボートダビット取替([[函館どつく|函館ドック]])<ref name="dock132">古川達郎 連絡船ドックp132 船舶技術協会1966</ref> |
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* [[1958年]](昭和33年)7月 : 船尾水密扉設置([[三菱重工業|新三菱重工]]神戸)5,751.48総トン<ref name="dock68"/>、貨車積載数はワム換算43両 |
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* [[1962年]](昭和37年)1月10日 : 霧の中、函館港北防波堤に衝突。船首部船底圧壊脱落、外板破口浸水。 |
* [[1962年]](昭和37年)1月10日 : 霧の中、函館港北防波堤に衝突。船首部船底圧壊脱落、外板破口浸水。 |
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* [[1964年]](昭和39年)5月3日 : |
* [[1964年]](昭和39年)5月3日 : 終航 |
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=== プロフィール === |
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* 総トン数 : 2,802.1t |
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* 積載貨車数 : 44両 |
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* 全長 : 118.0m |
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* 幅(型) : 15.85m |
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* 出力 : 4,080馬力 |
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* 最高速力 : 17.0kt |
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== 第七青函丸 == |
== 第七青函丸 == |
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第3船。 |
第3船。本船から、海軍警戒隊の居室を遊歩甲板に上げたため、遊歩甲板室が後ろへ延びた。本船から、船首砲架が取り付けられた<ref name="renrakusen100nen110">古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p110 成山堂書店1988</ref>。 |
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終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第八青函丸の2隻だけであった。しかし、1945年(昭和20年)8月30日に函館港北防波堤に衝突し、3ヵ月間休航した。また客船不足解消のため1947年にデッキハウスが造設され、以後客載車両渡船となった。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 |
終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第八青函丸の2隻だけであった。しかし、1945年(昭和20年)8月30日に函館港北防波堤に衝突し、3ヵ月間休航した。また客船不足解消のため、[[1947年]](昭和22年)にデッキハウスが造設され、以後客載車両渡船となった。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 |
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=== 沿革 === |
=== 沿革 === |
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* 1944年(昭和19年)3月11日 : 起工 |
* [[1944年]](昭和19年)3月11日 : 起工 |
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**7月10日 : 竣工 |
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**7月20日 : 就航 19往復から21往復に増便<ref name="rennrakusenshi199"/> |
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* 1944年(昭和19年)7月20日 : 就航。 |
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* 1945年(昭和20年)7月14日 : 5時 |
* [[1945年]](昭和20年)7月14日 : 5時40分、[[函館どつく|函館船渠]]で工事中のところにアメリカ軍機が攻撃。一部損傷。午後になり退避のために離岸したが、函館港内でアメリカ軍機に発見され、14時50分に命中弾2発を受け船内消灯、航行不能となった。しかし沈没は免れ、乗組員80名全員生存<ref name="kushu">青函連絡船50年史p182〜194 国鉄青函船舶鉄道管理局1957</ref>。 |
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** 7月25日 : 復帰<ref name="rennrakusennshi199">青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref> |
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* 1945年(昭和20年)7月25日 : 復帰。 |
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**8月30日 : 函館港北防波堤に衝突し航行不能。 |
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** 11月28日: 復帰 |
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* 1947年(昭和22年)9月 : デッキハウス造設(定員362名)、ボイラーを5缶増設(三菱神戸)、3154総トンとなる<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p112 p289 成山堂書店1988</ref>。 |
* [[1947年]](昭和22年)9月 : デッキハウス造設(定員362名)、ボイラーを5缶に増設([[三菱重工業|三菱重工]]神戸)、3154総トンとなる<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p112 p289 成山堂書店1988</ref>。 |
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* 1951年(昭和26年)8月 : 主機換装、二重底化(函館ドック)<ref> |
* [[1951年]](昭和26年)8月 : 主機換装(日立2段減速歯車付衝動タービン2250軸馬力2台)、二重底化([[函館どつく|函館ドック]])<ref name="dock126"/><ref name="renrakusenshi157"/> |
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*[[1954年]](昭和29年)9月26日:函館ドックに入渠中で、洞爺丸台風の被害に遭わず。 |
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*[[1956年]](昭和31年)2月と8月 :ボートダビット取替(函館ドック)<ref name="dock132"/> |
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* 1958年(昭和33年)10月 : 船尾水密扉設置(新三菱神戸)5,744.50総トン<ref>古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966</ref> |
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* [[1958年]](昭和33年)10月 : 船尾水密扉設置([[三菱重工業|新三菱重工]]神戸)5,744.50総トン<ref name="dock68"/>、貨車積載数はワム換算43両 |
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* 1960年(昭和35年)9月:ストーカー装備<ref>航跡p26 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref> |
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* [[1960年]](昭和35年)9月:ストーカー装備(函館ドック)<ref>青函連絡船史p217p479 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref> |
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* [[1964年]](昭和39年)12月31日 : 運航を終了し引退した。 |
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* [[1964年]](昭和39年)12月31日 : 終航 |
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=== プロフィール === |
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* 総トン数 : 2,851.0t |
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* 積載貨車数 : 44両 |
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* 全長 : 118.0m |
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* 幅(型) : 15.85m |
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* 出力 : 4,185馬力 |
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* 最高速力 : 17.1kt |
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== 第八青函丸 == |
== 第八青函丸 == |
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第4船。資材削減で煙突の長さが短くなり、船尾に |
第4船。本船から、資材削減で煙突の長さが約1/4短くなり、船尾両舷に[[爆雷]]投下口が設置された<ref name="renrakusen100nen110"/>。 |
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終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第七青函丸の2隻だけであったが、1945年(昭和20年)8月30日の第七青函丸の函館港防波堤衝突事故の休航からようやく復帰した同年11月28日、今度は本船が青森港で貨車積み込み中、ヒーリング操作の誤りでその場に沈座し、その後半年間の休航を余儀なくされた。この入渠時に木製のデッキハウスが設置され、客載車両渡船となり、その後 鋼製のデッキハウスに更新された<ref>1954年夏撮影の写真では鋼製デッキハウスになっていた:青木栄一 昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)p54~55写真 ネコ・パブリッシング2004</ref>。また、1948年(昭和23年)1月にはボイラー4缶から5缶への増設工事が施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 |
終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第七青函丸の2隻だけであったが、[[1945年]](昭和20年)8月30日の第七青函丸の函館港防波堤衝突事故の休航からようやく復帰した同年11月28日、今度は本船が青森港で貨車積み込み中、ヒーリング操作の誤りでその場に沈座し、その後半年間の休航を余儀なくされた。この入渠時に木製のデッキハウスが設置され、客載車両渡船となり、その後 鋼製のデッキハウスに更新された<ref>1954年夏撮影の写真では鋼製デッキハウスになっていた:青木栄一 昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)p54~55写真 ネコ・パブリッシング2004</ref>。また、1948年(昭和23年)1月にはボイラー4缶から5缶への増設工事が施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 |
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終航直後の1964年12月3日、函館港外で、貨車投棄試験を行った。このときは、転動テコ使用による人力での投棄や、船楼甲板の[[キャプスタン]]に掛けたワイヤーで引き出す方法が試験された<ref>古川達郎 続連絡船ドックp175,176 船舶技術協会1971</ref>。この試験が1965年9月4日の初代渡島丸終航直後の水中傘による貨車投棄試験へとつながった。 |
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終航直後の1964年12月3日、函館港外で、貨車投棄試験を行った。このときは、転動テコ使用による人力での投棄や船楼甲板のキャプスタンに掛けたワイヤーで引き出す方法が試験された<ref>古川達郎 続連絡船ドックp175,176 船舶技術協会1971</ref>。この試験が1965年9月4日の初代渡島丸終航直後の水中傘による貨車投棄試験へとつながった。 |
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=== 沿革 === |
=== 沿革 === |
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*[[1944年]](昭和19年)5月27日 : 起工 |
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**11月2日 : 竣工 |
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**11月22日 : 就航 |
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*[[1945年]](昭和20年)7月14日 - 15日 : 休航のため函館港内で仮泊中、5時40分よりアメリカ軍機の攻撃の受け休缶中のボイラー損傷。15時10分からの攻撃で船底弁損傷し浸水し始めたため坐洲を決意し、補助汽船の応援にて17時50分に有川桟橋近くの浅瀬に錨泊。翌15日にも空襲受けるも乗組員80名全員生存<ref name="kushu" />。 |
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**7月29日 : ボイラー損傷のまま復帰<ref name="50nen231"/><ref name="rennrakusennshi199"/> |
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* 1945年(昭和20年)7月29日 : 復帰 |
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**11月28日 : 青森港で米軍用貨車積み込み中、ヒーリング操作の誤りでその場に沈座。 |
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*[[1946年]](昭和21年)1月1日 : 米軍援助にて浮揚<ref name="sharyokousop252"/> |
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**5月21日 : 修復 木製のデッキハウス造設(定員535名)([[函館どつく|函館船渠]])し復帰<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p111 成山堂書店1988</ref><ref>青函連絡船栄光の航跡p397 北海道旅客鉄道株式会社1988</ref> |
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*[[1948年]](昭和23年)1月 : ボイラーを5缶に増設([[川崎重工業|川崎重工]]神戸)<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p289 成山堂書店1988</ref> |
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** 10月 :主機換装(日立2段減速歯車付衝動タービン2250軸馬力2台)([[浦賀船渠]])<ref name="renrakusenshi157"/> |
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*[[1953年]](昭和28年)3月 :二重底化(函館ドック)<ref name="dock126"/>3135総トン<ref name="taifu18"/> |
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*[[1954年]](昭和29年)9月26日:13時15分青森を出港し17時45分函館有川3岸壁定時到着し貨車陸揚げ、折り返し19時15分発は強風のため欠航とし、18時53分離岸して防波堤内で錨泊し、沈没を免れた<ref>洞爺丸台風海難誌p69国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref><ref name="taifu18"/>。 |
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* 1956年(昭和31年)3月 :ボートダビット取替(浦賀船渠)<ref>古川達郎 連絡船ドックp132 船舶技術協会1966</ref> |
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*[[1956年]](昭和31年)3月 :ボートダビット取替(浦賀船渠)<ref name="dock132"/> |
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* 1959年(昭和34年)5月 : 船尾水密扉設置(三菱日本横浜)5,815.68総トン<ref>古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966</ref> |
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*[[1959年]](昭和34年)5月 : 船尾水密扉設置([[三菱重工業|三菱日本重工]]横浜)5,815.68総トン)<ref name="dock68"/>、貨車積載数はワム換算43両 |
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* [[1964年]](昭和39年)11月30日 : 終航 |
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*[[1964年]](昭和39年)11月30日 : 終航 |
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** 12月3日 : 貨車海中投棄試験 |
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=== プロフィール === |
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* 総トン数 : 2,851.0t |
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* 積載貨車数 : 44両 |
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* 全長 : 118.0m |
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* 幅(型) : 15.85m |
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* 出力 : 4,170馬力 |
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* 最高速力 : 17.3kt |
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== 第九青函丸 == |
== 第九青函丸 == |
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第5船。[[横須賀|浦賀]]で竣工し、横浜から函館への回航途中、アメリカ[[潜水艦]]の攻撃を恐れ、陸岸に接近して航行中、暗礁に乗り上げて沈没した。青函航路に就航する前であった。 |
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第5船。青函航路に就航する前に沈没した。 |
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=== 沿革 === |
=== 沿革 === |
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*[[1944年]](昭和19年)7月15日 : 起工 |
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* |
*[[1945年]](昭和20年)2月15日 : 竣工 |
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** 2月20日 : 石炭食料積込みのため横浜へ回航。 |
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* 1945年(昭和20年)2月27日 : [[横須賀]]から函館への回航途中、[[千葉県]][[勝浦市|勝浦]]沖で暗礁に乗り上げ沈没。23名が亡くなる。 |
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** 2月27日 : [[横浜]]から[[日振型海防艦|海防艦四阪]]の先導を受けて函館への回航途中、20時02分[[千葉県]][[勝浦市|勝浦]]沖で暗礁に乗り上げ22時50分沈没。141名中13名が死亡した<ref>青函連絡船50年史p170 国鉄青函船舶鉄道管理局1957</ref>。 |
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=== プロフィール === |
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* 総トン数 : 2,851.0t |
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* 積載貨車数 : 44両 |
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* 全長 : 118.0m |
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* 幅(型) : 15.85m |
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* 出力 : 4,175馬力 |
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* 最高速力 : 17.6kt |
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== 第十青函丸 == |
== 第十青函丸 == |
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第6船。就航はしたものの、わずか1カ月半で沈没した。 |
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第6船。 |
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=== 沿革 === |
=== 沿革 === |
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*[[1944年]](昭和19年)12月23日 : 起工 |
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* |
*[[1945年]](昭和20年)5月19日 : 竣工 |
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**6月1日 : 就航 |
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**7月14日 : 空襲警報を受け5時50分函館有川桟橋離岸。6時5分函館港内でアメリカ軍機の命中弾を受け機関室浸水、6時30分に函館港防波堤灯台北北西600mの港外で沈没した。乗組員76名全員生存<ref name="kushu" />。 |
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=== プロフィール === |
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* 総トン数 : 2,851.0t |
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* 積載貨車数 : 44両 |
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* 全長 : 118.0m |
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* 幅(型) : 15.85m |
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* 出力 : 不明 |
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* 最高速力 : 17.3kt |
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== 第十一青函丸 == |
== 第十一青函丸 == |
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第7船。 |
第7船。ほぼ完成状態で終戦を迎え、戦後竣工した。先に就航した[[戦時標準船#日本の戦時標準船|W型戦時標準船]]の運航実績から、ボイラー4缶では定時運航できないことが実証されたため、計画段階よりボイラー5缶で建造された<ref name="sharyokousop252"/>。これに伴い煙突も右舷2本左舷1本の計3本となった。1946年(昭和21年)9月デッキハウス造設、進駐軍専用輸送船となり、占領終了後は一般用となった。 |
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[[洞爺丸台風]]で沈没。二重底化工事完成直後の沈没で、船体が三つに破断していた。乗組員全員死亡のため、沈没までの船内状況は不明であったが、たまたま近くで錨泊中の [[石狩丸 (初代)#十勝丸|十勝丸]]の船員が、激しいピッチングの後、船内消灯、その直後に、左舷から捩れるような形で船首が立ち上がり、船尾から沈む第十一青函丸を目撃していた<ref>田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p65 成山堂書店1997</ref>。沈没推定時刻の20時頃は、十勝丸でも既に車両甲板への海水滞留と機関室への海水流入は始まってはいたが、函館湾内で沈没した他船に比べても、2〜3時間も早く、急激に沈没したことから、船体破断と、その原因としての二重底化工事との関連についても疑われたが、当時の調査では結論は得られなかった<ref name="toyamarukainan"/><ref>台風との斗いp19 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011</ref>。 |
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=== 沿革 === |
=== 沿革 === |
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* |
*[[1945年]](昭和20年)2月3日 : 起工 |
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** 8月16日 : 試運転に出たがボイラー蒸気圧が十分上がらず半日で帰港。以後GHQより航海禁止<ref>吉澤幸雄“第十一青函丸”建造秘話 船の科学43巻3号p76 1990</ref>。 |
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* 1945年(昭和20年)9月28日 : 竣工。 |
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** 9月10日 : 航海再開許可を受けた。 |
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* 1945年(昭和20年)10月9日 : 就航。進駐軍専用輸送船となる。 |
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** 9月28日 : 竣工 |
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* [[1946年]](昭和21年)2月3日:葛登支沖に座礁。 |
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**10月9日 : 就航。進駐軍専用輸送船となる。 |
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* 1946年(昭和21年)9月:甲板に客室(333名)を造設 3,142総トン(函館船渠)。 |
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*[[1946年]](昭和21年)2月3日:降雪中船位を誤り、狐越岬沖に座礁。4日離礁。3月22日復帰<ref>青函連絡船栄光の航跡p396 北海道旅客鉄道株式会社1988</ref>。 |
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* 1949年(昭和24年)7月:主機換装(浦賀船渠)。 |
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**9月:甲板に客室(333名)を造設 3,142総トン([[函館どつく|函館船渠]])。 |
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* [[1952年]](昭和27年) : 4月28日 : [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の占領が終わり、一般乗客用船舶になる。 |
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*[[1949年]](昭和24年)7月:主機換装(浦賀衝動タービン2250軸馬力2台)(浦賀船渠)<ref name="renrakusenshi157"/>。 |
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* [[1954年]](昭和29年)9月22日 :二重底化工事(函館ドック)完成し復帰<ref>山本煕 車両航送p284 日本鉄道技術協会1960</ref> |
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*[[1952年]](昭和27年)4月28日 :[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の占領が終わり、一般乗客用船舶になる。 |
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* [[1954年]](昭和29年)9月26日 : 19時57分「停電に付き、後で交信を受ける」の通信を最後に途絶。後に波浪による船体破断のため沈没([[洞爺丸事故]])。乗員90名全員死亡。沈没時刻は20時頃と推測されている。その後解体された。 |
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*[[1954年]](昭和29年)9月22日 :外板取替および二重底化工事([[函館どつく|函館ドック]])完成し復帰<ref>山本煕 車両航送p284 日本鉄道技術協会1960</ref>。 |
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**9月26日 : 13時20分青森に向け函館を出港したが、強風のため穴澗岬沖で引き返し、14時48分函館第2岸壁着岸。第1岸壁の洞爺丸へ乗客と、寝台車、荷物車各1両を移し貨車5両を積込み、合計45両の貨車積載で、16時02分天候見合わせのため沖出し、16時25分防波堤外に錨泊した。19時38分「あとで連絡する」19時57分「停電につき後で受ける」を最後に通信途絶。その後20時頃急激に右舷側に横転し沈没したものと推定された。船体は三つに破断しており、乗組員90名は全員死亡<ref>洞爺丸海難誌p77 国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref>。引き揚げ後解体された。 |
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=== プロフィール === |
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* 総トン数 : 2,850.7t |
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* 積載貨車数 : 44両 |
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* 全長 : 118.0m |
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* 幅(型) : 15.85m |
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* 出力 : 4,175馬力 |
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* 最高速力 : 16.7kt |
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== 第十二青函丸 == |
== 第十二青函丸 == |
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第8船。建造中に終戦を迎え、竣工は戦後であった。第十一青函丸同様、ボイラーは5缶で煙突は右舷2本左舷1本の計3本であった。終戦直後の青函航路の旅客輸送能力不足を補う |
第8船。建造中に終戦を迎え、竣工は戦後であった。第十一青函丸同様、ボイラーは5缶で煙突は右舷2本左舷1本の計3本であった。終戦直後の青函航路の旅客輸送能力不足を補うため、建造中にデッキハウスが造設されたが、就航時より進駐軍専用船となった。1957年6月には、二重底化、デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置工事を行い、車両渡船となった。 |
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=== 沿革 === |
=== 沿革 === |
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* |
*[[1945年]](昭和20年)3月19日 : 起工 |
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* |
*[[1946年]](昭和21年)5月2日 : 竣工 |
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**5月15日 : 就航。進駐軍専用船となった。 |
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*[[1948年]](昭和23年)10月 : 主機換装(石川島2段減速歯車付衝動タービン2250馬力2台)([[浦賀船渠]])<ref name="renrakusenshi157"/>。 |
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* |
*[[1950年]](昭和25年)4月22日:下り便運航中、濃霧で船位測定を誤り20時39分、穴澗岬に擱座。船首を大破し、甲板長死亡<ref>青函連絡船史p453国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。 |
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* |
*[[1952年]](昭和27年) 4月28日 : [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の占領が終わり、一般乗客用船舶になった。 |
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*[[1954年]](昭和29年) 9月26日 :手入れのため函館港防波堤内で錨泊していた。洞爺丸台風による強風で、16時30分頃から、付近のブイに係留中のイタリア船籍の修繕船アーネスト号(7341総トン)の係留鎖が切れ、単錨泊で走錨を始め、この無動力状態のアーネスト号が20時10分頃本船船首を横切るように圧流されて、本船の錨を起こしたため、本船の走錨が始まり、船尾を浅野町の波除堤に接触しそうになり、21時25分防波堤外へ脱出、以後防波堤外で蜘躊して船位保持し、沈没を免れることができた<ref>洞爺丸台風海難誌p72 国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref>。27日にドック入りした。 |
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* [[1954年]](昭和29年) : 9月26日 : 津軽海峡に[[洞爺丸台風|台風15号]]が上陸し、本船と[[大雪丸 (初代)|大雪丸]]は沈没を逃れたが航海不能となり翌、27日にドック入りした。 |
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* |
*[[1956年]](昭和31年)2月 :ボートダビット取替([[函館どつく|函館ドック]]))<ref name="dock132"/>。 |
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* |
*[[1957年]](昭和32年)6月 :二重底化、デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置、総トン数は2,898.3tとなる(浦賀船渠)<ref>古川達郎 連絡船ドックp69 p126 船舶技術協会1966</ref> |
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* |
*[[1959年]](昭和34年)8月 :ストーカー装備([[IHI|石川島重工]])<ref>青函連絡船史p217p479 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref> |
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* |
*[[1965年]](昭和40年)7月2日 : 終航 |
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== W型戦時標準船一覧表 == |
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{| class="wikitable" style="float:center; border-width:0.2em; border-style:solid; border-color:#e0e0e0; margin: 0 0 0.5em 0.5em; width: 1160px; background:#ffffff" |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="1"|''''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第五青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第六青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第七青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第八青函丸''' |
|||
|- |
|||
!colspan="1" style="text-align:center" colspan="1"|''''' |
|||
!colspan="3" style="text-align:center;border-bottom:0px solid;" |[[Image:Insert image here.svg|230px|]] |
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!colspan="3" style="text-align:center;border-bottom:0px solid;" |[[Image:Insert image here.svg|230px|]] |
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!colspan="3" style="text-align:center;border-bottom:0px solid;" |[[Image:Insert image here.svg|230px|]] |
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!colspan="3" style="text-align:center;border-bottom:0px solid;" |[[Image:Insert image here.svg|230px|]] |
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|-|- bgcolor="#EEEEEE" |
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!colspan="13" style="background: #f0f8ff"|概歴 |
|||
|- |
|||
|建造所|| colspan="12" align="center" |[[浦賀船渠]] |
|||
|- |
|||
|起工||colspan="3" align="center"|1943(昭和18)年6月29日||colspan="3" align="center"|1943(昭和18)年11月13日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年3月11日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年5月27日 |
|||
|- |
|||
|進水||colspan="3" align="center"|1943(昭和18)年11月10日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年1月31日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年5月27日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年8月25日 |
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|- |
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|竣工||colspan="3" align="center"|1943(昭和18)年12月29日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年3月7日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年7月10日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年11月2日 |
|||
|- |
|||
|就航||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年1月14日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年3月19日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年7月20日||colspan="3" align="center"|1944(昭和19)年11月22日 |
|||
|- |
|||
|終航||colspan="3" align="center"|1945(昭和20)年3月6日||colspan="3" align="center"|1964(昭和39)年5月3日||colspan="3" align="center"|1964(昭和39)年12月31日||colspan="3" align="center"|1964(昭和39)年11月30日 |
|||
|- |
|||
!colspan="13" style="background: #f0f8ff"|要目(新造時) |
|||
|- |
|||
|船種||colspan="12" align="center" |車両渡船 |
|||
|- |
|||
|総トン数|| colspan="3" align="center" |2792.37トン|| colspan="3" align="center" | 2802.09トン || colspan="3" align="center" | 2850.99トン|| colspan="3" align="center" |2850.99トン |
|||
|- |
|||
|全長 || colspan="12" align="center" | 118.01m |
|||
|- |
|||
|垂線間長 || colspan="12" align="center" | 113.20m |
|||
|- |
|||
|幅(型) || colspan="12" align="center" | 15.85m |
|||
|- |
|||
|深さ(型) || colspan="12" align="center" | 6.80m |
|||
|- |
|||
|満載喫水 || colspan="12" align="center" | 5.00m |
|||
|- |
|||
|ボイラー (台数)|| colspan="3" align="center" |乾燃式円缶(4) || colspan="9" align="center" |乾燃式円缶( [[過熱蒸気発生装置|過熱器]]なし)(4) |
|||
|- |
|||
|主機械 (台数)|| colspan="3" align="center" |日立製作所製陸軍特務船用2段減速歯車付衝動タービン(2)|| colspan="6" align="center" |浦賀船渠製2段減速歯車付衝動タービン (2)|| colspan="3" align="center" |日立製作所製戦時標準甲25型2段減速歯車付衝動タービン(2) |
|||
|- |
|||
|公試最大出力|| colspan="3" align="center" | 4575軸馬力|| colspan="3" align="center" | 4080軸馬力 || colspan="3" align="center" | 4185軸馬力|| colspan="3" align="center" | 4170軸馬力 |
|||
|- |
|||
|定格出力 || colspan="9" align="center" |2250軸馬力×2|| colspan="3" align="center" |2000軸馬力×2 |
|||
|- |
|||
|公試最大速力|| colspan="3" align="center" | 17.01ノット|| colspan="3" align="center" | 16.99ノット || colspan="3" align="center" | 17.07ノット|| colspan="3" align="center" |17.31ノット |
|||
|- |
|||
|航海速力 || colspan="12" align="center" | 15.5ノット |
|||
|- |
|||
|乗員|| colspan="3" align="center" |76名 || colspan="3" align="center" | 85名|| colspan="6" align="center" | 83名 |
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|- |
|||
|その他|| colspan="3" align="center" | || colspan="9" align="center" | 17名 |
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|- |
|||
|貨車積載数|| colspan="12" align="center" | [[有蓋車|ワム]]換算44両 |
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|- |
|||
|船名符字|| colspan="3" align="center" | JGVT|| colspan="3" align="center" |JWNT || colspan="3" align="center" |JGHV|| colspan="3" align="center" |JECA |
|||
|- |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="1"|''''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第五青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第六青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第七青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第八青函丸''' |
|||
|} |
|||
{| class="wikitable" style="float:center; border-width:0.2em; border-style:solid; border-color:#e0e0e0; margin: 0 0 0.5em 0.5em; width: 1160px; background:#ffffff" |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="1"|''''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第九青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第十青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第十一青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第十二青函丸''' |
|||
|- |
|||
!colspan="1" style="text-align:center" colspan="1"|''''' |
|||
!colspan="3" style="text-align:center;border-bottom:0px solid;" |[[Image:Insert image here.svg|230px|]] |
|||
!colspan="3" style="text-align:center;border-bottom:0px solid;" |[[Image:Insert image here.svg|230px|]] |
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!colspan="3" style="text-align:center;border-bottom:0px solid;" |[[Image:Insert image here.svg|230px|]] |
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!colspan="3" style="text-align:center;border-bottom:0px solid;" |[[Image:Insert image here.svg|230px|]] |
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|-|- bgcolor="#EEEEEE" |
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!colspan="13" style="background: #f0f8ff"|概歴 |
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|建造所|| colspan="12" align="center" |[[浦賀船渠]] |
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|- |
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|起工|| colspan="3" align="center" |1944(昭和19)年7月15日 || colspan="3" align="center" |1944(昭和19)年12月23日 || colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年2月3日|| colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年3月19日 |
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|- |
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|進水|| colspan="3" align="center" |1944(昭和19)年12月23日 || colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年3月14日 || colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年6月8日|| colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年12月27日 |
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|- |
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|竣工|| colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年2月15日 || colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年5月19日 || colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年9月28日|| colspan="3" align="center" |1946(昭和21)年5月2日 |
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|- |
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|就航|| colspan="3" align="center" | || colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年6月1日 || colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年10月9日|| colspan="3" align="center" |1946(昭和21)年5月15日 |
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|終航 || colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年2月27日(回航中沈没)|| colspan="3" align="center" |1945(昭和20)年7月14日|| colspan="3" align="center" |1954(昭和29)年9月26日|| colspan="3" align="center" |1965(昭和40)年7月2日 |
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|- |
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!colspan="13" style="background: #f0f8ff"|要目(新造時) |
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|- |
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|船種||colspan="9" align="center" |車両渡船||colspan="3" align="center" |客載車両渡船 |
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|- |
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|総トン数|| colspan="3" align="center" | 2850.99トン || colspan="3" align="center" | 2850.99トン || colspan="3" align="center" | 2850.71トン|| colspan="3" align="center" | 3161.44トン |
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|- |
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|全長 || colspan="12" align="center" | 118.01m |
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|垂線間長 || colspan="12" align="center" | 113.20m |
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|- |
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|幅(型) || colspan="12" align="center" | 15.85m |
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|- |
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|深さ(型) || colspan="12" align="center" | 6.80m |
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|- |
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|満載喫水 || colspan="12" align="center" | 5.00m |
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|- |
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|ボイラー (台数)|| colspan="6" align="center" |乾燃式円缶( [[過熱蒸気発生装置|過熱器]]なし)(4)|| colspan="6" align="center" |乾燃式円缶( [[過熱蒸気発生装置|過熱器]]なし)(5) |
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|主機械 (台数)|| colspan="12" align="center" | 日立製作所製戦時標準甲25型2段減速歯車付衝動タービン(2) |
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|公試最大出力|| colspan="3" align="center" | 4255軸馬力|| colspan="3" align="center" |計測せず || colspan="3" align="center" | 4175軸馬力|| colspan="3" align="center" | 4510軸馬力 |
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|- |
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|定格出力 || colspan="12" align="center" |2000軸馬力×2 |
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|公試最大速力|| colspan="3" align="center" | 17.59ノット|| colspan="3" align="center" | 17.30ノット || colspan="3" align="center" | 16.72ノット|| colspan="3" align="center" |17.08ノット |
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|- |
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|航海速力 || colspan="6" align="center" | 15.5ノット|| colspan="6" align="center" | 14.5ノット |
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|- |
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|乗組員|| colspan="3" align="center" | || colspan="3" align="center" | || colspan="3" align="center" | 89名|| colspan="3" align="center" | 88名 |
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|- |
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|その他|| colspan="3" align="center" | || colspan="3" align="center" | || colspan="3" align="center" | 17名|| colspan="3" align="center" | 267名 |
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|- |
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|旅客定員|| colspan="9" align="center" | || colspan="3" align="center" |279名 |
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|貨車積載数|| colspan="12" align="center" | ワム換算44両 |
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|船名符字|| colspan="3" align="center" | JFWA|| colspan="3" align="center" |JYFF || colspan="3" align="center" |JLLW|| colspan="3" align="center" |JWEZ |
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|- |
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! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="1"|''''' |
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! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第九青函丸''' |
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! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第十青函丸''' |
|||
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第十一青函丸''' |
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! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''第十二青函丸''' |
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=== プロフィール === |
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* 総トン数 : 3,161.4t |
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* 乗客定員 : 279名(1957年以降は客室撤去) |
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* 積載貨車数 : 44両 |
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* 全長 : 118.0m |
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* 幅(型) : 15.85m |
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* 出力 : 4,510馬力 |
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* 最高速力 : 17.1kt |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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<references /> |
<references /> |
2014年1月22日 (水) 13:10時点における版
第五青函丸(だいごせいかんまる)は、運輸通信省青函航路の鉄道連絡船。車両渡船であった。
第四青函丸を原型として簡易化したW型戦時標準船(第五青函丸型)で、第五~第十二青函丸の8隻があった。
ここでは第五青函丸型について記述する。
W型戦時標準船建造までの経緯
1937年(昭和12年)の日中戦争勃発による船腹不足は、海運貨物の鉄道への転移を促し、青函間の貨物輸送量は、1936年 (昭和11年)の110万トンから1940年(昭和15年)の213万トンへと倍増した[1]。しかし、この間の車両渡船の増強は、1939年(昭和14年)11月就航の第三青函丸1隻にすぎず、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦により、輸送需要は一層増加し、そのうえ、1941年(昭和16年)11月20には、浮遊機雷の津軽海峡への流入があり、以後半年間は12往復中、夜間便5往復の休航を余儀なくされ、滞貨の山ができてしまった[2]。
このため、貨物船として、元関釜連絡船新羅丸の助勤、転属を受けたり、1942年(昭和17年)2月15日からは、機帆船による貨物輸送を行って滞貨解消に努めた[1]。しかし、戦時下、北海道炭の京浜工業地帯への主要輸送ルートとなる室蘭本線・函館本線と東北本線・常磐線とを繋ぐ青函航路が、このような姑息的手段で、その使命を全うできるはずはなく、これを早急に解決するため、鉄道省は1942年(昭和17年)春には、車両渡船4隻の早期建造を海軍艦政本部に要請した。
鉄道も、当時このルートの大部分は単線で、線路容量増大のため、多くの信号場が建設中で、複線化工事を急いでいた箇所もあった。青函航路においても、函館港では1941年(昭和16年)4月から、青森港では 1940年(昭和15年)11月から、車両渡船用岸壁増設工事が進められており、函館港有川埠頭の函館第3第4岸壁[3]が、1944年(昭和19年)1月3日と11月17日から使用開始され、青森第3岸壁は1944年(昭和19年)5月1日から昼間のみ使用開始(7月20日より昼夜使用))された[4]。
艦艇建造で繁忙化した民間造船所における、商船建造の調整を図る目的で、海軍艦政本部は1942年(昭和17年)2月から、海軍管理工場[5]で施工する、長さ50m以上の鋼船の建造修繕監督権を、1942年(昭和17年)7月からは、全船舶の建造修繕監督権を掌握した[6]。また、1942年(昭和17年)4月からは、商船の大量建造のため、艦政本部が選定した10種類の戦時標準船以外の建造は、許可されないことになった。
このため、 鉄道省から、この時期に出された、上記の青函航路向け車両渡船4隻の建造要請に対しても、艦政本部はこれを却下し、D型戦時標準船と呼ばれる1900総トンの一般型貨物船の建造を主張した[7]。これに対し、鉄道省は、片道数時間以内の鉄道連絡船航路における、車両渡船の圧倒的な荷役時間の短さと、それによる、船と岸壁の稼働率の高さを示して、貨車航送の優位性を艦政本部に訴えたが、受け入れられず、しばし膠着状態となった。
しかし、1942年(昭和17年)6月のミッドウェイ海戦敗北後は、アメリカ軍潜水艦による攻撃で、商船の喪失は急増し、海運輸送力は更にひっ迫、従来からその多くを海運に頼っていた国内炭輸送は危機的状況に陥った。ここに至って、ようやく鉄道省の説得工作が功を奏したのか、政府は、1942年(昭和17年)10月の閣議で、“石炭など重要物資の海上輸送を陸上輸送に転移させる。北海道炭輸送については、青函間貨車航送力を最大限度に活用するほか、現に建造計画中の貨車航送船4隻を急速に竣工させる。”と決定した[8]。
この4隻には、当時建造中の第四青函丸も含まれ、1942年(昭和17年)12月に、ようやくこの第四青函丸の建造続行と、第四青函丸を徹底的に簡易化した車両渡船1隻(第五青函丸)の追加建造が正式に承認された。これがW型戦時標準船の始まりであった。「W」はWAGON、貨車の意味であった。しかし、残り2隻の建造承認は翌年3月まで持ち越された。
W型戦時標準船の概要
建造から終戦まで
- W型戦時標準船は、原型となった第四青函丸 が建造された浦賀船渠で、全船が建造された。
- 使用する鋼板の厚さの削減。
- 船型の曲線部分の直線化。
- 二重底の廃止。床材は一部木材を使用。
- 甲板工作物、諸設備の簡易化。
- 居住区を大部屋とする。
- まず、第1船の第五青函丸では、上記の方針に従い、海軍監督官の意向を受けた造船所側が、鋼材節約のため、二重底廃止や第二甲板の一部廃止だけでなく、船楼甲板の一部除去などで720トンもの軽量化を断行した。しかし完成間際になって、船が浮き上がり過ぎて、車両積み込み時の横傾斜(当時建設中の函館有川第3、4岸壁、青森第3岸壁の新型可動橋では4度まで許容、当時稼働中の在来型は1度50分程度まで許容)[9]が、ヒーリング装置で補正しても8度にも達し、可動橋のねじれが過大となり、2軸貨車が3点支持となって脱線することが判明した。これでは車両渡船として使用できないため、第三船艙を深水タンクに改造し600トンの海水を入れ、車軸室船底に150トンの砂利を積み込むことで重量を確保し、どうにか使える形で完成させた[10]。第2船の第六青函丸以降はこれに懲りて、このような過剰な軽量化は行われなかった。
- 機関部では、従来6缶あったボイラーを4缶に減らしたうえ、第五青函丸では陸軍特務船用の3000軸馬力の日立製作所製衝動タービンを流用したが、本船には過大であったため、2250軸馬力に落として使用し、効率の悪い運転となった。また第六青函丸と第七青函丸では、第四青函丸と同等の浦賀船渠製衝動タービンが採用されたが、今度はボイラーの 過熱器が省略されてしまい、4時間30分運航はいよいよ困難となった。第八青函丸以降は2T戦時標準型タンカー用の甲25型衝動タービンを使用したが、右回り回転のものしかなく、左右両軸とも右回転での運航となった。またこのタービンの2段減速歯車は構造的に無理があり、故障が頻発した[11]。なおボイラーが4缶に減ったため煙突も4本から2本に減った。
- 1000総トン以上の船には、所定の武装兵器と警戒隊員の配置が定められていたが、1944年(昭和19年)になって、青函連絡船用として、12cm砲1門と25mm機銃2基、爆雷16個と明示された。
- 第2船の第六青函丸就航後の1944年(昭和19年)4月1日から、従来の14往復から18往復に増便され、1944年(昭和19年)5月1日には、青森第3岸壁開設で、両港とも3岸壁使用となり[4]、休航なしの全船フル稼働19往復となった。更に第3船の第七青函丸就航した1944年(昭和19年)7月20日には、21往復運航に増便された。しかし、1944年(昭和19年)11月22日には、第4船の第八青函丸が就航したが、既にこの頃には、全船フル稼働の過酷な運航体制は破綻しており、これ以上の増便はできなかった。1945年(昭和20年)2月と3月には、事故で2隻を失い、1945年(昭和20年)6月1日には第6船の第十青函丸が就航したが、船舶、施設とも疲弊し、13往復を目標とするに留まった[12][2]。
- W型戦時標準船を実際に運航してみると、ボイラー4缶では定時運航困難なことが実証され、1945年(昭和20年)2月3日起工の第7船、第十一青函丸以降は5缶に増やされた[13]。
戦後の客載車両渡船化
- 結果的に戦後まで生き残ったのが、第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸の3隻。建造中に終戦を迎え、その後も工事が続けられた所謂“続行船”が、第十一青函丸、第十二青函丸の2隻であった(そのほかにH型の石狩丸も建造中であった)。1945年(昭和20年)7月14日の空襲で車載客船、翔鳳丸型全4隻を失った青函航路の旅客輸送力を補うため、第六、第七、第八、第十一青函丸の4隻では就航後に、第十二青函丸とH型の石狩丸では建造中に、船楼甲板の本来の甲板室の前後に定員300名~400名の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して客載車両渡船とし、“デッキハウス船”と通称された。しかし1946年(昭和21年)年6月17日には、就航中および以後竣工予定の全デッキハウス船が進駐軍専用とされ、旅客輸送力増強の目論見は頓挫した[14]。翌1947年(昭和22年)7月21日になり、第六、第七、第八青函丸の3隻は解除された。
- 第六、第七、第八青函丸では戦後、ボイラーの4缶から5缶への増強工事(第十一、第十二青函丸は新造時よりボイラーは5缶)、第六、第七、第八、第十一、第十二青函丸の主機換装、二重底化工事などが進められた。
洞爺丸事件とその後の対応
- 1954年(昭和29年)9月26日の洞爺丸台風では、5隻のW型戦時標準船のうち、二重底化工事完成直後の第十一青函丸が沈没した。この沈没については、船体が三つに破断されており、他船とは異なった要因の関与も疑われたが、確証は得られず、原因不明とされた[15]。
- 洞爺丸事件後の、洞爺丸ほか4隻の沈没原因の研究によると、当夜の函館湾の波は周期9秒、波長約120mで、当時の青函連絡船の水線長115.5mより僅かに長く、このような条件下では、ピッチングにより船尾が勢いよく波の中に突っ込んだとき、その勢いで、波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが判明した。その量は、車両甲板全幅が車両格納所となっている車両渡船では、貨車満載状態で、停泊中であれば、波高6mのとき900トンを越え、この大量の流動水は車両甲板上を傾いた側へすばやく流れるため、これだけで転覆してしまう量であったが、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減少することも判明した[16][17]。更に、石炭焚き蒸気船では、車両甲板から機関室への開口部が多数あり、これら開口部の閉鎖が不完全な場合は、滞留海水が機関室へ流入することで機関停止に至り、操船不能となって沈没に至る。車両格納所の狭い洞爺丸では、これが沈没の大きな要因とされた[18]。
- 事故後の対策としては、車両甲板から機関室への開口部を水密化したうえ、車両甲板船尾側面に多数の放水口を設置し、車両甲板上に流入した海水を船外へ流出させる方式を、1955年建造の檜山丸(初代)で採用した。しかし、この方式は、旅客設備のない車両渡船では、その安全性が模型実験などで確認されたが、船楼甲板に客室を持つデッキハウス船では、安全性が十分確保できないことも判明した[19]。
- このため、第十二青函丸では1957年(昭和32年)6月、二重底化とともに、デッキハウスを撤去し、車両甲板船尾側面に放水口を設置し、車両渡船とした。
- また第六、第七、第八青函丸では、デッキハウスを残すため、船体外殻と同等の強度を有する船尾水密扉を設置した。これは、1957年(昭和32年)建造の十和田丸(初代)で実用化した単線幅の船尾水密扉を、横方向に3倍近く大型化して、船尾全幅3線分をカバーできるようにしたもので、その基本構造は、十和田丸(初代)のものと同じであった。この扉は、船尾開口部上縁にヒンジで取り付けられた鋼製の上下2枚折戸式船尾扉で、中央部のヒンジで“く”の字に屈曲し、この屈曲部分を後方へ突出させつつ、船尾扉下縁両端を船尾開口部両縁のガイドウェイに沿わせて上方へ開き、全開位置では折り畳まれた状態で、開口部直上に垂直に立てられてロックされる構造であった。動力は電動ウィンチで、ワイヤーと滑車を用いて動かされた。また船内軌道が船尾扉の敷居を越える部分には、水密性確保のため電動油圧式の跳上げレールが設置された。なお、扉の大型化により、扉閉鎖の最終段階で、船尾扉を内側から引き寄せて、船体側に付けたゴムパッキンに船尾扉を密着させて水密性を確保する油圧式“締付け装置”が、十和田丸(初代)の4個から6個に増やされた[20]。
- 1958年(昭和33年)7月に第六青函丸に、1958年(昭和33年)10月に第七青函丸に、1959年(昭和34年)5月には第八青函丸にそれぞれ船尾扉が装備された[21]。これにより車両格納所容積も総トン数に加算され約5,800総トンとなり、車載客船なみに塗り分け線を下げ、外舷上部も白く塗装された。
- 洞爺丸事故から約4年を経て、ようやくフルサイズの船尾水密扉が完成、これが後の津軽丸型の油圧トルクヒンジ式の船尾扉へと発展してゆくことになる。
- なおこれらW型戦時標準船4隻は、津軽丸型各船の就航とともに順次引退していった。
各船の概要と沿革
第五青函丸
第1船。鋼材節約のための過剰な軽量化で船体が計画より浮き上がってしまい、車両積み込み時に船体の横傾斜が過大となり、車両の積み込みができないことが竣工間際に判明、第三船艙を深水タンクに改造して海水を入れ、車軸室に川砂利を積載して計画喫水を確保した。また主機には陸軍特務船用の3000軸馬力の日立製作所製衝動タービンを流用したが、このタービンは22kg/cm²、330℃という高圧高温の蒸気用で、これを16kg/cm²、280℃の蒸気で、2250軸馬力に落として使用したため、効率の悪い運転となった[22]。
更に、海軍監督官の意向で、船員の居住区画も徹底的に簡易化された。鋼材節約のため、車両甲板下の第二甲板の大部分が廃止されたため、第四青函丸まで、ここにあった船員居室と、部分甲板の船員居室が廃止され、普通船員全員が船楼甲板の畳敷き大広間に集約され、雑魚寝となった。 1層上の遊歩甲板には、畳敷きの6畳間が造られ、高級船員が雑魚寝となり、同じ遊歩甲板の“機密室” という名の一室を、船長と機関長が共用した[23]。
沿革
- 1943年(昭和18年)6月29日 : 起工
- 12月29日 : 竣工
- 1944年(昭和19年)1月14日 : 就航
- 1945年(昭和20年)3月6日 : 20時頃吹雪の青森港第3岸壁へ着岸するため、20時12分船首索をとり、補助汽船2隻で押したが、17mの西風で着岸できず、やり直そうと出港したが、強風で圧流され、20時27分北防波堤西端に衝突し、右舷側喫水線付近の外板破損して浸水。21時頃沈没。86名中82名死亡[24]。
第六青函丸
第2船。船長は遊歩甲板に、機関長は船楼甲板にそれぞれ個室を持った。それ以外の高級船員は遊歩甲板の大部屋の2段寝台を使用した。操舵手、その他の甲板部員、機関部員、事務部員は、それぞれの大部屋を船楼甲板に持ち、2段寝台を使用した。更に、船楼甲板には2段寝台の海軍警戒隊員室を設けた。この船員室のスタイルは第十一青函丸まで踏襲された。本船以降はボイラーの 過熱器が省略され、飽和蒸気使用のため4時間30分運航は困難となった。
終戦時、大破、座礁していたが、修復され1947年(昭和22年)2月、デッキハウス船として復帰した。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。
沿革
- 1943年(昭和18年)11月13日 : 起工。
- 1944年(昭和19年)3月7日 : 竣工。
- 1945年(昭和20年)7月14日 : 函館港から青森港へ航行中、5時10分にアメリカ軍機の攻撃を受けるが、被害を受けずに青森港外に到着。同日13時頃、退避のため青森港東方の野内沖に達したところで、アメリカ軍機の攻撃を受けた。沈没回避のため、バッコノ崎沖の岩礁に座礁したが、その後の爆撃で炎上。乗組員76名中35名が戦死[25]。
- 1946年(昭和21年)5月15日 : 離洲浮揚
- 6月 : 青函連絡船の船数不足を補うため、修復工事決定。
- 6月18日〜28日 : 修復工事のため浦賀へ曳航[26]。
- 1947年(昭和22年)1月 : 甲板に客室(定員394名)を造設し、客載車両渡船となる。ボイラーを5缶に増設(浦賀船渠)、3193総トンとなる[27]。
- 2月2日 : 修理完了
- 1951年(昭和26年)4月 : 主機換装(日立2段減速歯車付衝動タービン2250軸馬力2台)、二重底化(浦賀船渠)[28][29]
- 1954年(昭和29年)9月26日:12時38分函館有川第4岸壁を青森に向け出港し、12時47分港口を通過したが、台風接近により前途運航困難と考え、防波堤内へ戻り錨泊、19時20分頃左舷中央部に大雪丸右舷錨が接触したが、損傷軽微で、そのまま錨泊を続け沈没を免れた[30][31]。
- 1956年(昭和31年)6月 : ボートダビット取替(函館ドック)[32]
- 1958年(昭和33年)7月 : 船尾水密扉設置(新三菱重工神戸)5,751.48総トン[21]、貨車積載数はワム換算43両
- 1962年(昭和37年)1月10日 : 霧の中、函館港北防波堤に衝突。船首部船底圧壊脱落、外板破口浸水。
- 1964年(昭和39年)5月3日 : 終航
第七青函丸
第3船。本船から、海軍警戒隊の居室を遊歩甲板に上げたため、遊歩甲板室が後ろへ延びた。本船から、船首砲架が取り付けられた[33]。
終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第八青函丸の2隻だけであった。しかし、1945年(昭和20年)8月30日に函館港北防波堤に衝突し、3ヵ月間休航した。また客船不足解消のため、1947年(昭和22年)にデッキハウスが造設され、以後客載車両渡船となった。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。
沿革
- 1944年(昭和19年)3月11日 : 起工
- 7月10日 : 竣工
- 7月20日 : 就航 19往復から21往復に増便[12]
- 1945年(昭和20年)7月14日 : 5時40分、函館船渠で工事中のところにアメリカ軍機が攻撃。一部損傷。午後になり退避のために離岸したが、函館港内でアメリカ軍機に発見され、14時50分に命中弾2発を受け船内消灯、航行不能となった。しかし沈没は免れ、乗組員80名全員生存[34]。
- 7月25日 : 復帰[35]
- 8月30日 : 函館港北防波堤に衝突し航行不能。
- 11月28日: 復帰
- 1947年(昭和22年)9月 : デッキハウス造設(定員362名)、ボイラーを5缶に増設(三菱重工神戸)、3154総トンとなる[36]。
- 1951年(昭和26年)8月 : 主機換装(日立2段減速歯車付衝動タービン2250軸馬力2台)、二重底化(函館ドック)[28][29]
- 1954年(昭和29年)9月26日:函館ドックに入渠中で、洞爺丸台風の被害に遭わず。
- 1956年(昭和31年)2月と8月 :ボートダビット取替(函館ドック)[32]
- 1958年(昭和33年)10月 : 船尾水密扉設置(新三菱重工神戸)5,744.50総トン[21]、貨車積載数はワム換算43両
- 1960年(昭和35年)9月:ストーカー装備(函館ドック)[37]
- 1964年(昭和39年)12月31日 : 終航
第八青函丸
第4船。本船から、資材削減で煙突の長さが約1/4短くなり、船尾両舷に爆雷投下口が設置された[33]。
終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第七青函丸の2隻だけであったが、1945年(昭和20年)8月30日の第七青函丸の函館港防波堤衝突事故の休航からようやく復帰した同年11月28日、今度は本船が青森港で貨車積み込み中、ヒーリング操作の誤りでその場に沈座し、その後半年間の休航を余儀なくされた。この入渠時に木製のデッキハウスが設置され、客載車両渡船となり、その後 鋼製のデッキハウスに更新された[38]。また、1948年(昭和23年)1月にはボイラー4缶から5缶への増設工事が施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。
終航直後の1964年12月3日、函館港外で、貨車投棄試験を行った。このときは、転動テコ使用による人力での投棄や、船楼甲板のキャプスタンに掛けたワイヤーで引き出す方法が試験された[39]。この試験が1965年9月4日の初代渡島丸終航直後の水中傘による貨車投棄試験へとつながった。
沿革
- 1944年(昭和19年)5月27日 : 起工
- 11月2日 : 竣工
- 11月22日 : 就航
- 1945年(昭和20年)7月14日 - 15日 : 休航のため函館港内で仮泊中、5時40分よりアメリカ軍機の攻撃の受け休缶中のボイラー損傷。15時10分からの攻撃で船底弁損傷し浸水し始めたため坐洲を決意し、補助汽船の応援にて17時50分に有川桟橋近くの浅瀬に錨泊。翌15日にも空襲受けるも乗組員80名全員生存[34]。
- 1946年(昭和21年)1月1日 : 米軍援助にて浮揚[13]
- 1948年(昭和23年)1月 : ボイラーを5缶に増設(川崎重工神戸)[42]
- 1953年(昭和28年)3月 :二重底化(函館ドック)[28]3135総トン[31]
- 1954年(昭和29年)9月26日:13時15分青森を出港し17時45分函館有川3岸壁定時到着し貨車陸揚げ、折り返し19時15分発は強風のため欠航とし、18時53分離岸して防波堤内で錨泊し、沈没を免れた[43][31]。
- 1956年(昭和31年)3月 :ボートダビット取替(浦賀船渠)[32]
- 1959年(昭和34年)5月 : 船尾水密扉設置(三菱日本重工横浜)5,815.68総トン)[21]、貨車積載数はワム換算43両
- 1964年(昭和39年)11月30日 : 終航
- 12月3日 : 貨車海中投棄試験
第九青函丸
第5船。浦賀で竣工し、横浜から函館への回航途中、アメリカ潜水艦の攻撃を恐れ、陸岸に接近して航行中、暗礁に乗り上げて沈没した。青函航路に就航する前であった。
沿革
第十青函丸
第6船。就航はしたものの、わずか1カ月半で沈没した。
沿革
- 1944年(昭和19年)12月23日 : 起工
- 1945年(昭和20年)5月19日 : 竣工
- 6月1日 : 就航
- 7月14日 : 空襲警報を受け5時50分函館有川桟橋離岸。6時5分函館港内でアメリカ軍機の命中弾を受け機関室浸水、6時30分に函館港防波堤灯台北北西600mの港外で沈没した。乗組員76名全員生存[34]。
第十一青函丸
第7船。ほぼ完成状態で終戦を迎え、戦後竣工した。先に就航したW型戦時標準船の運航実績から、ボイラー4缶では定時運航できないことが実証されたため、計画段階よりボイラー5缶で建造された[13]。これに伴い煙突も右舷2本左舷1本の計3本となった。1946年(昭和21年)9月デッキハウス造設、進駐軍専用輸送船となり、占領終了後は一般用となった。
洞爺丸台風で沈没。二重底化工事完成直後の沈没で、船体が三つに破断していた。乗組員全員死亡のため、沈没までの船内状況は不明であったが、たまたま近くで錨泊中の 十勝丸の船員が、激しいピッチングの後、船内消灯、その直後に、左舷から捩れるような形で船首が立ち上がり、船尾から沈む第十一青函丸を目撃していた[45]。沈没推定時刻の20時頃は、十勝丸でも既に車両甲板への海水滞留と機関室への海水流入は始まってはいたが、函館湾内で沈没した他船に比べても、2〜3時間も早く、急激に沈没したことから、船体破断と、その原因としての二重底化工事との関連についても疑われたが、当時の調査では結論は得られなかった[15][46]。
沿革
- 1945年(昭和20年)2月3日 : 起工
- 8月16日 : 試運転に出たがボイラー蒸気圧が十分上がらず半日で帰港。以後GHQより航海禁止[47]。
- 9月10日 : 航海再開許可を受けた。
- 9月28日 : 竣工
- 10月9日 : 就航。進駐軍専用輸送船となる。
- 1946年(昭和21年)2月3日:降雪中船位を誤り、狐越岬沖に座礁。4日離礁。3月22日復帰[48]。
- 9月:甲板に客室(333名)を造設 3,142総トン(函館船渠)。
- 1949年(昭和24年)7月:主機換装(浦賀衝動タービン2250軸馬力2台)(浦賀船渠)[29]。
- 1952年(昭和27年)4月28日 :GHQの占領が終わり、一般乗客用船舶になる。
- 1954年(昭和29年)9月22日 :外板取替および二重底化工事(函館ドック)完成し復帰[49]。
- 9月26日 : 13時20分青森に向け函館を出港したが、強風のため穴澗岬沖で引き返し、14時48分函館第2岸壁着岸。第1岸壁の洞爺丸へ乗客と、寝台車、荷物車各1両を移し貨車5両を積込み、合計45両の貨車積載で、16時02分天候見合わせのため沖出し、16時25分防波堤外に錨泊した。19時38分「あとで連絡する」19時57分「停電につき後で受ける」を最後に通信途絶。その後20時頃急激に右舷側に横転し沈没したものと推定された。船体は三つに破断しており、乗組員90名は全員死亡[50]。引き揚げ後解体された。
第十二青函丸
第8船。建造中に終戦を迎え、竣工は戦後であった。第十一青函丸同様、ボイラーは5缶で煙突は右舷2本左舷1本の計3本であった。終戦直後の青函航路の旅客輸送能力不足を補うため、建造中にデッキハウスが造設されたが、就航時より進駐軍専用船となった。1957年6月には、二重底化、デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置工事を行い、車両渡船となった。
沿革
- 1945年(昭和20年)3月19日 : 起工
- 1946年(昭和21年)5月2日 : 竣工
- 5月15日 : 就航。進駐軍専用船となった。
- 1948年(昭和23年)10月 : 主機換装(石川島2段減速歯車付衝動タービン2250馬力2台)(浦賀船渠)[29]。
- 1950年(昭和25年)4月22日:下り便運航中、濃霧で船位測定を誤り20時39分、穴澗岬に擱座。船首を大破し、甲板長死亡[51]。
- 1952年(昭和27年) 4月28日 : GHQの占領が終わり、一般乗客用船舶になった。
- 1954年(昭和29年) 9月26日 :手入れのため函館港防波堤内で錨泊していた。洞爺丸台風による強風で、16時30分頃から、付近のブイに係留中のイタリア船籍の修繕船アーネスト号(7341総トン)の係留鎖が切れ、単錨泊で走錨を始め、この無動力状態のアーネスト号が20時10分頃本船船首を横切るように圧流されて、本船の錨を起こしたため、本船の走錨が始まり、船尾を浅野町の波除堤に接触しそうになり、21時25分防波堤外へ脱出、以後防波堤外で蜘躊して船位保持し、沈没を免れることができた[52]。27日にドック入りした。
- 1956年(昭和31年)2月 :ボートダビット取替(函館ドック))[32]。
- 1957年(昭和32年)6月 :二重底化、デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置、総トン数は2,898.3tとなる(浦賀船渠)[53]
- 1959年(昭和34年)8月 :ストーカー装備(石川島重工)[54]
- 1965年(昭和40年)7月2日 : 終航
W型戦時標準船一覧表
第五青函丸 | 第六青函丸 | 第七青函丸 | 第八青函丸 | |||||||||
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概歴 | ||||||||||||
建造所 | 浦賀船渠 | |||||||||||
起工 | 1943(昭和18)年6月29日 | 1943(昭和18)年11月13日 | 1944(昭和19)年3月11日 | 1944(昭和19)年5月27日 | ||||||||
進水 | 1943(昭和18)年11月10日 | 1944(昭和19)年1月31日 | 1944(昭和19)年5月27日 | 1944(昭和19)年8月25日 | ||||||||
竣工 | 1943(昭和18)年12月29日 | 1944(昭和19)年3月7日 | 1944(昭和19)年7月10日 | 1944(昭和19)年11月2日 | ||||||||
就航 | 1944(昭和19)年1月14日 | 1944(昭和19)年3月19日 | 1944(昭和19)年7月20日 | 1944(昭和19)年11月22日 | ||||||||
終航 | 1945(昭和20)年3月6日 | 1964(昭和39)年5月3日 | 1964(昭和39)年12月31日 | 1964(昭和39)年11月30日 | ||||||||
要目(新造時) | ||||||||||||
船種 | 車両渡船 | |||||||||||
総トン数 | 2792.37トン | 2802.09トン | 2850.99トン | 2850.99トン | ||||||||
全長 | 118.01m | |||||||||||
垂線間長 | 113.20m | |||||||||||
幅(型) | 15.85m | |||||||||||
深さ(型) | 6.80m | |||||||||||
満載喫水 | 5.00m | |||||||||||
ボイラー (台数) | 乾燃式円缶(4) | 乾燃式円缶( 過熱器なし)(4) | ||||||||||
主機械 (台数) | 日立製作所製陸軍特務船用2段減速歯車付衝動タービン(2) | 浦賀船渠製2段減速歯車付衝動タービン (2) | 日立製作所製戦時標準甲25型2段減速歯車付衝動タービン(2) | |||||||||
公試最大出力 | 4575軸馬力 | 4080軸馬力 | 4185軸馬力 | 4170軸馬力 | ||||||||
定格出力 | 2250軸馬力×2 | 2000軸馬力×2 | ||||||||||
公試最大速力 | 17.01ノット | 16.99ノット | 17.07ノット | 17.31ノット | ||||||||
航海速力 | 15.5ノット | |||||||||||
乗員 | 76名 | 85名 | 83名 | |||||||||
その他 | 17名 | |||||||||||
貨車積載数 | ワム換算44両 | |||||||||||
船名符字 | JGVT | JWNT | JGHV | JECA | ||||||||
第五青函丸 | 第六青函丸 | 第七青函丸 | 第八青函丸 |
第九青函丸 | 第十青函丸 | 第十一青函丸 | 第十二青函丸 | |||||||||
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概歴 | ||||||||||||
建造所 | 浦賀船渠 | |||||||||||
起工 | 1944(昭和19)年7月15日 | 1944(昭和19)年12月23日 | 1945(昭和20)年2月3日 | 1945(昭和20)年3月19日 | ||||||||
進水 | 1944(昭和19)年12月23日 | 1945(昭和20)年3月14日 | 1945(昭和20)年6月8日 | 1945(昭和20)年12月27日 | ||||||||
竣工 | 1945(昭和20)年2月15日 | 1945(昭和20)年5月19日 | 1945(昭和20)年9月28日 | 1946(昭和21)年5月2日 | ||||||||
就航 | 1945(昭和20)年6月1日 | 1945(昭和20)年10月9日 | 1946(昭和21)年5月15日 | |||||||||
終航 | 1945(昭和20)年2月27日(回航中沈没) | 1945(昭和20)年7月14日 | 1954(昭和29)年9月26日 | 1965(昭和40)年7月2日 | ||||||||
要目(新造時) | ||||||||||||
船種 | 車両渡船 | 客載車両渡船 | ||||||||||
総トン数 | 2850.99トン | 2850.99トン | 2850.71トン | 3161.44トン | ||||||||
全長 | 118.01m | |||||||||||
垂線間長 | 113.20m | |||||||||||
幅(型) | 15.85m | |||||||||||
深さ(型) | 6.80m | |||||||||||
満載喫水 | 5.00m | |||||||||||
ボイラー (台数) | 乾燃式円缶( 過熱器なし)(4) | 乾燃式円缶( 過熱器なし)(5) | ||||||||||
主機械 (台数) | 日立製作所製戦時標準甲25型2段減速歯車付衝動タービン(2) | |||||||||||
公試最大出力 | 4255軸馬力 | 計測せず | 4175軸馬力 | 4510軸馬力 | ||||||||
定格出力 | 2000軸馬力×2 | |||||||||||
公試最大速力 | 17.59ノット | 17.30ノット | 16.72ノット | 17.08ノット | ||||||||
航海速力 | 15.5ノット | 14.5ノット | ||||||||||
乗組員 | 89名 | 88名 | ||||||||||
その他 | 17名 | 267名 | ||||||||||
旅客定員 | 279名 | |||||||||||
貨車積載数 | ワム換算44両 | |||||||||||
船名符字 | JFWA | JYFF | JLLW | JWEZ | ||||||||
第九青函丸 | 第十青函丸 | 第十一青函丸 | 第十二青函丸 |
脚注
- ^ a b 青函連絡船史p237 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b 北海道鉄道百年史(中巻)p205~207 国鉄北海道総局1980
- ^ 開設当時の呼称は有川第1第2岸壁:古川達郎 鉄道連絡船細見p67 JTBパブリッシング2008
- ^ a b c 青函連絡船50年史p230 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
- ^ 国家総動員法に基づいて海軍が管理した工場。当時多くの造船所が指定された:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00205544&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
- ^ 昭和17年7月28日勅令第619号 官報(昭和17年7月29日)1942
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p106 成山堂書店1988
- ^ http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00419.php戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件 昭和17年10月6日閣議決定1942
- ^ 青函連絡船50年史p35 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
- ^ 吉澤幸雄 戦時下“第五青函丸”建造秘話 船の科学43巻1号p100 1990
- ^ 山本煕 車両航送p248 巻末表36 日本鉄道技術協会1960
- ^ a b c d 青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b c 山本煕 車両航送p252 日本鉄道技術協会1960
- ^ この直後に建造許可された洞爺丸型車載客船4隻は日本人用となった:山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960
- ^ a b 洞爺丸海難誌p279 p282 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 山本煕 車両航送p302p307 日本鉄道技術協会1960
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p317 成山堂書店1988
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p319 成山堂書店1988
- ^ 古川達郎 連絡船ドックp69 船舶技術協会1966
- ^ 泉益生 連絡船のメモ(中巻)p144 船舶技術協会1975
- ^ a b c d 古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966
- ^ 山本煕 車両航送p248 日本鉄道技術協会1960
- ^ 山本煕 車両航送 巻末表36 日本鉄道技術協会1960
- ^ 青函連絡船50年史p171 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
- ^ 青函連絡船栄光の航跡p314 北海道旅客鉄道株式会社1988
- ^ a b 青函連絡船50年史p231 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p111 成山堂書店1988
- ^ a b c 古川達郎 連絡船ドックp126 船舶技術協会1966
- ^ a b c d e 青函連絡船史p157国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 洞爺丸台風海難誌p62国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ a b c 台風との斗いp5 p18 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011
- ^ a b c d 古川達郎 連絡船ドックp132 船舶技術協会1966
- ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p110 成山堂書店1988
- ^ a b c 青函連絡船50年史p182〜194 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
- ^ a b 青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p112 p289 成山堂書店1988
- ^ 青函連絡船史p217p479 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 1954年夏撮影の写真では鋼製デッキハウスになっていた:青木栄一 昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)p54~55写真 ネコ・パブリッシング2004
- ^ 古川達郎 続連絡船ドックp175,176 船舶技術協会1971
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p111 成山堂書店1988
- ^ 青函連絡船栄光の航跡p397 北海道旅客鉄道株式会社1988
- ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p289 成山堂書店1988
- ^ 洞爺丸台風海難誌p69国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 青函連絡船50年史p170 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
- ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p65 成山堂書店1997
- ^ 台風との斗いp19 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011
- ^ 吉澤幸雄“第十一青函丸”建造秘話 船の科学43巻3号p76 1990
- ^ 青函連絡船栄光の航跡p396 北海道旅客鉄道株式会社1988
- ^ 山本煕 車両航送p284 日本鉄道技術協会1960
- ^ 洞爺丸海難誌p77 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 青函連絡船史p453国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 洞爺丸台風海難誌p72 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 古川達郎 連絡船ドックp69 p126 船舶技術協会1966
- ^ 青函連絡船史p217p479 国鉄青函船舶鉄道管理局1970